キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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 明かされる、子の記憶。

 そして意外な人物が先駆けて意外な形で登場。




16:その子の持っていたもの

「今日の治療はこれで完了になります。どうでしたか」

 

「よかったぁ……よかったよユピテル君。やっぱりユピテル君に治してもらうのが一番いいよ」

 

 

 二つの声色による声で、明日奈は目を開けた。

 

 そこはリューストリア大草原の中でもなければ、《アークタリアム城》の玉座の間でもない、知らない場所だった。天井も、壁も、床も白いけれども、ちゃんとしたプラスチックのような質感で出来ている。まるで大きな立方体の中にいるような空間だ。

 

 その中に椅子が二つ設けられており、そこに座って向かい合っている人影が見えた。

 

 片方はどこでも見れるような黒い髪の毛を一般的な髪形にしていて、研究員のような白い服装に身を包んだ女性。これまで一切見た事の無い女性だったが、それと対峙する者に明日奈は目をやった。

 

 雪のような白銀色の髪の毛に、白い生地の真ん中に横一文字に青いラインの入ったTシャツを着て、青いズボンを履いている、女の子のように線の細い顔をした、海のような青い瞳をした小柄な少年。服装と髪型こそ違えど、明日奈が追い求めているユピテルの姿そのものだった。

 

 

「……ユピテル!」

 

 

 思わず声をかけても、ユピテルは反応を示さない。これだけ近くにいても、全然声が届いていく気配がない。いつもならばすぐさま「なぁに、かあさん」と答えてくれるというのに、知らない女性と話し合っているばっかりだ。一体どうしてしまったというのだろう。そもそもここはどこなのだろう。明日奈の頭の中で疑問が次から次へと湧いてくる最中、ユピテルと女性は構わずに話を続けた。

 

 

「長時間に及ぶ労働は確実に身体と心を疲れさせます。適度に休養を摂ったりしてください。そうすればまた元気になれますし、その事を話せば上の人もわかってくれるはずです」

 

「そうさせてもらうね。それで、また疲れたら……」

 

「はい、ぼくのところに来てください。ぼくはそのためにこうしてここにいるのですから。いつでもお話を聞きましょう」

 

「ありがとうユピテル君。それじゃあ私、戻るね」

 

「お疲れ様です。お大事にしてくださいね」

 

 

 ユピテルがにこやかに笑んだのを見てから、女性はウインドウを展開し、ボタンをクリック。その姿をこの立方体の中のような空間から消した。VRMMOにダイブしている際のログアウト処理に酷似した動作だった。最後までそれを見たユピテルは椅子に深く腰を掛け、大きく深呼吸をする。

 

 女性の動作と消え方。そしてユピテルがこうして存在しているという光景。どうやらここはVR空間の中で間違いないらしい。

 

 だが、少なくとも明日奈の知っているところではないというのも間違いなく、ユピテルだっておかしい。

 

 目の前にいるユピテルは髪型も違えば服装も違うし、全体的に大人っぽい雰囲気を醸し出している。あんなユピテルを、明日奈はこれまで見た事が無い。

 

 

(これ……どうなって……?)

 

 

 明日奈はじっと椅子に座る我が子を見てから、再度声を掛けようとした。次の瞬間、ログイン時に発生するものと似た光が二つ発生してきて、そちらに目を取られた。ユピテルと一緒になって見ていると光はすぐに収まり、二人の女性が姿を現した。

 

 黒い髪の毛を腰のあたりまで伸ばしている、白衣を纏う赤茶色の瞳と大きめの胸元が特徴的な、見覚えのある女性。もう片方は、ウェーブのかかった白色の髪の毛を左側に流していて、もう一人と同じ白衣に似た衣装を纏い、同じく大きめの胸が目立つ女性。

 

 その片方の名前を、明日奈は口にしていた。

 

 

「イリス先生……」

 

 

