剣華と工藤の付き合いは、長いように見えて実は短い。
まだ出会って数年で、彼女と彼が初めて顔を合わせたのはおよその4~5年前だ。
とある九鬼主催のパーティに梁山泊の一員として出席した剣華が、九鬼帝の護衛として会場にいた工藤を見たのが、彼と剣華の――梁山泊との始まりだった。
当時そのパーティに護衛兼使用人として配属されていたのは新米の従者ばかりで、率直に言ってしまえば全体のレベルは鼻で笑われるほど低かった。
護衛に要求されるのは単純な武力はもちろん怪しい人間を見つける洞察力もそうだが、一番大事なのは安全を確保すること。
何か合った時にいち早く反応し、即座に場の安全と護衛対象の安全を確保することである。
いくら優秀な人間でも予期せぬ事態に即座に応対することは難しい。
経験があって初めて人の体は動くのである。知識があろうと体力があろうと脳が動かなければ意味がない。
そう言う意味では会場に居る新米の従者たちは見るからに経験不足で、初めての大仕事なのか緊張に身体が強張ってしまいまったく頼りがいがない。
――――いざという時は梁山泊になんとかしてもらいましょう。
それを言ったのはとある国の要人だった。このパーティーには大勢の上流階級が出席しており、梁山泊もその伝手で招かれていた。
一人が発した嘲笑は瞬く間に会場全体に伝播していき、空気はねっとりとした悪意に満ちていく。
まったく九鬼はこの程度なのかと、百八星の一人が口を滑らせたのを剣華はよく覚えている。
耳をすませば似たような嘲りが方々から聞こえていた。
躍進中の大企業。敵は多く、粗探しには余念がない。最悪それはねつ造してもいい。大事なのは印象だ。九鬼ならばあるいはと思わせた時点で悪意は容易く根を張るのだ。
そうしたい人間にとって、その日のパーティーはこれ以上なく好都合な出来事だった。
ヒューム、クラウディオの双璧はおろか、従者部隊の古強者は誰一人会場にいない。
働いている従者はどれもこれも新人ばかり。
「案外、九鬼もこれで終わるかもしれないな」と、この後の荒事を予期して誰かが嘲笑う。
いよいよ招待客が集い、あとは主催者を待つだけとなる。
それから、ややあって扉が開く。
「やあ皆さん、楽しんでいただけているかな?」
現れたのは楽しげな声。それは主催者である九鬼帝のものだった。
それに応じる者はなく、どころか場は一瞬にして沈黙で満ちる。
聞えるのは扉の開いた残響と入場してくる者たちの靴音だけ。
――――なんだ、あれ……。
誰かがそう言った気がした。
無意識に震える身体を剣華は自覚する。その場のほとんどの者がそうだった。
唐突に覚えた感情は本能的な恐怖。危険だと言う直感がその場の誰しもに働きかける。
威圧されていると理解できた人間がどれほどいるだろうか。
きちんと理解できたのは梁山泊をはじめ腕に覚えのある者だけである。すべからく、護衛に限られる。
だが、例えそれが分からずとも本能が訴えかけている。決して侮ってはいけないと。
そのために来賓たちの九鬼に対する侮りは完全に消え去った。
九鬼帝はそれを認めると口角を吊り上げ厭らしく笑う。
そうして悠々と歩を進めるのだ。
己の背後にその原因である従者を付き従えて。
この従者こそ、当時従者部隊に所属していた工藤である。
当時の彼は自重と言う言葉を知らず、気を抑えると言うこともせず、ただそこに居ただけだったが、そこにいると言うたったそれだけのことで多少腕に覚えのある人間は皆彼を畏怖した。
当時にして既に壁越え。
それでもまだまだ伸びしろの余る彼は、丁度その頃が一番の成長期だったと言って差し支えない。
そんな彼が己の武をひけらかすように、その場の誰も手の届かない絶対的な強さを見せつけていたのは、最も単純な抑止力としての効果を狙ったのだろうが、効果はてき面だった。
余計なことを考えてはならないと、誰もが直感で理解した。
