Touhou NET-GAME   作:納豆チーズV

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Chapter 1.同調し燃え盛る紅の狂気
一.進入完了(access completion)


 沈んでいた腕が、ぷかりと水面に浮かんでくる。

 下に押し込もうとしてみると、最初の方はちょっとだけ抵抗がかかっていたけれど、完全に水中に浸かり切るとほとんどそれもなくなった。もちろん水に動きは阻害されてしまうが、沈めようとした直後ほどのものではない。

 もう一度、腕の力を抜いてみる。すると当然のごとく腕が水面まで押し上がってきて、しかしそこで止まった。水平にした腕の上半分は空気にさらされ、下半分は水面下に埋まっている。

 この現象は外の世界から流れ込んできた書物によると、水が物を上へと押し上げようとする、浮力と呼ばれる力によるものらしい。水に入ると動きにくくなることはもちろん感覚的に知っていたが、知識として取り入れることができたのは、その書物を読んでからであった。

 腕を沈め、力を抜き、浮かぶのを待つ。他にも、水の中で適当に手を動かしてみる。上へ動かす時は浮力のおかげで楽にでき、横へ動かすのは右も左も同じような加減で、下へ動かす時は浮力に逆らうためか、わずかに押し込める必要がある。こうして細かいところまで意識していると、変化する水の抵抗具合が理論的に体感できて面白い。

 面白いと言っても、しょせんは暇潰しの域を出ない程度のくだらないことなのだけれど。

 

「ふぅ」

 

 さすがに水の抵抗で遊ぶのも飽きてきて、全身の力を抜いて浴槽の壁に背中を預ける。天井を見上げればランプの薄橙色の光が目に入ってきて、半ば反射的に目を細めた。

 お風呂というものは、どうしてこうも気持ちがいいのだろう。体の外側だけでなく内側まで温められるようで、いつまでも浸かっていたい気分になってしまう。それが適温であればなおさらだ。

 目を閉じる。本来なら真っ暗闇になる視界は、ランプの光に影響されて、少々赤みを帯びていた。

 お風呂がなぜ気持ちいいのか。それはこうして湯船に浸かっている満足感ゆえに出てきた単なる感嘆の念だったのだが、特にすることも考えることもなかったので、ほんのちょっとだけ知識を掘り起こしてみることにする。

 確か、前に読んだ書物にこんな説があったはずだ。

 まだ自我なんてものが生まれていない頃、母親のお腹の中で温かい水に包まれていたことを無意識に思い出し、安心の感情を呼び起こしているのだと言う。また、すべての生命はかつて海で生まれた生命から派生しているため、そんな原初の記憶が懐かしんでいるのだとも書いてあった記憶がある。

 現実的で科学的な観点で言えば、血行促進だとかによるリラックス効果とやらのおかげらしいが、現在お風呂に浸かっている少女――古明地(こめいじ)さとりは、母親のお腹の中にいた頃を思い出すという説が個人的に気に入っていた。それはひとえにさとりの住んでいる地域が科学をそれほど信仰していないからでもあるが、一番の理由は単にロマンチックだからである。

 

「――そろそろ出ようかしら」

 

 声が反響するのもまた、ちょっとだけ面白い。ただ、少し前に調子に乗って歌っていたら、ふらふらと入ってきた妹にその場面を目撃されるという恥ずかしい事件が起きたので、今回はきちんと自重しておく。

 風呂から出るタイミングを掴めず、というか掴まず、あれやこれやといろいろなことに思考を巡らせていたために、どれくらい湯船に浸かっていたかは覚えていない。ただ、そろそろその温度がぬるくなってきたと感じてきたところで、さとりは大きく息を吸ったのちに口を閉じ、息を止めて水中に頭ごと顔を埋めた。

 五秒ほどしてから顔を上げ、ゆっくりと瞼を開いた。水のせいで重くなった桃色の髪の毛先が目に入って少々鬱陶しかったが、それを無視して浴槽の縁に手をつけて立ち上がる。全身からわずかに散った水滴が床のタイルに落ちた。

