「ここで止めて、和人」
背後に乗る詩乃の声を受けて、和人は運転していたバイクの動きを停止させる。
和人と詩乃は和人の操るバイクに乗り、都心を抜けて高速道路をある程度走り、再び街中に入るという比較的複雑なルートを通り、目的地に到着した。
バイクで高速道路を走るというのを体験する前までは、車と違うのだから暑いのではないかと詩乃は思っていたが、進化したリランからは程遠い速度で走るバイクに吹き付けてくる風は適温の冷房のようなそれであり、全くと言っていいほど暑さを感じず、寧ろ吹き付けてくる風が気持ちよくて仕方が無かった。そのため、和人と一緒に走り、道案内をしている時には思わず「バイクってこんなに涼しいの?」と聞いてしまったくらいだ。
バイクがこんなに快適な乗り物だったなんてと感動しながら道案内を続ける事四十分程度、様々な街中を駆け抜けた和人の操るバイクは、詩乃の差す目的地の駐車場に到着したのだった。
ヘルメットを外して数回首を横に振って髪の毛を整えた詩乃がバイクから降りると、和人もそれに続く形で和人もヘルメットを外してバイクのキーを抜き、詩乃の傍に寄り添ったが、和人はそこで小さな驚きの声を出した。
二人の目の前に広がっていたのは、二人の立ち位置から少し遠くに、
以前詩乃が重要な話を聞くために、愛莉の車に乗って共に訪れた、海沿いの公園。そここそが、今の詩乃と和人のいる場所であり、詩乃の目的地だった。
運転に夢中になっていて気が付かなかったのだろう、和人は驚いている表情をしたまま、辺りを見回す。
「ここが、詩乃の来たかった場所なのか」
「そうよ。ちゃんと来れるか不安だったけど、来れてよかったわ。海が綺麗でしょう」
目の前に広がる、日光を浴びてきらきらと光る海面の様子は、まだSAOに囚われていた頃、皆で行った八十層の海岸と砂浜のそれによく似ている。波乱ではあったけれども楽しい事も確かにあった、アインクラッドでの日々。その時の事を思い出したかのように、和人は微笑んだ。
「あぁ、綺麗な海だな。アインクラッドの八十層を思い出せるいいところだよ。けど、どうしてここに?」
「ここは前に、愛莉先生と一緒に来たところなのよ。ここで愛莉先生といろんな話をして……その後一緒に散歩したの」
まだ季節が四月だった頃、詩乃は愛莉とともにこの公園を訪れて、車の中で大事な話し合いをした後に、様々なところを巡ったりしたものだが、この公園を出る前にこの中を散歩をした。その時には当然というべきか、将来的に和人と一緒に来たいと詩乃は思い、愛莉からこの公園に来る方法や行き方などを聞き出していた。
その事を教えると、和人はどこか感慨深い顔をして、目の前の海を眺めた。
「そうだったのか。だから君は俺にここを案内してくれたってわけか」
「そうよ。いつかあなたと一緒に来たいって思ってたの。もしかして、不満だった?」
「そんな事無いよ。連れて来てくれてありがとう、詩乃。君のおかげでいいところに来れたっていうのが、もうわかるんだ」
そう言って向き直り、笑んだ和人の顔を見る事で、詩乃は胸の中がとても暖かくなったのを感じた。愛莉と一緒に来た時には、自分は良いところだと思ったけれども、ここはあくまで公園でしかない。意外と刺激的なものが好きな和人の事だから、ただの公園では退屈させてしまうのではないかと思っていたが、そうはならずに済んだ事に詩乃は安堵する。
直後に、和人は上着として着ていたジャケットを脱いで、持っていたヘルメットと一緒に鍵付きのトランクの中に仕舞い込んで、手を差し伸べてきた。
「ほら、詩乃もヘルメットと上着を貸してくれ。俺も、君とここを散歩したい。頼めるか」
「勿論よ。私と一緒に散歩しましょう、和人」
「いいともさ」
