「トンネルを越えたら……そこは、地中海という天国でした」
白い日差しに潮香り。見渡す海の青さは日本ではお目にかかることが少なくなったエメラルド。
砂浜に近づく程透明になり、沖に向かうほどに淡い碧色をつけた絣を見せる。
色分けされてもそこに住む魚の影の流れが見えるほど透明な海、空の青さから恵みの尾を得たように広がるパノラマを前に敦子は眩しい太陽に目を細めていた。
石造りの窓際、重ね合わせのうえに窓枠が付けられ味わい深い茶色のすすけた端に両手を組んだまま体ごと傾けて外を見ていた。
大きく間取られた石畳の部屋。
真ん中に置かれたベッドはクイーンサイズ。
素っ気ないつくりではあるが、風光明媚である窓から向こうの世界をみれば十分過ぎる休息の間。
不思議な場所。
海側、自分のいる場所より遠くには砂浜があるのだが、真下にあるのは壊れた遺蹟ばかり丸くこの島を囲むように白亜の石を海に浸した遺蹟は、円形に繋がっているようにも見える。
廃墟というには美しすぎる、波の音も緩やかで優しく、日差しも曇りのないもの。
新婚旅行に来るならば、これ程理想の場所も無いだろうと窓に寄り添って頭を転がした。額に張る怒りの亀裂をほぐすために。
つい先ほど、晴天の空に飛び立ちそうだった羽根付きの妄想心に、現実という五寸釘を撃ち込む質問を受けたばかりだった。
「小林、率直に聞こうお前今何歳だ? 見た感じからすると二十歳はとっくに過ぎてるよな?」
目覚めの開口一番の声に、顎から下、歯に踏ん張りが瞬時に入る。
倒れて運ばれた病院で最初にされるにふさわしくない質問……この病院は患者にストレスをもれなくプレゼントする事に命を懸けてるのか? 首を右に傾げて睨んだ。
病室をノックと同じドアを開けて訪れた人物。
坂本美緒という、白色に金ボタン仕立ての良い制服なのに、下は水着という怪異な出で立ちの少女は怪異の延長である眼帯で隠した目とは逆の目と、口元に溢れんばかりのうれしさを見せて答えを待っていた。
当然喜ばしくない質問に敦子の首は、黒髪で怒りの視線を隠すほど大きく傾いでいた。
真っ赤に意識を塗り替えて怒鳴りそうになる程に、しかし大人として突然激怒は見苦しいと堪えていた。
いきなり患者の歳が聞きたいなんて……
烈火になった意識を大人のリミッターが働き平静にシフトする。
ここは病院であると。病院だからこそ、これからの入院生活に必要な質問なのだろう? 年齢確認も大切だろうと懸命に胸を押さえ熱くなった息を飲み込んだ。
「……今年三十二……あー、来月で三十三になるわ」
「三十三だと!!!」
穏やかな波の音に、反逆する敦子の血管。
驚くにしてもそんな大声で……
額を脈打つ衝動は、オウム返しの年齢豪語に対して小刻みに震えていた。
「……三十三だとなんなのよ……更年期障害とかまだでてないわよ」
「いやいや驚いた。とっくに枯れていていい歳なのに……」
「枯れてないわよ!!!」
「本当だ、まったくだ、枯れてない。すばらしいぞ」
悪びれない顔、前髪を綺麗似整えた美麗な眉は嬉しそうに弓成る。
相手のそういう顔が、心により一層の錘を置いていく。
喉に怒りを詰め込んだ敦子は黙ってドアの方を指差した。
「……ねぇ、出てってくれない……せっかくの療養なのよ。あんたが私を怒らせたいのは良くわかったけど、付き合う気はないの……先生呼んでよ」
「うん? 怒らせる気などないぞ。それに体の方はもう大丈夫だ、怪我もしていない。実にすばらしい、良く鍛えている」
「いいから出て行ってよ!!!」
歳だの枯れるだの……熟年乙女の心に石礫を打つような、言ってはならない禁句を並べ立てて、嬉しそうな顔を見せていた坂本という少女を追いだしていた。
敦子は潮風に揺られた体を抱いて愚痴っていた。
「そりゃあんたみたいに……若くないわよ……」
リゾート地だからか、制服の下に生足を惜しげもなく晒していた坂本を思い出して時には真実を認め、いきり立った自分を諫めるように言葉に出して見るものの、否と顎に力が入る。
