ガンプラ格闘浪漫 リーオーの門   作:いぶりがっこ

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黄金の秋

 ――九月。

 

 活気に満ちた商店街を、鞄を二人の少女が歩いていた。

 落ち着いた色合いの青地のブレザーと、昔ながらの半袖のセーラー服。

 対照的な少女たちの姿が、季節の変わり目を感じさせた。

 

 傍らを、威勢の良い小僧どもが、ガンプラ片手に駆け抜けていく。

 前カゴにレジ袋を、後ろに幼子を乗せた主婦の自転車が通り過ぎる。

 

 夏の終わり、休暇の終わり。

 世間に、いつもの日常が戻りつつあった。

 そんなありふりた日常の光景を、少年の蒼い瞳が、病院の一室から見下ろしていた。

 

 ナガラ・リオであった。

 最後のガンプラ・ファイトより、二週間近くも経過しようとしていた。

 

 

 

 若さゆえの過ち、その代償。

 決勝戦を終えたリオが、再び意識を取り戻したのは、二日後の病室のベッドの上であった。

 

 胸骨、亀裂骨折。

 右手、中指骨亀裂骨折。

 鼻骨、骨折。

 左肘関節、脱臼。

 左太腿、肉離れ。

 

 青春を燃やし尽くした割に奇跡的な軽傷で済んだのは、やはり、ガンプラ・トレース・システムの加護に依る所だったのであろう。

 とにかく、それからの一週間は、てんやわんやで通り過ぎて行った。

 

 サマワッカ・イーヲ、月天山、ビグザム剛田、ギンザエフ・ターイー、アカイ・ハナオ……。

 戦いを終え日常に戻るファイターたちが、入れ替わり立ち替わり、療養中のリオを訪ねて来た。

 死闘を交えた相手もいれば、ほとんど言葉を交わさなかった相手もいた。

 それでも彼らと分け隔てなく笑い合う事が出来たのは、あの熱狂の一夜の証明なのだろう。

 ガチぴょんが相方を連れてお忍びで現れた時は、さすがに全然お忍びになっていなかったが。

 

 祭りの跡。

 裏路地の野良犬たちの狂騒と入れ替わるように、世相はガンプラバトル一色となっていた。

 

 第十三回・全日本ガンプラバトル選手権、中高生の部の開幕である。

 

 明日のオープントーナメント……、世界最強の夢を目指す少年たちの表舞台。

 夢と、情熱と、野心と、友情と、ぶつかりあう拳と拳と、ヨーロッパチャンピオンと、巨大ロボと、ガンプラ学園と、恋と、ライバルと、感動と――。

 色素の薄い野良犬の目には眩しすぎる、少年少女の一週間の物語。

 

 セカイ少年とチームトライファイターズが、激闘を制し全国の頂点に立ったその瞬間を、リオは病院のロビーで見ていた。

 その場の何たるかも忘れたのような乱痴気騒ぎの中、リオは一人、いつかのように、醒めた視線をテレビへと向けていた。

 

 友の勝利を素直に祝福する気持ちはある。

 羨望だの嫉妬だのと言った、おこがましい感情を持っている訳では無い。

 ただ、馴染みの少年の笑顔が、妙に遠い所へ行ったように感じられたのが寂しかった……。

 

 

 

 かくて、宴は終わる。

 世は全て事もなし。

 ストンとエアポケットにでも落ちてしまったかのように、不意にリオの下に日常が戻って来た。

 

 ――いや、日常、と言うのとは、また少し違うのだろう。

 

 亡父より、一日たりとも欠かすな、と学んだ、日々の鍛練。

 それをもう、十日以上も空けにしている。

 無論、両手をギプスで固定されているとあっては、修行どころではない。

 日常生活にも支障が出る。

 それ故の入院だ。

 だが、かつての山籠りの折には、こんな怪我など日常茶飯事であったはずだ。

 ギラついた狂犬であった頃のリオならば、今頃、窮屈なギブスなど叩き割って病院を飛び出していた事であろう。

 

 大人になった訳ではない。

 分別が付いた訳でもない。

 

 ……腑抜けになった。

 

 左肘を固定していたギブスは、今日、外された。

 右拳の方は時間がかかるとはいえ、概ね完治はしている。

 指先はある程度、自由に動かせる状態である。

 明日にはもう、退院と言う運びになるだろう。

 だと言うのに、青春を燃やし尽くした心の方は、肉体の回復に追い付いていないようであった。

 

 

「良いんだよ、サボりたい時はいくらでもサボれば。

 体と同じように、心にも休息は必要なんだ。

 それだけの闘いをしたんだよ、少年は」

 

 燃え尽き症候群(burnout syndrome)

 見舞いに訪れたエイカ・キミコは、剥きかけの梨を片手にそう嘯いた。

 大会の後始末で忙しい時期であろうに、キミコは暇を見つけてはリオの病室を訪れ、さしたる重症でも無いと言うのに甲斐甲斐しく世話を焼いた。

 その好意にすっかり甘え、今日までリオは自堕落な日々を過ごして来た訳である。

 

「まっ、それも今の内だけの話だろうさ。

 少年の事だ、どうせその内、体を動かさずには居られなくなるよ。

 良い機会だから、たまには体以外も働かしてみたらどうだい?」

 

 そう言って、キミコは何冊かの文庫本を残していった。

 長編スーパー・バイオレンス小説と銘打たれた、厚めのシリーズ単行本であった。

 細やかな字が、二段に並ぶ。

 それが、八冊。

 三十年にも渡る大長編と謳われていた。

 こんな代物、義務教育も終えていない男が二週間で読み切れるものか、と卑屈になった。

 

 杞憂であった。

 

 するすると脳みそに入って来た。

 時にそれは、陰惨なドキュメンタリーのように鼻腔を突いた。

 時にそれは、純文学的な散文のように肺腑を満たした。

 時にそれは、活きの良いパーカッションのように胸を弾ませた。

 時にそれは、極上のエンターテイメントのように血液を沸騰させた。

 時にそれは、筆者のメッセージそのものとなって心臓を叩いた。

 

 格闘小説であった。

 五人の若者たちが、一人の拳士との出会いを通じ、己が行く道を模索する青春群像劇であった。

 青春群像劇……、と、なる筈であった。

 連載中断に伴う長期化の中で、現実の潮流の速さに追い抜かれ、あるいは抜き返し、更なる答えを求める格闘浪漫であった。

 人気漫画家の躍動感溢れる挿絵が、新たなパワーを上乗せしていた。

 貪るように読んだ。

 

 エイカ・キミコの見立ては正しかった。

 復調には程遠くとも、確かに少年の中に新たな力の一雫を加える小説であった。

 でも犬は可哀そうだった。

 

 窓の外の光景から視線を戻し、改めて、脇机に置いた表紙のタイトルに目を向けた。

 

 

 獅子の門であった。

 

 

 

 コンコン、と扉を叩く音に、ナガラ・リオは文庫を置いて顔を上げた。

 

「ハム姉、か?」

 

「――カカ」

 

「げ」

 

 哄笑が一つ、廊下でこぼれた。

 鼻白む間もなく扉が開かれた。

 

「カーッカカカ! すまぬのうナガラ・リオ。

 うぬのお待ちかねの『ハム姉』じゃなかったわい」

 

「ぐっ」

 

 満面の笑みを浮かべた悪魔が室内に乱入する。

 思わずカッ、と頬が熱くなる。

 

 アムロ・レンであった。

 

「……レン、何しに来た?」

 

「いきなりご挨拶じゃのう。

 なに、わしがブチのめした奴が、どんなツラになっとるのか確かめたくての?」

 

「そのザマで、か?」

 

 リオが顎をしゃくり、改めて少女の全身を見つめる。

 夏の香りが残る純白のワンピースの上に、薄桃色のカーディガンと言う、らしからぬ出立ち。

 だが、その足元はサンダルではなく、スニーカー。

 更に右手には、死闘の記憶を示すように松葉杖が握られていた。

 

「おう、こんなんよ。

 おかげでここしばらくは退屈で死にそうでの。

 その辺のフヌケでもからかいに行こうかと思うてな」

 

「……そうかよ」

 

 少年の険しい瞳を受け流すように、ひょこたん、ひょこたんと、悪魔が室内を徘徊する。

 

「しっかし、どこぞのモグリにでもかかっとるかと思うとったが……。

 個室とは随分とVIPじゃのう」

 

「目が覚めた時にはもう、ここさ。

 確かに、あん人には世話になりっぱなしだ」

 

「……ぬ、おうおう、いっちょまえにスイーツ付きかや」

 

「うん、それか?」

 

 言われ、レンの抱え上げた果物籠に目を向ける。

 旬の果実が色とりどりに詰まったそのバスケットもまた、キミコが見舞いの品であった。

 

「好きに食っていいぞ。

 下手に傷ましたら、もったいないからな」 

 

「ほれ」

 

「……っと!」

 

 何の気も無しに、リオに向けてアムロが軽く林檎を放った。

 緩やかな放物線を描く真っ赤な果実に、リオが左手を伸ばし――

 

(――!)

