ガンプラ格闘浪漫 リーオーの門   作:いぶりがっこ

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群狼編
空手家 永樂莉王(ナガラ・リオ)①


 ――カラン、コロン。

 

 下駄が鳴る。

 東洋の大都会、東京のコンクリートジャングルに、時代遅れの乾いた下駄の音が響く。

 年季が入った洗い晒しの空手道着に、黒の学生服を肩で羽織っただけの後ろ姿。

 身長はようやく160cmを越したかと言う、未だ成長途上の少年である。

 伸ばすに任せた蓬髪さえ何とかすれば、相応にあどけなさの残る面立ち。

 だが容貌に反し、やや色素の薄い瞳が、まるで青白い鬼火のように慧々と暗い光を放っていた。

 

(今日は、死ぬにはいい日だ)

 

 時折、すれ違いざまに広がる、むわっとした獣臭が、奇抜なコスプレに見馴れた筈の通行人たちをも振り向かせる。

 そんな周囲の視線を気にするでもなく、飄々と肩で風を切って歩く。

 

 軽妙な下駄履きの足音が、スクランブル交差点の手前でピタリと止まる。

 ほどなく周囲より上がった歓声に反応し、少年が碧い瞳を上空に向ける。

 その視線の先、摩天楼に設けられた巨大なオーロラビジョンには、広大な宇宙に煌めく閃光と『Live』の文字。

 そして漆黒を切り裂いて火花を散らす、二体の人型ロボットの姿を映し出しだしていた。

 

(……ガンプラ、バトル?)

 

 熱狂に取り残された茫漠とした瞳が、記憶の底にあったキーワードを掘り起こす。

 眼前で映し出される光景は、無論、現実の宇宙戦争では無い。

 

 かつてプラフスキー粒子なる発見により実現したと言う、プラモデル同士の真剣勝負。

 オーロラビジョンはその大会の一幕を映し出しているのだ。

 

 妙な居心地の悪さに、少年がキョロキョロと視線を泳がせる。

 憧憬、眩い瞳でオーロラビジョンを見上げる、人々の顔、顔、顔――。

 老いも若きも、男女の別も無い。

 ただ時代外れの下駄履きだけが、その場の一体感から取り残されたように、独りであった。

 

 無論、少年とて化石では無い。

 人々の瞳の輝きに共感は出来ずとも、ある程度なら理解も出来る。

 

 オーロラビジョンが煌めき放ち、一条の光が虚空を走る。

 製作者の創意が宿った、世界にただ一つだけの、ビーム・ライフルの光である。

 純白の機体が鮮やかに翼を広げ、舞うようにして閃光を避ける。

 熟練の指先が為した、人機一体の動きである。

 

 自らの手で、あれほどの機体を生み出せたならば、どれほど楽しい事であろうか?

 自らの機体を、あれほど自由に躍らせる事が出来たならば、どれほど震える事であろうか?

 

 ガンダムと言う作品世界について、何一つ知らない少年ですら、そう思う。

 ましてや、シリーズを愛する全ての人々にとっては、正しく夢の実現に違いあるまい。

 

 事実、今日においてガンプラは、世界の中心であった。

 世情に疎い少年は知らぬ所だが、ガンプラバトルは今や、世界で最も注目を集める祭典へと成長を遂げていたのだ。

 三十余年に及び、世界中のお茶の間で愛され続けるTVアニメ「ガンダム」シリーズ。

 そのドラマを彩った数々の名機、MSを、思い思いに作り、自らの手で自由自在に動かせる。

 そんな遊戯が現実に存在したのだから、人々が熱狂するのも無理はない。

 

 とみに近年、ヤジマ商事がバトルに関する業務を引き継いでからは、その傾向が加速していた。

 レギュレーションの細分化で競技としての公正さを図る一方、システムの拡張とガイドラインの充実により、ビギナーからプロまで、個々のニーズに応えられる環境の構築が始まっていた。

 競技人口が増える。

 スターが生まれ、人が動く、金が動く、駆け引きが成熟し、最大の宴が始まる。

 遊戯としての裾野は広く。

 しかし競技としての頂は、なお高く。

 老若男女、誰もが気軽に手に取って、心のままに、思い思いの一時を過ごせる。

 ガンプラバトルとは、まさに現代社会のエデンであった。

 

 ……しかし。

 

 しかし、である。

 

 例えば、一人の男の繰り出す空手チョップが、この熱狂の中心だった時代がある。

 単純な殴り合いを、芸術の域にまで昇華させた競技がある。

「最強の武術とは?」 教室の片隅で、下らぬ激論が交わされた日々がある。

 姿三四郎のような、あるいは空手バカのような無頼が、子供たちのヒーローだった時代がある。

 

 世界、最強。

 何時いかなる時代であっても、男なら、誰もが一度は志す夢がある。

 

 彼らは何処に行ったのだろうか?

