「ハァッ! ハァ……!」
呼吸が乱れる。
体が重い。
直前に貰った脇腹への一発、それが思いのほか響いていた。
視界の外へ逃れた敵を必死に探す。
しかし、首が回らない。
腰も。
勢い余って足がもつれ、機体がたたらを踏む。
「ほれほれェ、敵は右手だよ、ガードガード」
うるせえ。
外野に毒付きながらも右腕を畳む。
その防御を掻い潜り、更にボディがくる。
息が詰まる。
小憎らしいほどに出来の良いAI。
「くうっ」
右の裏拳、更に体を開きながら左の直突き。
丸っこい頭部を捉える、しかし手応えは薄い。
文字通り腰が入っていないのだから当然だ。
とにかく体を返して、モスグリーンの敵機と向き合う。
練習用機体『ハイモック』
飛んできた右のストレートがキレイに顔面を捉える。
鼻血が噴き出す。
ガクガクと膝が笑う。
(上等)
ぐっ、と踏み止まり、力いっぱいに殴り返す。
フォームも何もない根性の一撃。
立ち回りで負けている。
空手も使えない。
後はもう、鍛え抜いた肉体を信じ、ひたすら根性で殴り合うしかない。
足を止めての打ち合いは、むしろ好都合であった。
(倒れろ倒れろ倒れろ倒れろ倒れろ倒れろ倒れろ倒れろ倒れろ)
右が飛んでくる。
右を打ち返す。
左が飛んでくる。
左を打ち返す。
相打ち、相打ち、相打ち。
無呼吸。
視界が揺らぐ。
渾身の右。
空振り。
潜られた、来る、覚悟――。
《BATTLE END》
「あ……」
大きく息をつく。
どっと汗が噴き出す。
ようやく気が付いた。
頭部をひしゃげさせたハイモックが、いつの間にか地に伏していた事を。
「ふう……」
モニターが暗闇に変わった事を確認すると、ナガラ・リオはよろよろとシュミレーターから這い出した。
パチパチと言う拍手と共に、真っ白なタオルが少年目がけて飛んでくる。
「いやいやいや、お見事お見事。
まさか本当に倒しちまうとは、恐れいったよ少年」
「厭味はやめろよ」
「厭味なもんかい。
ハイモックは現行の技術で作られた優秀なガンプラだ。
AIだって実際のプロの行動パターンを取り入れた強烈なモンだよ。
そいつに二十年近くも前の、それも素組みの機体で勝つなんてさ」
そう笑って、キミコがテーブルの上に置かれたプラモを両手で包む。
「……なあ、本当にそれが、この間のと同じ機体だって言うのかよ?」
「うん。
と、言うよりむしろ、これが本来のリーオーと言った方が良いだろうね。
リミテッドモデル『リーオー』
現行のガンプラの中では、これが唯一のリーオーのキットなんだ」
「現行唯一の、リーオー」
キミコより手渡された機体を、まじまじとリオが覗き込む。
未塗装のTVモニターのような頭部が、無表情で天を仰ぐ。
記憶にある機体よりも幾分細い手足に、首、腰が一体化したシンプルな作り。
サイズ自体には大きく違いは無い。
たが、リオの知る白色のリーオーは、もっと部品の一つ一つまで、細やかな仕事が施された機体であった。
最近のプラモは随分と出来が良いなどと、その時はそれくらいにしか感じていなかったリオだが、その感想が今さらながらに見当違いであった事に気付く。
あの眼鏡の少女、ヒライ・ユイの怒りももっともだと思う。
手塩に掛けた愛機を素人に使われた挙句、メチャクチャに壊されてしまったとあっては。
「まっ、庭先で汗を流してきたらどうだい?
