四散心   作:無添加ゆずこしょう

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プロローグ

 

 

「あーもう少しであがりだったんだけどなぁ」

 

頬杖をついた男が溜息のあと愚痴をこぼした。

「まぁ今日も部長仕事終わってなくて残業コースだったからどのみちいい暇つぶしになってよかったんじゃないの」

「もうあそこ行くの何回目なのホント。どうせ今回もコスプレさんの迷惑行為とかそんなんじゃないの」

「でも今回ちょっと違うみたいだよ。何人か怪我してるらしいし」

「もうちょっ…と人に迷惑かけずに生きられないもんかねぇ」

法の番人である二人の男は通報にあった現場にパトカーで向かっていた。

 

その夜、駅前は騒がしい空気に包まれた。

何かが起こった。

その言葉を受けてネタに餓えたメディアや騒ぎを聞きつけた野次馬達、消防や救急、警察などが続々と集結する。

現場となった駅はこの町の交通機関の中枢、その近鉄線プラットホームと桜通口付近のトイレの間でそれは起こっっていた。

最初に駆け付けた警官は二人、その現場を見て顔を傾げた。

テロが起こった、怪しい二人組が走っていたなど通報が続出していたので少々緊迫して向かってきたつもりだったがそこには不審者の姿はなかった。

トイレからは煙が外に溢れていた。

室内は光源が割れており、煙と合わさって中の様子は全く分からない。

警官は口にハンカチを当てライトを照らしながらゆっくりと中へ入っていった。

室内からは人は見つからなかった。

ーいたずらか、全く迷惑なもんだな…

煙の充満したトイレから出ようとしたとき、警官の足に何かが当たった。

まるでソフトボールのように軽く小さい何かは煙に隠れるようにどこかに転がって行ってしまった。

何を蹴ったかは煙を抜いてから確認すればいいか、と換気扇のボタンを探し始めた。

警官の蹴ったそれは煙の発生源であることなどまだ知る由もなかった。

プラットホームには数個の和紙でできた球が、改札には持ち手の先に輪の付いた短刀が、のちに見つかることとなる。

 

 

夜中にかかわらず騒がしくなる駅前。

そこから200m程度離れたところに中学校があった。

職員はとっくに退勤し、しんとした校舎。

校庭にある遊具から全身黒い服装をした男が飛び出し、駅から遠ざかるように走り去った。

この日、最後の不審者通報だった。

 

 

1.

 

 

早朝。まだ日も上がらぬ時間。

寝坊常習犯なのに、珍しいこともあるもんだな。

どうやら新聞配達の投函の音で目が覚めたらしい。

今や情報メディアは数多あり、毎日溢れんばかりの情報が行きかっているというのに。

いまだに一方的かつ狭い視野の新聞なんてとってる世帯があるのか、と思った。

早くに目が覚めたのはいいが、朝が弱いのは相変わらずなので瞼が上がらない。

まだ目覚ましは鳴っていないが、二度寝して大変な目に合う予兆だろう。

かと言って、今から起きたところで特にすることもない。

出来れば、ギリギリまでこうして布団の中でいたい。

バイクの音は遠ざかって行った。

こんな寒い中ご苦労だな、と掛布団を引っ張り顔の半分を覆い隠すようにして呟いた。

冬の布団は人をダメにする。

優しく人を包んで離さないんだ。

その強力な魔力に負けないため、あえて徹夜をするなんて日もあった。

目覚まし時計の音はかき消し、無意識へと誘ってしまう。

今まで何度お前のせいで散々な目にあってきたことか。

もちろん布団のせいではなく自己責任だってこともわかってる。

動物と人間は括り的に全く別の進化を辿ってきたが未だに欲に対して自制出来ない部分が多い。

人類の大きな課題だなと勝手に立案する。

少し思考を巡らせたところで少し悟った。

これは二度寝に入る前のくだらない思考ではないか、と。

(そういえば昨日寝る前歯を磨くの忘れてたな…。最近虫歯かもしれない歯が出てきたし、傷んできたら嫌だし朝だけど磨いとくか)

体質なのかよく虫歯になってしまう。

そのたびに歯医者に出向き、銀歯が並ぶのが嫌だった。

かと言ってこうしてたびたび歯磨きを忘れてしまう自分をなんとかしたいとも思っていた。

何とかしたいと思いつつ今日まで何もせず生きてきた。

今日も朝からバイトがある。

生きながらえるためのアルバイト。

やりがいもなく、次の職場で仕事を覚えるのが面倒で辞めずに続けているバイト。

人間関係もさほど変わることもなく気楽にやっていた。

でも出来たらもうハローワークには行きたくないかな…。

「痛っ…」

口の右奥の上唇にできた口内炎に思わず顔をしかめる。

(もう出てきやがった)

新しくできた口内炎だった。

(とりあえず口の中の掃除が先だな…)

ふん、と鼻から勢いよく空気を出しつつ体を起こした。

そして、重い瞼をゆっくりと開いた。

 

 

2.

 

 

一体何が起こった?

それはいつもと変わらぬ風景だった。

ただの自分の部屋だ。

だが、少し違うところがある。

自分の姿が、完全に消えていた。

それは白人がかつて黒人に行っていた無視行為的なそれではない。

可視ができない状態になっていた。

しかし、足元を見ると、布団が自分の足の形に添って丸くへこんでいる。

恐らくは自分が透過してしまっているだけで重みや質量は変化していないのだろう。

夢でも見ているのだろうか?

わからない。

頬に両手を当ててみると感触はあるようで、幽霊的な現象ではなく俗にいう透明人間的な状態に自分がなっていることを自覚した。

なぜそうなったのか?

