それは、今から四十年以上も前のことである。
サイヤ人とツフル人の二つの人種が共生していた惑星プラントが、惑星ベジータと名を変えた。
それは惑星プラントからツフル人が消え去り、新たな星の支配者がサイヤ人の王であるベジータ王となったことを意味していた。
満月の夜、それまでツフル人に奴隷のように扱われてきたサイヤ人の集団がベジータ王の指導の下、大掛かりな反乱を起こしたのである。
宇宙で有数の科学力を持つツフル人は持ち前の技術力を持ってこれに応戦したものの、サイヤ人の途方も無い戦闘力は機械や武器程度で対処出来るようなものではなかった。
その強さも、凶暴性も、ツフル人達は彼らのことを致命的に見誤っていたのだ。
少数民族であるサイヤ人に対して、数で大きく勝るのはツフル人だった。しかしその戦争はサイヤ人達の圧倒的な勝利を持って終結し、大猿達の咆哮がツフル人が一人も居ない廃墟に雄々しく響いた。
サイヤ人達は女子供であろうと容赦はせず、一人残らずツフル人達を地上から根絶やしにしたのである。
――しかしその中でたった一人だけ、サイヤ人達の魔の手から宇宙へと逃げ延びたツフル人が居た。
ツフル人一の科学者である、ドクター・ライチーという男である。
ライチーを乗せた宇宙船は、十数年もの間孤独に彷徨った。
食糧もほとんど無い過酷な生活の上、元来肉体的に強くないツフル人である彼は、やがてその肉体を数年足らずで死へと至らしめることになる。
しかし人としての肉体を失っても尚、彼の魂は生き続けた。
宇宙船の中にはまともな食糧は無かったが、彼が生存を続けることが出来る物資はあったのだ。
彼は死ぬ間際に自らの肉体を切り離し、その意識データをある機械へと転送した。
その瞬間、ドクター・ライチーは彼の他にこの宇宙船に積み込まれていた未完成の人型ロボット――地球で言うところの人造人間として生まれ変わり、「ドクター・ミュー」と名を変えて生き続けたのである。
全てはツフル人最高の科学者である彼の宇宙最高レベルの技術力と頭脳、そして自分達ツフル人を滅ぼした戦闘民族サイヤ人への復讐に燃える執念の賜物だった。
ドクター・ライチー改めドクター・ミューは、自分自身の当面の命の危機が去ったことで、来るサイヤ人への復讐に向けて活動を開始した。
そして彼が真っ先に向かったのは、同じくこの宇宙船に積み込まれた一台のシリンダーの元だった。
シリンダーの中で培養されている銀色の物体――それこそが、彼らツフル人達の野望を成就させる為の最後の切り札である。
シリンダー横部にあるコンソールパネルを弄りながら、モニターに表示された数値を見てミューは感嘆の声を漏らす。
「おお……ベビー……」
本星を離れた為に成長に必要なエネルギーの補給が見込めない過酷な環境の中で、銀色の物体は逞しく生命活動を続けていた。
銀色の物体の名は、ベビー。
ドクター・ライチーがプラント星を脱出する際にツフル人の王、ツフル王から託された人工生命体である。
今はまだ卵の状態だが、その内部にはツフル王の遺伝子情報を初めとするあらゆるデータが埋め込まれている。
言わば、ツフル王の転生体だ。
ドクター・ミューとして生まれ変わったドクター・ライチーと同じように、滅びた筈のツフル王の命は人工生命体ベビーとして生まれ変わったのである。
成体まで成長した際に予想出来るその力は、ツフル人を滅ぼしたサイヤ人達の比ではない。伝説上に存在する超サイヤ人であろうと容易く凌駕するであろう、無敵の存在となるのだ。
そして、ベビーの真価はその力だけではない。
他の生物に寄生し、卵を産み付け、寄生した生命体をツフル人として操ることが出来る能力。それは同族が一人も居なくなったツフル人が再び宇宙に君臨する為に、最も必要かつ強力な能力だった。
「ツフル王。このドクター・ミュー、必ずやベビーを完成させ、ツフルの再興を……そして、憎きサイヤ人への復讐を成し遂げてみせます……!」
