夜は食べる。大切なその子の身体と心を。
□□□
「ふぃ~……」
自身の家の自身の部屋にて、明日奈は深々と溜息を吐いた。背負っていた荷物を下ろして椅子に座ると、更に大きな溜息が出てしまった。
家を出たのは二日前だが、明日奈はかなりの時間を通り抜けて家に帰ってきたような感覚を覚えていた。日本からアメリカまでの、十時間以上の時差を超えてきたのが原因なのかもしれない。
アメリカでは朝を迎えていたのに、日本に帰ってくれば日が暮れていて夜に差し掛かろうとしている。更に言えば日付さえも次の日に進んでしまっているというのには、違和感しか覚えなかった。昼間が一瞬にして終わって夜に差し掛かる。まるで世界そのものを跨いでいるかのようだった。
父や兄はこれを数回経験しているがために慣れているようだけれども、明日奈はそうじゃなく、時差を超えるだけでも結構疲れたような気がしたし、現に今もかなり疲れている。けれど、その疲れは決して嫌なものではなく、寧ろ心地の良いものだった。
アメリカで開催されたロボットのイベントだが、そこに参加した価値はこれ以上ないくらいに大きいものだった。まずアメリカという広大な国で行われているというだけあってか、イベント会場の大きさは日本の東京ビッグサイトだとか幕張メッセだとかの大きさを遥かに超えており、出展してきている企業の数も半端なものではなかった。
数えるだけでも百を超える企業があって、それぞれが独自に開発したロボットを自慢するように、観客やほかの企業の人々に見せつけていた。
そんなイベント会場の中で飛び交っていたのは英語、ロシア語、ドイツ語、イタリア語といった欧米圏のものばかりであり、日本語が出てくる機会など微塵もなかった。
しかし、勉強を通じてある程度の言語を取得していた明日奈は飛びくる言葉を理解できなかったわけでもなく、寧ろ英語はほとんどわかり、何を言われているのかもよく理解出来た。
流石にドイツやイタリアまで行かれるとわからなかったけれども、明日奈は英語で話す人々の会話や主張やプレゼンをよく聞き、理解していた。
そんな大人達が殺到するイベントの中で、明日奈はとある人物と出会う事となった。
それは、銀色の長髪と赤紫色の瞳が特徴的な、大人達に囲まれるとその小ささがよくわかる少女。世界的に有名な科学者であり、日本ではアイドルとしても活動している、セブンこと七色・アルシャーピン博士だ。
セブン/七色の現実での姿はニュースで何度か見ていたため、明日奈はすぐさま七色に話しかけた。七色は最初首を傾げる一方であったが、やがて明日奈が《SA:O》でのアスナの外観と酷似している事に気付いて驚き、日本語で会話し始めた。
まさかこんな形で現実世界で出会う事になるなんて。周りの大人達そっちのけで二人で感激しながら明日奈と七色は様々な会話を交わした。その中で明日奈が「人間そっくりのロボットを作っている企業はないか」と尋ねると、七色は「あるわよ、ついてきて」と言って先導を始めた。
迷子にならないように七色の後を追っていく事三分後。七色はとある企業のブースで立ち止まった。そこはアメリカの企業のブースだったが、目を向けたのは展示されていたロボットだ。
その企業の展示するロボットは、本当に人間そっくりに作られたロボットだったのだ。
動きはまだどこかぎこちなさのあるものではあったけれども、どこからどう見ても実物の人間にしか見えず、しかもある程度高度なAIを搭載しているため、接客業などをこなす事が出来るとも宣伝されていた。
人間と見分けのつかない人間そっくりのロボット。まさしく自分の探していた、ユピテルの身体となりそうなもの。その姿に胸を打たれたような気になった明日奈は、七色にユピテルの事を話した。七色はその話に驚きはしたものの、「それは不可能な事ではない」と笑って答えた。
ユピテルやその家族を現実世界に連れてくる事は可能。ロボットはそのために存在する。そんな事実を確かめた明日奈はこれ以上ないくらいの喜びを覚え、その企業のプレゼンターの話を喰い付くように聞いて、ユピテルの将来像なども想像したのだった。
イベントが終わって七色と別れ、ホテルに戻ってきた時、明日奈は一人だったが、それが丁度良かった。イベントの中で抱いた、ユピテルを現実に連れてくる事が近い将来可能となるという確証。
この喜びを誰かと共有するよりも先に、自分の中にしっかりと刻み込んでおきたかったのだ。その後で、明日奈は父や兄と話をした。
