最愛の人が傷つく事の無い、ささやかな幸せのある世界だった。
曇天。
今にも泣き出しそうな鈍色に濁った雲が、病室の窓から見える景色を覆っている。
おそらくもう少しもすれば雨が降り出すのだろう、雨の日特有の気だるい雰囲気が一足早く訪れて、病室全体を包み込んでいた。
『…………』
窓の外に見えるのは、倒壊したビルの群れ。
根元から折れ曲がり、周囲を巻き込むようにして崩壊しているその姿は、まるで世界の終わりを表現しているかのようで。
僕の好きだった、夕暮れの光を受けて輝いていた景色の面影なんて何処にも無かった。
無残にも砕け落ちた瓦礫の山が噴煙を上げ、割れたアスファルトからは水が溢れ出して。潰れた家屋の隙間から炎がその姿を覗かせていた。
そこかしこで上がる悲鳴が窓ガラスを透過して僕の耳に届き、より一層の罪の意識を自覚させたよ。
――これが、お前の罪だ。お前の所為でこの惨状がある。
僕の壊れかけた耳に、そんな声が木霊した。
それは僕の『敵』の声に良く似ていて、邪悪な気配が鼓膜を突き破って脳に侵食していく様な錯覚を受けたよ。
そうして、すぐに外に飛び出して、あそこで苦しんでいる人達を一人でも良いから助けたい、と強く思った。だって、僕にはその義務と力があるんだから。
……でも、それは出来ない。してはいけない。
今ならば、全てが収束へと向かっている今ならば、『敵』の事なんて気にせずに自由に外を出歩けるのだろう。
擦れ違う人達に偽装を施す事も、僕の隙を伺っている人達の目を誤魔化す事もしなくていい。それは、とても楽な事だった。
皮肉にも、今のこの惨状が僕にとって最も動きやすい状況となっているんだよ。
だけど、身体がもう動かない。車椅子に乗る体力すら、今の僕には無かったんだ。
頭も、手も、足も。逸る気持ちとは裏腹に、満足に動いてくれなくて、ただ横になっている事しか出来なくなっていたんだよ。
満足に動けない身体に不満を持つ事には慣れているつもりだった。でも、これ程の気持ちを抱いたのは久しぶりだ。
もし、君の力を保つという役目が無ければ、僕は発狂していたかも分からないね。
『……お兄ちゃん……』
傍らに座る妹が、そんな僕を心配そうな瞳で見つめていた。
先程まであの瓦礫の山に身を置いていた彼女は、血と砂埃に塗れた手で僕の干乾びた腕を握ってくれた。
愛しむように、慈しむように。強く握ればそれだけで崩れてしまいそうな程に弱弱しいそれを、優しく、力強く。
まるで触れ合う部分から、彼女の想いが僕に流れ込んで来ているようで。常に強い負荷がかけられている僕の身体に、ほんの少しの活力を与えてくれるんだ。
『……あ……』
そうして両方の手で握ろうとして――彼女の片腕は空を切った。
……僕と繋いでいる左手とは反対側の腕。彼女の右腕には、手首から先が存在しなかったから。
今に至るまでの事件の中で、彼女の右手は失われていたんだ。
『……ご、ごめんね。私ったら……』
その事を今まで失念していたのか、彼女は悲しげな表情を浮かべた後に決まり悪げにぎこちなく笑い、差し出しかけた右腕を引っ込める。
そして失われた右手の分も込めるかのように、僕の手を握る力を僅かに強めた。
僕はそんな妹の様子に、酷く悲しい気持ちになった。
感じたのは、彼女を巻き込んでしまった事による後悔の念。そして、守りきれなかった事に対する憤り。
僕が君を生む前に彼女の記憶を消したのは、『敵』の目を欺きたかったからだけじゃない。僕という重荷から解放されて、幸せに暮らして欲しいという思いからだった。
こんな寝たきりの僕を健気に看病してくれた、妹。とても優しくて大好きだった彼女を、歪んだ妄想が渦を巻く世界に巻き込みたく無かったんだよ。
……しかし、結果はこの通り。
妹は本人の意思とは関係なく幸せを奪われ、右手を切り落とされた。そして覚醒してしまった以上、彼女はとても辛い過去から逃げる事すら出来なくなったんだ。
勘違いしないで欲しいけど、その責任を君に求めようなんて気持ちは一切無い。
君がどれ程彼女の事を想ってくれたか、どれだけ頑張って彼女を救い出そうとしてくれたのか。僕は全部見ていて理解しているから。むしろ感謝すらしているんだよ。
――悪いのは、僕だ。
全ては、見通しの甘かった僕の責。妹に危機が迫っている事を知りながら、手を打つことの出来なかった僕の罪なんだ。