 彼らの夢を覚えている者は、果たして、この世界にどれくらい残っているのであろうか?

 

 ふへっ、と少年の口元に自嘲が浮かんだ。

 我ながら、何と言う女々しいひがみであろう事か?

 

 ふっ、と視線を落とし、己が掌を見る。

 まるで猛禽のように、みちみちと逞しく、歪に膨れ上がった指先を見る。

 空手家の拳である。

 少年にとって、それが唯一の財産である。

 

 そうとも。

 この拳が、自分の標だ。

 世界の中心が何であろうとも、今日、死ぬと定めた野良犬には、無縁の話に違いあるまい。

 

 やがて信号が青に変わり、人々の群れが再び動き始める。

 

 その流れに紛れるように、一頭の獣がゆっくりと歩き始めていた。

 その顔には、先ほどまでの笑みは、既に無い。

 ガンプラバトルの事はもう、きれいさっぱりと頭の中から消え去っていた。

 

(――今日は、死ぬにはいい日だ)

 

 ナガラ・リオ(永樂莉王) 十六歳。

 

 カラン、と。

 小気味良い下駄の音が、不意に止まった。

 ギラリと見据えた抜き身のような眼光の先には、年季の入ったビルディングがあった。

 

 【空手道 三雷会館】

 

 入口に掛けられた木製の看板には、雄大な毛筆でそう綴られていた。

 

 

 一昔前、空手界に龍虎あり、そう謳われた二人の男がいた。

 

 共に同門の伝統派空手を修めた男たちである。

 年齢には十ばかりの開きのある二人であったが、彼らは内に秘めた野心を同じくしていた。

 即ち、伝統に塗れ形骸化した空手道を打倒し、自分たちの手で真の近代武術の礎を築く、と。

 

 二人は師の下を離れ、他流派はもちろん柔道、プロレス、拳闘、古武術と言った流儀の別を問わず他流試合を繰り返し、やがて総合空手【三雷会】を立ち上げるに至った。

 

 果てしなく続く研鑽の日々。

 だが歳月は、いつしか二人の立場を微妙に変えていった。

 かつての龍は千人を超す門弟を抱える指導者となったが、そのナンバー2たるべき虎は、相も変わらず一介の武芸者のままであった。

 

 ある夜、龍が言った。

 ルールを作る。

 小難しい屁理屈を蹴散らして、世の万人が理解できる試合の雛形を作る。

 目突き、金的と言った危険な攻撃の禁止。

 防具、グローブと言った万全の対策を前提とした頭部への打撃の解禁。

 体重別の階級制の導入による試合の公正化。

 諸々の試合運びの制定と、それに対応できるノウハウを持った指導員の育成。 

 支部毎にてんでバラバラに行われている三雷会の指導法を体系化して、空手の地位を世界の高みまで引き上げるのだ、と。

 

 虎は激昂した。

 戦いの場に巻き込まれた時、体格の差を言い訳に逃げるのが武術家か?

 実戦において有効な急所攻撃を封じた歪な技術が、総合空手などと呼べるものか?

 言うに事欠いて保護具だと?

 そんな物がまかり通るならば、かつて我々がダンスと揶揄した古流派の方が、まだしも実戦の怖さを理解しているではないか、と。

 

 当時の二人の対立がどれほど凄惨なものであったか、今となっては知る術は無い。

 ともかく幾度かの衝突を経て、虎は幼子を連れて道場を去り、以後、三雷会は空手の代名詞として全世界に名を馳せる所となったである。

 

 

 ――十年。

 

 幼少の日、父に手を曳かれて歩いた因縁の廊下を、下駄の音を響かせ虎の子が往く。

 時折すれ違う視線が不審げに彼を捉えるも、その歩みを咎める者はいない。

 いかに見知らぬ顔とは言え、いかに他流派とは言え、道着は道着である。

 果たし合いだの道場破りだのと言った慣習は廃れて久しい。

 他所の道場からの出稽古、あるいは経験者の入門希望。

 周りの大人の目からは、そのように解釈されていても不自然ではない。

 

(……そんな、モンなのかよ?)