その間にこちらは準備を終わらせておくよ」
「準備……って?」
呆然とリオが道場の入口を見つめる。
その入り口に立てかけてあるのは、古ぼけた板の間には似つかわしくない薄型のテレビ。
そしてわざわざ台所から這わせた電工ドラムに、何やら分からぬダンボールの梱包。
「……何だ、それ?」
「うん? 65インチのハイビジョンプラズマTV。
それに最新のブルーレイレコーダーに、『新機動戦記ガンダムW』ブルーレイBOX上下巻だね」
「いくらした?」
「全部でだいたい75万くらいかな?
いっや~、いい買い物したな~、少年」
「…………」
「ん、どうした少年。
早く着替えないと風邪をひいてしまうぞ?」
鳴呼。
理解する。
バカなんだ、この女性。
頭が良くて行動力があって仕事が出来るバカ。
恐ろしく性質が悪い。
「その……、ガンダム、ウィング? 俺が見るのか?」
「そうだよ。
新機動戦記ガンダムW、TVシリーズ全49話、今から君が見るんだ。
大丈夫、ついでにエンドレスワルツまで観賞しても三日はかかんないから」
まっすぐに見つめる、キミコの瞳。
いや、確かに言わんとする事は分かる。
敵を知り、己を知れば即ち百戦危うからず。
ガンプラを手にしながらガンダムを知らない。
それは未知の敵に徒手空拳で挑むに等しい愚行である。
あの少女が何を求め、あそこまでリーオーと言う機体に愛着を見せるのか?
それを理解するには、ガンダムWと言う作品に直に触れてみるしかないのだろう。
だが……。
「……せめて仏間に運べ。
道場で観るようなものじゃ無いだろ?」
「いいや、ダメだ少年、道場で見るんだ」
きっぱり、と強い口調でキミコが言う。
その瞳の真剣さに、ふっとリオの背に悪寒が走る。
「ゆめゆめ油断するなよ、少年。
このアニメはな、私の思春期を殺した少年の翼だ」
・
・
・
侮っていた。
認めざるを得ない。
キミコの言葉を真摯に受け止めながら。
真剣な魂を持った少女の存在を知りながら。
それでもなお、ガンダムと言う作品に対する見通しが甘かった。
そう言わざるを得なかった。
この、ガンダムWと言う作品。
正直、ストーリーはまっとうな代物とは思えない。
物語としては群像劇、だが状況が余りにも
わずか一話の内にシナリオが大きく狂い、敵と味方、勢力が入り混じっては裏返り、そこに翻弄される人々が集合と離散、迎合と敵対を繰り返す。
何と言う混沌。
モニターを通して制作サイドの混乱までもがダイレクトに伝わってくるような圧倒的混沌。
突き詰めて考えるならば、アニメの本質はあくまでも娯楽である筈。
現実の情勢がどうであったとしても、フィクションの物語はもっとシンプルに、視聴者に伝わる物であらねばならない筈だ。
――だが、そんな事はどうだっていい!
このアニメは混沌としたシナリオを楽しむ為の物では無い。
MSの指先一つにまで宿った戦いの美学に。
そして、時代の奔流に振り回されながら、尚毅然として発つ少年たちの魂に触れるアニメなのだ。
一つだけ、揺るぎない骨子がある。
それはこの物語において、主役である筈の少年たちは、決して勝者に成り得ない、と言う事実だ。
兵士として完成された能力を持ち、他を圧倒する規格外のMS・ガンダムを駆りながら、それでも大勢は動かず、数の力に敗れ、民衆の理解を得る事なく足掻き続ける少年たち。
人は人生の勝者たりえず、ただ戦う事ができるのみ。
その戦い続ける姿勢こそが、まさしくガンダムWと言う作品世界を語る上での要であるのだ。
『力の無い者がうろうろするな!』
『敵が弱いと、戦った後も虚しくなるんだ! くっそおおおォォ―――ッ!!』
液晶モニターの中で張五飛が叫ぶ。
五人のガンダムパイロットの中でも、彼の感性が一番リオに近い。
かつて、リオも望んでいた。
倒すべき敵、三雷会が強大かつ尊大な難敵である事を。
だがそんな絵物語のような都合の良い敵など、現実には存在しない。
死にそびれたリオに残ったのもまた、虚しさだけであった。
『俺にはこの生き方しかできない』
自らに向けた引鉄を少女に預け、ヒイロ・ユイが言う。
過ちを重ね、敗北を重ね、戦うための牙を失い、一度は自らの命までも捧げながら。
それでも彼は贖罪から、自らの出来る事を、一つずつ積み直そうとしている。
人はそこまで、ひた向きに生きられるものなのか?
