それはさておき、何やら異変が。
どうなるアイングラウンド編第二章第十話。
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ユピテルの学習開始から丁度一週間。母から迫られているものの提出期限が近付いている最中であるにも関わらず、明日奈の心は踊っていた。
もちろんその理由はユピテルによるものだった。ユピテルは一週間前から学習や情報の取り込みを開始したのだが、そこからのユピテルの成長度合いは目覚ましいと言うしかないものだった。
明日奈がちょっと目を離している間にも、ユピテルはぐんぐんと知識や情報を取り込んでいき、学習や勉強を始めた頃とは比べ物にならないくらいになっていた。ユピテルは明日奈が顔を見せる度にその事を教えてきて、明日奈を喜ばせてくれ、尚且つ自身が嬉しい事も教えてくれた。
結果を見る都度、明日奈は嬉しくてたまらなくなった。
母やレクトの者達が出来損ないの人間モドキと罵ったユピテルは既にそんなものではなくなりつつある。
母からの書類の提出期限までに成長しきったユピテルを見せれば、母も考えを改めるに違いない。自分を批判する事もなくなれば、ユピテルをしっかりと認める事だろう。
しかもこのユピテルの成長は、自分だけのものではなく、ユピテル自身が望んだもの。無理矢理学習や勉強を強いた母や父のやり方ではない。自分とユピテルの双方の合意があったからこそ出来ているもの、母や父ができなかった事の実現だ。
これを見れば母だって、レクトだって認めざるを得ないはずだ。ユピテルは出来損ないなんかじゃないと。
そんな明日奈の背中を押す出来事もあった。
最近ロボット産業の方で大きな進展があり、各国のロボット産業企業の発表会イベントがアメリカの方で行われるというのを、父が話してきた。更に、このイベントにレクトも出席するという事となっているようで、父は明日奈に、このイベントに参加しないかと持ちかけてきた。
このイベントには各国のロボット研究家、ロボット産業企業が集まっており、最新鋭のロボットを見る事が出来る。その中で高性能なロボットを、それを作ったメーカーを見つける事が出来れば、交渉次第でユピテルの身体を用意出来るかもしれない。
ユピテルを現実世界へ来させる事が出来るかもしれない。父は嬉しそうにそう言った。
その話を聞いた途端、明日奈は心がこれ以上ないくらいに弾んだ。
ユピテルを搭載させられるロボットが開発されたら、ユピテルを現実世界へ連れてきて、皆に紹介する事が出来る。そのときのユピテルがこれまでだったら駄目だったかもしれないが、成長しきったユピテルならば、世間を驚かせる大ニュースとなるだろう。
明日奈は父の話を承諾し、二日ほど欠席する事を学校に報告。早速アメリカへ向かう準備を開始した。
どうかユピテルを乗せられるロボットがありますように。
そしてアメリカへ出発する前日の夜。明日奈は《SA:O》の自宅へ赴き、話をしていた。
話を聞いているのは《SAO》の時からの付き合いである男友達のキリト、その妻であり、自身の親友であるシノン、何故か付き添いと言う形で来ているプレミアの三人だった。
この三人を自宅の一階、リビングに集め、話をしているところだった。
「はぁー、そんなイベントがあるのか。俺も行きたいところだけど、今の財力じゃアメリカは無理だな」
話に最初に食いついたのもキリトだった。自他共に認めるITオタクであるキリトは、アスナからロボットの話を聞くなり、その目をきらきらと輝かせた。が、開催地がアメリカであると言うのを聞いてがっくりと肩を落とした。対するシノンは来たときのままの様子で話を聞いているだけだった。プレミアに至っては双方の反応を伺うようにしている。
「そうそう。このイベントで高性能ロボットが出てきたら、ユピテルを搭載できると思うの。ユピテルだけじゃない、リランやユイちゃんに現実の身体を与えてあげられると思うの」
「それは興味深いけれども……その間はどうするのよ。学校やユピテルは?」
アスナはすかさず学校の事を言い、ユピテルの事を持ち出した。
