キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

305 / 565
19:朝の始まり

          □□□

 

 

 

 

 本来のユピテルの記憶を取り戻し、真に親子である事を認めた翌々日。明日奈は決戦に備えているかのように過ごしていた。

 

 

 自分とユピテルは確かに親子関係を結ぶ事が出来たけれども、それを認めていない人物が一人だけいる。それは自身の母親である京子に他ならない。

 

 京子はユピテルの事を嫌悪しており、尚且つ娘である明日奈の意志を無視したような事をまだ続けている。それこそ、《SAO》に閉じ込められていた時、攻略の鬼と呼ばれていた頃の明日奈と同じように。そしてその姿勢を一切崩す事なく、明日奈を自分の思い通りのキャリアへ歩ませようとしている。それはユピテルが直った今も変わりがない。

 

 だが、攻略の鬼も、《閃光のアスナ》も、ユピテルの姉であるMHHP、リランの手によって死に絶え、自身も本来の自分というものを取り戻す事が出来た。

 

 もしかしたら、MHHPとしての本来の力を取り戻したユピテルならば、あの時のように治療をする事が出来るかもしれない。

 

 

 それだけじゃない。京子は忘れている事がある。本人は無理矢理忘れ去ろうとしているのかもしれないが、忘れてはならない事が、京子にはあるのだ。

 

 その忘れている事に気付かせる事が出来れば、彼女を楽にしてあげられるかもしれないし、自分にしっかりとした孫が出来たという事を認識させてやれるかもしれない。

 

 

 その京子が忘れているであろう事柄を全て思い出した明日奈は、全てをユピテルに話した。

 

 これまで同じように見えるけれども、遥かに大人びたその雰囲気を醸し出しながら、ユピテルは明日奈の話を全て聞き、理解してくれた。そして自分も力になりたいと、ユピテルは決意を固めたように明日奈に訴えた。

 

 ユピテルも事情を理解してくれて、それに乗ると言ってくれた。後は自分が行動を起こすのみだ。

 

 ユピテルの準備が整った翌日。学校の授業中、友人達とのたわいもない会話の中、頭の片隅で計画を練り続けていた明日奈は、帰宅途中で作戦に打って出た。帰りの電車の中でユピテルに電話し、《ALO》へ向かうように言っておいて、自宅へと戻る。

 

 家に帰ってくると、いつもの夕食の時間だった。しかし明日奈はダイニングへ向かわず、兄である浩一郎の部屋へ向かった。

 

 部屋に入ってみると、そこは明日奈の部屋と比べてかなりがらんとしており、家具も大きなビジネスデスクとベッドが置かれているのみで、その他のものはなかった。無駄なものを集めないというビジネスマンの意志が現れているような部屋だ。そんな風貌の部屋の、デスクの左側の辺りに、目的のものは存在していた。

 

 明日奈も毎日のように使っている、円環状の機械。浩一郎が仮想空間内の会議や、ユピテルに会いに行くために使用しているアミュスフィアだった。

 

 いくら味方をしてくれているといっても、あまりに勝手に使わないでほしいと言われている浩一郎のそれを、すまないと思いながら手に取り、明日奈は自室へ戻った。

 

 アミュスフィア自体に差し込まれているメモリカードを確認する。中身は《ALO》のクライアントがインストールされているものだった。きっとユピテルに会いに行くために近々使うつもりだったのだろう。ユピテルにも変化が起きたから、再会した時には浩一郎もさぞかし驚くに違いない。

 

 そう思いながら明日奈は浩一郎のアミュスフィアを装着し、自身の頭のサイズに合わせつつ、《ALO》を起動し、所謂サブアカウントと呼ばれるアバター、《エリカ》でログインを果たした。

 

 

 いつも使っているものとは異なるものでログインした先で広がっていた光景は、小さな家の中。《スヴァルト・アールヴヘイム》ではなく、《ALO》本土のウンディーネ領の一角に存在する針葉樹林の中にぽつんと建っている小屋の中だった。

 

 無事に目的地に来る事が出来た。明日奈はそう思って窓の外を眺める。ウンディーネ領特有の寒々しい雰囲気が漂い、雪が積もっている針葉樹林の様子を見て、一種の安堵を明日奈は抱く。

 

 《スヴァルト・アールヴヘイム》の攻略が開始されてからはなかなか立ち寄れなかったけれど、明日奈はこの小屋の窓から眺める針葉樹林が大好きで、ユピテルと一緒に何度も来ていた。だから、ユピテルも迷わずここに来る事が出来るだろう。記憶と本来の機能を取り戻しているならば尚更出来る。

