キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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読者の皆さん、明けましておめでとうございます。

今年もお願いいたします。


05:終末の朝霧

           ◇◇◇

 

 

「ちゃん……おにいちゃんっ!!」

 

 聞き覚えのある声――妹の直葉の声で、俺の意識は無理矢理引き戻されてきた。全身に走る電気が齎す痛みに呻きながら、ゆっくりと上半身を起こせば、そこに広がっていたのは99層の迷宮区の中、紅色が基調とされている舞踏会会場のようなボス部屋。

 

 何が起きたのかわからないまま見回し続けていると、すぐさま目の前に、俺の妹である直葉ことリーファの顔があった。俺の事を死に物狂いで起こそうとしていたのか、泣いた跡が顔にくっきりと残っていた。

 

「リーファ……」

 

 リーファだけではなく、周りには血盟騎士団や聖竜連合、風林火山といった、街に置いてきたはずの攻略組の連中が集まっており、どれも俺の事を心配そうな顔をしてみていた。

 

 そしてその中で、俺の近くにいたのは同じ血盟騎士団の副団長であるアスナとその親友のリズベットとユウキ、俺と同じ<ビーストテイマー>のシリカ、宝物探索者(トレジャーハンター)のフィリア、聖竜連合のリーダーであるディアベル、風林火山のクライン、そしてフリープレイヤーではあるものの、攻略組に参加できるくらいの実力を持つエギルだった。

 

「みんな……いつの間に……」

 

 リーファが今にも泣き出してしまいそうなくらいに眉を寄せて、叫ぶように言って来た。

 

「おにいちゃんの馬鹿ぁ!! 誰にも何も言わないで99層に行って……!!」

 

 リーファは叫ぶなり俺の首元にしがみ付いてきて、そのまま一気に抱き締めてきた。あまりに突然の行動と衝撃に思わずきょとんとしてしまったその中、続けてアスナが声をかけてきた。

 

「キリト君とリランの居場所が99層になってたから、びっくりしてみんなで駆けつけて来たのよ」

 

「皆で……って事は、今何時だ……?」

 

 俺の問いかけには胸元のリーファが答えた。

 

「今は……午前5時30分だよ……」

 

 続けてディアベルが眉を寄せながら言う。

 

「皆を叩き起こして駆け付けてきたら、お前とリランがここに倒れてたんだ。何があったんだ、一体」

 

 ディアベルの声にハッとして、俺は再度周囲を見回したが、すぐさま安堵する事が出来た。俺達、というか俺のすぐ後ろに、白金色の毛並みと甲殻に身を包んだ天の使いのような狼竜が、そこに座っていたのだ。その狼竜の名を、俺は胸の中の安心感を混ぜつつ、呼んだ。

 

「リラン……お前、無事だったか」

 

《……無事だ。我らは、な》

 

「えっ……」

 

《我らは、してやられたのだ。あいつに……!!》

 

 リランの言葉に少し驚きながら、俺は気絶する寸前の出来事を思い出した。そうだ、俺達は《壊り逃げ男》の正体を突き止めて、《壊り逃げ男》がこれから何をしているかも聞き出す事が出来た。だが、俺達はあいつが召喚してきたこのゲームの裏ボスにしてやられて……。

 

 シノンを最高の実験材料と称した《壊り逃げ男》に、最愛のシノンを連れて行かれた。

 

「くぅ……」

 

「えっ?」

 

 俺達が皆に黙って出発したのが午前4時。そしてこの部屋に辿り着いたのが確か午前4時30分。皆から聞く限りでは、今の時間は午前5時30分。

 

 あれから一時間も気を失っていてしまった。あのアルベリヒに、《壊り逃げ男》に、一時間も猶予を与えてしまっている。

 

「くッッッッッそぉぉぉあああああああああああああああああああッ!!!」

 

 全身から吐き出した怒号に皆が驚く中、俺はリーファを突き飛ばして床を両手で叩いた。だが、紅玉にも大理石にも似た質感の床には、(ヒビ)も亀裂も入らない。

 

 俺が油断したばっかりに、まんまとアルベリヒの、《壊り逃げ男》の罠にかかって、シノンを持って行かれた。あの時アルベリヒに躊躇せず剣を突き立てていれば、あの首を跳ね飛ばしていれば、ぶっ殺していれば、こんな事にはならなかった。

 

 次から次へと強い悔しさが湧いて出てきて、俺はその都度床を叩きまくる。しかし、それも長くは続ける事は出来ず、いきなり何かに掴まれたかのように身動きが取れなくなった。