「ダメよ、そんな事を言われて黙っているなんてあり得ないわ。言い出したらきりがないのが若さってヤツよ……言い返しておかないと調子に乗って際限なく言われるわ」
敦子はこの不可思議な状況をまだ半分も飲み込めていないのに、神経質に自分の事だけには目を尖らせ、腹の虫も同じぐらいに現実的に鳴いていた。
「……怒ると、お腹減るのねぇ……ご飯はでないのかしら、保険にそういう項目はあったけ? けちらずスーパーワイド保険にしておけばよかったわー」
柔らかい日差しの下、部屋のベッドに敦子はダイブした。
ご飯を頂くには追加料金がいるのか? それとも保険で賄われるのかと現実的な空腹に腹を鳴らせながらも、夢心地の空間に寝転んだ。
「ええ、後のことはこちらの方で、手間をかけます」
デスクに備え付けられている黒板消しのように大型の受話器を下ろした赤髪の中佐ミーナは、壁越しのイスに座った坂本美緒に了解を取り付けた事を目で教えた。
「すまない、ミーナ。助かる」
「それはいいけれど、あの中年女性が魔女なのは解るとして……例の大きな魔方陣を発生させたとは信じられないわ」
小林敦子という中年女を、漂流していた坂本美緒共々保護した時に見た魔方陣。
大きさもさる事ながら、空から客観的に見たそれは扶桑の文字だけではなく複数の言語が込められた初めて見る形のものだった。
それを確認したが故に、ミーナ中佐は魔方陣の存在が蜃気楼的なイリュージョンで、本物ではないのではという疑問をもっていた。
「いや、目の前で私が見たんだ。間違いない」
「美緒が見たという事を否定はしないけど、力をもった魔方陣だったとは……」
「もっていた、凄い力だった。だが信じがたいという気持ちもわかる……だからこうしてここにおいてもらう事にしたわけだし」
「そうね、時間も必要かもね……それにしても年齢がね……」
敦子をここに連れてきた以来三日間、眠り続けた相手の様子を朝一番で見に行っていた坂本。
今日は目を覚ました敦子に最初の質問をして帰ってきていた。
「そうだ歳、まったくおどろかされた。本人に聞いたのだが年齢は三十二歳。魔法力の減退には諸説有るが、一生持ち続けたとしてもあれほどの魔方陣を維持できる者は見たことがない。枯れる歳をとっくに上回っているのに、これには絶対に何んらかの秘訣があるに違いない」
理路整然とした物言いの坂本だが、ミーナの顔は険しかった。
前の大一番、ガリア解放に戦った終盤に坂本が魔法シールドを失い、命を落としそうになった事を憶えていた。
今回ロマーニャの危機に再び集まり501統合戦闘航空団ストライクウィッチーズに参加してくれているが、坂本は自分の生ききる道はそこにしかないと言わんばかりの参戦であり、それを思う程に心配がぬぐえない。
心強い、そう思うと同じに失いたくはない大切な友は、懸命に自分がウィッチとして弱き者達の前に立つことを願い続けている。
ミーナは小林の存在に目を輝かせる坂本に小さなため息を見せた。
むろん相手に自分の心痛を伝えるために、解る形で。
「美緒、小林さん? そのウィッチから魔法力の延命を学びたいという気持ちはわかるけど……」
「おいおい、そんな矮小な言い方をしないでくれ。自分を鍛える新しいチャンスに恵まれたと思っている。私が規範となってその技を会得する。悪く無いだろう」
左手側に置かれた扶桑の刀「烈風丸」
赤束威のそれには香るほどの魔力の集積が行われている。
坂本が自らの魔法力を注ぎ込み作った魂の一品。そうまでしても空に馳せる思いを命令という形で踏みにじりたくない。
ミーナは諦めたようにイスに座ると、手元に用意してあったティーを勧めた。
「良い結果が得られるといいわね、私にもその日は来るのだから」
「まだまだだ、ひよこばかりを空にはやれない。簡単には引退できないぞ」
「引退したくないのは貴女でしょ……もちろん私も全てが終わるまで、そのつもりはないけれど」
