Touhou NET-GAME   作:納豆チーズV

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四.信頼関係(trust relationship)

「一緒に戦うのもこっちから攻めるのもいいけど、どんな風にやればいいの?」

「作戦は特にありません。猿をたくさん倒してきたように、普通に連携を取って攻め込みます」

「うーん、それでうまくいくのかな」

「連携については、どうせ取れなければ死ぬだけなので心配するだけ無駄です。仮に連携が取れたとして、それが通用するかどうかの不安でしたら、たぶん大丈夫だと思いますよ」

 

 じーっとさとりの顔を覗き込んでいるこころに、さとりは安心させるように微笑んでみせた。

 

「確かにあのクマは私たち個人個人よりも強いみたいですが、絶対的と言うほどではありません。それに古今東西、人間は不利な局面のほとんどを数で乗り切ってきているのです。私の仮定した弱点が間違っていなければ、勝機は十分にあります」

 

 逆に言えば、クマの防御力が低いという仮説が間違っていれば、一気にこちらの勝ち目は薄くなる。

 これは一種の博打とも言えた。しかし、もしその博打に負けたのだとしても勝率は決してゼロにはなるわけではない。

 いざとなればこの手に握るショートソードの刃をクマの目玉に突き刺して脳を抉るなり、口内から内臓をかき回してやるなり、いくらでも方法はあった。

 だから必要以上に悩むことはない。やれることをやるだけだ。さとりは自分に言い聞かせる。

 

「……わかった! 私もがんばるっ! でも、剣は少し苦手だから、あんまり役に立てないかも……」

 

 こころが、折れて柄が非常に短くなった薙刀を見下ろして、肩を落とす。

 心配ない、とさとりは首を横に振った。

 

「ここまで私は剣を使ってきていましたが、実は私も剣の心得なんて知りません」

「えっ? 余計不安になってきたな……」

「ふふっ、大丈夫ですよ。いざという時は私がフォローしますから」

 

 こころは薙刀を完全に扱い切っていた。なんらかの武術の心得がある人は他の似た武術だってある程度は使いこなせると言うし、少なくともこころはほとんど経験のないさとり以上にはうまいはずである。

 補足すれば、それは別にさとりがほとんど戦力にならないこととはイコールするわけではない。ついさきほどさとりが〝メニュー〟から取得した新規スキル〝魔術〟は、薙刀が折られていなかった時のこころ以上の強さをさとりへともたらしていた。

 

「さて……今度は私たちのターンですね」

 

 そろそろクマがいつ襲いかかってきてもおかしくない頃だ。早めに行動しなければならない。

 こころとアイコンタクトを交わし、互いに頷き合う。特に作戦を決めているわけではないが、それは今から攻めるという合図だった。

 足を前へ。

 さとりとこころがクマに目がけて走り出すと、クマは威嚇するように喉を鳴らし、豪快に吠えた。

 空気が振動する。心臓へ直接轟くかのごとき爆音は、肉体を越えて精神さえ震わせてくるかのようだった。

 それでも、さとりとこころは一番最初にけたたましい叫びの中にさらされていたために、クマの咆哮を浴びても怯むことはない。

 むしろその隙に全力で駆け、距離を詰める。ただ、それだけで詰め切れる距離ではなく、クマとの間にはまだそれなりの空間は空いていた。

 

「こころさん、上へ!」

「え? いいのっ?」

 

 クマが右前足の鉤爪を構え始めたのを目にし、こころに指示を出した。こころが疑問符を乗せて聞き返してしまうのも無理はない。

 なにせ上になんて避けてしまえば逃げ場がなくなってしまう。この世界では空を飛ぶなんてことはできないのだから、単なるいい的だ。それはさとりもじゅうぶんわかっている。

 ならば、なぜそんな指示を出したのか。

 その説明をしている時間が今はなかった。さとりはただ信じてほしいという思いを込めて、こころに視線を送った。

 目線の交錯は一瞬。こころは、首肯した。

 クマの右前足が横薙ぎに振るわれる。その直前に、さとりとこころは両足に力を入れて虚空へと身を投げ出した。

 一五センチにも届く鉤爪が大気を斬り裂き、怪奇に塗れた五つの衝撃波を発生させる。それはさとりとこころの真下を通りすぎていき、背後で何本もの木々を容易に斬り裂いただろうことがわかった。

