Chaos;an onion HEAD   作:変わり身

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第13章  Empty bottom of the ;chaos

アーニャにとって、ネギことタクは最初から情けない存在だった。

 

女の自分より強い男の子の癖に運動は苦手だし、すぐ泣くし、背は小さいし。何をするにも文句を一通り言ってから、しかもこっちが無理矢理急かさなければ行動しない。

頭は凄く良いみたいで、時々自分でも分からないような言葉を使ってくる。けれど、それに説得力が全く無い。

 

やること成すこと喋ること、人を小馬鹿にしてるようにしか思えず、だと言うのに一人では何も出来ない口だけ男。

誰かしっかりした人――例えばそう、学校でクラス委員をやっている自分とか――が付いていなければ、すぐに駄目になってしまう、手間のかかる弟。そんな感じ。

 

村の人達は皆何故か、タクの事を「昔とは違う」「根暗になってしまった」等と言うけれど、そんな事は無い。

何時頃からの付き合いだったかはハッキリしないし、物心が付く前の記憶はあやふやだ。

けれど彼女にとっては、タクは始めからタクだった。男の子の癖に頼りない、守ってあげなきゃいけない子であったのだ。

 

――アーニャは、『拓巳』を『不調』として認識してはいなかった。

 

彼がわんぱく小僧だった頃の記憶もなく、明るかった頃の記憶もなく。にも拘らずネギの事を知っていて、それに疑問を持っていなかった。

どんよりと濁った雰囲気で、気持ち悪い笑い声を上げる拓巳――ネギの事を、当然の事だと受け入れていたのだ。

それは幼さ故なのか、それともその単純で純粋な性格の所為なのか。はたまた、彼を思う何者かの所為だったのか。今となっては知る術は無い。

ただ、彼女はネギをネギのまま――拓巳のままで認識していた事だけは確かだった。

 

……だからこそ、彼女は現状に違和感を覚えていた。

彼女自身は何がどうとは言葉に出して説明は出来なかったけど、今の彼を取り巻く状況がおかしい事は何となく察していたのだ。

 

そして、それを何とかしようと頑張った。

それは、ネギを弟分と認識している姉貴分としての義務。年上である自分がやらなきゃいけない責務であると思い。

元よりガキ大将気質、まとめ役としての素質を持っていたのも災い(幸い? いや判断に困る)したのだろう。彼女は、それはもう燃えに燃えた。

 

周囲の大人達に言い縋り、彼の姉であるネカネや、村で一番偉い(と、思っている)スタンに相談したり。

何やら沈んでいるネギに発破をかけ、しっかりしなさいと何度も呼びかけたりもした。悪口を言う同級生を諌めたりもした。彼女はその小さな身体で、可能な限りの出来る事をしたのだ。

 

……しかし、結果は芳しくは無く。

幾ら彼女が彼は以前からああだった、変わっていないと伝えても、大人達は皆首を振るばかりで信じようとしてくれない。皆一様にして、「以前のネギに戻って欲しい」と呟くばかり。

それ以外の答えを認めようとせず、決まった型に――設定に、彼を押し込めようとして。

そうして、彼女の与り知らぬ所で発狂寸前まで錯乱していたネギは、自室と言う名の物置に引きこもって出て来なくなってしまったのである。

 

……最初こそは、そこまで追い詰められてしまった彼に同情し、村の住民たちへの憤りを強くした。

村人に抗議したり、彼らがネギに会いに行こうとするのを妨害したりもしたが――――ネギの行動を見ている内に、その怒りは彼自身に向けられる事となった。

 

元より友好的とは言い難かった態度だったが、ここ最近は更に悪化したらしく。我侭も言い放題の、好きなことをし放題。

ネカネに当たり、スタンに当たり。訪れてくれた医者や老人たちにも酷い事を言って追い出した。結果、少なかったとは言え彼を助けようとしてくれた存在が一人、また一人と離れていった。

 

様々な物を強請り、色々なものを欲しがり。そうして遂には、パソコンなんて高価なものまで買わせてしまったという話ではないか。自分だってまだ持ってないのに。

そのくせ届いたそれに対して喜ぶでもなく感謝するでもなく。それどころか文句と罵声を飛ばして、方々を駆け回り苦労したネカネを更に傷つけたと来たもので。

 

……そして、ある日。リビングでひっそり泣くネカネの姿を目撃したアーニャは、溜まりに溜まったフラストレーションを爆発させた。

確かに周囲を取り巻く環境も悪かったかもしれない。多くの原因は村人達のほうにあるのだと、うっすら理解できている。

 

けれど、自分を真剣に想って頑張ってくれたネカネやスタンに対して、その対応は余りにも酷過ぎるんじゃないか。

せめて彼女達には、もう少し優しく接して欲しいと強く思って。

密かに憧れているネカネの為に義憤に駆られた彼女は、ネカネがスタンが話し合いに外出している中、ネギの住む小部屋の前に仁王立ち。

閉ざされた扉を何度も殴りつけながら、ネギに向かって大声を張り上げた。

ここを開けろと、姿を見せろと。言いたい事があるから顔を見せろと。

 

……しかし、返事はキーボードのタイプ音。ただそれだけで。声どころか、他の反応の何一つも返される事は無く。

いい加減意地になっていたアーニャも、それにムキになって扉を叩き続けた。彼の名を呼び続けた。

 

……一体どれほどそれを続けたのだろうか。

彼女の小さく柔らかい手が赤く腫れ、叫びすぎて喉が痛み。そうして疲れ果て、涙さえ滲みかけていた所に――彼の呟き声が聞こえたのだ。

 

 

『……用意出来るのは、紐か、包丁。だけ、か……』

 

 

――――朧気に。その意味を察した瞬間、彼女はとうとうぶちぎれた。

 

 

『――この、馬鹿ぁぁぁぁッ!!』

 

怒りのまま猛った魔力を足に纏わせ、炎へと変換。

あらん限りの力を籠めて扉を蹴り飛ばし、強引に部屋の中へと押し入った。

 

そうして、衝撃音を気にも留めずに、どんよりとパソコンを眺めていたネギの下に歩み寄り。首根っこを掴んで怒鳴りつけたのだ。

 

いい加減にしろ、皆がどれだけあなたの事を考えているのか、わたしだって心配してるのに、どうしてその気持ちを無視するのか。

もっとしっかりしなさい、嫌な事がったら言え、悩みがあったら相談しろ。ネカネおねえちゃんを大事にしなさい。

あらん限りの叫びを、その未だ少ない語彙に乗せ。何度もつっかえながらも、彼に対する想いを吐き出し。叩きつけ。

 

――そして、何の前触れもなく、彼の目が血走った。

 

『――っる、さいんだよぉ! 何時も、いつもぉ……っ!!』

 

何が気に障ったのか突然アーニャを遮り絶叫したネギは、彼女の想いの全てを屁理屈で論破し、無に帰した。

心配も、優しさも、何もかもを解体し、打ち捨て、踏みにじり、侮蔑して。それだけに収まらず、ネカネやスタンの事まで悪し様に落とす始末だ。

 

何時もの鬱々としたどもり様とは比べ物にならない程に速く、流暢に。

ネットスラングから故事成語まで、幅広い表現を流用し相手に反論の機会を与えないそれは、正しく罵倒の嵐と表現するに相応しく。

 

……アーニャは、ネギの言っていた事を半分も理解できなかった。

単語の意味、言葉の中に出てきた人の名前らしきもの、言葉の裏に隠された感情。それを読み取り理解するには、彼女は未だ幼すぎたのだ。

 

故に、彼の叫びの中で分かり易かった部分――つまりは、罵倒からなる悪意しか受け取れず。彼女はそれに大きなショックを受け、感情のコントロールが出来なくなった。

そして多くのものを否定され、怒りと悲しみに満ちた心の中。アーニャは荒れ狂う激情に任せネギの頬を引っぱたき――――

 

――後は当然、大喧嘩。騒ぎに駆けつけてきたスタンの説教を二人並んで受ける事になったのだ。

 

それからだ、彼女がこれまで以上にネギに――タクに干渉し、あからさまな姉貴面をするようになったのは。

喧嘩の禍根は殆ど無かった。それは、お互いの胸中を吐き出し合った事が良かったのか、それとも最後にタクの感謝の言葉で締まった所為か。

酷い暴言を吐いた気まずさも、暴力を振るってしまった罪悪感も。互いにそれ程大きくはなく。結果的にその喧嘩が、アーニャとタクの距離を大きく縮めるきっかけとなったのだ。