 

 いや。

 油断していた。

 果実と一緒に、何故か果物ナイフまで、緩やかな放物線を描いて飛んで来ているではないか?

 

「ちィッ」

 

 たまらず身を起こした。

 左手で林檎を受け止め、右手の人差指と中指で、ナイフの柄をはっしと掴み取った。

 

「おー」

 

「じゃねえよッ!? 人様に刃物を投げんじゃねえ!」

 

「いいからよ、剥け」

 

「……は?」

 

「その林檎をよ、わしのために剥け、ちゅうとるんじゃ」

 

 まじまじと、思わずアムロの顔を見つめる。

 この上なく傲慢なこの女らしい台詞と言えば台詞だが、それでも意味が分からない。

 ゆっくりと、ギプスの巻かれた痛々しい右手をかざす。

 

「利き手、こんなんなのにか?」

 

「うん、左手が空いとるじゃろ?

 ええからはよう剥けよ」

 

「…………」

 

 怒りを通り越して、まず、呆れる。

 ナガラ・リオが慣れないナイフを扱う無様を、この女はそんなに見たいのだろうか?

 農家の方が丹精込めて作った、旬の林檎を台無しにしてまで。

 

「……相変わらず阿呆じゃのう、お主は」

 

 少年の愚鈍を憐れむ様に、アムロ・レンが悲しげな瞳を向ける。

 

「わしは別に、そんな一山いくらの林檎が食いたい卑しんぼではないわい」

 

「だったら、何を……」

 

「うぬの誠意が見たいと言うておるんじゃ。

 ナガラ・リオがわしの為に、慣れぬ左手で必死こいて剥いた林檎を所望しておるのじゃ」

 

「…………」

 

 ますます、ワケが分からなくなった。

 

 右指にナイフを挟んだまま、音も無くリオがベッドから降りる。

 室内にたちまち剣呑な空気が満ちる。

 

 ゆらり、と、そのままアムロの脇をすり抜け、備え付けの洗面台の蛇口を捻る。

 パシャパシャと、まずは左手を水で濯ぐ。

 右手は……、いや、石膏を水に付けるのはまずい。

 指先にアルコールを吹き付け、軽く水に晒すに留める。

 次はナイフ、刃先を良く流し、左手を振って水気を払う。

 最後に林檎。

 どうせこれから皮を剥くワケではあるが、そこは食物への感謝を込めて、丹念に洗う。

 

 蛇口を捻り、果物籠の脇の皿を手にしてベッドに戻る。

 配膳用の受け台を展開し、新聞の折り込み広告を広げる。

 

 さて。

 

 胡坐を組んで、目の前に置いた林檎と向かい合う。

 

 如何に剥くべきか?

 アムロの鼻を明かす、と言う意味では、エイカ・キミコがやったように、丸のまま一本剥きにするのがベストだ。

 しかし、リスクは高い。

 林檎は完全な球ではない。

 ハート型に近い立体であり、更に個体ごとに、でこぼこと歪んでいる。

 しかもリオは慣れない左手。

 そもそも剥いている間中、林檎は碌に洗ってもいない右手のギプスと触れ合っている事となる。

 

 論外である。

 やはり、いくつかに小さく割ってから剥くべきであろう。

 そうプランを決め、まずは真上からナイフを当てる。

 

 右指で林檎の脇を抑えつつ、ぐっ、と左手に力を入れる。

 刃先が果実に侵入し、簡素な受け台が応力にたわむ。

 

 この林檎。

 叩き割るだけなら、容易い。

 握り潰すのも、容易い。

 しかし、綺麗に割る、と言うのは存外に難い。

 

 林檎の芯は、硬い。

 慣れぬ左手、力の加減が難しい。

 配膳用のチャチな架台が、軋み、たわんで拍車を掛ける。

 

 ――ダン!

 

「……ッ」

 

 割れた。

 果実が縦にすっぱと分断され、勢い余って受け台をナイフで強かに叩いた。

 ほうっ、と一つ溜息を吐く。

 広告を敷いておいて正解であった。

 

 黄金の蜜がたっぷりと詰まった断面が露わとなる。

 瑞々しい果実の酸味が鼻腔をくすぐる。

 

 一息吐いている場合ではない。

 二つ切りが終わったならば、次は四つ切りである。

 安定感を採るのであれば、断面を下にするべきであるが……。

 

 ……いや。

 アムロが思い切りこちらを見ている。

 切断面を広告に重ねるのは、いかにもまずい。

 

 腹を括り、林檎の芯に重ねるように、断面に刃を合わせる。

 力が逸れ、半球状の林檎が傾ぎ、慌てて右の指に力を込める。

 慎重に行かねばならない。

 こんな事で怪我が増えては良い面の皮である。

 

 トン。

 

 割れた。

 芯を外し、大きさが不揃いになってしまったが、どうせ一人の胃袋に収まるのだから問題ない。

 テンポよく、二つ目の半球に取りかかる。

 

 トン。

 

 こちらはすんなり割れた。

 ヘタが無かった分だけ、刃が綺麗に中心に入った。

 とは言え、喜んでばかりもいられない。

 ここからの作業は、若干テクニックを要する。

 

 芯を、外す。

 林檎の一切れを取り、刃を斜めに入れる。

 硬く、酸っぱい部分が残らぬよう、さりとて蜜を切り過ぎぬように。

 刃が半ばまで達したのを確認し、ナイフを引き抜く。

 右手を返して、果実を反対に。

 ここで慌てて取りこぼしたり、断面がギプスに触れたりしては大惨事である。

 刃物が絡まぬ場面でも、油断は出来ない。

 

 改めて、刃を逆から入れる。

 半ばまで達したあたりで、くっ、くっ、と刃を起こす。

 ぺきり、と音を立て、三角形に抜けた芯がナイフの峰に乗る。

 林檎を剥く、と言う行為にあって、最も胸のすく瞬間であろう。

 

 すっ、すっ、くっ、ぺきり。

 

 すっ、すっ、くっ、ぺきり。

 

 すっ、すっ、くっ、ぺきり。

 

 気を良くして、残り三つの芯も切り分けにかかる。

 最後の芯を外し、ふっ、と自分が調子に乗っている事に気が付いた。

 危うい。

 気を引き締めてかからねばならない。

 ここからは今回の作業における最難関が待ち受けているのだ。

 

 皮を、剥く。

 空手家、ナガラ・リオにとっては、全く初体験の領域である。

 しかも、使うのは左手。

 

 中空で、丹念にシャドー皮剥きを繰り返し、意を決して一切れを手に取る。

 ざり、と、気持ち皮を厚めに取って刃を入れる。

 無言の室内に、ざり、ざり、と果実の擦れる音が響く。

 

 イメージする。

 左手は添えるだけ、動かすのはあくまでも右手。

 刃だけでは無い、林檎とギプスの距離の方にも気を使うのだ。

 指先に十分な力を込め、さりとて蝸牛のような慎重な歩みで。

 