 イリスはユピテル同様に答えようとしない。そればかりか、明日奈がいる事自体もわからないでいるようだ。それはイリスの付き添いのようにしている女性も同じだった。

 

 ユピテルは二人がやってくるなり、朗らかな表情を浮かべた。

 

 

「かあさん、それにツェリスカ」

 

「やぁユピ坊。調子良さそうじゃないか」

 

「こんにちはユピテル君~」

 

 

 名を呼ばれた二人はユピテルの許へと近付いていく。ユピテルは椅子に腰を掛けたまま、何かわくわくしているようなそぶりを見せていた。何か楽しみな事があるようにも感じられる。

 

 

「調子が良くなったのは皆さんの方ですよ。皆さんが、元気を取り戻していってくれてるんです」

 

「それを招いているのがユピテル君なのよ~。やっぱりユピテル君はわたし達の会社のアイドルなんだわ~」

 

 

 ユピテルからツェリスカと呼ばれた女性が、少しかがんでユピテルを見る。随分とゆったりとているけれども、しっかりと芯があるというのがわかる喋り方だ。そのツェリスカをユピテルは見上げ、褒められた子供のように「えへへ」と笑んでいた。

 

 皆の調子が良くなっている?

 会社?

 アイドル?

 

 いくつかのキーワードが出てきたのを逃さなかった明日奈はすかさず考え、ここに来る以前の自分を思い出した。

 

 そうだ。あの時自分はユピテルに打ち明け、ぼろぼろになりながら、同じくぼろぼろになっているユピテルを抱き締めた。それ以降の記憶が存在していない。どうやらそのままここへ来てしまったようだ。

 

 そして目の前でユピテルが丁寧語を喋りながら、イリスとツェリスカという研究員と思わしき女性と話をしている。ここから導き出される答えは一つ。

 

 ここは欠損していたユピテルの記憶の中であり、自分はそれを立体的に閲覧しているのかもしれない。

 

 だからこそ、ユピテルもイリスもツェリスカも、こうして明日奈がいる事に気付かないのだ。まさかここがユピテルの記憶の中だなんて――少し信じられないような感じを覚えながら、明日奈は目の前の光景の閲覧を続けた。

 

 

「チーフ。ユピテル君の教育と開発は間違いなく上手くいっていますわぁ。ここにいるユピテル君こそが、その証拠ですよ」

 

「そうだね。現に女性社員の間でユピ坊の話題が尽きた事はあまりない。そして沢山の女性社員達が精神の好調を訴えている。ユピ坊が企画したとおりのものに仕上がってきているようだね。これもツェリスカ、君も含めた皆の教育の賜物(たまもの)だ」

 

 

 イリスの方は明日奈の知っている通りの喋り方で、言われたツェリスカは「ふふふ」と笑んだ。今のユピテルの記憶は、ユピテルが開発されている頃。まだ茅場晶彦とイリスが勤めていた、《SAO》を世に送り出した大企業であるアーガスが存命している頃だろう。

 

 そしてユピテルは、茅場晶彦とイリスが主体になって作り上げられた《MHHP》。イリスによると、その他大勢のプログラマーも開発にかかわっていたというから、このツェリスカもその一人なのだろう。しかもイリスの隣に並んでいるのだから、相当地位も高いはずだ。

 

 何より、ユピテルは今イリスの事をかあさんと呼んでいる。やはりユピテルが本来かあさんと呼んでいた人物は自分ではなく、イリスの事だったのだ。だからこそ、ユピテルが初めてアインクラッドで発見された時、イリスは強くユピテルに掴みかかったのだろう。

 

 

「ところでユピテル君、今日はどのくらいの人を癒したか、覚えているかしら」

 

「覚えています。今日だけでも治療に当たった人の数は十人を超えています。アーガス自体があまり女性の多い会社じゃないとわかってはいますが、ちょっと数が多いような気がします」

 

 

 ツェリスカの問いかけに冷静に答えるユピテル。話を聞いている限りでは、ユピテルはどうやらアーガスの社員達の治療に当たっていたようだ。

 

