キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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12:暴かれた記憶Ⅱ

          □□□

 

 

「うわあああぁぁぁあああぁぁぁああぁぁぁあああああッ!!!」

 

 

 いきなり上の階から聞こえてきた悲鳴に、キリトは大いに驚いて、思わずに手に持っていたカップを床に落とした。

 

 声色から察して、それが二階で寝ているシノンの叫び声である事に気付くのに対して時間はかからず、キリトはログハウスの二階に続く階段へ顔を向けた。

 

 

「今の声はシノンだよな!?」

 

《シノン以外に何がいるのだ! シノンの身に何かあったに違いない、急ぐぞ!》

 

 

 キリトは頷きながら、肩にリランを乗せて階段を駆け上がった。普段はそんなに音を立てずに昇る階段だが、シノンの身に何かあったとあればそんなふうに気を使うわけにはいかないし、何よりそんな気になれない。

 

 階段を上がり切り、寝室の扉を蹴飛ばすように開けると、部屋の奥にあるベッドで叫び声を上げながら痙攣しているシノンの姿があった。キリトはびっくりしてシノンに駆け寄り、声をかけた。

 

 

「シノン、シノンどうしたんだ、シノン!?」

 

 

 キリトの呼びかけにも答えず、シノンは大声を上げつつ足をばたつかせて目元を両手で覆ったり、髪の毛を掴んで引っ張ったりを繰り返していた。これまで見た事のないシノンの動きに、キリトは混乱しながらも声をかけ続ける。

 

 

「シノン、おいシノン!」

 

 

 頭に攻撃を受けたせいで、意識に何らかの障害が発生するようになったのだろうか。いや、それはない。確かに衝撃を受けたもしれないけれど、ボスモンスターの攻撃による衝撃で、意識がおかしくなったり、発狂したりする精神障害が起きたなんて報告は未だにないし、攻撃を受けて気を失った人がそんなふうになったところだって見た事が無い。

 

 いったい何がシノンをこんな事にさせたのか、シノンは寝ていただけなのに、どうしてこんな事になったのか。ぐちゃぐちゃになりつつある頭の中に、リランの《声》が再度響いた。

 

 

《キリト、シノンを抑えつけろ! 項に我が接する事が出来るようにするのだ!》

 

「項!? なんで項なんだ!?」

 

《いいからシノンを抑えつけるのだ! それで項に我が行けるようにしろッ!》

 

 

 何がなんだかよくわからないまま、キリトはのた打ち回るシノンの身体に腕を伸ばした。ばたついているシノンの足が腕に当たり、一筋縄ではいかない事を察したキリトは素早くシノンの身体を抱き締めて固定した。そしてそのまま起き上がらせて、リランに合図する。

 

 

「リラン、これでいいのか!?」

 

《いいぞ!》

 

 

 リランはキリトからシノンへ、そしてその背後へ回り込み、シノンの項に狙いを定めて、噛み付いた。小さいとはいえ、鋭い竜の歯は、容易に少女の項へと食い込んだ。

 

 その直後にシノンの叫びも暴れも止まり、やがて動きさえも止まった。まるで糸が切れてしまった人形のように動かなくなったシノンに、キリトは恐る恐る声をかける。

 

 

「シノン……?」

 

 

 キリトの呼びかけに答えたのか、シノンはゆっくりと顔を上げた。しかしその顔はどこか虚ろに、そして疲れ切っているように感じられて、キリトは静かに息を呑んだ。

 

 そしてキリトが話しかけようとしたその次の瞬間に、シノンはその口を小さく開き、か細い声を出した。

 

 

「キ……リ……ト……?」

 

「あ、あぁそうだよ。すっごい声を上げて、しかもパニクってたから、びっくりして飛んできちゃったよ」

 

 

 キリトはシノンの身体から手を離した。現実だったら汗をびっしょりと掻いているのだろうが、その代わりと言わんばかりにシノンの顔は青ざめていた。

 

 

「シノン、大丈夫なのか。君は頭にボスモンスターの攻撃を受けてそのまま気を失ってしまっていたんだが……」

 