 

 まだ来ていないけれど、約束をきちんと守るがユピテルだし、今の状況を打開できるのもまたユピテルだ。それを一途に信じた明日奈は、そのままログアウトを選択して現実世界へ戻った。

 

 

 アミュスフィアを外してみると、青いランプが点滅したままになっている。再度頭に装着してパワースイッチを入れさえすればすぐさまログインできるモードだ。

 

 これで準備がそろった――思った明日奈はアミュスフィアを持ったまま、ダイニングへ向かった。

 

 ダイニングは少し薄暗く、テーブルの上には一般家庭のそれと比べれば豪勢な料理が並べられている。それを静かに食している女性が一人。

 

 紛れもなく、明日奈の母である京子だった。明日奈が来た事を気配だけで察したのか、京子は小さくも鋭い声で言った。

 

 

「……少し遅かったわね。もう先に食べてましたよ」

 

「遅れてごめんなさい。ちょっと用事があって遅れたの」

 

 

 京子の鋭い目が音なく動き、ある一点に向けられる。あったのは明日奈の手に握られているアミュスフィアだった。如何にも、何故そんなものを持っているのかという疑問の目つきで京子は明日奈に声を変える。

 

 

「それで、なんでそんなものを持ち込んでいるのかしら」

 

「……母さんに、話があるの。これは、そのために必要なものなの」

 

「それを使った先で話ですって? 嫌です。そんな面と向かって話せないようなお話なんて、私は聞けないわ」

 

 

 京子はVRというものが嫌いだった。自身のキャリアの一部となる明日奈を相応しくないものへ変え、更に明日奈と結婚する予定だった須郷伸之が、《壊り逃げ男》という名のサイバーテロリストとしてテロリズムを行っていた場所であるからだ。

 

 そして何より、京子自身があまりVR世界との相性が良くないらしく、明日奈の進めたアプリケーションなどを眩暈がするの一言でやめてしまったくらいだ。だからこそ、明日奈は京子の言い分が分かるし、普段ならばここでごめんなさいと一言言って食い下がるところだっただろう。

 

 なのに、今の明日奈にはそんな言葉を紡ぐ気さえ起きなかった。もしかしたら、知らないうちにユピテルの持っている治療能力を受けていたのかもしれない。

 

 

「聞いて、母さん。会わせたい人がいて、見せたいものがあるの。お願い……十分、いいえ、五分くらいでもいいから、VRワールドに入ってもらいたいの。そこでわたしは、思っている事の全てを母さんに話したい。だから、お願い……」

 

 

 京子は眉間に(しわ)を寄せてアミュスフィアをじっと見ていた。そこから数秒後に、京子は目線をテーブルに並んでいる料理へ向けなおした。

 

 

「……食べ終わったら聞いてあげるわ。あなたも早く食べなさい。それと、この前の申請書は早く出す分だけいいものだから、話が終わったら申請書を書いて私に提出なさい」

 

「……はい」

 

 

 明日奈は頷き、テーブルへ座り、出されている料理を食べ始めた。来るべき時が来ているという事もあってか、食事を摂ってもほとんど味を感じず、時間があっという間に過ぎたような気がした。 

 

 料理を全て食べ終わり、食器を片付けると、明日奈は京子と一緒に二階へ上がり、京子の書斎の前でアミュスフィアを差し出した。嫌そうな顔をして受け取るなり、京子はアミュスフィアをじっと見る。

 

 

「これって、どう使うものだったかしら」

 

「椅子に座るかベッドに寝転がるかしてから付けて、パワースイッチを押して。そうすれば自動的に接続されるから。VRの中に入ったら、そこから動かないで待ってて」

 

 

 京子は小さく頷き、書斎へ入っていった。扉を開けっぱなしにして見ていると、京子は深々と自分の椅子に腰を掛けて、あらかじめアジャスターが調節されているアミュスフィアを頭に装着。明日奈の説明通りにスイッチを押した。大脳接続インジケータランプが点滅を始めるなり、京子は力が抜けきったかのようになる。

 

 始終を見た明日奈はドアを閉じて自室へ急ぎ、ベッドへ寝転がりながら、あらかじめ《ALO》のメモリーカードを差し込んでおいたアミュスフィアを起動。「リンクスタート」の一言で妖精の世界へと飛んだ。

 

 

 

 

          □□□

 