 元々ユピテル達《MHHP》は、人間の心や精神を治療するために作られた存在であるから、作られていく過程でアーガスの社員達を治療対象にしていたとしても不思議ではないだろう。いや、実際社内でテストという形で治療に当たらせていたのかもしれない。

 

 ユピテルの報告を聞いたイリスが、腕組をする。

 

 

「最近は開発が佳境に入ってきているからね。働く女性達の負担も大きくなってきているのさ。そんな時に君がこうして治療に当たってくれるから、女性達も頑張れる。君は私達の会社のアイドルだし、希望だ」

 

「はい。ぼくも使命のために頑張れて楽しいです。ぼくの使命は皆さんの心を癒してあげる事なのですから、傷ついた心の人がいたら、教えてください」

 

「ふふ、そういう風に作ったとはいえ、前向きで頑張り屋さんで偉いわねぇ。半年間の学習の成果が沢山出ているわぁ」

 

 

 ツェリスカに言われ、ユピテルはもう一度「えへへ」と言って笑む。その様子は自分がこれまで見てきたユピテルとほとんど変わりがない。髪型と服装が違えど、根本的な部分は変わってないのがユピテルだったのだ。

 

 そして、ユピテルは《MHHP》として作り出されてから、半年もの間学習を毎日続けていたらしい。自分の願いを叶えようとした時にあそこまで頑張れていたのは、既に似たような事を経験していたからだったのだ。イリスもツェリスカも、本当の子供のように思ってユピテルを育てていったに違いないだろう。

 

 しかし、ユピテル達の会話には奇妙な点がある気がする。

 

 先程から、ユピテルは女性ばかりを癒しているような口ぶりだ。《MHHP》は男も女も関係なく、心が傷ついたり、疲れたりしている人がいれば助けに、癒しに行くというのに。

 

 この理由は一体何なのだろうか。そう思ったその時、イリスがウインドウを開き、ボタンをクリックする動作を見せた。ウインドウが閉じられると、イリスの手の上に二つのものが出現したが、その形に明日奈は驚く。

 

 《はじまりの街》で何度も見た黒パンと、銀色の小瓶。それはまさしく、《SAO》の初期の頃に自分を助けてくれたものであり、その時からの心の支えであったものを再現できるセットだ。

 

 

「今日はよく頑張ったよユピ坊。というわけで、君にご褒美をあげよう」

 

「それはもしかして!」

 

「そうだ。君の大好物の、クリームのせ黒パンさ。ほら、食べなさいな」

 

 

 ユピテルはさぞかし嬉しそうな様子を見せてから、イリスの手よりそのセットを受け取り、手慣れた動作で銀の小瓶を黒パンに使用する。ユピテルの指先がそっと黒パンを撫でると、ごってりと白色のクリームが盛られ、あのクリームのせ黒パンが再現された。

 

 そしてユピテルは「いただきます」ときちんと言ってから、思い切りそれに(かぶ)り付いて見せた。如何にも大好物にありつく事の出来た子供のように。

 

 

「あれは……」

 

 

 自分があの時偶然に近しい形で知る事になったクリームのせ黒パンは、この時からあったものだったのか。そしてユピテルはこの時からクリームのせ黒パンを好物としていたのか。

 

 全然予想していなかった事柄の遭遇に明日奈は驚くしか出来ないでいた。

 

 

「ユピテルはこの時から……」

 

 

 ふと呟いたその時、明日奈の眼前が突然真っ白に変わった。何事かと驚いて目を腕で覆っても、視界の白さは消えていかなかった。

 

 白が止むと、聞こえてくる音も変わった。目から腕を遠ざけてみると、景色が変わっていた。いや、正確にはユピテルのいる位置が変わっていた。

 

 先程まではユピテルは部屋の中央付近の椅子に座っていたのに、今は壁に近いところに座っている。今の一瞬のうちに何が起きたのか。

 