 

 その時にキリトは思い出した。

 

 そうだ、シノンはあの人狼との戦いの際、一人で人狼の弱点に貼り付き、まるで一人だけでボスを倒せると言わんばかりに攻撃を仕掛け続け、アスナとのスイッチも忘れてソードスキルによる隙を暴発し、人狼から攻撃を受けて、気絶したのだった。

 

 あんな警戒に命を投げ打つような行動は、このデスゲームであるソードアート・オンラインでは言語道断だ。何故あのような行動に走ったのかを問わねば。

 

 

「そうだシノン。寝起きで悪いけれど、何であんな行動をとったんだよ。あんな、一人で突撃して、一人で戦い続けて、それで重傷を負って気を失うような事になったんだぞ」

 

 

 シノンは何も言わずにただ下を向いていた。正確に言えば、キリトの腹の辺りを注視しているように見えるが、その瞳にキリトの身体は映っていなかった。

 

 これまでシノンと接してきた結果、シノンは真剣に話を聞く時はちゃんと顔を見て話すようにしているのがわかったのだが、シノンは今それをやっていない。

 

 即ちキリトの問いかけに答えるつもりはないと言う意思表示だった。だが、シノンがそんな状態でも、キリトはシノンがいい加減な態度を取っているとは思わなかった。

 

 シノンの、光で溢れている黒色の瞳から、光が全て消え去っているのだ。様子が明らかにいつもと違う事にキリトは気付き、首を傾げつつ尋ねる。

 

 

「……シノン、本当にどうしたんだ。何だか、様子がおかしいぞ。どこか具合が悪いのか」

 

「思い……出した……全部……思い出した……」

 

「え?」

 

 

 シノンはこのSAOにやって来た時から記憶が欠如していて、大切な事を思い出す事が出来ずにいた。いや、思い出す事は出来るのだが、思い出したとしてもすぐに忘れてしまう、思い出しても忘れるというのを延々と繰り返しており、結局全く記憶を取り戻せずにいた。

 

 そのシノンが思い出したと言ったという事は、文字通り戻りそうで戻らなかった記憶が、ようやくシノンの元に戻ってきたという事を意味する。

 

 

「そうか、思い出したのか。ボスモンスターに攻撃されたショックかな?」

 

「多分ね……」

 

「そうか。なら思わぬ幸運だな。ところでシノン、それって話せるのか」

 

 

 シノンの目がいきなり見開かれて、身体がびくりと動いた。そして、表情は何かを恐れているかのようなものへと変貌を遂げる。

 

 

「シノン、どうした? そんなにひどい記憶だったのか?」

 

 

 シノンは顔を思い切り下に向けて、俯いた。何も言おうとしてくれないシノンに痺れを切らしたキリトが再度声をかけようとしたその時に、シノンはまともな言葉を口にした。

 

 

「ごめんなさいキリト……まだなんだか気分が優れないの……休ませてくれない……?」

 

 

 あまりに蒼褪めているシノンの表情は、キリトに体調不良である事を伝えるには十分すぎるものだった。これまで一切見た事が無いくらいに蒼褪め、酷く虚ろな目をしているシノンと話をするのは流石に気が引けて、キリトは思わず頷いた。

 

 

「わ、わかったよシノン。無理させてごめんな。何か欲しい物とかあるか? あるなら持って来るけれど……」

 

 

 キリトに向き直る事なく、シノンは蹲ったまま首を横に振り、絞り出したような声を出した。

 

 

「……休ませて……」

 

「わかった。ゆっくり休んでくれ」

 

 

 そう言ってキリトがベッドから降りると、シノンは再びベッドに横になり、かけ布団に全身を潜らせて、そのまま動かなくなった。

 

 キリトはシノンの様子が気になって仕方が無く、このままこの部屋に居ようと思ったが、リランに《出て行くべきだ》と提案されて渋々納得。リランを連れて音を立てないように歩き、階段を下りて、1階に赴いた。

 

