気がつくと奇妙な空間にいた。
一面が真っ白だ。
「ここは……?」
よく見ると薄っすらと何かの輪郭が見える。
目を凝らしてみれば、それはベンチだった。他にも壁や柱がある。
少し考えて、ここがキングス・クロス駅である事に気がついた。
第十一話『滅びゆく魂』
ハリー・ポッターは白く染め上げられたキングス・クロス駅を歩いた。
こうなる前、ハリーは隠れ穴の布団で眠っていた。
そして、気づけばここにいた。
「君は……」
しばらく歩くと、そこに一人の少女がいた。
エミリア・ストーンズ。
エレインの親代わりであり、ロンが熱を上げているシルキーの少女だ。
「こんばんは」
「……え?」
耳を疑った。
彼女は喋れない筈だ。けれど、今の声は彼女の口から発せられたように聞こえた。
「ここだと喋れるみたいなの! 不思議だね!」
やはり、彼女は喋っていた。
驚きつつも、少し嬉しくもあった。
「えっと、エミリアだよね?」
「うん!」
その時だった。
奇妙な光景が浮かんだ。
―――― ちくしょう、エミリアめ! あのアバズレめ!
―――― ごえんなさい。ごえんなさい……。
悍ましい光景だった。
酔っ払った男が幼い子を殴りつけていた。
顔を腫らしながら子供は泣いて謝っている。
「い、今のは……」
エミリアを見た。男は彼女の名を呼んでいた。
彼女は悲しげな表情を浮かべている。そして、ハリーの頭を撫で始めた。
「え? な? え?」
戸惑っているとエミリアは言った。
「よしよし、イタくなーい、イタくなーい」
「エ、エミリア……?」
困惑しているとまた妙な光景が浮かんで来た。
―――― イタくなーい。イタくなーい。
―――― なんでだよ……。痛いのはお前だろ!?
幼い少女が二人いた。どちらもボロボロだった。どちらの事もハリーは知っていた。
「……エレインとエミリア?」
分かった気がした。
エドワードの救出作戦の時、エレインがダンブルドアにした提案を思い出したのだ。
開心術による情報の受け渡し。それと同じ事が起きているのだと思った。
開心術なんて使った事はない。だけど、ハリーは間違いなくエミリアの記憶を見たのだ。
「ここは何なの?」
「……天国」
「え!?」
「かなぁ?」
「かなぁ!?」
声を聞く前から思っていた事だけど、エミリアはかなりおっとりした子らしい。
「……天国って、僕は死んだの?」
「死んでないと思うよ?」
「そ、そうなんだ……」
ハリーは困った。なんとなく、彼女から答えを得る事は非常に難しそうだと思った。
「し、死んでないなら僕はどうしてこんなところに居るんだろう……」
「わたしが連れて来たからだよ?」
「ええ!?」
まさかの犯人だった。
「ど、どういう事!? なんで、僕をこの……て、天国? に連れて来たの!?」
「あの子がもうすぐ消えてしまうからだよ……」
「え?」
エミリアは遠くを指差した。そこには小さな影があった。
「なにあれ?」
「君とずっと一緒にいた子。エドワードくんが彼を滅ぼしたから、あの子も滅びようとしているの」
「……エミリア。あれは何なの?」
答えはすでに分かっている気がした。
一歩ずつ近づく度に輪郭が明瞭になっていく。
それは目を背けたくなるほど醜悪だった。
まるで赤ん坊のようでありながら、赤ん坊のような愛らしさとは無縁の生き物だった。
「ヴォルデモートって、みんな呼んでた子」
「……ヴォルデモート」
近づくと、また見知らぬ光景が浮かんで来た。
そこにはハリーと良く似た男の人がいて、ハリーの瞳と同じ色の瞳を持つ女の人がいた。
―――― リリー、ハリーを連れて逃げろ! あいつだ! 行くんだ! 早く! 僕が食い止める!
ジェームズ・ポッターはヴォルデモートに対して果敢に挑みかかった。
そして、彼が時間を稼ぐ間にリリー・ポッターは腕に抱えている赤ん坊と共に逃げ出した。
けれど、緑の光がジェームズの命を奪った。
―――― 赤ん坊を俺様に献上するがいい。さすれば、貴様の命だけは助けてやろう。
―――― 哀れね、ヴォルデモート卿。
―――― なんだと?
―――― あなたは誰からも愛された事がないのね。そして、誰の事も愛した事がないのでしょう?
その言葉にヴォルデモートは激昂した。
杖を振り上げ、無言呪文で彼女を弾き飛ばした。
それでも彼女は赤ん坊を守り、抱き締め続けた。
―――― ハリー。大丈夫よ、わたしの可愛いハリー。絶対、あんな奴には渡さないから!
迫り来る死を前にしてもリリーの意思が折れる事はなかった。
ヴォルデモートに挑みかかり、敵わぬ存在である事を骨身に刻まれながら、立てなくなっても尚、睨み続けた。
―――― 身の程を弁える事だ。貴様は生かす約束だが、これ以上の邪魔立ては許さぬぞ。
そして、彼は赤ん坊に近づいていく。
無垢な命を刈り取る為に杖を向けた。
―――― アバダ・ケダブラ。
緑の光がヴォルデモートの杖から飛び出した。そして、リリー・ポッターは死力を尽くした。
ヴォルデモートの目が見開かれる。
動けない筈だった。邪魔立て出来ぬように、そうなるように痛めつけたのだ。
緑の光は赤ん坊の盾となったリリーに命中した。
―――― 愚かな女だ……。
そう呟く彼の顔に浮かんでいたのは怒りだった。そして、どこか羨ましそうでもあった。
リリーの行動に心を掻き乱されている。
―――― ハリー・ポッター。
ヴォルデモートはハリーに杖を向けた。
―――― これで、もう俺様を阻むものはない。もう、何も……。
そして、彼は死の呪文を唱えた。
緑の光が走る。そして、光はハリーの前で跳ね返された。
―――― は?