 

 

 

 妖精の世界へ降り立った時、明日奈はウンディーネのアスナとなって立っていた。場所は先程エリカを使った時と同じ、針葉樹林の中に(たたず)む小屋の中だ。

 

 エリカの場所を調節した後に、アスナもまた同じ場所に転移させておくのも忘れていなかった。おかげでアスナもエリカも同じ場所にいるという事になっている。

 

 アスナはすぐさま周囲を見回した。すると自分のいる位置から少し離れたところにある大きな鏡の前に、若草色のショートヘアをしているシルフの少女の姿が確認できた。自分がほかの人になってみたいときに使っているアバター、《エリカ》は今、眉をひそめて鏡を見ている。紛れもなく、京子がその中に居るという証拠だった。

 

 

「母さん」

 

「……なんだか妙なものだわ。知らない顔と身体が自分の思い通り動く。それになんだか、妙に身体が軽いような気がするわ」

 

「そりゃそうよ。そのアバターと母さんの身長や体重は異なっているもの。現実と全然違うでしょう」

 

 

 エリカとなっている京子は娘を見る。その顔は相変わらず何かを妙だと思っているかのようなものだ。

 

 

「そう言うあなたは、現実(むこう)とほとんど同じような顔をしているわね」

 

「それは、ね」

 

 

 このアバターは元々《SAO》の時に使っていたものをコンバートしてきたものだ。だからこそ、髪の毛や瞳の色は違えど、その他の身体的特徴は現実のものと変わりがなく、違和感を抱かずに扱う事が出来る。一方で、自分と全く異なる姿をしているエリカを使っている京子は違和感が大きくて仕方がないのだろう。

 

 

「まぁいいわ。それで、あなたがしたい話は何。あなたが会わせたい人は誰。あまり時間がないわよ」

 

 

 軽口を叩き合うのをやめた京子にアスナが溜息を押し殺した時、小屋の出入り口のドアが開かれた。二人揃って顔を向き直れば、そこには一人の少年の姿があった。

 

 

 アスナと似た髪型をしていて、髪色は栗毛色なのに先端が白銀色で、琥珀色の瞳をした、白いパーカーを基本とする衣装をまとっている、小柄な男の子。これまでアスナが何度も見てきている外観なのに、全身から醸し出される雰囲気は大人びている。

 

 

 京子がそれを訝しむように見ていると、アスナはそっと少年に近寄った。少年もまたドアを閉めてアスナへ歩み寄り、やがてアスナの隣へ並んだ。隣に少年が並んでくると、アスナは一緒になって京子に向き直る。

 

 

「紹介するね、母さん。この子が……ユピテルだよ」

 

「ユピテル……あぁ、それが……」

 

 

 京子は強い嫌悪感を感じているような目つきになった。如何にも嫌なものを見ているようだが、向けられているユピテルは一切動じず、寧ろ穏やかな顔をして京子の事を見ていた。ユピテルの記憶の断片で見た、女性への治療を行っている時のものと同じだった。

 

 ユピテルは京子に視線を向けられたまま、ゆっくりとお辞儀をした。

 

 

「……初めまして、結城京子さん。ユピテルです」

 

 

 芯の通った、強くも優しげな声が小屋の中に満ちる。その声の様子はアスナさえも驚いてしまうくらいに大人びたものだった。

 

 ――これが本来のユピテルの有り様。その実感と驚きをなんとか抑え込んで、アスナはユピテルと京子を見ていた。

 

 

「……明日奈の息子を自称してるAIだったわよね。そんなふうだったのね、あれって」

 

「あなたの事はかあさんから聞いています。あなたがかあさんにどんなふうに接していたのか、あなたがどうしたいと思っているか」

 

「ふぅん、明日奈の言った事を理解できてるっていうの。これはまたよく出来た真似事をするAIね」

 

 

 アスナは首を横に振ろうとしたが、それをユピテルが止めた。ぼくに任せておいて――言葉なくユピテルはアスナに伝えてから、京子に少しずつ歩み寄っていった。

 

 

「ぼくの事をそう思われても仕方がありません。ぼくは確かにAIですし、京子さんやかあさんのように身体を持っているわけでもありませんから。けれど、あなた方の言っている事はわかります」

 

「そういうふうに作られているから、かしら」

 

「そうです。そして、あなたが今どのような心をしているかも、ぼくはわかります」

 

 