同じような日々の繰り返しで昨日あったことが思い出せない。

特に何もなかったような気がするが。

いつも通り遅めに起きて。

交代時間3分前に出勤して。

バイトから帰ってきて。

深夜までゲームやって、寝た。

別に変わったことなんてないはず。

本能がままに体の彼方此方を触ってみる。

(寝巻のジャージまで透明になってるし…)

なんだ、完全透明は全裸限定じゃないのか。

少し安心した。

とりあえず洗面所に向かおう、と部屋から出た。

まだ暗い朝。

シャッターの降りた暗い部屋。

普段は明るくなってからの起床なので不慣れな足つきで散らかった部屋のものを踏んだりしないようにゆっくり進んでいく。

就寝時に使うオレンジ色の小さな電灯は寿命を迎えてから変えていなかった。

「おお…見事に全身消えてんなぁ…」

洗面所の鏡に自分が移ることはなかった。

もちろん影も。

スイッチを押すとかなりのタイム差で照明する、白熱電灯が早朝の洗面台を薄暗く照らしているだけだった。

こんなことも起こるもんなんだな、と、改めて感心する。

しかし、今日の出勤はどうしようか。

普通に職場に向かって皆を驚かせても面白いけど…。

なんだかこの奇妙で信じがたい現象にずいぶん冷静に対処できているのではないか。

いつまでこの状態は続くのだろうか?

いきなり現れるような形で現象が終わってしまうのか。

だとして、次にまた同じ現象に巡り会うことがあるだろうか。

まだ試してみたいこともいろいろあるし、とりあえず。

「歯を磨こう…唾液すら染みる」

 

 

 

「体調が悪いぃ?」

「あーはい。頭痛がひどくてちょっと今日出勤するのきつそうです」

「そう。もう座ってもいられないほどそれはひどいのね?」

「はい」

「どうしても来られないのね?」

「はい」

しぶとい。店長しぶといぞ。

従業員同士ではある程度信頼関係や友好関係があるが、どうにも従業員と経営側の仲はいまいち上手くいっていない。

それは経営側が全くと言っていいほど従業員を信頼していないから。

高圧的に、一方的に強い口調で今まで気にしなかったようなことまで声を荒げて注意したりすること。

なのに従業員側の意見をあまり承認してくれないこともあり、表面上は打ち解けあっているように見えても、水と油のようにもはや混ざることすら難しい状況にあった。

従業員も個々に好き勝手やってるのも事実だが。

互いに仕事はこなしているので消費側、経営のさらに上層部の連中も特に何も言わない。

正直、電話もしたくない。

でも連絡は最低しとかないと後から何を言われることか。

「しょうがないわねぇ…」

ようやく店長が折れてくれた。

「前に早朝で三時間しかシフト入ってない矢立君に5時間延長してもらって、そのあとに入ってた冨野君に3時間早く入ってもらうから。感謝するのよ?」

「はい」

店長入ればいいじゃないすか、と心底思っていた。

店長ら経営陣は基本的に従業員のフォローに入ることはほぼない。

誠に勝手な自営業である。

「それじゃぁお大事に」

「」

返事を発する間もなく電話回線は切断された。

相手が受話器を置いたのだ。

「…」

耳からスマートフォンを離し通話終了の画面を確認する。

3分か。

長い3分間だった。

カップヌードルを待ってる時間なんて比じゃない。

いや、カップヌードルの3分はタイマーとかつけて他のことができる。

ひたすら文句を聞いているよりかよっぽど有意義に過ごせるな、と思う。

無造作にスマートフォンを今朝寝ていた布団に放り投げる。

最近頻繁に連絡を取る相手もいない。

電話を掛ける前少し気になってこの今自分が起こっている状態について調べた。

体が全く見えず、その体を透かして向こう側の景色を見ることができる。そこにいてもわからないが、感触では確認できる。

という定義らしい。

非常に類似した状況ではあるが、はたして信じてよいものなのか。

今まで沢山の”それ”を題材にした物語や映画を見たことがある。

それらの制作人に同じ体験をした人間はいるのだろうか。

もしいれば接触して、何かヒントの一つでももらえられないものか。

何かするにしても、この現象の終了時間がわからない今迂闊に夢に見た行動をするわけにはいかない。

ひとまず情報を集めてみるか。

勉強机のノートパソコンに向かう。

デスク用のモニターをデュアルモニター代わりにノートパソコンに繋いでいる、変な見た目のpcに。

 

 

 

 

透明人間になったら何がしたい?

夢のある質問だ。

普段できないことがしてみたい。

たとえば…。

ぱっと強盗や殺人など、よくある物語の行動ばかり思いついた。

もしくは覗きとか、男特有の性的な妄想。

割とまともなできることがない。

かと言って、この奇妙な現象をただ家で過ごして終わるのもなんだかもったいない気分だ。

擬態や迷彩ではない。

完全な透過状態にある。

いや、そもそもこの現象は俺一人にだけ起こっているのだろうか?

同業者が何人かいたりしてね。

そこから同業者同士による秘密厳守が目的の殺し合いが起こったりして。

もしそうだとしたらおっかないな。

でもそんなことが起こっても互いに目視はできないわけだから、足音を立てないように逃げればいいか。

さすがに裸で外を出歩くなんて記事を見て一瞬想像してしまったが俺はそこまで異常な人間じゃない。

そもそも衣類も一緒に消えている。

一体どうなっているのだろうか。

自分自身が完全透過してるほうが不思議なところだが。

「脱いで…みるか」

寝巻だし、確認だし。

と自分を言い訳しつつ上着のファスナーに手をかけた。

不思議なことに目には見えないのにファスナーの金属の硬さははっきりわかった。

先端の合成ゴムの部分を摘み、ゆっくりと下に添って動かしていく。

下まで行くとかかる力がなくなり、胸囲の軽く締め付けられる感覚がなくなった。

「あれ…」

袖から手を抜き、小さくたたんで左腕に持ってみたが可視できる状態にはならなかった。

ならば…と布団の上に上着を軽く投げた。

「やっぱりね」

黒い、緑色のラインの入ったジャージの上が姿を現した。

判定は自分に触れているもの、というわけか。

ならば、と試すように勉強机に触れる。

その瞬間。

机は跡形もなく消えた。

「うわっ…机の裏埃だらけじゃんきったね」

もうちょっと試すもの考えてやればよかったな。

手を離すと、代わり映えのない年季の入った勉強机が再び現れた。

散らかったプリントや広告。

パソコン、昔学校で使っていた教科書類。

1mmも動いちゃいない。

「モノは思い通り消えたりできるわけか…」

薄暗い朝日に照らされる部屋にTシャツとジャージの下が突然現れた。

マネキンのように膨らみのある衣類であるが中には人の形をした空洞があるだけだった。

どうやら。

「俺自身は消えたままっぽいな…」

触れているものの透過は自由に操ることができるのの自分自身の透過はコントロールできないようだ。

「まぁそれならそれでもいい。多少不便だが好都合なことのほうが多いだろうからね…」

さて、何をしようか。

 