「それなんだけど……ユピテルはリラン達に任せるつもり。そのなかにキリト君とシノのんも加わって欲しいの。それをお願いしたかったのよ」
「俺達がユピテルを? 今度は俺達の番なのか」
キリトの反応はアスナも予想できていた。キリトは《SAO》の頃、リランとユイをアスナに預ける事がかなりあった。これまでは自分に任せていたのだから、自分から任される事になっても不思議ではないと、キリトは思っていたようだ。
「なんでリラン達だけじゃないの。別にリラン達だけで十分でしょう」
「ユピテルはキリト君とシノのんにも懐いてるし、何よりあの子、強くなったり賢くなったりしたら、リラン達よりもわたしや他の皆に話したがるみたいなの」
「要するに、俺達にユピテルの経過観察をしてほしいと」
ユピテルは人に話す事でより深く学習をするようになっている。これはリラン達AI相手じゃダメらしく、ちゃんとした人間でなければならない。人によっては面倒臭さを感じるような仕様。リラン達では難しい部分だからこそ、この二人に頼もうと思ったのだ。
事情を理解したシノンが腕組をする。
「そういう事なら別にいいけど……ねぇアスナ、あの子ってなんであんなふうになったわけ?」
「え?」
「あの子、前まであんなふうじゃなかったじゃない。なんであの子は急に強くなったり、賢くなろうとしたりしたの」
そんなのはわかりきっている事だ。ユピテルは誰かに言われて強くなるのではなく、自分から強くなる事が大事だと理解し、それを実行に移した。かつて《ALO》で進化する事を求めたリランと同じだ。
「あの子は強くなるべき、賢くなるべきって自分で理解したの。あれは全部自分からやり始めた事。ユピテルの意思そのものなんだよ。そもそも《MHHP》は、自分が壊れていたら自分で直そうとする機能があるじゃない」
「確かに、最近のユピテルの強くなり方、賢くなり方は相当なものだよな。あれも《MHHP》の本能なのかもしれない」
「そうだよ。ユピテルは《MHHP》の本能で強くなろうとしてる。賢くなろうとしてるんだよ。壊れちゃってる自分を直すために」
ユピテルは本能に突き動かされて今の言動に至っている。誰かに強制されてやっているわけではないのだ。思っている事を喋ると、シノンが問うてきた。
「それでアスナ、この事はユピテルに話したわけ? あんたがしばらくいなくなるっていうのは、ユピテルが一番知っておくべき事じゃないかしら」
勿論この事がわかったときには、真っ先にユピテルに連絡しようと思った。
だが、その時ユピテルはネットワークの世界で学習をしている最中であり、連絡をしようにもできなかった。だが本人曰く帰還ポイントを寝室に設定しているから、ここで待っていればユピテルに会える。その前にこの二人に話しておこうと思ったのだ。
「ユピテルにはこれから話すよ。もうすぐユピテルが戻ってくる時間だし。今日はどんな事を学んできたのかなぁ」
帰ってくる度に様々な知識を身に着けてきた事を自慢げに言うのがユピテルだ。アスナにとってはそれこそが一番の楽しみであり、学校でも自宅でも、常に楽しみにしている事でもある。今日もさぞかし沢山の知識と情報を得て、進化してきたに違いない。今からそこへ向かうところだが、その時の事が楽しみで仕方がなかった。
「けれど、君に会えなくなって、ユピテルは大丈夫なのか。あの子は君がいないと寂しがるんじゃ」
「ちょっと前まではそうだったけれど、今はなんともないんだよ。寧ろわたしが居ない方が集中できるみたい」
「確かに、最近のユピテルはあんたのところに進んでいく事もないしね」
そう言って複雑そうな顔をしているのがシノンだった。キリトとリランと過ごしているシノンも、なんだかんだ言ってユピテルと接している回数が多い。
そして自分と話をしたり、お茶をしたりする事も多いから、ユピテルの変化にもそれなりに敏感なのだろう。だからこそ、アスナはシノンとキリトにユピテルの世話を頼んだようなものだ。
「そういう事なら、別にいいよ。そのアメリカ旅行はどのくらいかかりそうなんだ」