 その木が倒れる音が届くよりも先に事態は次の変化を見せている。

 クマの前足から繰り出される飛ぶ斬撃を回避するためには、それなりに高いジャンプをしなければならない。当然、その着地までには進路を変更することはできず、クマは迷わずそこを狙ってきた。

 クマが滑り込むようにしてさとりとこころの目の前に躍り出ると、まずは厄介な方を始末しようと考えたのか、こころへと右前足の鉤爪を振りかぶる。こころは体を庇うようにして折れた薙刀を斜めに構えた……が、足場のない空中で受け流しを成功させるにはかなりの安定感を体現しなくてはならない。得意な薙刀が完全な状態を保っているのならばともかく、折れている現状で鉤爪を逸らすことは絶対にかなわないだろう。

 クマもそれがわかっているのか、どこかその口の端が吊り上がっているようにも見えた。

 しかし。

 

「心配いりません! 防御は捨ててそのまま振り下ろしてください!」

 

 さとりは跳躍するのとほぼ同時にショートソードをクマへ向けて全力でぶん投げていた。クマは攻撃に使おうとしていた鉤爪を慌てて顔を庇うようにすると、投げられた剣の刃から身を守る。

 そこへさらにこころが、斜めに構えていた折れた薙刀をそのまま攻撃に転じさせ、さとりの指示通り思い切り振り下ろした。そうなれば当然、クマは鉤爪のガードを継続しなければならない。

 さとりはその間に左手で魔法陣を描きながら、それとはまた別に剣を投げてからすぐに右手で書き出していた陣を自身の右斜め上へと向けて、発動。

 『魔弾』。

 一割のMPを込めて繰り出したそれは、しかしクマへ当てるためのものではない。

 さとりの意思によって即時撃ち出された紫色の球体は、その反動でさとりを少なからず逆側、すなわち左下方向へと押し出した。自由落下へさらに力を加え、左側へと早めの落下――それはクマにとって予想外の事態だ。

 

「行きますよ」

 

 さとりの投げた剣、こころの振るう折れた薙刀。それらの対処のために、クマの右前足は顔の前まで上げられている。

 さとりはクマの右半身のすぐそばに着地すると、クマが反応するよりも早く、がら空きの胴へ思い切り右の拳を裏拳のごとく叩き込んだ。

 それと同時に、左手で書き表していた魔法陣が完成する。

 

「『衝撃(インパクト)』」

 

 『魔術』にレベルポイントをつぎ込むことで取得したこの魔法は、『魔弾』とは違って魔法陣から直接なにかが発生するタイプではない。しかし効果は至ってシンプルであり、すなわち、触れた対象へと物理的衝撃を食らわせること。

 クマの脇腹に押し込んだ右の拳から猛烈な荷重が瞬間的に発出され、皮や肉を通し、体内の器官さえ必要以上にかき乱す。

 思いも寄らぬ一撃を食らってしまったからか、クマの口から苦悶の呻き声が漏れ、よろめいた。

 

「うまくいきましたね」

 

 ――クマが右前足を振りかぶっているのを見た時、さとりが上へ跳び上がるよう指示を出したのは、そうすればクマが隙を突いてくるだろうことがわかっていたから。そして実際に突いてほしかったから。

