――再び、深い闇の中にいた。
先ほどまでの、暗く、孤独で、おぞましいばかりの闇とは違う。
この闇はむしろ、自分の姿をすっぽりと覆い尽くし、外の世界から守ってくれる優しい闇だ。
辛い時、苦しい時、悲しい時は、いつだってこの闇の中に逃げ込んで来た。
懐かしい甘い匂い。
心地よい温もり。
穏やかな波の音。
瞳を閉じ、体を小さく丸め、そっと聞き耳を立てながら、その時を待つ。
やがて、どんどんと足音を響かせ、馴染みとなったサウンド・ドラマの幕が開ける。
「――オトメッ!」
バタン、と勢い良く扉を開け放ち、切羽詰った男の声が響く。
父の声だ。
その声色には自分が知るよりも若いハリがあり、また、らしからぬ動揺の色が混じってはいるが、それでもずっと二人でやってきた人の声を間違う筈がない。
「もう、落ち着いてよセイ兄さん。
私たちだけの病院じゃないのよ」
そう言って、困ったように『彼女』が苦笑する。
透き通るような声が、空気を通してではなく、『彼女』の体を通して体内に染み渡る。
「これが落ち着いていられるかよッ!?
オトメ、お前だって先生から聞かされているんだろう?
今の自分の状態を」
「……うん」
「先生に言われたよ。
決断するなら、今しかない、ってな……」
それっきり、二人がしばらく口を閉ざす。
長い静寂。
ゆったりとした心臓の音、それしか聞こえない。
二人は今、どんな表情をしているのだろうか?
「……堕ろせ、オトメ」
長い沈黙の果て。
感情を押し殺した、重く、短い声で、父が言う。
自分を殺せ、と、あの父が言う。
「難産になると、そう言われたよ。
母胎にかかる負担が大き過ぎる、とまで言われた。
生来体の弱いお前には、あまりにも危険だ、とな」
『彼女』はただ押し黙って、静かに父の話を聴いている。
貝のようになってしまった『彼女』に対し、更に強く、父が言葉を重ねる。
「運良く無事に出産できても、まともに生まれてくる可能性は低いそうだ。
お前が愛した男も、もういない。
女手一つ、そんな体で未熟児を抱えて、それでどんな風に生きていけるって言うんだ?」
父の言葉。
重く、短く、感情を完全に押し殺していた筈の声が、次第に弱く、熱く、悲しいほどに熱を帯びていってしまう。
「……なあ、オトメよぉ。
俺は、空手しか生き方を知らない男だ。
この上、この世でたった一人の妹まで失いたくはない」
父の言葉。
知らない、こんな父は知らない。
いつだって、巌のようにそびえる父であった。
どんなに強い風も、雨も、雪も、彼の心を揺さぶる事など出来はしなかったと言うのに。
「聞き分けてくれ、オトメ。
お前までいなくなったら、俺には本当に、この拳しか頼れる物が無くなっちまう」
父の言葉。
知らない。
自分の知る父は、こんなにも真摯に一人の女性を愛せる男ではない。
だとしたらやはりこの世界は、自分にとって都合の良い、妄想の産物に過ぎないのだろうか?