 

 

 

「痛っ」

「どうした?何もないとこでつまずきそうになったか?」

「いや…なんか肩に当たったみたいな感覚があったんだけど…」

狭い通路を横に並んで歩いていた二人組の男の会話。

(もっと隅歩けよ…)

意を決して外に出た。

自分が空気なせいで行きかう通行人は空気に何のためらいもなく突っ込んできた。

(これ普通に移動するより相当疲れるな…)

目的のない外出が始まった。

遠出しようかと思ったが車を出すにも、運転者が見えなければ何かあるかもしれない。

自転車も、道が狭いところに入ったりすると歩行者や車がためらいもなく突っ込んでくるかもしれない。

最前は歩行だろう。もっとも小回りがきくし、衝突した相手の被害も考えての決断だった。

だがその決断によって長距離出かけることはできなくなった。

普段、様々なことに追われて生きてきた。

山を越えるたびに暇つぶしに、休日を無駄にしないように。

ふらっと向かうところ。

今回も特に目的がなかったためか、やはり無意識にその場所へ向かっていた。

駅前。

通勤のピーク時間が過ぎ、人も少ない。

(…)

なんでこんなところに来たんだろうか。

かつて学生時代利用していた駅前は今ではどこか遠い存在のように感じていた。

近くて遠い存在。

結局改札まで行ったところで、引き返した。

通りを出て、流されるように右に行く。

ふと、空を見上げた。

高層ビルに囲まれ、多角に切り取られた空。

どこか窮屈に感じられた。

足元に敷き詰められた灰色の石のタイル。

青に輝くガラス張りのビル群。

田舎者が見たら息苦しさすら感じるだろう。

周りに俺を気に掛ける人はいない。

いや、この町の人々はいつも何かに追われていて、他人をかまってる暇なんてない。

だからこそ、ああも生き急いでいるのだ。

ああも疲れた顔をしているのだ。

様子見にふらりと寄ったつもりだったがただどこか悲しい気分になっただけだった。

自分勝手に立ち寄って自分勝手に毛嫌いし、逃げるように離れていった。

まるで好奇心で近寄って行って、危険に気づき怯えて逃げる子供のように。

通学時に利用していた時とは違う。

いや、気づかなかっただけか。

そこに卒業式後の学校の名残惜しい気持ちはなかった。

ただ、無感情で利用客を受け入れるロボットのように思えた。

駅前に現れた透明人間は誰の気にも留まらぬまま去った。

 

 

 

 

「おはようございますー」

「あ、冨野君今日早いんですね」

「ほら今日岩沢君いないじゃないですか、だから3時間早く出勤なんですよね」

「災難ですよね」

「いやいや…矢立さんなんて5時間追加ですよ…」

「店長やマネージャーフォロー入ってくれませんからねぇ…」

「まぁ岩沢君が抜けなきゃいい話なんだけど、彼に助けてもらったこともあるから何も言えないなぁ」

「岩沢君も若干恩着せがましいところあるからなぁ」

「そうなの?」

「この前シフト代わってもらったんだけど、そのかわりにもし自分が困ったことがあったら助けてくださいねって」

「まぁ…今日こうして休んでいて、助け合ってるわけだから…」

「お互い様ですね」

店の奥、事務所から矢立が出てきた。

ユニフォームは着ていない。

私服だ。

「これで上がります。お疲れ様でーす」

二人の従業員は矢立に振り返り、お疲れ様ですと挨拶した。

矢立が出て行った後、売り場のほうに二人が視線を戻す。

「噂をすれば、だな」

「俺らが岩沢フォロー入るのは全然かまわないんだけど、店長うるさいからなぁ」

「それな」

「フォローのこと内緒にするとそれこそめんどくさいからなぁ」

「うん」

「何でもいいけど岩沢君何かあったのかね?」

「さぁ…店長は体調不良だって言ってましたよ」

「俺さ…あんまりアイツの言うこと信じらんないんだよね…」

「ズル休みってことですか?」

「いやまぁ…何つうか…あれだ。真面目系クズタイプじゃない」

「結構言いますねぇ」

「仕事もちゃんとやってるし、敬語だし、あんまりミスしないし。だからこそタチ悪いっていうかさ」

「まぁわからなくもないですね…」

二人以外店には誰もいない。

だからこうして二人は気兼ねなく雑談している。

もちろん仕事はこなしている。

監視カメラ越しに店長が見てるからだ。

「真面目系だからさ…若干利用させてもらってることもあんだよね」

「えっ」

「いやたとえば発注数ミスったらアイツのせいにしたり、会計ミスってもアイツのせいにしたりさ」

「マジすかそれやばくないすか」

「いやいやいや俺がミスるよりアイツがミスったことにするとさ、店長もそんなに怒んないじゃん?

痛み分けよ痛み分け」

「もしかして嫌われてるんすか彼?」

「そうなんじゃない?みんなやってるってたぶん」

瞬間、事務所の扉が大きな音を立てて開いた。

「なんだ?」

「店長が勢いよく出てったのかもな」

 

 

 

「何だよ…クソ…」

こんなことを聞くために、こんなことをしたわけじゃない。

こんなつもりじゃなかった。

まさか自分の悪口を聞く羽目になるとは。

こんなつもりどころじゃない。

むしろ聞きたくなかった。

あれ?

もしかして自分はあの職場で…。

(俺はもしかして嫌われてるのか…?)