 濡れた足でそんなタイルを踏み抜いて、壁に設置されたタオルかけから一枚のタオルを手に取った。当然ながら下から拭いても上の方から水が滴ってきたら拭き直しになるので、まずは髪から拭いていく。ごしごしと力を入れると髪が傷んでしまうが、この辺は慣れたもので、適度な力だけを込める。ある程度拭き取ったところで上半身に移ろうと視線を下ろすと、人間では絶対に持ち得ない体の部位が視界に映る。

 それは顔についた二つとは別の、三つ目の目だった。

 目とは言っても、別に上半身のどこかに埋め込まれているというわけではない。通常の目で言う瞼の役割を果たす赤い膜に包まれた真ん丸な目玉が、常に心臓付近に浮かんでいるのである。膜からは頭やら両手やら首元やらさまざまな場所へ向かって管が伸びており、先端のハートマークへ近づくにしたがって色は赤から黄色へと変わっている。

 そんな第三の目(サードアイ)がある以外、さとりの見た目は普通の少女となんら変わらない。肩から手の指先へ、胸からお腹まで、前も後ろもしっかりと拭き取り、下半身も同様にしていく。それが終われば浴室の扉を開け、風呂へ入る前に準備しておいた下着や服を着ていく。第三の目から伸びる管が邪魔なのだが、その辺りは適当に管の先端を体から外すことで解決する。一本でも回線が繋がっていればなんら問題はない。

 フリルの多くついた水色の服と桃色のスカートを着終えると、管の先端を服へつけ直していく。赤いヘアバンドをつけ、その側面にもハートマークの先端を装着した。それらも終えると赤いスリッパを履いて、さとりは更衣室から廊下に出る。

 すると、ちょうど青い霊力を伴った白い骸骨――怨霊が近くを通りかかっていたらしく、さとりと鉢合わせをする。視線が合ったのは一瞬で、怨霊はさとりの胸元にある第三の目を確認すると、ひどく慌てた様子で一目散に逃げて行った。

 

「……せっかく気持ちよかったのに」

 

 怨霊がさとりを見て逃げて行くのはいつものことなのだが、さとりはため息を吐くのを禁じ得なかった。もう少し風呂での余韻に浸りたかったのだけど、怨霊を第三の目で見てしまったせいで、そんな感情もすっかり冷めてしまった。

 上機嫌からランクダウンしていつもの機嫌に戻ったさとりは、黒や赤などの市松模様に彩られた床をすたすたと歩き、自室へと向かう。さとりが住んでいる、この地霊殿という屋敷自体は広大と言ってもいいほどに広いが、浴室から目的地へはそう遠くない。大して物思いにふけることもなく自身の部屋の扉の前までやってきた。

 いざ開けようと手をかけた時、ふいと何者かの足音を感じ、さとりは来た廊下の道を振り返る。

 

「やっと見つけました! さっき怨霊からこっちにさとりさまがいるって聞いて……」

 

 ドアノブから手を離し、左右でそれぞれ三つ編みにした真紅の髪を揺らす、人懐っこい笑みを浮かべた少女と相対する。黒をベースとして緑の模様が入ったゴシックアンドロリータを身につけ、手首や首元には赤、左足には黒に白の模様のリボンが巻かれている。外の世界の言葉で言うなれば『あざとい』ファッションなのだが、そんなものよりも目が行ってしまうのは頭に生えた黒い猫耳であろう。

 この少女の名前をお燐と言い、さとりの飼う多くのペットのうちの一匹であった。猫耳が生えていることからわかる通り人間ではなく、火車という猫又の妖怪である。

 妖怪――そう、外の世界と違い、さとりの住んでいる地域には妖怪や神などと言った、およそ幻想とされている種族が数多く生息している。

 そして人間にはない三つ目の目という器官があることからわかる通り、さとりもまた例外ではなく、その一匹であった。

 

「お燐。なにか用かしら?」

「はい。実は……あれ?」

 

 お燐がくんくんと鼻を動かし、訝しげに目を細める。

 

「どうかしたの?」

「いえ、なんでも」

 

 お燐はそう否定をするが、さとりには第三の目を通して見えていた。目の前の少女――火焔猫燐(かえんびょうりん)。愛称はお燐――が、『さとりさま、お風呂に入ってたのかぁ。でも、いつもはこの時間は部屋で本を読んでるのに、どうして今日だけ?』と不思議に思っている、その心が。