 

以降、アーニャは事あるごとにタクの部屋にまで突撃して行くようになり、彼の手を掴んで振り回す様になった。

少しでもタクがしっかりシャッキリする様に彼是と口を出し、ネカネやスタンとの仲を取り持とうともしたり、色々と彼の世話を焼くようになった。

何度も彼に文句を言われ、何度もそれに怒鳴り返し。論破され、殴り返し。嫌味を言われ、蹴り返し。

傍から見れば、決して「仲良し」には見られない光景だったが、それは本人達なりのコミュニケーションだったのだろう。何となく、その関係は楽しそうに見えて。

 

――そんなアーニャだからこそ、タクの事は何でも知っていると思っていた。

 

ネカネよりも、スタンよりも。彼と一緒の時間を長く過ごしてきた分、自分の方がより深く理解できていると自負していた。

 

情けない事も、臆病な事も、性格が悪い事も。運動が出来ない事も。

喋るのが苦手な事も、笑い方が気持ち悪い事も、こっそりと人の不幸を喜んでいる事も。

現実の女の子を嫌っていて、パソコンの中の女の子に夢中な事も。ゲームでは女の子の振りをしてオカマをしている事も。

表に出すのはもっぱら悪感情だけで、その他の明るい感情は心の奥底に仕舞いこんで中々出してこない事も。

そして、偶に感謝の言葉を言ったと思えば、それに余計な贅肉がくっ付いていて凄く分かり辛くて。それを見逃すと不機嫌になったり。

 

本当、人間としては駄目駄目で。なのに、何処かあったかくて。

 

――――全部、全部。彼の沢山の悪い所と、ほんの少しのいい所を。全て知り尽くしていると思っていた。

 

 

****************************

 

 

――ぼんやりと。思考に霧が掛かっていた。

 

 

「――は、ぁ」

 

曇天。

遠くに破壊音の鳴り響く、雪の降り積もる雪原の中。寒さに震える声帯が、無意識に意味の無い音を漏す。

口元から吐き出される息が白くたなびき、空気中に溶けて、消え。

それと共により一層体温が下がっていく錯覚を受け、ひときわ大きく体を震わせた。

 

「……はっ、はっ……」

 

身体の半身以上を冷たい雪の中に埋めたアーニャは、そんな大きく震える体を引き摺って、周囲一帯に飛び散った肉片を集めていた。

赤黒く溶けた雪を掘り起こし、その下に隠された『部品』を持ち上げて。器状に広げた、お気に入りのローブの中に放り込み。

霜焼けと凍傷で、まともに動かす事すら敵わない両腕を使い。服が穢れていく事も気に留めずに。

 

それはナメクジの様に遅く。正確さの欠けた緩慢な動きで。

寒気に晒され、冷たく固まった筋肉を。

砕かれ潰されミンチ状になった肉と、黄ばんだ油の纏わり付いた骨を。

折れた骨片が薄い皮膜を貫いて、どろりとした中身が零れ出る破裂した内臓を。

 

何故集めるのか、それをどうしようというのか。目的も、意味も。何一つ把握せず。

ただ衝動のまま、只管に。光の消えた目から感情の欠片を流しつつ、それらを腹に掻き抱き。頭を潰された虫の様に蠢き続ける。

 

――肺のような物を、拾った。

 

「…………」

 

にちゃり、くちゅり。

手を動かす度に湿った音が響き、指の間を何か白い糸が引いて。

本来ならば激しい不快感を感じるはずのその粘性の感覚すら、今の彼女には感じる事が出来なかった。

否、むしろ。これが彼のものだと思えば、もっと触れていたいとさえ思う。

 

……壊れたのは、感覚か。それとも心か。自身に判断する術は無く。

 

未だすぐ近くに居るはずの化物も、村が襲われている事も。何もかもが、今の彼女にとって思考するに値しないものだった。

そして彼女の胸を穿つのは、途轍もなく大きな喪失感だけ。

自らの半身を失ったかのような、取り返しの付かない罪を犯した、その痛み。

 

――腸のような物を、拾った。

 

「……ぅ、くぅ……」

 

そして、そのむせ返るほどの強い臭気に思わずえづき、必死に吐き気を堪えて。

噛み締めた唇がプツリと切れ、暖かい血液が溢れ出す。

それは顎を伝って肉片に降り落ち、直ぐに混ざり合い、同化し。どこまでが自分の物で、どこまでが彼の物だったのか。判別が付かなくなった。

 

……わたしは、何をしていたのだろう。何がしたかったのだろう。

 

もう何度目かも分からない、その疑問。

幾ら考えても答えの出ないそれが、回らない思考の中で空転を続けていた。

 

つい先程まで抱いていたネカネへの憧憬は、彼と共に木っ端微塵に砕かれていた。

ヒーローなど居なかった。憧れていた筈の姉は、決して超人ではなかった。そんな当たり前の事に、全てが手遅れになった今になって気付き、思い知らされ。

 

……ならば一体、どうすれば良かったのだろう?

 

彼と共に、あの小屋で隠れて居ればよかったのだろうか。何もしないのが正解だったのだろうか。

そうすれば、少なくとも彼が血の華になる事は無かったはずだ。

 

悔恨、憤り。そういった負の感情が心に瞬間的に湧き上がるが、直ぐに罅から外に漏れて行く。

そして、そんな事を思っている間にも、身体は自動的に動き続けたままで。

 

――折れた脊髄を、拾った。

 

「…………」

 

殺されたいと、そう思い。

未だ近くに存在する筈の、タクを殺した黒い化物。憎むべきそれの放つ剛拳で、自分も彼と同じように成りたい。

そう思って、周囲を観察しようとする。何故化物が未だ自分を生かしているのか、無防備を晒す自分を殺さないのか。という事も、少しばかり気になったのもあった。

 

……しかし、どうした物だろう。そろそろ限界を迎えていた身体が、新たな命令を受け付けてくれない。

首が回らず、身体も薄すぎる意思を反映してくれず。惰性のままに蠢き続けるだけ。

 

心身の、不一致。

まるで、頭と身体が別々の生き物になった様だった。

 

「…………」

 

――そうして、彼女は。その方角に視線だけを回した。

――そうして、彼女は。新たに見つけた、雪に埋まる『部品』に、意思の無いままその手を伸ばした。

 

特に何の意図も無く自然に行われたそれは、余りにも気安い物で。

特に何の意図も無く自動で行われたそれは、余りにも軽い物で。

 

憎悪も、悲しみも、願いも。何一つ感情を映さないその目が、少し離れた場所に立つ人影を視界に納める。

憎悪も、悲しみも、願いも。何一つ感情を湛えないその指が、少し深く埋まり込んでいるそれに、触れる。

 

そして彼女の眼球は、化物が居るはずの其処に立つ、蒼い剣を携えた彼の姿を捉え――――

そして彼女の腫れ上がった掌が、何の変哲も無い子供だった彼にある筈の無い、中ほどで折れている長い角の欠片を掴み――――

 

 

 

「――え?」

 

 

 

――――瞳孔が、音を立てて収縮する。

 

 

 

「――――ぅあッ!?」

 

 

――――甲高い、音。

それらを認識した瞬間世界がひび割れ、砕け散り。目には見えないガラス片となって、周囲一帯へと飛散した。

色の無い風が、音の無い衝撃が。見る事も触れる事も出来ないそれらを乗せ、髪の間をすり抜けて背後へと過ぎ去って行く。

 

「え……」

 

雪が、空が、空気が、寒気が。

彼女が認識できるありとあらゆる全てが捲り上がり、裏返り。その内部から現れる現実を新たに認識した。

周囲を彩っていた赤黒い血の痕跡が、掻き抱いていた肉片が。肌とローブを穢していた粘液と血液とが――全て、黒に染まる。

それは、既に先程まで求めていた彼の肉片ではなかった。

 

ローブの中に納まるそれは、何処までも黒く、暗く、冥く。おぞましくも醜悪な気配を放つそれは。

彼女の身体に張り付いた部分から凄まじいまでの悪意を伝えてくる、その存在は。

 

「……――!!」

 

アーニャの罅だらけの心に、突発的な嫌悪感が湧き上がる。

間欠泉の様に、噴火の様に。

緩慢だった体が、何も感じなかった心が、何一つ考える事の出来なかった思考が。悪意の拒絶という極めて原始的な防衛本能に従い、熱を持ち、廻り。

抱えていたローブを振り払い、その中に入っていた『部品』を全て。空中へと投げ出した。

 

――それは、黒い塊だった。

 

骨も、内臓も。全て。途方も無い嫌悪を湛えた漆黒となり。その存在の根本から、全て別の存在へと――黒い化物のそれへと変わっていたのだ。

 

「――ゃ、やぁっ! やぁああああああっ!!」

 

自分が今まで集めていた物が、唾棄すべき存在の物だった。それに思い至った瞬間、彼女は大きな悲鳴を上げた。

先程まで抱いていた執着は、既に微塵も無い。今はただ、一刻も早くこの汚らわしい物を手放したかった。

そうして宙に放り投げたそれらが順に雪の上に落ち、埋まって行くのを尻目に。彼女は必死の形相で自身の手を――黒い血と粘液に塗れた指を、雪に擦り付ける。

 

――気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い……!