何か少しでも良からぬことを仕出かそうものなら即座に潰される。
そう思わせるだけの威圧感。
一軒朗らかな会場に似つかわしくないプレッシャー。
それは全て一人の少年から発せられている。
例え彼がまだまだ若い半人前の従者と言う事実があっても、"もしかしたら"と可能性を考えてしまえばもう動けない。それを考えさせるだけの武力を彼は持っていた。
結局、その日のパーティは全く何事もなく、敢えて言うならば九鬼帝の描いた筋書き通りに安穏無事に閉会した。
――――それから二年が過ぎて。
中国奥地の秘境。
深山幽谷と言うような、人里離れすぎた仙境。
そこに梁山泊の本拠地はある。
その二年の間に世代交代が進み、梁山泊は若い女ばかりとなっていた。
特に百八星は全員が女性となり、それが影響してか傭兵としての需要が激増していた。
その日は彼女たちの約半数が出払っていた。
任務に出ている者以外は拠点で身体を休ませる。もしくは鍛錬を積む。
壁越えの人間こそ少ないが、すでにそれにほど近い武芸を持つ者は多数存在している。
例えば林冲。それを追いかけるように史進が。
遠距離となれば花栄がずば抜けている。
他にも一癖二癖ある曲者揃い。
そんな、言わば川神院の様な武の総本山に"彼"はやってきた。
それに予兆はなかった。
誰も気づいたものはなく、まったく突然に、一つの大きすぎる闘気が梁山泊の門前で発せられた。
爆音が辺りに響く。その音は梁山泊に居た人間全ての耳に届いた。
何事かと辺りを見れば、門の辺りから土煙が起こっている。
寝ていた者、鍛錬していた者、雑務をこなしていた者。
聞いた人間の内、動ける者はすぐさま動き出した。
よもや梁山泊が襲撃されるなど思いもせず、仮に襲撃されたとするならさては曹一族か。
そのように頭を働かせつつ、百八星の内数名が頭領の元へ走る。それ以外は全員が門前へ駆けた。
門を警備していた者は当然いる。
だが門が破壊されるまで警告はなかった。
爆音はその一度のみ。今は何も聞こえてはこない。
戦闘音はおろか襲撃を示す警笛すらない。ならば、警備の人間はすでにやられたのだろう。
覚悟を決めなければならない。
知らぬうちに戦争は始まっていた。
駆けつける者たちが合流を重ね、ようやく門が見えるところまでやってきた。
人が出入りするのには不向きな、威を示すための、大きな鉄門が吹き飛ばされたように内側に転がっていた。土煙はとっくに止んでいる。
門の前に人影が一つだけあった。
悠々と歩いてくるそれは、男で、まだ幼くて、尋常ならざる闘気を身に纏っていた。
それを浴びて、知らず知らずのうちに百八星たちはその身をこわばらせた。
数々の死地を潜り抜けてきた彼女たちにとっても、今目の前にしている馬鹿でかい闘気は感じたことの無い大きさだった。
まるで噂に聞く武神のような、世界最強の称号を持っているかのような、そんな闘気。
慄いて、彼女たちが動けないでいるうちに少年は門をくぐり、数歩内へ踏み込んでいる。
そこまで来て、ようやく動けたのが一人。林冲だ。
「取り押さえろ!!」
後で思い返せば、まったくふざけた指示だと反省する。
よもやあれに向かって取り押さえろなどと冗談にもならない。
想像していた襲撃者とは似ても似つかない風体に動揺していたのだろうか。
あるいは、少年はただの囮で本命は他にいると、そう思ってしまったのかもしれない。
とにかく、林冲はそう指示を飛ばした。
それが間違いであったことはすぐに気が付かされた。
一寸にも満たない間に、百八星たちは倒れていく。
その中には武松がいたし、史進も花栄もいた。
成すすべなくやられる仲間たち。
信じられない光景が走馬灯のようにゆっくりと流れていく。
とにかく何をする間もなく、ただ味方の倒れる姿を見ていたのが林冲である。
仲間たちの倒れる姿を見て、ルオの姿が脳裏にちらつく。
子供の頃、自分のせいで死んでしまった友人。