「ああそういう気持ちが大事だ」
顔を合わせた目で笑い合う。
二人共年齢的には戦闘航空団に付くウィッチとしては微妙な歳になっている。
ウィッチの魔法力に頼る羽根は、ゆっくりと確実に魔法力を吸い上げ戦いの空に散らしていく。
与えられた力、ギフトである魔力を……
それでも花の十代、同年代の少女達が送る色恋につぐ不偏の青春を投げ捨ててこの戦いに身を投じる意味は。
同じ思いをするウィッチが、この先も産まれてくるのは嫌だということ。
自分達の代で、不確定で不気味な敵であるネウロイを倒したいの一言に尽きた。
だからこそ誰よりも長く空を飛び続けたい。
その思いを二人共が抱え、その気持ちを友に戦うウィッチ達が持っている。
言わなくてもわかる笑みの裏を確認した二人は目に走った力みを抜き、イスに深く座った。
「ところで最近のネウロイの傾向なんだけれど……以前も人の擬態をするという形が見られたでしょう」
「今度の流行りは違うみたいだな」
一息ついた所でミーナは写真が添付された資料を差し出した。
各隊が対峙したネウロイ達の写真。
異形の敵である彼らの千差万別の姿を持っているが、共通している部分はヘキサグラムの外殻集合体である事。
「流行り……そういう見方もあるかもしれないけど、ネウロイが私達の側の兵器を真似するというのは前からあった事だし、今でもそれが主流なんだけど、特に最近は……」
「昆虫を混ぜたような形が見受けられるな」
異形の敵であるネウロイ。
最初のティーを飲み干した坂本は眼帯をしている目の側、こめかみの部分に指を二本突いて。
「コピーしていく意味を、またはコピーする事の利点を知りたいって事かな?」
戦場に置いては目の前の敵を討つことだけを真っ直ぐ考える兵士ではあるが、冷静に敵の分析をするのは指揮をとる坂本やミーナ中佐の仕事でもある。
「それを言い出したら今までだって色々な擬態をしているわけだから、本当にきりがないけど……」
「ないけど?」
「ネウロイの擬態は何かを探して、それに合わせて形を作っている、そんな気がするの」
抽象的に飛び問答。
本来ならばこういう会話は軍隊的ではないものだ。
イエス、ノー、と具体的な話しをする事で対策を奉ずるのが正しい方法なのだが、ウィッチ同士として話すのにそこまで堅苦しくなる必要はない。
むしろ軟化した会話の中から答えを出す対話を必要としていた。
抽象の夢さえも能力の一端である者達の会話は、形が整った硬質なものよりも有用な時も多い。
「ミーナの直感がそう感じ取っているのならば、奴らの形状にも注意を働かせ見落としのないように戦う事も必要となってくるな」
「ええ私も各隊の目撃情報などから、それが何かに迫ってみようと思うわ」
魔女の直感。
特にこの能力に優れているミーナが持つ疑問を捨ててはおけない。
坂本は自分の目が持つ能力で、それら疑念に対応をする事を約束すると、付いていた指で眼帯を軽くさすって立ち上がった。
「良し、話しは終わりだ、訓練に出る」
「待って美緒、その小林さん目を覚ましたのでしょ」
「ああ目を覚ましたから歳を聞いた。そしたら凄く怒ってな……うん、何がいけなかったのかわからないが、記憶が混乱している時にあれこれ催促すのもあれだし、食べてなかっただろうから飯の仕度をさせて宮藤とリーネに行ってもらう事にしたよ」
「危なくないの?」
「そんな気は感じなかった。大丈夫さ」
さらりと言い切る。
男顔負けの潔さで悪戯な目は笑って見せた。
基地司令として重荷を背負っているミーナに世話をかけるという気持ちも、前向きに頼むと背中で言う。
「別に重荷じゃないわ、扶桑の魔女が問題を持ち込むのには慣れたから」
互いを良く知り合った顔は、見つめ合わなくても心を知っていた。
「天国にはハレンチ学園がある……」
ベッド越しに見える給仕の姿に、敦子は少しの混乱を起こしていた。
というか、この病院が実は精神科系の病院だったのではと、心を泡立てていた。
