「リラン」
狼の特徴を持った少女――リランは夜空を照らし、木々や草花に光を与えている月から、まるで闇のように黒い俺の方へと向き直る。宝石のようななつかしい瞳に自分を映し出した瞬間、喉から嗚咽が漏れそうになるが、どうにかそれを抑え込む。そんな俺を見つめながら、リランはもう一度その桜色の唇を動かして見せた。
「キリト……我が主よ。ちゃんと約束を守ってくれたようだな」
そこで俺はきょとんとしてしまう。俺はいつかに約束をしたのだろうか。頭の中を巡らせたとしても、その答えを見つける事も、そもそも約束の内容を見つけ出す事さえも出来ない。
「約束? 約束なんてしたっけか」
リランは目を半開きにして、呆れたような表情を浮かべた。
「やれやれ、お前は本当に変わっておらんな。我との約束を完全に忘れるとは」
「ご、ごめん」
直後にリランは俺の目の前までやってきて、紅玉のような瞳で俺の事を睨み付けてきたが――数秒後に、それは瞬く間に微笑みへと変わった。
「……冗談だ。我はお前と約束などしておらぬ。会いに来てくれて、素直に嬉しいよ、キリト」
やはり約束などしていなかった。それがわかった途端に安堵が突き上げてきたが、すぐにそれはもう一度大切な相棒に会えたという喜びに変わった。そのまま、俺は相棒の頭、その耳の間に手を置いた。
「俺もお前とまた会えて嬉しい限りだよ、リラン。おかえり」
「……ただいま。キリト」
直後に、リランは俺の胸の中に飛び込んで来た。細い腕を俺の背中に回して、胸元に顔を擦りつけてくる。全く変わっていないリランの温もりを全身に感じながら、俺もまたその身体に手を伸ばして抱き締める。
アインクラッドである時に俺の相棒になり、最期の時まで一緒に戦い続けたかけがえのない存在リラン。そんなリランを抱き締めていると郷愁にも似た感情が突き上げてきて、いつまでも抱き締めていたいと思ったが、しばらくしてリランは自ら俺の身体から離れた。
「さてと、随分と人里から離れた場所に転移させられてしまったようだな」
「え、お前って自分で飛んでたんじゃなかったのか」
「そうではない。お前のアイテムストレージから飛び出したあの時から、我はここまで引っ張られてきたのだ。恐らく我の内包するデータがこのゲームの管理システムの癪に障り、システムが周りのプレイヤーなどに危害のないところまで我を強制転移させたのだろう」
まさかあれがリラン自身の意志によるものではなかったなんて――ちょっと驚いていると、リランは周囲を見回して、不思議そうな顔をした。
「しかし、このゲームは何だ。お前がいる事でこの世界がゲーム、即ちVRMMOの世界だと言うのはわかるのだが、どんなゲームなのかまではわからぬ。キリト、このゲームは何だ」
「《アルヴヘイム・オンライン》っていうゲームだよ。ほら、ユウキやスグがプレイしてるやつ」
そこでリランは少し驚いたような顔をして、俺と目を合せる。
「おぉ、あの妖精になって空が飛べるようになるというあれか。だがなんだ、このゲームは本当にそれなのか。なんだかSAOと似たような感じがするのだが」
多分それは、茅場の作ったザ・シードがこの世界に組み込まれたからだろう。これも後で聞いた話なのだが、ザ・シードを解析した芹澤ことイリスによると、ザ・シードはSAOに使われていた基幹プログラムを流用・応用したようなものであり、もっとざっくり言えばカーディナルシステムの廉価版のようなものであるらしい。
ザ・シードが組み込まれた事により、基幹プログラムがカーディナルシステムの廉価版になったからこそ、リランやユイやストレアがあの頃と同じような形で具現できたのだろう。
「イリスさん曰く、ALOとSAOの基幹プログラムは同じものを使ってるんだってさ。まぁ、機能はALOの方が若干下回っているらしいけど」
「なるほど、だからどこか懐かしさを感じる事が出来るのか。これはいい世界だ」
そこで俺はまたある事に気が付く。リランはあの世界では完全に個別の存在であったけれど、この世界では一体どうのような存在になっているのだろうか。プレイヤーのようにも見えないし、その他のものにも見えない。
「ところでお前って何にカウントされてるんだ」
リランはふっと笑った。
「不思議だな。我の分類はお前と同じプレイヤーだ」
「プレイヤー? プレイヤーなのか?」
「そうであるから、このような機能が我に追加されているのだろう」