彼からの返事を聞いた詩乃は、上着として着ていた長袖のジャケットを脱いで先程と同じ半袖のTシャツ姿になって、上着とヘルメットを彼に預ける。手慣れた様子で彼がトランクの中に物を仕舞い込む始終を見てから、二人でバイクの停まる駐車場を後にし、公園の中を歩き始めた。
今日は八月二十一日。御盆休みが終わった頃だから、御盆休み中と比べて人も少ないのではないかと思っていたのだが、公園の中を歩いていくと、遊具で楽しげにはしゃぎながら遊んでいる子供達とその傍に居る親と思われる人達や、ピクニックを楽しんでいる若者達、仲睦まじく歩くカップルといった、百を優に超える利用客の姿が見る事が出来た。
御盆休みが終わっているから、その期間中よりかは少なくなっているのだろうけれども、やはり子供達や若者達の夏休みが関係しているのか、人の数は結局多い。
御盆休みが終わっても尚、集まるところにはやはり人は集まるのだろうし、全国の観光地では未だに御盆休み中並みの行列などが出来ているに違いない――そんな話やなんて事無い話などをしながら、辺りにいるカップル達よりも出来る限り静かにしつつ、詩乃は和人と一緒に公園の中を散歩して回った。
そして散歩の開始から三十分くらい経った頃、二人で自動販売機で飲み物を購入し、そこから離れた位置にある、人の行き交いが少ないベンチに並んで座った。この公園自体が海の近くにあるためなのか、海から風が吹いてきて涼しさを感じられるのだけれども、八月の半ばの日光の方がそれに勝ってしまっている。
そして二人揃って長ズボンを履いているせいの加担しているのもあって、歩いているだけでもかなり暑かった。そのため、自動販売機から出てきたペットボトルの中に入っている飲み物を飲んだ時は、かなり美味しく感じられて、二人揃って一気に結構な量を飲んでしまった。
「来たのは本当に良かったけれど、やっぱり暑いな……」
「えぇ。気温もかなり高いんでしょうね、海沿いなのに」
「少なくとも都心よりかはマシなんだろうけど……詩乃が愛莉先生と来た時が一番いい時期だったのかもしれないな」
「そうね。次に来るときは夏は避ける事にしましょう」
「それがいい」
二人揃ってそんな会話をして、更にこの公園の中を歩いていた時の事を思い出したその時、詩乃は一瞬だけ不安に駆られる。
詩乃は元から人がたくさん集まっているところというのが苦手であり、和人と出会うまではそういうところは避けて歩くようにしていた。そしてそれは、自分の記憶を頭の中に内包している和人にも出てしまっており、和人も人の集まるところが苦手になっている。
その事を知った詩乃は、お守りを与える事で和人のそれを緩和させる事に成功し、和人もその効果を実感していると言ってくれていた。そして今も尚、和人の右手には自分が渡したお守りである白銀色の腕輪が嵌っているけれど、今でもお守りの効果は続いてくれているのだろうか。
気になった詩乃は、ふと和人に問うた。
「ねぇ和人。あなた、大丈夫?」
「大丈夫って、何が。暑さなら平気だし、寧ろ普段あんまり汗かかないから――」
「そうじゃなくて、あなた、人混みが苦手になったでしょう。それで、この公園には沢山の人がいるじゃない。あなた、大丈夫なの。一応お守りはしてるけど、それって……」
和人は顔から微笑みを消し、詩乃から顔を逸らした。そのまま俯いて、じっと自らの右手に嵌っている腕輪を、詩乃が与えたお守りを見つめた。和人の沈黙により、周りから人々の声が鮮明に聞こえてくるようになって、詩乃の胸の中の不安は大きさを増す。以前はこのお守りのおかげでなんとかなっていたけれども、もしかして、もうお守りは効かなくなってきてるんじゃ――詩乃がもう一度声をかけようとしたその時、和人は沈黙を破って向き直ってきた。
「……前にも言っただろ、君が与えてくれたお守りのおかげで、もうどんな事も平気だって。へっちゃらだって。以前はまぁ、人混みは苦手だったけれど、今はもう大丈夫なんだ。君が俺にお守りをくれたおかげでさ。」