その時のトラウマを刺激された林冲は、ほとんど自暴自棄になりながら少年へと斬りかかった。
もちろん、そんな状態で立ち向かって歯が立つわけもなく。
容易く槍先を捌かれ、腹に殴打を一撃。
それだけで林冲は痛みに呻き、身体は崩れ動けなくなる。林冲の細い躯体を奥義もかくやの闘気が貫いて行った。
少年はうずくまる林冲を冷たく見下ろしていた。
林冲は浅く呼吸を繰り返し、痛みを和らげようと必死だった。
やがて少年は先へと足を踏み出す。
向かう先は梁山泊の中枢。
頭領や非武装の人間も多く住まうエリア。
それを考え、今になって、林冲は事の重大さを改めて理解し始めた。
自分たち百八星は梁山泊最強集団。
わたしが敗れれば、それは梁山泊の敗北を意味する。
(……守らなきゃ)
絶対に。何があっても。
また、あの時の様に。
誰かを失いたくはない。
守るって決めたんだから。
「まっ……て……」
槍を杖代わりに無理矢理立ち上がろうとする。
今や腹に受けた鈍痛が全身に広がっているようだった。
ズキズキと頭までが痛い。ふとすれば視界が眩み倒れそうになる。
「おまえは……これ以上、進ませない……」
ようやく出た言葉は息も絶え絶えに、明らかに無理をしている。
槍を構えなきゃいけないと頭では分かっていても、身体は鈍く力は入らない。
だと言うのに、いくら呼吸してもまるで足りないとばかり肺だけが活発に動いている。
戦うことなど出来ないと誰もが、自分自身でも分かっていた。
もはや少年は林冲のことを見てすらいなかった。
ここまで満身創痍な人間は警戒することすら値しないと言っている様に、視線は林冲を飛び越し背後の門を見つめている。
そこに何があるのか林冲には分からなかったが、しかし考える前に限界が訪れる。
崩れるように前に倒れる林冲。
彼女の身体が地面に打ち付けられる前に、誰かの腕が支えてくれた。
ぼやける視界の隅で水色の髪がチラつく。
それがいったい誰なのか分からなかったが、頭上から聞こえた声は聞き覚えのある声で、今その声が聞けたことに、心の底から安堵する。
「やあ林冲。この貸しはパンツ三枚分ぐらいかな。もっと高く吹っ掛けてもいいよね」
飄々とおちゃらけた言葉。
内容は半ばマジである。
「楊、志……?」
「うん、そう。さあちょっとあっち行こうか。ここは随分と酸素が薄いからね」
酸素……。
ああ、そうか。この苦しさは酸欠だったのか。
先ほどから続いている頭痛もそれでなのか。
これもあの襲撃者がやったことなのか。
納得し、考えながら、肩を貸され引きずられる。
「……ダメだ、ほかの皆が……」
「まあ、ほら。そこはすぐ援軍来るからそっちにお任せしよう。今は早く離れないといけない」
「でも……」
「林冲。仲間が倒されて怒ってるのは君だけじゃあないんだよ」
そこで初めて、林冲は見た。
襲撃してきた少年と自分との間に立つ少女を。
少女は林冲を守る様に背を見せて、その顔はまっすぐ少年を見つめている。
彼女の身から高まる闘気は、ここの所の不調が嘘のようにその身から噴き出していた。
相対する少年の純粋な闘気と彼女の怒気混じりの闘気が濃密に絡み合い、周囲の重力が強くなったのではと錯覚してしまいそうになる。
壁越え同士が対するとここまで空気が変わるのだと、林冲は寡聞にして知らなかった。
「……関勝」
その声で関勝が僅かに振り向いた。
林冲が無事であることを認めた彼女はわずかに微笑み、目の前の襲撃者に向き直る。
そして名乗った。
「『大刀』関勝」
「…………」
襲撃者は最初答えなかった。
門の向こう、外からやってくる援軍を見て、拠点内部からやってくる援軍を見て、挟撃されることを悟る。
それでも彼の闘志は聊かもくじけず、漂う闘気はその苛烈さを増す。
彼の身体を帯電する電気が、開戦の合図だった。
「――――」
獰猛に笑いながらの名乗りは、周囲を無差別に襲う電撃と同時で、残念ながら林冲はおろか関勝すらその名前を聞き取ることは出来なかった。