リオは思わずにはいられない。
もしも自分に、その実直さがあったならば……。
『私はこう言う体裁を、この戦いで掃き捨てたいのだ!』
仮面の男、ゼクス・マーキスがビームサーベルを振るう。
高貴な身に生まれ、人並み以上のカリスマと才能を有しながらも、この男の戦いは常に迷いの中にある。
ガンダムWとは、彼が戦士としてのプライドを、剣を振るう意味を取り戻すまでの物語でもあるのだ。
『見てろよ……、俺、もう一度、死神に戻って……、やる……ぜ……』
散々にぶちのめされたボロボロの体で、デュオ・マックスウェルが不敵に笑う。
ツキの無い男だ。
貧乏くじの似合う男だ。
しかし、その軽薄そうな見た目に反し、驚くほどに強かでタフな少年でもある。
彼のようにしぶとく生きられたなら、そう思う。
しかし、そのための光明が何処にあるのか、それが今のリオには分からない。
『認めなくてはならないらしい。
俺達は、この時代に必要の無くなった兵士なんだ』
爆発寸前のコックピットの中で、トロワ・バートンが淡々と語る。
無愛想な外見に反し、誰よりも優しく他人思いな少年だ。
友人の魂を救うために、悲痛な現実をいの一番に受け入れようとしているのだ。
『――だからカトル、時代を受け入れよう。
そして優しいカトルに戻ってくれないか』
「いやだッッ!!」
悲痛な叫び声を上げてリオが立ち上がる。
矢も盾も堪らず、裸足のままで庭先へ飛び出す。
「うおああああああぁぁあぁぁッ!!」
やり場の無い激情を込め、勢い良く巻き藁をぶっ叩く。
基本もクソも無いメチャクチャなフォーム。
ビリビリとした衝撃が、一拍遅れて右拳を突き抜ける。
腰を返し、直ちに左を繰り出す。
右拳。
左拳。
右拳。
左拳。
右拳。
左拳。
右拳。
左拳。
叫びながら叩いた。
叩きながら泣き叫んだ。
指先の感覚など既に無い。
十円玉を折り畳める指だ。
土管に風穴を開ける拳だ。
角材を切り裂く手刀だ。
そうなるまでに己を苛め続けた異形の拳だ。
認めたくは無かった。
この技が、積み重ねた十年が、既に必要の無い時代であるなどと……。
「ハァ……、ハァ、ハァ……」
大きく肩で息を吐く。
気が付いた時、頭上では柔らかな月がリオの背を照らしていた。
涼やかな真夜中の外気が、リオの中の熱狂を奪い去っていく。
「……続き、続きを」
よろりとおぼつかぬ足取りで、リオが再び道場へと這い上がる。
続きを見なければならない。
戦いの果てに彼らがどんな答えを出したのか、それを見届けなければならなかった。
そこにはきっと、リオが求めて止まない真実があるのだから。
『――私は、敗者になりたい』
長い演説の果て、トレーズ・クシュリナーダがその心魂を吐く。
常にアフター・コロニーの中心であった筈の男だ。
栄光と勝利を約束されていた筈の男だ。
地球とコロニーの全人類を導く、新たな指導者になるべきだった筈の男だ。
ヒイロたちガンダムパイロットの前に立ちはだかる、最後の首魁になるべきだった筈の男だ。
その男が言う。
勝利の先にあるのは、ただ衰退の宿命だけだと。
新しい力は、常に敗者の側から生まれてくるものだ、と。
(……そうなのか、トレーズ?)