いや。違う。

(利用されてた…それなりに仲良いと思ってた奴に…)

人なんてそんなもん。

わかっていた。

自分も嫌いな奴でもこれ以上関係を動かさないように笑顔で対応している人がいる。

それは本音と建前の国、日本では嫌でも求められる能力だ。

面と向かって言われない分、ショックは大きかった。

今までいじめなるものにあったことがない。

それなりに誠実に、適当に生きてきた。

だからこそ余計色々なことを考えてしまう。

(何なんだろうな…この気持ちは)

頭を抱える。

見えない両手で見えない頭を。

従業員用の駐車場の片隅で誰にも気づかれず。

俺はいしころか。

その辺のこいしやほこりなんだ。

何もしない無害なゴミだ。

(結局、何もできなきゃつまらない能力なんだな)

犯罪を実行する勇気はない。

別に自分の手を汚してまで何かしたいとも思わない。

(もっと別の能力…時間の操作とかそういうのだったらもう少し面白くなりそうなんだけど)

ふらふらと立ち上がった。

職場を離れる。

興味本位で立ち寄ったがおおよそこの行動はマイナスだっただろう。

激しい後悔。

頭は真っ白だ。

駅前から東に1kmほどのところに職場はある。

わざわざ危険を冒してまで聞き耳を立てに来たのに、結果は散々だった。

時刻は3時を過ぎていた。

無駄にしてるなぁ…休日。

 

 

「痛っ」

「どうした?」

痛みを叫んだ男はその場に倒れた。

「おいおい…お前どうしたんだよ今日なんかおかしいぞ」

「自分でもわかんねぇ…でもさっきのとは違って肩じゃなくてつま先にひっかけた感じがした」

男が手を取り合って立ち上がる。

「でもさ、ここ段差ねえよ?」

「何なんだろうな…。まさかのドジキャラ転身すか俺」

「知るかよ」

男達は苦笑しながら再び歩き出した。

 

「なんじゃありゃ」

老父がぽつり、目を丸めて言った。

「どうなすったおうさん。また不良に家落書きされたんか」

「いや…なんか、マネキンが動いているのが見えた…気がする」

「はぁ?」

「それが目ぇ凝らした瞬間消えはったんや」

「薬でもやったんか?そんなことあるわけないやろ」

「せやなぁ…」

付近のホームレスの男二人の会話だった。

 

「ひっ…」

「ん?どしたん」

「空耳かなぁ『聞こえますか~』って向こうから…」

少女はおどけながら声の聞こえた方向に指さした。

指さした先には大きな道路の横断歩道。

上空には高速道路を走る車が走行音をまき散らしていた。

「空耳じゃない?この辺騒音酷いじゃない」

「でも確かに聞こえたんだってぇ…」

話を聞いてる側の少女は首を傾げた。

「なんかこう…じめっとした低い男の声…」

「なんか怖いよ大丈夫?」

「うん…もう帰ろうなんか怖い…」

いち早く学校から下校していた近所の中学生だった。

二人は逃げるように横断歩道付近から去って行った。

もちろん少女がきいたのは空耳ではない。

 

(怖がらせちゃったかなぁ)

もう少し好奇心で明るい反応を期待してたのに。

でも、対象が悪かったか。

こりゃ不審者として通報されてもおかしくないな。

俺はあれから、ばれるかハラハラしながら付近の通行人にちょっかいをかけていた。

もしかしたら自分に気づく奴が出てくるかもしれない。

そんな期待を寄せて。

 

 

 

 

そもそもなぜこの現象は起こっている?

神なるものがいて、ただ観察し反応を楽しんでいるのだろうか?

それともどこかの組織がこの現象を引き起こすきっかけになる何かを開発し、無作為に選ばれた実験台がたまたま俺だったとか。

なんとはた迷惑な。

監視するものがいるなら相当退屈しているだろう。

俺は犯罪を犯す勇気がないからだ。

透明になったからと言って常識外れた行動をとらないから。

今の状態でも十分常識外れだが。

いいだろう。

今までの体験からしてもう少し踏み切ったことをしてもいいんじゃないかと思い始めているところだ。

いきなり空気にされ気分だ。

部屋の隅の埃だ。

俺はこの状況の居心地の悪さに耐えられなくなっているのかもしれない。

ミュージシャンが無音のスタジオが嫌いなように、自分もこの誰にも相手してもらえない状況が嫌なのだ。

誰かに気付いてほしい。

誰かにかまってほしい。

たとえ透明でも。

やってやる。

道端の小石に気付くまで。

捕まってもいい。

もしかしたら学者が集まって俺を実験台にされてしまうかもしれない。

今はそれでもいいとすら思っていた。

 

不気味な光景だった。

夕日が沈む刻。

駅前から東にある、上空を高速道路が走る交差点。

4、50mはあるだろう長い横断歩道。

時間的に家に帰る学生や社会人がいてもおかしくないのに、ひっそりとしていた。

車は相変わらず多い。

だが、通行人は一人もいなかった。

隣接するコンビニエンスストアからも人影は伺えない。

周りを見る。

これでは相手にしてくれそうな人すら見つからない。

しょうがないから駅前まで戻るか。

そう思いまっすぐ横断歩道の前で止まった。

交通する車が多くてさすがに信号無視はできない。

信号が変わるのをおとなしく待つ。

(…?)

視界の横を通る車の間に紛れて、横断歩道の向こうに人影が見えた。

街灯の逆光で服装や顔ははっきり見えない。

少し待っていると信号が変わった。

向こう側の人の、姿が露わになる。

 

(あれは…忍者?)

 

 

2.

 

 

「私は、お前の”懼”…」

 

相手からは50mは離れている。

ありえないはずだが語り掛けるような声量ではっきりと聞こえた。

夕日は沈み月が町を照らす。そのもと、忍者が佇んでいた。

全身紺色。額には金の装飾。頭巾で顔は見えない。腰にはいくつもの道具が背負われている。

コスプレとしてはよくできているレベルだ。

目の前の忍者は横断歩道の向こう、正面に立ち微動だにしない。

なぜここにいる?

そういった類のイベントが近くであったのか?

そもそも俺の姿は今可視できない状態にある。

つまりは今の言葉はこちらに向けられた言葉ではないのかもしれない。

あるいは空耳か。

試すように小さく返事をする。

「…お前とは誰のことだ?」

返事はすぐ帰ってこなかった。

忍者は顔を上げた。

元々俯いた角度であったので微かな変化ではあったがはっきりわかった。

忍者がこちらを向いている。

こちらの姿は見えないはずじゃなかったのか?という疑問を頭によぎらせた瞬間。

「…岩沢ゆずき」

聞こえてきたのは自分の名前だった。

嘘だろう?なぜ俺が認識できる?