今はまだシリンダーの中で成長の時を待つことしか出来ないベビーに呼びかけ、ミューは作業を行う。 散っていったツフル王を始めとする全てのツフル人達の怨念が、彼の心を支配していた。
しかし、ベビーの完成に関してドクター・ミューは大きな問題に直面した。
それはベビーの成長に必要なエネルギーが著しく不足していたことである。幾らミューの頭脳が優れていようと、宇宙船の中に積み込まれている数少ないエネルギーと資材では、ベビーの自立行動が可能となる幼生体に成長することすらも難しかったのだ。ミューの予想を大きく上回るベビーの生命力は生命活動を続けるだけならばそれでも何の問題も無かったが、目標が成長となると現状のままでは何年掛かるかわからない計算だった。
他の惑星に漂着し、補給を行ったことはある。しかしそれらの惑星はどこもかしこも文明レベルが低く、惑星プラントのように恵まれたエネルギーを確保することは出来なかった。
事態がようやく好転したのは、それから何年も過ぎたある日のことだった。
ベビーと共にエネルギーを求めて宇宙を旅回っていたその時、ミューは奇妙な惑星と遭遇した。
――機械惑星ビッグゲテスター。
惑星に取りつき、その星のエネルギーを吸い尽くす文字通り機械で構成された惑星。遠い宇宙、捨てられた宇宙船などが漂流している「宇宙の墓場」と呼ばれる場所にあった一枚のコンピュータチップが、自らの能力で周囲の物質を取り込み、エネルギーを吸収することで増殖し肥大化していった惑星だ。
その惑星に内包されていたエネルギー量は、他の有象無象の惑星から得られるエネルギーとは桁違いの物だった。惑星の中枢部ではかつて一枚のコンピュータチップだった物が星のコアとして機能しており、周辺ではドクター・ミューのような機械生命体が闊歩しており、高度な科学力を持って一つの文明を築き上げていた。
ミューは即刻ビッグゲテスターの技術を盗み取ることにした。
そして星のコアからエネルギーを根こそぎ吸収することによって、今まで卵のような状態だったベビーを一気に少年体にまで成長させることに成功したのである。
「おおっ……! 素晴らしい! 素晴らしいぞ、ベビー! よくぞここまで……!」
漆黒の鎧のような膜が全身を覆い、白銀色の光を放つ人型の生命体。有り余るパワーでシリンダーを割って現れた小さな姿に、ミューは歓喜に打ち震える。
ビッグゲテスターのエネルギーを吸収した影響からか、ベビーの姿は完成予想図と比べ大きな変貌を遂げていた。しかし悲願の完成が叶った以上、ミューはその程度のことは問題とは思わなかった。
寧ろ、誕生した新たなベビーはミューが予想していたスペックを全てにおいて大きく上回っていたのだ。
機械と融合することで新生したベビー――さしずめ、メタルベビーと言ったところか。
ミューは彼の前で膝を着くと、ツフルの新たな支配者となった生命体が放つ第一声を従者のように待ち構えた。
ベビーはそんな彼には目も暮れず、何かを探し回るようにキョロキョロと周囲を見回した後、不快そうな響きを含んで言い放った。
「北の銀河へ行くぞ。そこに、サイヤ人が居る」
「ははっ!」
それは、エイジ764年。地球に降り立ったフリーザ親子が、一人の超サイヤ人によって跡形もなく消し去られた日のことだった。
この時ベビーは宇宙船の中から僅かに感じ取った超サイヤ人の気の出元を辿ることで、その場所が遥か遠方の北の銀河にある惑星の一つであることに気づいたのである。
手始めに己の力を確かめるようにビッグゲテスターを破壊した後、ベビーとミューを乗せた宇宙船は一直線に北の銀河にある小さな惑星、サイヤ人の居る地球へと向かっていく。
その心に宿るのは、サイヤ人達への憎悪、憤怒、怨念――同胞達の無念を晴らさんとする狂気の渦だった。
数日の時を経て、彼らは無事に地球へと降り立った。
他の星に寄り道をする必要など、ベビーには無かった。
ビッグゲテスターの高度な科学力を吸収したことによってメタルベビーとして新生した彼の力は、「精神と時の部屋」で修行する前であるこの時点での孫悟空をも大きく超えていたのだ。