 

凍傷を引き起こし、指が紅紫色に腫れ上がっている事も気にも留めず、ただ只管に。爪の間にまで入り込んでいるそれを擦り落とそうとして――――

 

「……!?」

 

ふわりと。黒が、溶けた。

 

べっとりと指先にへばり付いていた化物の血が、爪の間に入り込んでいた粘液が。まるで空中に溶けるようにして消えていく。

否、それだけではない。服に付いた物も、周囲の雪に染み込んでいた物も。そして先程投げ捨てた臓器や骨も、全てが始めから無かったかの様に消えていって。

 

……その現実感の無い光景にしばし目を奪われていたアーニャは、やがてゆっくりと顔を上げた。

 

大きく目を見開いたまま、先とは違った理由で思考を停止させたまま。

自分の認識が改められる前に、もう一つ。決してある筈の無い姿があった、その場所に。

 

「…………」

 

――彼女の目に、僅かながらの期待と希望が灯る。

 

それは逃避にも似た、感情の光。

自分が見た物に間違いが無かったら。

今まで集めていた『部品』が、彼の物ではないのならば。

殴られ、破裂した痕跡が全て消えてしまったのなら――それは、つまり。

 

「――――!!」

 

――そして、彼女は見つけた。

 

驚愕はあった、嬉しさもあった。

罅だらけの心に温かいものが流れ込み、世界が急速に色付いていく。

 

――しかし、それ以上に。彼女は、目を奪われたのだ。

駆け寄る事も、その名を叫ぶ事も。したい事、やるべき事は幾らでもあった筈なのに、金縛りのように身体が凍り付いて動かない。

 

「……タ、ク……?」

 

――彼女は、『タク』の事を何でも知っていると思っていた。

 

基本的にクズな事も。本当は優しいという事も。良い所も悪い所も、全部。

それは幼い心が描く、独占欲にも似た優越感。彼が、自らの掌で包み込める大きさだと勘違いした――しかし、確かに想いの伴っていた、強い思い込み。

 

――彼女は、知らなかった。

 

極寒の白の中を事も無げに佇む、怯え一つ無い無機質な彼の姿を。

夢幻なる気品に満ちた、身の丈の何倍もある蒼い長剣の姿を。

今までに見た事も無いような、どこまでも痛々しいその表情を。

 

知っていた彼の、知らなかったその姿に。

アーニャは強烈に惹き付けられて、気付けば目を離す事が出来なくなっていたのだ。

 

 

******************************

 

 

――――あの青と白の世界から、この妄想だらけの世界に帰ってきた僕が感じたのは、途轍もなく大きな喪失感だった。

 

それは、上半身に大穴が開いたような。脳の真ん中を刳り貫かれたような。最早痛みをを感じる隙も無い致命傷。

穴から流れ出るのは、彼女と会えるチャンスを永遠に不意にした後悔と、それを善しとした自分への憤り。

そんなドロリと濁った負の感情が、思考の中を流れていくけど――僕自身は、何も感じる事が出来なかった。

 

脛まで埋まった雪の冷たさも、アーニャを追いかけた事による疲れも。化物に感じた恐怖や焦りも、今や全ては意識の外だ。

感情が虚脱した状態のまま、指一本動かす気力も湧いて来ない。

……化物の末路と、近くにいる筈のアーニャの姿を探す気にもなれなかった。

 

「…………」

 

今となっては、あのまま化物に殴られて死ぬべきだったかな、と思う。そうすれば、後腐れ無く生き恥を晒す必要も無かったんだから。

……けれど、それだけはどうしても嫌で。絶対に死にたくないと思ってしまった。

 

理由は簡単、将軍への嫉妬。ただそれだけだよ。

何で将軍が生きているのに、僕だけが死ななければならない。

向こう側で彼は梨深と七海とキャッキャウフフしてるというのに、どうして僕だけむっさい筋肉お化けに殴り殺されなきゃいけないんだ。不公平だろ、そんなの。

 

ここに意識が戻った瞬間。一秒未満の刹那の中でそう思って。気付けば、ディソードを使用した後だった。

我ながら、何処までも現金で、ガキで、クズで、意地汚くて。救いようの無い駄目男だと自覚せざるを得ないね。

 

「…………」

 

僕がやったのは、諏訪と殺し合った時と同じ事。

肉体に受ける筈だった暴力を、傷を。第三者の認識を通して反転。妄想攻撃として、結果だけをそのまま返してやったんだ。

……代償として、かなりショッキングな光景をアーニャには見せてしまったみたいだけれど、それは勘弁願うしかない。

あの時、化物の拳は既に軽く鼻先に触れていたんだ。あれ以外の方法では僕は助かる事は無かったし、それに付随して彼女だって死んでいた。

 

僕が野呂瀬との殺し合いで持っていた不死塵の能力は、既に世界に吸収されて失っている。

正真正銘、連コ不可。他の奴らと同じ、残り一機しか僕は持っていないんだよ。

そうして、僕が死んだ後で次に狙われるターゲットが誰か。そんなの、考えなくたって分かるだろ。

 

……ああ、そうか。そう考えれば、僕はちゃんと彼女を助ける事が出来たんだね。

もしディソードを掴む事が無かったら、僕はあのまま死んで居て、化物は生きているままだった筈で。

あの世界に行って将軍を自覚したからこそ、僕は再びギガロマニアックスとなってアーニャを助ける事が出来た。だから、彼の提案を蹴った事には少しばかりは意味があったんだ。

……妄想の世界に、そんな価値があるのか分からないけどね。

 

でも、まぁ。そう思えば、少しだけ気が楽になった気が――

 

「…………」

 

――いや、ごめん嘘。やっぱだめだった。

 

何を考えても、何を思おうとしても。全然心に波風が立たない。

後悔の感情はある。憤りの感情もある。けれど、それが心と繋がらないんだ。

どこかの配線が千切れているのかな。意識が無色を保ったまま、何物にも染まろうとしない。

 

心が、死んでしまったのだろうか。

……もし、そうだったら楽でいいよね。そう思った。

 

――――……タク……?

 

「……?」

 

そうして、ただただぼーっと突っ立っていると、風に乗って声が聞こえてきた気がして。

殆ど無意識に、顔をそちらに向けた。

 

――アーニャだ。

 

僕が生死を賭してまで助けたかった彼女が、其処に居た。

 

「……ぁ……ぇ……」

 

何故か少し離れた場所に居た彼女は、半ば雪に埋もれつつペタンと女の子座りをしていて。唯でさえ大きな瞳をせいいっぱい大きく見開いて、僕を凝視していたよ。

信じられない物を見るように、ありえないものを見るように。微かに熱の宿った真紅の目で、寒さの所為か赤く腫れた手や耳も気にせず、唯ひたすらに。

何時もの気の強い彼女なんて、何処にも居なかった。其処に居たのは、ただ一人の。寒さと恐怖に震えているだけの女の子で。

 

「…………」

 

アーニャの顔は、涙と鼻水の跡で酷い物だったよ。しかも寒気の所為で所々凍りついて、正直見てられない状態になってた。

けれど、僕はそれを汚いと感じなかった。それどころか、僕のために泣いてくれたのかもと思って。少し、嬉さを感じた。

 

……彼女がそんな有様になっているのも、人間の身体が破裂した妄想を見た事で取り乱したからだって分かってるさ。

あの光景は完全にCERO Zを飛び越してたからね。僕がどうこうじゃない、単純にグロ画像を見せられてパニックになっただけなんだ。

 