父と兄はユピテルの身体を作る事に既に賛同しており、その企業にアプローチを掛けたと話していた。企業からの返事は少し曖昧なものではあったものの、高度なAIを搭載させる事は可能だし、それに合わせて前向きに作り込んでいく予定であると話したという。
ユピテルが結城家にやってくるのはそんなに遠い話ではない。その日の事を三人で待ち望みながら、明日奈はホテルの中の自室へ戻った。
そうして迎えた翌日の朝型に、空港から日本へ飛び立つ飛行機に乗り、時差を飛び越えて帰国したのであった。
帰ってきて早々思った事と言えば、やはり日本の空気の方が湿っぽくて美味しいという点だ。
アメリカの空気は東京以上にぱさぱさとしており、ほとんど湿気がなく、暑かろうとも日陰に行けば涼しい。それに対し日本の空気は沢山水分を含んでいるように感じ、吸い込めば懐かしさにも似た感覚を得られる。やはり自分の生まれた国の空気は、国から離れる事によってその美味しさを実感できるものなのだ。
そんな事をしみじみと思いながら電車とタクシーに揺られ、明日奈は自宅へ帰宅したのだ。
久々にも感じる自分の部屋の椅子に深々と座り、明日奈はスマートフォンを起動した。電波を受信した事で日本時間を反映したスマートフォンのモニタに、夜の九時半過ぎと表示される。流石にアメリカで過ごした昨日では無理だったけれども、丁度いつも風呂に入っている時間帯だ。
アメリカから日本に帰ってくるまでに相当な汗をかいたと思うし、さっぱりしたいという思いもある。今から入浴して戻ってくれば午後十時を過ぎる。そう、ユピテルが《SA:O》の自室へ戻ってくる時間帯だ。
本人の希望もあって丸二日連絡したりしないでいたけれども、ユピテルはどれだけ強く、賢くなっただろうか。勤勉で頑張り屋さんなユピテルの事だ、きっと自分を含めた皆を驚かせるくらいに強く、賢くなっているに違いない。
それはそれで楽しみに思えるけれども、まだ足りないだろう。
今現在どのくらい強くて賢くなったかは、行ってみなければわからないが、ユピテルがもっと強くなったその時こそ、ユピテルの外観に忠実に作られたロボットに搭載されて、現実世界へやってくる時だ。――批判する者達を黙らせて、その素晴らしさを誇れる時。その瞬間が今から楽しみで仕方がない。
「さてと」
ユピテルに会う前に、入浴を済ませて来よう。そう思って椅子から立ち上がったその時、突然スマートフォンが大きな音を鳴らしてバイブレーションした。着信音に設定している音楽が鳴り響き、モニタに名前が表示される。仮想世界の住人であり、仲間であり、恩人の一人でもある、リランの名前だった。
「リラン……?」
シノン/詩乃には日本に帰ってくる時刻を教えておいた。これほどまでにタイミングよくリランがかけてきたという事は、詩乃から帰宅時間を聞いたのだろう。
話したいけれど、流石に入浴をすっぽかすのは女子としてやっちゃいけない。ここは一つ電話に出て軽く会話し、入浴した後にもう一度かけ直すと言っておこう。明日奈は表示されている受信ボタンをクリックし、耳元にスマートフォンを添えた。
「もしもし、リラン?」
《……明日奈! 繋がったか》
二日前からまるで聞いていなかったユピテルの姉の声。ロボット技術の発展によってユピテル同様現実世界での身体を手に入れる事となる少女の声に一種の安堵を抱くと、それは更に続いてきた。
《明日奈、お前は今どこにいる? 戻ってきているのか?》
「そうだよ。ただいまリラン。今帰ってきたところ。すごく丁度いいタイミングでかけてきたね」
《ならば――お、おいしの、何をッ――》
リランの声が急に慌ただしいものに変わった。何か揉めているような音が聞こえてくるようになる。リランはモンスターのいるフィールドで話をしているのだろうか。
《明日奈ッ!!!》
リランの声ではない怒鳴り声がして、明日奈は思わずびくりとした。話し相手がいきなり切り替わっている。
「その声……シノのん?」
《明日奈……あんたは……あんたはッ……》
聞き覚えのある声色。親友であるシノン/詩乃のものだ。しかしその声には、明確な怒りの感情がこもっているように感じる。
「ちょっ、ちょっとどうしたの、シノのん」
《明日奈……あんた、ユピテルに何を吹き込んだのよ!?》
「えっ、えぇっ?」