直後に、にゅっとリランの背中に、俺達と同じような妖精の証である二枚の半透明の翅が出現した。しかもその形はクライン達サラマンダーと同じであり、色も赤い。間違いなく、リランは火妖精族サラマンダーになっている。
「お前、それ……サラマンダー!」
「無礼な! 我は
「いやいや、そういう名前の種族なの。どうやらゲームシステムはお前をサラマンダーという火属性を操る種族にしたらしいな」
リランの顔がきょとんとしたそれに変わり、徐々に納得したような顔に変わっていった。
「なるほど、我は確かに火を操っていたからな。そういう事か……」
そして俺が一番気になっていたのは、リランの変身だ。リランはSAOにいた時は剣竜、刃剣竜、女帝龍という巨大な狼竜の姿になっていたし、能力もそれ相応のものになっていたけれど、世界が変わった今はどうなっているのだろうか。
「ところでリラン、お前の姿はそれだけなのか」
「ん?」
「いや、お前って前の世界じゃ人の姿をしていなかったじゃないか。お前はもうその姿しか持つ事が出来なくなったのか」
リランはそこでまた、呆れたような顔をする。
「キリト、お前は我がなぜあれだけの容量を喰うプログラムなのか、理解していないのか」
「え?」
「我にはユイ達MHCPには搭載されていない機能が大量に搭載されておるのだ。その中には、我が取り込んだ女帝龍、即ち自身をモンスター化させる能力のためのデータも含まれていたのだ」
確かにリランの容量は150GBと、普通のプログラムではありえないくらいのバイト量だった。まさかその中にリランにモンスターの姿を適用させるものもあったなんて。
「確かにお前の事も考えて、1.5TBのアミュスフィア買ったんだっけなぁ。そして容量が変ってないって事は……」
「そう、我にはその機能が搭載されておるのだ。前までこのゲームではそのような事は不可能だったみたいだが……恐らく何らかのアップデートがあった際に可能になったらしい」
「ザ・シード適用時、だな」
「そうであろう。よし、離れておれ。やってみよう」
リランからの指示を聞いた直後に、俺はリランから離れたが、直後にリランの身体は白金色の閃光に再び包み込まれた。星の光、月の光さえも押し返してしまうような激しい閃光により周囲が白金色一緒に染め上げられると、俺はすかさず腕で目元を覆った。
そして閃光が止んで目を向けられるようになったその時に、俺は腕を目から離したが、そこで思わず驚いてしまった。
開けた森の広場、芝生の上に佇んでいたのは、狼の輪郭を持ち、頭部より人の髪の毛を思わせる長い金色の鬣を生やし、全身を一部紅色が混ざった白金色の甲殻と毛で包み込んで、耳の上から太い紅色の角を、背中より赤と白が混ざり合った羽毛の翼を四枚生やしている、紅い刃のような甲殻が付いた太い尻尾を持ち、額から大聖剣とも思える複雑な文字が刻み込まれた角を突き出させた、全長18mくらいはありそうな体躯の、紅い目の巨大な竜だった。
SAOの時とは全く違う容姿の狼竜。その姿に言葉を失ってしまっていると、狼竜の顔がこちらを向き、頭の中に《声》が聞こえてきた。
《これが我の新たなる姿だ。ファフニールと言われる竜の上位種の上位種に当たるものらしい。日本語では、鳳狼龍というらしいな》
聞き慣れた初老の女性のような声色による《声》。それを聞いた途端に、目の前の狼竜が俺の相棒である事に気が付き、涙が溢れて来そうになる。しかし涙を流さないように、俺は微笑みながら言う。
「相変わらずチート級に強そうだな、お前!」
《残念だがキリト、我はこの世界最強ではないぞ。普通のゲームであるこの世界には、我よりも遥かに強い存在が無数に存在しているらしいし、アップデートでいくらでも放り込める。我の力は、ちっぽけなものになってしまったようだ》
次の瞬間、俺は芝生を蹴って、相棒の毛の中に顔を突っ込んだ。燃え盛る火のようなそれ、風と雨のそれ、獣のそれが複雑に混ざった匂いが鼻に飛び込んでくるが、一切嫌な気を感じない。
「いいんだよ。お前が傍にいてくれるだけで、いいんだ」
ふかふかの毛に顔を擦りつけていると、もう一度《声》が頭に響いてきた。
《……キリト。この世界は死んでもいいゲームだろう。ならば、お前が死ぬ可能性がない。我は、お前を死なせないように戦うというかつての使命を、ここで再び実行する必要がないわけだが……》
そこで俺はリランより離れて、その赤色の瞳と自分の目を合せながら、口を開いた。
「あぁそうだ。だけど、お前が俺の《使い魔》であるっていうのは、変わってないはずだぜ。そして俺が、お前の《ビーストテイマー》であるっていうのも、変わってないはずだ」
