第九話『エドワードの憂鬱』
――――これは、夢だ。
遠い昔、父がアラスター・ムーディに捕まり、アズカバンに入れられる前の出来事。
広大な屋敷の一室で、物心がついたばかりの頃の僕は、父と向かい合っていた。
「よいか、エドワード。魔法には、未だに解明されていない未知の領域がある」
夜明けと同時に起こされて、食事が終わると闇の魔術の講義が始まる。それが終われば、ひたすら魔法の鍛錬を強いられた。
まだ、言葉を覚え始めたばかりの僕に、父は一切容赦をしなかった。話を理解出来なければ、その度に折檻を受けた。それこそ、死の一歩手前を体感させられた。
僕は父を恐れ、必死に彼の話を理解しようと頑張った。
「闇の魔術と呼ばれている領域がそれだ。あのアルバス・ダンブルドアを始めとした愚か者共は、この領域を《穢れ》と称しているが、大きな過ちだ」
父は杖で蓋の付いた箱を出した。
「エドワード。お前に、この箱の中身が分かるか?」
僕は分からないと答えた。
「そうだろう。実際に蓋を開けてみなければ、中に何が入っているのかなど、分かる筈がない」
父の難解な言い回しを理解する為に、僕は必死に言葉を吟味する。
「例えば、中には気化性の毒が入っているかもしれない。あるいは、危険な魔法生物が入っているかもしれない」
その言葉を聞いて、途端に父の持っている箱が怖くなった。
「怖いか、エドワード。それが未知というものだ。だがな、もしかしたら、この中には素晴らしい宝物が入っているかもしれないのだぞ。毒か、宝か、それは開けてみなければ分からんのだ」
父は蓋を開けた。そこには、何の変哲もないリンゴが入っていた。
「よいか、エドワード。未知を恐れてはいかん。真に恐れるべきは、無知である事だ。未知を既知に変える事で、無知を克服するのだ」
父は僕に己の知識と技術を注ぎ込んだ。
理解出来なければ、恐ろしい苦痛を与えられる。だから、僕は分からない事が怖くなった。
むかし、エレインが僕に『……なんで、よりにもよって箒なんだ?』と聞いてきた事がある。
マグルの世界で育った彼女にとって、《魔法使いが箒に乗る》という常識は非常識に思えたのだ。
僕も、改めて聞かれると分からなかった。それがすごく怖くて、彼女が戸惑うのを尻目に本を広げた。
無知である事こそが恐怖であり、無知である事は罪である。その父の教えは、今も僕の中に根付いていた。
◇
「……ここは?」
目を覚ますと、僕は知らない場所にいた。
「起きたのか、エド」
起き上がると、傍にはドラコの姿があった。
「ドラコ! 君、どうして!?」
「……いろいろとあったんだ。さて、どこから説明したものか……」
腕を組んで考え込むドラコ。
その間に、僕は意識を失う前の記憶を取り戻した。
「そっ、そうだ、エレイン! エレインを助けに行かないと!」
「落ち着け、エド」
「落ち着け無いよ! エレインはアイツに……、死喰い人に捕まったんだ!」
嫌なイメージが次々に浮かんでくる。
今頃、彼女は拷問を受けているかもしれない。もしかしたら、殺されかけているかもしれない。
呑気に眠って、貴重な時間を無駄にしてしまった。
「エド。エレインの居場所は分かっているんだ」
「本当に!? どこなの!?」
「……エド。まずは深呼吸をしろ」
「ドラコ!! 頼むから早く教えてくれ! 僕はエレインを助けに行きたいんだ!」
「分かっている! わかった上で、僕はお前に落ち着けと言っているんだ! お前が一人で突っ走っても、エレインは助けられないんだぞ!」
「でも……、僕は……ッ」
「いいから、落ち着け。誰も、エレインを助けないとは言ってないだろう。物事には順序があるんだ」
「順序……?」
ドラコは深く息を吐いた。
「まず、現状を把握しろ。説明してやる」
「……分かった」
ドラコは言った。
「まず、僕がホグワーツを去った後の話をしよう。僕は自宅に戻ったんだ。母上の事が心配だったし、なにか手掛かりがあるのではないかと思ってね」
「……どうだったの?」
「母上は殺されていた。だが、手掛かりは手に入った」
「お母さんが!? ド、ドラコ……」
父親だけでなく、母親まで失ったなんて……。
「……覚悟はしていたよ。だが、闇の帝王はミスを犯した。来い、ドビー!」
ドラコが叫ぶと、バチンという音と共に屋敷しもべ妖精が現れた。
「えっと?」
「こいつはドビー。僕の家の屋敷しもべ妖精だ。こいつが色々と見ていたんだよ。父上が闇の帝王から預かっていた魔術品を遊興の為に使った事。その事で、闇の帝王の不興を買った事」
「魔術品って?」
「見た目はただの日記帳だったらしい。そうだな?」
「……は、はい。ルシウス様は、この日記帳でホグワーツの秘密の部屋を開き、ハリー・ポッターを亡き者にしようとなさっておられました」
ドビーはビクビクしながら言った。
「秘密の部屋って、たしか……」
「そうだ。ホグワーツの創始者の一人であるサラザール・スリザリンがホグワーツに隠したもの。一説には、スリザリンの継承者のみが扱える強力な闇の魔術品が隠されていると言われている。……だが、おそらくはバジリスクだ」
「バジリスクって……、まさか!」
僕は去年の学年末に行われたスリザリン対ハッフルパフの試合を思い出した。
試合の途中に、突然フィールド上に現れた巨大な蛇。ダンブルドアの迅速な行動によって事なきを得たが、アレを見たスリザリンの上級生はバジリスクに違いないと言っていた。