緑の光は彼自身を撃ち抜いた。彼の魂は肉体から弾き出され、その魂は更に引き裂かれた。
一方は彼方へ飛ばされ、一方は赤ん坊の額に刻まれた稲妻の形の傷跡へ吸い込まれていった。
そして、残された赤ん坊が見たものはヴォルデモートの肉体の末路だった。
その肉体が灰となって消えていく。
「……今のって」
気づけば元のキングス・クロス駅に戻っていた。
隣には相変わらずエミリアがいて、前にはヴォルデモートの分霊が蹲っている。
ハリーはエミリアを見た。彼女の瞳に映り込むハリーの顔はとても酷いものだった。
「どうして、僕をここに連れて来たの……?」
ハリーにとって、ヴォルデモートはどこか遠い存在だった。
彼はハリーの両親を殺害し、ロンを殺した。
両親を殺した相手とは知っていても、どこか現実味を感じられなかった。
ロンが殺されたと知った時はヴォルデモートに殺意を抱いた。けれど、ロンは戻って来た。
許せない気持ちは残っているけれど、ヴォルデモートの事よりもロンの事が大事だった。
ハリーにとって、ヴォルデモートが己の関心事の中心にいた事は実のところ殆ど無かったのだ。
そうしている間に当のヴォルデモートをエドワードが討伐してしまった。エレインの関心を惹きたいという、なんとも彼らしい理由で世界を震撼させた魔王は滅ぼされてしまった。
だから、そのままハリーの中でどこか他人事のようにヴォルデモートという存在は風化していく筈だった。
それなのに、最後の最後で彼は憎しみを抱かされた。
「エミリア! どうしてだよ!?」
こんな怒りを懐きたくなどなかった。こんな悲しみを知りたくなどなかった。
両親の死は悲しい。だけど、ジニーのおかげでペチュニアが『いってらっしゃい』と言ってくれた。
あの瞬間、ハリーの中でダーズリー家という存在が大きく変化していた。
愛しているとは到底言えない。だけど、やはりあの家が帰るべき場所なのだと思った。
いつか、あの一家を本当の意味で家族と呼べる日が来るかもしれないと感じた。
「君が知りたいと願っていたから」
エミリアは言った。
「君の覚えていないところで始まって、君の知らない所で終わってしまった物語。だけど、君にとっては知らないままでは終わらせられない物語だから」
「エミリア……?」
エミリアはヴォルデモートの分霊に近づいていく。
「君はこの子に対して、何も選ぶ事が出来なかった。だけど、今なら選べるの」
「選ぶって、なにを……?」
「この子を憎むか、この子を許すかだよ」
「は?」
意味が分からなかった。憎むのは分かる。だけど、許す意味が分からない。
ヴォルデモートは多くの人を殺した。ハリーの両親やロンだけではない。マクゴナガルやドラコの両親を始め、数え切れない人を殺した。
彼は許されてはいけない存在なのだ。
「ハリー」
エミリアはハリーを見つめた。
「この子が憎い?」
その言葉に誘われるまま、ハリーはヴォルデモートを見た。
「……ぁぁ」
憎むべき相手だ。許すべきではない相手だ。
だけど、小さく蹲る姿を見て、ハリーは可哀想だと思ってしまった。
だって、あまりにも哀れに見えたからだ。
―――― 化け物!
―――― お前はまともじゃない!
彼の過去が流れ込んでくる。
―――― 君は魔法使いじゃ。
目を背けても、瞼を閉じても見えてしまう。
―――― あれが……、ホグワーツ!
孤児院で陰鬱な毎日を過ごしていた少年がホグワーツで新しい人生を歩み始めた。
スリザリン寮に配属されて、そこで初めての友達を得た。
人生の絶頂期を味わった彼はその時間を永遠のものにしたかった。
けれど、その願いは叶わなかった。彼は知ってしまった。自分が純血ではなかった事を。
スリザリン寮では純血主義を至上とされている。彼は友情を失う事を恐れた。破滅を恐れた。
それが彼の道を歪めていく。自らの出生や本音を押し殺して、彼は誰よりも純血主義たろうとした。
「……だからって、許せるわけないよ」
理由があれば何をしてもいいわけじゃない。
「それが君の選択?」
エミリアは意外と意地悪な子なのかもしれない。
「僕は……」
彼の心の声が聞こえてしまった。
―――― 友達が欲しい。
それはホグワーツに入学する前のハリーの渇望だった。
一人でも良かった。
ただ、なにもかもを分かち合える友が欲しかった。
そして、ハリーは友を得る事が出来た。
ロン・ウィーズリー。彼のような存在を得られていたら、トム・リドルという少年もヴォルデモートにはならなかったかもしれない。
「……許すよ」
もう滅びるだけの存在に憎しみを抱いても仕方がない。
そう思って口にすると、不思議と心が軽くなった気がした。