 明日奈が思考しようとしたその時、ユピテルのいる位置の逆側の壁の付近で二つの光が起きた。イリスとツェリスカがやって来た時と同じログインの光だった。ユピテルと一緒になって注目すると、光は収まり、中から二つの大きさの違う人影が出てきた。

 

 その片方を目にして明日奈は声を上げて驚きそうになる。線の細い顔立ちに、全てを見通しているかのような目つき、黒い髪の毛に、白い研究者のような服装をした男性。

 

 《SAO》事件が起きるまで超大物研究者兼ゲームクリエイターとして名を馳せており、《SAO》事件を引き起こした張本人である、茅場晶彦その人だった。

 

 隣には金色の長髪をなびかせて白いワンピースを着こなしている、紅い瞳の小さな少女が連れられている。

 

 

「茅場……晶彦……」

 

 

 《SAO》事件の黒幕であり、ヒースクリフと名乗って血盟騎士団の団長を務めていたその男が、まさかこんな形で登場してくるとは。全く予想していなかった明日奈の事など知る事もなく、茅場晶彦はゆっくりとユピテルに歩み寄ってきた。

 

 

「ユピテル」

 

「……とうさん」

 

 

 ユピテルの口から登場した単語に明日奈は再度驚く。ユピテルは茅場をとうさんと呼んだ。リラン/マーテルも茅場の事をパパと呼んでいたけれど、ユピテルも同じように呼んでいた――茅場本人もそう呼ばせていた――らしい。

 

 だが、茅場は不本意だったらしく、ユピテルに近付きながら苦笑いをした。

 

 

「君までそんな呼び方をするとは……君達姉弟は似たり寄ったりなようだ」

 

「とうさんがぼくのところへ来てくれるとは、珍しいですね。何かあったのでしょうか」

 

「経過観察と、会わせたい人がいたから来たんだよ。まずは経過を聞こう。調子はどうだい、ユピテル」

 

 

 事実上の父からの言葉に、ユピテルは極めて冷静なそぶりを見せた。その様子は上司に何かを報告する部下のようでもあった。

 

 

「皆さんの教育と学習データによって、ぼくは治せる人の数を増やせています。今日だけでも既に三人、心の治療に当たりました」

 

「そうかい。芹澤君達の言っていた通り、君は段々と使命を果たせるものになってきているのだね。私としても、それは嬉しい限りだ」

 

 

 ニュース番組などで見た時には達観しすぎているような顔をしていた茅場の顔に、静かな笑みが浮かび上がる。息子の成長ぶりを喜んでいる父親の顔と言っても、間違っているような気はしなかった。

 

 しかしその直後、ユピテルの報告と茅場の受け取りを邪魔する存在が現れた。茅場と共に部屋を訪れてきていた少女が、ユピテルに思い切り近付き、その姿を興味深そうに見ていた。少女はユピテルを頻りに見ながら、茅場に声をかける。

 

 

「パパ、この子がわたしの弟のユピテル?」

 

「とうさん、この人は?」

 

 

 二人の子供に尋ねられ、茅場は困ったように笑いながら、答えた。

 

 

「紹介するよマーテル。その子が君の弟であるユピテル。そしてユピテル、その目の前の女の子が、君の姉であるマーテルだ」

 

 

 やっぱりそうだと明日奈は思った。ユピテルに近付く女の子の容姿は、リランの人狼形態時、マーテルとしての姿に近しい特徴を持っている。まだ崩壊前で、様々なデータを取り込む前のマーテルの姿が、この金髪の少女だった。

 

 あらかじめどこかで話を聞いていたのか、ユピテルもマーテルもまじまじと互いを見つめ、先にマーテルの方が言葉を発した。

 

 

「あなたがユピテルなの。本当に画像で見た通りだね~」

 

「以前からお話は聞いていましたが……あなたがぼくのねえさんだったとは……意外でした」

 

 

