第十話『悪夢』
見覚えのある部屋。ここは、私がエミーと出会う前に住んでいた家だ。
釘で固定された扉。鉄格子の嵌った窓。何もない二メートル四方の小部屋。それが私にとっての世界であり、すべてだった。
飢えと乾きに満ちた日々。時折入ってくるネズミや虫を食べて、雨水を飲んだ。どうしても耐えきれなくなると、私の手元に食べ物が現れ、それを食べた。
いつからそこにいて、どうして閉じ込められているのか分からなかった。けれど、生きていたかった。
「……ここは檻で、私は獣だったんだな」
幸いにも、私は頭が良かった。時折、扉の向こうから響く声を聞き、拙いながらも言葉を覚え、自分の中の力にも気付く事が出来た。
ブレンダ・ロットと、エスモンド・ロット。それが扉の向こうにいた女と男の名前だ。
超能力を使って扉を破壊すると、奴等は私を恐れた。初めて遭遇した他者は、私を嫌悪と憎悪の目で見てきた。
エレイン。そう呼ばれ、それが私の名前なのだと自覚した。
どうして閉じ込めるのか聞くと、奴等は言った。
『お前が化け物の子だからだ』
奴等の話を統合すると、私は養子だったらしい。それも、半ば無理矢理押し付けられた厄介者。
閉じ込めて、飢え死ぬのを待つつもりだったと言う。
私は家を出た。奴等は私を憎み、私も奴等を憎んでいたから。
その時の私には何も無かった。食べ物も、衣服も、棲家も、知識も、理性も無く、《生きたい》という欲望だけを糧に生きていた。
道を歩くと、ある者は私から目を逸らした。ある者は好奇の目で見た。ある者は哀れみを向けてきた。
ある日、私は男に声を掛けられた。食べ物に釣られて、男について行くと、風呂場で体を洗われて、清潔な服を着せられた。
男はマフィアの下っ端だった。
『これなら客が入れ食いだな。使い物にならなくなったら西地区の奴等に売り飛ばそう』
浮浪児は奴等にとって、野生の牛や豚と同じだった。仕入れに手間は掛かるが金が掛からず、壊れるまでの間に大金を稼ぎ出す。
男は私の味を確かめようと、ベッドに連れ込んだ。気持ち悪いから、私は男の股間を蹴り潰した。思った以上に男は苦しみ、泣き叫んだ。
『……お金、貰っていくね』
財布を掴み、私は外へ出た。そこはスラムで、ろくでもない連中のたまり場だった。
男から奪った金はすぐに底を尽いた。
途方に暮れた。生きたいという欲望はあっても、生きる方法が分からなかった。
お腹が空いて、喉が乾いて、悩み続けて、そして、私は彼女と出会った。
『……ねえ、大丈夫?』
エミリア・ストーンズと名乗った少女は私をおんぶして、自分の棲家へ連れて行った。
何も知らない私を利用するでもなく、むしろ、自分の知識や常識を惜しみなく教えてくれた。
『いい? 人の物を盗む事は悪い事なのよ。欲しい物がある時は、必ず対価を払うの』
言葉を覚え、常識を身に着け、文字を学び、私は獣から人間になった。
感謝していた。彼女の為に出来る事があるのなら、なんでもするつもりだった。
だけど、彼女は善良過ぎた。自分が傷つく事、奪われる事は平気な癖に、傷つける事や、奪う事を忌み嫌う。
性病を患い、それでも命を切り売りして、彼女は私を養い続けた。
返したくても、なにも受け取って貰えない。私は何度も泣いた。
『ごめんね、エレイン』
その度に、彼女は謝った。
謝らないでほしい。私を使って欲しい。エミーの為なら、体を売っても構わないと思った。
けれど、エミーは許してくれなかった。
『……暴力は痛いの。病気は苦しいの。エレインは健康でいなきゃダメだよ? 元気に、笑顔で生きるの。エレインが幸せなら、わたしも幸せだからね』
やせ細っていく体。病に蝕まれて、歯も抜け落ちて、髪の毛もパラパラと抜け落ちていく。
『エレイン……。わたし、ママになりたかったの……』
骨と皮だけの手を握る私に、彼女は言った。
ママと呼んであげれば良かった。だけど、私は言葉を発する事が出来なかった。
あまりにも、悲しすぎた。逝かないで欲しかった。幸せにしてもらった分、幸せにしてあげたかった。
『……幸せに生きてね、エレイン』
命の灯火が小さくなっていく。
この世界で何よりも大切なものが、永遠に失われてしまう。
その恐怖は筆舌にし難い。気が狂いそうだった。
『……最期に一つだけ教えておくね』
命が消える。
彼女の言葉に耳を傾けながら、私は必死に命を引き留めようと、彼女の手を握り締めた。
だけど……、
◇
「エミー……」
瞼を開くと、私はホグワーツの医務室にいた。
隣のベッドにはレネとハリーがいる。
「クソッ……」
涙が溢れてくる。
前は我慢出来た筈なのに、最近は感情の制御が上手くいかない。
「あら、起きたのね」
マダム・ポンフリーがホットチョコレートを持ってきてくれた。
「これを飲むと元気になるはずよ」
言われるがままにホットチョコレートを飲む。すると、冷え固まった体に温度が戻った。
さっきまでの哀しみも癒えて、胸をなでおろす。
「……ん、んん」
「あれ……?」
ハリーとレネも目を覚ました。
「おっす」
二人に声を掛けると、二人は揃って首を傾げた。
寝起きで、まだ状況が掴めていないのだろう。
マダム・ポンフリーは二人にもホットチョコレートを運んだ。
「飲み終えたら寮に戻って構いません」
そう言われて、私達はノロノロと医務室を後にした。
「最悪の夢見だったぜ……」
「……私も」
「僕も……、あんまり内容は覚えていないんだけど」
言葉少なめにハリーと別れ、私とレネもまっすぐに寮へ向かった。
談話室にはハーマイオニー達がいて、心配されたけど、今はとにかく眠りたかった。
寝室に向かって、ベッドに倒れ込む。ホットチョコレートのおかげか、今度の夢は随分とマシなものだった。