 さとりはその名が示す通り、(サトリ)という種族の妖怪であった。第三の目で他者を捉えることで心を見透かすことを可能にし、本来は、その内心を口にしてみせることで相手を驚かせることを生業としている。

 そう、本来は。

 お燐の内心が刻々と変化していくのが窺えた。疑問は推測へと昇華し、過去や現在の情報から立てた推測は、やがて迷いを交えながらも解答へと至る。すなわち『もしかして、そわそわして私の報告が待ち切れなかったんじゃ』と。

 いい加減話を進めてほしかったので「お燐」と名前を一言読んでみると、彼女の肩がビクッと跳ねた。当然ながら、お燐はさとりが心を読めることを知っている。お燐は精一杯の愛想笑いを浮かべては、今の推理のことを心の中で何度もさとりに向かって謝ってきた。

 ……なんだか必要以上に怖がられて、ちょっとへこんでしまったのは内緒である。

 

「はぁ、まぁいいわ。それで、なにか用かしら? もちろんわかっているけれど、あなたの口から直接教えてください」

「え? あ、はい」

 

 いつもはこちらの心を読むだけで済ませるのに珍しいこともあるものだと、瞠目しているお燐の心が見える。当然、それと一緒にお燐が思い浮かべた、主人を訪ねた要件についても読み取れていたけれど、一方的にしゃべるだけだと嫌われやすいと外の世界の本には書いてあったので、お燐に言わせてみることにした。

 お燐が頭の中で言葉を整理しているのが第三の目から見える。彼女は他のペットとはタメ口で話しているようだが、主人にはきっちりと敬語を使うようにしていたのだった。

 

「地上から来ていた河童がやっていた変調復調装置って機械の取り換えが終わりました。もう問題なくネットワークに接続できるそうですよ」

「それはよかったわ。それで、その河童たちはどうしたの?」

「昨日のぶんの金塊を適当に代金として渡したら、ほくほく顔で帰っていきました」

 

 怨霊とは強い怨みや悪意を持った幽霊のことなのだが、その欲望を溶かしたりすると金塊が湧く。基本的に地霊殿――さとりが住む屋敷は、その金塊を収入として日々を過ごしていた。

 まぁ、怨霊から出てくる金塊には水銀やら砒素やら人間には毒とされる成分が含まれたりしているのだが、妖怪である河童ならばなんの問題はない。

 

「そう、わざわざ報告をありがとう。手間をかけさせたわね。もう行ってもいいわよ」

「あ、えっと、そのぉ……さとりさま」

 

 退去の許可をもらったにもかかわらず、場に留まって、なにやら言いにくそうに目を逸らしているお燐をじっと見つめる。

 もちろん彼女の言いたいことは第三の目を通してわかっているし、いつもならここで「わかっているわ」と告げて安心させてあげるところなのだが、今回もまた外の世界の本に則ってお燐に言わせてみることにする。

 お燐は首を横に振って思考から逡巡を払いのけると、さとりへ向かって勢いよく頭を下げた。

 

「お願いしますっ! 今回のことでおくうを処分するのはやめてくださいっ!」

 

 お燐がさとりへと真摯にお願いをしていることは、その声音から十分に伝わってくる。第三の目でお燐を見つめれば、その懇願の真剣さが十二分に理解できる。

 さとりが飼うペットの中には、霊烏路空(れいうじうつほ)――愛称はおくう――という地獄鴉のペットがいた。これまでも幾度か悩みのタネを作ってきた問題児のペットなのだが、先日そのペットが、地霊殿のさらに地下の各所に設置された電波を交信するための機器をショートさせてしまったのだった。

 ただ、さとりはおくうを処分するなんて一言も口にした覚えはない。

 お燐はおくうととても仲がいい。おくうはこれまでも何度も問題を起こしてきたので、今回のことがきっかけで始末されてしまわないかとお燐は気が気でないみたいだった。

 お願いします、お願いします、と何度も心の中で呟くお燐のすぐ近くまで歩み寄って、その頭を上げさせた。そうして不安そうな表情をしているお燐へと、さとりは優しげなものになるように意識して微笑んで見せた。

 

「心配しなくても大丈夫よ。おくうも反省していたようだから、今後同じ失敗は起こさないでしょう。それに、おくうがいなければ灼熱地獄跡の管理ができない事情もあるんだから、処分なんてできるはずもないわ」