詩乃は自分のいない間、ユピテルと家を預かってくれていた。なので、次のログインした時に真っ先に話をしようと思っていたのだけれども、まるで話が読めてこないし、なぜ詩乃に怒られているのかも理解できない。
「シノのん、何をそんなに怒ってるの。わたしが居ない間に何かあったの」
《何かあったですって!? ふざけないで!!》
もう一度怒鳴り声を飛ばした後に、詩乃ははっきりとした声で言った。
《あんたのせいであの子、ユピテルが死にそうになってるのよ!!!》
その言葉に明日奈は凍り付いた。すぐさま言われた言葉が形を失い、ぼやけて頭の中から消える。詩乃は今何を言ったのだろうか。もう一度怒られる事を承知したうえで、明日奈は尋ねる。
「シノのん、今、なんて?」
《ユピテルが死にそうになってるの!! 全部、あんたのせいでッ!!!》
今度こそ聞き取れた言葉に明日奈は瞬きを繰り返す事しか出来なくなる。
ユピテルが死にそうになっている。
あんたのせいでユピテルは死ぬ。
確かに詩乃はそう言っているけれども、その意味を明日奈は理解できなかった。
ユピテルが死にそうになっているとはどういう事だ。ユピテルには死なんてないはずだ。
モンスターやプレイヤーにやられれば死んでしまう、《SA:O》のNPC達とはわけが違う。
「……シノのん、何言ってるの。ユピテルが死にそうになってるって、どういう事なの」
《とにかく……え、どうしたのプレミア。えぇっ!? ユピテルがいなくなった!?》
向こうにいる詩乃の声に他数名の声が混ざっている。あっちに仲間達が揃っているようだけれども、明日奈はそんな事を気にはしなかった。ただ詩乃に言われた言葉を頭の中で繰り返しているだけだ。
ユピテルが死ぬ。
わたしのせいでユピテルが死にそうになってる。
どういう意味なの。
それってどういう事なの。
何がわたしのせいだっていうの。
今すぐにでも明日奈は詩乃に尋ねたかったが、それよりも先に詩乃の方が声を飛ばしてきた。
《転移結晶を使われた!? その転移結晶は……あの子が持ってた!? あの子は今目が見えないんじゃないの!? 》
詩乃の声に動転が混ざっている。ただでさえ動転しそうになっているのに、更に促進させるような出来事が起こってしまったようだ。だが、それさえも明日奈は気にしなかった。
頭の中に、ある映像がイメージされる。自分とユウキとユピテルに、リランとユイを加えた五人で過ごしていたSAOの時だ。
突然家を崩落させながら一匹の狼龍が襲撃してくる。天井ごと家は破砕され、自分達は何が起きたのかわからないまま吹っ飛ばされるのだ。
かろうじて意識を保ちながら向き直れば、そこにあるのは黒い狼龍の口に咥えられたユピテル。自分はその狼龍に返り討ちにされ、ユピテルは連れ去られる。
その瞬間から始まった、自分の中で最悪だと思っていた時がフラッシュバックすると、スマートフォンが掌から落ちて、床にぶつかった音がした。やがて、フラッシュバックされてきた出来事は詩乃の言葉と結合する。
ユピテルが今、死にそうになっている。
《とにかく明日奈、今すぐ《SA:O》にログインしなさい!! それで――》
手から外れたスマートフォンからの声を聴くより先に、明日奈は机に置かれている円環状の機械を手に取った。二日ぶりに使う自分専用のアミュスフィア。ユピテル達のいる世界へ誘ってくれるモノ。咄嗟にそれを頭に装着しつつ、ベッドへ寝転んで、
「リンクスタート……!」
静かにそう呟いた。無数の光が瞬いているような映像が流れ、意識をどこかへ持っていかれるような感覚に包み込まれ、やがて途絶える。
身体に走る全ての感覚が消え去った時に目を開けると、そこは自室ではなくなっていた。
いや、部屋の中ではあるけれども、壁は石造りとなっており、床は絨毯の敷かれたフローリング。壁に設けられた窓からは夜の帳が差し込んできている。ユピテルのために購入した家の寝室、《SA:O》の《はじまりの街》の中だ。
「ユピテルッ!!」
そして自身がアスナとなった事に気付くなり、咄嗟に叫んで周囲を見回した。数秒足らずで、いつもユピテルが使っているベッドと、その隣に設置されているテーブルと椅子のセットを見つけられた。そこにユピテルの姿はなかった。
その代わりと言わんばかりに、何か落ちている。
「なにこれ……?」
テーブルとベッドに落ちているのは、黒い液体だった。それはただの液体ではなく、タールのように重く、青い斑模様のようなものが蠢いている。
