総合アミューズメントパーク『ラビアンローズ』中央ブロック跡地。
広大な敷地の中心に、キャピタル・タワー、と名の付く筈であった施設の名残がある。
テーマパーク全体のシステムを統括するターミナルとして。
また、東に関東平野、西に奥秩父連塊を望む、21世紀のシンボルタワーとして計画された、ラビアンローズの目玉であった。
天まで届け、未来への夢。
結局、バブル経済の崩壊と共に、タワーは当初予定の三分の一の高さで建設を中断。
そこから先へと伸びる事も取り壊される事も無く、届かなかった未来の象徴として、眠りについた施設を俯瞰している。
――八月某日 PM 9:20
キャピタルタワー6階、地上40メートル。
本来の塔全体からみれば臍下にあたる部分に、一人の男がいた。
剥き出しのコンクリートスラブに、無数の支柱、間仕切りも外壁も無い殺風景なスペース。
そこに、小高い丘のプラネタリウムを背景にして、大きなモニターが設置されていた。
モニターには、いくつもの戦いの光景が映し出されていた。
古の円形闘技場を背景に、絡み合い、軋み合う鋼鉄の機体を映し出していた。
鉄の拳がぶつかる度に、客席が震え、観衆の絶叫が夜空を焦がす。
鎮魂歌であった。
成長を止めてしまった、キャピタル・タワーへの。
届かなかった、あの日の夢へ、の。
それを男は、じっ、と見ていた。
どこからか持ち込んだ大型のソファーを特等席に、黒眼鏡の奥から、切実な眼差しをモニターへと向けていた。
――カン、カン、カン。
スチール製の仮設階段を叩く足音が、階下より響いてきた。
視線を外し、男が後方の闇を見据える。
その内に足音は止まり、闇の中より、ちらり、と懐中電灯の明かりが煌めくのが見えた。
「やあ、探しましたよ! ミスター・リー。
こんな所でバカンス中とは、さすがに盲点だったなあ」
「……これはこれは、随分と、お早いお着きで」
闇の中より響いてきた気さくな声に、男、リー・ユンファの口元が緩む。
モニターからの照り返しが、来客の姿を徐々に照らし出していく。
赤色のワイシャツを腕まくりしたラフな姿に、寝癖を手櫛で押さえただけの短い黒髪。
ひょろりと一見、頼りなさげな長身だが、袖から伸びる日に焼けた肌が、男の遍歴を匂わせる。
痩せ形のすっきりした顔立ちに、少年のような輝きを持った瞳を宿しており、それが男の風貌に、二十代後半とも四十代ともつかぬ、不思議な印象を与えていた。
リー・ユンファはしばし、来客の姿を黒眼鏡ごし見つめ、やがて呆れたように声を上げた。
「まさか、わざわざあなたが出張ってくるとは、思ってもいませんでしたよ。
国際ガンプラバトル公式審判員、イオリ・タケシさん」
思いもよらず名前を呼ばれ、赤シャツの男、イオリ・タケシは気恥ずかしげに頬を掻いた。
「いやあ、同僚たちなら今頃、台湾行きの飛行機の上ですよ。
李大人、あなたのデコイを追っかけて、ね。
おかげでこっちは、折角のリンちゃんとの休暇がパァだ」
「それは……、ふふ、とんだご足労をおかけしまして」
口元に苦笑を浮かべ、リーがモニターへ向き直る。
その背後に、きょろきょろと辺りを見回しながら、イオリが歩み寄る。
「初めて来ましたが、いいトコですね、ここ。
子供の頃に作った秘密基地を思い出します」
「日本の秘境マニアの間では、結構な人気スポットらしいですよ。
もっとも、彼らは決してその事を口外しません、秘境マニアですから」
「成程」
軽く相槌を打って、イオリが後背よりモニターへと目を向ける。
その瞳に、少なからぬ真剣な色が宿る。
ポツリ、と思い出したように、リーが口を開く。
「……あなたがここまでいらしたと言う事は、私も年貢の納め時、なんですかねえ?」
「いいや、全然。
恥ずかしい話ですが今回の件は、ウチで扱うべきなのかも判別がついてない有様でして。
だからいっそ、もう本人に聞いちゃおうかな~、と思いましてね」
そこでイオリはシャツの襟を正すと、改めてリーと向かい合った。
「リー・ユンファ。
あなたに今、ニールセン・ラボからのデータ盗用、及び無断使用の疑惑が上がっています。
宜しければ、その辺の事情を伺いたいのですが……」
一瞬、会話が途切れる。
無言の室内に、『ETERNAL_WIND~ほほ笑みは光る風の中~』を合唱するMS少女の声が響き渡る。
「それは、任意同行……、という事で宜しいのですかね?」
「そ、任意。
って言うか、ウチは警察じゃないんで、逮捕状とかあり得ませんから」
ほうぅ、と長く息を吐いて、リーがソファーに背中を預ける。
「そいつは重畳。
どうやら無事に、決勝戦を拝む時間くらいはありそうですね」
「決勝戦?」
「私達が何をやっているのか。
知っているからこそ、ここまで来たのでしょう、イオリさん?」
リーに促され、イオリが再び真剣な面持ちでモニターを臨む。
「ガンプラ・トレース・システム……。
そう、名前を付けたんですね」
「元々は子供向けの導入機材として、開発されていたシステムでしたか?