敗北の苦味を、ぎりりと奥歯で噛み締める。
最強の武であるべき空手が、リングの上で敗れた。
あのエレガントな男の言葉が真実であるのなら、この胸の痛みも、苦しさすらも、新たな物語の始まりとして受け入れるしか無いと言うのか……?
『――地球は、優しかったんだよ』
誰よりも敏感な少年、カトル・ラバーバ・ウィナーがそっと呟く。
そうかも知れない、と思う。
自分と言う存在が、既に不要となってしまった筈の地球。
だがそこにはまた、確かに手を差し伸べてくれる人もいた。
ともに支えてくれる人もいた。
不本意であっても、息苦しさに満ちていても、彼らが居てくれるこの地球で、未だリオの物語は続いている。
様々な思惑を呑み込みながら、少年たちの戦いは、一つの奔流へと導かれていく。
未だ見えぬゴールを求め、戦いはクライマックスへ。
『ゼクス、強者など何処にもいない。
人類全てが弱者なんだ。
俺もお前も弱者なんだ』
ヒイロが吠える。
その通りだヒイロ。
己の弱さを知る。
そこから始めなければ、人は再び立ち上がる事は出来ない。
『――私はまだ、自分を弱者と認めていない!』
ゼクスが叫ぶ。
ああ、その通りだゼクス。
男ならば何処まででも突っ張って、己の意地を貫き通すべきなのだ。
少年たちの激情を一身に受けて、リーブラが燃える。
沈みゆく船。
大気圏に煌めく翼。
爆走する機体。
揺れる照準。
滅亡へのカウントダウン。
『……俺は、死なないィッ!!』
ヒイロが叫ぶ。
徹胴徹尾、己を消耗品として扱ってきた少年が。
ただひた向きに、戦いの終わりを望んでいた少年が。
絶望を打ち砕く、最後の一撃を放った少年が。
「あ、ああ……!」
霧が晴れたように、視界がクリアーになった。
答えは出た。
あまりにもシンプルな回答。
そうか。
そうだったんだ。
「――宇宙の心は、彼だったのか……!」
・
・
・
―― ヒライ・ユイからの手紙に気付いたのは、エンドレスワルツの観賞を終えた三日目の朝だった。
手紙には筆まめの女の子らしい細やかな文字で、先日の一件に対する謝罪が懇切丁寧に書かれていた。
三日の内に少女の心境にどのような変化があったのかは分からない。
けれど、士、三日会わざれば、と言う言葉もある。
長編アニメを一本見た、ただそれだけの事でも人の心は変わり得るのだ。
そして今、括目すべきナガラ・リオ少年は手紙を手に、一路ユイの住居を目指していた。
手紙の文面は、本当に謝罪の言葉だけである。
返礼だけならば、それこそこちらも手紙だけで足りるのだろう。
だがそれでも、リオは直接ユイに会って話をしたいと思っていた。
何を話せばよいのか、そこまで考えているわけではない。
ただ今ならば、彼女に会う事で、リオ自身の本心を見つけられるような気がしていた。
あるいは徹夜明けのテンションの高さが、そんな錯覚を引き起こしただけなのかもしれないが。
「ハイツ『ビグ・ラング』603号室……」
ちらりとリオの目が、年季の入ったコンクリート造の集合住宅を見上げる。
そこがオートロック式のマンションでは無かった事に感謝しつつ、目的の部屋の呼び鈴を鳴らす。
待つ、十秒、反応は無い。
留守かと思い軽くドアノブを回す。
ドアは普通に開いた。
「――ヒライ、いるのか?」
軽く深呼吸し、意を決して廊下の奥へと呼びかける。
程なく、か細い声で返事が聞こえた。
「……ナガラ?」
「ああ、そうだ、ナガラ・リオだ」
「入って」
玄関に姿を見せるでもなく、用件を聞くでもなく、あっけらかんと少女が言う。
やや緊張した面持ちで、下駄を脱いだリオが廊下の戸を開ける。
なんだこれは?