「……だからだよ、兄さん。
だからこそ、この子を生むの」
『彼女』が言う。
きっぱりと、凛としたよく通る声で。
「――二十年、ただひたすらに、まっすぐ、悔い無く生きてきた。
人並に生きたいと、背伸びして、胸を張って、恋をして……」
「オトメ……」
「まっすぐに駆け抜けた青春の集大成、それがこの子。
私の誇り。
兄さんの空手と同じ、捨てたりしたら生きてはいけない」
彼女の声。
何一つてらいの無い、澄み切った声。
まっすぐに相手の心臓を叩く、正拳のように力強い声。
「この子は私たち兄妹の、かけがえの無い家族になるために生まれてくるの。
だから私が守る。
この子の笑顔も、幸せも、未来も、全部全部全部」
「……家族、か」
「名前だって、もう考えてあるの。
リオ……、ナガラ・リオ。
リオ、
そう言って、『彼女』がぽん、と自分に触れる。
この暖かな手の平は今、どちらの漢字を自分に当て嵌めているのだろうか。
「もしもこの子が女の子だったなら、この世で一番、幸せな子供にする。
瑠璃のように桜のように、キラキラと輝く素敵な女の子にするわ」
そう笑う『彼女』の声に合わせ、とくん、とくんと世界が高鳴る。
どうしても考えてしまう。
あるいは自分が女だったら、『彼女』は長く生きられたのではないか、と。
自分と、『彼女』と、そして『伯父』。
家族三人、肩を寄せ合い慎ましくも幸福に暮せていたのではないか、と。
「……もしも、もしも男だったら?」
不安げな父の声に対し、高らかと謳うように『彼女』が言う。
「この世で一番、強い子に育てるわ。
草原を駆ける獅子のように、夜空に煌めく星座のように。
どんな世界でも、己が身一つを誇りに生きて行ける、強い強い子供に」
「しし座の、子供……」
「もしもこの子が、男の子だったなら、その時は空手を教えてあげて欲しい。
男が一匹、誇りを胸に生きて行くための、セイ兄さんの『標』を……』
『彼女』が、再びそっと自分を撫でる。
積み重ねた時間の全てが報われていく。
鳴呼。
何と言う事は無い。
自分と言う存在は、生まれる前から救われていたのだと思い出す。
この世界が
自分の中でかけがえのない真実であり続けるのなら、それでいい。
全てを思い出したならば、もう一度、歩きださねばならない。
辛い事も、苦しい事も、悲しい事も、もう何もない。
『彼女』に、父に感謝して、再び瞳を開けるのだ。
彼らが示した標を頼りに……。
・
・
・
――炎の瞳が、まっすぐにこちらを見下ろしていた。
紅蓮の炎のように、紅く、どこまでも紅い瞳であった。
闇の中で広がった猫のような右目と、大きく腫れ上がった瞼から、かろうじて光を放つ左目。
激しい色合いとは裏腹に、落ち着いた両の眼が、自分の顔を逆さまに覗きこんでいた。
波の音が聞こえる。
潮の匂いと、血の匂いがする。
柔らかな月の輝きが、少女の輪郭を照らす。
炎のように紅いしゃぐまが、鼻の頭をそっとくすぐる。
どれほどの時間がたったか。
やがてナガラ・リオは、自分がアムロ・レンの両膝に抱かれている事に気付いた。
(……それで、か)
ふうっ、と一つ溜息を吐く。
随分と久しぶりに、あの夢を見た。
幼い頃に何度も何度も見た、懐かしい闇。
『彼女』を想う自分の顔を、目の前の少女にずっと観察されていた。
何だかそれが、えらく気恥ずかしい事に思えた。
「……なんで、泣いておるんじゃ?」
「何?」
ぽつりとレンに問われ、それでようやく、自分の両眼から涙がこぼれている事を知った。
「いや……」
慌ててごしごしと瞳を拭いながら、適当な言い訳を探す。
「……何だか俺、最近、負けてばっかだなって」
「たわけ」
ぴしりとレンが口を挟む。
童女のように、『彼女』のように良く通る声で。
「さっきの勝負な、勝ったのはお主よ」
「あん?」
「何も覚えておらぬか。
最後の一撃、お主は耐えて踏み止まり、儂は耐え切れず地に伏した」
「…………」
「戦いの決着は、敗者が地面に這い蹲るもの。
どちらが勝ったかは明白よ」
まるで憑き物でも落ちたかのように、淡々とレンが語る。
だが、記憶の無いリオにとって、それは譲られた勝利に過ぎない。
それを彼女の膝の上で、こうしてぬくぬくと受け取るのもまた、癪であった。
「……敗者が、地面に這い蹲るって言うならよ。
まさに今がそうさ。
こうして俺はお前を見上げ、お前は俺を見下ろしている」
碧い炎を残した少年の瞳が、真っ直ぐにレンの紅を見上げる。
「俺はまだ、まともに体を起こす事も叶わねえ。
こいつが戦場だったら、何度もお前に首を落とされている所だ」
「…………」
「この戦いの、勝者はよ……」
「……言うなッ!」
はたと一雫の熱い物がリオの頬を濡らし、二の句を遮る。
はっ、と見上げた視線の先から、ぼろぼろとこぼれ落ちる涙の雨が、少年の顔を叩く。
「こんの……、たわけ! たわけっ! 大たわけめっ!!」
泣いていた。
あの鼻持ちならない天才、アムロ・レンが泣いていた。
呆然とするリオの心を置き去りにして、童女のような声が響き渡る。
「儂が、この儂が負けたと言うておるのじゃ!