 往路が終わり、林檎を返して復路に取りかかる。

 

 やはり、皮が厚い。

 皮幅も断面厚も均等ではない。

 もう少し、薄めに狙っても良いのではないか、と、欲目が出る。

 いけない。

 もったいない、だがその一言は、危うい。

 自分が素人なのだと言う事を忘れてはならない。

 アムロ・レンが見たいのは技術では無く、誠意だ。

 改めて肝に銘じる。

 

 ざり。

 復路が終わった。

 後は中央に残ったラインを剥き終えるだけ……。

 いやいや、油断は禁物である。

 

 ざり。

 剥き終えた林檎の一切れを皿に落とし、大きく息を吐く。

 ここまでのトータルで、五分か、十分経ったか。

 その間、アムロ・レンはずっと無言で、飽くる事無くじっ、とこちらを見つめ続けていた。

 時々、アイツの事が本当に分からなくなる。

 ともかく、こんな事を考えていた所でノルマは減らない。

 さっさと次にかかってしまうとしよう。

 

 ざり。

 残りは三つ。 

 その道のりの遠さに溜息が出る。

 こんなのはそもそも、男の仕事ではない。

 今さらながら、この場にハム姉もヒライも居合わせなかった不遇が悔やまれる。

 

 ざり。

 ……いや。

 キミコの方はともかくとして、ヒライは果たしてどうであろうか?

 あの少女は、本質的に自分と似ている。

 対等に歪んでいる。

 最高のガンプラを生み出す事は出来るが、最高のガンプラを動かす事は出来ない少女だ。

 ニッパーやデザインナイフの扱いには慣れていても、包丁は握った事すらないかもしれない。

 はじめて食事に行った時は、自分がもんじゃの焼き方を教えた。

 次に会うときは、林檎の剥き方を教えてやるのもよ――

 

 ざ!

 

 危ねえ!?

 油断していた。

 皮を抜けた刃先が飛び出し、危うく落としかけた林檎を掴み直す。

 危機一髪であった。

 思い切り雑念に気を取られていた。

 

 とにかく、これで残りは二つ。

 ここからは最後まで集中して行く。

 

 ざり。

 機械だ。

 機械になるのだ。

 ナイフを構えた左手を空中に固定し、ただ黙々と右手を動かす。

 それ以外の事は、全て忘れる。

 ただ目の前の林檎を剥くだけの機械と化せばいい。

 

 ざり。

 ざり。

 ざり。

 

 ……何をやっているんだろうか、俺は?

 

 林檎の皮を剥く。

 その辺の主婦だって出来る事だ。

 それが何だって今さら、女の機嫌一つを取る為だけに、自分が躍起にならねばならないのだ?

 

 十円玉を折り畳める指だ。

 土管に風穴を開ける拳だ。

 角材を切り裂く手刀だ。

 いびつで結構、そう胸を張って言える、太い男の生き様を志していたのでは無かったのか?

 

 ――洒落臭いッ!!

 

 

 タン、と勢い良く林檎を皿に置いて、最後の一切れに手をかける。

 

 ざり。

 ああ、まったく洒落臭い限りではないか。

 太い生き様だと?

 二週間も抜け殻のように寝過していた男が、今さら林檎を剥く十数分を惜しむのか?

 少なくとも、今、自分は目の前の林檎に対し真剣に向き合っている。

 それならばもう、それで良い。

 

 理由や動機は、何だって良い。 

 カミキ・セカイの活躍でも良い。

 芥菊千代 対 志村礼二の、血沸き肉踊る打撃戦でも良い。

 アムロ・レンの理不尽な要求でも良い。

 

 今は、この林檎だ。

 こいつと真摯に向かい合う事が、もう一度、自分が動き出す事のきっかけに成り得るならば。

 アムロのためにと思うのが癪ならば、農家の気持ちを思えば良い。

 これほどに大きく、瑞々しく育った見事な姫ふじである。

 単に商売と、生活の為と割り切って作れる代物ではない。

 おいしく食べてもらいたいはずだ。

 今はその全責任を、自分の指先が背負っている。

 使命と、感謝と、大袈裟かもしれないが、その二つを胸に皮を剥くのである。

 

 ざり。

 ざり。

 ざり。

 ざり。

 ざり。

 

 ……そして、とうとうに皿の上には、不揃いながらも綺麗に剥けた林檎が、四切れ並んだ。

 

 ささやかな達成感が、心地よい疲労を生む。

 後は、食してもらうだけだ。

 アムロ・レンに、この自分の誠意、を……。

 

 そう思い、持ち上げかけた皿が、ふっ、と止まる。

 

 ――皿の上に、林檎が、四つ。

 

 四。

 縁起が、悪い……。

 考え過ぎであろうか?

 

 この林檎。

 もしも自分が喰うのならば、こんな事は気にも留めない。

 アムロ・レンも、普段ならば気にするような女ではあるまい。 

 しかし、天の邪鬼な奴の事だ。

「貴様ァ! このわしに四つの中から選べと言うんかいっ!?」

 などと、理不尽な因縁を付けてくる可能性は、ある。

 

 だとしたら、どうすればいい?

 すでに皮は剥いてしまった。

 ここから更に切り分けるのか?

 この小さな皿の上で?

 四つ切りを、八切りに……。

 

 無意味だ!

 悪辣なあの女の事、八切れの内、四つまでを食べ終えた後で、

「貴様ァ! これでは残り半分が食えぬではないかッ!!」

 などと、理不尽極まりないクレームを付けてくるに違いあるまい。

 

 ならばどうする?

 どうする?

 どうする――?

 

「――こうだ!」

 

「!?」

 

 がっ、と林檎の一切れを力強く鷲掴みにする。

 アムロが思わず瞠目するも、お構いなしに己が口中へと放り込む。

 しゃり、と言う気持ちの良い食感と共に、たちまち豊潤な甘酸っぱい果汁が、じゅわっ、と口の中いっぱいに広がる。

 

 うん、うまい。

 林檎特有の淡い酸味が、口の中から鼻先へと抜ける。

 瑞々しい爽やかな喉ごし、感動と満足が胃の腑へ落ちる。

 素晴らしい林檎であった。

 ガンプラにおいても見舞の品においても、ハム姉の見立てには何一つ間違いが無い。

 そしてどうやら、毒の類も含まれてはいないようだ。

 図らずもアムロの為に、毒見の役を果たした形である。

 

 これで皿の上の林檎は、残り三切れ。

 ラッキーセブンから四を引いた、理論上、最も縁起の良い数字である。

 完璧な差配であった。

 

「剥けたぞ」

 

 ことり、と林檎の乗った皿をアムロの前に置く。

 アムロはじっ、と眉間に皺を寄せ、ゆっくりと皿を廻し、様々な角度からねぶるように林檎を睨みつけていたが、やがて、おもむろに皿を置いて顔を上げ、曇りのない瞳をリオに向け、言った。

 

 

「うさぎさんは?」

 

「剥く前に言えッ!!」

 

 

 たまらぬ女であった。

 

 

「がんひゅらふぁいふぉの、はなひじゃぎゃにょ」

 

「食ってから話せ」

 

「――んぐ、聞いたかよ、ガンプラファイトの話な」

 

「……ああ、エイカさんから、大体の所は」

 

 ちらり、とリオが窓の外に瞳を向ける。

 いつしか西の空へと傾き始めた夕日が、商店街の日常を赤く染め上げ始めていた。

 熱狂の夜が、また一日、遠ざかって行く。

 

 あの夜。

 

 トーメナント終結の後、大会主催者であったリー・ユンファは、国際ガンプラバトル審判員の事情聴取に応じる形で、会場から姿を消したと言う。

 容疑はニールセン・ラボから技術のデータ盗用、及び、無断使用。

 二つの疑惑が法律に抵触するものであるのか? と言う一事が問題の争点となったが、結局、リーは嫌疑不十分として解放され、そのまま何処かへと雲隠れしてしまったと言う。

 状況としては白では無く、幾分黒ずんだ灰色の決着である。

 おかげで当分、ガンプラ・ファイトは自粛、各地に設置したガンプラ・トレース・システムの匤体も、ひとまずは撤去する運びになると言う。

 「後始末ばっか押し付けて、旦那にも困ったモンさ」などとキミコはぼやいていた。

 