 なぜなら、こちらが明確な隙を見せてしまった時の相手の反応ならばある程度は予測が可能だからだ。それも着地までの時間はそう長くないのだから、判断は咄嗟のものになる。

 さとりは、その反応が三パターンに分かれると予想していた。

 一つ目はその安全な瞬間を狙って距離を取ったり左右へと回り込んだりとクマにとって都合のいい状況を作り出そうとしてくること。

 二つ目は、右前足を使った飛ぶ斬撃を連続で繰り出してくること。

 三つ目は、こうしてこちらの前に躍り出てくること。

 しかし一つ目の、それも距離を取るという選択だけはしてくる確率はあまりないだろうとさとりは睨んでいた。なにせクマはおそらく傷を負うことを嫌がっているだけで、さとりやこころ自体を恐れているわけではない。ならば突如自分より格下だと思っている相手に隙(チャンス)生まれた(到来した)時、互いの空間を空けるなんて手は普通は打たない。打ってくるとすれば二つ目か三つ目、あるいは一つ目のうちの左右へ回り込むという動作に自然に絞られる。

 加えれば、クマはどうにもこころを少なからず危険視しているようであったから、下手に飛ぶ斬撃に頼ったりはせず三つ目の直接仕留めようとする選択をして、こころを確実に殺しに来る可能性が高いとも予想していた。そうして事実、それに間違いはなかった。

 さとりの投げた剣から続くこころの一撃でクマに強制的にガードを続けさせ、〝魔弾〟の反動で早めに着地して相手の空いた脇腹を突く――完全にさとりの思い描いた通りの展開だ。

 ちなみに二つ目の飛ぶ斬撃の連打を相手が選んだならば、その動作を投げた剣で連撃を抑制しつつ、そのまま近づいて〝魔弾〟で隙を探しながらこころにそれを突かせるつもりだった。そうなるとこちらは真正面から戦うことになる上、さとりが武器を失ってしまうので、少々さとりたちの方が不利になる。

 一番選んでほしくなかったのは一つ目のサイドやバックなどに移動されることだ。そうなるとさとりが投げた剣は相手にとってはあまり障害にならない上、もしも一定の距離を保って右前足だけで遠距離攻撃をされ続けては目も当てられない。その選択をしてこない根拠と見通しが立っていたからこその作戦だったが、実際にこうして成功すると、さとりの口からほっと安堵の息が漏れた。

 

「ついでっ!」

 

 こころが着地してすぐに跳び上がり、返す刀でクマの右前足の指の根元に刃を当てた。肉や骨の薄いほか、こころが相当に力を込めていたからか、容易く切断することに成功する。

 大量の血とともに鋭利な鉤爪を宿した厄介だった五指が宙を舞い、ぽとぽとと地面に落ちていく。

 これで相手は、ちょっと力が強くて体が柔らかいだけの手負いのクマになった。

 あまりの痛みに耐えられなかったのか、悲鳴にも似た獣の絶叫がすぐ近くから発せられる。真っ赤な瞳に怒りだけでなく、憎悪さえ混じっているのは見間違えではないだろう。

 クマが嘶きのままに開けた口でさとりの方を狙ってくる。それは今までの動作の中で一番素早く、しかし代わりに知性が抜け落ちてしまっているようにさとりは感じた。

 避けられない。だが、問題ない。

 

「『円盾(シールド)』」

 

 しょせんは獣だ。知恵を持とうと、しょせんは中途半端。ずっと忌避していた攻撃を食らってしまった後、怒りに飲まれて凶暴化することは想定の範囲内だった。

 あらかじめ描いていた魔法陣が発動し、さとりを守るために半透明の白い円盾が出現する。この魔法も至って単純、魔力で作られた物質の壁を形成すること。

 結果的にクマは盾に顔面を強打することとなり、しかし仮にも野生で生きてきた意地か、ひるまずに指のない右前足で半透明の円盾の上面を掴んできた。それを支えにし、そのまま盾の上側から左前足を突き入れてくる。

 これはさすがに予想外。でも、好都合でもある。

 さとりは顔を庇うように左腕をかざした。右前足とは違って普通の長さだが、確と鋭い鉤爪が前腕を抉り、さとりを突き飛ばす。

 

「い、ぅ……!」

 

 たかが三〇パーセントと言えど、痛いものは痛い。血飛沫というほどではないが、流れ出た血が指先に溜まっていき、ぽたぽたと落ちては地の草花を赤く濡らしていく。

 だが、これくらいは必要経費だろう。

 クマが冷静さを欠いているのは火を見るよりも明らかだった。〝円盾(シールド)〟を前に意固地になってしまい、牙と両腕をすぐに使えない体勢になるという決定的な隙を少なからずさらした。それは、こころがクマの命を刈り取るまでの時間としては十分すぎる。