「さとりさま……ありがとうございますっ!」

 

 最大の感謝の気持ちを胸に再びお辞儀をするお燐の頭をぽんぽんと撫でる。

 地霊殿は、かつて灼熱地獄と呼ばれていた場所の真上の方に建っている。おくうというペットには、地霊殿の下の方にあるその灼熱地獄跡の管理を任せていた。

 しかし、おくうがいなければ灼熱地獄跡の管理ができない――それは真っ赤な嘘だった。

 確かにおくうは他の地獄鳥とは違う特徴を備えてはいるけれど、それと灼熱地獄跡の管理ができるかどうかはまるで関係がない。おくうを処分して、他の地獄鳥に管理の役割を与えることもできる。そして、お燐もさとりが嘘を吐いたこととその事実についてはわかっている。

 ここでわざわざ「いなければ」なんて言葉をさとりが使ったのは、ひとえにお燐をより安心させるためだった。実際にさとりにはおくうを始末する気なんて欠片もないし、お燐にも絶対に処分されないと思わせることで、できるだけ軽い心落ちにしてあげたかった。

 お燐はそれらの意図をすべて瞬時に理解したからこそ、最大限の感謝の気持ちを込めて礼をしている。

 さとりはペットに対してはかなり甘い。特にお燐などはよく尽くしてくれているため、ほぼ絶対の信頼を置いていた。たとえさとりに第三の目がなかろうと、さとりがお燐の言葉を疑うことはないことだろう。

 

「どういたしまして。それじゃあ、私はもう部屋に戻るから。あとは任せたわよ」

「はいっ! 怨霊の管理ともども、がんばりますっ!」

 

 直立し、満面の笑みを浮かべるお燐の様子にわずかに微笑みつつ、さとりは今度こそ自室に足を踏み入れた。

 扉を閉めたらその場に立ち止まり、どこか軽やかそうに思えるお燐の足音が遠くなっていくのを聞き、それが完全になくなったところで鍵をかける。

 

「……あいかわらず、怖がられているようね」

 

 慕ってくれているのはもちろん理解できる。それでもペットたちが、どこか一歩引いた立ち位置で飼い主であるさとりと接しているのも確かだった。

 さとりは肩を竦めると、電気をつけ、いつも座っているイスのもとへと足を進めた。

 そこは寝室と執務室を足して二で割ったような部屋だった。

 廊下の床は赤や黒などの市松模様で彩られた少々派手なデザインだったのだが、さすがに自室だけあって落ちついた色合いの絨毯を敷いている。壁には赤と青のバラが描かれた絵画がかけられており、天井からぶら下がる照明の光は白く明るく、なかなかに広い部屋の全体を照らしていた。

 元々地霊殿は来客が皆無と言っていいほどであり、この部屋にさとりとお燐たちペット以外が立ち入ることはまずないと言っていい。だからこそ、内装にはさとり自身の趣向や生活感の度合いが如実に表れる。その点、さとりの部屋は生活感に関してはなんの問題はない。そして趣向は、外の世界風で言うなれば『文学趣味のお嬢さま』と言ったところであろう。

 左手側の壁に沿うようにして隅から隅まで本棚が置かれ、それぞれにぎっしりと本が詰め込まれている。部屋の中央にある机の前のイスへとさとりは向かっているのだが、その机の上にも少々の本が積まれており、読みかけなのか、どれもこれもしおりが挟まれているのが窺えた。

 また、部屋の隅には天蓋つきのベッドが設置され、そのすぐ近くにはランプの備えられたベッドサイドテーブルがあり、ベッド等のある隅と辺を共有する頂点近くには、服や日用品などが入っているキャビネットやタンス、軽く身だしなみを整えたりするための鏡台が据えられている。

 

「さて」

 

 昨日までならこの時間はずっと本を読んで過ごしていたものだけれど、今日からは違う。修理が終わってネットワークに繋げるようになったとのことで、早速それをするつもりだった。

 机の上に置いてある写真立てを開き、写真――さとりともう一人、少々緑がかった灰色の髪の少女が手を繋いで笑っている写真が入っている――の裏側に隠しておいた小さな鍵を取り出す。写真立てをもとに戻すと、机の二つの引き出しのうち、右側の方についた鍵穴へと手に持った鍵を差し込んだ。