 

 周りを見てみれば、クラインとディアベルが俺の両腕を掴んでいるのがわかった。

 

「落ちつけキリト。何があったのか話せって!」

 

 クラインの言葉を聞いて、俺はひとまず湧き上がってくる強い怒りを呑み込んで、全てを周りの皆に話した。そしてそれが終わった頃には、皆の顔は終末が訪れて来たのを目の当たりにしたかのような表情に変わった。まぁ、実際そうなのだが。

 

「そんな……アルベリヒが《壊り逃げ男》で……シノのんを連れ去ったっていうの……!?」

 

「あぁ。あいつが《壊り逃げ男》だったんだ……あいつは俺達のすぐ傍にいて、俺達の情報を集めていたんだ。それにあいつはモンスターまで操っていた。アスナ達を襲ったモンスターと同じ、黒色の狼竜だった。昨日の事件の犯人も、皆あいつだ……!」

 

 俺を掴んでいるクラインが、物事を信じられないような顔をする。

 

「って事は何だよ、《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》を操ってたのも、俺や皆に嘘夢を見せてたのも、あのアルベリヒだっていうのかよ……!!?」

 

 俺だっていまだに信じられないが、気絶する前のリランの話で実感が持てる。

 

 あいつはボス戦に頻りに参加したりしてたけれど、《ムネーモシュネー》との戦いとかには参加していなかったりしたし、《壊り逃げ男》が牢獄からいなくなったと同時に、あいつは再び姿を現していたりした。

 

「そうだ。全部アルベリヒの仕業だったんだ。《笑う棺桶》を陰で操ってたのも、《ムネーモシュネー》を率いていたのも、ついでに言えば、シノンやユウキ、リーファやイリスさんと言った他のVRマシンを使っているはずの人をこの世界に呼び寄せていたのも、あいつだったんだよ、全部。もっと言えばストレアやユピテルに異常を起こさせていたのも、あいつだ」

 

 俺の言葉に皆が驚愕したようにざわつき、そのうちのリズベットがひどく戸惑っているような顔をする。

 

「完全にあいつが元凶じゃないの……それで、あいつは今どこに?」

 

 俺はクラインとディアベルの腕を振りほどくと、真上を眺めた。

 

 そこに広がっていたのは穴の開いた天井だが、もっと上にはゴール地点である100層、アルベリヒが利用していると言っていた紅玉宮がある。あいつは間違いなくあそこに研究施設を構えて、再び俺達を実験台にするチャンスを伺っている。

 

「あいつは……100層にいる。100層に研究施設を構えて……また実験を始めようとしてる……!」

 

 そう言ったその時に、部屋の入口の方から俺を呼ぶ声が聞こえてきて、皆と一緒に振り返った。《壊り逃げ男》討伐作戦が開始された時から、シノンの事を預かってくれていた女性イリス、シノンと同じ部屋に宿泊していたストレア、そして俺とシノンの娘であるユイの姿がそこにはあった。

 

「キリト君!」

 

「パパ!!」

 

「イリスさん、ストレア、ユイ……!」

 

 三人は集まる仲間達をかき分けながら、俺の元へと駆けつけてきたが……三人を見た途端に、シノンを守れずに、《壊り逃げ男》に連れ去らせてしまったというすまなさが突き上げてきて、俺は無意識のうちに震え始めた。そんな俺に、イリスはそっと声をかけてくる。

 

「キリト君、大丈夫か」

 

「大丈夫じゃありません……というか、なんでここに来てるんですか」

 

 イリスによると、シノンがいつの間にかいなくなっていた事に、朝早く目を覚ましたユイが気付き、ストレアとイリスを叩き起こしたんだそうだ。起こされたイリスはシノンの居場所が《探知不能》に、俺の居場所が問題の99層になっていた事にひどく驚いて、教会の子供達をそっちのけ、ストレアとユイを連れて俺達の元へとやって来たらしい。

 

「シノンの居場所が探知できなくなってたから、何か悪い事が起きたんじゃないかと思ったんだけど……この分だととんでもない事が起きたみたいだね」

 

「はい……血盟騎士団に所属してたプレイヤーのアルベリヒ……そいつが異変の元凶でした」

 

 アルベリヒの事を俺やシノン、アスナから聞いていたユイが驚く。

 

「アルベリヒさんが、《壊り逃げ男》、ですか!?」

 