キリトに問われたアスナは、咄嗟に予定表を思い出す。父の話によると、明日の飛行機に乗ってアメリカへ渡れば、当日のイベントに間に合うのだという。帰ってくるのにも一日近くかかるから、およそ二日ほどの旅行となるだろう。その事を話すと、キリトもシノンもうんうんと頷いた。
「二日か。それくらいならどうって事なさそうだ。というか、場所がアメリカだからそのくらいかかるんだな」
「東京ビッグサイトでやってくれればすぐなんだけれど、そういうわけにもいかないみたい」
「ビッグサイトじゃ収まりきらないくらいのイベントなんだろ。帰ってきたら是非とも土産話をお願いします」
急に
頭の片隅で予定を組み立てながら考えようとしたその時、それまで黙っていたプレミアが声をかけてきた。
「あの、アスナ」
「なぁに、プレミアちゃん」
「アスナは随分とユピテルを気にかけているような気がします。アスナは何故そこまでユピテルを気にかけるのでしょうか」
そういえば、プレミアはユピテルと一緒に過ごしてはいるもの、アスナとユピテルの関係を話してはいなかった。リランやユイのように姉弟関係でもないアスナがユピテルの事ばかり話すのは気がかりと言ったものだろう。アスナは説明するように言った。
「プレミアちゃんにはまだ話してなかったね。わたしとユピテルは親子なの」
「親子? ユピテルはアスナの子供だったのですか」
「そうだよ。だからユピテルはわたしの事をかあさんって呼ぶんだよ」
プレミアは首を傾げる。理解できない部分があるとでも言いたそうだ。
「親子は血が繋がっている必要があると聞きました。ユピテルとアスナは血が繋がっていたのですか」
そう言われてアスナは胸がちくりとしたのを感じた。自分とユピテルは血が繋がっているわけではないし、まだ身体を持っているわけでもない。プレミアの指摘は母の指摘を思い起こさせるものだった。
ユピテルは人間モドキなのだという、忌まわしき言葉。
それを表情に出さないようにすると、アスナよりも先にキリトが言った。
「そうじゃないけれど、ユピテルはアスナの子供なんだよ。血が繋がってなくても親子。これを養子っていうんだけど、わかるかな」
「養子……そういうものもあるのですね」
「そうそう。ちなみにユイも俺とシノンの養子だから、ユイは俺をパパ、シノンをママって呼ぶんだよ」
「そうだったのですか。勉強になりました」
そう言って納得したような顔をするプレミア。様子はどこか学習を進めるユピテルを思い起こさせるものだ。プレミアも出会った時からかなり変化しており、表情や感情も豊かになってきている。プレミアとユピテルは似たような存在と言えるだろう。だが、成長速度はユピテルの方が上だ。それは間違いない。
そう思っていたその時、シノンが
「ねぇアスナ、ユピテルの事は本当に大丈夫なの。もうちょっとよく見てやった方がいいんじゃない」
「え、なんで?」
「ユピテル、勝てもしない相手に戦いを挑んだりしてたのよ。それなのになんか、反省してる気配がないっていうか」
シノンの話はアスナも既に聞いている。ユピテルがキリト達のパーティに同行した時、そのパーティを黒猫のようなモンスターが襲った。突然の急襲という事もあってか、キリト達のパーティは苦戦を強いられた。
その中でユピテルは果敢に挑んだらしいが、結局戦闘不能になって終わってしまったという。それでもモンスターの撃退には成功しているし、ユピテルの行動も勇気を出して未知のモンスターに挑んだという証拠だ。
結果がどうであれ、ユピテルは未知のモンスターも恐れずに立ち向かえるにようになったのだ。自分から。
「まぁちょっと無謀なところもあったかもしれないね。けれど、この世界はデスゲームじゃないから、
「それも全部あの子自らが思っての事?」
「うん。全部ユピテルが自分で思ってやってる事だから、わたしは口を出さないつもりだよ。それに、そういうのも無理してやってるわけじゃないみたいだから。ユピテルの学習の一環だよ」
シノンは「ふぅん」と言って言葉を止めた。どこか納得できないような表情を浮かべているけれども、それはユピテルの意志が上手く理解できていないからだろう。ユピテルの意志を理解しているのは、結局母親である自分だけなのだ。