 

 ふっ、と脳裏によぎる嘲り、あるいは失望を即座に打ち消す。

 十年の内に、『武』と言う概念に対する向うの解釈がどのように変質したかは分からない。

 だが少なくとも少年にとって、ここは敵地であり、即ち死地である。

 あの廊下の曲がり角から、突如日本刀で斬り付けられたとしても文句は言えないし、言うつもりもさらさらない。

 そう言った不退転の決意で以って、今日、この時に臨んだ筈なのだ。

 郷愁も失望も、全ては技を曇らせる雑念に他ならない。

 

 正面のエレベーターを避け、脇の階段をゆっくりと昇る。

 辿り着いたフロアーの先で、おもむろに非常口のドアを開ける。

 びゅう、と言うビル風が少年のざんばらな前髪を揺らす。

 錆かけた螺旋階段には、幸い障害となるような物も見当たらない。

 最悪の場合、ここから階下に飛び降りて、そのまま裏路地に紛れることも可能であろう。

 

 鉄扉を閉め、おもむろに後背を振り返る。

 長い廊下の先に見える、両開きの分厚い木扉。

 その先には近代空手の総本山、三雷会の本道場が広がっている。

 ぶるり、知らず体が震える。

 幼き日、初めてあの扉を開けた時の「セイッ! セイッ!」と言う男たちの掛け声が、ビリビリと耳元で残響する。

 

(……死ぬには、良い日だ)

 

 おまじないのように呟いて、自身の中の逸る野獣をかろうじて抑え込む。

 どれほど心中に言い聞かせても、昂る肉体の震えは抑えようがない。

 どだい無理からぬ話である。  

 薄い扉を一枚隔てた向うでは、今も屈強な男たちがその技を磨いて……。

 

(…………?)

 

 妙だ。

 握り締めた扉の取手からは、いかなる熱気も少年には伝わってこなかった。

 三雷会の修練に、休暇の二文字は無い。

 仮に指導員たちの講義の最中であったとしても、刺し貫くような真剣さが扉越しに浴びせられねばならぬ筈なのだ。

 それがまったくの静寂。

 漠然とした不安が、ぞわり、と少年の胸中をよぎる。

 

「……ッ! たのもォうッ!!」

 

 萎えかける心を一喝し、声を張り上げ勢い良く扉を開けた。

 直ちに乱入者に向けて浴びせられる奇異の目、目、目……。

 ぽかん、と場違いに間の抜けた空気がその場を支配する。

 だがその時、少年の視線を釘付けにしたのは、そんな人々の好奇の顔では無かった。

 

「ガ……、ガン、プラ?」

 

 ガンプラだ。

 ガンダムのプラモデルである。

 今や世界中の少年たちを熱狂させてやまない、あのガンダムのプラモデルである。

 

 男たちの血と、汗と、涙が染み付いた懐かしの修練場。

 そこに所狭しと置かれた長机の上には、作りがけのガンプラやニッパーやランナーの類が並び、白帯姿の子供たちが、あるいは作り方の指導を受けたり、あるいは愛機を手本に構えをとったり、思い思いに一時を満喫しているではないか?

 

 畜生。

 じわり、と思わず目頭が熱くなる。

 ここは空手の道場だろう?

 それどころか、伝統派の老人達を片っ端から叩き潰して伸し上がった武闘派集団・三雷会の聖域であるはずだ。

 それが何でこんな目に遭わせられねばならないのだ。

 

「あ~、えっと、君、道場の見学希望者かい?」

 

 うるせえ馬鹿。

 罵倒と同時に飛び出しかけた右拳を必死で呑み込む。

 

「……館長に、ヒノ・イズル(日野入竜)に会わせてくれ」

 

 俯いてぎりりと奥歯を噛み締め、かろうじてそれだけを告げる。

 

「永樂のガキが来た、それだけ言えば伝わるよ」

 

「……はっ?」

 

 学生と思しき黒帯のとっぽい対応に、ぴしり、と青筋が走る。

 

 そうじゃない、そうじゃないだろ馬鹿が。

 他流派の人間が、館長を出せと乗り込んで来たのだ。

 

 目玉を抉るべきだ。

 金玉を潰すべきだ。

 両手両足を圧し折るべきだ。

 