 その中から出てきたのは、可愛らしいデザインの赤いチョーカーだった。

 それを首元に巻いて、つけ心地を確かめる。あまりキツくし過ぎると感触が鬱陶しいので、気にならない範囲まで締めつけを弱くしていく。その調整が完了すると、さとりは満足そうに頷いた。

 

「では……行きましょうか」

 

 接続(コネクト)――さとりが右の瞼を閉じつつ呟くと、真っ暗になるはずの右の視界が不可思議な色の図形で彩られた。

 俗にデスクトップと言われているその画面には小さな絵が描かれたアイコンがいくつも羅列し、背景には動物たちが仲睦まじく戯れている壁紙が貼りつけられている。

 一般では、さとりがつけているような首輪のことを、正式名称をカラー(首輪)型パーソナルコンピューター、通称をカラパソやチョーカーとして呼ばれていた。地霊殿中の地下に張り巡らせられている機械と電波的ななにかで繋がることで、ネットワークという摩訶不思議な電子空間へと接続ができる機器だとされている。

 本来、さとりのような妖怪や神と言った幻想の生き物が住んでいる、この幻想郷と言う地域は、外の世界換算ではおよそ明治時代ほどの文明――諸事情により平成までの文化がところどころに混ざっているが、根本は明治辺り――しかなく、外の世界を越えた未来の技術を備えるのには相当な理由がなければ為し得ない。核融合炉などは未完成ながらに幻想郷では実現されているのだが、それも相当な手間をかけられていた。そして首輪を通してネットワークに接続するなんてこともまた、外の世界では未だできていないオーバーテクノロジーの一つだった。

 さとりが聞いた話によれば、これはかつて行われた第二次月面戦争と言う、戦争とは名ばかりの潜入作戦によって月から盗み、幻想郷用にアレンジした技術の結晶なのだと言う。あまり興味はないので、詳細は知らない。

 ちなみにデスクトップ等が出てくる仕組みであるが、このカラパソを手に入れた際の説明書によると、『なんだかよくわからない原理で生命の信号的なアレが首元からチョーカーに送られ、なんやかんや装着者の存在に干渉した結果、視界内に使用者にしか見えない半透明の画面を出す。両目、片目の設定変更可。なお、目を閉じているとはっきりした画面が出現する』とのこと。月の技術が多分に含まれているこれには解明されていない部分も数多くあるようで、正直説明書を読んだ直後は、そんな意味不明でもしかしたら危険かもしれないものを売るなんて、と河童の豪胆とも呼べる精神に呆れさえ抱いたものだ。

 しかし使い始め、これに慣れて染まってしまった今では、これほど便利な技術は完全に解明されていなくても活用すべきだという気持ちが強くなってしまっていた。

 

「さて、なにしようかしら」

 

 適当にネットサーフィンでもするか、面白そうな動画を探してみるか――そうしていくつか頭の中で候補を挙げてはみるのだが、実は、さとりはとっくになにをやるかということは決めていた。

 手を伸ばすと、デスクトップ以外浮かんでいない右目の暗闇の中に、まぶたを閉じているはずなのに、なぜか肌色の自分の手が見えてくる。この現象については説明書には『存在の位置情報がなんやかんやで電子がこーなって範囲を補完して、ぷるぷるしたらこうなる』と書いてあった。要するになにもわからないということだが、説明書の説明の大半はこんな感じの記述なので気にならない。

 たくさんあるアイコンのうち、山と森が一緒に描かれているものに人差し指で触れる。不思議なことに、トンッとわずかに物理的な感触が存在しているようにも感じられた。

 画面全体が切り替わる。静かな水面に一つの水滴を落としたように揺らぎが生じ、気づけば、大きな湖と大自然が特徴的な立体ホログラムがそこに形成されていた。

 次に画面の中央から少し上辺りに変化が訪れる。一つずつ、左側から順に文字が浮かび上がってくるのだった。一文字ずつ、F、a、n、t、a、s、t、i、c、そしてC、o、u、n、t、r、y、s、i、d、e。

 

Fantastic Countryside(ファンタスティックカントリーサイド)へようこそ】

 