なんだこれは?
なんだこれは?
部屋の入り口でリオが絶句する。
ガンプラだ。
山と積まれたガンプラの箱だ。
完成品たちが所狭しと並ぶ棚だ。
呼び方も知らない工具が無造作に置かれたテーブルだ。
そしてその奥、こちらに背を向けて机に座る、ジャージ姿の少女の背中だ。
幻想が死ぬ。
これが思春期を殺した少女の部屋だ。
もしも今、ここが超級堂のガンプラ秘密製造工場なのだと言われたら、リオは二も無く信じる所である。
集中を妨げないように、静かに引き戸を閉める。
傍らのブラウン管では、ビーム砲を外したグラサンが何か言い訳を言っている。
職人の中には音が無いと集中できない輩がいると言うが、あるいは彼女がそうなのかもしれない。
そっと少女の机を覗き込む。
作業台の上には、白を基調としたMSのパーツが、部位に合わせて丁寧に分解されて置かれている。
そして肝心の少女はと言えば、その内のパーツの一つを手に取って、丹念にヤスリ掛けをしている所であった。
「こいつはリーオー……、ではないみたいだな」
「1/144スケール、HG『トールギスⅢ』
私のプロトリーオーは、このキットを使ったセミ・スクラッチ」
「せみ……」
言いかけてリオが「ああ」と頷く。
つまりあの白色のリーオーは、キミコの用意したリミテッドモデルではなく、目の前のトールギスを成形し直して作った機体だったと言うわけだ。
そう言えば劇中のトールギスもまた、かつてプロトタイプリーオーと呼ばれる機体であった事を、遅まきながらに思い出す。
だが……。
「それじゃあサイズが合わないんじゃないのか?
トールギスは確か、随分と大柄な機体だった筈だろ?」
「トールギス17.4メートル、リーオー16.2メートル。
単純に意匠を改造しただけでは、トールギスはリーオーたり得ない。
だから全体のバランスを確認しながら、パーツを丁寧に成形し直す必要がある」
一切視線を変える事なく、淡々とユイが語る。
やがて納得が行ったのか、ふっと一つ息を吹きかけると、そこでパーツを置いてリオに向き直った。
「ガンダム、勉強したのね?」
「……見たよ、W」
「そう……」
と、折角の会話がそこで途切れてしまう。
相変わらず表情を読む事を阻む、少女の瓶底眼鏡がいけないのだろうか?
あるいは知らず、この敵地の雰囲気に、リオ自身が呑まれてしまっているのか?
だが意外な事に、次の会話はユイの口から始まった。
「ナガラ、手を、見せて」
「……手? 俺のか」
「そう、空手家の手」
少女に促され、やや躊躇いがちに右手を差し出す。
みちみちと、指先までが異形と化すまでに膨れ上がった、空手家の拳。
先日の若気の至りで、手の甲にはグルグルと巻き付けたバンテージの下から、うっすらと朱の色が滲み出ている。
その血染めのバンテージの上を、そっと少女の細い指先がなぞる。
分厚く膨れ上がった掌をぐにぐにと両手で弄び、やがて納得が言ったのか、ふうっとユイがため息を吐く。
「見て」
そっと、机に置かれていたパーツの一つを手に取り、リオの前へと差し出す。
「こいつは?」
「この間の、プロトリーオーの手」
まじまじと、リオがその小さなプラスチックの手を見つめる。
成程、試合中に深刻なダメージを受けた記憶こそ無かったものの、確かにその指先は大きくひび割れ、今やかろうじて原形を保っていると言う有様であった。
「……俺が、後先も考えずに滅茶苦茶にぶっ叩いたから、こんなになっちまったんだな」
深刻に声をトーンを落としたリオに対し、ふるふるとユイが首を振るう。
「違う。
ナガラの拳は、どこも壊れてはいない。
ただ、私のリーオーの指先が、空手の威力に耐えられなかっただけ」
「…………」
「最後の貫手……。