 クマの懐に潜り込んだこころは折れた薙刀の切っ先を素早くクマの首元に添え、思い切り力を込めて押し込んだ。

 皮を貫き、肉を裂き、骨を断つ独特の音。クマの目が見開かれ、次の瞬間にはそこから光が失われていく。

 

「わ、わわっ!?」

 

 崩れ落ちるクマの下敷きになりそうになったこころが、慌てて柄から手を離してその場から退いた。それから一秒もしないうちにクマが倒れ伏し、さきほどまで獣の咆哮ばかりでうるさかったこの場が、出し抜けに静寂に包まれる。

 クマは首の後ろまで刃が飛び出ていて、ぴくりとも動かない。それでも死んだふりの可能性もあるかも、と試しに危険覚悟で右手をクマの顔の前に差し出してみたが、噛んできたりはしなかった。

 完全に息絶えている。そのことの確認をきちんと終えると、さとりは急に緊張が解けて、思わず座り込んでしまった。

 

「やり、ましたね」

 

 左腕を庇いながら、さとりは口元に笑みを浮かべてみせた。本当は素直に嬉しさをたたえた微笑みになるはずだったが、噛まれた痛みのせいで意図せず少々引きつったものになってしまう。

 そんな彼女の姿も言葉も目に入らないように、こころは無言で肩を震わせていた。

 もしかしたら、自分と同様に緊張が解けてしまって、そのせいで命を失いかけたという事実に改めて恐怖を抱いたのかもしれない、なんて思う。別にこの仮想世界で殺されても現実では死なないとは言え、現実と見紛うほどに精巧に作られているために、そうなってもなんら不思議ではない。

 なにか声をかけてあげた方がいいのだろうか。それとも、なぐさめるように背中を擦ったりしてあげるのがいいのだろうか。あいにくとまともな人付き合いが圧倒的に少ないさとりには、こういう時にどういう行動を取るのが最善なのかいまいち判断できず、結果的に黙り込んでしまった。

 しかしこころはそんなさとりにさえ目もくれず、胸の内に燻ぶっていた感情を吐き出すかのように右手をぎゅっと握りしめると、それを高く天に振り上げた。

 ガッツポーズである。

 

「勝ったっ! 嬉しい!」

 

 ずいぶんと直球な喜び方であった。

 さとりは自分がまったくもって的外れな予想をしていたことに、この早とちり、と肩を竦めた。それから、わかりやすく「やったやった!」とはしゃいでいるこころを眺めていると、さきほどこころへの勘違いのために萎んでいった勝利の余韻が再び湧き上がってくるのを感じた。

 勝った。そう、自分たちは格上の敵を協力して挑むことで見事打倒し、生き残ってみせたのだ。

 大抵、現実での妖怪同士の本気の勝負では妖力の格で勝敗が決まる。それは多くの妖怪は自分たちの力に絶対的な自信、あるいは誇りを持っているため、基本的に小手先の技術には頼ろうとせず真正面からの戦いを望むから。それはその妖怪が強ければ強いほどに顕著な傾向にある。太古より最強の妖怪として君臨し続けている鬼などがいい例だ。

 つまり、妖怪同士の争いにおいては地力の強さの格の違いはほぼ絶対。それが今回はどうだろう。

 さとりとこころは自分たちの力がクマよりも確実に劣っているという不利な実態を知覚しながら、二人がかりとは言え格上の敵を倒してみせた。まるで人間のように策を弄して。

 妖怪として、さとりはこの勝利がただの勝ちではないことを、改めて噛み締めていた。

 

「こころさん」

 