「お口に合うと良いのですが」
羽布団の中で体操座りしている敦子、小山のようにポツンとベッドに座る姿は、布団の中から目だけで給仕姿の白エプロンを着けた宮藤芳佳を見ていた。
セーラーに下は水着……それは先に来た坂本という少女にも似た姿で……漠然と、いや無理矢理ここはリゾート地と心に判子を押し続けていたが、隣の少女の姿にその思いは打ち砕かれていた。
明らかにスカートを穿いていない姿、上等なブリティッシュジャケットにVネックのセーター……なのに、上着のカッターシャツはタックインしていない状態その下にハッキリと見えるローレグの……白いブーメランと小さなリボン。
「あのー、食欲無いんですか?」
凝視する目の前を、ドングリ眼が近づいていた。
潮焼けなのか黒髪をオレンジに焦がした幼顔の少女は敦子の血走った目を見て、心配げに眉を下げていた。
「いえ、そういうわけでは……むしろ凄くお腹減ってます」
年下の少女に奇妙な敬語。
どう辺り触って良いのか困る状況の中で敦子は懸命に考えていた。
ここが夢と現実の狭間で、自分が半ハゲオヤジに刺されて重篤のまま集中治療室のベッドで夢を見ているのではという事までを範囲に入れて、もう一度配膳をしてくれる二人を見た。
「ここは天国、地中海という天国で、和風のご飯が出るというのも……レアな体験だけど」
もう一度、パンツ丸出しの少女を見る。
「ここは天国……そう天国には天使がいるもんね……そうだよ、だからだよね天使ってフルチンだし、でも女の子の天使がいきなりフルモンティーってわけにいかないから……だからってなんで下半身だけ丸出しなのよ……」
懸命に状況を自分に理解させようとして涙目になる。
だったら上も脱いでろよというセルフ突っ込みで目眩がする。
こんな露出が日本国で許されていたのかという現実的な疑問を、懸命に夢のオブラートに包もうとするが、これが夢であったとするのなら……自分の満たされていない欲求ってなんなのという自己嫌悪で頭をシンクする。
「まだ具合悪い所があるんですね」
「色々具合が悪いわ……ねぇ聞いて良い?」
もうここまできたにら聞いた方が早い、何故ここに詰める少女達は下を穿いていないのか、最初にあった坂本という少女も下は水着だけというおかしなかっこうだったが、この白人らしい少女の姿にはカオスを感じていた。
こんな白昼堂々と白のショーツを晒して病院の中を闊歩している者などまともな人間である訳がない、リゾート地にあるステキな病院は、社会の窓を開放しすぎて、女までオープンになり過ぎていると良心的な考えをうかべながらも……露出狂が集うアイランドに隔離されてしまったのかという心配で胃が痛い。
敦子は自分の胸を押さえ深呼吸をすると、こわばった顔をあげて薄く開いた目で念を押した。
「ずばり聞くけどいいわよね?」
「はい、なんでもどうぞ。とりあえず自己紹介をします。私は宮藤芳佳と言います。こちらはリーネちゃんです」
「リーネちゃん……そうリーネちゃんは、なんで下着姿なの? おっちょこちょいで穿き忘れたっていうならば……それはそれでいいけど、スカートは穿いた方がいいのよ、きっと……」
うわずる声、リーネと紹介された栗色髪の落ち着いた顔立ちの少女を、見てはいけないのでは感じてしまう羞恥の空間。
布団の中で重く踊るバスドラの心音で、こんなに堂々と見せられれば女同士でもこっちが恥ずかしいという態度を目と手で指差して聞いた。
「はい? 穿いてますよズボン」
愛らしく気の弱そうな青い瞳が不思議そうに首を傾げる。
同じように宮藤が、敦子の視線を追ってリーネを見る、そして戻って敦子を見た顔は不可思議を乗せたまま首を傾げると。
「穿いてますよ。やだなー、びっくりしたー、いくらリーネちゃんでもズボン穿かずに出歩いたりしませんよ」
「ひどいよ、芳佳ちゃん!! 私、ズボンを穿き忘れた事なんて一度もないよ!!」
ズボン?