 時間は既に午後6時を回っており、普通ならばシノンが夕飯を作り出す時間だが、肝心なシノンが休んでしまっているため、夕食は用意されていなかった。

 

 しかしキリトは、夕食が無いだとかあるだとか、そんな事はもう気になっておらず、頭の中は既にシノンの事でいっぱいになってしまっていた。

 

 

 先程のシノンの顔は尋常ではなかった。明らかに思い出したくなかった事を思い出してしまったかのような、思い出した記憶に絶望しかなかったみたいな、そんなふうに感じられるような表情と顔色、そして目つきだった。

 

 どうしてあんな顔になってしまったのか、いや、そもそもあのシノンにあんな顔をさせる記憶とはどんなものなのか、正直なところ気になって仕方が無かったが、知識欲に反して、キリトはシノンに話しかけたいとは思わなくなっていた。

 

 知りたいという意識はあるが、今はシノンを休ませてやりたい、シノンを一人にさせてやりたいという思いが先行して、キリトの知識欲は鳴りを潜めていた。

 

 

「だけどどうなのかな」

 

《何がだ》

 

「シノンの記憶だよ。シノンは記憶を取り戻す事を求めていた。だけどあの様子じゃ、良い記憶を取り戻せたようには思えないよ」

 

《確かにな。多分いい記憶も思い出せたのだろうが、悪い記憶の方がそれを塗り潰してしまったのだろう。本人が望んでたとはいえ、絶望の記憶を見せられてしまっては堪えるであろうな。一体何を思い出したのかまでは流石にわからぬが》

 

「でもきっと、すごく辛い記憶を取り戻してしまったんだって思うよ。……だけどなんだろう、俺も知りたかったのに、今じゃ何だかシノンに声をかけたいなんて思えない」

 

 

 リランは静かにキリトの肩に乗って、上を見上げた。そこは二階の寝室の位置だった。

 

 

《何にせよ、突然記憶を取り戻し、しかもそれが辛い記憶であった事に一番苦しんでいるのはシノンにほかならぬ。今はシノンが望むままにしておいてやろう。この家の中は圏内だからHPが減るような事もないから安心だ》

 

 

 キリトは頷いて、同じように天井を眺めた。

 

 今日一日はシノンをそっとしておいてやるべきだ。そしてそれは夜寝る時になっても変わらない。今日はシノンにあの部屋を独占させておいて、自分達はこの部屋で眠る事にしようと、キリトは考えた。

 

 この部屋にだってソファというベッドにもなる家具が置いてあるし、アイテムウインドウを開けば毛布を出す事だって出来るから、寒さだって平気だ。

 

 

「今夜はここで寝るとして……夕飯はどうするかな」

 

《街まで行って何か食べる……わけにはいかぬな。シノンを一人だけにするのは危険だ》

 

 

 キリトも同意見だった。シノンの事はそっとしておいてやるとしても、流石にこの家に一人だけにするのは危険だ。夕飯はここで摂るしかない。

 

 キリトは咄嗟にアイテムウインドウを開き、食材タブを更に開いてソートした。焼けば香ばしくて美味な魚が多数確認できて、キリトはうんと頷く。

 

 

「そうだな……夕食はこんがり魚で済ませよう。焼くくらいなら俺の料理スキルでも出来るし、お前だって嫌いじゃないだろう」

 

《こんがり魚か。悪くはない。焼く際には塩を振るといいかもしれぬ》

 

「流石に生のまま食べるつもりはないよ。シノンの分はどうしようか」

 

 

 リランはもう一度二階の方に向き直ったが、すぐさま表情を曇らせた。

 

 

《用意はしておくべきかもしれないが、あの様子を見る限りでは、食欲があるとは思えぬ。無理に食べさせたところで、あの様子では吐いてしまいそうだ》

 

 

 確かに今のシノンは風邪をひいてしまった時の人間によく似ている。いや、風邪を引いたわけではないだろうけれど、食欲は皆無になっている事だけはキリトでも分かった。

 

 

「そうだな……ひとまず夕食は用意しないでおくか。食べたくなったら自分から降りてくるだろうし」

 