だから、君が罪悪感や引け目なんて持つ必要なんて無いんだ。叶う事ならば、全てが終わった後も、君は彼女の兄で居てほしい。
……そんな事を願うのは、傲慢、なのかな。
そう思考しながら妹と手を繋いでいると――
『……ぁ……?』
ぐん、と。
僕の身体にかかる負荷がより一層強さを増し、必死に繋ぎとめていた意識が持って行かれそうになった。
そして今まで感じていた苦痛が全て無かったかのように消え去り、ただ酷い倦怠感だけが僕の全てを包み込む。
それは、君が力を振るう度に感じていたもの。君が君としてあろうとする度に受け取ってきた、君の存在。その証。
――――そうか、もう、終わるんだね。
唐突に、そう理解する。
君が力を振るえるように思考盗撮すら控えていたから、細かい状況は分からない。けれど、繋がりを通して感じる君の激情は、間違いなく僕の心に響いているんだ。
――流れ込んでくる。『彼女』を想う君の気持ちが。
――流れ込んでくる。人から外れた大きな力が。
――流れ込んでくる。『敵』の上に立っているという優越感が。
――流れ込んでくる。世界の敵となる事を決めた、君の決意が――
『――、――! ――? ――――っ!』
霞む視界の中、妹が何かを呼びかけている姿が映る。
しかし、残念だけど、その声は僕に届く事は無い。もはやこの身体は、彼女の意思を受け止める事のできる全ての機能を失くしていたんだ。
声だけじゃない。彼女が握る手の暖かさも、頬に落ちる雫の冷たさも。僕は何一つ感じる事が出来なくなって。
人間として生きられる時間が、彼女の兄でいられる時間が、もう殆ど残っていない事を悟ったよ。
『……――――』
だから僕は、ひび割れた唇を動かし、彼女に最後の言葉を伝えた。
勿論、声なんて出る訳が無い。僕の肺は既に機能を止めている。
しかし、僕達にはギガロマニアックスと呼ばれる力があった。現実を書き換え、不可能を可能にする、おぞましい力が。
『――――?』
そして彼女は、僕が直接脳に送った声に従い、断たれた断面に白いハンカチが巻かれている右手を僕の目の前に差し出した。
鋭利な刃物で断たれたらしいその綺麗な断面は完全に出血が止まっていないらしく、今現在もハンカチを赤く濡らし続けていて。
――その痛々しい傷跡に、僕は自らのディソードを差し向けた。
『――!』
妹は驚き、目を丸く瞬かせる。
それも当然の事だろう。何も無かった筈の空間に、突然茨のようなものが出現したのだから。
――僕のディソード。
金属のようにも、有機物のようにも見える繊細さを持つそれは、彼女の傷跡へと――失われた右手の先へ、巻き付いていく。
蛇の様に蠢き、くねり。シュルシュルと音を立てて、ゆっくりと。まるでそこに右手があるかのように何も無い虚空へと絡み付き、彼女の失われた形を再現する。
それは遠めに見れば義手の様に見えたはずだと思う。茨の趣味の悪さに目を瞑れば、の話だけれど。
『…………』
傍から見れば不気味な光景である筈のそれを前にして、妹は身動ぎ一つしなかった。それどころか、愛しいものを見るかのような優しげな瞳で、そっと頬を付けてくれた。
……きっと、僕を信頼してくれているのだろう。そう思うと、心が暖かくなったよ。
――そうして、茨が彼女の右手の形に整った後。その表面から覗く葉脈のような半透明のガラス部分が脈動し、赤い明滅を始めた。
それは、僕の命の灯火。
地獄に落ちる前にやらなければいけない事、その姿。
――――妄想を、した。
『――――……』
そして力を使った負荷が僕の身体を蝕み、必死に繋ぎ止めていた意識が更に深く沈みこむ。
視界の端が真っ白に染まっていき、心臓の鼓動が遅くなっていくのが分かった。
――死への、足音。僕の行動は、それをより早めたんだ。
君には悪いと思ったけど、そこは許して欲しい。僕の、最後の妄想だから。
『 … …―― 』
大粒の涙を流す妹の顔が、白い闇に覆われていく。
身体が鉛を吸ったかのように重たくなって、指先から熱が失われていく。
動きを止めた心臓が、重力に引かれて背中側へと落ちていく。
僕の身体が、骸となって果てていく。その感覚。
――――けれど、凄く穏やかな気分だった。
自分がこれから死に望む事も、歩んできた道程に意味があったと分かっているなら――恐怖なんてあまり感じない。