結局、肉体へのフィードバックと言う問題を解決出来ずに、お蔵入りとなったようですが」
「あなたにとっては、その方が却って都合が良かった。
ガンプラバトルを隠れ蓑に、全世界へ向けた、真剣の格闘試合を目論んでいたあなたにはね」
電脳世界が、戦いのハイライトをモニターに刻む。
熱狂に沸く観衆に、守りを捨て、真っ向から打ち合う鋼鉄の戦士達。
タイタスの太い手に、打たれ穿たれ捻じられながら、尚狂ったようにテレビ顔が拳をかざす。
「ガンプラを生身の肉体に見立てた、ワンデイトーナメント。
正気の沙汰じゃない。
100パーセントの安全を保証できないシステムで……。
しかも、これから決勝戦を戦う二人は、まだ子供じゃないですか?」
踵を返し、イオリが再びリー・ユンファと正対する。
「すぐにでも試合を取りやめてください、ミスター・リー。
こんな大会で、あたら若い少年少女の未来を奪うような資格は、あなたには無い筈です」
イオリ・タケシの真剣な声が、室内の闇に籠る。
リー・ユンファはゆっくりと立ち上がると、黒眼鏡を外し、再びイオリと向かい合った。
「――あの子らが、命を賭けているものは、そんなにも下らない事ですか?」
「何……?」
「答えて下さいよ。
第二回ガンプラバトル選手権準優勝者、イオリ・タケシさん。
卓越した技量を持つあなたの目から見れば、彼らの命を張っている場所など、取るにも足らない児戯だと仰るのですか?」
「そう言う話をしているんじゃない!」
イオリ・タケシが叫ぶ。
怒声を吐き出し、そして一つ、声のトーンを落とす。
「……率直な感想を言うならね、感動しましたよ。
鋼の拳に生の肉体が宿り、相手を打つ。
それだけの行為が、これほどまでに観衆を湧き立たせるものなのか、と。
現実では実現し得ない死闘が、ガンプラと言う安全装置を介する事によって、奇跡的に興業として成立する。
競技として成熟し、ある意味では行き詰まりの見え始めていたガンプラバトルの世界に、まだこんな解釈の余地があったか、と興奮もしました」
「…………」
「けれど、ガンプラバトルは所詮、遊びです。
老若男女、誰もが気軽に手に取って、和気藹藹と遊べる、そういうもんです。
身の安全を保障できないようなシステムを積んだり、自分の肉体を虐め抜いてまでやるようなもんじゃない。
そう言う世界と繋がっていちゃあいけないんですよ、ガンプラは」
「……道理です、さすがはイオリさんだ」
長い嘆息を吐いて、リー・ユンファが力無く笑う。
「ですがねイオリさん、単に、五体満足なだけではダメなんです。
そう言う、どうしようもない野良犬のような人種がいる。
魂が満たされなければ、あの子らに未来なんてありませんよ」
「……どう言う意味ですか?」
「世界最強。
かつて、格闘技が未だ世界の中心であった時代に、誰もが見ていた夢を実現するため……。
私は持てる資金と人脈を総動員して、考えうる最強の戦士を世界中から掻き集めました。
現役の格闘王者から野に伏せた拳聖、はたまた畑違いのガンプラビルダーまで、ね」
「そうしょうね。
今日、これほどの錚々たる顔ぶれが集結していなければ、あなたの行方を追う事なんて叶いませんでしたよ」
「ええ、事実、メンバーは完璧でした。
多くの実力は伯仲し、ここに至る十四試合の中には、冗長な場面など一切ありませんでした。
……そして、その中から彼らは生き残った。
召集した十六人の中でも、とくに若く、体格においても経験においても未熟であった彼らが」
「…………」
「何故なんでしょうか?
彼らがここまで勝ち進んでこれた理由、ただの偶然でしょうか?」
リー・ユンファの言わんとする意味を、イオリが頭の中で反芻する。
彼らの少年少女の戦いを、道すがらイオリも追いかけてはいた。
確かにリーの言うように、彼らは決して盤石な戦士などでは無く、明らかに格上の猛者から、紙一重の差で勝利をもぎ取る場面も、多々見られた。
で、あるならば、結局は運。
勝利の女神の放り投げた賽の目次第で、物語は変わっていたのであろうか?
それも、違う気がした。
かつて、第二回ガンプラバトル選手権において、イオリ・タケシと勝者を分かったもの。
分野は違えど、一種神がかり的な領域で、鎬を削り続けた者にだけが分かる、特有の空気。
勝ち負けの究極において、紙一重の差は確実に存在する。
テレフォンパンチなど、ありはしない。
傍目に偶然に見える拳は、それまでに両者が積み重ねて来た歴史の必然、その帰結である。
天佑、と言うものが存在するならば、人が天に愛される理由も確かに存在するのだ。
「彼らを勝利者たらしめたもの、それは『餓え』であったと私は思います。
今大会、彼らは誰よりも貪欲に勝利を欲していました」
リーの口にした意外な言葉に、イオリが思わず、目を丸くする。
「……餓え、ですか?