 京子の眉が一段と寄った。人間モドキが何を偉そうにと言わんばかりの顔だったが、やはりユピテルは穏やかな姿勢を崩さずに京子へ歩み寄る。

 

 

「……京子さん。かあさんから全て聞きました。あなたがこれまでどのように生きてきたか、どのようにしてここまで歩んできたのか、全て」

 

「……全部知ってるっていうの、私の事を」

 

「かあさんから聞いたお話なので、全てを知っているわけではありませんが、それでも、半分以上は知っているつもりです。あなたが宮城の農家の出身である事、その事を結城家の他の人達に蔑まれている事……あなたの心を疲れさせている原因を」

 

 

 その時ようやく京子の顔が驚きのそれに変わった。

 

 今ユピテルの言った事は、ユピテル自身に聞かせた時にも驚かれた事だ。

 

 京子は今こそ有名な大学の教授を務めているけれども、元々は宮城の農家の出身だ。出生地や家系の事をやたらと気にする結城家の人間達からは、農家の出身である京子は、見下し、蔑むのに最適だったのだ。

 

 

「あなたは自分が農家の出身である事を、ずっと恥じています。その事を消そうと必死になっています。だから……かあさんにもエリートの道を進んでもらいたいと思っているのでしょう。ご自身の恥ずべき汚点を消すために」

 

「……」

 

 

 黙り込む京子の目の前まで、ユピテルは歩み寄って止まっていた。そのままじっと京子の事を見上げている。

 

 

「けれど……あなたの出身地の事は、全然恥ずべき事ではありません。あなたの出身地に関するお話の中には……あなたの知らない事があります」

 

「……何よそれ」

 

「ちょっと、窓の外を見てくださいませんか」

 

 

 ユピテルに言われるまま、京子はふと窓の外へ目をやった。ようやく京子に見せたいものが見せられる。教えたい事を教えられる。小さな喜びに似た感情を胸に抱き、アスナは京子とユピテルの隣に並んで窓の外を眺めた。

 

 草深いという表現がそのまま当てはまる草原が広がっており、小川が流れていて、所狭しと言わんばかりに針葉樹が立ち並んでいる。更にその上から雪が被されているものだから、寒々しいとしか言えない光景。

 

 

 これこそがアスナが京子に見せてやりたかった光景だ。

 

 

 京子の故郷である、宮城の実家の窓から見える杉林によく似たそれに、京子は既に釘付けになっていた。口を半開きにしながら窓の外を眺める事に夢中になっている京子を横目に、ユピテルは話しかける。

 

 

「あなたの出身地は宮城県の山間部にあった農業を営む家です。機械化もされない農村地帯の一角に、あなたの家はありました。本当ならば、あなたは大学に行く事も出来なければ、大学の教授になる事だって出来ないような環境でした。けれども、あなたは死に物狂いで勉強して、そこから出て……彰三さんに、結城家に出会いました。そうですよね」

 

 

 京子はこくりと頷いた。その目は相変わらず窓の外の針葉樹林に向けられたままとなっている。

 

 

「けれど、その農家の出身というのが結城家の人達は気に食わなかった。農家の癖にと言って、あなたを蔑みの対象にした。蔑まれるあなたは自分の出身地に劣等感(コンプレックス)を抱いていた。本当は結城家の集会があっても、それには行きたくなかった。でも、結城家の集会を欠席する事は出来ないから、自分を馬鹿にする人々を見返そうとして、浩一郎さんやかあさんもまたエリートにしようとした」

 

 

 京子の口が塞がった。否定したくとも否定できないような素振(そぶ)り。リランと出会った時のアスナが次々と図星を突かれた時の様子に酷似していた。

 

 

「京子さん。あなたはずっと、一人ぼっちにさせられてたんです。結城という大きな一族の一人になったのに、誰からも蔑まれて……一人きりにさせられていたんです。それがずっと、苦しかったんでしょう……」

 

 

 ユピテルの言葉には思わずアスナも驚いたが、同時に納得できるものだとわかった。

 

 京都に本家を構える結城家は非常に大きな家系であり、明治時代から続いている両替商だった。その大きさ故に抱えている人の数もまた膨大なのだが、その中で京子と仲良くしている人物の姿を、アスナは見た事が無い。

 

 大きな家系の一人となったのに、誰からも慕われない。農家の出身であるというたった一つの、避けようのない事柄のせいで。そんな状況に、京子はずっとさらされ続けてきた。

 

 