胸の中で自信を感じながらウインドウを開いたその時、アスナは気付いた。ログインメンバーの中にユピテルの名前がある。ネットワークの世界から戻ってきたようだ。場所はこの家の二階となっている。確認するなり、ウインドウを閉じて、アスナは三人に言った。
「ユピテルが戻ってきたみたい。三人とも、呼んでおいて悪いんだけど……」
「これでお開きにしてくれって事だろ。いいよ、俺達もそろそろ帰ろうかと思ってた頃だしさ。それと、君のいない間のユピテルの事は、俺達に任せてくれ」
そう言うキリトにはかなり頼もしさが感じられた。
キリト曰く、自分よりも一歳年下なのだそうだが、その様子は自分より年上の青年を思わせる。やはりSAOの時に血盟騎士団の団長を務めた事、リランを駆る《ビーストテイマー》である事、ユイの父親であるという事がかなり影響しているようだ。
キリトにならばユピテルを任せても大丈夫だ。改めてそう思い、アスナは三人を見送った。
三人が出ていき、家の中がいつもどおりになると、アスナは早速廊下に出て、階段を上がった。一段一段上がっていく
やがて寝室のドアの前に辿り着くと、アスナは二回程ノックをし、寝室へ入り込んだ。
一階のリビングと同じ照明に照らされた、石と木で構成された内装。壁際にベッドがあり、そのすぐ近くには簡単なテーブルが設置されている。
テーブルとセットとなっている椅子に座っているのは、白銀色の髪の毛を自分のそれによく似た髪型にした、白いパーカーと半ズボンが特徴的な小柄な少年。血が繋がっているわけではないけれども、我が子であるユピテルだ。
ユピテルはアスナが部屋の中に入ってきても振り向かなかった。じっとテーブルに向かい、開かれたウインドウとホロキーボードを操作する事に夢中になっている。きっと学習している内容をアウトプットしているに違いない。優等生が勉強に励んでいる様子だ。
一瞬、ユピテルの邪魔をするべきではないとアスナは思ったが、やはり話をしないわけにはいかない。
「ユピテル」
一瞬ハッとしたような反応を示してから、ユピテルは振り返り、
「あぁ、かあさん。ただいま」
と言った。その顔は勿論笑顔であり、ネットワークの世界で様々な事を学習できた事の証明だった。アスナは「おかえり」と返事をし、その傍へ寄っていく。ユピテルは身体ごとアスナに向き直り、口を開こうとしたが、先にアスナは言った。
「ユピテル、今日もお疲れ様。良い情報とか手に入った? 学習とか、出来た?」
「勿論だよ。色々な情報がいっぱい手に入ったし、沢山のものを見つけられたんだ」
そう言うユピテルの手元に出現しているウインドウの中を、アスナはこっそり覗き込んでみる。表示されているのは見た事のない形式の数式。その複雑さから考えるに、専門学校や有名大学などでしか学ぶ事のできなさそうなものだろう。
「ユピテル、それって……」
「アメリカの有名大学で教わる数式。今日はこういうのを沢山集めてきたんだ。今から解くつもり」
今自分の通っている学校でもこんな数式が出てくる事は一切ない。浩一郎が通った高校や大学ならば考えられるかもしれないが、少なくとも自分が習って解く事の無い数式だ。それをユピテルが解こうとしているというのには、アスナも驚くしかなかった。
「すごい……ユピテル、ここまで出来るようになったの!?」
「そうだよ。全部ネットワークの世界で手に入れたものだけれど。あぁそうそう、リズ姉ちゃんやリーファ姉ちゃん達が前に解けないって言ってた問題もやってみたけれど、十分くらいで全部解けたよ」
この前、アスナ達の通っている学校でそれなりに難しい問題が宿題として出されてきた。アスナはそうでもなかったけれども、他の皆はその問題に頭を抱えて、うんうんと唸りながら解いたものだ。あれさえも解けてしまったなどというのには、やはりアスナは驚いてしまう。
ユピテルはもう、アメリカの有名大学生レベルにまで成長している。最早自分の勉強や学習を超越しているのだ。驚きと感動を覚えたアスナは、ユピテルの両肩に手を乗せる。
「ユピテル……本当にすごいよ、あなたは……! こんなに成長して、学習して……!」