今日のような舞台を待ち望んでいた筈のベテラン達より、あの子たちの方がより強い執念を持っていた、と?」
「私ら、救い難い格闘技オタクにとって、今大会は、この『塔』のような物です。
かつて格闘技が、武術が黄金の輝きを放っていた時代を知っていて、あの頃、辿り着けなかった未来を見ている。
正しく、夢心地と言うヤツでしたよ。
……だが、彼らは、私たち大人とは違う、黄金も光も知りません。
ただ愛した者との繋がりを探すように、我武者羅に拳を振るってきた野良犬です。
ガンプラバトル全盛の世の中で、自分たちが捧げて来た物の価値を求め、彷徨い歩いている。
今日の闘争に対し、誰よりも切実で誠実でした。
彼らには、今、現在、この場面、この瞬間しか無いのです」
「…………」
「あと、もう少し、ものの数分で、答えは出せると思うのです。
私には、彼らの青春が報われようとしているように見えるのです。
ガンプラバトルの誕生によって失われた未来が、プラフスキー粒子の輝きの中で、取り戻せると思うのです。
どうか、見逃してやっちゃあ、くれませんか?
これから起こる事の責任は、全て、私が執ります」
じっ、とリーがイオリを見上げる。
いつしか合唱は終わり、モニターが薄闇に包まれ、室内が一段と暗くなる。
短い沈黙の後、イオリ・タケシはおもむろに口を開いた。
「……ガンプラ・トレース・システムは、絶対?」
「無論、その確信が無くては、今日のような大会は開けませんよ」
「客家の大物華僑、李潤發が、彼らの将来を守ると?」
「身命を賭して」
イオリの問いかけに対し、淀みなくリーの答えが返る。
イオリはしばし、両腕を組んで、うろうろとせわしなく周囲を徘徊していた。
が、その内に「ええクソ!」と一声叫んで、傍らのソファーにどっかと腰を下ろした。
「……イオリさん、宜しいので?」
「良いも悪いも無いですよ。
言ったでしょ、僕は元々、この大会をどうこうするような権限を持ち合わせていないんですよ。
あなたに対しても、あの子たちに対しても」
「謝謝」
短い謝意に対し、イオリが無言で片手を振るう。
リー・ユンファが、ちらりと手元の懐中時計を月明かりにかざす。
PM9:30
時間であった。
ほどなく、仮初のコロッセオに、ぽっ、と一つ篝火が灯った。
『――さて、みなさん、いよいよお別れの時がやって参りました』
赤々とした篝火に照らし出され、MS少女の横顔が、ゆったりと語る。
居合わせた格闘オタクたちが、固唾を飲んで次の言葉を待つ。
時が来た。
ただそれだけであった。
『私には、もう何も説明するべき事は残されていません。
そう! これが最後のガンプラ・ファイトォ!』
取ってつけた眼帯を剥ぎ取り、MS少女が叫ぶ。
その言葉に今、新たな意味が加わった事など、知る由も無く。
『みなさんご一緒にィ――ッ!!』
「「「「「「 レ デ イ ィ ィ ィ…… 」」」」」」
「「「「「「 ゴ オ オ オ ォ オ オ ォ オ ォ ―――ッ!!!!」」」」」」
観衆が叫んだ。
救い難き格闘技オタクたちが、世界各地で同時に叫んだ。
ドゴン、と一斉に篝火が架空の天を焦がし、二体のファイターが舞台へと飛び出した。
・
・
・
コロッセオに踏み込むと同時に、篝火の白がリオの網膜を灼いた。
割れんばかりの大歓声が、リーオーの鼓膜を潰した。
(どこだ、レン)
一つ頭を振るう。
すぐに光は去り、テレビ顔が仮初の闘技場を映し出す。
だが、観衆の絶叫は過激さを増し、尚ガンガンと少年の脳みそを敲く。
(!)
気が付いた時、リ・ガズィは既に一足一刀の間合いの内にまで踏み込んでいた。
ぬるりと体を沈めた極端な前傾。
開幕の熱狂に紛れ、最短距離をまっすぐに来た。
「パクリやがった……、臆面も無く」
ポツリ、とモーラがこぼす。
その声もすぐに熱狂に消える。
ぶわっ、と熱風を孕んで真紅のしゃぐまが踊る。
打撃の距離など、既に無い。
「ちィ」
たまらずリーオーが跳んだ。
後方は壁、逃げ場はない……、水平方向には。
だからリオは、高さを使った。
ヒライ謹製の黒い地金の足先で、壁面を垂直に蹴ってリ・ガズィの上を取った。
「ジャアッ!」
真上からの足刀。
アムロは止まらなかった。
振り向きもせずに前方に跳び、必殺の間合いから逃れる。
息つく間もなく体が入れ替わり、今度はアムロが壁を背負う。
迷わず打ち込む、リーオー左の正拳。
刹那、ふわり、とアムロが動いた。
ブリッジでもするかのような大仰なスウェーで、リーオーの拳をかいくぐり、そのまま真下から突き出された左腕へと飛び付いた。
腕拉ぎ? 三角絞め?
否。
奥襟に絡み付いて来たリ・ガズィの右脚に、ぐっ、とリーオーの頭部が引き摺り込まれる。
成程。
このまま空いた左膝を顔面にブチ込む。
それで意識を飛ばして、そのまま、肩、肘を……。
何と言う――!