「だから、少しでもその人達を見返そうとして、一人ぼっちじゃない事を証明したくて、自分の事を見せたくて、浩一郎さんやかあさんを育ててきました。自分にも居場所がある事を証明したくて、必死になっていました。

 けれど、それでもあなたの一人ぼっちは癒されてはいなかったんです。あなたは蔑まれ続けたせいで、自分の居場所を、見いだせなくなっていたんです」

 

「なんで……そんな事が分かるのよ」

 

 

 そこでようやく、アスナはその口を開ける事が出来た。

 

 

「ユピテルはね、ただのAIじゃなくて……女性の心と精神を治療するために生み出された子なの。これまでいっぱい、傷付いた女の人を診てきてるの。だから、傷付いている人を診て、その人の事を知れば、ほとんど全部わかるんだよ」

 

「……」

 

 

 母が恥じている出身地。思い出したくもないと思っているその場所は、明日奈にとってはお気に入りの場所だった。

 

 急峻な谷間を抜けた先にある小さな小さな農村。結城の本家よりも好きなその場所には、明日奈も小さい頃から夏休みや冬休みを利用して行き、祖父母と会っては一緒に沢山話をしたものだ。

 

 その毎年の恒例行事のようになっていた母の実家への旅行が、明日奈が中学一年生の時に行われたとき。これまでとは違った事となったその時の事を思い出しながら、アスナは言葉を紡いだ。

 

 

「わたしが中学一年生になった時のお盆の時……父さんも母さんも兄さんも京都に行ったけれど、わたし一人だけ宮城に行った時の事、覚えてるよね。

 あの時、わたしはお祖父ちゃんとお祖母ちゃんに謝った。お母さんがお墓参りに来れなくてごめんなさい。わたしばっかりでごめんなさいって」

 

「あの時は結城の本家でどうしても出なきゃいけない法事があったの……」

 

 

 京子の声に震えが生じる。責められていると思っているのかもしれない。そうではない事を伝えつつ、アスナは話を続けた。

 

 明日奈が母に対して謝った後、祖父は茶箪笥へ赴き、一冊の本を取り出してきた。それは今となっては(すた)れた百科事典を思わせるほどに分厚い、アルバムだった。京子の小さいころの写真でも入っているのかと思いながらその中身を見た時、明日奈は驚いた。

 

 アルバムの中にファイリングされていたのは、京子の大学での論文、様々な雑誌に寄稿した文章やインタビュー記事が、プリントアウトされたものだったのだ。普通ならば家族写真などが入っていなければならないはずの場所に、京子に関連する記事などが全て敷き詰められている。

 

 祖父母の家は勿論、周辺の家にもパソコンなどというものはなかったというのに、京子のかかわったものはとにかくきちんとファイリングされていた。それを見せながら、祖父は言った。

 

「京子は自分達のかけがえのない宝物だ。村から大学へ進んで学者になり、雑誌に沢山寄稿し、立派になっていくのが嬉しくて仕方がない。論本や学会で忙しいのだから、墓参りに来れなくても当たり前だし、それを不満に思った事などない」と。

 

 

 京子はアスナの話をじっと聞きながら、窓の外から目を離さなかった。

 

 

「そのあと、お祖父ちゃんは付け加えたの。――けれど、忙しいのが母さんだから、いつかは疲れて、立ち止まりたくなる日が来るかもしれない。自分の歩んできた道が正しかったのかと思って、後ろを振り返りたくなる時が来るかもしれないって。その時のために、自分達はこの家を守るんだって……母さんがもし支えが欲しくなった時に、帰ってこられる場所があるんだよって言ってやりたいから、ずっとこの家と山を守っていきたいんだ、って」

 

 

 しかし、祖父母は明日奈が中学二年生になった時に他界し、棚田も山もすべて売却された。住む者のいなくなったその家は、取り壊されてなくなった。それは京子にとって忌まわしき出身地を捨て去るのと同時に、支えの場所を無くしたのと同じだったのかもしれない。

 

 取り壊され、過去のものとなって言った家の事を思い出しながら、そしてユピテルの事を思い出しながら、アスナは胸の中に抱いたものを言葉にした。

 

 

「わたし、最初はその意味が分からなかったけれど、皆と、ユピテルと出会って、ようやくわかった気がするの。自分のためだけに走り続けるのが人生じゃなく、誰かの幸せのために生き、誰かの幸せを自分の幸せだと思える人生や生き方もあるって……。

