――アンナ・コロロウァ。通称アーニャ。
一通り騒ぎ終え何とか平静を取り戻した少女は、流暢な日本語でそう名乗った。
「ん」
「……どうも」
件の場所からそう離れていない、道沿いに設置されたベンチ。
隣に座るアンナに近場の自販機で買ってきたオレンジジュースを差し出せば、彼女は存外に大人しく受け取った。
先程の取り乱し様が嘘のようだ。自分でも恥を晒した自覚はあるのだろう、必死に取り繕っているようだが頬の赤みまでは消せていない。
まぁそこを突っついてからかうような趣味はないので、私も買ってきたコーヒーを開け「……、……」ずに鞄に仕舞い込み、そっとベンチの影に隠しておく。
いや、何かヤな予感がして。分かんないけど。
「えっと。チサメ、だっけ。さっきはゴメンナサイ、色々失礼な事しちゃって」
「……や、まぁ、それは別に良いさ。何か被害被った訳じゃないしな」
精神的な疲労は兎も角として、怪我を負った訳でもないのだ。
むしろよく考えれば、直前まで背負っていた憂鬱な気分を誤魔化してくれた分利益があったと言ってもいいんじゃなかろうか。涙で濡れた制服と合わせても差し引きプラスだ。もうそんな感じで考えとこう、めんどくせぇ。
そう(自分にも)言い訳するとアンナはホッとしたように顔を綻ばせ、微妙な重さを持った空気が多少なりとも軽くなる。私も幾分気が楽になり、胸のつかえを吐息と共に吐き出した。
と言うかネカネ先生とかもそうだが、外国人が流暢に日本語喋るのって凄まじい違和感だな。アクセントまで完璧じゃねぇか。うちのクラスにも中国からの留学生が『一人』居るが、見習って欲しいもんだ。
それはともかく。
「……で、それより何であんなとこで蹲ってたんだ? 具合悪いんなら病院まで連れてってやるけど」
「別にそういうのじゃない……けど、その……」
「あー、良い良い。言いたくないんなら別に」
言いにくそうに言葉を詰まらせるアンナを手を振って制した。
気にならないといえば嘘になるが、あまり言いたくない事柄だとは嫌でも察せられる。私としても厄介事に率先して首を突っ込みたい訳ではないし、無理に聞き出す必要もない。
「とにかく、腹が痛いとか体弱いとかそういうのじゃ無いんだよな?」
「う、うん。違うわ。身体はなんともない」
「そか、それなら――……、……」
一人でも大丈夫か、という言葉が喉元で止まる。
気づけば無意識の内に指先が制服に向かい、先程アンナの涙で濡れた部分へと触れていた。まだ乾ききっていないそこはしっとりと湿り、冷たい感触を伝えてくる。
……いや、これダメじゃね。一人で残すの。
「……アンナ、お前ここから住んでる所近いのか?」
「え? うん、ここから十分くらいかしら」
「……分ーかった、なら家まで送ってく」
三十分以上なら指導教員に押し付けられたんだがな。
私はぶへぇと溜息を一つ。一先ず面倒を見てやることを決心し、後頭部をガシガシ掻き回しつつ立ち上がった。
あーもう、面倒臭いし厄介だとは思うが仕方ない。ここで見捨てたら後が気になって眠れなくなりそうだし、出来る限りは付き合ってやるよ畜生め。
「え……でも、私まだやらなきゃ……」
「何を。またさっきみたいに踞んのか」
「ぬぐ」
アンナは私の言葉に図星を突かれたようにたじろぎ、涙の跡が残る瞳でこちらを睨みつける。
まぁどうせこれっきりの縁だろうし、何を思われようが別にいい。私は無言のまま鼻を一つ鳴らし、ぶっきらぼうにアンナへ片手を差し出した。
出来る事なら取らないでくれると楽なんだけどな――そんな碌でもない事を考えながら。
「……むぅ……」
しかし、そんな願いは届く事は無く。アンナはしばし悩んだ後ぷいっと顔を背け、それでいておずおずと小さな手を私のそれと重ねあわせた。
可愛げがあるんだか無いんだか、良く分からんガキだよ。全く。
*
家まで十分くらい――初めは直ぐに送り届けられるだろうと高を括っていた私だったが、その予想は大きく外れる事となった。
「……なぁ、歩きにくいんだけど」
「お、送るって言ったのチサメなんだから、きちんとエスコートするのっ」
何か分からんがコイツ、他の通行人とすれ違う度に強く私に抱きつきやがるのだ。
当然その度に私の歩みは乱れ、必然的に牛歩となる訳で。しかも先の様なツンケンした態度とは裏腹に、抱きついている間はアンナは小さく震えて居るのが分かり、文句を言うにも言いにくい状態だ。
のたのたと、のたのたと。既に歩き始めてから十分はとうに越している。何なんだコイツは、強がってるくせに人見知りかっつーの。
「……私ね、ニッポンには修行に来たの」
そうしてアンナと二人手を繋ぎ、微妙に気まずい雰囲気の中で家路を歩くその道がすら。彼女は沈黙の多かった空気を入れ替えるためか、ポツリポツリとそんな話をし始めた。