「オオッ!」
リーオーは退かなかった。
踏み込んだ勢いのままに前に出て、リ・ガズィを左腕ごと壁面に叩き付けた。
「カハッ」
呼気が洩れ、壁に押し付けられたリ・ガズィの上体が、必然的に折れる。
間合いが潰れる。
左膝を顔面に放り込む為の間合いが。
体を倒し、リーオーの肘を伸び切らせる為の間合いが。
それでも尚、リーオーはじりっ、と足を寄せ、リ・ガズィの背を畳んで間合いを詰める。
射程に捉えた。
左より2センチ長いリーオーの右腕が、リ・ガズィの顔面をぶっ叩くのに丁度良い距離――。
「カァッ!」
「グァ」
アムロが蔓を捨てた。
両手で壁を支え、窮屈な体を極限まで畳んで、弾かれたバネのごとくリーオーをハネ上げた。
奇しくも、根平の時の攻防の再現であった。
「チィァ」
よろめく左足で砂を掴み、高らかと蹴り上げながら後方に転がる。
ザシュ、と舞い上がった砂塵が、リ・ガズィの機影をすっぽりと覆い隠す。
体勢はリ・ガズィ有利。
来る。
来るのか?
いや……。
砂が地に落ちる。
アムロ・レンの選択も、待ち。
くっ、と柔らかく膝を落とし、爪先立ちでリーオーの強襲に備えていた。
間合いの外。
ほお、とようやく観衆から吐息が漏れる。
「――この間よりは、ちぃとはマシになったんかいの?」
「寝てたワケじゃあねえからな」
短く言葉を交わす。
思いのほか、アムロの機嫌が良い。
そうだろうとも。
俺達はそう言う生物だ。
そう思うと、知らず、平静であるべき心臓が弾む。
「そいなら、これはよ――?」
「――!」
ピン、と姿勢を正し、リ・ガズィが正面のリーオーに向け、ばさりと『扇』を広げた。
ぴくん、とリオの背筋に電流が走る。
あれだ。
ぬるりと掴み所の無い、鵺のような歩調。
野生の虎をブン投げた幻影の捌きで、空手家、ナガラ・リオを試そうと言うのだ。
(試験官きどりかよ……、どこまでも)
舌打ちが漏れる。
だが、この状況は危険。
攻めるともつかぬ足取りで間合いを詰め、敵の反撃を誘い、後の先を取る。
安室流の神秘、その唐繰りを未だ見切れずにいる。
と言って、委縮すれば容易く先手を取られるのみである。
(それでも、そいつは流石にひけらかしすぎた)
武術家が、手の内の全てを曝す時は――。
亡父が言った。
そう、相手か自分の、どちらかが死ぬ時だ。
その鵺の足取りは、幾度と無く目にしたものだ。
一度目は根平の道場で。
二度目はハリマオとの戦いの最中。
あまつさえ、直前の試合で他流のモーラが仕掛けるのを許してすらいる。
(俺だったら、最初の時に終わらせてるよ)
そうだ。
初太刀で殺す。
わけも分らぬ内に。
いかな無欠の奥義であっても、衆目に曝せば、いずれは欠ける。
対策されてしまう、どうしようもなく。
リーオーが動いた。
すっ、と気持ち右脚を引いて重心を乗せ、背筋を伸ばして両の掌を柔らかくかざす。
ぴくり、とアムロの片眉が吊り上がる。
前羽の構え。
頭部を引いて相手を俯瞰し、備えた両手で捌き、落とし、あるいは迫る相手を前脚で撃墜する。
絶対防衛の姿勢。
それを今、リーオーがリ・ガズィに対し示した。
(……空手に先手無し、じゃったかのう?)
出典の怪しい言葉を思い出しながら、つらつらとアムロが歩を進める。
おぼろげな知識によれば、それは、空手の型が全て受けから始まる事を意味していた筈だ。
攻めるための技術では無く、不当な暴力から身を守るための手段、と言う訳だ。
アムロの使う鵺の歩調は、奔放な安室の女の足取りを、篤人流が立ち合いに加えた物である。
攻めの枕でありながら、本質としては囮であり、陽動。
一方、リオの前羽の構えは、専守防衛の型。
双方の性質上、先に動いた方が、絶対の不利を背負う局面となる。
だが、アムロが間合いを詰め続けなければならない以上、千日手には陥らない。
いずれどちらかの受けが間に合わなくなり、拳を繰り出す所となる。
打つか、打たざるか。
そのギリギリのせめぎ合いの中に、リオは勝機を見出そう、と言う訳だ。
(じゃがのうリオよ、そいつは、うぬの性ではあるまいに)
アムロが内心でほくそ笑みつつ、ゆるゆると間合いを詰める。
空手に先手無し。
なれど永樂流空手は、古流の否定から始まっている。
奇襲、陽動、撹乱、力攻め。
攻めるにせよ守るにせよ、先ず積極的に戈を
剣質で言えば、殺人刀。
今のリーオーの構えは、急場凌ぎが見え透いている。
虎徹とは名ばかりの付け焼刃に過ぎない。
ゆらり、と一足一刀の間合いに爪先がかかる。
空気の密度が一段上がる。
ここで思わず脚が固まれば、たちまち渾身の前蹴りが跳んでくる事であろう。
そんな危うい綱渡りが、アムロは好きだ。
くっ、と更にテレビ顔が近付く。
何を打っても当りそうな距離。
ここで突如、こちらから打って出たなら、どうじゃ?