「すごい? ぼくってすごい?」
「すごいに決まってるじゃない! だって今あなたがやってる問題、わたしでも解けないようなものだし、この前の問題だって皆でやっと解いたものだったんだよ。それを全部やってしまえてるんだから、すごいよ!」
興奮を隠せずに言うと、ユピテルの頬に赤みがかかり、口角が上がった。聞きなれた「えへへ」という声が漏れる。嬉しさを感じている時のユピテルの癖だ。
ユピテルは想像以上に強く、賢くなっていっている。
このままいけば、ロボットに搭載される頃にはリランやユイさえも超えるほどの知能を持ち合わせたAIとなるだろう。そう感じたところでようやく、アスナはここに来た目的を思い出した。
「それでねユピテル。ちょっと話があるんだけれど……」
「うん?」
「わたし、明日から二日くらい、あなたに会えなくなるの。というか、ここに来れなくなるのよ」
「なんで?」
アスナは父から聞いた話と、先程一階でキリトとシノンと交わした話を出来るだけわかりやすく、ユピテルに話した。ロボットという単語が出た時点でユピテルは大きな反応を示し、話が終わる頃にはかなり興奮した様子になっていた。
「ぼくに身体を? ロボットの身体を?」
「そうだよ。そのイベントに行ってくるんだけど、もしかしたらそこにあなたを搭載できるロボットがあるかもしれない。もしそんなのがあったら、そのメーカーに頼んで、あなたの身体を作ってもらおうって考えてるの。そしたらあなたは、
SAOの頃からずっと夢見ていた、ユピテルを現実世界へ連れて行くという事。なかなか叶わない願いだろうとは思っていたけれども、時代は徐々に追いついてきている。ユピテルが現実世界での身体を手に入れ、自分達と同じように暮らす事が出来るようになるかもしれない。その時の想像はアスナの中で止まらず、ユピテルにも移っていった。徐々にユピテルの口角が上がっていき、海のように青い目が明確な光を帯びる。
「すごい! ぼくもかあさんのいる現実に行けるんだ!」
「そうだよ! だからねユピテル。その時までにもっと強く、賢くなろうね。そうすればきっと皆、あなたを見て驚くと思うし、感動すると思う」
今でも十分にすごいかもしれないけれども、ユピテルはまだまだ強く、賢くなれるだろう。そうなればロボットに搭載して現実世界へ行った時、誰もが認めざるを得ない超高性能AIとして、注目されるに違いない。その時の事を同じく想像したのか、ユピテルは大きく頷いた。
「わかった! ぼくもっと強くなるね。もっともっと賢くなって……現実世界に行くね!」
「うんうん! わたし、もっと強くて賢くなったあなたを見てみたいの。だから――」
言いかけたところで、アスナは気付いた。
ユピテルの目が少し妙だ。
ユピテルの目は海のように美しい青色であるのだが、今のユピテルの目は海でいう中深層くらいの色合いになっているような気がする。いつもの澄んだ青色ではないような気がしてならない。部屋の照明が少し暗めなせいなのか。そもそも夜に差し掛かっているからなのだろうか。
「それでかあさん、いないのは二日なんだよね。かあさんがいない間は、ねえさんやキリト兄ちゃん達のところにいればいいんだよね」
呼びかけられた事でアスナは我に返り、意識をこの場に戻した。今はそんな細かい事に気にしている場合ではなく、ユピテルにこれからを話す時だ。すかさずその問いかけに答える。
「あ、うん、そうそう。わたしがいない間はリランやキリト君達がここに来るの。だから、大丈夫だよ」
「わかった。かあさん、ぼくもっと強くて、賢くなるから、楽しみにしててね。それで、アメリカのイベントの事、たくさん教えてね!」
そう言って笑むユピテルの様子は、純粋無垢な子供のものだった。しかし、ユピテルの知能は既に子供の領域などとうに超えており、有名大学の学生や学者の何ら変わりがないだろう。
ここまでの存在を、誰が出来損ないの人間モドキなどと罵れるのだろう。いや、誰も罵れない。誰もユピテルを罵る事は出来なくなるのだ。
ユピテルはもう罵られるAIではなくなる。
それを実感しつつ、アスナは頷いた。