まさか現象は終わっていたのか?

とっさに自分の両手を見た。

少なくとも俺の目には見えていない。

なぜ?日中俺は完全に空気だったはずだ。小石だったはずだ。

効果が切れたのか?

やはり俺を監視する者がいて、実験が終わったから処分しに来たのか?

思考が拍車をかけ始めた瞬間、視界内に忍者が飛び込んできた。

(…‼)

反射的に裏に飛び出したユズキは尻餅をつき、肩まで地面に接触した。

忍者は目の前で止まり肩から飛び出している突起の一つに手をかけた。

よく見ると頭巾の隙間から見えるはずの目元は闇に隠され見えない。

目の部分から赤い光が発行しているだけだった。

突起を引き抜く。

刀だ。全身がはっきり見える今突起は少なくとも6つ以上ある。

その中の一本を右手で引き抜いているのだ。

ユズキは骨盤に受けたダメージに震えながら上半身を起こした。

「なぜ…」

ユズキの問いに答えず忍者は右腕を大きく空に向かって振り上げられる。

短刀を握りしめられていた右こぶしは一瞬解かれ短刀が180度向きを変えた。

刃先が下に持ち替えられたのだ。その刃の先にはユズキがいた。

瞬間忍者は右手を振り落した。

 

 

 

一閃。

キンッと短く金属が擦れる音がユズキの耳元に響いた。

謎の忍者が振り下ろした短刀は地面に敷き詰められたレンガブロックの間に刺さった。

ユズキがとっさに頭を逸らしたのだ。

「くっ…」

それは本能、反射的に動き出したものだった。回避が成功するとは思っていなかった。

我に返ったユズキはすばやく上半身を回転し立ち上がった。

正面を向くと忍者が走ってきた横断歩道が視界に入った。もう赤になっている。

だがまだ車は止まったままだ。青に変わる前のすべての信号が赤になっている状態にあった。

「行けるか…?」

選択の余地はなかった。

すぐ裏にはいきなり切りかかってきた謎の忍者がいる。

赤の横断歩道を真っ直ぐに走り出した。

ユズキは陸上選手ではない。素人のスタートダッシュは残念ながら横断歩道を信号が切り替わる一瞬で50mを走ることは火を見るより明らかだった。

歩道から横断歩道に一歩出た瞬間、信号は青に変わった。

車の群れは徐々に加速し始め、ユズキの行く手を阻んだ。

ユズキは横断歩道を完走することはできなかった。

真ん中、高速道路の柱のためにできたスペースを使った安全地帯で立ち止まった。

瞬間不安に襲われ、裏を振り向く。

忍者はちょうど短刀を再び背中の鞘に納めこちらを振り返ったところだった。

「くるか…?」

もちろん、と言わんばかりにこちらに突進してきた。

横から迫っていた車が悲鳴のようなブレーキを上げた。

構う素振りを見せぬまま忍者は駆ける。

「お構いなしかよ…」

ユズキは身を翻した。

どこへ逃げる?もう人気のある駅前へは車の壁に阻まれて出来ない。

裏からは忍者。横しかない。

安全地帯から抜け出し、道路の真ん中を北の方へ。

道の端は思ったより狭く下手したら30cmもないかもしれない。

頼むから右寄って走ってくるなよ、と裏から向かってくる車に願いながらなるべく端を走る。

(ちょうど次の柱にはしごがある…)

点検用か何かかユズキには分かっていなかったがたまたま知っていた。

高速道路の柱に設けられた柱を。

少しサイドミラーに接触したくらいで無事に柱まで走りぬいた。

(ここまでくれば上に登って…)

そこまで考えたところでユズキは硬直した。

それは当たり前のことだった。

はしごが施錠されていて、自由に上り下りできないこと。

慌ててあたりを見回す。

歩道に出るタイミングはあるか?

待っている間に追いつかれる。

(車にしがみついて逃げるか…映画みたいに)

 

 

 

もはや運命すら感じた。

ダンプタイプの大型トラックが、柱の向こう側の車線の第二通行帯を走行していたのである。

一番手前の車線、第三通行帯には次の車まで距離がある。

しかも、トラックは進路変更したばかりで低速になっていた。

今しかない。

ユズキは柱にかかったはしごの柵に手をかけ、道路と道路の間に植えてある植物の上を飛んだ。

三歩程度のステップでトラックのサイドガードと呼ばれる前輪と後輪の間に設けられた鉄柵に足をかけた。

忍者が遅れて柱まで追ってきた。

(さすがにここまでは来れないだろう…)

トラックの荷台にゆっくりよじ登りながら忍者の様子を伺う。

さて、どうする?

忍者は一瞬間をあけてこちらに走り出した。

トラックは加速し始めているが、忍者の方がその瞬間のスピードでは勝っていた。

忍者がトラックの裏あおりに手をかける。

リアバンパーに足をかけ、荷台に上がってくる。

荷台の前の方にいたユズキは焦っていた。

もちろん追いつかれることも、トラックに上る前から攻撃されるかもしれないということはわかっていた。

何かせめて対抗できるものは?

