力が欲しかった。
彼らのように、とまでは言わない。ただ私は、自分の運命をほんの少しでも捻じ曲げることが出来る力が欲しかったのだ。
それまで独学で「気」の使い方を学び、か弱い一般人なりに身体を鍛えていた私だが、いつしか自分一人の力では人間のレベルを絶対に超えられないことを思い知った。
だから私は、救世主に縋った。
気を上手く使うことさえ出来るようになれば、私の中に居る「怪物」を封じ込めることが出来ると思ったのだ――。
パオズ山――人里から離れた秘境とも言えるその場所に、孫一家の住居がある。
そしてその一軒家を眼下に、優雅に空を舞う少女の姿があった。
「ふふ、自分の力で飛ぶのって気持ちいいなぁ……」
少女の表情は、見ている方が幸せになるような満面の笑みが浮かんでいた。
舞空術――文字通り、鳥のように空を舞う術だ。尤もZ戦士のような「気」の熟練者が扱えば、鳥などよりも遥かに速く飛行出来る術となるが。
少女が披露している舞空術は幼少時の悟飯の足元にも及ばない速さだが、それでも間違いなく、形として舞空術と呼んで良い完成度だった。
「凄いなぁ、もうあそこまで飛べるなんて」
少女――ネオンの飛ぶ姿を見て、悟飯は純粋に驚きを口にした。
彼が彼女に気の使い方を教え始めてから、まだ二週間も経っていない。ある程度は独学で学んだと言っていたが、ちょっとしたコツを教えるだけで早くもこれだけ飛べるようになったのだから、悟飯の目で見ても彼女は十分に並外れた才能を持っていると言えた。
彼女を一般人、と称するのは少々見立て違いかもしれない。彼女の飲み込みの早さに、悟飯はそう思った。
「ねえねえ兄ちゃん、ぼくもお空をとびたいなぁ」
「うーん、悟天にはまだちょっと早いかな。来年、悟天が五歳になったら教えるよ」
「ほんとう!? やくそくだからね!」
「ああ、約束だ」
自由自在に空を飛び回る彼女を、弟の悟天が羨ましそうに眺める。
四歳の子供にそう感じさせるほど、彼女は「楽しそう」に空を飛んでいたのだ。
日頃の悟飯も彼の前で舞空術を見せることはあるのだが、そう言った舞空術は悟飯にとって「いつものこと」であり、特別意識して行っていることではない。
だからか、彼女のように楽しそうに舞空術をするという姿が悟天には新鮮に見えたのだろう。それで自分もやってみたいと興味を抱くのは、子供として不思議なことではなかった。
思えば自分も、初めて空を飛んだ時は楽しかったなと、悟飯は過去の体験を思い起こす。尤も悟飯の場合は状況が状況の為に、長々と舞空術を楽しんではいられなかったが。
サイヤ人襲来に備えて、ピッコロに修行をつけてもらった日々のことを思い出す。
当時は涙の絶えない地獄の毎日だと思っていたが、今ではそれも良い思い出である。当初、師匠のピッコロは確かに厳しかったが、その節々には悟飯のことを思いやる優しさがあった。
「よっと」
……なんだか、ピッコロさんに会いたくなってきた。久しぶりに神様の宮殿に遊びに行こうか。そんなことを考えていると、空からネオンが悟飯達の前へと降り立ってきた。
「どうだった? 私の舞空術」
「うん、ほとんど完璧だと思います」
「じゃあさ、もうそこそこに気のコントロールは出来てると思っていいのかな?」
「うーん、どのくらい出来ればばっちりって言うのかはわからないですけど、もっと速く飛ぶのでしたら地道に体力を付けていくのが良いと思いますよ」
「思いますよ、か……なんか頼りないねぇ」
「すみません……今まで、こうして人に教えたことがなかったので」
「ふふ、冗談だよ。君のことは本当に頼りにしてるから」
微笑を浮かべながらそう言うネオンに、悟飯は苦笑を返す。
人に物を教えるのはこれが初めてな悟飯にとって、指導を頼りにされるという気持ちは気恥ずかしさもあるが嬉しくもあった。
「三人とも、御飯出来ただよ〜!」
「はーい、今行きます」
「三人?」
すると、悟飯の家から彼らを呼ぶ声が聞こえた。
母のチチの声である。どうやら、気がつかない間に昼の時間になっていたらしい。
しかし、ネオンはチチが「三人」と呼んだことを不思議そうに聞いていた。
「お姉ちゃんも行こ行こ!」
「ネオンさんも食べていくといいだ。修行でお腹減ってるだろ?」
悟天とチチの言葉でようやく自分も頭数に含まれていることに気付いたネオンが、悟天に手を引かれながら孫家の家へと向かっていく。