「あぁ……アルベリヒは俺達に正体を明かして、リランと同じモンスターを呼び出して……シノンを連れ去った。俺は今の今まで気絶させられてたんだ」

 

「そんな、シノンが!?」

 

 ストレアの驚く声を聞きながら、俺は心の中のすまなさをイリスにぶつけるように言った。

 

「イリスさん、すみませんでした……俺は、シノンを守る事が出来ませんでした……あいつは今頃、100層で……!」

 

「キリト君、悪いけれど後悔してる場合なんかじゃないよ」

 

 俺は思わず顔を上げた。イリスは険しい表情を顔に浮かべつつ、穴の開いた天井を眺めていた。

 

「アルベリヒが《壊り逃げ男》であり、その居場所が100層だとわかってるなら、今すぐにシノンの元へ、駆け付けて《壊り逃げ男》の討伐を行うべきだ。シノンを守れなかった事を後悔している場合じゃないし、まだ諦めるには早すぎるよ。シノンは何も、死んだわけじゃない」

 

 イリスは表情を変えないまま、顔を俺に向け直してきた。

 

「多分、色んな事がありすぎて混乱しているんだと思う。大事な仲間が《壊り逃げ男》だったり、シノンが連れ去られたりしてね。だけど足を止めている時間は君には残されてなんかいない。このままあいつを放っておけば、この世界はあいつの思惑通りの世界になるだろうし、冗談抜きでシノンが死ぬことになるかもしれない。そうなってほしいのかい、君は」

 

 イリスの言葉の内容を想像するよりも先に、俺は口を動かす。

 

「そんなわけないだろ! もうこれ以上あいつの好きにさせるもんか……これ以上、この世界を滅茶苦茶にさせるもんか!!」

 

 俺の言葉が周囲に響き渡り、皆のざわめきが消え果る。重さのわからない沈黙の中が数秒続いた後に、イリスはすんと鼻を鳴らした。

 

「……なら、君が次にやるべき行動は、言われなくてもわかるはずだ」

 

 俺は軽く下を向いて、作戦を寝る時のように頭の中を回転させる。《壊り逃げ男》はシノンを連れ去って100層に向かった。そして俺達攻略組のゴールは100層。

 

《壊り逃げ男》を倒してシノンを取り戻し、ゲーム自体を元に戻させれば、きっとラストボスが俺達の目の前に現れる。

 

 そのラストボスを倒す事に成功できれば……この茅場晶彦の始めた悪魔のゲーム、《ソードアート・オンライン》は終焉を迎え、俺達は現実に戻る事が出来る。いや、もしかしたらラストボスと言われる存在は、ひょっとしたら《壊り逃げ男》自身なのかもしれない。

 

「……俺達は確かに100層の直前である、99層に辿り着く事が出来てる。後一層だけ上る事が出来れば、ゴールなんだ」

 

 その言葉を聞いた皆は上を眺めて、アスナが小さく言う。

 

「第1層にいた時にはあんなに遠く思えたのに、もう、わたし達は100層まで来たんだね……」

 

 アスナに続いてリズベットが言う。

 

「アインクラッドに異変が相次いだおかげで全然考えてなかったんだけど、もう、あたし達は100層に来れてたんだ……」

 

 シリカが顔を下げて、俺に言った。

 

「だけど、今はその100層を《壊り逃げ男》が占拠してます。全ての元凶が、100層にいるんですよね」

 

 フィリアが険しい表情を浮かべる。

 

「今の紅玉宮は、まさに《魔王ノ城》だね。そしてそこに、シノンはいる……」

 

 《壊り逃げ男》に嘘夢を見せられていた事のあるクラインが、強く言う。

 

「もう、あんな事はさせねえぞ。もう、誰にも嘘夢を見させねえ!」

 

 最後にエギルとディアベルが言う。

 

「囚われた姫様と魔王のいる100層、そこに向かう勇者とその仲間達……本当に王道RPGだな、こりゃ」

 

「そして、俺達の倒すべき魔王、《壊り逃げ男》がゴールの100層で待ち構えてる……行く以外の選択肢は存在しないな」

 

 外部からやって来たユウキとリーファが力強く言う。

 

「100層を突破すれば、このゲームが終わる……アスナ達が、現実に帰れる!」

 

「ようやく、おにいちゃん達をこの世界から出させる事が出来るんだね!」

 

 仲間達の声を全て聞いてから、俺は再度集まっている全ての者達、ここまで生き抜いてきた全ての攻略組の戦士達に、血盟騎士団二代目団長として、そして一人のプレイヤーとして、叫ぶように指示を下した。