《その時はお前が作れよ。シノンは何でも一人でやろうとするから、食べ物が欲しくなった時には自分で作り始めてしまうに違いない》

 

「わかるよ。今はシノンに無理をさせないようにしないとな。と言っても、このまま降りてこないんじゃないかって気もするけれど」

 

 

 リランは再度二階の方へ目を向けて、どこか悲しげな表情を顔に浮かべた。

 

 

《寝る前に確認しに行った方がいい。起きていないかもしれないが、それでも彼女に変化がないか心配だ》

 

「同意するよ。さぁ、とりあえず飯にしよう。ボス戦の後だから、腹が減った」

 

 

 キリトはそう言った後にテーブルの上に、食材である大きめの川魚を2つ呼び出し、更にシノンに頼まれて購入しておいた塩を呼び出して川魚に使用、そのまま料理コマンドを呼び出して加熱を選択した。

 

 直後、川魚が自然発火したかのように火に包み込まれ、鎮火。生だった川魚は、表面に狐色の焼き色がついた、香ばしい匂いを放つ焼き魚になった。

 

 キリトの料理スキルならば、一応はこのくらいの料理をする事は出来るが、食材のランクが上がったり、さらに上の料理を作るとなると失敗して、コゲ肉やコゲ魚になってしまう。なので、これがキリトの出来る料理の限界だ。

 

 リランは何かに納得しているような顔をして、キリトに言う。

 

 

《うむ、上手に焼けたではないか》

 

「これが俺の料理の限界だけどな。もっと美味しい料理が食べたいなら、シノンかアスナに頼まないと」

 

《なぁに気にはしない。さて、いただくとしよう》

 

 

 キリトは頷き、焼き魚に突き刺さっている棒を握り、自分で調理した焼き魚を口に運んだ。続けてリランも焼き魚にかぶりつき、音を立てないようにして食べ始める。その様子が狼竜ではなく犬みたいに見えて、キリトは思わず笑いそうになってしまったが、何とか腹の中に押し込んで、焼き魚を食べ進めた。

 

 腹の中に仕舞い込んだ笑いは、焼き魚の香ばしい匂いと、塩と魚の脂が混ざり合った味への感動で瞬く間に消えてしまった。

 

 二人で夢中になって食べ進めると、焼き魚は僅か数分で頭と背骨だけになってしまい、やがて水色のシルエットとなった後にポリゴン片となって静かに消えた。本当に僅かな時間で済んだ夕食になってしまって、キリトはどこか拍子抜けだなと思い、苦笑いする。

 

 

「やっぱりシノンやアスナの料理と違って、すぐに終わっちまうな」

 

《仕方あるまい》

 

 

 そう言う反面、キリトは料理を大して気にしなかった。料理を食べ終わった直後に、まだ眠っているであろう、あるいは起きているかもしれないが動けないでいるシノンの事が気になって仕方が無かったからだ。キリトの意識がここではなく、シノンに向けられている事は、リランもまたすぐに気付いたらしく、声をかけてくる。

 

 

《心配か、シノンが》

 

「うん。やっぱり駄目だな……シノンの事が気になって仕方がないよ」

 

《見に行ってみるか。音を立てないように》

 

 

 キリトは頷いて立ち上がり、リランを肩に乗せて一階のリビングと二階を繋ぐ階段に足をかけて、音を立てないように全身の力を抜いて、一段一段上がった。そしてシノンがいる寝室の前まで来ると、これまでと同じように、なるべく音を立てないように戸を開いて中を確認した。

 

 先程よりも部屋の中は暗くなっていたが、月明かりが窓の外から差し込んできて青白く染まっており、森の中のように静寂に包まれていた。

 

 その中でキリトはシノンを探して周囲を見回したが、シノンが普段使っているベッドの布団が盛り上がっている事に気付いて、シノンがあの時から何も変わっていない事を悟った。

 

 こういうとき、布団の中に物を入れてあたかも人が隠れているようにしている可能性も疑われるけれど、索敵スキルを展開したら、プレイヤーの反応が返ってきたため、そうでない事もわかった。