「本当に?」
「あぁ。だから、もう一度言うよ。俺はもう大丈夫だ。君が俺にお守りをくれて、俺の傍に居てくれるから、どんな事でも平気なんだ。詩乃のお守りは、この先ずっと現役だよ。それにさ、詩乃……」
「え?」
そこで一旦和人の言葉は止まり、周囲をきょろきょろと見回し始める。まるで誰かに見られていないかどうかを確認するようなその仕草に詩乃が首を傾げると、和人はもう一詩乃と目を合わせた。
「ここで言うのもなんだけれど……言わせてほしい」
「なぁに? 言ってみて」
和人は詩乃から顔を逸らして、もう一度周囲を見始める。それに続く形で周囲を見回してみれば、遊具で遊んでいたり、芝生の上にシートを敷いてピクニックをしているなどといった、それぞれ様々な方法で楽しんでいる家族連れの姿。元気に遊んでいたり、休んでいたりしている子供が居て、その傍にて遊びに、休みに付き添っている父と母が居る。
「俺はずっと考えてたんだ。俺はもう詩乃の事を家族だって思ってるけど、このまま何事もなく進んで、ユイやリランやストレアに現実世界での身体を与える事が出来て、詩乃と結婚をして正式に家族になったなら、周りの人達みたいになれるのかなって。
一番上にリランが居て、次にユイが居て、次にストレアが居て、次に……ユイ達の妹でも弟でも二人くらい居て、俺が居て詩乃が居る。それで皆であんなふうに出かけたり、一緒にピクニックしたりしたら、どんなに楽しくて幸せなのかなって……ずっと、考えてた」
その内容を聞いて、詩乃は思わず声を出さずに驚き、目を見開いた。実のところ、詩乃も先程から近くで遊ぶ家族や親子を見る度に、自分達がそうなった時の事が頭の中で描写されて仕方が無かった。
和人の言うように、身体を持つ事に成功したリランが、ユイが、ストレアが居て、自分と和人の両方の特徴を持ち合わせているかのような女の子と男の子が居て、三人の姉達と仲良くはしゃぎ合っていて、親である自分達が近くに居て、時折子供達の遊びに混ざり合ったりする。
和人には言わないでいたけれども、まさか和人まで同じような事を考えているとは思ってもみなかったし、まさか同じ事を望んでいるとも思っていなかったから、詩乃は身体の中が熱くなったように感じた。
「あっ、あぁいや。これはあくまで俺の想像だよ。寧ろ、そうなったらいいなっていう願望。本当にそうなるかどうかなんて――」
「私も――」
「え?」
慌てる和人に割り込み、詩乃は胸の中にある思いを、頭の中で思い描いていた事を、静かに話し始めた。
「私も同じような事を考えていたわ。あなたがパパで、私がママで、ユイとリランとストレアがいて……その下に私と和人の特徴を持ってるような女の子と男の子が居て、その二人はユイやストレアを、リランをおねえちゃんって呼んで……皆でここに来てピクニックをしてる。……そんなのを、周りの親子連れを見る度に想像してた」
もし、自分が愛莉に出会う前、SAOに巻き込まれる前のままだったならば、きっと今でもふさぎ込んでいて、そんな未来を手にする事は出来なかっただろうし、一人で生きていくことに精いっぱいになっていた事だろう。
そして今、自分はかつての仲間達と一緒に生きて行く事が出来なくなっただろう。だが、今自分の隣には和人という人がいる。
真に自分の事を理解してくれていて、信じてくれていて、傍に居ると誓ってくれている。そしてその和人は、自分と同じ時を刻んでいて、自分と同じ未来を思い描いてくれていて、自分の痛みも、苦しみも、思い描く未来も共有し、自分を信じ、慈しみ、愛してくれている。
誰よりも愛おしくて、暖かくて、優しくて――失いたくない人。その人に、詩乃は向き直る。