才気に溺れ、手順を損したその挙句、
最後の最後で油断して、勝てる勝負を自ら手放しおったのよッ!!」
「おい……」
「無様じゃッ! 惨めじゃッ!
こんなのはのう、一生、一生消えぬ傷じゃッ!
それを何じゃ貴様ッッ
安い駄賃のように……、軽々しく投げ返す奴があるかッッ!!」
言葉失ったリオの上に、少女の激情が止めどなく降り注ぐ。
戦いが始まる前、リオはレンに対し、彼女には持ち得ぬ武器が自分にはあると考えていた。
それは敗北。
本当に心底から勝利を欲しているのは、敗北を知っている自分の方だと。
それが生死の境において明暗を分ける筈だと、そう思いあがっていた。
だがどうだろうか?
物心付いた頃から踏みにじられ続けた自分にとって、敗北とはここまで絶望的で救いの無いものであっただろうか?
目の前の少女の悲しみと比して、自分のそれは、果たして敗北と呼べるほどの躓きであっただろうか?
(……やっぱりよ、アンタは間違ってるぜ、トレーズ。
こんなにもどうしようもない想いが、敗北だって言うのなら……。
敗北なんて知らずに済むなら、それに越した事は無いんだ)
ぎゅっ、とリオの胸に、締め付けられるような息苦しさが溢れ始めた。
目の前の少女の悲しみをどうにかしたい、と。
リーの思惑もアツト老人の願いも超え、リオの肉体は勝手に動き出していた。
「アムロよォ……、やろうぜ、ガンプラ・ファイト」
まっすぐに少女を見つめ返し、自分の心を言葉にする。
そっと伸ばした手で真っ赤なしゃぐまを掬い、その指先で少女の涙を拭う。
「なん……!? き、気易くするでないわィッ!」
「お前がどれだけ喚いた所で、俺はもう、自分の勝利を受け入れられない。
後はもう一度、仕切り直して決着を付けるしかないと思っている。
けどよ……」
言いかけた言葉が、ふっ、と途切れる。
心の中の自分が叫ぶ。
それ以上は言うな。
そこから先は武術の否定、父の人生の否定だと。
構う事はねえ、もう一人の自分が叫ぶ。
アムロは今、泣いているんだ。
女ひとりの悲しみも救えないようなポリシーなんざ、ドブに捨てちまえ、と。
「……けどよ、アムロ。
俺はもう、
お前の目を抉ったり、内臓を潰したり、命を取ったり。
そうまでしてでもお前に勝ちたいとは、どうしても今の俺には思えねえ」
「……!」
「この国には俺やお前みたいな奴は、ほとんどいなくなっちまったよ。
俺達が心置きなく遊べるような場所は、きっともう、あそこぐらいしか残ってないんだよ」
アムロ・レンの慟哭は、いつしか止んでいた。
心の底にあった言葉を全て吐き出し、ほうっ、と息を吐く。
言い切って、そして、自分でも納得する。
もう一度こいつと気兼ねなく遊べたならば、どんなに素敵な事だろうか、と。
「……一つだけ、条件がある」
長い沈黙の果て、意を決したようにレンが口を開いた。
無言で一つ頷いて、リオが続きを促す。
「……これからは儂の事は『レン』と呼べ。
二度と『アムロ』とは呼ぶな。
あと『ニュータイプ』とか『白い悪魔』とか、他の奴らにも絶対呼ばせるな」
「……は?」
ぱちくりと、リオが瞳を瞬かせる。
あまりにも真剣な、少女の紅い瞳。
ゆっくりと、言葉の一つ一つをよく咀嚼して、彼女の言わんとしている意味を考える。
「ああ……、ええっと、つまり、レン。
お前は、名前をからかわれるのが嫌で……。
ま、まさかそんな下らない理由で、ガンプラバトルをやめたってのか?」
「……ッ」
「イヤ! イヤイヤイヤ!?