これまでSAO、ALO、そして《SA:O》とみてきた自分でも見た事の無い物質。ユピテルの使っている家具にそんなものがついているという時点で、アスナは背中に悪寒が走ったのを感じた。自分の見ていない間にユピテルの身に何かが起こったのだ。
アスナは黒い重液から目をそらし、ドアを蹴破るのと同じように開けて階段を下った。
一階の廊下に辿り着いてすぐ、ドアを開けてリビングを見る。内装は二日前に見たものと同じであり、変わった事があるようには見えない。そしてユピテルもいない。
自分がやって来た事で照明が点灯したので、長い事無人だったようだ。
アスナは鍵もかけずに家を出た。周囲を見回してみたところ、多数のプレイヤーとNPC達が行き交ったり、話をしていたりするのが見えた。ここ数日で家を購入しているプレイヤーの数は増えてきているようだ。
その中を探しても、ユピテルの姿はない。
ここじゃない。
どこにいるの。
どこにいるのユピテル。
心の中で呟きながら、アスナは住宅街を走り抜けた。
自分でも驚くくらいの早さで走り続けていると、沢山の人々で賑わう商店街エリアに差し掛かったが、そこでもユピテルは見つけられなかった。続けて湖畔に向かっても見たが、やはりユピテルはいない。そうしているうちに、アスナは黒鉄宮が構える転移門へ差しかかった。
ここに来るまでもそうだったけれど、中は相も変わらず沢山のプレイヤーとNPCの姿が見受けられる。けれど、ここにいるそのどれもが、武器と防具で武装している。クエスト帰り、もしくはこれからクエストに向かうのだろう。
人々が鎧などを着込んだせいで、それが邪魔になって人の間が見えなくなる。これでは余計にユピテルを見つけ出す事が出来ない。あの子は背が低いから、大人のプレイヤーの影に簡単に隠れてしまう。
お願いだから道を開けて――数多のプレイヤー達にそう言いたくなったその時だ。
「見つけました、アスナさんッ!!」
聞き覚えのある声が背後からした。誘われるように振り返ってみれば、四人ほどこちらへ向かってくる人影が見えた。
黒い短髪で黒いコート状の装備を着ている少年、黒いショートヘアで露出度の高い緑を基調とした軽装に身を包んだ少女と、腰まで届く黒髪が特徴的な、ワンピースのような服を着た小柄な少女、金色の長髪と紅い瞳、見覚えのある赤色のコートを半分だけ着て、白金色の狼耳と尻尾を生やした外観の少女の四人。
キリト、シノン、ユイ、リランの四人。自分がいない間にユピテルを預かってくれていた仲間達の姿だった。
「皆……!」
「ッアスナ……!!」
アスナが呟いたその時だった。シノンが一目散に駆けつけてきて、そのままアスナの胸倉に掴みかかってきた。服が上方向に引っ張られて、息苦しさに似た不快感が走る。
シノンの顔は、既に激しい怒りで満ち満ちていた。
「アスナ……あんたは……あんたはぁッ!!」
「し、シノのん……!?」
「あんたッ、ユピテルの親なのに、親のくせに、よくもあんな事を……!!!」
アスナはシノンの怒りを理解できなかった。状況だってそうだ。普段何気なく、仲良く話している親友に締め上げられているし、その親友は先ほどユピテルが死ぬなどと言っていた。何一つ、アスナは理解できている事が無い。
怒り狂う親友に返す言葉を模索しようとしたその時、
「やめてくださいママ! 今はアスナさんと喧嘩してる場合じゃないです!!」
「……ッ!!」
ユイがシノンの腕に掴みかかり、アスナの胸元から離させた。息苦しさに似た不快感が消え去ると、キリトとリランもやってきた。いずれもユピテルの面倒を見てくれていた者達が揃った時、アスナはようやく言葉を口にできた。
「シノのん……何があったの?」
ユイに仲裁されても尚、シノンの顔は激しい怒りを抱いたままになっていた。狂暴な山猫を思わせる目つきで睨みながら、シノンは言う。
「あんな事を仕出かしておきながら、よくもそんな……本当に何も理解してないのね、あんたは」
「な、何の話をしてるの? 何があったの、ねぇ」
いよいよ戸惑いが隠せなくなり、アスナは狼狽えるながら尋ねた。襲い掛かりたいという意思を抑え込んでいるようなシノンの肩に手を乗せて、キリトがその問いかけに答えた。
「アスナ……君は……どこまで理解していなかったんだ」
「え?」
そこからのキリトの話は耳を疑うものだった。