そう言えば昼食にまで招待するのはこれが初めてだったなと、悟飯は今更ながらに思った。
「お母さんの手料理、美味しいですよ」
「……じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうよ」
ネオンは最初こそ戸惑いの表情を浮かべていたが、チチや悟天の友好的な態度から笑顔で受け取った。
彼女のことを母のチチと弟の悟天に紹介したのはついこの間のことだが、どうやら思った以上に友好的な関係を築けているようだと悟飯は安心する。
……ただ、最近妙にチチからの視線が生暖かいような気がするのは気のせいだろうか。そんなことを考えながら、悟飯は二人の後に続いて自宅へと戻った。
『私に、「気」の使い方を教えてください』
頭を下げられてそう頼み込まれたあの日、悟飯は対応に困った。
しかしむげもなく断ることはせず、とりあえず話だけでも聞いてみようと判断したのは良く言えば彼の優しい性格、悪く言えば押しに弱い性格によるところだろう。
そして、ネオンは話した。「気」の使い方を教えてほしいという話を切り出した、その理由を。
内容を聞いてみれば、至って単純なものだった。
サイヤ人の襲来によって家族を一度に失った過去がある彼女は、今後二度とそのようなことが起こらないように、力が欲しいのだと言う。
外敵を倒す力ではなく、最低限、自分の守りたいものを守り通すことの出来る力が。
彼女は家族を失って以来、彼女なりに力を求め続けてきた。華奢な見た目からは想像も付かないが、彼女もまた格闘技の修練を積み、貪欲に強くなろうとしていたのだ。
そこで彼女は、ある日「気」の存在を知った。
町を消したサイヤ人達のように、空を飛んだり、エネルギー弾を放ったりすることが出来る超常の力。ミスター・サタンなどはトリックと呼んで認識しない、この世のものとは思えない現実離れした力だ。
その力を自分も扱えるようになれば、あの時守れなかったものも守れるかもしれないから……ネオンはそう言って、話を締めくくった。
『私に払える対価なんてろくにないけど、ほんの少しだけでもいいから教えてほしいんだ』
『わかりました! やりましょう!』
『えっ? いいの!?』
彼女の話を聞いて、悟飯は手のひらを返すようにあっさりと引き受けることに決めた。その胸には、熱く込み上がってくるものがあった。
『ネオンさんは凄いです! 家族が死んでしまっても、前を向いていて……感動しました!』
『感動……? 今の話、感動するところあった?』
『はいっ!』
家族を失う理不尽に遭っても塞ぎ込むことなく、今後二度とそのようなことが起こらないように自己鍛錬に打ち込む。口で言うのは簡単だが、その行動は誰にでも出来ることではないと悟飯は思っている。
悟飯もまた四年前に父悟空が亡くなってから立ち直った身だが、それは界王様のお陰で父の遺言を聞くことが出来たからだと思っている。もしもあの時父と何の会話もないまま永遠の別れをしていたら、今でもその死を引きずっていたかもしれない。悟飯にとって、家族の存在はそれほど大きなものなのだ。
その点、彼女は自分の力だけで家族の死から立ち直り、前を向いて生きている。その事実は、なまじ悟飯が純粋であるが故に心に来るものがあった。
『僕でよろしければ、幾らでも教えますよ!』
『暇な時間で、気が向いた時だけでもいいよ? 君の家はちょっと遠そうだけど、連絡してくれればこっちから君の家に行くから。あっ、出来たら電話番号を教えてほしいな。私のも教えるから』
『わかりました。でも、お昼前くらいならいつでも大丈夫だと思います。その時間なら、僕も多分暇ですし』
『あ、ありがとう! 君に会えて良かった』
『……でもネオンさん、僕の家の場所知っているんですか?』
『え? あー……うん、噂で聞いたことがあるぐらいには……』
『じゃあ、これから行きませんか? 僕が連れて行ってあげますよ』
『本当かい? 助かるよ!』
彼女が自分に教えを乞うのは、悟飯からしてみれば困っている人が助けを求めているのと同じだ。これより少し後になるが、母のチチなどは彼女の話に対して涙を流しながら聞いていたものだ。そして悟飯にとっては少々予想外なことにもチチから「ちゃんと教えてやるんだぞ、悟飯!」と快く彼女に指導することを許可してもらえる理由となった。