足元にある金属製の棒をしゃがんで手に取る。

それはトラックが荷物を濡らさないためにシートをかける際、ビニールハウスのようにシートを張るための骨組の一本のだった。

両手で持ち、構える。

忍者は荷台に登り終わりこちらの様子を察して先ほどの短刀を抜いた。

ユズキは中学生の頃にやったきりの剣道をうろ覚えで真似て相手の体に真っ直ぐ鉄棒を構える。

忍者は両腕を肩の高さまで上げ、ユズキの鉄棒と垂直になるように真横に刃先を構えた。

両者じりじりと足を引きずりながら微妙に距離を縮めていく。

トラックは止まらない。

ユズキと忍者が初対面した交差点は信号に阻まれることなく直進していった。

トラックは大型だが荷台は8mもないだろうか。

忍者の短刀が一歩踏み出すだけでユズキに接触しそうになった距離に達した。

先に動き出したのは忍者の方だった。

真横に構えていた刃を振り上げると同時に兜割のように真っ直ぐにし、ユズキに向かって振り落す。

ユズキは鉄の棒を少し角度をつけ短刀を受け止める。

忍者の腕力は圧倒的な差ではなかったが運動をしないユズキに比べればわかりやすいものだった。

「うぅ~…」

ユズキが低いうなりを上げる。忍者に力負けし、短刀を受けつつ後退しているのだ。

荷台の一番運転部に近い部分鳥居部まで後退した。

背中が当たっている。もう後退はできない。

ぶつかった衝撃、反発する力を利用し抵抗する。

忍者は短刀に加える力を緩め軌道を変える。

忍者とユズキの場所が入れ替わる。

両者、再び構え合う。

 

「ふんっ」

ユズキはバットを振るように鉄の棒を忍者に向けて横に振った。

(フルスイングなら!)

狙いは当たり、ほぼ短刀の根本に当たり忍者は短刀を右手からこぼした。弾いたのだ。

勢いよく弾かれた短刀はトラックの隣、第一通行帯を走行していたワゴンの後部サイドガラスを突き破り、誰も座っていないシートへ突き刺さった。

瞬間ワゴンから悲鳴が聞こえ、急ブレーキをかけた。ワゴンは遠ざかって行ったがトラックは依然としてスピードを保っていた。

もう一度!と言わんばかりにユズキは鉄の棒を振り上げ、忍者の方へ落した。

忍者はとっさに左の肩から突起している刀に手をかけたが間に合わず右肩、首に近い位置で鉄の棒の打撃を受け止めた。

人間なら鎖骨は確実に粉砕骨折しているだろう。相手が人間ならば。

「おぅっ…」

ユズキは思わず声を漏らした。

右肩を破壊したはずの忍者が、右腕で強烈なパンチをユズキのみぞおちに食らわせたのだ。

ユズキは鉄の棒を持っていられず、その場に落とした。

カラン、と金属音がトラックの荷台で響いた。

激痛に耐えるため両腕を体に巻き付けて抑える。

「いってぇ…」

ごほごほと咳き込みながら言葉が漏れ出す。

うまく呼吸ができない。

忍者の方も右肩を抑えこちらの様子を伺っているようだった。

トラックは変わらぬスピードで街中を真っ直ぐに進んでいた。運転手はまるで荷台で起こっていることを知らないようだった。

先手をユズキが打つ。右腕を握り忍者の顔面めがけて突き出した。

忍者は左手を外側に振り、手の甲でユズキの拳を逸らせた。

続けてユズキの左拳を。

一方的な暴力ではない。攻防が続く。勢いは変わらないまま、まるでひたすら刀を交え続ける構図になっていた。

拳がくれば逸らし、防ぐ。その隙を見て相手に自分の拳を突き出す。

(どこかに隙はないのか?)

連続で攻撃をし、防御もしているので隙はない。

むしろ徐々にダメージを受けている。突き指や打撲をこの瞬間ユズキは何度もそれと似た痛みを味わっていた。

実際三割程度防御は失敗していた。添わせる腕の読みを間違えれば顔や胴体に拳は直撃するし、掌を開いた状態で行う防御は突き指を何度もした。

忍者にダメージを与えられている手ごたえはない。

このままではユズキが倒れてしまう。

(このままでは…!)

瞬間トラックの荷台が大きく揺れた。

進路変更、第三通行帯に移動したトラックが大きな交差点を右折したのだ。

ユズキと忍者はバランスを崩した。それは電車の初期加速の際、予期せぬ衝撃に乗客が倒れぬようにバランスと保つために一歩、体が傾いた方へ足を反射的に出すのと似ていた。

ユズキは慌ててバランスをとる。その瞬間を忍者は見逃がさなかった。

忍者は左の腰からくないを一本抜き出し、真っ直ぐユズキの頭に向かって突き出した。

しかしくないは空を斬る。

上半身を精一杯逸らせた状態でくないを握る左手首を狙い中指を1cmほど突き出した拳を食らわせる。

見事、くないは腕から弾かれるように飛んでいった。

 

 

 

 

(そろそろきっついな…)

ユズキと忍者。

突如透明になった人間と突如現れた正体不明の忍。

互いにトラックに乗った最初の状態になっていた。

忍者は短刀を二刀流で独特な構えを。

ユズキは落としていたはずの鉄の棒と忍者が零した、くない。

互いに二刀。

既にユズキ側は体力の限界だった。

(これに賭けるか…?)

トラックは南方面へ向かった後、すぐに西に曲がった。

道は片側3車線あった広い通路から、中央分離帯すらない道路に入って行った。

速度は減速し続けているもののまだ時速50kmは出ているだろう。

(ある意味最後の賭けかもしれないな…)

トラックは細い道を抜け、優先道路を横断し、こんなトラックが通っていいのかと疑問を浮かべるほど小さいトンネルに直進する。

優先道路横断、トラックがトンネルに差し掛かった瞬間。

「ふっ…」

ユズキは突進する。

鉄棒、くないを逆ハの字に展開するように、振りかぶる。

忍者は数字の11になるように二本の短刀を平行にして構えた。

衝撃。鍔迫(つばぜ)り合い。だがもう刀同士で受け止め、耐えるようなことはしない。

忍者の刀に衝撃を与えた。それだけで十分だ。

鉄の棒とくないを放す。短刀を握る両腕の手首を握る。忍者の両腕を抑えた。

ここだ、と言わんばかりに忍者の左腰を下から思いっきり蹴りを入れた。

忍者の小物入れからガシャン、と音がしさまざまなツールが落ちる。

まず三本刺さっていてユズキがさっき奪い残り二本になっていたくないが飛び出した。

スパイク。熊手。カギ縄。

もうコスプレだとしても本業でしょ、と悪ふざけで任命したくなるところだ。

「もういっちょ!」

同じ箇所を蹴る。

ようやくお目当てのものが出てきた。

ソフトボール程度のサイズで和紙でできた球が飛び出した。

煙玉だ。まもなくして煙玉は爆発した。

英語ではスモークボムと訳される。花火の煙玉のように勢いよく煙が噴出し煙が充満するのではなく、一瞬にしてあたりに煙が散布される。

ユズキは瞬間的に忍者の手を放し、トラックの荷台を飛び出した。

煙に驚いたのか、トラックは急停止する。忍者は慣性に負けトラックの荷台の前の方に飛ばされていった。

ユズキは煙から脱出していた。トンネルは真ん中あたりに階段がある。

トンネルは電車の線路の下にあり、そこの中心あたりに点検用かわからないがスペースがあるのを知っていた。

もちろん先ほどのはしごの失態はない。

フェンスはどこぞの不良がこじ開けたのかフェンスに穴が開いていた。

隙間をくぐる。階段を駆け上がる。

 