今ユピテルの《アニマボックス》はウイルスに感染してしまっており、既に視覚を破壊するところまで侵喰している。
《MHHP》、《MHCP》はウイルスに感染してもワクチンプロテクターが作動するから大丈夫なようになっているけれども、ユピテルのは今それが上手く作動していない状態にある。
理由はユピテルのアニマボックスの中に大量のエラーが発生して溜め込まれてしまっている事、そしてそのエラーの原因、ウイルス感染の原因が、自分の言っていた事だったという事。強く、賢くなろうとする事そのものだったという事。
ユピテルがあの時のイリスとの会話を聞いていたという事。
「ユピテルが……無茶をしてた……?」
「そうよ……あの子は強くなる事なんて、賢くなる事なんて望んでなかったのよ本当は。けれど、あんたが強くなれ、賢くなれって言うから、あの子はあんたを喜ばせようと思ってあんな事をやってたのよ。身を粉にしてまで!」
怒りの続くシノンの言葉に、アスナは首を横に振る。違う。それはわたしが押し付けた事じゃない。それはあの子が自分から望んだもの。あくまであの子の意志だ。
「ち、違うよシノのん。あの子が強く、賢くなろうとしたのはあの子の意志だよ。それにあの子は無茶とか無理のない範囲で……」
「それも必死になって隠してたのよ! あの子、あんたに見っともないと思われたくなくて、どこまでも隠し通してたのよ。それで……あんたに押し付けられた事をずっと続けてたのよ。自分の思ってる事、望んでる事全部抑え込んで。どこまでも無茶して、成長しようとしてたのよ!!」
シノンが大きな声で言うと、アスナは再度愕然とする。頭の芯が痺れてしまったようになっているけれども、そこに一冊の本の姿があった。これまでユピテルと一緒に作ってきた思い出の数々が書かれているアルバム。
それは自分から浮かんで開き、中身を見せつけてきた。
ユピテルが強く、賢くなっていく過程が開かれ、頭の中に浮かび上がってくる。
ユピテルは強くなる事を望んでいた。賢くなる事を望んでいた。学習も訓練も、無理も無茶もない範囲でやっていた。そして実際に強く、賢くなった。
だから自分はユピテルの意志を尊重し、強く、賢くなったユピテルを誉めた。もっと強くなれる、賢くなれると期待した。ユピテルも無茶の無い範囲で、答えてくれた。続けてくれた。
だけど、全部嘘だった。
ユピテルは最初から強くなる事なんて、賢くなる事なんて望んでいなかった。
ただ、親である自分の言う事を聞いてくれているだけだった。
自身の意志や想い、願いを全て押さえこみ、ユピテルは強く賢くなるという母からの命令をこなしていたのだ。
わたしはユピテルの意志を尊重してなんていなかった。本当はユピテルの事をわかったつもりでいただけで、何も理解していなかった。
「全部……思い……違い……?」
アスナは顔を上げられない。影の落ちる床にユピテルとの日々が、ユピテルの笑顔が映し出されているように見える。
あの時の笑顔も、自分を喜ばせたいという一心によるもので、ユピテルの意志そのものはなかった。ユピテルの思いをくみ取れてなどいなかった。そしてユピテルはどれほど自分の意志や想いや願いを抑え込んででも、強く、賢くなる事を、自分の期待に応える事を続けた。
結果、ウイルスに感染して、死にそうになっている。
「あの子が……わたしのせいで……わたしのせいで……あの子が……?」
「シノンー!」
か細く呟いたその時、広場の方から多数の声がした。シノン達の時のように、転移門広場の入り口から走ってくる複数の人影が見え、すぐさまはっきりとした姿となった。やってきたのはリズベット、シリカ、リーファ、アルゴ、フィリア、ストレア、プレミア、レイン、ユウキ、カイムといういつものメンバー。
アメリカから帰ってきたら沢山土産話をしてやり、現実では土産をいっぱいあげようと思っていた者達。それらは一斉にアスナ達の近くへやって来た。誰もがかなり焦っているような様子だった。
「皆……」
「アスナ、帰ってきたのね。どうしたっていうのよ」
最初に声をかけてきたのはリズベットで、続けて全員がアスナに向けて「おかえり」「おかえりなさい」と声をかけてきた。しかし、どうして皆がここに集まったというのだろう。誰かがここに皆を呼んだのだろうか。そう思っていると、シノンが応答した。
「皆、揃ったわね。急に呼んでごめん」
「シノンさん、一体何があったんですか」