リーオーの指先がこんな状態じゃなかったら、きっと完全に決まっていた」
そう言って俯くユイの横顔に、リオは先刻の手紙の意味を知った。
ガンプラを愛する少女である。
表面的な性格は違えど、あの劇中のヒイロ・ユイのようにストイックな少女である。
自らのミスによって、リオとリーオーは敗北した。
その事実が少女の魂を苦しめていたのだ。
(それは違うぞ、ヒライ)
そっと心の中でリオが呟く。
あの技が決まっていれば、だとか、あそこで怪我をしていなければ、だとか。
ビグザム剛田との一戦は、そんな仮定が通用しない惨敗であった事を、戦ったリオ自身が誰より理解しているのだ。
だが、それを彼女に告げた所で何になるだろう。
リーオーの指先は、現に壊れてしまっているのだ。
彼女にどんな慰めを掛けられたとしても、リオの中の敗北感は拭えないように。
リオがどのような弁護をしようとも、それは所詮、傷の舐め合いにしかならないのだ。
「ヒライ」
意を決し、リオが少女の名前を呼ぶ。
エレガントな一手が必要とされる場面であった。
彼女を包む敗北感を、新たに立ち上がる力に変えられるような一手が……。
「少し……、表に出ないか?」
・
・
・
ちらちらと、桜の花が舞っていた。
鮮やかな桜吹雪の河川敷を、黙々と二人は歩き続けていた。
カラン、コロンと言う下駄の音。
一歩遅れて、カーディガンを羽織っただけのジャージの少女。
どこか、当てがあった訳ではない。
ただ、言い知れぬ敗北感を共にする二人にとって、あの部屋はあまりにも息苦しいとリオは感じてしまったのだ。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「……俺も」
「……え?」
ゆっくりと、リオが重い口を開く。
ここに来るまでに考えていた、ユイに伝えたかった事。
それが何であったかを十分に自問する。
「俺も、リーオーが一番好きだ」
「……そう」
「…………」
「…………」
――会話が、途切れる。
おもむろに足を止め、川べりの土手に腰を下ろす。
少し躊躇って、ユイもその斜め後ろにちょこんと座った。
「…………」
「…………」
それっきり、しばらく二人は無言であった。
だが、その居心地は存外に悪くない。
あるいは本当は二人とも、言葉など求めていなかったのかもしれない。
本当は二人は、ただ少しの間、ガンプラや空手から離れて、ぬぼーっと川の流れを眺めるだけの時間を欲していたのではないだろうか?
キラキラと太陽の光を反射して、いつかのスポットライトのように水面が煌めく。
あの夜の熱狂など忘れてしまったかのように、ゆったりと世界が時計を刻む。
「……なあ、どうして、ガンプラファイトだったんだ?」
どれほどの時間が流れただろうか?
ぽつり、とリオが胸中に沸いた疑問を口にした。
非公認、非合法のガンプラファイト。
カタギの少女が容易く足を踏み入れる世界とも思えなかった。
「友達がいないから」
ややあって少女から返ってきたのは、掴みどころのない回答だった。
「ガンプラバトルの学生公式大会は、三対三の団体戦。
私には、チームを組んでくれる友達がいない」
「ああ……」
「ガンプラファイトは、ネットで知り合ったハム姉が教えてくれた。
私にとって、あそこがガンプラを発表できる唯一の場所」
「…………」
そして、その彼女の居場所に突如、土足で踏み込んできた素人こそが、ナガラ・リオである。
今ならば、最初に出会った時の彼女の苛立ちも良く理解できる。
と、そこまで言われて、ようやくリオも気が付いた。
今日は休日では無い。
学校指定のジャージを着た少女が、こんな所をうろついている状況は異常だ、と。
学校はどうだ? 家族は? 友達は?