 わたしはね、かあさん。周りの人達みんなを笑顔に出来るような、そんな生き方がしたい。みんなを笑顔するためにわたしに出来る事を、やっていきたい。そのために、みんなを癒す事に一生懸命なユピテルと一緒に居て、大好きなあの学校で、勉強や色々な事を頑張りたいの」

 

 

 アスナは胸の中の気持ちを全て、言葉に変えて紡いだ。自分の願い、これからの自分の在り方。その全てを話してもなお、京子は窓の外を見たままだった。その時、京子の隣に並ぶユピテルが、京子の手を取った。驚いたように京子はユピテルを見る。

 

 

「……京子さん。あなたは生まれ故郷の事を恥じる必要はありません。あなたはこれまでずっと学者として、大学の教授として、頑張り続けてきました。だからこれからは、生まれ故郷を恥じるのではなく、大学の教授として積み重ねてきた事を誇りに思ってください。結城家の人にどう言われようと、気にする必要はありません。あなたはあなたの積み重ねた事を、誇ってください。それに、あなたはもう一人ぼっちではありません」

 

 

 京子の目が見開かれる。対するユピテルの顔には、穏やかな笑みが浮かぶ。

 

 

「京子さんには沢山の教え子が、彰三さんが、浩一郎さんが、かあさんが、ぼくが居ます。あなたには居場所がないふうに見えるかもしれないけれど、あなたの生まれ故郷の家はなくなったけれど、あなたの居場所はここにあります。AIのくせに生意気だって言われるかもしれないけれど――」

 

 

 ユピテルは両手で京子の手を包み込んだ。その琥珀色の瞳で京子を映し出し、再度笑んで見せた。

 

 

「ぼくはあなたの孫です。そして、あなたの帰る場所です。あなたの帰る場所として、あなたが安心できる場所として、頑張っていこうと思います。だから京子さん……もう、いいんですよ。立ち止まって、休んでください。ぼくは……ここに居ますから」

 

 

 記憶の断片で見たものと同じ笑みを浮かべて、芯のある声でユピテルは言った。静かな新樹林の中の小屋の中にその声が満ちて消える。京子は手を握られたまま、その濃緑色の瞳でユピテルの事を眺めているだけだった。

 

 

 それから数十秒くらい経った時、アスナは息を呑む事になった。

 

 

 京子の白磁のような頬に、一筋の涙が流れた。唇が動きを見せると、涙は更に流れ出してぽたぽたと垂れ始める。やがて京子は膝を折り、床に座り込んで、口を開けた。

 

 

「……何よ……何よ皆して……皆で寄って集って……!!」

 

「……?」

 

「私の何がいけないっていうのよ。私の出身地の何がいけないっていうのよ。私は教授にまでなったのよ。学者にだってなって沢山お金を稼いだりもしたのよ。沢山の教え子を作ったりしたのよ。誰が見ても大きな成績を、キャリアを作ったのよ。

 なのに、なんで誰も認めてくれないのよ。出身地がどうとか、なんでそんな事で蔑まれなきゃいけないのよ!! 変えようのない事で、なんで馬鹿にされなきゃいけないのよ!!」

 

 

 大声で叫び散らし、涙を流す京子に、思わずアスナは呆気にとられた。これまで見てこなかった母の姿に、かつてリランと接したときの自分が重なる。

 

 母も結局同じだった。周りから蔑まれ、帰る場所を失い、居場所を失い、何かに縛られながら生きる。母も自分と同じような状況に合わされ、苦しみ続けていたのだ。

 

 その心に沈殿していた泥が、溜め込んできた感情が今、言葉となって出てきている。ユピテルの持つ力が、最大限に作用する事によって。

 

 

「私は結城家に相応しくないの。私のどこが相応しくないっていうの。私の何が気に入らないのよ。何がそんなに見下せるっていうのよ。何がそんなに馬鹿にできるっていうのよ!!」

 

 

 これまで溜まりに溜まっていたものを吐き出し続ける京子にユピテルは歩み寄り、その華奢で小さな身体と腕で抱き締めた。京子の方がやはり大きいためか、ユピテルの胸の中には入り切らず、肩口にまで顔が及んでしまっていた。だが、ユピテルは気にする事なく、その腕で京子の背中を撫でていた。

 

 

「……大丈夫ですよ。あなたは何も悪くありません。あなたはもう、何も気にしなくていいんです。あなたはご自分を誇りに思ってください。あなたは誇らしい女性であって……ぼくの自慢のお祖母さんです」

 

 