 目玉を抉られる覚悟をしていた。

 金玉を潰される覚悟をしていた。

 両手両足を圧し折られる覚悟をしていた。

 

 目玉を抉るつもりだった。

 金玉を潰すつもりだった。

 両手両足を圧し折ってやるつもりだった。

 

(構う事はねえ、こっちから始めちまえ)

 

 少年の中の野良犬が言う。

 目の前の三下をブチのめす。

 慌ててかかってきた黒帯連中を片っ端から叩き潰す。

 それで館長が出て来るのか、それとも警察が出て来るのかは分からないが、どっちみち三雷会はお終いだ。

 たまたま居合わせたガキどもにはトラウマもんだろうが、それが何だと言うのだ。

 俺がアイツらぐらいの年齢には、そう言った世界の厳しさを、親父から徹底的に叩き込まれていたものではないか? 

 

「……リ、リオ君? ナガラ・リオ君かい?」

 

 自分の名を呼ぶか細い声に、ふっ、と狂気が緩む。

 

「あ、館長、この子がですね……」

 

「……館長?」

 

 少年、ナガラ・リオが、訝しげな視線を眼前の男に向ける。

 中背で痩せ型の、白髪交じりの柔和な顔。

 それは記憶にある仇敵の物ではない。

 三雷会館長、ヒノ・イズルは全てにおいて太い男であった。

 体も、首も、顔も、拳も、声も、そしてその生き方、精神の在り様までも。

 その存在の太さで、ただそこに居るだけで周囲を圧迫するような男であった筈だ。

 

「おお、やはり親父さんの面影がある」

 

 リオの戸惑いを気にも掛けず、男が感極まった声で掌を包み込む。

 その温もりが、不意の少年の記憶の糸を引っ張り出す。

 父と三雷会の関係が未だ良好であった時代。

 確かに今日のような温もりで以って、幼い自分に拳の握り方を教えてくれた人間がいた。

 

「……ハジメさん? 肇おじさんかい?」

 

「覚えていてくれたか。

 ああ、本当に大きくなったな、リオ君」

 

 男が一つ頷いて笑みをこぼす。

 そのお人好しの目尻に、きらりと光るものが溢れる。

 ぎりり、とリオが必死で奥歯を噛み締める。

 

(何をしている! 早くそいつをブッ殺せッ!!)

 

 胸中の野良犬が叫ぶ。

 分かっている、分かってはいるのだ。

 自分が望んでいたのは、こんな茶番では無い、と……。

 

 

「義兄は、前三雷会代表、ヒノ・イズルは亡くなったよ。

 今から五年前、急な脳梗塞で倒れてね」

 

「……そう、でしたか」

 

 十分後。

 通された応接室で、リオは仇敵の死を知らされた。

 

「それで、君の親父さん。

 ナガラ・セイイチロウ(永樂誠一郎)さんは、今はどちらに?」

 

「死にました」

 

 ためらいがちな問い掛けに対し、にべもなくリオが答える。

 ハジメが一つ頷いて嘆息を吐く。

 かつて袂を分かった筈の虎の子が、たった一人で訪ねてきたのだ。

 その答えは想像に易いものであった。

 

 父の死を口にして、リオもまた自らの愚かさを噛み締めていた。

 あの巌のようにそびえ立つ父ですら、死ぬ時はあっさりと死んだのだ。

 いかに全身が生気の塊のような太い男であったとは言え、亡父より十も年長の空手家が、いつまでも健在であろう筈も無い。

 

「――三雷会は、義兄の存在に拠って成り立っていた組織でした。

 その義兄が斃れた後は、本当に色々な事があったよ」

 

 どこか言い訳でもするかのように、ハジメが訥々と昔語りを始める。

 その口から出たのは、いつの時代、どこの家でも繰り返される、ありふれた相続争いであった。

 

 全国に幾つもの支部と、万を越す門弟をもつ法人ともなれば、それはもう途轍もない財産だ。

 事は綺麗事だけでは済まない。

 骨肉の争いだって起こるだろう。

 けれど三雷会は営利企業ではない、武道の看板なのだ。

 偉大な先達亡き後、身内の醜い争いを見せられたのでは高弟たちもたまった物ではない。

 