 

「皆……今朝は黙って出ていって悪かった。皆には迷惑をかけてばっかりだけど、今一度、皆の力を俺に貸してほしい! 《壊り逃げ男》を倒してこの世界を終わらせるには、やっぱりみんなの力が必要なんだ!! どうか最後まで、戦い続けてくれないか――」

 

 言い切る前に、集まっている仲間達は一斉に掛け声を上げ始めた。勿論、その声は俺の言葉に反対するものではなく、俺の指示を呑み込んでそれを実行しようとしているもの、《壊り逃げ男》という名の強力なラストボスを打ち倒し、この世界を終わらせようとしている強い意志を感じさせるものだった。

 

 あまりの歓声に茫然としてしまったその時に、アスナが俺の肩に手を乗せてきていた。

 

「皆、最初からその気で来たんだよ。だから心配しないで……皆で100層を超えよう。それに、《壊り逃げ男》のところにはユピテルもいると思うから……シノのんとユピテルを、取り返しましょう」

 

 そうだ、《壊り逃げ男》が奪って行ったのはシノンだけではなく、ユピテルもそうだ。《壊り逃げ男》を倒すのは、アスナの大事な子であるユピテルを取り返す事にもつながるのだ。

 

「あぁ……一緒に取り返そう。これは奪還戦だ」

 

 そう言ったその時に、皆の歓声に紛れるように、ユイが声をかけてきた。

 

「パパ、わたしとストレアも向かいます」

 

 娘から飛び出した言葉に俺は思わず驚く。ユイは戦闘能力を持っているわけじゃないし、ましてや次の戦いは今まで以上に危険な戦いであるかもしれない。そんな場所にユイを連れて行ったりしたら、敵の攻撃に巻き込まれてしまう危険性が高い。

 

「ユイ……! ダメだ、ストレアはともかく、お前じゃ危険すぎる!」

 

「無理を言っているのはわかります。けれどパパ達が100層に辿り着き、《壊り逃げ男》を倒した後にラストボスを倒したその時には、このゲームはクリアされて、パパとママは現実世界へ帰る事になります。だから、最後の時はパパとママと一緒に居たいんです。それにわたしだって、ママの傍に行きたいんです」

 

 ユイは顔を上げて、微笑む。

 

「それに、ママを助け出したら、見たいんです。パパやママ達が、ゲームクリアを果たす瞬間を!」

 

 ユイの瞳には、本当の事を告げる時の色が浮かび上がっていた。確かにこの世界が解放された時には、ユイとはしばらく別れる事になるだろうから、ユイが一緒に居たいという気持ちもわかる。

 

 それに、ここまで惨劇を繰り返してきたこの世界が解放される瞬間も、これまでずっと傷付いた心のプレイヤー達を見てきたユイは、心の底から見てみたいと思っていたのだろう。

 

 ここまで言われたら連れて行かないわけにはいかないし、何よりユイを連れていけば……無事かどうかは不安だけれど、シノンも安心するだろう。

 

「わかった、一緒にママのところに行こ」

 

 言いかけたその時に、俺はある事に気付いた。この世界が解放されても、ユイは俺のローカルメモリの中に本体を置いているから、現実世界に帰ったとしても、別なところへ移す事が出来るだろう。

 

 だが、リランはどうなる。リランはユイみたいに本体を俺のローカルメモリに置いているわけではないから、現実に持ち帰る事は出来ないのではないのか。

 

「……ッ!!」

 

 咄嗟に振り向けば、そこにいるのはこれまでずっと俺達の事を支えてきた、このゲームの裏ボスとして存在していたはずの女帝龍・リラン。しかしその目つきは裏ボスのそれとは異なり、非常に温かい光がふわりと浮かんでいる。

 

 このゲームのクリアを手伝ってくれているのは、いつだってこのリランだった。だが、同時にリランはこの世界にのみ存在している住人だ。そのリランが生きる世界を解放してしまった時、クリアを果たした時、リランはどうなってしまうのだろうか。

 

「なぁリラン……お前……」

 

《わかっている。シノンを助けに行くのだろう。そして、《壊り逃げ男》を倒し、この世界をクリアする》

 

「そうじゃない。リラン、お前はこの世界をクリアしたらどうなるんだ。この世界がクリアされた時、お前は……」

 

 リランの表情が一気に蒼褪める。まるで聞かれたくない事を聞かれてしまったようにも思えるその顔で、俺はリランがこの先の事をどう思っているのかを把握する。

 