この時、地球に降り立った彼らがそのまま孫悟空ら地球の戦士達に挑んでいれば、今頃地球はツフル人の新たな母星として蘇っていたことだろう。
――しかし、ベビーはここで大きなミスを犯してしまった。
地球に来るまでは他の星に寄り道しなかったベビーだが、地球に来てからは初めて出会した一人の地球人に対して、無益な寄り道をしてしまったのだ。
それは、なんてこともない筈のことだった。
この身体にある「他の生物への寄生能力」が少年体である今の時点でどの程度まで扱えるか、その能力を確かめる為の行動に過ぎない筈だったのだ。
「宇宙人?」
……いや、もしかすれば初めて出会したその地球人が、ベビーの中で何となく気に入らなかったからなのかもしれない。
人気の無い草原地帯に宇宙船を着陸させた彼らの前に、その人間は居た。
みすぼらしい格好をしており、見たところ何の力も持っていない地球人の少女だ。
ただその少女は宇宙船の中から現れたベビーとミューを見ても珍しい物を見たように驚くだけで、怯えもしなければその場から立ち去ろうともしなかった。
尊大なツフル王の遺伝子データを持つベビーは、そんな彼女の態度が心底気に食わなかった。
何の力も感じない弱い人間を相手に能力の実験をしようと考えたのも、それが理由なのかもしれない。
「……ふん」
全身を泥状に変えたベビーが、寄生能力を使う為に彼女の身体を覆い尽くそうと迫っていく。
その際、ようやく飄々とした態度を崩して怯えた表情を浮かべた彼女の顔を見て、ベビーは「そうだ、その顔だ」と満足げに笑む。
――安心しろ、お前は死なない。俺に卵を産み付けられ、ツフル人再興の為の第一歩になるのだ。
嬉々として笑いながら、ベビーは彼女の中へと入った。
後は卵を産み付け、外部へと脱出する――それだけの筈だった。
(……なっ!?)
ただ一つの誤算だった。
完璧な寄生生命体となった今のベビーにとって、それは思いも寄らなかったことだ。
――出られない!
寄生した筈の少女の体内から、ベビーは脱出するどころか思い通りに身体を動かすことすら出来なかったのだ。
これではまるで、檻の中に入れられたようではないか。
異変に気付いたのか、いつまで経っても少女の中から出てこないベビーに対して、ドクター・ミューが焦った顔をして詰め寄る。
「どうしたベビー? 何故出てこん。そんな力の無い人間に宿っても仕方無かろう!」
(黙れ……! くっ、何故だ!? 何故こんなガキ一人にこの俺が……!)
まさか、とベビーは一つの可能性に思い当たる。
ビッグゲテスターの科学力によって新生したことで、ベビーはその力を想定よりも大きく向上させた。しかし体質がより戦闘的になった分、元の寄生能力が退化したのではないか、と。
純正なツフルの技術にとって、外部から得たビッグゲテスターの技術は言わば異物だ。パワーが段違いに跳ね上がった喜びからベビーもミューも失念していたが、本来の寄生能力から大幅に退化している可能性は十分に考えることが出来た。
少女の体内でもがくように暴れるベビーに対して、少女の声が穏やかな調子で響いてくる。
「……君、ベビーって言うんだ」
(なに?)
「プラント星から来た、ツフル人? ……そうか、そうなのか」
名乗ってもいない筈のベビーの名を、少女が呟く。
それは今しがた知った知識を、一つ一つ確かめるような口ぶりだった。
もしや、とベビーはその行為に当たりを付ける。
(コイツ、俺の心を……!)
彼女は自らの体内に入り込んだベビーの思考を読み取っているのだ。
ベビーもまた、相手の脳に寄生することによって本来ならば宿り主の思考を読み取ることが出来る。しかしそれとは反対に宿り主の方がベビーの思考を読むなどとは、本来ならば起こり得ないことだった。
「勝手に私の身体に入ってきたのはそっちの方だろう? まったく、エッチな赤ん坊なんだから」
(黙れっ!)
