遠征から帰って来てから一週間経ち、事後処理も大体終わり、陣営全体が落ち着きを取り戻した。
日が沈み肌寒くなってきたところで俺は仕事を終えて自室へと帰ろうと廊下を歩く。俺は未だにこちらの世界の事を良く分かっていないので、仕事と言っても大した物ではない。
華琳や秋蘭の傍で仕事振りを見て色々な事を覚えている最中だ。はっきり言って、今の俺はあまり役に立っていない。しかし、この前の遠征での働きが評価されたのか文句を言ってくる奴はほとんどいない。
そして運悪く、その“ほとんどいない”文句を言ってくる奴の一人と鉢合わせになってしまった。
「何よ?」
荀彧が機嫌の悪そうな表情でこちらを見ている。「何よ?」と聞かれても、偶々鉢合わせになっただけで何の用事も無い。俺には
「……俺は部屋に帰る途中だ。特に用事は無いから。じゃあな」
「ちょっと待ちなさい」
さっさと部屋に帰ろうとする俺を荀彧が呼び止めた。
何で呼び止めるんだよ。俺の事が嫌いなら一々構うなよ。お互いストレスが溜まるだけだろ。もう聞こえない振りして帰って良いかな。
「何、無視しているのよ」
荀彧の声色にイラだちが目立つ。
やっぱり駄目か。それで何の用だ。仕事なら今日はもう終りだぞ。
「何か用でもあるのか?」
「ええ、あんたに言って置きたい事があるの」
め、面倒くせえ……絶対、また文句だろ。そんなの荀彧の表情を見れば誰でも分かる。その不機嫌そうな顔と声色から、楽しい雑談が始まる可能性はゼロに限りなく近いと見たね。
「華琳様はあんたを随分買っているみたいだけれど、私はあんたに負けるつもりはないわよ」
ズビシッと荀彧はコチラを指さして宣言した。
はいはい、分かったから、俺はもう帰るぞ。むしろ、勝ってくれ。応援するよ。そして、明日から俺の分まで仕事をしてくれ。ただ本音を言う訳にもいかない。
「ああ、そうか」
荀彧に冗談は通じないだろうから、それだけ言ってさっさと帰ろうとする俺の行く手を荀彧が遮る。中ボスからは逃げられない。
「待ちなさいよ。話はまだ終わってないわ。兵糧の件は想定外の出来事のせいで計算がズレてしまったけれど、これから先は私の方が有用であると証明してみせるわ」
「……証明するまでも無いだろ。俺はこっちの一般常識すら未だ覚えきれていないんだぞ」
俺は未だに荀彧と同じ土俵に上がりきれていないと、自分では思っている。そう、まだまだ俺は軍師としては見習いだ。それなのに、えらくライバル視されたものである。ここまでライバル視される程、俺は活躍してないと思う。
最初はうちが軍師の募集をしていなかったので、荀彧が自分を売り込むのに苦労していたのに「天の御使い」などという胡散臭い人間が軍師候補に収まっていたから不快に思っていたのかと推測していた。しかし、今の荀彧の様子を見るとそれだけでは無い様な気がする。
「……華琳様はそう思って無いじゃない」
「どういう事だ?」
「あんただけ特別扱いでしょ。男で唯一真名を呼ぶ事を許され、それどころか敬語すら使わせていないなんて特別扱い以外の何物でもないじゃない」
それついては俺も不思議に思っていた。
華琳は部下に必要以上の媚へつらいを求める性格では無いが、上下関係に甘い人間でもない。何故、華琳に対して敬語を使わなくなったのか少し思い返してみる。
あれは確か春蘭との一騎打ちモドキをやらされた後、正式に華琳が俺を部下すると言って来た時の事だ。華琳が俺に敬語を使わないよう言ったのだ。そして、その理由は「何だか気持ち悪い」だった。
おい待て。酷くない? いやいや、聡明な華琳の事だから何か他にも理由があるはずだ。あって欲しい。あるべき。
俺が一人で精神的ダメージを負っていると荀彧が勢い込む。
「ほら、反論出来ないじゃない。華琳様があんたみたいな男に気を許すなんて……」
荀彧が背景にぐぬぬぬぬっという言葉が浮かびそうな表情をしている。
ああ、そう言えば荀彧は華琳とユリユリな関係だったか。そちらの嫉妬もあるのなら荀彧のこのしつこさも納得である。そして、それなら俺は関係ないと言っても過言では無い。華琳が俺に恋愛感情を持つなんて有り得ないし、その兆しも無い。
「言いたい事は分かったから、もう行くぞ」
「待ちなさいよ。勝手に行こうとしないで」
何これボス戦? それともイベント戦? 逃げられないんですけど。
「私が華琳様から兵糧が足りなくなった事について叱責されていた時……自分ならもっと上手くやったって思っていたでしょ」
本来であれば荀彧の単なる言いがかりだが、実際あの時の俺はそういう事を考えていたから言い訳し辛い。まあ、するけど。
「いや、お前の気のせいだろ」
「それは無いわ。あの目は絶対、私を馬鹿にしてる目だった」