《……《ビーストテイマー》は《使い魔》に指示を与えて、《使い魔》は《ビーストテイマー》を守りつつ戦う》
「そうだ。俺はお前を守りながら戦って、お前は俺を守るために戦う。俺達の関係は、変わってないだろう。それとも、もうデスゲームじゃないから戦う意味はないって、思ってるか?」
リランの目が一瞬見開かれたが、やがてリランの顔は穏やかものへと変わっていった。
《……そうだな。我らの関係は何も変わってはおらぬ。いや、変えたくないな。……一度はお前の事を好きになったりもしたが、やはり我はお前の<使い魔>でいる事が一番だ。そしてだな、キリト》
そう言うと、リランは地面にいきなり伏せた。――SAO時代の時から変わっていない、背中に乗ってくれという意思表示だ。その意思を受け取った途端に、今度こそ泣きそうになったが、俺はそれすらも抑え込んで、その背中に飛び乗り、跨った。直後にリランはその身体を起こして立ち上がり、俺の目線は一気に高くなる。
人と竜が一体となって戦うという、もう出来ないかもしれないと思っていた、人竜一体が再び果たされて、抑えがたい感動が胸の奥から突き上げてくる。そこにまた、《声》が響いてきた。
《我はやはりお前を背中に乗せて戦ったり、飛ぶのが好きだ。そしてデスゲームが終わって、死んでもいいゲームの中に来た今、お前と心行くまでこの世界を楽しみたい。いいか?》
この世界は確かに死んでも現実で死ぬわけではない、SAOに比べたらヌル過ぎるゲームだ。だけどそれは、殺伐とした世界を共に乗り越えた相棒と、純粋なゲームを、その世界の全てを一緒に楽しんでいく事が出来る事を意味する。
俺は、一緒に苦楽を共にして、最後まで戦った最高の相棒と、ゲームを楽しめる!
「当たり前だ! リラン、お前の使命を更新するぜ。今度のゲームは死んでもいいようなヌル過ぎるゲーム、だけどそれは純粋に遊べるって事だ。俺と一緒に、この世界を遊び尽くせ!」
《了解だ、主よ。我の使命を、更新させてもらおう!》
リランはそう言って、天高く力強く咆哮した。狼と竜の声が混ざり合ったような鳴き声が周囲の草木を揺らして、アルヴヘイムという名の妖精界全体に響き渡っていったような気がした。
直後に、俺は身体の下の相棒へ声をかける。
「さてとリラン。俺は皆をユグドラシルシティに置いてきてしまったんだ。このゲームの設定上空は飛べるけれど、やっぱり俺はお前の背中に乗って飛びたい。いいか」
《いいもなにも、我は最初からその気だったからこそ、お前をこうして背に乗せたのだ。空が飛べるとはいえ、しっかり掴まっておるのだぞ!》
相棒からの声を受けて、その身体にしっかりと掴まった次の瞬間に、リランは全身の筋肉を運動させて四枚の翼で羽ばたき、周囲の木々を揺らしながら夜空へと舞い上がった。
自分で飛んでいる時には感じられない、身体を持ち上げられる感じと、何かに守られているかのような安堵感が突き上げてくる頃に、リランは森を抜けて夜空に到達、そのまま世界を見守っているかのような巨大な樹、世界樹ユグドラシルとその麓にある世界一明るい街ユグドラシルシティ目掛けて一目散に飛び始めた。
白金色の狼竜が夜空を駆けるという、SAOでも経験した事のある光景。そして、耳元に届けられてくる、びゅうびゅうという風に混ざって聞こえてくる翼の音、獣の吐息。
それらを聞いているだけで、俺は相棒がちゃんと戻って来てくれた事を、自分が《黒の
《キリト?》
「リラン、俺の《使い魔》になってくれて、本当にありがとうな。相棒としてだけど、俺はお前の事、大好きだぜ」
それに呼応したかのように、獣の穏やかな吐息が聞こえてきて、リランの返事が頭に返ってきた。
《我もお前の事は大好きだ。あくまで、相棒としてだがな》
俺は相棒の温もりと声をしっかりと感じて、魂に刻み込むと、その身体から離れてしっかりと掴まり直した。
「リラン、みんなお前と俺を待ってる。急ごうぜ!」
《わかった! 掴まっておれよ!》
SAOより生まれたとされる妖精界《アルヴヘイム・オンライン》。大きな月と星が照らす空を、俺は白き竜と共に駆けていた。
俺が失ってしまったかもしれないと思っていたもの、何一つとして失われてなどおらず、世界が変わったとしても、俺は変わらず、《ビーストテイマー》だった。
《キリト・イン・ビーストテイマー ―アインクラッド― 終わり》
キリト・イン・ビーストテイマー アインクラッド編完結。
次回解説と元ネタ、あとがきを更新して、終了となります。