ツフル王の過激な思考パターンと同じ物を持つベビーが、何の力も持たない筈の人間に良いようにされていることに苛立ち、体内で暴れながら罵声を浴びせる。
しかし少女の身体は指先一つとてベビーの思い通りに動くことはなく、さらに苛立ちを募らせるだけとなった。
そんなベビーの思考を落ち着けるように、少女が極めて穏やかな口調で言った。
「……私もね、サイヤ人に家族を殺されたんだ」
ベビーからは見ることが出来ないが、この時少女の目は遥か遠く、手の届かない遠い場所を眺めていた。
そしてその口から、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「お父さんもお母さんも弟も、みんなアイツらに消されて居なくなった。憎いって思ったよ。出来ることなら、私の手で殺してやりたいって何度も思った」
口調は穏やかではあったが、言葉には彼女の中にある確かな激情があった。
その激情は彼女の体内に居るベビーにも行き渡り、彼らは意図せずともその感情を互いに共有することとなった。
「……まあ、結局私の力じゃどうすることも出来ないって諦めたんだけどね。下手な復讐で無駄死になんてしたら、天国に居るみんなに顔向け出来ないもん」
それはベビーにとって、理解出来ない感覚だった。
ツフル王の遺伝子データを元に、ツフル人達の怨念によって生まれたベビーにとって一欠片も存在しないその感覚には恐れすら抱き、それ故にベビーには彼女の言葉に対して「臆病者め」と普段の調子で罵ることも出来なかった。
「でも、今はそれで良かったって思ってる」
(……どういう意味だ?)
気付けば、大人しく彼女の話を聞いているベビーがそこに居た。
その光景は見る者が見れば、癇癪を起こした幼子を母親があやしているようにも見えた。
「心が憎しみに染まっても、君達みたいにはなりたくないってことさ」
自分の胸を両腕で抱きしめながら、少女が優しげに言う。
そして瞬間、彼女の全身を白銀色のオーラが包み込み、肩まで下ろされた黒髪の色も同じ白銀色へと輝いた。
それは、その光景を目前にしたドクター・ミューが行動を躊躇うほどに、美しく、神聖な光景だった。
「……ベビー、君は私だ。君がそこから動けないのは、君の能力が弱くなったからじゃない。多分、私との相性が良すぎるからなんじゃないかな?」
(なんだと?)
「お互いの根っこの部分が一緒だから、離れようにも離れられないんだと思う。寄生というよりも、これじゃあ同化と言った方が良いかもしれないね」
(同化……なるほど。俺の能力は寄生よりも、さらに進化していたのだな)
その時、ベビーと少女の中で心が繋がった。
彼らは一方的な寄生ではなく、お互いがお互いの存在となり、確かな一つの存在となったのである。
ベビーは少女の思考と混ざることで彼女の境遇を理解し、そして妙なシンパシーを感じた。
それは彼女が言う通り、二人が同じサイヤ人に奪われ、激しい憎悪を抱いている者同士である為に心根の部分が似通っていることに起因しているのかもしれないとベビーは分析する。
(……良いだろう。お前は俺だ、地球人。お前が俺になるその時まで、俺はここで待ってやる。どちらかがどちらかの人格に塗り潰されるまで、俺と勝負だ)
「簡単に、私の身体をやるわけにはいかないね……」
この人間が俺と一体化することで俺の存在を封じ込めようとするのならば、このまま暴れ続けてこの人間の思考を俺に染め上げるまでだ。
何の力も無い地球人如きに、ツフルの誇りは敗れはしない!と、ベビーはこの時、初めてこの少女のことをサイヤ人と同等の自分が倒すべき敵として認識した。
――もしもこの時、二人が出会わなければ、地球は人造人間セルが現れる前に大きな脅威を迎えていたことであろう。
それは人知れずこの星を救った、たった一人の地球人の戦いだった。
ライチー=ミューは完全に私の捏造です。