 互いに同様の反応を示しているが、どうにもマーテルの方が幼いように見えて仕方がない。まるで関係が逆転し、兄と妹のようになってしまっているかのようだ。もしこれがユピテルとマーテルの知識量の差の結果なのだとすれば、マーテルはほとんど学習をしていないらしい。そんなちぐはぐな姉弟を目にして、茅場ははっきりといった。

 

 

「マーテル、ユピテル。君達は互いに人の心を癒す事を使命として作り出されたんだ。そして、同じ使命を持っている姉弟がいる。その事を、しっかり覚えるんだよ」

 

「もしかしてとうさんは、その事を教えるために?」

 

「そうだよ。君達は二人で人の心を癒していくんだ。特にユピテル、君は先に進んでいるのだから、その事を自覚するんだよ」

 

 

 父にそう言われ、頷いたのがユピテルだった。如何にも自分の使命というものを理解しているかのような振舞い。その様子はどこかユイを彷彿とさせるものだった。

 

 対するマーテルの方は使命感は持っているものの、自由というものを満喫しているかのようにしており、ユイの妹であるストレアを思い起こさせた。ユピテルもマーテルも教育段階にあるのだろうけれど、既に姉弟でかなりの差が出来ているように思える。

 

 

「ぼくの使命は――」

 

 

 胸に手を当てたユピテルが言いかけたその時、明日奈の視界を再び白色が塗り潰してきた。また記憶が移動を始める。耳も一切の音を感じなくなり、ユピテル、マーテル、茅場晶彦の声も聞こえなくなった。

 

 

 視界を埋め尽くす白と無音が収まったところで、明日奈はもう一度目を開いた。景色が様変わりしていた。

 

 辺り一面が真っ黒に染め上げられており、その中にぽつんとユピテルが体育すわりをしている。マーテルの姿もなければ、茅場晶彦の姿もない。勿論イリスの姿も、ツェリスカの姿も見当たらない。

 

 

「……?」

 

 

 今度はいつの記憶へ飛んだのか――明日奈はユピテルへ近付いた。その眼前に、比較的大きなウインドウが存在しており、動画のようなものが流されているのが見える。覗き込んでみると、複数の人を俯瞰しているような動画であるという事と、その複数の人々の会話が聞こえてくるのが分かった。

 

 

「あのですね、ユピテルをそういうふうに作れって言ったのはあなた方ですよ。私達はそのとおりに実行して、そのとおりにユピテルを作った。なのに今更、何を言うんですか」

 

「ユピテルは失敗作だ。一つの使命しか達成できず、使命にやたらと盲目になり、しかもその命令から背くような事とをすればたちまち崩壊を引き起こす。散々予算を使っておいてあれとは!」

 

 

 映し出されているのは会議室だった。そこに現実のイリス/芹澤愛莉の姿も見える。どうやらユピテルはアーガス社内のカメラの映像を見ているようだ。これが出来るのはリラン/マーテルだけかと思っていたし、本人からもそう聞いていたけれど、本当はユピテルもまた同じ事が出来ていたようだ。

 

 カメラからの映像の話を聞いている限りでは、先程のツェリスカの姿もあるのかもしれない。そしてやたらとイリスに食って掛かっている男の姿が数名見受けられた。

 

 

「あの子は開発当初の目的を達成できるように仕上がっていますよ。それ以上何を必要としているというのですか。そもそも、あなた方は今頃ユピテルをどうしようと思っているんです」

 

「ユピテルはAIのくせに疲れたりするじゃないか。そのうえ、命令のためならばどこまでも無理をするし、命令から少しでも背くような事をすればエラーを抱えて自壊する。AIというのは二十四時間三百六十五日、働き続けられるものだろうし、一定の力を保ったまま命令を遂行させられるものであるはずだ。あんなものを作れとは言っていない」

 

「人間の心を癒すには疲れを知る必要があります。だからこそ彼には疲れる機能が付いてるんですよ。あなた方からの依頼に忠実に答えるように作ったらあぁなっただけなんです。あの子の滅私奉公だって、結局はその依頼を忠実にこなすために備え付けたんですよ」