あ、はい。その通りです。俺なら何とかしたとか思ってました。それにしても、また目かよ。どんだけこの目は嫌われるんだ。この目は呪われてんの? 不遇の事故死を遂げたボッチの呪いか何かか? ってそれ俺の事だし。ボッチ過ぎて恨む相手もいなくて自分を呪っちゃったか。
下らない冗談にもならない事を考えていたら気分が落ち込んで来た。死に直面したあの時の事は俺にとってもトラウマに近い記憶だ。
気分が落ち込んでいると自然と顔も下を向いてしまう。そして、顔を上げると不機嫌そうな荀彧が目の前にいる。独りで落ち込んでいても状況は変わらない。何か言い訳しようにも荀彧が聞くとも思えない。何とか誤魔化せないものか。
「それより結局、どこで計算が狂ったんだよ。季衣がいくら大メシ喰らいだって言っても兵士十人分程度だろ」
「うっ……それは損害が想定していたより少なかったから」
「それ、他の所では言うなよ。もし聞かれても思ったより日数が掛かったとか言っとけ」
荀彧は自分の言っている事の意味が分かっているのだろうか。荀彧が俺の忠告に不満そうな表情をしている。
「はあ? あんたにそんな事を言われる筋合いは無いわ」
「あのな、お前が言っているのは思ったより味方が死ななかったせいで予定が狂ったって言っている様なもんだ。兵が聞いたら気分悪くするぞ」
「別にそういう意味では」
「兵から見ればって話だ。作戦立案者であるお前がそんな事を不満げに言っていたら流石に兵も気分が悪いだろ。自分達にもっと死んで欲しかったのかってな」
そんな噂が流れ始めたら軍師としてやり辛くなるだろう。目上の人間に対する陰口や愚痴なんかは盛り上がり易い。学校の生徒なら教師への、会社なら上司に対するそれらは日常的にされる話題だ。しかも兵達からすると荀彧は突然現れた上司である。まだ信頼関係も無い荀彧に対して不信感を兵達が持ち始めると厄介な事になりかねない。
話を逸らせたのは良かったが別の問題が出てきやがった。
荀彧自身、それは理解している様子だが俺の言葉に素直に頷くのは嫌みたいだ。
「……軍師は時に冷徹な判断も下す必要があるし、謀略なんかの汚れ仕事もあるのよ。嫌われるのを恐れていては軍師は務まらないわ」
「それは必要ならって話だろ。必要も無いのに嫌われる様な事をしてどうすんだ」
皮肉な話だ。かつて自分から汚れ役をやったせいで大切な関係を、場所を壊してしまった俺がこんな事を言うなんてな。だが、黙ってはいられない。ここが史実とどの程度同じなのかは分からないが、こいつは華琳にとって重要な人間になるはずだ。万が一でも、かつての俺みたいになって貰っては困る。
「なあ、これは俺が知ってる奴の話なんだが……ソイツは元々、いつも独りで友人もいないからと言って自分から汚れ役をやっていたんだ。自分なら汚れ役をやってもどうせ傷つく様な人間関係も評判も無いってな。まあ、ソイツは馬鹿だったんだよ」
「……そうね」
荀彧が頷く。
そう馬鹿だったのだ。あの頃、自分は独りだと言っていたが、本当に独りだったわけではなかったのだ。
「いつも独りって言ったがソイツにも大切に思う人間はいたんだ。でも、ソイツは汚れ役をやり過ぎた」
小町や雪ノ下達が俺にはいたのだ。
「ソイツはソイツのいた場所でも一番の嫌われ者になった。そんな人間の傍にいたらどうなる。ろくな事にならない。ソイツは自分の大切に思う者達が、自分の傍にいる事で傷付くのではないかと考えて自ら距離を置いたんだ」
俺という人間は俺一人で完結している訳ではない。その事を距離を置いて初めて実感する事になった。月並みな言葉だが、失って初めて分かる大切さだった。
「……それでソイツはどうなったのよ」
「死んだよ。独りで、何の意味も無くな」
荀彧が黙り込んでしまった。実際に俺があの事故で死んだのかは分からないし、確かめようも無い。だが、俺の中ではあの時に一度死んでいる。あの時の痛みと喪失感は死以外のなにものでもなかった。
「軍師には汚れ仕事もあるだろうが、汚れ過ぎた手で華琳に触れられるのか? 華琳まで汚れる事になるんじゃないか? ……まあ、難しく考える必要はない。要は極力周囲から嫌われる様な事をするなって事だ」
俺の言葉は余計なお節介かもしれないが言わずにはいられなかった。これにどれだけの意味があったのかは分からないが、言わずに後悔するよりは良いだろう。これ以上言う事も無いので、黙って歩き始める。
今度は荀彧も引き止めなかった。
「助言のつもり? なんで私に……」
荀彧が何か言っているが良く聞き取れなかった。しかし、荀彧の元へ戻って聞き直す様な重要な事でも無いだろう。
嫌な事を思い出して精神的に疲れたからさっさと自室に帰って休みたい。歩く速度を上げ、荀彧から距離が離れた俺の背に声が掛かる事はなかった。
読んでいただきありがとうございます。
弁当2個とラーメンとアイス1箱食べたらお腹壊してしまいました。今日はもうポカリしか飲んでない。カフェインを摂りたいが悪化しそうなんですよね。