 頭の中に響いた機械音声に、半ば反射的に誰かが声をかけたのかと視線だけで軽く辺りを見回してしまう。鍵をかけた部屋には当然誰もおらず、カラパソがさとりの存在に直接語りかけているのだった。

 

【こちらはネットワークで繋がる方々と一緒にもう一つの世界を楽しんでいただくための遊戯、Massively Multiplayer Online(マッシブリーマルチプレイヤーオンライン) Role Playing Game(ロールプレイングゲーム)となります】

「ふむ」

 

 外の世界ではこういう、もう一つの世界を仮想体験をする遊戯とやらが人気らしく、河童が他の種族とも合同してこれを作ってみたと言う。つい数か月前にはカラパソ所有者は全員βテスト用だとかでアップデートとともに無理矢理このプログラムをダウンロードさせられた。

 ただ、そのβテストとやらは規定人数しか参加できないらしく、その人数が集まったら即座に締め切られ、多くのカラパソ保有者が起動できもしないβテストプログラムを抱えることとなったのが実情である。ちなみにさとりもまた、その多くのうちの一人だった。

 半ば強制的にダウンロードされたそのプログラムを削除することもできたのだが、正式なサービスが始まった際にこのプログラムがあれば余分なダウンロードの手間が省けるとのことで、さとりは取っておいていた。そうして肝心の正式サービスなのだが……それが始まる少し前におくうが機器を壊してしまったせいでカラパソではネットワークに接続できず、現在ではとっくに正式サービスは始まっている状況に陥っている。

 

「別にいいけどね」

 

 出遅れたことはちょっとは不満ではあるが、元々のんびりとやれればいいと考えていたので、さとり自身はそこまで問題だとは捉えていない。

 機械音声が途切れたので、なにかさわった方がいいのかと、さきほど出てきた文字に触れてみる。すると鈴を鳴らしたような音が鳴って、文字が光って消えていった。

 湖と大自然のホログラムが、一つの真っ白な球体へと変化する。

 

【注意事項。その一。このプログラムの起動時にはログアウトまで現実世界での意識が失われます。五感のいずれかに一定以上の強さ、あるいは不快さを覚えさせる感覚を察知した際は強制でログアウト処理が行われますが、できる限り安全な場所か、親しい者の近くに移動してから起動してください】

 

 音声とともに、注意事項が白い球体に黄色い文字で浮かぶ。球体をタッチしてみると、注意事項がその二へと進んだ。

 

【その二。できるだけ二時間以内ごとにログアウトをし、休憩をお取りください。連続で二時間三〇分以上ログインを続けますと、強制的にログアウト処理がなされます。不正な手段を用いて連続的に仮想世界へと接続を続け、なにかしらの損害を負ったとしても、当社は一切の責任を負いません】

 

 説明書の雑さ加減からして、どんなことにも責任なんて取る気はないだろうに。ただ、そんな責任管理ががばがばだろう連中がわざわざ注意事項に入れるだけあって、これは本当に重要なことなのかもしれない。とりあえずしっかりと頭に入れておくことにした。

 球体をタッチすると、さらに注意事項の項目が進む。

 

【その三。ゲーム内では食事の概念が存在し、満足感や満腹感を得ることもできますが、現実世界のそれらとはなんら関係がありません。栄養不足で倒れないよう、自己管理にお気をつけください】

 

 ほどほどにしろ、ということなのだろう。妖怪にも多種多様存在するが、さとりは食事を必要とする種族だ。きちんと肝に刻んでおく。

 

【その四。この項目のまま、一〇秒間お待ちください。タッチを行いますと、注意事項のその一へ移動いたします。こちらは人の話を聞かず注意事項さえ連打して飛ばしてしまうような妖怪や妖精などへの対策です。ゲーム内においても、他の人々の話はしっかりと聞くようにしましょう】

 

 どうやらこれで注意事項は終わりのようだった。最後の一文字まできちんと読んでから、さとりは、注意事項がめんどうだとして球体を連続で叩くような輩は永遠にループから抜けられないのね。くすりと笑う。

 一〇秒間なにもせずに待っていると、球体が下の方からブロック化して崩れ落ち、右目の景色が真っ暗に戻った。次はなにが起きるのかと期待していると、右の視界に水が溢れ出て、明るい海の底の光景が映し出された。