……私としては無駄話するよりさっさと歩けと尻を蹴っ飛ばしたい所だったが――まぁそこはグッと堪え。気分を変える為にその話題に乗ってやる事にする。
「修行って、お前の年で? 何のだよ」
「占い師よ。私の通ってた学校は卒業した後課題が出るの。それでその課題が『暫くの間日本で占い師として修行する』って事で、さっきもそれをやってたの」
「…………」
やっぱあのセットってお前のだったのね――じゃねーよ。何じゃそら。
卒業課題って事は、コイツは既に小学校を出た中学生って事か? にしては子供っぽすぎるような。
ああいや、でも海外じゃ日本と教育制度が違うんだっけ? じゃあ日本に無い種類の学校があって、飛び級みたいなシステムってんなら……いやでもそもそも占い師ってなんだよ。客と話して詐術でもつけてこいってか? んなアホな。
見聞を広めさせる一環……後でレポートでも書かせる? 商売じゃなくストリートパフォーマンスの一種としてやらせれば合法かもしれんけども。
軽く混乱しつつもアンナの話を噛み砕き、「普通」の範囲に収めようと苦心している間にも話は続く。
「それで私の幼なじみのお爺ちゃん――学校の校長先生が気を利かせてくれて、やりやすいだろうってマホラを紹介してくれたのよ」
「……つまりコネか。卒業課題だってのに」
「むぐ……まぁ、言ってみればそうなんだけど――、っ!」
……と、そこまで語った時。向かいから歩いてきた通行人に反応し、アンナは例によって私の影に身を潜めた。またかよ。
通り過ぎる女子高生はその様子を微笑ましげに眺め、口元に笑みを浮かべて歩き去る。何か良からぬ誤解を受けた気がする。
何となく気恥ずかしさを感じ、誤魔化し混じりに大きく溜息を吐く。するとその意味を誤解したのか、アンナがビクリと肩を震わせた。
「……私。昔ちょっとあって、黒いのが苦手なの」
「あ?」
「黒いもの、ブラック、ヘイ、キライ」
「いや聞き取れなかったって訳じゃねーよ」
一体何の話だ――と胡乱に思ったが、そういえばと振り返ってみれば先程の女子高生は綺麗な黒髪をしていた。
……つまり何か。さっきから抱きついてきたのは黒髪に反応していたと言う事か? 私は明るい髪色だから安全圏と?
そのまま確認の意味を込めた視線を落としてみれば、アンナは気まずげな表情で目を逸らす。大体合っているというこったろう。
「……ゴキとかなら分かるけど、髪の毛も?」
「イ、イギリスでは少なかったし殆ど何とも無かったんだもん! ただこっちでは……」
「あー、まぁ一面真っ黒だよなぁ」
この街では割とカラフルな頭をした連中が多いとはいえ(麻帆良のこういうとこも嫌いだ、生物学的な常識はどこ行った)、日本――と言うかアジア圏である以上黒髪も相当数存在する。
一人二人なら我慢できるといえど、数が揃えば無理だったと。来る前に思い当たっとけ、とは酷な話かね。
「……占いも、本当はもっと人の多い所でやる筈だったんだけど……黒ばっかりで、無理で、わかんなくなって。結局あんな所で……」
「お前なんで日本に来た――って、ああそうか、課題な。それ他の場所に変えられなかったのか?」
どうせコネを使うんなら、そこら辺までコネれば良かったのに。私がそう言うとアンナは目を伏せ俯き、握る手に力を込めた。
「……ここが、一番安全だったから」
「……いや、どこがだよ。お前にとっては地獄じゃねーか」
「私の事じゃない。ついてきてくれたタクとお姉ちゃんにとって――……、っ……なんでもない」
言いかけた言葉を途中で飲み込み、会話が途切れた。どうも言ってはいけない事を口走った、という風情だ。
まぁ色々と事情があるという事だろう。私は「ふぅん」と気のない返事を返し、何となく納得っぽいものをする事にした。所詮場繋ぎの会話だしな。
しかし何故かアンナはそんな私を探るような目で観察し、少し警戒した様子を見せる。ちょっと居心地が悪い。
「……何だよ?」
「――いいえ、べっつにー」
そして何らかのお眼鏡に適ったのか、彼女は一転して気楽な様子だ。
「?」怪訝には思ったがわざわざ尋ねる程の事では無く、それきり会話は途切れ黙々と歩く。けれどそこには先程の微妙な空気は無い。
多少なりともお互いの質が分かった為だろう、随分と気が楽だ。私的にあんま認めたくないが、これがコミュニケーションの力って奴かね――――と。
「んで、ここを左でいいのか?」
「あ、うん。後はこの道を真っ直ぐよ」
人差し指でさし示し、改めて道筋を確認。アンナの手を引きその先へ行く。
その道は私が何時も登下校に使っている道であり、どうやら彼女の家は女子寮の近くにあるらしい。
これならアンナを送り届けた後は直ぐに帰れそうだ。私の心に乗っていた重りが数を減らし、少々気分が上昇志向。心なしか足取りも軽くなる。