ダンブルドアが最初に全員の視界を奪った事が証拠だ。バジリスクの目を見たものは命を奪われてしまうから。
「父上が日記帳を使ったのは、僕達が二年生になる直前の事だったそうだ。タイミング的に見て、間違いないと思う。日記帳は、継承者の力を行使して、バジリスクを解き放った。そして……、スネイプ先生とクィレルを殺した」
「あっ……」
そうだ。あの年に起きた事は、バジリスクの出現だけじゃない。同じ日に、二人の先生が命を奪われた。
「さらに、その直後だったようだ。賢者の石が奪われて、闇の帝王が復活したのは」
「……賢者の石って、あの?」
「そうだ。そして、聞いて驚くなよ? 僕達が入学して来た年、ホグワーツには賢者の石があったんだ。それを……、まんまと闇の帝王に奪われた。ダンブルドアは自分の地位を守るために隠蔽したんだよ、その事を!」
ドラコは押し殺していた激情を漏らした。
「……ダンブルドアがさっさと情報を公開していれば、父上や母上は」
悔しそうに、ドラコは拳を壁に打ち付けた。
血がにじみ出ている。
「ドラコ……」
「……すまない。話が逸れたな」
ドラコは深く息を吸い込むと、話の続きを口にした。
「僕は日記帳の存在を知った後、クラッブとゴイルの屋敷を回った。二人の母親も殺されていたよ」
「……二人は大丈夫なの?」
「大丈夫じゃない。精神的にまいってしまった。今は安全な場所で心を癒やしているよ。……あの二人が泣き叫ぶ姿を見て、僕は何もしてやれなかった」
他の人から見たら意外に思うかもしれないけど、ドラコは友達を大切にしている。
特に、クラッブとゴイルは特別だ。
二人は人より勉強が遅れている。宿題をこなすのも人より時間がかかる。だから、ドラコは寝る前に勉強会の時間を作って、二人が宿題を終わらせられるように手伝っていた。
僕もドラコには散々世話になってきた。一年生の頃、エレインから逃げ回っていた時、僕は寮の中で微妙な立ち位置になっていた。その時に助けてくれたのがドラコだ。
「……悔しいが、そこで手詰まりになった。だから、ホグワーツに戻ったんだ。ドビーの……というか、屋敷しもべ妖精の魔法は特別でね。ホグワーツにも姿現しが出来るんだ。それで、ダンブルドアに面会を求めて、日記帳の事を話した」
「ここはホグワーツなの?」
「違う。ここは、不死鳥の騎士団の隠れ家だ」
「不死鳥の騎士団って……」
「ダンブルドアが結成した対死喰い人用の部隊だよ。今、僕の情報を下にダンブルドアが立てた仮設を立証する為に色々と動き回っている」
「……そうなんだ。それで、その……、エレインの居場所は?」
いつ話が繋がるのか分からなくて、僕が堪らず問いかけると、ドラコは言った。
「エド。居場所を教えても、飛び出さないと誓え。……僕も我慢しているんだ。だけど、相手は死喰い人の中でも指折りの凶悪犯ばかりが集っている。闇雲に飛び出していっても殺されるだけだ」
「……分かった」
僕が絞り出すように言うと、ドラコは言った。
「ヌルメンガード。嘗て、ゲラート・グリンデルバルドが建造した私設監獄だ。そこを闇の帝王は拠点にしている。エレインもそこにいる筈だ」
「ヌルメンガード……」
聞いたことはある。深い森の中に聳え立ち、あらゆる存在の侵入を拒む要塞監獄。
ヴォルデモートの登場以前、グリンデルバルドの最盛期には、あの場所に多くの罪無き人々が収監されたという。
地獄より悍ましき地。そこに、エレインがいる。
「……いつなの? いつ、僕はエレインを助けに行けるの?」
「僕からはなんとも言えないね。ダンブルドアはエレイン救出を約束した。なるべく早い時期に行動するとも言った。だけど、それがいつかは明確に言わなかった」
「エレイン……」
「エド。救出がいつになるかは分からない。ただ、これだけは言っておくぞ」
「ドラコ?」
「お前はエレインの事だけを考えていろ。闇の帝王や、お前の父親の事は忘れろ」
「それは……」
「……君は器用だけど、不器用だからな。余計な事を考えて、一番肝心な事を疎かにしたらまずいだろ? 他の事は僕に任せろ」
「ドラコ……、君は」
ドラコの目には決意の光が灯っていた。
それが、すごく恐い。
「死ぬ気じゃないだろうね?」
「……さあ、どうかな。僕はすべてを失ったんだ。なら、後は突き進むだけさ」
「だ、ダメだよ、そんなの!」
「エド。お前が心配するべきはエレインだ」
「でも、君は僕の友達だ!」
ドラコは困ったように肩を竦めた。
「……前から思ってたことだけど、僕は君が苦手だ」
「えっ?」
「素直過ぎる。君みたいに、掛け値なしの友情をぶつけてくる人間は苦手だよ。クラッブやゴイルだって、親から言われて僕に付き従ってるんだぞ?」
「そんな事ない! 二人だって、君を大切に思ってる! ねえ、死のうとするのは止めてくれ! 僕、君が死ぬなんてイヤだ!!」
ドラコはため息を零した。
「分かった。分かったから、そのくらいにしてくれよ。やれやれ、僕は何としても復讐を遂げないといけないのに……」
「ドラコ……」
「……まあ、だからこそ気に入ってるんだけどね」
そう言うと、ドラコは僕から離れていった。
「少し待っていろ。状況を確認してくる。いいか、大人しくしておけよ」
「う、うん」
ドラコがいなくなった後、僕はエレインの事を考え続けた。
一刻も早く助けに行きたい。今頃、彼女が辛い目にあっているかもしれない。そう思うと、気が気じゃない。
「エレイン……」