 ついてくる部下がいる者なら、自分の流派を起こすだろう。

 鴻鵠の志を抱く者なら、別の世界に飛び込むであろう。

 武の崇高さに幻滅した者は、当然空手をやめるだろう。

 そんなどこの世界でもあるような御家騒動の果てに、三雷会はすっかり牙の抜け落ちた道場となってしまったと言う。

 

 その頃、時を同じくして立ち上がった、立ち技最強の格闘技を決めるトーナメント。

 その参戦が致命的となった。

 確かに一時的なムーヴメントにより道場は息を吹き返したものの、それにより三雷会は、武道ではなく、キックボクシングまがいのルールで勝つための技術に教育を裂く事となる。

 そしてTV屋が主導で仕掛ける企画など、所詮は一時的な熱狂に過ぎない。

 ブームが去った三雷会に残ったのは、歪な格闘技もどきの流派に過ぎなかったと言う……。

 

「――武を見世物にするならば、必ずその本質を失う事となる。

 セイイチロウさん、いつもそんな風に言ってたっけな」

 

「それで、ガンプラですか?」

 

「ああ、それでガンプラだ」

 

 恨みがましい視線を真っ向から受け止めて、ハジメが静かに頷く。

 

「実は最近、子供たちの間で格闘技の習い事が流行っているんだ。

 何でもガンプラバトルの大会出場者の中に、格闘技の経験者が多いみたいでね。

 幸いウチの若いのの中にも、そう言うのが好きな奴も多い。

 それで週に何度かは、今日のように子供たちにプラモの作り方を教えていると言う訳だ」

 

「館長、けれどそれでは……」

 

「……これで良かった、そう私は思っているよ。

 もう、生きるだ死ぬだの、斬った張ったが許される時代じゃない。

 どう言ったきっかけであれ、子供たちが武道に触れ、それが少しでも彼らの健全な育成に繋がるのなら、それで十分だと私は思うよ」

 

 そう言い切って、ハジメがじっと少年の手を見つめる。

 未発達な体躯に反し、そこだけがみっちりと膨らみ、ザラザラと角質化した異形の指先。

 人間をぶっ叩くための拳である。

 華奢で繊細な指先の骨で人間を叩く事を前提として、巻き藁を突き、砂袋を叩き、幹を叩き、ブロックを叩き、何度も何度も潰しては再生を繰り返してきた空手家の拳である。

 その指先が常人のそれに戻るには、きっと、鍛えた時以上の時間を要する事であろう。

 

「さて、随分と長話につき合わせてしまったね。

 ここいらでそろそろ始めるとしようか?」

 

「……始める?」

 

「お父上の代からの因縁の決着、それをつけに来たのでしょう?」

 

 訝しげなリオの視線に、困ったようにハジメが苦笑する。

 

「君としては望みが外れた、と言った所だろうが、私もこれで三雷会の代表だ。

 その責任の在り方について、今更逃げるつもりは無いよ」

 

「ハジメさん……」

 

 リオは静かに俯くと、その内にふへっ、と捩れたような笑いをこぼして呟いた。

 

 

「もう始まってるよ」

 

 

 瞬間、ドガッと言う鈍い音を立て、二人の間にあった木製のテーブルが宙を舞った。

 花瓶と湯飲み茶碗が中空に踊る中、立ち上がる木目の壁が少年の姿をすっぽりと覆い隠す。

 ハジメもまた反射的に立ち上がり、半身を取って左手を差し出していた。

 左右に避けるか、或いは押し返すか?

 刹那の選択がその身の生死すらも分か――。

 

「――ッ!?」

 

 バギャッ、と乾いた音が響き渡った。

 木壁を真っ二つに断ち切って、分厚い指先が、ぬうっ、とハジメ喉仏に突き付けられる。

 間を置かず茶碗が割れ、テーブルの残骸が跳ねる音が室内に反響した。

 

 雷光のような一幕であった。

 ハジメは身動き一つとることすら叶わなかった。

 義兄のような天鬢を持たずとも、数十年間、鍛錬を欠かす事の無かった男である。

 例え虎と称された天才の子が相手であったとしても、僅かばかりに残った意地の片鱗くらいは見せられる筈。

 そんな執念すら、今となってはただの耄碌に過ぎなかったと、ハジメは認める他なかった。

 

「……敵討ちだとか、看板だとか、言うんじゃないんです」

 

 指先一つで相手を制したまま、虎の子が哭く。

 どっと、遅まきにハジメの背から汗が溢れる。

 

「ただ、親父の正しさを証明してやりたかった……、一番強い奴の前で」

 

「リオ君……」

 

 呻くように、かろうじてハジメが少年の名を呼ぶ。

 本物だ。

 目の前の少年は、未成熟ながらも空手会の猛虎と恐れられた男の遺伝子を継いでいる。

 

(セイイチロウさん……、なんと、なんと言う事をしてくれたのだ!)