――でも、彼女が逃げずにここに居てくれた。たったそれだけの事が、胸に開いた大穴をほんの少し、埋めてくれて。埋まってしまって。

 

「…………、」

 

きっと、沢山泣いたんだろう。怖がったんだろう。誰か助けてと泣き叫んで、恐怖に塗れた顔をしていたんだろう

そうして、ただ腰を抜かしていただけかもしれない。呆然としていただけかもしれない。逃げそびれていただけかもしれない。

 

マイナスの理由は幾らでも考えられるけど、それでも僕は嬉しかったんだ。アーニャが傍に居てくれた事に、戻ってきて、一人きりじゃなかった事に。

……あの時僕の名を呼んでくれた彼女が、僕を見てくれている事に。

 

――暖かい感情が、僕の心に色を齎してくれたんだ。

 

「……違、う……」

 

ぽつり、そう呟いて。空を見上げた。

見えるのは、天高くから舞い降りる大きな雪片。それは鈍色の空を斑模様に染め上げて、何とも言えない風情を作り出し。

侘び寂びとか、僕は良く知らないけど。何となくそんな単語が脳内を過ぎって――――

 

 

「――違う」

 

 

瞬間、僕の思考が、熱を帯びた。

 

 

「違う、違う、違う……!」

 

左手で頭皮を掴み、がりがりと掻き毟る。

アーニャがこっちを見ている事なんて、頭の中から消えていた。

 

さっき抱いてしまった感情が。アーニャから貰った暖かな気持ちが。胸の大穴に『火』となってくべられて。

そうして活性化した粘つく黒い感情が音を立てて流れ出し、僕を飲み込んだ。

無色透明だった僕の心が、激しく泡立つ黒い粘液に犯され、塗りつぶされ。

 

「何で、なんっでぇ……!!」

 

それは悔恨。

それは憤怒。

それは嫌悪。

それは自傷。

猛り、荒れ狂うそれは最早痛みさえも伴って、身体の内側を蹂躙し、嬲り。

 

「――違うのに! ぼ、僕は、違くて! こんな、こんな筈じゃ、無かったのに!!」

 

そう叫んで、一筋。

爪が頭皮を切り裂いたのか、赤い線が額から垂れ。頭を掻き毟り続ける掌に伸ばされて、肌に血化粧を施した。

 

……いい感じに締めてごまかそうとするなよ。僕が望んだのは、こんな結末じゃないだろ。

アーニャを助けた事に小さな満足感を抱いて、この世界をちょっとだけ綺麗に思うとか、そんなんじゃないんだよ。

 

「あ、ぁぁ、ぁ、ぁ、ぁああ、あぁぁ、……っぁ、ぁ、ぁ」

 

――なんて事をしてしまったんだ。僕は。

 

こんな事になるつもりなんて微塵も無かった。

僕はただ、将軍の思い通りになることが嫌だっただけで、この世界に居続けたいなんて思ってなかったんだ。

 

本当は、プライドも何もかも捨て去って、皆の所に帰りたかった。

梨深の所に、七海や三住くんの所に、どんな形でも良いから戻りたかった。

誰が泣くとか、泣かないとか。そんなのも、どうだって良かったんだ。良かった筈だったんだよ。

なのに、心のどこかでは「これで良かったんだ」なんてバカボンに考えてる僕も居て。それが気の狂いそうな程に腹立たしくて、辛くて。

 

「か、帰れたかもしれないのに! 考えれば、かんっ、みん、みんなの、とこ……っ!! 僕は! ぼくが……っ!」

 

もう少しよく考えれば、もう少し冷静になれば。もしかしたら、将軍を殺さずに下の世界へ帰る方法が見つかったかもしれない。

将軍の脳を二つに増やしたりとか、二重人格とか、色々と手があったように思えてならない。

確かに、彼と身体をシェアリングするなんて真似は絶対に御免被りたいとは思うさ。

でも、今となっては、現実に帰れるのならそれでも良かった。未来に不幸と障害と早死にしか訪れない外法だったとしても、それで構わなかったんだ。

 

――確かに存在したはずの、最初で最後だったあのチャンス。

 

現実に帰るためなら、どんなクズになっても。どんな化物になっても良かったと。今になって思うんだ。

……そもそも茨を断ち切る必要も、将軍とのリンクを亡くす必要も無かった。ただ僕がその不快感を我慢できればよかったんだ。

そうすれば、少なくとも帰れる機会はいくらでも継続してた筈なんだから。

 

それを、一時の感情とくだらないプライドでふいにして。こんな結果になって。全部が手遅れになった後で、考えを翻して、今更嘆いている。

 

――ほら、やっぱり後悔しただろ? 分かってたんだよ、そんな事……!

 

「っく、くくっ。くふ、ひ、ひ、ひ……ッ!!」

 

唇を引き攣らせて、愚かな自分を笑おうとするけど、上手く行かず。

どうやら知らない内に口内を噛み切ってたみたいだ。吐き出した吐息と共に血の混じった唾液が飛んだよ。

さっきまで感じていた虚脱感なんて、最早見る影も無かった。

心の中に、この結果に満足している僕がいて。後悔している僕がいて。相反する感情が鬩ぎ合い、荒れ狂い。

 

どうすれば正解だったんだ?

何処のフラグを立てればよかった?

何をすれば、トゥルーエンドに到達できたんだ?

分からない、分からない。分からない、分からない……ッ!

 

頭の中がこんがらがって、強い後悔と憤りに押し潰されそうになって。僕は混乱の衝動のまま、反射的に腕を振った。左手で、髪の毛を掴んでいた事を忘れたまま。

 

「、っぐぅ!! ……く、ぐ、っ……?」

 

ブチブチ、と。激痛と一緒に小気味の良い音がして。無理矢理髪の毛が引き抜かれた。

そうして、その鋭い痛みに一瞬だけ視界が真っ白に染まり、飽和状態だった頭の中がリセット。多少なりとも冷静さを取り戻せた。

禿げるかな、なんて。くだらない心配事が脳裏を過ぎったよ。

……さっきの引っかいた傷が広がったのか、額に垂れる血液が量を増した気がする。鬱陶しい事この上ない。

 

「……っく、は……ぁ」

 

僕は荒い息をつきながら、ゆっくりと腕を下ろして。感情の猛りに震える身体を抱きしめた。

それは、寒さの為じゃない。負の感情に翻弄されて、ともすれば崩れ落ちそうになる身体を必死の思いで支えてるんだ。

 

――これから僕は、何をすればいいんだろう? 

 

まともに働かない頭で、そう思考したけれど……当然、それに答えなんて出る筈も無い。

つい先程自分がやった事に後悔してる最中なのに、次に行う行動なんて考えられる訳が無いだろう?

しかし、その時の僕にはそんな簡単な事すら分からなくて。唯ひたすらに思考を回し続けて。

何度後悔に押し潰されそうになる度、何度憤りに叩き潰されそうになる度。

僕は血を流す唇を強く噛み、噛み切って。その痛みでさっきみたいに無理矢理思考を戻して、同じ事を考えようとして、また失敗する。その繰り返し。

 

……そして、ローブを掴んだ指。

繰り返していく度に緩んでいくその隙間から、零れ落ちた髪の毛が一本。寒風に吹かれて雪の間をすり抜けていって――――。

 

――――丁度、その時だ。僕達の耳に、何かの羽ばたく音が聞こえてきたのは。

 

『――――』

『――――、――――!』

 

黒い翼を震わせて、村のある方角から意気揚々と飛んできた、その黒い化物。

恐竜のような、人間のような。よく分からない姿をしたそいつらは、どうやら空中で僕達を見つけたらしく、一直線にこっちに向かってくるみたいだ。

互いに何某かの言葉を掛け合いながら、楽しそうな雰囲気を滲ませている。

 

――何をしに来たのかなんて、考えるまでも無い。

 

「……ぁ、ぁ……」

 

アーニャの悲鳴にも似た呻き声が聞こえ――ドスン、と。

怯える彼女の事なんて関係なく、奴らは僕達の直ぐ目の前に音を立てて降り立った。その衝撃で砂埃ならぬ雪埃が吹き付けて、思わず目を眇めたよ。

 

「…………」

 

そうして立っていたのは、見上げるほどの巨体。

漆黒の肌に、鋭く尖った顎と角。筋骨隆々の上半身。素っ裸な筈なのに下半身には性器が無くて、その代わりに尻尾が生えていた。

丸っきり、ゲームとかに出てくるモンスターそのままだ。

 