 

「カカ、残念じゃのう、リオよ。

 当分の間、うぬとは遊んでやる事も出来んわい」

 

「……へっ、しばらくはガンプラ・ファイトはこりごりだね」

 

「ふん、なんじゃい、いくじの無い。

 若者ならもっとガッツをもたんかい、ガッツを」

 

 ヒラヒラとギプスの巻かれた右手を振るうリオに対し、アムロが一つ溜息をついて、肉厚な林檎の皮へと手を伸ばす。

 

「いや、それも食うのかよ!?」

 

「ひょんなことよりのう」

 

 ごくり、と一つ間を置いて、アムロが再び口を開く。

 

「ヒライの奴はどうした?」

 

「うん、ヒライ、か?」

 

 アムロからの意外な言葉に、リオが一つ、首を傾げる。

 

「あいつなら、こっちには来てねえぞ。

 何だかよ、色々とやる事があるんだとよ」

 

 そう、ハム姉からの言伝をそのまま伝える。

 もっとも、西東京のアパートに埼玉の外れの病院である。

 忙しかろうとなかろうと、女子中学生が早々に見舞いに来れるような距離ではない。

 

「たわけ」

 

 ぴしり、とアムロが一言で斬って捨てる。

 

「奴が見舞いに来たかどうかではない。

 うぬがヒライの所に会いに行ったか、と、聞いておるんじゃ」

 

「む……」

 

「そうであろうがよ。

 あの眼鏡の助力無くして、うぬ如き未熟者がどこまで戦えたもんかい?

 うぬが自らアイツの所に行って礼を言うのが筋じゃないんか?」

 

「……んな事は、お前に言われるまでもねえ」

 

 痛い所を突かれ、ぶっきらぼうにリオが突き離す。

 そう、そんなのは他人に言われるまでも無い話だ。

 ヒライ・ユイへの感謝。

 あの大会の最中から、彼女に対して、ちゃんとした形で礼をしなければと思ってはいた。

 それがとうとう機会を持てぬまま、無為に二週間近くも過ごしてしまったのである。

 

「だがよ、アイツは色々と用事があって来れないって言ってんだぜ。

 退院許可も下りてない、こんなナリで押しかけた所で、いい迷惑だろうがよ」

 

「ああ、そうじゃろうとも。

 真面目くさった奴の事よ。

 困惑して、そいで滅茶苦茶怒るのが目に見えるようじゃわい」

 

「だったら……」

 

「じゃがの……。

 そうまでせねば、伝わらんモンもあるじゃろうが?

 ナガラ・リオが、まともに傷も癒えん内から会いに来た……。

 それ以上に、今のうぬの真意を正しく伝えられる行為があるかよ?

 拳以外じゃまともに口も利けんガキんちょが」

 

「…………」

 

 アムロの鋭い舌鋒に、思わず規制が削がれる。

 相も変わらず自己本位で滅茶苦茶な台詞でありながら、そこに一抹の真理が混じっているように感じてしまうのは、抜け殻のように虚無に日々を過ごしてきた後ろめたさゆえであろうか。

 

「……でよ、そこでぐっ、と抱き寄せるんじゃ!

 力尽くじゃ! 男らしく一息に押し倒せ!」

 

「ワケの分からん事を言ってんじゃねえ」 

 

「構わん、わしが許す! チューしろチュー」

 

「お前にそんな資格は無えッ!!」

 

 激昂した。

 アムロ・レンの魂を、一瞬見直しただけ損をした。

 目の前の女は、只の下種であった。

 

「ハン、阿呆め、だからうぬは童貞なんじゃ」

 

「…………」

 

 がりがりと林檎の芯を頬張る少女の横顔を、無言で睨み付ける。

 時折、アムロ・レンと言う少女の事が本当に分からなくなる。

 こんな下世話な口を利くためだけに、この少女は病室を訪れたのであろうか?

 

 

『――彼女の本心、気付いてあげなきゃダメ』 

 

 

 ヒライ・ユイの、声が聞こえた。

 いつだったか、確かそんな風に窘められた事があった。

 ヒライ・ユイであれば、目の前の奔放な少女の本心を推し量る事が出来るのであろうか。

 

「……ん、なんじゃ? なにガンくれとんのじゃ?」

 

 今は、ヒライはいない。

 愚鈍なりに、自分で答えを見つけなければならない。

 

 怪我を押して、わざわざ会いに行くからこその、伝わる真意もある。

 そう嘯いた、アムロ・レン。

 その言葉の意味する所と、より真摯に向き合うのならば……。

 

 わざわざ松葉杖を突いてまで、彼女が自分の許に来た。

 その行為そのものを、もう少し、自分は重く考えるべきではあるまいか。

 

「おう、なんか言いたい事でもあるんかい」

 

「ああ、その……」

 

「なんじゃ、はっきりせん、気色悪い奴じゃの」

 

「いや……」

 

 くりくりと動く緋色の瞳がリオを捉える。

 それが気恥ずかしく、しかし、意を決して素直に顔を上げた。

 

「今日は、その……、わざわざ見舞いに来てくれて……、どうも、ありがと」

 

「なッ!? んなッ!?」

 

「ええっと、なんか、困ってる事があれば、遠慮なく相談しろよ。

 俺なんかでよければ、いくらで――」

 

 

「カアァ――――ッ!!!」

 

 

「うおあッ!?」

 

 ナガラ・リオの精一杯の誠意を込めた感謝の一言。

 返答は松葉杖であった。

 

 風を切って飛来する高速の無垢。

 本能的に腕を廻して左手で捌いた。

 廻し、捌き、弾く。

 上方にぶっ飛んだ杖先が強かに天井を叩き、リノリウムの床の上で乾いた音を立てる。

 

「な、何しやがるこの野郎ッ!?

 また外れたらどうする気だ!」

 

「う、うううっさいわッ!?

 こんたわけ! たわけ! たわけ! たわけ! たわけ!

 何様じゃ貴様は、何様じゃ貴様はッ! 犬畜生の分際でわしの事を気遣おうってか!?

 百万年早いんじゃこの阿呆ッ!!」

 

 アムロ・レンが激怒していた。

 顔を耳まで真っ赤に上気させ、瞳をうるませあらん限りの罵倒を並べて来た。

 

「な、なんだよ、それ、俺だって……」

 

「やっかましいわい! うぬとはもう口利いてやらんッ!!」

 

「おい! 杖」

 

「いらんわ!」

 

 ずんずんと、止める間もなく少女が背を向け、バダムと勢い良く扉を閉める。

 嵐が去った。

 夕暮れの室内に、少年と、ヘタだけになった林檎の皿と、床に転がった松葉杖だけが残された。

 

「……つーか、歩けてんじゃねえか」

 

 諦観と共に溜息を吐き出し、ごろりとベッドに仰向けになる。

 

 何がいけなかったのであろうか?

 えらい剣幕であった。

 何だかよく分からないが、アムロ・レンのとんでもない地雷を踏み抜いてしまったらしい。

 

「……ま、いいか」

 

 中空にぽつりと呟く。

 アムロ・レンの事は、あれで良い。

 どうせ、猫のような気まぐれな女の事である。

 

 自分とレンは、同じ道の途上にある。

 奴はあんな捨て台詞を吐いてはいったが、どうせその内、嫌でも顔を合わせる事になるだろう。

 とりあえず、松葉杖一本分くらいには、奴に会いに行く用事も出来た。

 だから、レンとの事はあれで良い。

 

 

 

 ……アイツとは。

 

 ヒライ・ユイとは、どうであろうか?