 

 

(変わり無しか)

 

 

 キリトは静かにドアを閉じて、足音をなるべく立てないように階段を下りて、リビングに戻った。そこでリランが肩から降り、椅子に座る。

 

 

《シノンはあのまま眠ってしまったようだな》

 

「あぁ。だけど、かなり心配だ。あんなふうに叫んで、髪の毛を引っ張ったり足をばたつかせたりするって事は、よっぽどひどい物を見たって事だろ。あのまま寝たって事は、またそんな夢を見て……」

 

《そうかもしれぬが……どうとも言えぬ。ひとまず明日の朝になったらもう一度声をかけてみよう。今日よりも具合がよくなっているかもしれぬし、悪くなっているかもしれぬが、どのみちあのままではシノンは苦しむ一方だ。何とかして解決策を考えてやらなければな》

 

 

 シノンが苦しむところは若干見てきたつもりだが、あんなふうに激しく苦悶するところは初めて見た。普段クールなシノンがあんなふうになってしまっているという事は、もはやただならぬ異常や異変が彼女の中で起きてしまっているという事だ。

 

 いつまでもあんな風に苦しめておくのはシノンにとって良いわけがないし、何より見ているこちらも胸の中が締め付けられるような気になる。

 

 何とかして、シノンの口から思い出した事を聞いて、それの解決策を考えてやらねば。シノンの記憶を知りたいという知識欲よりも、シノンの事を何とかしてやりたい、シノンの苦しみを取り除いてやりたいという気持ちが、キリトの中では大きくなっていた。

 

 だが、どのタイミングで聞き出すかが問題であるとキリトは思った。あぁ見えてシノンは口が堅かったり、自分一人で出来そうだと判断した事は貫き通そうとするような、頑固な部分があったりする。

 

 だからあのシノンの口から話を聞く、思い出した事を聞くと言うのは至難の業だろう。そもそも聞き出そうとしてもシノンは絶対に口を割らない可能性だって十分に考えられる。

 

 

「どうするかな。シノンはあぁ見えて頑固だからなぁ……抱え込んでいるものを話させるのは、すごく難しいだろうな」

 

《その時は我に任せろ。……と言いたいところだが、あいつは見ての通りの状態だ。我であっても聞き出すのは難しいであろうな。それでもいずれはあいつの心は治療せねばならない》

 

「心を、治療?」

 

 

 リランは驚いたようにキリトに目を向ける。

 

 

《お前まさか、気が付かなかったのか? 今、シノンは心に重傷を負っているのだぞ。記憶を思い出した事によって、今まで傷が無かった心に、深い傷が出来てしまったのだ。だからあんな反応をしたり、我らから離れようとしたりしたのだ》

 

「いやいやそれはわかるよ。俺達が行った時に叫んだりしてたのも、心に傷が出来たからなんだろ。だけどさ、俺達でどうにか、というかお前でどうにかできるものなのか。確かにお前はアスナの心の(シガラミ)を解き放ったりしたけれど、アスナの時とはわけが違うはずだぞ」

 

《そうだ。今回はアスナの時とは大違い、我一人でどうにかなるような事柄ではないのかもしれぬ。そこで、今回はキリト、お前の力も借りる事になるかもしれぬ》

 

 

 キリトはきょとんとして、リランの赤い瞳を見つめた。自分にはリランのように人の心を開くような特別な才能もなければ交渉が出来るわけでもない。

 

 

「俺の力? 俺なんか役に立たないだろ、お前みたいに交渉が出来るわけでもないし、相談を聞く事ができても、本当に仲のいい人くらいだぜ」

 

 

 リランは呆れたような表情を浮かべて、溜め息を吐く。狼竜のはずなのに、その動作や表情は人間のそれに酷似していた。

 

 

《何もわかっていないのだな。お前はシノンからかなり信用されている人物なのだぞ。そして唯一、シノンが心を開いている相手なのだ》

 

「俺が、シノンが心を開いている相手? そんな馬鹿な。シノンは俺にも結構きつい事を言ってくるし」

 