リーファの問いかけに答えたのはシノンではなく、プレミアだった。そこに勿論、アスナは聞き耳を立てていた。
「ユピテルがいなくなりました。今ユピテルはウイルスに感染しており、危険な状態です。わたしが見ていたのですけれども、転移結晶を取り出して、使用してしまいました」
「ユピテルがウイルスに!? どうしてそんな事に!?」
大きな声を出して驚くユウキ、それに続く一同を宥めるようにキリトが掌を向ける。
「詳しい話は後だ。ユピテルはアスナのストレージの中にある転移結晶を使ってどこかに飛んだ。皆にはユピテルを探してほしい。今のユピテルは危ない状態なんだ」
《SA:O》に限った事ではないけれども、VRMMORPGには基本的に、プレイヤーの位置を確認するシステムが導入されている。それを見ればどのプレイヤーがどこにいるのかなどがわかるのだが、表示されるものはフィールド名や街の名前くらいで、具体的な位置などは表示されないようになっている。
話を聞いたアスナは咄嗟にウインドウを開き、フレンドリストを展開。最上部に並べられているユピテルの名前をクリックした。位置を示すウインドウに、《リューストリア大草原》とだけ書かれているのが見えた。
「ユピテル、今リューストリア大草原にいる……けど……どこに?」
リューストリア大草原と言っても多数のエリアがあるため、これだけではユピテルの位置などまるでわかりはしない。今すぐにでもそこに向かいたいのに、向かう事が出来ないのがひどくもどかしい。
そこでユイが説明するように言った。
「わたし達《MHHP》、《MHCP》に搭載されている《アニマボックス》は、互いの場所を示す信号を放っています。《アニマボックス》信号を辿れば、おにいさんの正確な位置を割り出せるのですが……」
「今のユピテルの《アニマボックス》信号はすごく微弱で……《アークタリアム城》の辺りってくらいしかわからないの。だからお願い、みんなで探して! イリスもこれから来るって話だから!」
ストレアが頼み込むように言うと、皆は少し困惑した様子を見せたが、すぐさま「やろう」「早く見つけなきゃ」と言い始めた。ユピテルの捜索に意を決した皆。
アスナはその誰よりも先にフィールドへ飛び出したいところだったが、不思議な事にそれをやろうという気は起こさず、次の指示を待った。
直後、キリトが命令をするように言った。
「全員ばらばらに動いて探してくれ。俺とリランは空から探す」
「わたしも捜索に出ます。《アニマボックス》信号は近付けばある程度わかりますから、皆さんに教えます。それにおにいさんからは黒い重液が流れてますから、ある程度痕跡となります」
普段街から出る事の無いユイさえも出かけようという意思を見せつけている、ここまでの異例の事態。それを引き起こしてしまったのが自分である。アスナは未だに信じられなかったが、それでもやりたい事はあった。
とにかく、ユピテルに会いたい。
とにかく、ユピテルと話をしたい。
とにかく、ユピテルから本当の事を聞き出したい。
今にもその思いに突き動かされそうなアスナを横目に、キリトが言い放った。
「それじゃあ皆、行くぞ!」
キリトの掛け声に全員で頷き、全員揃って転移門へ向かい、リューストリア大草原へ転移した。
□□□
転移の青い光が収まると、そこは夜の帳の落ちた《はじまりの街》から、闇に閉ざされた草原の最奥部、高い丘の上に位置する、廃墟と化した古城のすぐ前となっていた。
既に一度見ている、ぼろぼろになった巨大な城門と、それを守るようにうろつくコボルド兵達。夜になっているせいか、城門の様子はかなり不気味じみており、まるで異界へ続く門のようにも見える。
この前来た時は昼であったため、沢山のコボルド兵達に歓迎されたものだが、今城門を守っているコボルド兵達の姿は少ないように思える。恐らく昼と夜で警備している数が異なるように設定されているのだろう。ユピテルの捜索に全力を注ぎたい今は、コボルド兵達の数の減り方は少し嬉しく思えるものだった。
アスナ達が近付くなり、侵入者の来訪を察知したコボルド兵達が襲い掛かってきたが、ユピテルの捜索という目的のあるアスナ達は一斉攻撃を仕掛けてこれを返り討ちにしていき、すぐさま《アークタリアム城》の前へと辿り着いた。