 

「ユイちゃんはさ、残念ながら来れないんだ、やる事が多すぎてね。

 ま、ユイちゃんの分もハム姉さんが面倒見たげるから安心しなよ、少年」

 

 最初に見舞いに訪れた時、エイカ・キミコはそう言ってぼふんと胸を叩いた。

 ヒライの分、その言葉を忠実に実行しているのだから、あの女性の深情けも相当な物だ。

 

「ユイちゃんがやる気になったのも、全ては少年のおかげだよ。

 少年の闘いが、彼女に現実と向かい合う勇気をくれたんだ。

 エラいぞ、凄いぞ、ありがとう! 抱きしめたいなあ少年!」

 

 ハム姉はそう言って、身動きの取れぬリオを全力でハグして来た。

 面倒見の良い女性である。

 実の妹のようにも思っているヒライの社会復帰が、心底嬉しいのであろう。

 

 チッ、と舌打ちが一つこぼれる。

 

 ハム姉は何も分かっていない。

 ヒライに救われたのはリオの方だ。

 ヒライが立ち上がったと言うのならば、それは間違いなく彼女自身の意志によるものだ。

 そこに、ナガラ・リオの私闘が介在する余地など、ありはしない。

 

 ヒライ・ユイ。

 

 何故だか先刻から、ヒライの事ばかり考えていた。

 あるいは……、自分は、寂しいのだろうか?

 

 四月、桜の舞い散る河川敷。

 あの日から五カ月ばかり、彼女と多くの時間を共有してきた。

 会って何かするワケでもない。

 リーオーの改造プランを話す時以外、彼女とは殆ど言葉を交わす事も無かった。

 ナガラ・リオが稽古に励む間、ヒライは道場の隅で壁のしみのように張り付いて、ただ瓶底眼鏡の奥から自分の姿を見ていた。

 ヒライがリーオーを改修する時、自分は無言で、少女の良く動く白い指先を見つめていた。

 

 あの時間は、これからはもう、無い。

 ガンプラ・ファイトで勝利して、野良犬のプライドを取り戻すため。

 その為に二人は、ずっと一緒に居た。

 そのガンプラ・ファイトも終わった。

 ヒライのいない、いつもの日常が戻って来たのだ。

 

 傷は癒えた。

 退院して、そしてヒライに会いに行く。

 ヒライに会って、これまでの礼をする。

 ヒライの作るリーオーに、どれだけ助けられたか、どれほど救われたか。

 それを正しく言葉にして、彼女に伝える。

 そして。

 

 そして……、どうするのであろうか?

 ヒライのしようとしている事、ヒライの夢を、聞いても良いだのろうか?

 ヒライの夢を聞いて、それで自分はどうするのであろうか?

 ガンバレ、と、声をかけるのか……?

 

(馬鹿な)

 

 ブン! と、天井目がけて右の正拳を放つ。

 

 知っている。

 ヒライ・ユイが、頑張っていなかった日など、無い。 

 その、ヒライに対して、まるで他人事のように、月並みな激励を送るのか?

 何一つ努力していない、抜け殻のような自分が。

 

 ……せめて、お互い頑張ろう、と、そう伝えるべきではあるまいか。

 

 ガンプラ・ファイトは、終わった。

 二人の往く道は、隔たれた。

 それでも、いや、それだからこそ、これまで二人三脚で続けて来た延長上にある言葉を、彼女に贈るべきでは無いだろうか?

 下らない見栄だと、笑われるかもしれない。

 けれども、彼女に対してだけは、常に対等の関係でありたかった。

 

 ナガラ・リオは、ヒライ・ユイからリーオーを託された男だ。

 OZ-06MS『リーオー』は、ACで最もありふれたモビルスーツだ。

 決して特別な機体ではない。

 扱いやすく、戦場を問わず、それ故に高いポテンシャルを秘めた機体だ。

 砲列を並べたビルゴの大軍でも、一騎当千のトールギスでも、例え『ガンダム』が相手でも、戦況次第では屠れる牙を持った機体だ。

 少なくとも、歴戦の兵達に、そう言う可能性を信じさせるだけの確かさを持った機体だ。

 だからこそ、特別な機体だ。

 ガンダムになれなかった少女、ヒライ・ユイにとっての『神』だ。

 

 リーオーに、なりたかった。

 ありふれた、しかし、揺るぎない価値を胸に宿して生きる男になりたかった。

 

 

『いつの頃からか、私は自分がガンダムではない事に気が付いた』

 

 

 瞳を閉じると、ヒライ・ユイの声が聞こえた。

 

 

『だから、だから私は、リーオーになりたい』

 

 

 暗闇の中、一人モニターを見つめ、自分の姿をありふれた量産機に重ねる少女の背中が見えた。

 少女の孤独を、その気高さを、ナガラ・リオは心から尊く思う。

 

 ちりり、と、胸の奥に灼けるような痛みを感じた。

 細胞の一片が、ぶすぶすと燻るように熱を持っていた。

 精根果て、すっかり燃え尽き冷たくなってしまったと思っていた灰の中。

 そこに一粒ばかりの火種が残っていた。

 

 ヒライ・ユイの事を想う。

 肉体の奥底から、少しずつ、新たな火が燃え広がっていく予感があった。

 

 自分は、何になれるのか。

 何になりたいのか。

 

 

 その夜。

 ナガラ・リオは夢を見た。

 

 トランザムしたアムロにタコ殴りにされる夢だった。

 

 ワケが分からなかった。

 

 

 ――二日後。

 

 病院を出たナガラ・リオは、西東京の実家へと戻っていた。

 AM6:30

 常ならばロードワークの途上と言う時間帯であるが、その日の彼は道場にあった。

 ようやく日の光も差し込んで来ようかと言う、薄暗い場内。

 馴染みの胴着を来て、使い古した雑巾を手に、少年は一人、道場の掃除をしていた。

 

 元より手狭な道場である。

 大会前にも掃除はしていたし、入院中もハム姉がちょくちょくと世話を焼いてくれている。

 汚れと言うほどの汚れも無い。

 それでもリオは丹念に、床板の一枚一枚を丁寧に磨いていた。

 

 親一人、子一人。

 思えば、初めて道場を踏んだ幼子に、亡父が最初に教えたのも、道場の掃除であった。

 厳格な父は、掃除一つとっても手を抜く事を許さなかった。

 道場の神聖さであるとか、まっすぐな心であるとか、そう言ったメンタル上の理由では無い。

 

 道場破りが来る。

 立ち会って、床板が腐っているのに気付かず、あるいは壁から釘が飛び出しているのに気付かず、不覚を取る。

 死に恥である。

 常に最善を臨めぬ戦場なれど、せめて自分の道場くらいは知悉しておけ、と言うワケだ。

 

 おもわず顔が綻ぶ。

 今、リオが丹念に床板を磨く理由は、あの頃よりは幾分、精神的な理由であった。

 

 ――と、

 

 ふと、気配に気が付き、手が止まった。

 まさか、と思い、顔を上げた。

 ようやく白み始めた空。

 庭とも呼べぬ、ちっぽけな中庭。

 そこに佇む、瓶底眼鏡の女の子。

 

「……おはよう」

 

「……ああ、おはよう、ヒライ」

 

 ヒライであった。

 ヒライ・ユイがそこにいた。

 

「どうした? ずいぶんと早いな」

 

「ナガラが、退院したって聞いたから……。

 迷惑かとも、思った、けど」

 

「いや、いいよ。

 もう少ししたら、こっちから会いに行こうと思ってた」

 

「掃除?」

 

「ああ」

 

「手伝う」

 

「……いや、丁度、終わった所だ。

 先に上がっててくれ」

 

 短く断わり、入れ違うように下駄を履いて、リオが庭へと降りる。

 バケツの水を捨て、それから井戸の水を汲み、丁寧に左手と右の指先を濯いだ。

 

 とっぷりと時間をかけて掌を拭い、道場に戻る。

 場内に目をやると、案の定、ヒライ・ユイは定位置にいた。

 道場の隅、座敷童のように膝を畳んで、ちょこんとそこに座っていた。

 