 ユピテルの胸と肩に顔を埋めた京子は、嗚咽を漏らしながら体重を預けていたが、やがてその両腕をゆっくりと動かしていき、空中で止めた。同刻、アスナは京子へ近付いていた。

 

 

「私……は……」

 

「……母さん。ユピテルと一緒だと、全部出てきちゃうんだよ。思ってた事も、不安な事も、不満な事も、悲しい事も、全部吐き出しちゃうんだ。ユピテルの前だと、誰も気持ちを我慢できないの……」

 

「……ッ」

 

 

 京子はユピテルの胸元から顔を離さないまま、腕を動かしていた。そのまま何かをためらっているような動作を繰り返すと、やがてついに諦めたように、ユピテルの身体を抱き締め返した。

 

 

「あなたは、明日奈の子供……? 私の、孫……?」

 

「……そうですよ、お祖母さん」

 

 

 ユピテルの返事に続くようにアスナも、小刻みに震えている京子の身体に手を載せた。

 

 

「この子が、わたしの子供だよ、母さん」

 

「……そう、なのね……」

 

 

 小さく言った後、京子はユピテルの身体から手を離そうとしなかった。

 

 

 

 

          □□□

 

 

 

 

 翌朝。明日奈がダイニングに降りてきた時、朝食がダイニングのテーブルの上に並べられていた。椅子に座る京子は既に朝食を終え、タブレット端末でニュースを閲覧していた。

 

 ほとんどいつもと変わりがなかった様子だったので、明日奈はおはようの挨拶を交わしてからは無言のまま食事を摂った。

 

 そして食器を片付けた時、京子は見計らったように明日奈に声を掛けた。次に来るのは「編入申請書を提出しろ」だ。明日奈は覚悟を決めて次の言葉を待ったが、来たのは京子の大きな溜息だった。

 

 

「……明日奈、ごめんなさい」

 

「え?」

 

「あなたの言った通り、(ヘン)になってたのは私の方だったんだわ。ずっと自分の出身地をコンプレックスだと思って、囚われて……ちゃんとモノを見る事が出来なくなってたのよ。私は勝手に卑下(ひげ)していたのかもしれない。それに巻き込んで、あなたにも随分辛い思いをさせてきてしまったわ。本当にごめんなさい」

 

 

 あの堅物頭の母から謝罪の言葉が出てきている。その事実に明日奈は目を丸くする事しか出来なかった。だが、やがて言葉を出せるようになり、明日奈は言った。

 

 

「母さん……そんな、そんな事ないよ。わたしは母さんを責めてなんか……」

 

「いいえ。私はあなたにひどい事をしたのに変わりはないわ。だから、本当に、今までごめんなさい」

 

 

 明日奈はまた言葉を出せなくなった。昨日と様子が打って変わってしまっている京子に、なんと声を掛けたらいいのかわからない。頭の中で思考を巡らせても、やはり言葉が見つかってこなかった。明日奈が戸惑う中、京子の言葉は続けられた。

 

 

「人の精神を癒す力を持った人工知能……か。人間の心や精神を癒したりしなきゃいけないのは同じ人間のはずなのに、ユピテル()みたいな人間に作られた存在の方がそれを上手にするようになっていって、肝心な人間は他人を傷つけたり蔑んだりする事ばっかり上手になっていってるなんて、どうなってるのかしらね」

 

 

 明日奈は京子の言葉の中に混ざっている一単語を聞き逃していなかった。けれども、上手く聞き取れなかったような気がして、もう一度聞きなおそうとしたが、その前に京子が明日奈の言葉を遮った。

 

 

「……それで、明日奈。あなたはそんなふうにならないで、多くの人を笑顔にしたい、支えていきたいって、言ったわよね。という事は、その覚悟があなたにはあるのね」

 

「……うん」

 

「なら、まずは自分が強くならなきゃ駄目よ。私の薦めてる大学には必ず行きなさい。そのためにも、三学期と来年度はこれまで以上の成績を取ってみせるのよ」

 

「えっ、母さん、それって……というかじゃあ、編入試験は?」

 

「言ったでしょう。今後の成績次第。頑張りなさい、明日奈。ちゃんと大学に行って――」

 

 

 京子は明日奈に視線を向けた。すっかり険の取れた目つきで、静かに言った。

 

 

「ユピテル()が誇りに思える母親になってあげなさい」

 

 

 その一言を残すなり京子は立ち上がり、速足でダイニングを出ていった。ドアが閉められる音を聞いて硬直する事数秒後、明日奈は胸の奥から突き上げてくるものを感じた。

 