 

ひたすら線路沿いを走る。

脇腹が痛む。両腕も可視できる状態ならアザだらけだろう。

敷石がザクザクと音を立てる。

「はぁ…はぁ」

脇腹を抑えながら必死に北側へ走る。

この町で一番大きな駅へ。その距離およそ400m。

裏から明かりが近づいてくる。

「運がいいんだか悪いんだか…」

背後から電車が迫っていた。

緋色のボディでトレードマークとなりそうなラインが特にない特徴の少ない地元の私営電車だ。

当然停車駅まで距離がないので減速している。

通過列車でその勢いに驚き一歩下がった体験をした人も多いだろう。

そんな電車が少し走れば追いつく程度に減速していた。

最後の車両が通り過ぎようとしている。最初は足がかけられそうな車両下部のボックスを探していたが裏の方に絶好のしがみつきポイントをユズキは見つけた。

車両の隅にある車掌専用室のドアの下に足をかけるはしごが1段だけぶら下がっていたのである。

手はドアのノズルにかけ、電車に摑まる。

忍者は追ってこない。いや、追ってくる様子はないという表現の方が正しいか。まだ追ってきているかもしれないが暗闇に阻まれて見えない。

どうする?

交番に出向いて保護してもらうか?

服を見えるようにすればもしかするかもしれない。

隠れるか?

忍者は夜になった途端現れたのだから朝になれば消えるか?

そもそもあの生気すら感じられない忍者は何が目的で俺を襲う?

忍者は倒せるのか?死ぬのか?捕まえて雇い主を聞き出すか?

たたん、たたんと音を出すペースを落とす電車のドアに摑まりながら、透明な人は考えていた。

「おっと、降りないと」

駅に着く手前、ユズキは慌ててしがみついていた電車から飛び降りた。

このまま停車するまで待っていたらホームと電車にサンドされてしまう。

誰にも見つからぬまま死ぬ。ある意味本望かもしれないが今はそれどころではない。

「ん?」

駅の向こう、自分が走ってきた暗闇からザクザクと音が近づいてきた。

忍者だ。

「もう来たか…!」

ユズキは慌ててホームへよじ登り鉄柵を飛び越えた。

ユズキが走り去った瞬間、停車した電車のドアが開き乗客が溢れだしプラットホームをいっぱいにした。

ユズキは息切れながら、エスカレータを駆け上がった。

 

 

 

「きゃっ」

「痛い」

「おい何処見てんだッ」

「忍者だ!」

「コスプレか?」

短い悲鳴や怒号がプラットホームに響き、消えていく。

これでもかと言わんばかりの人混みを忍者はお構いなしに突っ込んでいった。

体当たりの連続。

座り込む女性もいる。

「まじかよ…」

ふと下の階の騒動に振り返ったユズキが呟いた。

忍者が階段を駆け上がった瞬間前を向いてユズキは駆けだした。

忍者が通行人を押し倒し、かき分けて階段を駆け上がる。

階段を上がり終え、周囲を見回している忍者の裏からユズキが渾身のタックルを食らわせる。

忍者は階段横の壁へ激突した。

ユズキは再びターンして改札の方へ逃げていった。

「うぅっ!?」

改札を飛び越えようとした瞬間、足に激痛が走る。

右足首靴と長ズボンの微かな間。

忍者の投げた短刀の一本がユズキの靴下を貫通して右足首に浅くかすった。

改札の扉に足が引っ掛かり、ユズキは頭から転げ落ちた。

ピンポーンという警告音が改札本体から響いている。

冗談じゃない。コントじゃないんだぞ、と心の底で叫びつつ立ち上がり走り出した。

「なんだあれ服が歩いてるぞ」

「首なしみたい」

「何かの撮影かな」

ふと、ユズキの耳にそんな言葉が飛び込んできた。

「まさか…!?」

悪い予感が当たる。

ユズキは白いパーカー、黒いジャージ(下)が可視できる状態になっていることを確認した。

「しまった」

服を可視できる状態にすれば警察に保護してもらえるかもしれない、先ほど考えていたことだ。

服の可視のコントロールは意志、思考で出現させたり透過状態に出来るのだから当然気を抜けば透明人間はさらし者だ。

慌てて姿を隠す。

「あ、消えた」と裏からちらりと聞こえたのでおおよそ成功しているだろう。

ユズキは透過状態のまま人混みを避けながら通りを走って行った。

 

 

 

忍者はゆっくりと激突した壁に腕を当て立ち上がった。

周囲の人々は不思議がりつつも見て見ぬふりして通り過ぎていく。

忍者は改札の方へ向かって歩き出した。

徐々に加速する。改札直前。

忍者は高跳びでもするかのように背中を地に向け飛び出した。

改札の扉ではなく改札本体丸ごと飛び越える高さはあった。

不良の座り込みのような体制で着地した忍者は裏から「ちょっと君待ちなさい」と駅員が叫んでいたがお構いなしに走り去った。

もうすでに改札の前の通りにユズキの姿はない。

しかし忍者は匂いを嗅ぎ分け犯人を見つけ出す警察犬のように、導かれるかのように前へ進んでいった。

忍者は少し人混みを離れた通りで止まった。

そこは通りから少し離れているうえに少し陰に当たる場所にあるためあまり利用率のよくないトイレだった。

忍者はなんのためらいもなくゆっくりと入って行った。

トイレ内はさほど広くない。

忍者は入室してすぐ手前にある手洗い場前でぴたりと止まった。

まるでここにユズキがいるはずだ、と言わんばかりに。

残念ながらユズキの姿は忍者の視界内で捉えることはできなかった。

気配はあるのになぜいない?とでも考えたのか忍者はゆっくりと顔を上げた。

瞬間忍者の視界は暗闇に変わった。

 