『――、――?』

『――――! ――――』

 

そいつらは僕達子供を目の前にして、舌なめずりにも似た仕草を浮かべた。

まるでご馳走を前にしたピザの様に、彼らは愉快そうに談笑しながら僕達に嫌な色合いの視線を向けてきて。

 

……何て喋ってたかなんて、一々覚えていないよ。

でも、別に良いだろ? 覚えておく価値も意味も、何一つ無いんだから。

 

「――ぅ、やぁぁ……!」

 

でも、どうやらアーニャは彼らの言葉をちゃんと聞いていたようだ。

禄でも無い事を喋ってたみたいで、恐怖に慄く表情で弱弱しく顔を振って拒絶の意思を見せていた。

余程話している内容が下種な物だったのか。それとも、ただ単に黒い化物にトラウマを持ったのかな。よく、分からなかった。

 

そうして、僕が見蕩れた真紅の瞳が、助けを求めるようにこちらを向いて――――

 

 

――――――いい加減に、僕も限界を迎えた。

 

 

『まぁ、精々楽しませ――――』

 

――ずるり。

 

何故か、僕の意識に強く残ったその言葉。

辞世の句とも断末魔とも呼べない意味の無いそれは、最後まで紡がれる事は無く。

 

――愉しそうにアーニャに向かって手を伸ばしていた化物の身体が、音も無く、ズレた。

 

『――――、?』

 

本人には、何が起こったか分からなかったみたいだ。

呆けた表情のまま、斜めに切られた上半身が、重力にしたがって下半身から離れていく。

そうしてバランスを崩した上半身が、アーニャの方角へ倒れこんで――――

 

『お――ぶ』

 

――赤く脈動する茨が、鞭の様に撓り。それを細切れに裁断して。彼は彼女を押し潰す事無く、黒い血煙となって吹き飛んだ。

 

「え――?」

 

『ヌ……?』

 

アーニャと、もう片方の化物の呆けた声が、響いて。

後に残るのは、ゆっくりと空気に溶けていく下半身と、彼が降り立った足跡。それだけ。

 

――怨嗟の声が、静かに響く。

 

「…………お前ら、が」

 

……それは、間違いなくただの八つ当たりだったよ。

行き場の無い感情を、誰かに押し付けたかった。暴力的な形で発散したかった。

そして、それをしても構わない奴らが出てきたから、そうした。それだけの理由。

 

自分でも、最低な事をしてるって分かってたさ。でも、それを止める事なんて出来やしない。

だってそれは、一応正しい事だったから。こいつらを殺す事は、客観的に見て正義の行いだったから。

止めるべき理屈も、必要も。あるはずが無いんだ。

 

「お前ら、が。来たから……」

 

ぐるぐると、熱に浮かされた思考が回る。

僕の心が悪意に歪み、溶け落ちて。正しき行為への道筋を、間違った思考で黒く穢していく。

 

……そうだ、そうだよ。

本当なら、僕は今もぐだぐだ悩んでたままで居られた筈なんだ。

暖かいジメッとした部屋でネットをして、何時も通りネトゲをして。

本当の事なんて何も知らずに、ただ漠然と不安がってるだけで良かったんだ。

なのに、お前らが村を襲ったから、アーニャを襲ったから。こんな事になって。

スタンもネカネも居なくなって、僕が一人で何とかするしか無くなって。

お前らが僕を殺そうとしたから、茨を掴んで将軍と会う羽目に陥って。僕は世界の真実(笑)を知る事になって。

 

――お前らなんだよ。

 

僕が帰れなくなったのも。梨深達と永遠に会えなくなったのも。全部。

全部、全部、全部、全部全部、全部全部全部全部……!!

 

 

――――――――お前らの、所為だ……ッ!!

 

 

「――――ぁ、ぁ、ぁあああああああああああああああああああああッッ!!」

 

リアルブート。

噴き上がる怒りのままに、握り締めたディソードの意匠と柄に巻き付く茨のガラス部分とが、赤く、強烈に脈動し。

右腕より射出された茨の一本が、地中深くに潜り込み――そして、咲く。

 

地面の下でその数を増やした茨が、何十、何百と僕の背後の地面から飛び出して。土塊を撒き散らし。

それは互いに絡みつき、拠り合わせ。やがて無数の棘の鱗を持つ巨大な「巳」となって、僕を守るように滞空した。

 

――例えるならば、神話におけるヤマタノオロチの如く、ヒュドラの如く。

 

意思を持った生物の様に、憎むべきそいつを、殺されるべきゴミを。眼球の無い視線で睨み付け――

 

『……あ、ぶぎゅ、ぐ』

 

瞬間、そいつは喰われていた。

餌に殺到する何匹もの巨大な「巳」に呑み込まれ。意味ある言葉、血飛沫、何一つ残す事無く。

束ねられた茨の中で磨り潰されて、焼き尽くされて、千切られて。空気に溶ける暇も無く、完全に消滅したんだ。

罪悪感なんて、そんな下らない物は欠片も無かった。それどころか、まだ足りないとさえ思って。

 

……アーニャは、僕をどんな目で見たのかな。気にはなったけど、それを確かめる勇気は無かった。

 

「はーっ……! はぁー……っ!!」

 

そうして昂ぶる感情を抑えきれず、僕は呼吸を荒らげて。衝動に突き動かされるままに空を見上げる。

 

遠目に映るのは、当然舞い散る大粒の雪の中を飛び回る化物達の姿だ。

これまでに殺してきた三匹なんか物ではない数の、それ。

 

――あいつらは、まだまだあんなに居る。

沸騰し、泡立つ思考の中でそう考えて。

唇から血と涎を垂らしながら、搾り出すように大声を張り上げた。

 

「っく……ぅ……ぅぅぅぁぁぁあああああああ!!」

 

僕をこんな目に合わせた原因を作った奴に、僕と同じかそれ以上の苦しみを与えてやりたい。

その一念だけを持って、僕は右手の睡蓮を掲げ。指揮者の様にその場所を指し示し。

感じたのは、後ろ向きな優越感。ディソード越しに彼に命令を下しているような錯覚を受け、薄く、口角が釣りあがった。

 

――――行け!

 

そうして茨の巳は僕の命に従い、解けて。雪の舞い踊る空の下を奔った。

その光景は遠目に見れば巨大な噴水に見えた事だろう。何度も枝分かれを繰り返し、その度に細くなりながら。幾つもの閃光となって村の方角に飛んでいく。

いや、村だけじゃない。少しでも何かの意識を感じた場所に、その茨は雨の様に降り注ぐんだ。

 

森に、山に、湖に。それは望めば望んだだけ、何処までも伸びて。範囲を広げていく。

 

――そして、チャネルを開いた。

 

 

「ぐッ―――――!!」

 

 

――死にたくない。

――殺してやる。

――助けて。逃げるな。

――何処に行った。もう一匹残ってる。腕をやられた。死ね、死ね、死ね。

――奴は何処に、死ね、嫌だよ助けて、守るから、何なんだこの女は、死に掛けているはずなのに何故動ける、もう嫌だ俺は、増援がきやがった、もう少し楽しんでもいいだろう、少し齧っても。

助けて死にたくない俺が殿を糞が何で生きてやがる茨?中々骨のある老人だがしかし少し足りない首が飛んだ糞がやりやがる何が起こってる何もみえねぇぞ逃げるな少しここで待ってて直ぐ戻るから死ねよ村から出て行け猿かあの女は子供達の所へは行かせる物かここで果てろ封印の瓶を魔力が足りねぇ死にたくないよぉ母さん父さん足が石になっていく解呪もできやしねぇ何でそんなあなた逃げて逃げるんだよここからこのままでは計画が崩壊する俺が引きつけるぼーずワシはここで終わりのようじゃごめんなさい助けられない腱が切れたあぐぁ杖が美味いな喰うのは久しぶりタバコが煙いおいあいつの地下からドラム缶が嫌だ嫌だ石になりたくないちょっとぐらい喰っても死にはしねえだろ嬲って殺すほれもっと逃げろグギッ糞がいい気になりやがって悪魔がいきなり死んだ私の最後の魔法だ消えろ消えろ36匹抜き狂ってやがるうお何だこりゃ助かったのか数が減った補充せねば何で俺は死んだんだ?動かない今の内に血が一杯だ指一本死ね死ね死ね嫌だ死にたく無い――――

 