 ユピテルの力があったとはいえ、ようやく京子を苦しみから解放してあげられた。

 

 そして、自分達が親子であるという事を、認めてもらえた。自然に唇から笑みが漏れ、明日奈は小さく呟いた。

 

 

「ありがとう、母さん……」

 

 

 明日奈はダイニングを出て、自身の部屋へ向かった。それから制服に着替えて鞄を下げ、学校に向かうまでは、ずっと微笑みっぱなしの急ぎ足だった。

 

 

 

 

 

         □□□

 

 

 

 

 その日の夜 《ソードアート・オリジン》 《はじまりの街》

 

 学校の授業を終えて帰宅し、明日奈は夕食と入浴を終えた後、すぐさまアミュスフィアを使って《SA:O》へダイブした。

 

 放射状の光が終わった後に目を開けてみれば、広がっていたのは明かりに照らされた、石と木で作られた部屋の中だ。壁沿いにベッドがあり、その傍にテーブルと椅子のセットがある。紛れもなく、《はじまりの街》の自分の家の寝室であった。

 

 けれども、まだ時間ではないので、ベッドもテーブルも使われていない。一階からは、小さいけれども確かな気配を感じる。その存在に微笑みを浮かべたアスナは部屋を出て、階段を下った。

 

 降り切った先にあった扉を開けると、そこは使い慣れたリビングがあり、一人の少年の姿が認められた。自分と同じ形の髪型で、先端が白銀色になっている栗毛色の髪の毛をしている、白を基調とした衣服に身を包んでいる、琥珀色の瞳の小柄な男の子。

 

 男の子の瞳とアスナの瞳が合うなり、男の子の方が先に満面の笑みを浮かべた。

 

 

「おかえり、かあさん」

 

 

 愛しき我が子からの挨拶に、アスナは答えた。

 

 

 

「ただいま、ユピテル」

 

 

 

 

 

《キリト・イン・ビーストテイマー アイングラウンド 02 終わり》

 

 




――後書き――



 ドーモ、皆=サマ。クジュラ・レイでございます。

 まさかのアイングラウンド編第1章の話数を上回る話数となったアイングラウンド編第2章が、今回を以って完結いたしました。

 突然始まったアスナ&ユピテル編ですけれども、この章を思い立ったきっかけは、KIBTでもマザーズ・ロザリオ編がやりたいと思った事と、そもそもアスナのところにいるオリキャラのユピテルについてもっと書き込みたいと思った事です。

 ユピテルはキリトのところにいるリランと比べてスポットライトが当たりにくく、どういったキャラなのかを皆様にお伝えする事が出来ない傾向にありました。なので、今回はユピテルにスポットライトを当てた話にしたというわけです。

 本当はそれだけのはずだったのですけれども、話を練っていくうちにアスナの事もぐんぐん巻き込んでいき、どんどん話も大きくなっていき、ここまでになってしまいました。書ききった私自身も、正直驚いています。


 そして今回の章には明確なテーマがあったのですが、それはいつもどおり私からお教えする事はありません。この章のテーマは読む人それぞれであり、読者の皆様が感じられたものがあったならば、それこそがこの章のテーマという事です。何か感じられたものはありましたか?


 何がともあれ、この話を以って三か月に及んだアイングラウンド編第2章は完結し、ストーリーは第3章へ進んでいきます。

 この第3章についてですが、読者の皆様に大事なお知らせです。

 当初の目的では第3章はユウキ編という事にしていたのですけれど、それは第4章へ延期し、第3章は閑話という事にさせてもらいたいと思います。

 理由としては、KIBTがそもそもキリト・イン・ビーストテイマーというタイトルであるにもかかわらず、他の登場人物にスポットが長い間当たり続けると、誰が主人公で誰がヒロインなのかわからないという事になってしまいそうだったという事と、私自身のキリシノ成分補給のためです。

 やっぱりこの作品はキリシノがあってこそ成り立つものですからね。彼らが居なきゃこの作品は成り立ちそうにありません。

 極めて勝手ではありますけれども、第3章はキリトとシノン、そしてホロウリアリゼーションのヒロインであるプレミアをメインとした閑話をして、第4章からユウキ編にしたいと思います。


 ここまで読んでくださった皆様に、感謝申し上げます。よろしければ、また感想を送ってくださると、幸いです。


 本当に、本当にありがとうございました。

















――追加オリキャラ紹介――


【挿絵表示】



▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。