《シノンがお前に記憶の事を話したりしたのは何故だ。お前にほぼ三食料理を作ってくれるのは何故だ。全部お前に心を開いているからだ》

 

 

 キリトは大いに驚いて、これまでのシノンの行為を思い出した。シノンは時々きつい事を言ってくるが、それでも記憶を取り戻したら話したいと言ってくれて、さらに三食料理を作ってくれていた。それはシノンが心を開いていたからと考えると妙に納得できた上に、何故シノンと過ごす日々が楽しく、そして暖かく感じられたのかもわかった。

 

 シノンが心を開いてくれていたから、シノンと過ごす日々がこれまでのアインクラッドで過ごしてきたどの日々よりも輝いているように、そして心地よく感じられ、シノンに危険が迫ってきたら守ってやりたいと思っていたのだ。

 

 

「そうだったのか……だから俺は……」

 

 

 キリトが理解した事をとっくの前に理解していたように、リランは溜め息を吐いて、穏やかな表情をした。

 

 

《だから、シノンを立ち直らせる鍵はお前なのだ、キリト。最初は我がアプローチを仕掛けるが、恐らくアスナの時のようにはいかない》

 

「そこで俺の出番って事か。確かにシノンは俺の大切な人だ。大切な人があんなふうに苦しんでいるところなん見たくない。シノンの事は、しっかり支えてやらないとだな」

 

《そういう事だ。アプローチは明日に行うから、しっかりやるのだぞキリト》

 

 

 しかしその時、リランがシノンにアプローチをかけるというのが、キリトは急に腑に落ちなくなった。

 

 リランは確かに人から事情を聴いたりするのが得意だろう。だが、シノンから本当の事を聞き出すのは、リランではなく自分がやりたい。

 

 自分がもっとも心を開いている相手と聞いたせいなのかはわからないが、リランがそれを行うというのを呑み込む事が出来なかった。

 

 

「リラン、それは最初から俺にやらせてくれないか」

 

 

 突拍子もないキリトの言葉に、リランは目を見開いて驚きの声を出す。

 

 

《何を言っているのだ。できるのか、そんな事が》

 

「わからない。だけどシノンは俺に心を開いてくれているのに、そのお礼をまだしてやってない。シノンから本当の事を聞き出して、本当のシノンの事をわかって、受け入れてやる。それが、俺に出来るシノンへのお礼だと思うんだ」

 

 

 キリトは椅子に座るリランの小さな両肩に手を乗せた。

 

 

「だから頼むリラン、俺にやらせてくれ」

 

 

 リランは何も言わずにキリトの暖かな光を蓄える瞳を見つめていたが、やがて頷いた。

 

 

《……わかった。お前に任せよう。ただし、もしシノンがお前の事を拒否したら、我が交代する。それでいいな》

 

「構わない」

 

《了解したぞ。お前からシノンに近付いてみろ》

 

 

 キリトはリランと同じように頷き、笑んだ。

 

 

「ありがとうリラン。恩に着る」

 

《やれやれ、お前は本当に手間のかかる主人だ》

 

 

 キリトは苦笑いして使い魔の頭をぽんぽんと叩いた。

 

 

「悪かったよ、使い魔に世話を焼かれるビーストテイマーで」

 

 

 そう言った直後、キリトは急にふらつき、意識が少しだけ遠退いたのを感じた。これは眠気だろうか。

 

 確かに今日はボス戦でこれ以上ないくらいに脳を使ったような気がする。それから休みなしでシノンの事とかを考えていたから、その反動が出たのだろう。

 

 

「まだ七時位だけど、もう寝るか」

 

《そうさな。お前も我も大いに戦った。もう休むべきだろう》

 

 

 キリトは二階で眠っているであろうシノンの方へ顔を向け、小さく「おやすみ」と呟いた後にソファに横になり、毛布をアイテムウインドウから呼び出して身体にかけた。

 

 ソファを叩いてポップアップメニューを展開、消灯ボタンを押して部屋の明りを消してリランにおやすみと一声かけ、目を閉じた。そして、そのまま眠りの中に転がり落ちるまで、そう時間はかからなかった。