自分の質問を前にはしゃぐ少女達。何か自分が間違った事を聞いてしまったのかという不安は敦子の頭の中を、悪い方向にキリキリ回転を上げていた。
裸の王様的な……花よ蝶よ、たのしげな笑みを見せる二人の中で敦子の暗雲は積乱雲のごとく大きく猛っていた。
「ズボンってそのショーツの事?」
「ショーツ? これはズボンですよ」
「えっ……それパンティーじゃないの? 下着よねそれ?」
「はい、ズボンですよこれ、下に着てるから下着?」
可愛く小首を傾げている笑い目が、敦子の焦燥に塩を撒いているように感じる。
と同時に、ここは開かれすぎた妖しいリゾート地で、日本人で三十を超して女である自分にはとても生きていけない土地だと理解した。
被っていた布団をはね除けると、目眩に震える体で起き上がった。
「……保険屋さんに電話しなきゃ、なんで? どうしてこんなおかしな病院にいれられちゃったのよ……私が何したって言うのよ。月掛け二倍の安心サポートプラン電話一本で何でもご相談の親切設定は、男向きに親切って事だったのね……冗談じゃないわ、ちょっと電話させてくれない?」
「はい、電話ですか……電話は司令部の方にいかないとないのかな?」
「ミーナ中佐の部屋にはありますよ」
立ち上がった敦子は、意味不明な事を話す二人の前を幽霊のようにスラリと通り越していた。
この子達と話しをしても埒があかない。この子達は、このいかれた病院で性的虐待をうけている。
だから下を丸出しで歩いている。
陽気のいい場所のせいでごまかされているが、ここは精神科の病院でももっとも悪辣な所だと勝手に思い込んで部屋から飛び出した。
「にげなきゃ!!! こんな所にどうして私いるのよぉぉ……」
「待って下さい!! 案内しますよ!!」
「いやぁぁぁぁ、追ってこないで!!!」
OLルックが全力疾走。
もう待ってなど居られない、ここに隔離されたら自分のいずれ下半身丸出しの服を着せられるかも知れないという、心の底からの羞恥心という恐怖に、敦子はパンプスの足でダッシュを決めていた。
その後ろ目を丸くした二人が追ってくる。
「いやよ!! 絶対に嫌!!」
普段使わない筋肉をフル活用して走って行く。
そんな純粋そうな目で声をかけられても、普通じゃない事を容認は出来ない。
走りながら敦子は保険屋に怒鳴り込もうと硬く決意の拳を振り上げていた。
「こんなところに居られないわよー!!」
絶響と共に勢い走りきったそこは……真正面に海が広がる大突堤だった。
真っ直ぐに伸びる大桟橋にもにた道、振り返った後ろにそびえるニケ象にもにた巨大な彫像、それを支える大きな建物に、息を上げていた敦子の呼吸が一瞬止まっていた。
青い海の中に立つ、白亜の病院は、その中身とは違って美しくて荘厳過ぎた。
汗に濡れた顔に張り付く髪を手で払う。
熱量を考えれば、これが現実である事を信じざる得ないという脱力が体を襲い、力を無くした口元は愚痴を滑らせる。
「なんで……こんなステキな場所なのに……ていうか……本当にここどこなのよ?」
「うん? 小林どうした?」
一難を逃げた敦子に声をかけたのはけたたましい音に乗った坂本だった。
そしてその姿に敦子はペタンと座り込んでいた。
顔はあの眼帯を付けたまま、背負いに日本刀を持つ珍妙さにも慣れていたが、その足下には驚きと夢の始まりが見えていた。
両足についた筒、その先に光の輪が見える。
鼠花火のように、忙しく回る光のラインが風を切る音を繰り返している。
太ももまでを覆う筒で足首は見えず、それだけならずいぶんと尖った靴だと眉をしかめただろうが、驚きで座り込んだ最大の理由はまったく別の事だった。
自分の目に写る、地上から離れ浮いている坂本の姿に震えを感じていた。