「……なぁアンナ、お前占いってどんな事するんだ?」
「え? ええと、そうね。私はよくこの水晶を使うんだけど――」
今ならある程度の無駄話も許せそうな気がして、敢えて話題を振ってやり。私達は和やかな雰囲気のまま、夕陽に染まった道を進む。
背後を詰め襟の男子学生達が駄弁り、通り過ぎていった。
アンナの家は女子寮のすぐ近く、歩いて5分もしない場所にあった。というか、これは。
「……教員寮じゃねぇか……」
麻帆良に務める女性教師の寮は、生徒の寮のすぐ近くに建てられている。
それは夜遊びする生徒の監視か、それとも生徒と教師のコミュニケーション強化のためか。……まぁ生徒の質を見る限り後者だろうな。きっと。
とはいえ生徒側が自由に出入りできるという訳では無いので、私もここまで近くに来たのは初めてだ。別に悪いコトをした覚えもないのに、無意味に周囲を警戒してしまう。
「なぁ、本当にここなのか? 教師じゃないと入っちゃいけない場所だぞ?」
「間違ってないわよ。お姉ちゃんが先生で、一緒の部屋を使わせてもらってるの」
挙動不審気味な私にアンナは不思議そうな顔をしつつ、懐から一枚のカードを取り出した。教員寮で使われているカードキーだ。となれば間違いではないのだろう。
……外国人の女の子がお姉ちゃんと呼ぶような教師、ねぇ。心当たりがハッキリと浮かぶが、確信はないので踏み込まないで置く。
「じゃあチサメ、ここまで来たら大丈夫だから。……ついてきてくれてアリガトね」
「どっちかといえばついてきたのお前だけどな。まぁ礼は受け取っておくよ」
恥ずかしげに頭を下げるアンナに軽く手を上げて、「じゃあな」と別れの挨拶もそこそこに背を向ける。これにてお役目御免なり、なんつって。
さて、色々と面倒ではあったが、これで気兼ねは無くなった。
さっさと帰ってPCを見てやるか。私は安堵の息を吐き、この場を去ろうと気分よく歩き出し――――
「…………」
ガシ、と。背後からスカートを摘まれ、強制的に歩みが止まる。
振り向いてみれば、アンナが何やら必死な様子で上目遣いにこちらを見あげていた。
……まだ用があるの? うーむ、何か嫌な予感。
「……何だよ?」
「え、あ、あのね。私明日も占い師するんだけど……その……えっと……」
「…………」
摘んだ裾を擦り合わせつつむにゃむにゃ要領の得ない事を呟くアンナだったが、この時点で何となーく察した。
多分、明日占いやってる所を見に来てくれとかそんな感じの事を言いたいのだろう。どうも懐かれた――というか、目をつけられたようだ。黒髪じゃなきゃ何でも良いんか。
「そういうの、ついてきてくれたっていう『お姉ちゃん』とか……後もう一人の何とかって奴に頼めよ。私関係ないだろ」
「もう頼っちゃってるの! だけどこれ以上はイケナイから、だから……!」
涙を滲ませたアンナは無力感と共にその語気を強め、更にスカートを強く握りしめる。皺が寄ると振り払いたいがそんな雰囲気でも無い。
「と、とにかく! ずっと居ろって言うのじゃなくて、偶に来るだけでいいから常連になって欲しいの! お願い!」
「偶に来るだけなのに常連って矛盾してな、」
「ちゃんと占うから! お金も取らないし、サービスするから! ね!? ねっ!?」
占いでサービスって何すんだ。
最早悲壮感すら漂ってくるその様子に私はほとほと困り果て、うんざりと天を仰ぐ。
面倒くさいのに手を伸ばしちまったなぁ。こんな事なら見ない振りすりゃ良かった――とはやっぱり思えず、行き場のない憤りが胸を灼いた。
……蹲り、涙を零していたアンナの姿が脳裏を過る。
(これだからガキは、いやガキっつーか私……ああもう)
……仕方ない、子供にここまで請われて断れる奴は「普通」じゃない。
私は「普通」だ。もう何度目かも分からない溜息を吐き、諦観の念と共に彼女の頭に手を乗せる。サラサラの髪の毛が指先に絡まり、その心地良い感触にほんの少しだけ苛つきが引っ込んだ。
「……わーった。学校終わってからだけど、余裕があれば行ってやる。だから離せ」
「や、やった! 絶対だからね! 中央広場……は無理だから、その外れの道辺りに居るから! 居るんだからね!」」
まるで鬼の首を取ったかのように喜ぶアンナに辟易しつつも、どこかそれを微笑ましいと思う自分がいる。
ああヤダヤダ。私はそんな自分を非常に情けなく思い、肺の限界まで深く息を吸い込んで――――
――私とアンナ。これから長い付き合いとなる彼女との関係は、とても大きく、そして重たい溜息から始まったのである。
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・何でアンナ?
ここまで変えたら多分アーニャとは呼べない。のでちょっとした意識的な差別化……の、つもり。