「おらッ」

天井はさほど高くはないがユズキが大きなバケツをもって忍者へ飛び出した。

掃除道具置場から拝借した青い小さなバケツ。

ユズキのさほど重くない体重が、落下によるエネルギーをまといながら忍者の首へ襲い掛かる。

忍者は手洗い場の前に向かって前かがみになって倒れた。

ユズキは忍者に馬乗りになり忍者の両腕を塞いだ。

そして忍者の首に腕を絡ませる。

昔見たドラマで、警察が被疑者の首を絞め気絶させるというシーンの猿真似だ。

忍者は吊り上げられた魚のように飛び上がる。

わずかに稼働する手首を使い腰の道具入れからまきびしを投げつけたりして抵抗している。

ユズキは背中に刺さるまきびしの痛みを耐えながら首を絞め続けた。

煙玉が爆散する。忍者も必死だ。

忍者は体を震わせながら、徐々に弱っていった。

ぴたり、忍者の動きが止まった。

首の抵抗する力も一切なくなった。

「気絶したか…?」

それとも、死んだか。

絡めていた腕をユズキはゆっくりほどいた。

忍者は動かなかった。

ユズキが立ち上がった瞬間、じりりと警報が鳴った。

報知器が煙に反応したらしい。

「まずいな…」

煙だらけで立ち上がると忍者の姿はほぼ見えない。ユズキはそそくさとトイレから出ていった。

 

 

 

 

駅前は騒がしい空気に包まれた。

サイレンが響く。警察に消防車が風のように流れていった。

駅前の詳しい様子はわからない。

ユズキは駅から200m東に行ったところにある中学校の校庭にある遊具に腰を下ろしていた。

見通しの良い滑り台の頂上付近。

足を怪我していたのでゆっくり歩いてきたが忍者は追ってこなかった。

「なんなんだ…一体…」

初めて透明人になった夜、謎の忍者に襲われる。

なんだそれは。

メジャーっぽいが聞いたことないぞ、そんな物語。

しっかしよく生き凌いだな。

自画自賛。行き当たりばったりな作戦ばかりだったが。

続いて追手が来ることがあるのだろうか?

忍者以上に手ごわい奴が来るかもしれない。

結局警察に届けることもしなかった。

それは今の自分の特殊な状態を説明できないこともあるが、本能的に隠そうとしてしまったのかもしれない。

今はそれでいい…。

もしかしたらそれは誤った判断かもしれないが。

これから先、どうなるのだろう?

謎の追手と戦う孤独なヒーロー。

他人事で客観的に見るならかっこいい限りだろう。

でも今日みたいなことを続けるのは無理だ。お手上げだ。

先ほどのことを思い出すだけでも心臓が痛くなる。

ユズキが再び思考の無限回廊にはまりかけた途端、背後から聞こえた声に引きずり出された。

「おい!ここで何してる!!」

ライトをこちらに照らしながら男が叫んでいる。年季の入った声だ。

「やべっ」

またやっちまった。

とっさに透過状態になった。

中学校の用務員はライトを周囲に照らしながら「やろう、どこ行った」と呟いて周囲を見回している。

見つかる心配はほぼ無くなったが、見つかると面倒なので帰宅することにした。

自宅まではまだそれなりに距離がある。

痛む足を引きずりながらゆっくりと歩いていく。

突如駅に現れた透明人間は夜の駅前に消えていった。

 

 

 

インターミッション

 

 

「心臓病の一種です」

病室の一室で、眼鏡をかけた小太りで白衣の男が二人の親子に向かって言った。

親子は両方とも女だった。母親の方は驚きつつも続けてください、と医師に更なる説明を求めた。

「生まれた時から休むことなく動いている心臓が、病気によって働きが悪くなっているのです」

巻き毛にロングヘアの母親は両手を口に当て医師の話を聞いていた。

ショートカットの娘は俯いたまま微動だにしなかった。

「病が進み働きが悪くなり続けると、十分に血液を送り出せなくなります。心不全になるのです」

えぇ、という母親の動揺の一言を無視して医師はこう続けた。

「今回出た診断結果から考えるに、残念ながら薬による治療では心不全は改善が望まれないでしょう」

ピクリ、娘が反応しゆっくりと顔を上げた。

「近い将来、自分自身の心臓では生きていけなくなります」

うう、と母親側が泣きだした。

「先生…どうすればよいのでしょうか」

有効な治療法はあるのか?それとも残った期間をどう生きろというのか?

どちらの意味を込めて聞いたのかわからないが母親が小刻みに震えながら聞いた。

「成功率は八割ですが有効的な治療法があります」

娘は目を静かに見開いた。

光を失った赤い瞳で。

医師もその様子を見たうえで続けた。

「近年増えてきている心臓移植です」

自分の弱ってしまった心臓と相手の健康な心臓を交換すること治療法だ。

大概提供をする側となるドナーは死亡している場合が多い。

提供する部位以外の箇所の病で倒れ、死亡した者。自殺者。

臓器提供意思表示をした者が死亡した際にその部位を取り除き、まだ命あるその臓器を必要としている者に渡される。

有効な治療法がないなら取り替えてしまおうという横着にすら聞こえる治療だった。

「すぐに見つかるものなんですか…?」

母親が言っているのはおそらくドナーのことだろう。

娘の意見はお構いなしに話を進める。

「もちろん少々お時間がかかります。最短でも一週間は欲しいところですが」

「お願いします…娘を救ってください…」

まるでドラマのワンシーンみたいなことを母親がやっている。

医師はその姿はようやく見慣れてきたモノだったがやはり慣れないな、といった顔をした。

それはごくごく当然の姿で親のあるべき姿だった。

「…」

娘は黙って俯いたままだった。

医師はその姿に少し気にかけたが医者としての返事は一つだった。

「尽力します」

 


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