光景、思念、悪意、混沌。

拡散したディソートを通して流れ込んでくるのは、極限状態にある人々の悲痛な叫びと、それを愉しむ畜生どもの笑い声。

何人か見た顔が過ぎった気がするけど、この時の僕はそれを判別してる余裕なんて無かった。

 

「う、っぐ、くぅ……!」

 

あのスクランブル交差点の時の様に、渦巻く黒い感情に押し潰されそうになるけれど、僕はそれを必死に堪え。引っかかる悪意――化物の思念を見つけた傍から引き裂いて、消して行く。

 

ある化物は、単純に首を飛ばした。

ある化物は、胴体を半分に割った。

ある化物は、腕を潰した上で胸を切り裂いてやった。

ある化物は、股下から脳天まで貫いてやった。

ある化物は、妄想で精神その物を磨り潰してやった。

 

村人を助ける為じゃない。ただ、目障りだったから。見るに耐えない不愉快な悪意を間引くんだ。

いい気になってたそいつらを蹂躙し、陵辱し、苦しみを押し付ける。

……けれど、僕の気は晴れなくて。それどころか、ますます惨めな気になって。

 

――そして、最後に見つけたんだ。

この場に蔓延る、幾つもの悪意を結ぶ収束点。蜘蛛の巣の様に絡み合う糸を遡っていった先に存在した、複数の核。

 

「!!」

 

森の中に三つ、湖の畔に一つ、山中にある廃屋に一つ。合計五つ。

村より大分離れた場所に別々に存在したそれらは、人の形をしていた。人の姿をしていた。

角も爪も、羽すらなく。きちんと肌色をした、そこら中を暴れまわっている化物とは似ても似つかない正常な人型。

暗色のローブを被り手に杖を持ったその姿は正しく魔法使いと呼ぶべき物で、彼らは次々と数を減らしていく化物に慌てふためいている様だった。

そして、その足元には何やら光を放つ魔方陣のような物が幾つもあって。

 

――――それが心底、癪に障った。

 

「――――死、っぃねよぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!」

 

絶叫。

僕の未来は、僕の幸せは。あんな陳腐な光によって閉ざされたのか。

あんな妄想の塊に、魔法なんてふざけた設定に奪われたのか。

白昼堂々と厨二病の格好をした気狂い達に、僕はこんな目に合わされているのか――――!

 

……事実と何一つ符合しない言い掛かりが僕の脳を焼き、視界が真っ赤に染まった。

 

「ぉぉおぉぁああああああぁぁぁあぁぁああぁぁあああッ――――!!」

 

八つ当たりによる責任転嫁、それしか出来ない濁った思考の中で。

涙とは違う熱が目の端から流れ落ちるのを気にも留めずに、思い切りディソードを振り抜いた。

 

それは決して子供の貧弱な筋力では不可能な速度で閃き、唸り。音速すらをも超え、蒼い帯を生み出して。

 

距離も、方角も、数も、雪も、木々も、森も。全てが消える。僕を邪魔する現実は、その全てが妄想に伴い捻じ切られ、無かった事になるんだ。

 

そうして開けた視界の中、紅の炎の意匠が、蒼い睡蓮の光が。空間その物を切り裂いて――――

 

 

――――白い大地に五つの大きな裂傷が刻まれ。その場に飛び散った血液と臓腑が、両断され光を失った魔方陣を、赤く、汚した。

 

 

*****************************

 

 

「……はぁっ、はぁっ……!」

 

パリン。と。

化け物の気配が次々と消えていくのを尻目に、役目を終えた茨がガラスの割れた時のような甲高い音を立てて砕け散る。

 

村に向かった物も、森と湖に飛んでった物も。僕のディソードを残して、全て元の形が分からない位に粉々に。

そうしてその一粒一粒が、曇天からうっすらと差し込む日差しと村から上がる炎に妖しく煌き、風に吹き散らされて雪に混じって消えていくんだ。

 

……幻想的、と言えなくも無い光景だったけど、将軍の欠片だと考えると嫌悪感しか浮かばない。

吸い込んだら呼吸器官がえらい事になるかな。と一瞬だけ思ったけれど、まさかこの状態になってまでリアルブートは維持出来てないだろうと思い直す。

 

「ひ……ひっ、ひっ! ひひっ!! っざ、ざぁ。ざまぁみろ! ざまぁ、ざ、ざ……!!」

 

それはどう見ても、息を引き攣らせた喘息患者にしか見えなかった。

握り締めたディソードには伝わらなかった、人肉を切り裂く感触を想像して笑おうとするけど、上手くいかないんだ。

 

人を切り殺した事に対して笑おうとか、我ながら屑だなぁと感じるけど、どうせ野呂瀬や諏訪を殺した時点で僕は殺人犯なんだ。

それに何より今さっき殺した奴だって妄想なんだからね。構う事なんて無い筈だろ? 

……そう、自分に思い聞かせて。碌に動こうとしない肺を膨らませ、横隔膜を震わせる。

 

「ひ、ひひっ! ひ、ひ、わら、笑えよクソッ!! 笑えよぉ!!」

 

けれど、駄目だった。

化物を撃退した爽快感なんて、微塵も沸かなかったんだ。

 

ディソードを振り回して、地団駄を踏んで。必死になって笑おうとしても、やっぱり無理で。

それどころか、どれだけ頑張っても笑顔を浮かべることのできない自分がとても惨めに思えて、表情が醜く歪んで行くんだ。笑顔とは、まるで逆の方向にね。

唇から流れ出た血が混じったのか、それとも本当に目から血が流れているのか。薄赤色の雫が、ぽたぽたと白い雪に桃色の点を付ける。

 

……分かっている。分かっているんだ。

 

確かに化物達も、その原因だった魔法使いモドキ達も。倒されるに相応しい惨状を引き起こした敵キャラさ。

村を壊しまくって、アーニャと僕を殺そうとして、その他にも酷い事を色々やってたんだろう。殺したところで誰も文句なんて言いやしない存在だ。

 

でも、それだけだ。もし彼らが襲ってさえこなければ、僕は将軍と会う事も無かっただろう。けど、最終的に判断を下したのは僕。

向こうの世界へ――梨深の所に帰らない選択肢を選んで、「梨深の泣く事をしたくない」とか変に格好をつけた事による自業自得。

 

――全部、僕が選んでやった事なんだよ。

 

「……くそ、くそぉ……!」

 

凄く情けなくて、馬鹿みたいだ。

もう喚く気力さえも無くなって。積もった雪の上に膝を付いた。

 

脛から膝頭までの広範囲に鋭い冷たさが広がるけど、そんな事はどうでも良かった。

ただ、酷い郷愁の念だけが、僕の心を覆っていたんだ。

 

――心が、濁る。

 

僕はこれからあと数十年もこんな場所で過ごさなきゃいけないのか。

妄想に塗れた、妄想しか存在しないこの場所で、僕は、ずっと。

西條拓巳として存在することも許されず、ネギの設定を押し付けられたままで。

僕の事を誰も知らない、知りようの無い世界で――――

 

「…………ひっ、くふ…………ああ――」

 

……そう、だね。もう、それでも良いのかもしれない。

呟いて、ゆっくりと手元に視線を向ける。

僕の右手に納まっているディソードが、蒼く、淡い光を発していた。

 

「…………」

 

考えてみれば、僕がこんなに苦しんでいるのは、僕が西條拓巳であり、ネギじゃなかったからなんだ。

僕でありたいという思いと、僕をネギにしようとする環境。

周囲の設定と『僕』が噛み合っていなかったが故、互いの間に不愉快な摩擦を起こしていた。

 

……なら、もう良いんじゃないかな。

 

元々僕は「何時か帰れるかもしれない」という可能性に縋ってここまで生きてきたんだよ。

だったら、将軍との繋がりを断ち、元の世界に帰る事も西條拓巳に成る事も出来なくなった現在。僕が僕に執着する必要なんてあるのだろうか。

 

残したくない物は、何一つ無いんだ。

これから先、苦しみしか得られないと分かってる道筋を、わざわざ進む事なんて無いんじゃないのかな。

 

「……ひ、ひひっ」

 

さっきとは違う、自然な笑い声を響かせながら。僕は蒼いままのディソードを両手で掴み直し、持ち上げて――その刃を首元に当てた。

勿論、リアルブートはしないままだ。そんな事をしてしまえば物理的に首が落っこちてしまうから。

……本当は逆手に持って由緒正しきハラキリスタイルにしたかったけど、刃と腕の長さ的な問題で諦める。

 