 

 

 

 

 

 

 

          ◆◆◆

 

 

 

 目を覚ますと、真っ暗で何も見えなかった。妙に温かく感じたので、布団にくるまれている状態のまま眠ってしまっていたらしい。

 

 布団を捲って周りを確認してみれば、そこはキリトと一緒に暮らしているログハウスの二階、いつもの寝室。灯りが付いていないので暗かったが、窓の外からは月の光が差し込んできている。時間を確認してみれば夜の11時。何とまぁ半端な時間に目を覚ましてしまったと思った。

 

 その直後、意識がはっきりしてきたところで、すぐさま失われていた記憶が、忌まわしい記憶が頭の中全体に広がってきた。

 

 私が人殺しである事を叩き付けてくる記憶、誰とも一緒に居てはいけないという証拠、どこにも居場所なんかないっていう証明。

 

 

「私は……ここに居ちゃいけない……」

 

 

 身体を起こしてベッドから降りる。近くにある、いつもキリトが使っているベッドを確認してもキリトの姿はない。私と部屋が同じなのが嫌で、どこかに行っちゃったのかな。

 

 でも、丁度いいや。どこかに出てるなら、見つからずにこの家を出て行ける。それでも、何もなしに出て行ったら流石に悪いよね。何か書き残して行こうかな。

 

 いや、別にそんなものは必要ないか、私の言葉なんて聞けるものじゃないだろうし、血が付いた私の手で書かれた文字なんかも見たくないに違いない。

 

 

「早く、出て行こう。気付かれる前に……」

 

 

 足音を立てないようにして部屋を出て、同じく音を立てないように階段を下りたところで、私はぎょっとした。リビングのソファで、キリトとリランが毛布を被って眠っていた。やっぱり私と一緒に居るのが嫌で、こんな場所で寝たんだ。そうだよね、人殺しと一緒に寝たくなんかないよね。

 

 でも、本当にこの二人に助けられた。記憶を失っている間も、キリトはずっと守っててくれたし、リランだっていろんな話を聞いてくれたし、料理だって美味しいと言って食べてくれた。

 

 だけど、それももうおしまい。私の記憶を知ったら、この二人だって離れて行くはず。キリトだって私の事を嫌いになって、忌々しいって思うようになるだろうし、守るのだってやめるだろう。いや、もうやめてくれて結構だ。どうせもう、この二人に会う事だってないんだから。

 

 頭の中がキリトやリランとの思い出と、人を殺した記憶でぐちゃぐちゃになる。もう、自分で何を考えているのかすらわからなくなりそう。こんな誰にでも忌まれて、頭の中をぐちゃぐちゃにして、手を血塗れにしたまま生きてるくらいなら……いっそ……。

 

 

「ごめんねキリト。私、いくね」

 

 

 私はもう会わない人と竜に別れを告げ、もう帰って来ないログハウスを出た。

 

 いくなら、最前線に行けばいいかな。最前線なら敵が強いだろうし。いや、それでも53層の方がいいかな。53層なら沢山のウェアウルフ達がいるし。

 

 まぁどこでもいいけれど……決めた。53層に行こう。

 

 

 

 

          □□□

 

 

 ドアが開き、閉じられる音でリランは目を覚ました。一体誰が来たのだと思って周りを見渡しても、入って来たであろう人物の姿はない。

 

 ではキリトが出て行ったのではないかと思って探してみれば、すぐそこのソファでキリトは眠っていた。

 

 

《誰が……?》

 

 

 嫌な予感を感じながら、リランは索敵スキルを展開し、ログハウス内にシノンの気配があるかどうか確認した。

 

 ――シノンの気配はログハウス内になく、とても遠いところで確認できた。

 

 

《シノンッ!!!》

 

 




――今回を読む上での小ネタ&全体の補足――

◇◇◇→キリト視点

◆◆◆→シノン視点

□□□→第三者またはその他視点


今回のシノンの目にはハイライトが無い。シーンをイメージする時にでもどうぞ。

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