 

 思わず故人への恨み言が胸中にこみ上げる。

 これが三十年前であったなら、少年には、その覚悟に相応しい波乱に満ちた生涯が待ち受けていた事であろう。

 だがハジメ自身が告げた通り、もはや、そんな時代は遠い過去にしか存在しないのだ。

 この若年で異形と化すまでに鍛え込んだ指先を隠して、彼にこの先、一体どのような人生を歩めと言うのか?

 

「帰るよ」

 

 言うと同時に傍らの制服を拾い、クルリとリオが背を向ける。

 ハジメが一瞬その指先を伸ばし、しかし結局何も出来ぬままに手を下ろす。

 カランコロンと、次第に遠巻きになっていく下駄の音だけが室内に残響していた。

 

 

 雨。

 

 雨が降っていた。

 三雷会のビルを出ると同時に降り出した雨は、強くなる一方だった。

 

 濡れるがままに任せ、少年が空模様を見上げる。

 死ぬには良い日であった筈の青空、その爽やかな風はどこにも無い。

 

 強くなり出した雨足を避けるようにアーケードへと逃げ込む。

 視線の先に飛び込んできたのは、ややくたびれた玩具屋のテナント。

 ズラリと立て掛けられたショーケースには、おそらくは店の常連たちが作ったと思われるガンプラ達が、実に綺麗に並べられていた。

 

(ここでもガンプラ、か?)

 

 ふへ、っと三たび自嘲がこぼれる。

 自分の人生に交わらぬもの、そう斬って捨ててからまだ半日である。

 運命の神様と言うものは、よほど無意味な悪戯がお好きなものらしい。

 

 青みがかった瞳が、ガラスの中の作品たちを興味深げに見つめる。

 元より、ガンダムは愚か、娯楽らしい娯楽に触れた記憶すら無い少年である。

 機体の名前など分からない。

 だが、それでも眼前のプラモに込められた、作り手たちの情熱だけは伝わってくる。

 

 原作の再現なのか、意図的にパーツの一部を壊し、その断面までも緻密に作り込んである機体。

 女の子らしいショッキングピンクに彩られ、思い思いのビーズやリボンであしらわれた機体。

 歴戦の兵が搭乗していると思われる、いちいち泥の色で汚された迷彩柄の機体……。

 

 驚くべき事に、それらは全て素人の作品であると言う。

 タイトルを見れば、製作者には自分よりも年下の者すらいるではないか。

 

(世が世なら、俺もこう言った製作者の一人になっていたんだろうか?)

 

 くつくつと、自らの想像力に、一人笑いをこぼす。

 改めて、じっと手を見る。

 人間をぶっ叩くために、まるで分厚い肉の手袋を纏ったかのようになるまで鍛えた指先である。

 この太い指でニッパーを握るのか? ヤスリを掛けるのか?

 接着剤を塗り付けるのか? エアブラシを吹くのか?

 今更出来る訳も無い。

 

「おやぁ? こんな天気にお客さんですか?」

 

 カラン、と入り口のベルを鳴らして、間の抜けた男の声が、横から聞こえてきた。

 ヒョロリと背の高い、丸縁のサングラスにニット帽。

 チェック柄のシャツの上に掛けられた『超級堂』のエプロンが、その男の立場を示していた。

 

「あれれ、もしかしてお客さん、三雷会館の?」

 

「いや、俺は……」

 

「まっ、そんな事はどうでも良いんです。

 胴着姿でずっと表に立たれてるのもアレですし、少し遊んで言ったらどうですか?」

 

「遊ぶ……、ってのは?」

 

「フフ、お客さんはどうも作る方はからっきしのようですからね。

 遊ぶと言ったら一つしかないでしょう?」

 

 戸惑うリオに人当たりの良い笑みを浮かべつつ、男がくいっとサングラスを持ち上げた。

 

「そう、ガンプラ()()()()、ですよ」

 

「…………」

 

 困ったように、リオがアーケードの外に目を向ける。

 降り続ける雨は、しばらくは止む気配を見せないようであった……。

 

 

 

 

 

 

 


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