――そうさ、全ては僕だけが消えれば済む話だったんだ。

 

それは、肉体的な死という意味じゃない。言うなれば記憶の死、人格の死。

西條拓巳が消えて、ネギだけになれば。混じり込んでる僕の意識だけを取り除けば、在るべきものが在るべき場所にピタリと嵌って、全て上手く事が運ぶようになる。

梨深達に会えない事を嘆く必要も、寂しがる感情も。今受け取っている全てのストレスから僕は解放される。ネギとして違和感無く振舞えるようになる筈だ。

 

僕だけの精神だけを消す事が出来るのかどうか不安が残るし、そんな繊細な操作が素人ギガロマニアックスに可能なのかも分からない。

でも、それでもし失敗しても構わないんだ。どうせ廃人か無気力人間になるだけだろうし、死ぬ訳じゃないからね。現状を認識できなくなるなら、むしろ望む所とも言えるよ。

 

――これが成功すれば、以降の人生は異物たる『僕』ではなく、設定通りの『ネギ』が主観になって進む事になる。それは、極めて正しい道筋なんじゃないのかな。

 

……少なくとも、ヒキオタの僕よりはね。自分が脇役レベルなのは良く知っている事柄さ。

 

「……そ、そうだよ。っそ、れに。今まで、散々、その設定で苦しい思いをしてきたん、っだ……。だった、だったら」

 

これから訪れる絶望も、面倒事も。全て『ネギ』に押し付けさせて貰おうじゃないか。

村がこんなになって、化物たちが襲ってきて、住民の殆どが生死不明。更に魔法とか英雄の息子(?)なんて設定も絡んでいると来てるんだ。

これから僕が相当面倒くさい事になって行く事は想像に難くないよ。

 

……あぁ、その点に関しては、僕は化物たちに礼を言ってやっても良いかもしれないね。消えるきっかけを与えてくれて有難う。ってさ。

まぁ今更それを言っても、化物を殺しまくった恩知らずが何言ってるんだって事になっちゃうけど。

 

「……、……は、」

 

ディソードを持つ手がカタカタと震える。

首筋に当てた蒼い刃が、振動する度に微細に肉を透過して、よく分からない気持ち悪さが首筋に広がった。

 

……恐怖は感じていない筈だから、これはただ単に寒さに震えているだけだろう。

溢れる涙も、食いしばった唇も、合わない歯の根も全部そう。ただの生理的反応に過ぎない。

誰かの顔が浮かんだ事も、名を呼ばれた事も。全部気のせい。雪の寒さが見せた幻だ。

 

――そして、乱れそうになる思考を一つに纏めて強く念じる。僕という存在の消去を、ネギという存在の確立を。

 

……あれ程嫌っていたネギを確立させるって言うのも皮肉な話だけれど、今の僕にとってはそれが最善。これから続く苦しみから開放される、死以外の唯一の手段なんだ。

そう自分に強く言い聞かせて、固く目を瞑って。

 

そして、叫んだ。

 

 

「――――――――――――――――――っ!!」

 

 

それは意味の無い言葉の羅列だった筈だ。

獣の雄叫びのような、擬音のような、人には理解し得ない音。

掠れた声で放たれたその絶叫は不快音となって空に轟き、周囲の空間を揺らし続ける。

 

何を言ったのか。なんて。そんなのは覚えていない。

もしかしたら、聞くものによっては歓喜の声にも、助けを求める声にも聞こえたかもしれないね。

……少なくとも、このときの僕には自分がどういった意図で、どのような言葉を発したのか把握できていなかったんだ。

 

――――そうして、腕に力を込めて。胸に留まる何かを振り切るように、手首を勢い良く振った。

 

自分を殺し、ネギを産む。そんな強い想いを込めて。

 

何時の日か考えたものとは大分違うけど、自殺という最低な行為をする羽目になった事に嘲りの感情が心を過ぎり。しかし、それを深く考える時間は無く。

 

先程人を殺した蒼い軌跡が、今度は僕の首に吸い込まれていくんだ。

 

早く、速く、閃く。刃自体が意思を持ったかのように、鮮やかに、自動的に。

 

僕を、西條拓巳をこの世界から消去すべく、ただ、真っ直ぐに突き進み――――

 

 

 

 

 

「や、だぁ……!!」

 

 

 

 

 

――――どすん、と。

 

背中に勢いの付いた何かが圧し掛かり、中程まで首に埋まりこんでいた刃が、止まった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「ぁぐっ……!?」

 

背中を圧迫され、衝撃でうめき声が漏れる。見ていた景色が前後に揺れ、体が前方に吹き飛ばされそうになった。

何者かに組み付かれたみたいだ。もし地面に膝を付いていなければ倒れ込んでいたかもしれない。

そうして、突然の事に混乱していた僕の視界の端に、赤紫に腫れ上がった手が映り込んで。

 

僕の物よりも一回り大きいそれらは両手首を握り締め、刃をこれ以上動かないようにガッチリと固定していた。

 

「……、……だ……っ!」

 

……僕の背中、何かが押し付けられたその場所から、小さな呟き声が流れる。

それは嗅ぎ慣れた乳臭さと、ほんの少しの汗の匂いと一緒に、僕の嗅覚と聴覚を刺激して。一人の少女の姿を思い起こさせて。

 

――その人物の名なんて、言うまでも無い。

 

「……やだ、やだ……!!」

 

僕の手首を両腕で掴み、鼻先を肩甲骨に擦り付けていた彼女は、嘆願するようにずっとそう呟き続けていた。

冷たい体を震わせて、涙と鼻水を押し付け僕のローブを汚しながら、唯一途に、只管に。

近くで観察してみても、やっぱりいつもの気丈な彼女じゃなかった。弱弱しい嗚咽を漏らしながら首を振り続ける彼女は、まるで僕みたいに情けなく、無様で。

 

「……ぇ、なん……で。っ……?」

 

「ゃだ、やだ……やだ……」

 

――ディソードが、見えて、る?

 

僕はそう言葉にしたつもりだったけど、咄嗟のことに口が上手く回らなかったみたいだ。驚きと疑問の感情だけが先行し、具体的な言葉が何一つ発せない。

 

……まぁ、この様子を見る限りじゃ、もし口が回っていたとしても僕の言葉が伝わっていたのかは怪しい所だ。

彼女は僕の声に反応する事無く、さっきと同じ反応を繰り返すだけ。振り返っている僕に視線を合わせてくれる事すらないから。

 

そうして、そんな様子を眺めながら――――結局、僕は彼女を守り切れて居なかったのかな。なんて思った。

 

「やだ、やだやだや、だ……や、やぁ……」

 

「…………」

 

だって、そうじゃないか。

ディソードが見えているって事は、つまりはそういう事なんだろう?

何が「勘弁してもらおう」だよ。そもそも最初っから駄目駄目だったって事じゃないか。

 

肉体的には無事だったとしても、だって、そんなの。

 

「…………」

 

「ぃ、やぁ……やだ、からぁ……」

 

再び襲い掛かってきた無力感のまま、衝動的にぐいぐいと腕を引っ張ってみるけど、ディソードはピクリともしない。

細い――と言っても僕よりは太いんだけど――彼女の腕の何処にそんな力が秘められているのか、肘も手首も硬く固められていて貧弱な僕の力じゃ一センチたりとも動かなかったんだ。

 

……そして、尚もディソードを動かそうとするその行動に危機感を大きくさせたのか、彼女は更に深く僕の体に縋り付いてきた。

ゾンビのように背中を這い上がり、攀じ登り。腕に手を絡みつかせて背後から抱きつくような姿勢になって、肩口にその頭部を置いて。

感じたのは、湿った髪の感触と、互いの体液で濡れた頬が擦れ合う不快感。

涙と、血と、鼻水と、涎と。顔から流す事の出来る体液全てが交じり合って、ぬちりと粘性のある音を立てた。

 

――――居なくなっちゃ、やだ。

 

……そんな、切実な声が。すぐ近くから鼓膜に染込み、脳みそを犯していく。

 

「……なんで、邪魔、するんだよ」

 

「やだ、やぁ、ぁ……」

 

「……何も、知らないくせに。分からない、くせに……」

 

「お願い、やだ、居てよ、居て……よぉ……」

 