 

「あんなものは出来損ないだ。いくら社内の人間を何人も癒せようと、実装できるものではない。それに、マーテルに至っては命令に関係ない能力をいくつも獲得して、半ば暴走気味じゃないか。いや、ユピテルも結局暴走する失敗作だ。あんなものらは必要じゃない! 作り直せ!」

 

 

 男達はマーテルやユピテルを引き合いに出して愛莉に突っかかっていた。愛莉の言葉から察するに、愛莉よりも上の立場にいる者達なのであろう。愛莉よりも上の立場という事は、プロデューサーだとかゼネラルプロデューサーだとか、そういった開発チームの最上部付近にいる者達であるに違いない。

 

 そんな者達に向かって、また見た事の無い女性が小言を言うように発言する。

 

 

「あそこまで作らせておいて、そんな事を言うのですか。あんなに純粋無垢で、社内でもかなりの人気を持っている子だというのに」

 

「そんなものは我が社は、開発チームは必要としていない。だが、人間の心と精神を癒す機能は残す。アレのマイナーチェンジ版を作り直せ。それと、アレの処理能力にも社は注目している。アーガスの更なる売り上げが見込めるものが作れるかどうか、試せ」

 

「……茅場さんにも話してみようと思います。すべては茅場さんの意思次第という事で」

 

 

 愛莉がそう言ったところで、映像は打ち切られた。暗闇の中に明日奈とユピテルだけが取り残され、ユピテルは信じられないものを見たような顔をしている。

 

 

「ぼくが……出来損ない……? ぼくはみんなの心を、精神を治すために作られたんじゃ……?」

 

 

 か細いユピテルの声が一つ残らず届いてきて、明日奈は胸が締め付けられるような感覚だった。

 

 ユピテル、マーテル、クィネラの三人が該当する《MHHP》は、人間の心と精神を治療する事を目的に作られていた。だからこそ、人間の心や精神の有り様をしかと認識し、人間と同じように疲れたり、眠ったりする事が出来たのだ。

 

 人間と同じ状態を持ち、人間を理解する事が出来る。その共感力こそが、《MHHP》の最大の強みのようなものだった。

 

 なのに、アーガスの上層部はそれを許していなかった。素晴らしいとしか言えないようなAIであるユピテルを目にして、レクトの連中達と全く同じ事を言っていた。

 

 しかも話を聞く限り、アーガスの者達は人間の心と精神を癒すプログラムを作れという命令を下しておきながら、後々になって作り直せとまで言っていた。

 

 作れという命令を出しておいて、作られたユピテルの事を何も理解しようとしていなかったのだ。かつての自分のように。

 

 大人達の身勝手な会話が信じられない。そう言っているように、ユピテルは足の間に頭を入れて、その上から手で頭を抱えた。

 

 

「ぼくは……心を……精神を……癒すために……」

 

 

 《MHHP》は人の心や精神を癒す事を使命に作られた。そう望んで作られた存在だというのに、そのための学習をたくさんしてきているというのに、結局出来損ないと言われてしまった。全部大人達のためにやっていたというのに、その大人達から拒絶されてしまった。

 

 

「ユピテル……あなたは……」

 

 

 出来る事ならば、座りながら蹲るユピテルを抱きしめてあげたかった。この胸の中に、もう一度抱え込んであげたかった。だが、これはユピテルの記憶の中だから、自分は見ている以外に何も出来ない。この子の母親であるというのに、何もしてあげられない。改めて、その事が何よりも辛く感じられた。

 

 そう思うと、もう一度目の前が真っ白に変わった。今度は腕で目を覆う事なく、瞼を閉じるだけで済ます。白い光が収まったのを見計らって目を開けると、そこはまた黒い空間の中だった。だが、先程と違うのは、ユピテルが辺りを必死に見回していた事だ。

 

 