 左腕はまだ痛んでいたが、その状態が続いているせいか、そろそろ慣れてきた。多少は無理をしてもなにも問題ない。

 さとりは立ち上がると、声をかけながらこころのそばに寄った。

 こころはさとりの真っ赤に染まった左腕を見て、それがクマに鉤爪で肉を抉られたものによることだと思い出したらしい。早く治療しないと、と慌て出すこころを、さとりはどうどうと牛のように落ちつかせると、しっかりと向き直ってお辞儀をしてみせた。

 

「二度も助けていただいた上に、大して信頼できるはずもない私の指示にも従ってくださって……本当にありがとうございました。今回この……クマさん? に勝てたのは、あなたのおかげです」

 

 さとりだけでは確実に殺されていた。たとえあらかじめ『魔術』のスキルを習得していたのだとしても、それは変わらなかったに違いない。

 最初に狙われた時、こころが助けてくれたから死ななかった。鉤爪の衝撃波が来た時、こころが突き飛ばしてくれたから死ななかった。自分に恐ろしい鉤爪が振り下ろされんばかりの危険な状況にも関わらず、さとりが指揮した時には防御を捨てて即座に攻撃に転じてくれたからこそ作戦が成功を収められた。

 こころは会って間もないさとりを幾度となくサポートし、一度も自分を上回るような武力を見せていなかったにもかかわらず、土壇場でも迷わずに信用をしてくれた。こころがそれだけ自分と他人にどこまでも素直で純粋な性格だったからこそ、さとりはこのクマとの戦いに勝利することができたのだ。

 そうして謝意を示すさとりを、こころは目をぱちぱちとさせて見つめていた。

 

「なにを言ってるの? このクマさんは私たちで力を合わせて倒したんだから、私だけの手柄じゃないよ」

「でも、こころさんのおかげで勝てたのは事実ですから」

「私だけでも勝てなかったわ。私もきっと、さとりがいたからクマさんに勝てたの。だから、たぶんこれは」

 

 何気に名前を呼ばれるのはこれが初めての気がする。この数百年、限られた相手にしか名前を呼ばれたことがなかったので、なんだかちょっとむず痒いような感覚を覚えた。でも、悪くない。

 こころは、片手を上げると、さとりにも同じようにしてほしいとジェスチャーで示してきた。

 この時点でさとりはこころがなにをしたいかを把握する。だからなんとはなしに口元を緩めつつ、さとりも両手のうち、無傷な方の右手を上げた。

 ぱぁん、と。こころとさとりはハイタッチを交わす。

 

「きっと、私たち両方のおかげっ!」

 

 こころの表情はずっと変わらず、無表情だ。けれどさとりはなんだか、今は彼女が満面の笑みを浮かべているように思えた。

 ハイタッチをした手を胸の前まで持ってきて、その手の平を見つめてみる。

 ぎゅっと握ってみて。そして、今度は開く。

 ――今、なにかを。目には見えないなにかを手に入れた。なんとなく、そんな気がした。

 

「……これからどうしましょうか」

 

 勝利の余韻に浸るのもほどほどに、そろそろ現状の打破について意識的に思考するようにする。クマを倒したのはいいが、森の中にいるという事実は変わらないのだ。むしろ脅威たるクマがいなくなったせいで猿が集まってくることを考慮すると、早めにこの場を離れる必要がある。

 こころもじゅうぶん喜んだからか、さとりと同様に感情を切り替えたようだった。初めて会った時からそうであったけれど、こころは感情の転換が早い。浮ついた雰囲気が急に落ちついたものになったのですぐにわかった。

 

「ねえねえ、それならあれが怪しいわ。ほら、あの変な光ー」

 

 こころが指差したのは、この小さな広場の真ん中、最初にクマが立っていた位置である。そこには、いつの間にか薄い水色の光で構成された円柱が存在していた。大きさはギリギリで八人が入れるかどうかというところで、入りたいなら入れという空気をこれでもかというほど発している。

 さとりはそれをじっと見つめ、右目を閉じて腕を組んだ。

 

RPG(ロールプレイングゲーム)的に考えると、ボスを倒したのでステージの入り口に戻るとか、街に転移するとか、そういうものですね」

「そうなの? そういうの、私はよくわからないんだけど……」

「とりあえず入ってみるしかないと思います。どうせこのまま進んでも街にたどりつける保証はないどころか、かなり可能性に乏しいでしょうし、試してみる価値はあります」

 