 無言で敷居をくぐり、道場の中央に進んで、正面の神棚と向き合う。

 合わせてヒライが立ち上がり、リオの右後方に寄り添う。

 

 二礼

 

 二拍

 

 一礼

 

 朝の静けさに満ちた場内に、二人、無言で佇む。

 一日の稽古を始める前の、暗黙の取り決め。

 たったの二週間、空けただけなのに、なんだか、何もかもが懐かしかった。

 

「……ここ」

 

「うん?」

 

「この道場、こんなに広かったんだ」

 

「ああ……」

 

 ヒライに言われ、何とは無しに室内を見渡す。

 年季の入った、お世辞にしても広い道場では無い。

 だが、ただでさえ手狭なスペースを占拠していた『ガンプラ・トレース・システム』は、既にキミコの手によって撤去されている。

 ガランとした室内を、ヒライが「広い」と感じるのも、無理のない所である。

 

 ひとしきり室内をぐるりと見渡し、リオの視線がヒライへと戻る。

 

「珍しい服、着てるな」

 

「え」

 

 リオの言葉に、ヒライは一瞬、自らの装束に視線を泳がせた。

 

「……学校の制服、三区王堤の」

 

 ヒライの言葉に、リオが一つ頷く。

 鮮やかなワインレッドのブレザーに、柔らかな白のロングスカート。

 首元には淡いピンクのタイ。

 今日びの日本では珍しいタイプの制服である。

 普段のジャージ姿とのギャップにどぎまぎするが、ヒライの奴は、随分とお嬢様な学校に通っていたらしい。

 

 微妙な沈黙が、流れる。

 何か、自分から言うべき場面だと思った。

 

「似合ってるぞ」

 

「……嘘」

 

「嘘なもんかよ」

 

「そんな筈が無い」

 

「おい!」

 

 思わず声を荒げてしまった。

 ナガラ・リオは、自分に自信の無いヒライ・ユイが大嫌いだった。

 

「自分を卑下するような言い方は止めろよ。

 もっと自信を持て! ヒライ、お前は……」

 

 しかし。

 真っ直ぐに顔を上げたヒライを前に、思わず気勢が削がれる。

 少女の視線を阻む、分厚い瓶底眼鏡。

 その奥から、ヒライがこちらを見ていると意識すると、妙に気恥ずかしくなり、堪らずリオは話題を変えた。

 

「……お前は立派だよ、ヒライ。

 自分が何をしたいのか、ちゃんと自分で見つけて、行動してるんだ」

 

「え……?」

 

「行くんだろ、学校?

 自分のやりたい事が、見つかったんだ」

 

 リオの言葉に、こくり、と小さく、ヒラが頷く。

 

「学校を卒業して、プロの……、ガンプラビルダーに、なりたい」

 

「プロ?」

 

「職業としての、プロ。

 ガンプラの製作と、改造で、口に糊する生き方」

 

 今にも消え入りそうな小さな声で、ヒライが言う。

 プロ、職業、リオの耳には、いずれも望外の言葉であった。

 

「ガンプラバトルの、プロって、食えるモンなのか?

 その……、操縦が出来なくても、改造の腕、だけで?」

 

「ガンプラバトルは、世界的に見て、最もメジャーな競技だから、市場の規模も大きい。

 公式大会の賞金額だって相当なものだし、人気のあるトッププロにはスポンサーだって付く」

 

「へえ……」

 

「そこに、製作専門の人間が入り込む余地がある。

 イオリ・セイのように、製作からバトルまで一人でこなすプロもいれば、かつてのメイジン・カワグチのように、専属のワークスチームを組むケースもある。

 私がなりたいのは、後者。

 ファイターに相応しい機体を作り出す、製作のプロ」

 

「……そうか、そう言う世界があるのか」

 

 ヒライの言葉の壮大さに、ほうっ、とリオが一つ溜息を吐きだす。

 

「すごいな、ヒライは」

 

「凄くない」

 

 ぶんぶんと首を振るって、ヒライが否定する。

 

「本当に、プロのビルダーを目指す人間は、子供の頃から熾烈な戦いを始めている。

 アマチュアの大会で腕を磨いて、国内最難関のガンプラ学園を受験して……。

 その狭き門の中で、こうしている今も、きっと、鎬を削る戦いを続けている」

 

「大変な世界だ」

 

「私は、私は周回遅れ。

 自分の才能を試そうともせず、世間に背を向け、

 それで今更になってこんな事を言い出す、身の程知らず」 

 

「ヒライは立派だ」

 

 ヒライ・ユイの自虐を、今度こそリオが力強く打ち消す。

 

「自分の夢を自分で見つけて、それをちゃんと人に言えるってのは、凄い事なんだよ。

 それが、どれだけ困難な道なのか、自分で分かっているなら、尚更だ」

 

「…………」

 

「今の置かれた状況だとか、夢が叶うかどうか、とかじゃない。

 立派だよ、ヒライは」

 

 もう一度、強く、言葉を重ねた。

 語彙の足らなさを、今更ながらに恥じる。

 ただ、今の自分の気持ちが、目の前の少女に正しく伝わっている事を、切に願う。

 

「……ナガラ、は」

 

「えっ?」

 

「あるの?

 なりたいもの、自分の、夢」

 

「それを……、探しに行きたいと、思ってる」 

 

 ナガラ・リオの言葉に、ヒライがちらりと壁際に目を向ける。

 そこにあったのは、丁寧に折り畳まれた学生服と、肩に担げるようにした荷物袋。

 それと何故か松葉杖。

 

「……行っちゃう、の?」

 

 静かに一つ、リオが頷く。

 

「ヒライ、お前と違って、俺はまだ、何にも見つけちゃいねえ。

 この時代に、親父のような生き方を、一人、死ぬまでずっと続けるのか。

 それとも三雷会の館長みたいに、どっかで世間様に伝えられるものを探すのか……。

 そんな事すら決めかねてるんだ、俺は」

 

「…………」

 

「世界は広えよ、ヒライ、この間、痛感した。

 強くなりてえ。

 今は、世界中、色んな物を見て、学んで来たいと思ってる」

 

「…………」

 

 しばし、沈黙が流れる。

 やがて、こくり、とヒライが頷き、鞄の隣の、小さなトランクケースを持ってきた。

 

「そいつは……?」

 

「なんだか、こうなるような気が、してたから」

 

 そう言ってトランクを胸の前に抱え、かぱり、とリオに向けて蓋を開いた。

 

「……こいつは」

 

 うわ言のように呟いて、リオが呆然とケースの中を覗き込む。

 

 白い、ガンプラであった。

 四角形のテレビモニターのような、無表情の頭部。

 右隣に並べられた、外付けの追加ブースター。

 それ以外にはさして、特徴といった特徴を見出せない。

 その潔さゆえ、却って量産型のスタンダードと言った雰囲気を醸し出している機体であった。

 その機体が今、丁寧にくり抜かれたウレタンマットの上に鎮座していた。

 

「これ、プロト・リーオーだ」

 

「そう、リーオー虎徹は、まだ時間がかかりそうだから。

 だから先に、この子を作り直した」

 

「ヒライ……」

 

「悲しまないで、ほしい」

 

 ふるふると、瓶底眼鏡の少女が、小さく首を横に振るう。

 

「リーオーは兵器で、消耗品。

 戦いの度に損耗するのは、リーオーの宿命」

 

「…………」

 

「……でも、この子だったら、もう少しだけ遊べる」

 

「遊べる?」

 

「普通の、ガンプラバトル。

 ちゃんと、まともに戦えるように、作り直した」

 

 はっ、とリオが顔を上げる。

 ここ二週間ばかりヒライが何をやっていたのか、今更ながらに気付いた。

 

「ナガラ」

 

 小さくリオの名を呼び、トランクを畳んでヒライが顔を上げた。

 無表情の瓶底眼鏡が、ナガラ・リオを真っ直ぐに見ていた。

 