普通一般の世間話と言うのは、そう言った所から入るべきだったのだろう。
あるいはリオがまっとうな真人間だったならば、ここは彼女の更生のために尽力するべき場面なのかもしれない。
けれどもリオはまっとうではない。
先日キミコが言ったように、戦っている時以外はからっきしの男だ。
三日前までは、プロレスに負けたショックで山に引き籠ろうとしていた男だ。
いびつで結構、そう胸を張って言えるような生き方を取り戻そうとしている男だ。
「ヒライ」
だからリオは、いびつな人間なりの助言を送る事にした。
「……なに?」
リオから差し出された、やや歪んだ茶封筒を瓶底眼鏡がまじまじと覗き込む。
「100万ある。
この間の試合の、お前の取り分だ」
「…………」
無言。
けれどその静寂の持つ意味合いは、先刻までの空気とはまるで違う。
初対面の時のような、やや張り詰めた緊張感。
少しずつではあるが、リオは少女の眼鏡の奥の感情の色を判別できるようになりつつあった。
すっと白い指先が茶封筒を押し返す。
「私のガンプラは、お金儲けの道具じゃない」
「俺だって同じ気持ちだ。
親父の空手は見世物じゃねえ」
と、ひとまず少女の言葉を肯定しながら、それでもリオは封筒をしまおうとはしない。
「それでも受け取るんだ、ヒライ。
この金で新しいプラモを買って、工具を揃えて、最高のガンプラを生み出す環境を作るんだ」
「…………」
「お前は俺と同類だよ、ヒライ。
俺たちに必要なのは常識じゃない、プライドだ。
一度失った誇りは、戦って噛み付いて取り戻さなけりゃ、後は野垂れ死にするだけだ」
「……私にはもう、あなたと組む資格が無い」
「言ったろ」
ゆっくりとリオが向き直り、再びずいっと封筒を突き付ける。
「俺はリーオーが好きだ、それが答えだよ」
ざっ、と一際強い風が吹き付け、桜の花びらが千々に踊る。
リーオーが好きだと言う、その言葉は決して偽りでは無い。
自分でもおかしな感性であるとは思う。
あるいは初めて手に取った機体と言う愛着が、知らずそう思わせただけかもしれない。
だが、骨格にまで戦いの美学が宿るかのようなACのMSに惚れ込みながらも、それでもいつしか、リオの瞳は敗れ行くリーオー達の姿を追い駆けていた。
「……ザクⅡFZ型、リーオー、GN-X」
ポツリ、と何かのおまじないのように、少女が呟く。
「アニメの中で、『ガンダム』を倒した量産機の名前。
本来ならば、それは絶対に起こり得ない奇跡……」
リオが静かに頷く。
ユイの言わんとしている事、自身の抱く愛着、その回答が少し分かった気がした。
「リーオーは何処にでもある、ありふれた機体。
でも、だからこそ特別な機体、可能性の獣」
「…………」
「いつの頃からか、私は自分がガンダムではない事に気が付いた。
だから、だから私は、リーオーになりたい」
そっと少女の細い指が、茶封筒の端を掴む。
二人を挟んで引きあった封筒の中心に、ひらり、と花びらが舞い降りる。
「縁起の良い話だな」
そう口にして、にっ、とリオが笑みを見せる。
そう言えばゴウダの愛機もガンダムタイプだったな、と今更ながらに思い出す。
彼女はどうだろうか?
こちらをまっすぐに見つめる瓶底眼鏡は、相変わらず表情を読ませてくれない。
――笑っていれば、良いと思う。
「とりあえず、さ――」
そっと封筒の端を放して、パンパンとジーンズの土を払う。
この新しい盟友と何を成すか。
野望の第一歩目は、既に決まっていた。
「昼飯にしようぜ、ヒライ。
俺がもんじゃの焼き方を教えてやるよ」