そこで一同は、キリトの言っていたようにばらばらに散って捜索を開始した。リランは狼竜形態となってキリトを乗せ、空へ舞い上がって探索を開始し、リズベット、シリカ、ストレア、ユウキ、カイムの五人は《アークタリアム城》の周囲を、リーファ、フィリア、シノン、レイン、ユイ、プレミアの六人は城内の一階と二階の探索に当たる事になった。
アスナはこのうち城内の探索に当たったが、他の者達と一緒にならず、一人で探す事にした。
いつもならばこんな夜の廃墟など一人で行こうとなんて思わず、他のメンバーと組むところだ。けれど、もしここにユピテルがいるならば、最速の行動を取れるようにしたい。そのためには一人で探索に当たるのが最善だ。そう考えて、アスナは不気味な夜の廃墟の探索を開始したのだ。
《アークタリアム城》はこのリューストリア大草原のラストダンジョンであり、エリアボスの居城だ。そのため、かなり大きな建物として作られており、ちょっとやさっとの時間じゃ探索は終わらない。
そして夜になっているためか、ただでさえ不気味だった雰囲気に拍車がかかっていて、如何にもお化けなどが出てきそうな感じだ。しかし、今のアスナにそんな気はなかった。ユピテルを探すという目標しか頭に浮かび上がってこず、それ以外の事を考えられない。
ユピテル、どこにいるの。
ユピテル、どこなの。
いるなら返事をして。
そう思いながら、時に大きな声を出しながら、アスナはモンスターの徘徊する《アークタリアム城》の中を進み続けていた。探索開始から二十分くらいたった頃、一階にユピテルの姿がない事がわかると、アスナは階段のある部屋を目指して進んだ。
《アークタリアム城》の二階は最奥部がエリアボスのいる部屋となっている場所であり、このリューストリア大草原そのものの最深部に当たる。《アークタリアム城》から《アニマボックス》信号があるとユイとストレアが言っていたから、《アークタリアム城》にユピテルがいる事だけは確かだ。その《アークタリアム城》の一階で見つからなかったのであれば、二階にいるとしか考えられない。
《アークタリアム城》の二階は強力なモンスター達が出現する場所でもある。いくら強くなったとはいえ、ユピテルが行くには早すぎるし、第一今のユピテルには戦う力もないし、ウイルスの侵喰を受けてもいる。今のユピテルにとってこの場所はこれ以上ないくらいに危険だ。
お願い、どうか早く見つかって。奥歯を無意識で噛み締めながら、アスナは《アークタリアム城》の二階へ向かった。
二階へ辿り着いて早々、アスナは広がっていた光景に言葉を失った。《アークタリアム城》を守っている衛兵ともいえるモンスター達――主にコボルド兵――が、群れを成して倒れているのだ。
何事か――そう思って近付いてみてみると、それはいくら《SA:O》でも凄惨としか言えないものだというのがわかった。倒れているモンスター達は、その全てが身体を欠損させているのだ。
あるものは首から上をなくし、あるものは腹から下をなくし、あるものは両腕両足を失っている。しかも奇妙な事に、それらはすべて何かに
この《アークタリアム城》にはまだ見ぬボスモンスターがいて、この者達を喰らったのだろうか。もしそうだとしても、このモンスター達はこんなふうにはなっていないはず。《HPバー》が無くなれば消えるのがこの世界の設定だから、死体が消えずに残っているなどおかしい。
間違いなく、この城に異変が起こっている。モンスターの死骸が大量に横たわる阿鼻叫喚な光景の中で冷静に分析していたその時だ。
《……す……けて》
アスナはハッとして立ち止まり、周囲を見回した。頭の中に、《声》が響いてきた。一瞬リランの送ってきた《声》ではないかとも思ったが、即座にリランの声色ではない事に気付く。
前にもこんな事があった。偶然通りかかった森の中、突然頭の中に《声》がしてきたのだ。その声に導かれるようにして行ってみたところ、そこで見つけたのが――
「ユピテルッ!?」
当時は一回目では位置が割り出せなかったが、アスナは今、発生源がどこなのかを掴む事が出来た。《声》は《アークタリアム城》の最奥部、玉座の間の方から来ている。《声》は確かに自分を呼んでいる。
そして、この《声》を出せる存在は一つしかいない。
アスナは地面を蹴り、一気に走った。途中でモンスターの死骸に
道中のモンスターは全て齧られた死体になっており、戦闘にはならなかった。そうしたすべてがアスナの助けとなり、アスナは瞬く間に玉座の間の真ん前に辿り着けた。