「ユピテルも頑張ってね。その間にわたし、ロボットについて色々聞いてくるから!」
ユピテルが再度頷いたのを見てから、アスナはふと思い出したようにウインドウを開いた。
時刻は夜の十時丁度。明日は飛行機に乗っての旅になるから、なるべく早く寝るようにしなければならない。それに、何か準備し忘れている事が無いかも、確認しておかねば。
そもそも今は、遊ぶためにログインしたわけではないのだから、用件が済んだなら早急にログアウトしなけば。
ウインドウを閉じたアスナはユピテルにもう一度振り返り、言葉を掛けた。
「それじゃあユピテル、行ってくるね」
「行ってらっしゃい、かあさん」
我が子の返事を聞いたアスナは寝室を出た。階段を下っていき、リビングに辿り着いたところで、ログアウトの処理を行った。既に、二日後に帰ってきた時のユピテルの様子が楽しみで仕方がなかった。
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母が出て行ったのを見計らい、ユピテルは椅子に座り直した。
ロボットのイベントの事は既にニュースサイトで掴んでいた。世界中の国々からロボット企業が集まり、それぞれの発明品の発表を行うというものだ。七色博士/セブンも、そのイベントに出席する事を決めていると、自身のSNSで声明していたのも見つけた。
そこで驚くべき性能を持ったロボットが登場してくるというのは目に見えているし、そこに自分達を入れられる身体があるかもしれないという母の言葉は真実性を帯びていた。
そして母の言っている事が本当だった場合。姉や妹達ならば、そのロボットが出来次第、すぐにでも搭載されて現実世界へ行く事が出来るだろう。
けれど、ぼくはまだそこまで行けていない。かあさんがあぁ言っている以上、まだぼくの実力はねえさんやユイ達に及んでいない。少なくとも彼女達を超えるくらいにならないと、ぼくは現実世界へ行く事は出来ない。そんな許可はもらえない。
ロボットが開発されるよりも前に、そしてかあさんが返ってくるまでに、今以上にもっと強く、賢くならなければ。そうでなければ、かあさんを笑ませる事は出来ない。今ぼくがやるべき事は、強く、賢くなり、かあさんを喜ばせる事だ――。
そう思ったユピテルは前を見た。なんとなくだが、目に見えているものがぼやけているように思える。視界が奇妙に
だが、そんな事を気にしている場合じゃない。自分のやるべき事は、やるべき事は――。
《かあさんと一緒にお風呂入りたい》
どこからともなく、《声》が響いてきた。聴覚センサが聞き取ったものではない。頭の中に直接響いてきたもの。それこそ姉が狼竜となっている時のものにそっくりだ。
「なに……?」
周りを見ても自分以外に何かがいるようには見えない。確かにここにいるのは自分一人だけだ。
《かあさんと一緒に寝たい》
また《声》がして、ユピテルは頭を抱えた。《声》は頭の中に響いてきている。その声色は自分自身のものだった。声を出していないのに、何も言っていないはずなのに、《声》が頭の中に響いてやまない。
《かあさんと一緒にお風呂入りたい》
《かあさんと一緒に寝たい》
《かあさんに抱き締められたい》
《かあさんの温もりが欲しい》
《かあさんの料理が食べたい》
《声》は一向に止む気配がない。そのうるささは、ノイズキャンセルをしていない時のネットワークの世界の喧騒に近しかった。ユピテルは両手で頭を押さえつけ、何度も首を横に振った。
違う、そんなんじゃない。
そんなのはぼくの願いじゃない。
かあさんが望んでいるのは、そんなぼくじゃない。
このままじゃ駄目なんだ。このままじゃ駄目だ。
《かあさんと一緒に寝たい。かあさんと一緒に居たい。かあさんの料理が食べたい。かあさんに抱き締められたい》
《声》に逆らうようにユピテルは片手を動かし、ネットワークの世界への扉を開けた。更に《声》が続こうとすると、逃げ込むようにその中へ転がり込んだ。
――補足――
この後の展開、『メ』で始まり『ス』で終わる名前の漫画、もしくはアニメを見ておけば、ある程度耐性を付けられるかもしれない。