噛み合わない、整合性も無い、慮りも無い。ただお互いの思っている事を投げ合っているだけの、会話とも呼べない言葉の応酬。

そんな無駄で力の無い言い合いをしているうちに、圧し掛かる彼女と体を支えていた薄い腹筋が死に、バランスを崩してうつ伏せに倒れてしまった。

彼女の体が僕に覆い被さって、胸を圧迫。蛙が潰れたかの様な醜い呻き声が漏れた。

 

……背中にかかるその重さが、まるで何かを暗喩しているようで、妙な気分になったよ。

おまけにその衝撃で持っていたディソードが手から離れて、背景に溶けるようにして消えていく。

新しくディソードを引きずり出そうにも、僕の腕は未だガッチリ押さえつけられたままで動かないし、振り解こうにも奇襲からの<組み付き>だし何よりSTRとSIZの値が足りてないからロール自体自動失敗だし、何かもう、最悪だ。

言葉は、続く。

 

「君だって、その方がいい、だろ。僕なんかより、元気なネギの方が」

 

「やだ、やだ、やだ……」

 

「……だから、消えさせて、よ……そんな、」

 

 

「――やだっ! やだ、やぁっ!!」

 

 

一際大きい声が鼓膜を揺らし、耳鳴りが僕を襲った。

何の事は無い、ただのヒステリックな金切り声だ。

リア♀がよくやる、自分に都合の悪い発言を封じる汚い術。僕が汚泥の如くに嫌うそれ。

……だというのに、その大声と一緒に大切な何かを貰った錯覚を受けて。一瞬思考に空白が生まれた。生まれてしまった。

 

――呆然とした僕を他所に、続く。

 

「……やだ、死んじゃ、やだ……」

 

……思えば、何時だって彼女はそうだった気がするよ。

何も知らないはずなのに、根本的な事は何も察せていないはずなのに。正確にその人にとっての重要な何かを穿つんだ。

Xデーの時も、思考に煮詰まった時もそう。手遅れになる前に僕を蹴飛ばしてくれて。

 

「見てる、から……ちゃんと、今度は、みんな知る、から」

 

現状を正しく認識しないまま、自分の想いだけを伝えてきて。それを勢いに任せて無理やり押し付け、そのまま致命的な部分に突き刺してくる。

そうして何故か、その度に僕は何だかんだ色んな意味で酷い事になるんだ。

 

ベクトルが違うだけで、殆ど強盗殺人だよね。ああ、やだやだ。

 

「……おねがい、だから。居て、そばに……おねがい、おねがいだから……」

 

ほら、今回だってそうだ。僕を殺そうとしてきてる。

 

しかも何か耳に口を近づけて、何時ものぶち切れモードとは違う、必死な感情を込めて囁く様にと来た。

卑怯だよそんなの。僕の心がこれ以上無いほどに壊れかけてる今、そんな事をされたら。

何も理由が無いからこそ、僕が居る意味が無いからこそ僕は消えようとしていたのに。こんな、こんなの――――

 

 

「だから、おねがいだから、ね、居なくならないでよ、ねぇ――――――――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――『タク』

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………………………………………………………………………………………………」

 

 

……力が、どっと抜け落ちた。

 

彼女を振り払う気力も、ディソードを追う気も。体を動かすための活力全てが無くなって、今度こそ完全に全身が弛緩。五体をぶらりと投げ出した。

そうして背中にかかる重みも、擦り付けられる彼女の体液も、僕は全部受け入れて。深い諦観の念と共に地面で頬を押し潰す。

 

「……………………」

 

「タク、やだ、やだぁ……」

 

……未だ耳のすぐ隣で聞こえるうわ言をBGMとして、僕はゆっくりと目を瞑る。

と言っても、何かを考えるためじゃない。何も考えないためだ。

後悔するのも、悲しむのも、自己嫌悪するのも。もう、何もかもが面倒臭くなったんだ。

 

勿論、まだ心には黒い淀みが澱となって沈殿してるし、消えたいって衝動も無くなってない。

いきなり全てを諦められるほど、僕は人間が出来ないんだ。

 

……でも、何と言うか、まぁ。

そういう複雑な事を考えるのは、後で良いかなと思って。

 

「…………」

 

きっと、そんな意味じゃ無かったんだろう。彼女はディソードの事を知らないから、唯単純に自殺を止めたつもりなんだ。

だから、居なくならないでって言葉も、死なないでって意味なんだ。僕が消えるとかネギが産まれるとか、そんなの考えもしなかったに違いないよ。

だと言うのに、君は何でそんなに的確なんだ。当てずっぽうだとしても命中率が高すぎない?

 

「……ひ、ひ。案外、ギ、ギガロマニアックスに、向いてるのかもね……」

 

「やだ、やだ、やだ……!」

 

どうやら僕達のご同輩にはなりたくないようだ、もう片足踏み込んでる癖に。

なんて本当に詰まらない野次を頭の中で飛ばしつつ、僕は溜息を一つ吐いて頭を右側に――肩口に在る彼女の頭部へと寄せた。

 

ぐじゅり、と。体液と雪で湿った髪が擦れ合い、絡み合う。それはさっきの頬のときと同じく不快としか表現しえない感触だったよ。

頭皮は痒くなるし、何か変に生暖かいし。正直、長く触れ合って居たくないと強く思う。

 

――けれど、何故か心が凪いでしまって。

 

「……君の、所為だからな……」

 

「……ゃ、ゃあ……や……」

 

「こ、これから僕が、っ感じる。嫌な事は、全部。君が引き止めた所為、なんだ……」

 

「やだ、や、っ……」

 

やっぱり会話は成立しないけど、それで良かった。

寒さの所為か、心労の所為か。徐々に薄れていく意識の中で、僕は彼女に恨み言を吐き出し続ける。

君の所為だと、君のおかげだと。憎しみとも感謝ともつかない中途半端なそれを、今度はこっちが耳元で囁いてやるんだ。

 

「……君が、望んだから。君が、ネギじゃ、無くて……僕が良いって、言う……から」

 

「……やだ、や、ぁ……」

 

「だ……から、仕方なく……僕は、僕のまま……」

 

段々と、僕達の声に力が無くなっていく。

いや、もしかしたら僕の耳が遠くなっただけかな。まぁ、どうでもいい事だ。

 

――これはただの雑音。見苦しくも下らない言い掛かりに過ぎないのだから。

 

「――あ――から――って、……――」

 

「――――だ、や――――……」

 

そうして最後には何もかも分からなくなって、僕の意識は暗闇に落ちていく。

 

それは不自然なほどに急速に、理不尽なほどに深く。僕を暗黒の世界へと誘うんだ。

本来ならば何かしらの恐怖を感じるべき場面なのかもしれないけど、それに抗うという発想すら浮かばなかった。

今日は色々な事があり過ぎた。背中の彼女の事も、凍死の危険性も。その時の僕には瑣末な事に過ぎなくて。

 

ただ、只管に眠かった。面倒な考え事から一刻も早く逃れたかった。

 

――――だって、明日もまた僕は僕のままで居なくちゃならないんだ。やってられないよ、全く。

 

「――――」

 

そして、最後。完全に意識を飛ばす寸前、僕は何某かの言葉を呟いた。

殆ど口の中で転がす様に、息遣いにしか聞こえない程の小ささで。囁き、呟き。

 

それはあの時と同じ言葉、気づけば彼女に放っていた、『彼女』に言えなかった想いの塊だ。

篭っていた感情が同じかどうかは知らない、でも、その重さは同じくらいだったと思う。

 

僕はそれを、届かなければ良いなと願って――――そこで、僕は完全に暗闇へと落ちた。

 

 

心臓が甘く痺れ、それが指先に広がって、背中の重みに圧されて全身が地面に埋まっていく。そんな錯覚。

嫌悪感は沸かなかったよ。むしろ、まるで僕と言う存在がこの世界に定着させられているかのようで、何となくいい気分になったんだ。

……後に何が起こったのか、彼女は反応を返してくれたのか、覚醒しかけた彼女の精神状態はどうなったのか。僕は何一つとして知り得なかったけど。

 

それでも、何だか悪い事にはならないような気がした。

 

「…………」

 

頬に落ちた雪の欠片が肌の上で溶け、滑り落ちていく感触が強く印象に残って。

 

僕の記憶は、そこでぷっつりと途切れた。

 

 

 

 

――――その時の僕の身体は。決して、笑顔は浮かべていなかった筈だ――――。

 




■ ■ ■

ぬぬぬんぬん。

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