「お前はどうなるんだよ。この世界がクリアされたらみんないなくなる。この世界が存在している意味がなくなる。そしたら、お前はどうなるんだ」

 

《この世界を解放された時……この世界は……我らは……お前達……は……》

 

 途切れるリランの言葉。やはり結末を知っているのだ、リランは。だけど俺達に心配をかけさせないように、何も言わないようにしているんだ。

 

「リラン、やっぱりお前は……」

 

《……何を、考えて、オル、おる、おる》

 

「ッ!」

 

 リランは歯を食い縛ってぐるぐると軽く喉を鳴らした後に、全ての音を消して、俺の頭に《声》を送った。

 

《……今更何を考えておるのだ、お前は。この上は100層だぞ。お前達が多くの犠牲を出しながら目指した、あの100層なのだぞ。今更そんな事を考えて、お前達は足を止めるのか。進むのは嫌か?》

 

「違う、そういうわけじゃなくて……」

 

 リランはその大きな身体を軽い震動と共に動かして立ち上がり、上を見上げた。

 

《そうか。行きたくないのか。ならば我一人で行くとしよう。我がこのゲームをクリアしてくれる》

 

「お、お前何を言ってるんだよ!?」

 

 リランはくっと顔を下げて、がうっと吼えた。あまりに突然に獣らしさを全開にしてきたリランに、俺達は思わずぎょっとする。

 

《その言葉そっくりそのまま返そう! 何を言っているのだお前は! ようやくやる気になって100層を目指し始めるかと思ったら、今度は我の心配をして足を止めおって。お前達は何のためにここまで来たのだ。そしてキリト、お前は今どういう状況に立たされている!?》

 

 リランはもう一度天井を見上げて、その先の100層、紅玉宮に視線を向ける。

 

《シノンが連れ去られたのだぞ。そしてあいつはシノンを皮切りにどんどん実験を行うつもりだ。今あいつを止めなければ、シノンが死ぬぞ。それでもいいのか、お前は》

 

 思わず言葉を詰まらせる。確かにこのまま放っておけばほぼ確実にシノンは《壊り逃げ男》に殺される。だけど、100層に行けば《壊り逃げ男》との戦いを経て、そのままラストボス戦になる。

 

 ラストボスとの戦いに負けるなんて考えられないし、もし負けるようならばここまでの全てが完全に無に帰る。だが、ラストボスを倒してしまえば……その時この世界は終わる。

 

「そんなの駄目に決まってる。絶対にシノンは助け出す。だけど、その時お前は」

 

 直後、俺は頭に重みを感じた。何事かと思って顔を上げてみれば、白い毛に包み込まれているものの、肉球のある大きな獣の足があった。それがリランの前足だと気付くのに、そうそう時間はかからなかった。

 

《我の事を心配してくれるのはとても嬉しいよ、キリト。だがな、お前を守ると言う役目を持つ我と同じように、お前には役目がある。それは、シノンの居場所となってシノンを守っていくというものだ。

 ……我は最後まで役目を果たす。だからこそ、お前も最後まで役目を果たせ。もう、それ以外の事は何も考えるな》

 

 周りの皆は何も言わないため、リランが俺にだけチャンネルを合わせているのがわかった。そうだ、俺の役目はシノンを守り、シノンの居場所となっていく事。

 

 ここで進むのを放棄する事は、彼女との約束、役目を放棄する事、そして彼女を死なせるのと同義だ。やはり俺は、俺達は、進むしかないのだ。

 

「……わかった。いくぞリラン。最後の戦いだ」

 

 顔を上げながら告げると、リランは俺の頭から手を離した。その顔には、とても穏やかな表情が浮かんでいた。

 

 直後、少し険しい表情を顔に浮かべたイリスが声をかけてきた。

 

「私は最後の時まで子供達を見ているから……シノンの事は任せたよ、キリト君」

 

 シノンの専属医であるイリス――その言葉に頷いてから、俺は仲間達にもう一度向き直ったが、すぐさまディアベルが部屋の奥を指差しながら叫んだ。

 

「見ろ、上への階段があるぞ!」

 

 来た時にはなかった上に続く大きな階段、それがいつの間にか部屋の奥に現れている。恐らくアルベリヒの疑似体験迷路に引っかかっていたせいで見えなくなっていたのだろう。

 

 あの階段があるという事は、俺達は本当に100層へ行けるという事だ。

 

 

「皆、これが最後の戦いだ! いくぞ!」

 

 


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