この城の主であるエリアボスの座する最奥部。普通ならばここから先へ進めばレイドボス戦となる。それがあるというのをわからせるためなのか、前の部屋の時点で、次の部屋にただならない存在がいるという気配が流れ込んでくるのだが、アスナはそれを感じていない。まるでエリアボスが存在していないかのようだ。
あのエリアボスでさえも、道中のモンスター達のように、非常に貪食なボスモンスターの餌食となってしまったのだろうか。いずれにしても良い予感はしない。
《たすけて》
立ち止まるアスナの頭の中に、再度《声》が響いてきた。発生源がこの先であると明確にわかるものだった。その声色もはっきりとしている。《声》の発生源は、自分の追い求めているものはこの先にいる。
間違いなく、この先にいる。
アスナはそれだけを胸に、玉座の間の扉を開いた。開かれた扉の先に広がっていたのは、天井が開けて夜空が見える廃墟の一室。とても広大な、四角形の闘技場にも思える場所。かつてエリアボスとの戦いが行われた戦場。その中央に、ボスではない小さな人影がぽつんとあった。
夜の闇のせいでよく見えず、アスナは部屋に入ってその姿を確かめる。所謂ぺたん座りで部屋の中央に居たのは、自宅のベッドとテーブルに残っていた青の蠢く黒色に髪の毛を染め上げ、肌のあちこちを同じ黒に包み込ませている、小柄な少年。
それは紛れもなく、自分達の探していた――。
「ユピテルッ!!!」
我が子の名を呼び、アスナは一目散に駆けだした。床にぺたんと座ったままのユピテルは動かない。いつもならば名前を呼ばれればすぐに反応するというのに。この時点でアスナは胸が痛かった。
「ユピテル、ユピテルぅッ!!」
そうしてユピテルの近くへ辿り着いたその時、アスナは絶句した。
ユピテルはウイルスに感染してひどい状態であると聞いていたが、今のユピテルは口、耳、目、鼻といった、顔のありとあらゆるところから黒い重液をだらだらと流している。重液はユピテルを中心に広がって行っており、いつの間にか自分の足元にまで及んできていた。
ユピテルの様子はアスナの予想を遥かに超えている。これがどれだけの苦しみをユピテルに与えているのか、想像もできない。
そしてその原因を作ってしまったのが、母親である自分自身。それが何よりアスナは信じられなかった。
いつもは気軽に言葉を掛けられるユピテルにかける言葉を、アスナは見つける事が出来ない。だらだらと重液を流す我が子を見ている事しか、アスナにはできなかった。
「ユピ……テル……」
その時、ユピテルが顔をゆっくりと上げて、その目を開いた。いつもは海のように美しいその瞳は今、深海の底のように黒く染め上げられていた。思わずか細く悲鳴を漏らしたそこで、ユピテルは口を動かす。
「か……あ……さ……ん……?」
「ユピテ……ル……」
アスナは絞り出したような声を出すだけで、それ以上の事は出来ない。やはり言葉が見えてこないのだ。今ユピテルに何を言ったらいいのか、思いつかない。ユピテルの口が再度動いた。
「かあさ……ん……」
「え……?」
アスナは思わず息を呑んだ。ユピテルの表情がスローモーションに近しい速度で変わっていき、口角が上がり、やがて笑みを作った。黒い重液を垂れ流しながらの、歪な笑みだった。
「大丈夫だよ、かあさん。ぼくは、大丈夫だよ……」
「……?」
「ぼくは強くなるんだ。ぼくは賢くなるんだ。ぼくは出来損ないじゃなくなるんだ。だいじょうぶだよ、だいじょうぶだよ」
笑みを浮かべたまま、ユピテルは言葉を紡ぎ続ける。いよいよ何を言ったらいいのかわからなくなったその時、再度頭の中に響く《声》があった。
《かあさん》
「かあさん、ぼくはだいじょうぶだよ、だいじょうぶだよ、ぼくはできそこないじゃないよ、ぼくはつよくなるんだよ、ぼくはかしこくなるんだよ、ぼくはできそこないじゃない、だからだいじょうぶ、だからだいじょうぶ、だからだいじょうぶ、だいじょうぶだいじょうぶだいじょうぶだいじょうぶだいじょうぶだいじょうぶだいじょうぶだいじょうぶだいじょうぶだいじょうぶ」
異常に言葉を重液と一緒に吐き出すユピテル。アスナはついていけない。
何を言っているの。
何を伝えようとしているの。
あなたはどうなってしまっているの。
あまりの我が子の様子に、思わずアスナが口を覆った次の瞬間、
《……み……しい……よ》
《声》と一緒に、ユピテルの身体が