 そうして出てくるのは、ゲームで使用するキャラクターのデータ入力欄。

 

「……なるほど」

 

 性別や外見設定などの項目は薄暗くなっており、変更することができない。どうやら基本は今のさとりの姿そのままでゲーム内へと入り込む仕組みになっているようだ。

 ならばなぜわざわざ性別等の欄が用意されているのか。少し思索すれば、その答えはすぐに求められる。おそらくは性別がどちらでもなかったり不明であったり、肉体が不定形だったりする妖怪や神などのためだ。そういう存在はこれらの項目が薄暗くはなっておらず、設定が可能だというわけだろう。

 現状、さとりがデータの変更できるのはジョブだけのようだ。種族には『人間(サトリ)』と書かれており、変更はできない。そ の表記の仕方にさとりは首を傾げざるを得ないのだが――『人間』、あるいは『(サトリ)』だけでいいだろうに――、最終的には、これは本来の種族は(サトリ)でもゲーム内では人間として扱われるという解釈なのだろうと結論を出した。

 

「さて、大抵は変更できないみたいだし、決めるべきはジョブね……」

 

 そのジョブとやらは、なんと設定できる項目数が三つもある。試しに一つをタッチしてみると、戦士や魔術師など、三〇近い職業(ジョブ)の一覧が表示された。どうやらこの中から三つの組み合わせを選べということらしい。

 事前の情報から一つはなにをやるか決めていた。口元に小さく笑みが浮かぶのを自覚しながら、そっと手を伸ばしていく。

 一つ目のジョブ欄に、大量にあるジョブの中から『調教師』を選んで入れた。特徴の説明には『動物や魔物の調教に優れている。サポートもできる。若干耐久が高い』とだけ書かれている。

 

「まぁ、動物は嫌いじゃないもの」

 

 お燐やおくうの他にも、黒豹やコモドオオトカゲなど、数え切れないほどの動物を地霊殿では放し飼いにしている。動物は心を読まれても嫌がらず、むしろ慕ってくれる。嫌いじゃないというより、むしろ好きだ。

 ……しかし、残り二つはどうしたものか。

 一つ一つジョブの特徴説明を見ていくのだが、これじゃないと思うものが多い。戦士や剣士などはどう考えても向いていないし、弓にあまり興味はないので射手も却下、こんなにも多い中から錬金術師のように奇をてらったようなジョブを選び切るのにも抵抗がある。

 

「ふむぅ……」

 

 さとりは、自分がサトリ妖怪だと言うことを考慮して、『斥候』を選択してみることにした。特徴説明によると『観察と隠密に優れている。能力値を二つ、Bランクに上昇させることができる』とのことなので、観察に特化させてみることにする。

 あと一つだ。

 ここまでに選んだ二つは直接的に戦闘できるジョブではないので、三つ目はそれに類するものを入れた方がいいかもしれない。

 そう思っていろいろと見直してみるものの、しかし、これと言ったものは見つけられなかった。どれもこれも選ぶ際に唸ってしまうようなものばかりだ。

 

「このまま悩んでたってしかたないわね」

 

 途中で変更もできるようだから、さっさと決めてしまおう。

 とりあえず、オススメであるらしい『魔術師』を選択しておく。『戦士』等もオススメに入っていたが、自分が大きな武器を持って戦う姿が想像できなかったので不採用にした。

 上の方から入力が誤っていないかをチェックし、一番下の『設定完了』の文字に触れると、項目がステータス確認とやらに切り替わった。

 

【ジョブ補正により、五つのパラメーターのうち二つをBランクぶん上昇させることができます。どれにしますか?】

 

 筋力、耐久、知力、精神、敏捷――それぞれの横に左右二つの矢印が表示された。元々の値は左からD、C+、A+、A+、Cとなっており、試しに筋力の右の矢印にタッチしてみると、DがCへと変化する。

 外の世界ではこういうものの順位をSを頂点として次をA、B、Cと下げて行くと聞いたことがあった。おそらくはそれに則っているのだろう。

 アルファベットを二つ、一だけランクを上げることができるのか。そう思って次はC+の耐久の矢印を押してみたのだが、どういうわけかB+ではなくBになった。首を傾げつつ、筋力と耐久をもとに戻し、他の三つの値も試してみる。