「この、プロトリーオー、あなたに持っていてほしい」

 

「俺に……?」

 

「遊んでくれなくても、構わない。

 本当は、荷物になるだけだって、分かってる。

 けど……、だけど……」

 

 少女の声が、次第に小さく、静寂に掻き消えていく。

 トランクケースを抱えた両手が、かわいそうなくらい、震えていた。

 

 導かれるように、リオの体が動いた。

 大きく開いた両の手が、ヒライの抱えたトランクケースを――

 

 すり抜け――

 

 

 そして――

 

 

「あ……」

 

 抱いた。

 

 ヒライ・ユイを抱きしめていた。

 

 トランクを抱えた少女の背中に手を廻し、そっと胸元に引き寄せていた。

 

「…………」

 

「ありがとう、ヒライ」

 

 耳元で、少女の名を呼んだ。

 

「ずっと、お前に支えられていた。

 お前がいたから、あそこまで、戦う事が出来た」

 

「…………」

 

「お前の……、お前の作るリーオーが、好きだ」

 

「…………」

 

「言うの、遅くなった、ごめん」

 

「…………」

 

 ヒライ・ユイは、ずっと無言だった。

 明朝の静寂が、道場の空気を支配していた。

 

 少女の震えは、いつの間にか収まっていた。

 制服ごしに、ヒライの温もりが少しずつ伝わって来た。

 薄い背中をそっと擦った。

 とくん、とくん、と、ヒライの鼓動が伝わって来た。

 ほつれた髪の毛が、リオの頬を僅かに撫でた。

 

 洗いたての制服の匂いの中に、微かに別の匂いが混ざっていた。

 甘く、ほのかに痺れるような。

 有機溶剤、ラッカー、塗料の匂いだ。

 今日までずっと、プロトリーオーの改修を続けていた少女の匂いだ。

 絶対に消す事の出来ない、ヒライ・ユイの匂いだった。

 

 愛おしかった。

 愛おしくて、少女の背に廻した両手に、わずかに力が入った。

 

「ん……」

 

「――!」

 

 静寂の室内に、少女の吐息が、微かにこぼれた。

 とてもヒライのものとは思えない、切ない吐息だった。

 

 瞬間、我に返った。

 

「う、うおあぁ――ッ!?」

 

 ナガラ・リオが叫んだ。

 叫びながら飛退き、もつれ、道場の床に仰向けに倒れ込んだ。

 強かに頭をぶつけた。

 

「…………」

「…………」

 

「…………」

「…………」

 

 

「…………」

「…………」

 

「…………」

「…………」

 

 静寂の室内で、二人、ただ、見つめ合っていた。

 言葉も無かった。

 どっどっどっど、と、バカにでかい心臓の音だけが、アイドリングを刻んでいた。

 

(何を、何をやってんだ、俺は!?)

 

 沸騰した血液に、ぐつぐつと脳みそを掻き回されていた。

 とんでも無い事をした。

 取り返しのつかない事をしてしまった。

 バーストモードであった。

 

『いや、デカした! そのまま一気に押し倒せ! チューじゃチュー!』

 

 うるせえ馬鹿ッ!!

 

 心の中の悪魔をブン殴りながら、思い切り頭を振るった。

 とにかく、ヒライに対して何か言わなければならなかった。

 

「すッ スマねえッ! ヒライ!!」

 

 叫んだ。

 叫びながら立ち上がった。

 思い切り声が裏返った。

 最早、謝る事しか出来なかった。

 

「その……、大丈夫、だったか?」

 

 おかしな事を聞いた。

 

「大丈夫……」

 

 ヒライの返事もおかしかった。

 

 眼鏡。

 少女の表情を気取らせぬ瓶底眼鏡だけが、かろうじて二人の均衡を支えてくれていた。

 眼鏡が無ければ即死だった。

 

「大丈夫、だから……」

 

 一呼吸おいて、ヒライがまた、おかしな事を口走った。

 

「……ナガラなら、大丈夫、だから……」

 

「――ッ!?」

 

 爆熱した。

 脳みそがラストシューティングするかと思った。

 

 すごい言葉であった。

 武に捧げた少年の十年を、完全に殺されてしまった。

 バクバクと重篤患者のように心臓が鳴いた。

 かたかたと、情けなくも膝が震えた。

 

(――息吹だ)

 

 そう思った。

 コヒョオォォォ……とばかりに肺腑の空気を吐き出し、最後に呼ッ!と酸素を取り込んだ。

 気休めの空手に頼らなければ、体を支える事すら叶わなかった。

 

「ナガラ」

 

「おう」

 

 かろうじて、応えた。

 まだ少し、声が上ずっていた。

 

「ナガラ、私は、リーオーが好き」

 

「……ああ、よく、知ってるよ」

 

「そうじゃない」

 

 ふるふると、ヒライが首を横に振る。

 

「ずっと前に、ナガラから、リーオーが好きだって言われた時……。

 私も好きだって、本当は言いたかった。

 でも、何だか恥ずかしくなって、別の話をした」

 

「そう、だったのか……」

 

「今は、あの頃よりも、ずっと、好き。

 あなたが、可能性を見せてくれた機体だから」

 

「…………」

 

「リーオーが好き、大好き。

 ナガラ・リオが、私に、強い気持ちをくれるから」

 

 ……胸の動悸は、いつしか収まっていた。

 

 鉄壁の瓶底眼鏡が、ヒライ・ユイを辛うじて支えてくれていた。

 柔らかなロング・スカートの上からも、少女の膝が震えている事に気が付いた。

 

 ヒライ・ユイは、やっぱり、強い。

 胸の奥で燻っていた火種は、今やリオの全身に燃え広がっていた。

 

「リーオーは特別な機体だ、って……。

 あの時、教えてくれたよな」

 

 リオの言葉に、こくり、とヒライが頷く。

 強く握った指先から、次の言葉を待っているのが伝わってくる。

 

「だったらよ、俺も、俺も、リーオーになりたい。

 ありふれてて、けれど、確かで、可能性を持った人間になりたい」

 

「…………」

 

「お前と、お前の夢の一部を共有できたら、どんなに良いかって、思う」

 

「…………」

 

「……悪い、何だか回りくどい事を言った」

 

「ううん」

 

 ふるふると首を横に振るって、リオの言葉を、ヒライが口中で反芻する。

 

「すごく、ナガラらしいなって、思う」

 

「そうか……? いや、やっぱりちゃんと言うよ」

 

 そう言って、姿勢を正した。

 真っ直ぐに、瓶底眼鏡に阻まれた、ヒライの瞳を見つめる。

 

 ヒライと出会った、桜並木の河川敷。

 壊れた手。

 根平での闘い。

 虎徹。

 最大トーナメント。

 

 ヒライと過ごした、一場面、一場面を、丁寧に振り替える。

 言葉を探す。

 今、岐路に差し掛かった、彼女に伝えるべき言葉を。

 相応しい言葉を。

 言葉。

 言葉。

 言葉。

 

 

「すきだ」

 

 

 言った。

 

 三文字だった。

 まともな教育を受けていない少年の頭では、それが精いっぱいだった。

 

「……たしも」

 

「――と!」

 

 不意に、ぽすん、とヒライが体を預けて来た。

 抱きしめる事も叶わぬまま、結局ヒライの額を、胸で受け止めた。

 

 戸惑うリオの右手の甲に、そっと少女の指先が触れた。

 厳重に固められたギプスの上をそっとなぞる、ほっそりとした白い指。

 それで、気付いた。

 とうとう鉄壁の瓶底眼鏡ですら、ヒライの気持ちを支え切れなくなったのだ、と。

 

 ヒライが今、どんな表情をしているのか。

 それを思うと、また、ばくばくと心臓が高鳴った。

 自分の動揺が、胸板を通して直にヒライの額に伝わっている。

 どうしようも無く恥ずかしかった。

 

 だからと言って、引き離すワケにも行かない。

 学が無く、拳以外にまともに気持ちを伝える手段を持たないナガラ・リオ。

 今、この心臓の音以上に、自分の気持ちを正しく伝える術など考え付かなかった。

 