ちらり、と瞳で合図する。
リーオーは、不動。
忌々しい。
いい加減、双方の指先が触れ合わんばかりの間合いである。
よくもまあ堪えたものだと、心中で呆れる。
おい、リオ、分かっとるんぞ。
お前、もう何をやっても凌ぎきれんじゃろ?
手を出せば当たる間合い。
ただ、リーオーより先に動くのが癪なだけだ。
とは言え、そう強がってもいられない。
ここから先はアムロにとっても、死線。
先に打たねば、死ぬ。
行くしかない。
それをおくびにも出してはならない。
かかりの呼吸を読まれれば、やはり、死――
クソ!
なんでこいつは微動だにせんのじゃ?
不気味。
危険。
愚鈍。
しかし。
ままよ――
「ちぇィァ!」
リ・ガズィが動いた。
左の鉄菱。
狙いは正中線、胸骨の中心。
そこを傷めている事は先刻承知だ。
当れば、必殺。
目を瞑っていても当る距離。
リーオーは、それでも動かなかった。
絶対防衛圏たる両掌をすり抜け、しなやかな拳が胸元に突き刺さる。
ドン、と。
当った。
拍子抜けするほどに、あっさりと。
……拍子が、抜けた。
攻防の
刹那、 ぞ く り と、戦慄がアムロの尻穴から脳天まで一息に駆け抜けた。
クソッ!?
こんたわけ!
何と言う事を!
残心。
無理。
この間合い。
脱出。
もう遅い。
兎に角。
しかし。
「がァッッッ!」
リ・ガズィの両足が地を離れた刹那、リーオーの右掌底が脇腹を強かにブッ叩いた。
みしり、と肋骨が鳴いて、ベクトルが横方向へと変わる。
くの字に折れたリ・ガズィのボディが、ゴロンゴロンと砂地に塗れる。
体勢を立て直そうと片膝をついた刹那……
「ギャガッ」「ンッゴびゃッ」
ナガラ・リオが血泡を吐いた。
アムロ・レンが晩飯を撒き散らかした。
絶叫が闘技場全体を包み込む。
空気が再び動いた時、戦士たちは死線に突入していた。
(畜生!畜生!畜生!畜生!畜生!)
脳味噌が沸騰する。
空になった胃袋が痙攣し、酸っぱいものが鼻孔を焼いて両穴から噴き出す。
如何ともしがたい激痛。
もう二度と、死んでも浴びたくなかった激痛。
どうしようもない。
ただ、視界の隅に、同じように這い蹲ったリーオーの姿が見えたのは幸いだった。
後頭部を踏まれる心配だけはしなくて済む。
(あんガキ……、何と言う事を)
考えやがる。
胃酸に塗れた唇が、屈辱に震える。
結局、アムロの見立ては正しかった。
前羽の構えは、所詮、ハリボテ。
リ・ガズィの攻撃を捌くつもりなど、毛頭無かったのだ。
かと言ってモーラ鬼灯のような、肉体に物を言わせたハードバンプとも、また違う。
……死ぬつもりだった。
アムロ・レンが自分を殺した次の瞬間にだけ、必殺の呼吸がある事をリオは知っていた。
死んで尚、自分の肉体は動くと盲信していた。
肉体への絶対的な信仰。
悪くても、相打ち。
事と次第によっては、浮かぶ瀬もあるかもしれない。
アムロ・レンを強敵と認めた上で構築された、狂気の中の最善の理論――。
(冗談じゃない!!)
アムロ・レンの、何とは無しの直感が、二人を救った。
必殺の間合いに踏み込んで尚、アムロの本能は疑念を抱いていた。
最後の最後でアクセルを踏み切れなかった。
結果、リ・ガズィの左拳は僅かに浅く、リーオーを仕留めきれなかった。
結果、跳躍が間に合い、右の直撃を浴びずに済んだ。
「……あい、変わらず、いいガン……じで、ンな……」
「~~~ッッ
ざけ、な、たわけッ! 誰がうぬと、心中、なンぞ、よ……!」
「残念だバ」
短く血泡を吐き捨て、リーオーが動く。
動く?
阿呆か。
今すぐにでも死にそうな、あのツラで……。
いや。
やはりアイツは、手を上げたのか。
期を見るようになった。
ナガラ・リオは一度死んだ身。
先ず死んで、それからリ・ガズィの拳によって甦った。
ツイている。
捨てて拾った儲けもんの命を、惜しみもなくブツけてくる。
アムロは違う。
当らぬ筈の拳が、当ってしまった。
戦慄している。
動揺している。
肉体が、魂が急速に死に近付いている。
泣きたい。
とにかく
痙攣する上体を、むりやり引き起こす。
その時点で、リーオーは既に眼前まで来ていた。
腹。
分かってしまう。
子供にだって分かる。
とにかく、今、腹パンはまずい。
胃袋が口から飛び出してしまう。
防御。
左腕を差し込み、防ぐ。
――ゴッ
「~~~ッッッ」
畳んだ左腕の上を、意図的に右拳でブッ叩かれた。
鈍器のような空手家の右拳で。
肘口を走る電撃が、激痛と化して脳髄を焼く。
リ・ガズィ自身の左肘を上から押し込まれ、アムロの肋骨が、内臓が窮屈に哭く。
痛い!