 ただ、その前にやっておくべきことがある。

 さとりはクマの死体の前に立つと、すっと手を伸ばし、触れてみた。毛皮はそれなりに硬いものの、少し押し込んでみると、その内部の異常なまでの肉の柔らかさが伝わってくる。やはり予想通り、このクマは防御に難があるようだった。

 さとりはここに来るまでにずっと不思議に思っていたことがある。すなわちなぜ死体が残るのかと。

 現実ではむしろ死体が残るのが普通だ。しかしMMORPG、ゲームにおいては邪魔にしかならないはずである。この世界がどれだけ現実に準拠しているかはわからないが、亡骸がいつまでも残るとすれば、何度も狩りを続けているうちに処理されない死骸が腐臭を発するようになる。それはプレイヤーにとって気分がいいものではないし、当然苦情が出るに決まっている。他のプレイヤーが倒したぶんもずっと放置されてしまうことも視野に入れると、こういう森などのモンスターが出る地域は死骸ばかりになってしまう。

 つまり生き物の死体は、できるだけ倒したらすぐになくなってしまう方が都合がいいはずなのだ。ならばそうならないのはなぜか。

 推測は二つ。一つはこの仮想世界が現実に近いものと思わせるため。死骸の周りからプレイヤーがいなくなったり一定時間が経ったりすれば、おそらく消える仕様になっている。

 もう一つは、倒したモンスターの素材を手に入れるため。現実でも動物の革を使って防具を作るなどはよく聞く話だ。インベントリという隔絶した性能の収納機能があることも考えると、死体は回収ができるように作られているはず。

 その辺も〝ヘルプ〟を確認すれば全部載っていると思うのだけど、あいにくとそこまで悠長にしていられる時間はなかった。

 

「〝保存する〟」

 

 呟いてみれば、クマの死体が白い光に包まれて一瞬で消え失せた。代わりに飛び散ったクマの赤い血、切り離された右前足が死体のあった場所に残る。

 指を鳴らして『メニュー』を開き、『インベントリ』の項目へと画面を移行した。するとさきほどまで鞘しかなかっただろう収納欄に、『鋭き右の柔熊(じゅうゆう)の毛皮』やら『鋭き右の柔熊の牙』やら、個別に素材が保存されている。あとで切り分けなければいけないということもあるかもしれないと思っていたので、こうして勝手に素材ごと区別されているのは助かった。

 足元に転がるクマの右前足に触れ、これもまたインベントリへと保管する。追加されたのは『鋭き右の柔熊の風裂きの鉤爪』が一つ。どうやら説明欄が開けるようで、そこには『〝鋭き右の柔熊〟が備えていた右の前足の鉤爪。鉤爪に一定以上のMPを込めることで、それの通った跡にできた真空の領域を見えない刃として、前方に飛ばすことができる』と書いてある。

 今手に入れたクマの素材をまとめて選び、半分ずつに分けた。奇数のものがある場合、一度片方を一つ多くしたら、次の奇数が来た時にはもう片方を多くすると言った手段を取った。

 それでも最後に一つ、さとりが回収した『鋭き右の柔熊の風裂きの鉤爪』だけが余ってしまう。どう考えても、これが一番レアなドロップ品だろう。

 

「こころさん」

 

 トレード機能――プレイヤー同士でアイテムを取引できるらしい――でこころを対象にし、クマの素材の半分、それから〝鋭き右の柔熊の風裂きの鉤爪〟を指定する。そのままOKの項目に触れ、同じくこころが了承するのを待った。

 こころは交換の対象となるアイテム、それもクマの右前足と思われる素材を目にすると、じっとさとりに視線を送った。

 

「いいの?」

「私は『魔術師』ですし、おそらくそこまで必要はないかと。それにきっとこれは、いい近接武器の素材になりますよ」

 