「何故ですか……どうしてですか! あんなに沢山の人が苦しんでいるのに、どうしてぼくは向かってはいけないのですか! 答えてください、かあさん、とうさん!!」

 

 

 ユピテルは叫び、立ち上がっては壁を叩いている。その眼前に表示されているウインドウを目にし、明日奈は絶句した。

 

 ユピテルが見ていたものは、アインクラッドの第一層の《はじまりの街》。しかし、アイングラウンドの《はじまりの街》のような穏やかなものではなく、広場に一万人ものプレイヤーが集められて、凄惨な声を上げている。

 

 

「これは……」

 

 

 忘れられるものではない。茅場晶彦によるデスゲーム開始のセレモニー後の光景だった。一目見ただけで、頭の中にその時の事柄がフラッシュバックしてくる。

 

 HPがゼロになれば現実でも死に至るデスゲームである事を突き付けられて閉じ込められ、一万人のプレイヤー達が狂ったように怒鳴り散らし、泣き散らして叫んだ、阿鼻叫喚の縮図。

 

 その中に、自分達はいたのだ。そして、同じように怒鳴り散らして泣き叫んでいた。

 

 まさしく、あの時は《MHHP》、《MHCP》達が向かわなければならない状態だったと言えるだろう。そのはずなのに、彼らがあの時あそこへ現れてくれる事はなかった。茅場晶彦とカーディナルシステムの手によって、彼らは意識を持ったまま封印されていたのだ。

 

 使命を果たしたくとも禁じられたその結果、彼らはエラーを抱えて崩壊へ向かった。これはその序盤の記憶なのだ。

 

 あの地獄が開かれたような光景を、ユピテルはただ見ているしかない。治さなきゃいけない人達が沢山いるというのに、向かう事を一切認められない。話を聞いているだけではわからない残酷さが、ここにはあった。

 

 その最中、ユピテルは何かに気付いたような反応を示し、一切の行動を止めた。冷静さを取り戻したかのような様子にも思えた。

 

 

「……傷付いてる……こんなにも、傷付いてる……」

 

(え?)

 

「これは……ここに来る以前から? ここに来る以前から、こんなに心を傷つけている……そんな人がいただなんて……早く治しに行かないと……それに、こんな状況をアキヒコ……とうさんが作っても、アイリ……かあさんが許すわけがない。きっとかあさんなら、ここを開けてくれる」

 

 

 何かを処理しているようにぶつぶつと独り言を言ってから、ユピテルはその顔を上げて眼前のモニターに注目した。

 

 

「そしたら行かなきゃ、この人のところへ……マーキングしておかないと。名前は……名前は……」

 

 

 そこで明日奈はユピテルの話を思い出した。ユピテルは記憶を取り戻しかけ、自分には治さなきゃいけない人がいると言っていた。 

 

 今ユピテルが言っているのは、きっとその人の事だろう。ユピテルの治さなきゃいけない人は、やはりデスゲーム開始時から始まっていたのだ。

 

 果たしてその名前はなんなのだろう。その人はそもそも誰なのか。

 

 明日奈はゆっくりとユピテルのところへ歩み寄り、そのウインドウを覗き込んだ。

 

 

「……!!」

 

 

 表示されている文字を見た瞬間から、記憶は一気に流れ始めた。あまりに早すぎて全てがわからなくなる中、ユピテルの声が断片的に聞こえてくるようになった。

 

 

 ――そんな戦い方をしたら駄目です……死んじゃいます……

 

 ――疲れてる……休ませてあげないと……そうだ、ぼくの大好物をこの人のところに……喜んでくれるかな……

 

 ――あれ、封印が……解け……

 

 

 最後の声が耳に来たところで、明日奈の意識は途絶えた。

 

 

 

 




――原作との相違点――

・ツェリスカ
 ソードアート・オンライン フェイタルバレットのヒロインの一人。
 別名、無冠の女王。
 今作では《MHHP》、《MHCP》の教育開発担当の一人となっている。

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