 朝の光に包まれた室内に、額の温もりと、心臓の音だけがあった。

 

 どれほどの時間が経ったのだろうか。

 満たされていた。

 ずっと、こうしていたかった。

 

「……ずっと」

 

「うん?」

 

「こうして、いられたら、いいのに……」

 

「うん、ああ、いや、そりゃダメだ」

 

 思わず肯定しかけた言葉を慌てて打ち消し、そっと少女の両肩を抱いた。

 

「学校に遅刻しちまう。

 ちゃんと真面目に勉強しなきゃ、立派な大人になれねえ」

 

「ん……」

 

 小さく頷き、ゆっくりと、ヒライが離れた。

 半歩引いて、改めて二人が向かい合う。

 

「行くか」

 

「行こう」

 

 そういう事になった。

 

 

 玄関を抜けると、町並みには既に、朝の活気が溢れ始めていた。

 変わらぬ日常が、動き始めていた。

 

 ヒライ・ユイはこのまま東へ。

 三区王堤学園の学び舎へ、少女のありふれた日々が、今日から始まるのだ。

 

 ナガラ・リオは――

 

「どうするの? これから……」

 

「ああ」

 

 少女の素朴な疑問に、ぼんやりとリオが応じる。

 

「特にこれと言って、決めてはいないんだけどよ。

 とりあえず、西、いや、南、かな……?

 季節柄、ちょうど良いだろう」

 

「…………」

 

「ん、どうかしたか、ヒライ?」

 

 ヒライ・ユイの瓶底眼鏡が、リオの旅装を舐めるように見つめる。

 相変わらず、年季の入った空手胴着に、学生服を肩で羽織っただけの時代錯誤な出で立ち。

 足元には馴染みの下駄。

 そして右肩には、何故か荷物袋を吊るした松葉杖を担いでいる。

 

「その、松葉杖」

 

「うん?」

 

「……アムロ・レンに返しに行くの?」

 

「うぇっ!?」

 

「だってナガラ、何だか嬉しそうだから」

 

 どきり、と心臓が飛び出す。

 

 バカな。

 どう言う洞察力だ?

 本当はヒライもニュータイプだったのか?

 それともやはりコイツの家には、本物のゼロ・システムがあるのか。

 

 いや、そんな事より、自分はそんなにも締まりのない面をしていたのか。

 あの狂犬を相手に。

 ヒライ・ユイの事を、世界一愛らしく想っている自分が……。

 バカな!

 

「た、旅の道中でよ、篤人先生の所には、寄ろうと思っているからよ……。

 そん時、物のついでに、置いて来ようと思ってる、だけ、だ」

 

「別に、いいのに」

 

「良くねえッ!!」

 

 ナガラ・リオがムキになって叫ぶ。

 それを見たヒライが、珍しくも柔らかくはにかむ。

 たまらなく可愛らしい笑顔だった。

 自分が情けなかった。

 

「ナガラ」

 

 そっ、とヒライが名前を呼んで、再び小さなトランクを、胸の前に差し出す。

 

「この、プロトリーオー、本当は、あんまり長く遊べない」

 

「……? そう、なのか?」

 

「このリーオーは、今のナガラに合わせて、タイトな調整を施した機体だから。

 ナガラの背が伸びて、体重が増えて……、

 それで新しい技を加える度に、どんどんあなたの肉体からかけ離れていく。

 どれだけ大事に機体を使い込んでいっても、いずれ、ナガラの空手には合わなくなる」

 

「ああ、そうか、そうだよな」

 

「うん、でも、だからこそ私がいる。

 ナガラのリーオーを直すのは、私」

 

「…………」

 

「もしも、機体が壊れたら……。

 あるいは、今の性能に物足りないと感じたら、その時は……」

 

「帰ってくるよ、必ず」

 

 短い答えと共に、ヒライの小さな手の上に、みちみちと膨らんだ空手屋の左手を重ねる。

 

「リーオーと、一緒に」

 

「うん」

 

 二人、リーオーの入ったトランクを挟んで、じっ、と向かい合っていた。

 重ね合った掌のぬくもりを離すのが惜しくて、それで……。

 

「おはようございます!」

「ひゅ~ひゅ~」

「おねーちゃんたちなにしてるの?」

 

「うぉわ!?」

 

 ――ガキどもの集団登校に出くわし、慌ててトランクをひったくった。

 

「そ、それじゃ! 俺、もう行くからよ」

 

「ん……」

 

「お前も、その、元気でやれよ」

 

「――ナガラ!」

 

「えっ?」

 

 ガツガツ、と言う切火の音が、背後から聞こえた。

 驚き振り向いた視線の先で、小さめの火打ち石を手にしたヒライが、恥ずかしそうに笑った。

 

「何だか、こうなる気がしてたから……」

 

 そう呟いて、いかにも上等なブレザーのポケットに、火打ち石を二つ、しまった。

 

「行って、らっしゃい」

 

「……ああ、行って来ます」

 

 ナガラ・リオも笑って、今度こそくるりと背を向けた。

 

 

 

 ――カラン、コロン。

 

 

 下駄が鳴る。

 大都会、西東京の外れに、時代遅れの乾いた下駄の音が響く。

 

 カラン、コロンと。

 

 遠ざかっていく下駄の行く先を、少女はいつまでも見つめ続けていた。

 

 風が吹いていた。

 

 季節の変わりを告げる、涼やかな秋の風だった。

 薄の香を孕んだ、乾いた風だった。

 

 ――カラン、コロン。

 

 まだ、下駄の音は聞こえていた。

 

 少女の耳に。

 

 カラン、コロン。

 

 風が吹いていた。

 

 風が吹いていた。

 

 風が吹いていた。

 

 

 カラン、コロン。

 

 

 

 

 カラン……。

 

 

 




・おまけ ヒラコレ解説①

 ヒラコレとは、西東京の外れにあるホビーショップ『超級堂』に努める伝説のガンプラチューナー、ヒライ・ユイ(平井唯)の制作したガンプラ『ヒライコレクション』の略称である。
 ビルダーではなくチューナーの呼称が用いられるのは、ガンプラとファイターの相性を重視し、機体完成後も長期間かけて細部の調整を続ける偏執的な製作スタイルに由来する。
 その職人的な気質から作品数自体は少ないものの、アムロ・レン(安室恋)やエビナ・マコト(海老名真実)と言った優秀なパートナーに恵まれた事もあり、公式大会において目覚ましい戦果を上げ、粒子変容技術至上主義に対するアンチテーゼとして、今日では一部に熱狂的なファンを獲得するに至っている。



№000
機体名:リーオー古鉄
素体 :トールギスⅢ(新機動戦記ガンダムW Endless Waltz)
機体色:白
操縦者:ナガラ・リオ?
武装 :外付けフライト・ユニット(と言う名のスーパーバーニア)

 ヒライ・ユイが友人の旅立ちに際し製作した機体と言われており、巷で目撃された最初のヒライ作品でもある。
 重火器、ビーム兵器の類は一切携行せず、MFばりの関節駆動と頑丈さを武器にした格闘戦のみが唯一の戦法である。
 特筆するべきはオプション装備として追加された、外付けのフライトユニットで、短時間ながらトールギスばりの殺人的な加速を得る事が可能である。
 装甲およびオプションパーツは任意にパージ可能で、速度と重装甲を生かして無理やり接近した所で武装解除し、軽量を活かした格闘を仕掛けるのが得意パターンである。
 また、その武装の性質から、Vガンダムさながらのパーツアタックを仕掛ける光景も、巷では散見されたと言う。

 本機は公式大会の参戦記録を持たず、厳密にはヒライナンバーに数えられない機体であるものの、「ヒライと言えばリーオー」と豪語するアングラ時代のファンからは、意図的に『№000』の敬称で呼ばれ続けている。
 尚、銘の古鉄は江戸時代の刀工・長曽禰虎鉄の旧名に由来する。


 

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