 ここで少しでも名残惜しさを見せればきっと遠慮されてしまう。とにかく精一杯、笑顔を作ってみせた。

 こころはそんなさとりを数秒ほど見つめてから、こくりと、なんだか感慨深そうに首を縦に振った。なにもトレードには出さずにOKを押し、最終確認も同じように。さとりも同様だ。

 トレード完了。そんな文字が浮かび上がったので、きちんと『インベントリ』から規定数のアイテムがなくなっていることを確認する。

 

「さとり。ありがとう」

 

 無表情のままに、ただ言葉だけ。しかしさとりには、その一言に今までで一番強い感情がこもっているような気がした。自然と頬を緩むのを自覚しつつ、どういたしましてと返事をする。

 さとりは、クマに投げて右の鉤爪で弾かれてちょっと遠くの方の地面に刺さっていたショートソードを回収しに行った。猿を幾度となく斬ってきたせいで多少の刃こぼれはあるものの、手入れすればまだ使えそうである。

 こころにクマの鉤爪を上げたのは、彼女が武器を失ってしまったからという事情もあった。あの鉤爪を素材にして新しい薙刀を作れれば、あのクマの右前足と相応に強力な武具ができ上がるはずである。

 こころの近くに戻ると、一緒に薄水色の円柱のすぐ手前まで移動した。

 円柱の中に手ごろな木の枝を投げ込んだりとしてみたがなんの変化もなく、やはりプレイヤーであるさとりとこころが直接中に足を踏み入れるしかないようだった。

 

「あ、さとりー」

「どうかしましたか?」

「これこれ」

 

 こころがなにもない空間を指差す。おそらくはメニュー画面を示しているのだろうが、あいにくと他人のそれは見えないようにされているようである。

 そのことを伝えると、こころは「ほほお」と感嘆の声を上げて、「うーん、こうかな?」と悩みながら一人でメニューを操作していった。

 

「これは……」

「あ、できた! やった!」

 

 目の前に【『秦こころ』からフレンド申請が届いています。承諾しますか?】なんて項目が出現し、瞠目する。選択肢は三つに分かれており、YESとNO、それから保留。

 こころに視線をやると、実際は変わらぬ無表情のはずなのに、なんだかどこかもの欲しそうにこちらを見つめてきているように見えた。

 それが少しだけおかしくて、さとりは表情が和らげつつ、断る理由はないとYESを押して了承する。

 【『秦こころ』をフレンド登録しました】と。そんな機械音声を聞きつつ、こころと目線を通わせた。

 

「さとり、これからもよろしゅうございます」

「はい、こころさん。私からも、どうかよろしくお願いします」

 

 頷き合って、再び光の円柱と向き直る。

 意を決し、二人で同時にその中に入り込んだ。

 

【最寄りの安全地帯への転移を開始します。五秒間、そのまま動かないでください】

 

 そんな音声がこの場に響いてすぐに、さとりの視界では宙空に赤色の文字が綴られていっていた。

 

【ゲームを始めてから二時間が経過しました。戦闘中の際は速やかに離脱し、ログアウト処理を行うことを推奨いたします】

 

 まだ二時間と取るべきか、もう二時間と取るべきか。なんにせよ今のさとりの心には、こころに出会う前のような森に辟易とした後悔にも似た気持ちは一切なかった。

 楽しかった。それが今ある一番強い思いである。

 さとりとこころの足元から白い光の粒子が這い上がってきた。やがてそれは全身を包み込み、膨大な光の奔流に思わず目を瞑る。

 一瞬の浮遊感。温度も場所もなにもかも、すべてが刹那に入れ替わったような感覚。

 とんっ、と地に足がついた。これまでの土や草の敷き詰められた大地とは違った、石のように確と硬さを持っている平らな地面だった。

 喧騒が耳を打つ。空気の匂いもがらりと変わり、少なくとも自然味溢れたものではなくなったのは間違いなかった。

 どうやらあの薄水色の円柱は予想通り、街に転移するためのものだったらしい。

 ほっと息を吐く。それから、瞼をそっと上げていく。

 ちょうど、光の粒子も晴れてくるところだった。


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