悟飯自身の都合としては、世界が平和になったことから時間には幾分余裕があった。勉強こそしなければならないが、自分の修行に関しては戦いがあった時ほど身を費やす必要は無いと思っていた。
つまり、この時の悟飯には彼女の頼みを受けない理由よりも、受ける理由の方が大きかったのだ。
――こうして、悟飯は人生で初の弟子を取ることになったのである。
初めて人に物を教えるに当たって、悟飯には苦心したことが多々ある。
特に幼少の頃から戦士として過ごしてきた悟飯は、ネオンのような「普通の」人間に関する常識があまりにも欠けていた。
それ故に、悟飯にとっての常識が彼女にとっての非常識であることに気付かないことも多かった。
その一つが、彼女の住む町から悟飯の家までの道程である。
「最初はビックリしましたよ。噂には聞いていたけど、悟飯クンの家がこんな遠いところにあるなんて思っていませんでした」
「まあ、確かに人里からはちょっと遠いところにあるだな。でも、ここは一番住みやすくていいところだ」
「僕もトランクス君のとこより、ここのほうがいいや」
「……私もそう思います。自然や動物達がいっぱい居て、良いところですよね。このパオズ山は」
大量の料理が並ぶテーブルを四人で囲みながら、悟飯達は団欒を行う。
その話題の一つとして、ネオンが初めてこの場所を訪れた時のことを話した。
「あの時はすみません。あの時、僕がネオンさんを一緒に連れて行かなかったら、ネオンさんのことを遭難させてしまうところでした」
「あはは、私からお願いしたことだし、謝らなくていいよ。それを言うなら移動の時はいつも筋斗雲を貸してもらっちゃって、こっちの方が申し訳ないよ」
人里からこの家までの間はただ遠いだけでなく、猛獣や怪獣が発生することもある非常に険しい道程だ。
それも悟飯達にとっては何の脅威でも無いが、一般人にとっては片道だけでも命懸けな道程だということを、悟飯はその時ネオンから聞かされて初めて知ったものだ。
そこで悟飯は、彼女がここへ来る時だけは雲の乗り物である「筋斗雲」を貸し出すことにした。
これによって道中の危険は無くなり、また飛行機などよりも速く飛ぶことが出来る為に移動時間の問題も無くなったのである。
「でも、まさか私が筋斗雲に乗れるなんて思わなかった」
「悪い奴は乗れねぇ乗り物だからな。でもあれに乗れるのを見て、オラはオメーさのことを認めただよ」
「はは、ありがとう、チチさん」
清い心の持ち主で無ければ乗ることの出来ない筋斗雲に、ネオンは乗ることが出来る。それは即ち、ネオンが清い心の持ち主であるということに他ならない。
最初に会った時から悟飯が彼女に対して警戒心を欠片も抱かなかったのは、そのことが証明する彼女の善性による部分が大きいのかもしれない。恐らく、チチや悟天もそうなのだろう。
そしてそれは悟飯の中で、彼女なら自分が気の使い方を教えたところで悪いことには使わない筈だという確信にもなった。
「モゴモゴ……そう言えばネオンさん。この間貰った本、とても勉強になりました」
「そう? ああいうので良かったらまだたくさんあるから、今度全部持ってこようか?」
「いいんですか!? お願いします!」
「色々教えてもらう対価としては安いものだよ」
「モゴモゴ……ゴクンッ、そんなことはありませんよ」
チチの料理に手を付けながら、四人は穏やかな時間を過ごす。尤も、孫悟空というサイヤ人の血を引く二人の少年の箸だけは、とても穏やかな速さとは言えなかったが。
その光景をチチは微笑ましげに、ネオンは呆気に取られて眺めていた。
「にしても、悟飯クンも悟天クンもよく食べますねぇ」
「二人とも育ち盛りだかんなぁ」
「……後片付け、手伝いますよ」
「それは助かるだ。でもネオンさんはお客さんだ。今回は気にせんでええ」
十三歳と四歳にして、巷のフードファイターが裸足で逃げ出すほどの大食い兄弟である。もしもこの場に今は亡き夫が居れば、さらに混沌とした食卓になるのだろう。しかしこの時ばかりは隣に座る少女の精神衛生上、そうならなくて良かったのかもしれないと一家の母が思っていたりしたが、それはまた別の話である。
――彼女と過ごす最後の平和な時間は、そうして流れた。