 知力はA+からSへ、精神もA+からSへ、そして敏捷はCからBとなった。

 いまいちどういう計算になっているのかわからない。C以下だけが特別なのか、そもそも+(プラス)がどういう役割を持っているのかさえ――。

 

「まぁ、なんでもいいわね」

 

 どうせいくら小首を傾けていたって正しい答えはわからない。仮に解明できるとしても、どうせかなりの時間がかかる。

 特化してみるのもいいが、さとりは+(プラス)ぶん得ができるらしい筋力と敏捷を選択することにした。これでステータスは筋力C、耐久C+、知力A+、精神A+、敏捷Bとなる。

 設定完了の文字に触れるとすべての項目が消え、赤い文字の羅列が出現した。

 

【これよりMMORPG『Fantastic Countryside』のサーバーへと接続を開始します。五感の遮断を行いますので、任意の場所への移動が完了したのち、こちらの文字を崩してください】

 

 このままイスに座っていてもいいけれど目覚めた時に体が痛くなっているのは勘弁だ。立ち上がって電気を消し、ベッドの前まで行くと、ごろんと寝転がった。

 なんとなく、お燐の『もしかして、そわそわして私の報告が待ち切れなかったんじゃ』という思考を思い出す。間違っていない、と苦笑した。さとりはあまりに待ち切れなくて、部屋でじっとしていられなくて、無理矢理落ちつくためにお風呂に入っていたのだった。

 

「さて」

 

 右目だけでなく、左目も閉じる。大きく息を吸って、吐いて――深呼吸を繰り返す。

 さとりがMMORPGをやりたいと思ったのは、純粋に楽しそうだと思ったのが意図の一つではあるが、一番の理由は別にあった。

 すなわち、心を読む能力が自身に備わっていない世界をこの身で味わうということ。

 本来、サトリという妖怪は相手の内心を口にしてみせることで驚かせることを生業としているとされている。しかしさとりは心を読むことで他人に疎まれることが耐えられず、地霊殿から一歩も出ないような引きこもり同然の生活を送っていた。

 ペットたち動物以外には一切好かれず、友達と呼べるような存在は一人としていない。ペットにしても、好かれているとは言え飼い主のさとりを少なからず畏れている部分があるため、さとりが気兼ねなく内面をさらせるような相手なんて妹くらいしかいないのだった。そしてその妹はそこらを放浪してばかりで、基本的に地霊殿には気まぐれでしか帰って来ず、さとり自身でさえその帰還に気づかないこともある。

 要するに、誰ともまともに関われないという現状が、非常に寂しかったのだ。

 地霊殿への客人はほぼ皆無と言ってもいいけれど、もちろん少なくとも数人は、つまりは数えるほどにならばこれまで訪れたことがあった。しかしさとりは、常にそれらをすべて心を読む能力を存分に使って遠ざけてきた。なぜなら、中途半端に心を開いてしまい、いざ嫌われてしまった時に自分が傷つくことが怖かったから。

 心が読めない世界なら、そのことで他人に嫌われることはない。心が読めない世界なら、自分が傷つく確率はぐっと下がる。心が読めない世界なら、自分もまともにやっていくことができるかもしれない。寂しさを和らげることができるかもしれない。

 さとりは、そういう懇願にも似た類の感情をMMORPGとやらに抱いていたのだった。

 

「……行きましょう」

 

 ごくりと生唾を飲み込んで、腕を振って赤い文字を全部掻き消した。

 すると『Start』と書かれた白い文字が浮かび上がり、直後、眠気に支配されたように段々と意識が遠くなっていくのがわかった。

 これから体感する仮想の世界とやらでは、普通の人間みたいに誰かと付き合うことができるのか。

 不安や怪訝の念はある。しかしそれ以上に強い期待の思いを胸に、押し寄せてくる仮想への誘いに身を任せた。

 ――――遮断(cutoff)――投入(throw)――接続(connect)――――進入完了(access completion)

 ようこそ(welcome)。そんな歓迎の声が頭に響くとともに、幻想から仮想へと、さとりの意識は想像の壁を越えた。




なお、「Fantastic Countryside」は訳すと「幻想郷」となります。

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