「和人……私は現実にしたい。ううん、いつか現実に出来ると思うの。和人と私とで正式に家族になって、あの娘達も現実に来れて、あの娘達の妹か弟を二人くらい作って、一緒に同じ家に暮らして、一緒にピクニックに出かけたりするっていうの。あなたが一緒なら、実現できるような気がする」
けれど、この和人はいつも身の程知らずの無理ばかりして、死にそうな目に何度も遭っている。きっとこれからもそうなるに違いないし、これからも無理は続けるだろう。もうこの人しか信じられる人はいないのに、死にそうになったりして、自分の目の前から消えてしまいそうになるのも、この和人だ。
和人は自分の傍で生きていて、同じ未来を目指してくれているけれども、その未来を実現するのと同じくらいの確率で、死んでしまうかもしれないのだ。それを再認識した途端、詩乃は胸の中に再び不安と恐怖が湧いてくるのを感じ取り、周りに構わず和人の胸の中に飛び込んだ。
日光と照り返しのせいで暑かったけれども、それでも気にせずに和人の胸にしがみ付く。
「だから和人……お願い。私を置いてどこかに消えたりしないで、絶対に死んだりしないで。あなただけなの、本当に信じれるの。あなたの傍だけが、私の居場所、なの……あなたがいなくなったら、私はもうどこにも行けない。どこにも居られない。だから、お願い。私の傍に居て……私を、一人にしないで…………」
子供のように訴えながら、詩乃は和人の胸の中に顔を埋めた。暑さに混ざって和人の規則正しい鼓動の音が聞こえてくるが、心の中で泡立つ不安はなかなか消えて行かない。もうこの人の傍しか居場所がないのに、この人は死んでしまうかもしれない。自分を置いて、消えてしまうかもしれない。
そうなってしまったら、私は――そう思った瞬間、心の中に再び黒い水が湧き出てきて瞬く間に溢れ、やがて一つの形を作ろうとする。その形がはっきりとしたものになろうとしたその瞬間に、後頭部と背中に温もりを感じた事で、それは止まった。
間もなくして、耳元に声が届いて来た。
「俺は死なないよ。君を置いて死ぬなんて事は絶対にしないし、君を一人にする事もしない。それは前から何度も言ってるし、実行し続けてるだろ」
「……そうだけど、そうだけど……」
「それにさ、詩乃。そう言ってくれるのは俺も嬉しいんだけど……ちょっと間違ってるよ」
「え……」
間違っている?
何が間違っているというのだろうか。
自分は今何か間違った事を言ったのだろうか。
あまりに漠然とした彼からの指摘に詩乃は喉を軽く鳴らして、その胸元から顔を離し、その目を見つめる。
「何が、何が間違ってるの」
「……」
和人は答えない。いつもならば質問にはすぐ答えるというのに、和人はスマートフォンをいきなり取り出してモニタを見始め、全く答えようとしない。
「ねぇ和人。何なの。何が間違ってて――」
「詩乃」
突然名前を呼ばれて、詩乃は口を閉ざす。その隙を突いたかのように、和人はどこか表情を険しくして、言葉を発した。
「……夕方になったら、君に来てもらいたいところがあるんだ。そして、そこに君に見せたいものがあるんだ」
「え……」
それはどこで、何があるの?――そう聞きたくなったけれども、和人から険しい目線を向けられているためか、詩乃は何も言えなかった。和人の言葉はさらに続いた。
「これには絶対に付き合ってほしい。詩乃に、絶対に来てほしいんだ。だから頼む。一緒に、来てくれないか」
詳しい事は何も言わず、ただ来てほしいという一言だけ。いつもならば怪しむけれども、あまりに和人が真剣な表情での頼み込んでくる物だから、それを断ろうという気は詩乃の中には一切起きず、詩乃は何も言わずほぼ即座に、頷いた。
「……ありがとう。その時間までは余裕があるから、行きたいところがあったら言ってくれ」
詩乃はまた頷き、和人の瞳を見ているだけだった。