痛い!
痛い!
そりゃあそうだろう。
人間凶器。
華奢で指先で人間を叩く事を前提として、鈍器と化すまでに叩いて鍛えた空手家の拳。
ハンマーで骨をブッ叩かれれば、どんな場所でも痛いに決まっている。
防御など、何の意味も為さない。
むしろ、こんな打撃に耐え続けるプロレスラーがどうかしているのだ。
「ジャッ」
空いた間合いに、下からリーオーの右脚が跳ねあがって来た。
反射的に腰を引く。
瞬間、黒い地金の爪先が刺突に変わる。
やはり狙いは、腹。
しつこい。
防ぐしかない。
両腕をクロスして、受ける。
モウヤメヨウヨと、嘆く左腕を盾にして。
「……ガッ!」
否応なく吹っ飛び、リ・ガズィの装甲が壁面に叩きつけられる。
背筋の痺れが、全身の激痛に共鳴する。
体を畳み、這うようにして袋小路から逃れる。
その先に廻り込む様に、リーオーの左足が、なお迫る。
左手を差し込み、かろうじて凌ぐ。
勢いのままに大地を転がり、砂に塗れる。
とにもかくにも、護身術。
形は問わない、生き延びぬ事には話にもならない。
それにしたって、マズイ。
リーオーの肉体が、回転を増している。
蹴り足に力が漲りつつある。
虎の子が、蘇りつつあった。
モーラ鬼灯の言葉、今なら良く理解できる。
ナガラ・リオの拳、確かにこわい。
死ぬまで止めぬ、死んでも止まらぬ空手家の狂気。
死中に活。
己が命を的に賭け、ナガラ・リオは流れを掴んだ。
同じ死にかけの肉体でありながら、今や二人の均衡には、日出と日没くらいの隔たりがある。
アムロ・レンは、沈みゆく太陽……。
(……じゃがのう、リオよ。
うぬは本当に知っとるのかや?)
リーオーの拳に、成す術も無く打たれながら、思う。
(
アムロ・レンは知っている。
身を切るほどの水の冷たさ。
吐く息までもが凍えるような、清澄な世界――。
死。
夢か、現か?
風を斬って、リーオーの巻き蹴りが迫る。
受けに回ったリ・ガズィの両手が、パン、と爆ぜる。
灼けるような痛みと熱が、次の瞬間には、しばれる大気に、指先の感覚ごと奪い取られて行く。
ちらちらと舞い散る雪が、視界を染める。
観衆の絶叫を吸い込んで、なお、白く。
血液が熱を失い、感情が徐々に凍りつく。
リーオーの拳が、遠い。
左よりも2センチ長い筈の右腕が、遥か虚空を隔てて、どこまでも遠ざかって行く。
「のう? リオよ、それでも、お主は……」
ぽつりとアムロが呟く。
その声も、もはや、届く筈もなく……。
リーオーの肉体が、躍動していた。
鋼鉄の筋肉に力が宿り、弾かれたバネのように一直線に飛びかかる。
観衆の熱狂が、ビリビリと少年の全身を叩く。
だれもが予感しているのだ。
決着の、気配。
けれど今、ナガラ・リオは追い詰められていた。
「シャッ」
渾身の巻蹴り。
受け手ごと体勢が崩れ、リ・ガズィが横に転がる。
更に右の前蹴り。
パン、と両手を弾かれ、リ・ガズィが力無く体を泳がせる。
アムロ・レンは、今や完全に死に体である。
かろうじて受け、かろうじて逃げている。
あと一息、この一太刀を打ち込めたならば決着が付く、それは分かる。
その一太刀が、遠い。
限り無く近付けはすれど、到達しない。
あるいは、永遠に。
さながらアキレウスと亀のように。
蹴り込んだ爪先から、情熱が奪い取られていく。
叩き込んだ指先から、情熱が奪い取られていく。
背中を流れる汗が、別人の物のように冷たい。
魂の炎が、消えかかっている。
ほんの十秒か、そこら前まで、自分は肉体は炎であった。
アムロ・レンに対して、激昂していた。
なぜ使わない。
女帝、モーラ鬼灯を一方的に蹂躙した、アレを。
このまま何も試さずに死ぬのか?
それは、あの根平の夜に対する、重大な裏切りではないか、と。
それが今は、己の勘違いであった事に気付いている。
足りないのはいつだって自分の方だ。
単純に、自分の力量が達していなかったのだ。
アムロ・レンの、ニュータイプの修羅場が見れる領域にまで。
今は、少しずつ近づきつつある。
生と死の狭間。
おそらくはそこに、アムロ・レンの世界がある。
肉体が震えている。
長年培った武が、警鐘を鳴らしている。
これ以上は危険だ、踏み込むべきでは無い、と。
(馬鹿か!)