それなら初めっから本名で、『アツト・レン』で登録すりゃあ良かっただけの話だろ?」
「聞いた風な口を利くなッ!
儂は、おばあちゃんを、そして『安室』の姓を心から誇りに思うておる!!」
「だったらせめて、アムロ専用機は使わない、とか……」
「儂はな……、儂は、アムロ・レイが大好きなんじゃあッッ!!!!」
「……カカ!」
「カカカッ! カーカカ! カーッカッカッカッカッカッカッ!!」
ナガラ・リオが嗤う。
嗤う。
嗤う。
嗤う。
腹筋が割れる、内臓が捩れる、骨が軋む。
ズタボロになった全身が悲鳴を上げている。
それでも嗤わずにはいられない。
「笑うなあアァアァァ―――――ッッッ!!!!」
みしり。
凄い下段が来た。
折れた筈の左手、それを折れたリオの鼻骨に全力で叩きつけてきた。
せっかく手当ての済んだ鼻の穴から、再び滝のように鼻血が噴き出す。
それでも嗤いは収まらない。
嗤いながら哭き、泣きながら笑い、そして思った。
やはり標の先に救いはあった。
いや、きっと俺達は初めから救われていたのだ、と。
・
・
・
「――しっかし、タフだねえアイツら。
鼻血噴き出しながらじゃれついてやがるよ」
「それじゃあヒライさん。
自分たちは少し仮眠を取ってますんで、彼らの支度が出来た所で声をかけて下さい」
職務熱心な操縦士たちにペコリと一礼し、Haloのボディに背中を預ける。
ほどなく扉が閉められ、風光明媚な砂浜には、ヒライ・ユイただ一人となった。
「リーオー、ご苦労さま」
中破した白いガンプラにそっと労いの言葉をかけ、慈しむ様に胸に抱く。
夕刻より随分と無残な姿となってしまった愛機に心が痛む。
その一方で、最後まで相棒、ナガラ・リオの要望に応え戦い抜いた事が誇らしくもあった。
仕事は一応果たせた。
だが、結局は勝負は付かず、反省すべき点も多い。
リーオーを通して、さまざまな思いが胸の内に溢れて来る。
一刻も早く東京に戻って、この忠実な兵士を修復してやりたい。
戦いを見ている内に、新たなリーオーの強化プランも纏まり出した。
今、胸のうちにあるアイディアを口にした時、リオは一体、どんな顔をするであろうか?
アムロの作ったディジェの戦法にも驚かされた。
無難で堅実な仕事しかできない自分にとっては、まるで異端なMF。
新型のリーオーに乗せるギミックについては、リオの意見もぜひ取り入れたい。
八月のトーナメントに向けて、やるべき課題はいくらでもある。
今はただ、一分、一秒が惜しい。
(……けれど、それでも今はダメ)
潮風に乗って、野良犬たちの笑い声が響いてくる。
ユイにとってそちらの世界は、あまりに眩しすぎて直視できない。
だから代わりに月を見上げる。
「……まだ、月が出ている、から」
ぽつり、と月に八つ当たりをこぼす。
古来よりぽっかりと闇夜に浮かび、人の心に獣をもたらしてきた月の輝き。
その柔らかな光に導かれ、未だ彼方の砂浜では、野良犬たちのロス・タイムが続いている。
かつてリオは、ユイの事を『同類』と呼んだ。
だが今では、それがとんだ見当違いだったと分かる。
本当の『同類』とは彼女の事だ。
ユイは彼らと同類ではない。
だからこそ殴り合う事もなく、日の下でずっと一緒にいられるのだ。
(――早く、朝になればいいのに……)
子供のような事を考えながら、ヒライ・ユイがじっと夜明けを待ち続ける。
ただ穏やかな波の音だけが、野良犬たちの遠吠えを、優しく掻き消してくれていた。