「……なんで浮いてるの?」
「うん? ストライカーユニットを知らないのか? それとも思い出せないのか?」
「知らないわよ、そんなの……」
ただ呆然だった、坂本は足を揃え自分の前にいる。
生足を突っ込んだ筒は地上から綺麗に切り離され浮いている、座り込んだままの敦子は本当にこれが浮いているのか? という疑問を子供のように確認していた、浮いた下に手を通して。
何にも振れられない空間に手を游がせて。
「本当に浮いてる……なんなのこれ……」
唇を震わせる敦子の、ストライカーユニットを知らないという答えに坂本は顎に手を当て一思案をして大口で笑った。
着装しているストライカーを両手で叩いて見せると、目の前でクルリと一回転してみせた。
浮いた足で氷上を滑るように綺麗な一回転、どこにも自分をひっかけるものがない空のリンクを遊ぶ姿に敦子の低いドラムロールのような気鬱な鼓動が、羽布団のように一瞬にして弾けていた。
嫌気で顰めていた目が、少女のように輝きの星を取り戻す顔に、坂本は陽気に煽った。
「飛んでみるか? これを穿けば飛べるぞ」
「飛べる? 空を?」
「ああ空を飛ぶんだ」
手を挙げて澄んだ晴天を指差す。
百聞は一見にしかず、憶えていなくてもストライカーを穿いて空を飛べば思い出すかも、実に坂本らしい実践型のショック療法だったが、敦子の目は驚きに開いたまま答えを出せずにいた。
「ねぇ、これは夢なの?」
見えない自分の世界観、現実的な夢の前で小さく首を振った敦子に坂本は続けて笑って見せた。
「夢なのかもしれないな、だったら飛んでみてもいいだろう」
夢かも……夢なら……。
腰砕けになっていた体は自然と起き上がっていた。
夢なら飛んでもいい、空を飛べるなら夢でもいい。
「飛びたいわ」
そう言った敦子に、坂本は後ろを指差した。
高くそびえる赤煉瓦の城壁、その下に口を開けるガレージの中、坂本が穿いてるのと同じ筒がボックス型のランチに架けられて綺麗に並んでいる。
魔法のほうきや、白い羽根とは違うけど、穿けば空に舞い上がれるブーツに敦子はゆっくりと近づき、滑らかな曲線を手で触れていた。
「さあ、飛ぼう」
「飛ぶわ……」
魔法少女になるのが夢だった。
空を飛んで、貴方の所に一っ飛び。
夢の中にいる自分が、夢を叶える魔法のブーツを目の前にしている。
もうそれだけで、それだけを信じて敦子はブーツに足を差し入れた。
「……食欲ないんですか?」
宮藤芳佳は、目の前食堂のテーブル端に座ったまま頬を膨らませている敦子に上目遣いで聞いた。
「……あったけど……食べたくないわ」
小林敦子は空腹の腹を抱えて涙していた。
夢を叶える魔法のブーツ、空を軽く飛ぶ坂本の姿に、自分も飛べるはずと意気込んだ熟年乙女の花は……。
己の足の太さであえなく撃沈されていた。
どうやっても入らない足……現実の錘が、夢の魔法少女への道にガッチリ蓋をしていた。
「私が月下美人(ハニィ)より太ってるとでもいうのぉぉぉぉぉ」
唇を噛み月に吠える。
小太りOLのハニィよりマシなんて思っていた自分の体のゆるみに涙が千切れる。
夢の中なのに容赦のない現実。
「変身できれば……穿けるのよぉぉぉ」
丸めた背中の後ろ姿に、苦笑いの坂本美緒。
これから出会う少女達の前で、乙女心だけは健在の敦子に目標は出来ていた。
この夢の中で絶対に空を飛んでやるという、現実にはあり得ない願いを、現実の体を絞ってと。
「あんた達みたいな針金足じゃなくて悪かったわね!! 今に見ときなさい!!! 絶対に穿いてやるんだから!!!」
夢と現実の狭間で熟年乙女敦子の試練は始まったばかりだった。
何故足は太くなってしまうのだろう。