一喝する。
あと一撃。
手でも、脚でも、頭でも、どれか一つが当たりさえすれば、それで勝負は決する。
それが全てだ。
リーオーにバスターライフルはない。
ドーバーガンも、生憎と今は持ち合わせていない。
頼れる物は、空手だけ。
ならば、なっちまえばいい。
空手に、日本刀に、リーオーになってしまえばいい。
下らぬ思考は、全てが邪念だ。
ただ、無念無想に、遮二無二打ち込む。
最速で。
最善で。
最短で。
最高の、拳。
それが、今、アムロ・レンを――、す り 抜 け た。
(……!)
ふぁさ、と、根平の潮を孕んだしゃぐまが、ナガラ・リオの頬を撫ぜた。
少年に感じ取れたものは、それが全てであった。
気が付いた時、アムロ・レンは背後にあった。
背中合わせに、リーオーの背後に立っていた。
人は、霞では無い。
拳がすり抜ける事など、ありはしない。
ならば単純に、レベルが違うのだ。
すり抜けた、と例える事しか出来ない次元で、正拳を外された。
「キャラァ」
思う間もなく動いた。
左の裏拳、それも虚しく空を切る。
だが、今のは分かる。
向こうも踵を返し、体を屈めてこちらの拳を避けたのだ。
まだ、そこにいる。
リーオーの射程圏内に。
振り向きざま、故に打ち込む、渾身の――
――次の瞬間、ナガラ・リオは空を見ていた。
大小様々なビーズを散りばめたような、架空の夜空。
視界の端が、篝火の光で橙にそまっている。
きらり、と一つ、星が流れる。
アムロ・レンの鎖骨に打ち下ろされる筈だった、右の下段突き。
それが今、真っ直ぐに満月を打っていた。
なんだ?
何をされた。
ふっ、と重力を失っていた。
中空を漂っていた。
観客の声が、全身を容赦なく叩いていた。
「ガァッッ!?」
不意に大地が来た。
強い衝撃が背中を叩いた。
息が詰まり、全身に痙攣が走った。
それでようやく分かった。
リ・ガズィに……、吹っ飛ばされたのだ。
受け身など取れようはずも無い。
痺れる全身に鞭打って上体を起こす。
半身を取って静止したリ・ガズィの姿。
遠い。
ゆうに4、5メートルはあろうか。
あそこから、吹っ飛ばされたというのか。
酷いダメージを負うわけだ。
だが、どうやって?
力士でもあるまいに……?
前面にかざされた、リ・ガズィのしなやかな手。
痛みも忘れ、ぞくぞくと背筋が震える。
(まさか……、
アレ。
合気。
危害を加えようと打ちかかる敵。
その、攻めの枕を押さえる。
打ち込まれた十の力、それに加えられた返しの力。
敵は、十プラスアルファの威力をまともに受け、吹っ飛ぶ所となる。
理論上存在しうる、武術の神秘。
理論の中にしか存在しえぬ技。
ゆえに、神業。
それをアムロは、実践でやった。
ふわり、と炎のようなしゃぐまが浮いた。
リ・ガズィが、アムロ・レンが動き始めた。
悠然と、平然と、超然と。
場所も、時間も、リオの存在も忘れたかのように、ゆるり、ゆるりとアムロが廻る。
痺れる体に活を入れ、リーオーが体を起こす。
深く息を吐いて呼吸を整え、ぐっ、と上体を持ち上げ、そして……。
そして、しかし、構え、られない。
肉体が、構えを取ってくれない。
両腕を、円を描くように廻した、天地上下……、違う。
膝を落とし、スタンスを水平に取っての、脇……、違う。
重心を後ろに乗せつつ、踵を浮かせての、猫足……、違う。
両掌を前方にかざし、金城鉄壁に備えた、前羽……、違う。
かつて見た、掴み所のない安室流の歩法。
当たるとも、当たらぬとも分からぬ鵺ような動き。
今のアムロの舞は、更にその上を行っている。
分かってしまう。
何を打っても、何をやっても返されてしまうと言う、絶対の事実が。
(……こいつが、本物の武、ってわけかい)
じわり、と額に汗が滲む。
敵の攻撃を読み切る、受け、捌き、そして返す。
それだけではまだ、武は五十点。
分からせる。
打つ前に利かぬと、当たらぬと、返される、と。
そうすれば争いは生まれず、敵は敵では無くなり、己が足で家路を踏める。
(モーラ鬼灯は、これをやられたってワケだ)
だらりと両腕を下ろし、困ったように夜空を見上げる。
戦いの中で戦いを忘れてしまった両雄に、ざわざわと戸惑いの声が漏れる。
(月……)
幼い日、父の背を追い、一心不乱に修行を続けた、幼き日々。
月はいつでもそこにあった。
架空の空でも、月は月だ。
今一度、虚空の父に問う。
自分はどうするべきであろうか?
敗北を知ったのであれば、素直に降参し、相手の技の素晴らしさを称える潔さを持つべきなのであろうか。
……何かを、忘れているような気がした。
空手は全局面闘争術。
ありとあらゆる状況に対応できる技術を、血の一滴、骨の一欠け、細胞の一片に至るまで叩き込まれてきた。
今日のような場面に最も有効な一手が、何か一つ、残されていた筈だ。
振り返る。
思い返す、父の言葉。
そう。
「……死ねば良い」
ぽつり、と口を突いて言葉が漏れた。
自然、リーオーが動いた。
呼応するように、リ・ガズィの舞が止まった。
ざわり、と観客が震える。
ナガラ・リオの選択は正拳。
左足を前に半身をとって、大きくスタンスを開ける。
左手は柔らかく前方に添えて露払いに。
右手は拳を作り、捻りを加えた腰元に備える。
右の拳を真っ直ぐに叩き込む、それ以外の選択肢が無い構えである。
(……今日は、死ぬには良い日だ)
口中で呟き、じわり、じわりと、爪先でにじり寄る。
呟いた分だけ、体がふわりと軽くなった。
随分と、下らない思い違いをしていたものだ、と思う。
何をやっても通用しないと言うのならば、もう悩む必要など何も無い。
空手家、ナガラ・リオの人生の最後に、一番試してみたい技を一つだけやれば良い。
そして、何か一つ、と言うならば、これしかない。
右の正拳。
幼き日、勢い盛んな三来会の道場で、初めて拳の握り方を習った技。
魔物の潜む闇の中で、倒れる筈も無い樫の木に、泣きじゃくりながら打ちつけた技。
空手道にとっては、技術と言うより、象徴。
分厚く異形と化すまでに鍛え抜いた、みちみちと膨らんだ掌。
左腕より2センチ長い、ナガラ・リオの牙。
ヒライのリーオーは、それらの歴史を、余す所無く形にしてくれている。
この拳に、全て捧げれば良い。
己の青春を、人生を、思いの丈を――。
「……ちィとばかし、遅かったぞ、リオよ」
物皆動かぬ絶対零度の領域で、アムロ・レンがぽつりと呟く。
右の正拳突き。
上段、中段、下段……。
何が来てもカウンターが取れる。
一撃必殺。
永樂流空手の理想形。
けれど、理想は理想。
小回りを殺したあのスタンスでは、容赦なくフットワークに翻弄され、左のジャブを浴びよう。
指先よりも遥かに長い足先に対し、正確に合わせ、前に出る事など叶うのか?
地を這うように迫るタックルに対し、拳の制空圏が触れ合う刻など、寸毫もあるまい。
理想の中にしか在り得ぬ理想形。
ナガラ・リオはそれを選んだ。
盲信であろうか?
いや、永樂の空手は実戦主義。
現実に見合わぬ夢など見るまい。
ならば、狂信であろうか?
それも違う。
アムロ・レンはリーオーを通し、ナガラ・リオを見ていた。
地を這うようににじり寄る爪先を見ていた。
適度に緩んだ、柔らかな構えを見ていた。
わずかに微笑を携えた、色素の薄い蒼い瞳を見ていた。
とくん、とくんと、淀みなくリズムを刻む心臓を見ていた。
その肉体の奥に広がる、無限に澄んだ蒼穹を見ていた。
強いて言うならば、殉教、であろう。
この拳が、森羅万象の理に寄り添うならば、東から昇った太陽が西の空に沈むように、淀みなく相手の胸を打つ事であろう。
もしも、当たらぬならば?
その時リオは、空手を抱いて死んでいる。
いずれに転んでも、先の事を心配する必要は無い。
「……今更、じゃの」
リ・ガズィは、だらりと無形。
ただ淡々と、リーオーの迫る刻を待つ。
潔くも全てを投げ出し、たった一つだけ残った、リーオーの構え。
あの構えを、もう少し前にやられていたら、どれほど怖かった事であろうか。
どれほど心が震えた事であろうか。
どれほどに胸が昂ぶった事であろうか。
今はもう、心に波風は立たない。
あと、十秒かそこらか。
頃合を見て前に出て、打つ。
それで戦いは終わる。
予測でも予知でもなく、今のアムロには、刻が見えている。
ただ、あの拳を向けられた恐怖を、感動を、興奮を分かち合えぬ事が、悲しかった。
リーオーのテレビ顔が、至近にまで迫っていた。
時間であった。
今更に、気付く。
空手家、ナガラ・リオの、愚直なまでの潔さ。
それを、どれほどに憎らしく想っていた事か。
どれほどに妬ましく想っていた事か。
どれほどに好ましく想っていた事か。
「さよならじゃ、ナガラ・リオ」
おもむろにリ・ガズィが前に出た。
そこ以外にはないタイミングだった。
リ・ガズィの仕掛けが刹那でも早ければ、たちまちリーオーは身を翻し、返しの正拳を叩き込んでいた事であろう。
刹那でも遅れれば、リ・ガズィは間に合わず、リーオーの拳に打ち抜かれていた事であろう。
リオの意識が、守りから攻めへと傾く、在るか無いかの意識の間隙。
そのタイミングでリ・ガズィは動いた。
しなやかな指先が拳を作り、ポン、とリーオーの胸元に重なった。
瞬間、そこにリーオーの全重量が乗った。
ナガラ・リオの青春が乗った。
リ・ガズィの関節の連動が乗った。
ゴッ、と一つ、鈍い音が鳴った。
合気、左の寸打。
リーオーは再び中空に投げ出され、やがて、ずしゃり、と大地に沈んだ。