後悔も、罪悪も。それこそ山ほど残している。
僕さえ居なければ色んな人が不幸になる事も無かったんだって、何時も心の何処かで思っていた。
――でも、最後に僕は君を生み出すことが出来た。『敵』の野望を打ち砕く事が出来た。
取り返しの付かない過ちを犯した僕が、それを正す為の礎となって死んで逝ける。
これは、とても幸せな事なんじゃないかと思う。
妹や、『彼女』の事は気がかりだけど、僕は君が見ていてくれると信じているよ。
だって君は、正真正銘。彼女たちにとっての大切な人なのだから。
――そうして、何も見えなくなって。何も聞こえなくなって。
『――』
僕は、意味の無い夢を見た。
夢の中の僕は何の力も持たない只の子供で、普通に遠足に行く事が出来て。
学校に行って、勉強を頑張って、運動を楽しんで。普通に女の子を好きになって。
彼女達だって、そうだ。『敵』に捕まって拷問を受けたり、研究材料にされたりなんて事は無くて、皆幸せに生きていて。
そして高校生になった皆は、青空の下で笑い合うんだ。僕も、彼女も、誰も彼もが。
――そんな、幸せな夢を。見た。
そうして、僕は。感覚のなくなった筈の掌を『両手で』握り締めてくれる誰かの温もりを確かに感じながら。
永遠に、その意識を失った――
――――――――筈、だった。
『――――ッ!?』
今まさに生命活動を終えようとしていた僕の身体が、跳ねる。
君との繋がり。未だ断たれぬそれを伝って流れ込んでくるのは、凄まじいほどの力の奔流。
轟音を上げ、閃光を放ち。痛みすらをも伴い僕の全身を舐め上げて、ガラクタとなった身体に無理矢理エネルギーを送り込む。
いや、送り込むなんて生易しいものじゃない。それは正に蹂躙という言葉が相応しい程の物。
『あ……ッ、あぁああああああッ!!』
『どうしたの!? ねぇ!!』
突然の僕の変貌に妹は驚き、身を乗り出して僕の身体に抱きついた。
しかし全身を痙攣させる僕はそれに気付かず、機能を失ったはずの肺が空気を求め、声帯を大きく震わせる。
身体の至る場所に血管が浮き出て、ひび割れた肌の隙間からどろりとした血液が流れ出た。
……ここ数年は大声なんて出した事が無かったから、喉を傷つけてしまったかもしれない、なんて。どこか冷静なままだった思考が、そんなどうでも良い事を考えたよ。
そうして肩を捻り、足を振り回し、寝ていたベッドの上を打ち上げられた魚の様に跳ね回る。
身体を抑える事なんて出来なかったよ。僕の意思とは無関係に行われるそれは、目的も無い単なる反射の様なものだったから。
僕を蹂躙する『力』に、身体が耐え切れない。プチプチと妙な音を立てる脳が、そう判断した。
『あ――あ――あぁああああああああああああああああああ――――!!』
『きゃあ!?』
僕は身体が訴える本能のまま、血塗れの腕を病室の天井に向かって突き出した。
それに一泊遅れて服の下から茨が射出され、天井に激突。着弾地点を中心として、放射状に広がり部屋全体を覆い尽くす。
赤く明滅していた葉脈は、これ以上無いほどにその輝きを増していて。光の圧力に耐え切れず、ガラス部分に無数の罅が入っていったよ。
『敵』と戦っていた時だって、これ程の力を発した事は無い。その時に行使していた力は、そう断言できる程に凄まじい物だったけれど――――まだ、足りなかったみたいだ。
――バリン、と。一際大きな異音が辺りに響き渡った。
それは、僕のディソードが自壊する音。
病室を覆い尽くしていた茨は、自らの内に絶え間なく流れ込む力を往なす事が出来なかったんだ。
瞬く間。砂の様に崩れ去ったその欠片が病室の中を漂って、まるで粉雪の様に光を反射し輝いた。
『っぁ、ああっ……あ、あ、あ……!!』
声にならない声を漏らしながら、僕は両手で肩を抱き寄せて、亀の様にベッド上に丸まった。
背中を揺さぶる妹の手も、肩に食い込んだ爪も、唇を噛み締めた歯も。全く気にならなくて。
そうして自分の荒い息が耳の中を木霊する中、僕は僕の中に何か、別の存在が混じっている事を理解したんだ。
――――傲慢と、無感情と、そして、君。
異なる妄想は、反発し合い、主張し合い。僕の中を自分勝手に掻き乱す。
僕は私となり、私は『それ』になり、『それ』は僕となり、そして僕は僕となる。
入れ替わり、立ち代り。上書きに次ぐ上書き。思考の果ての僕は、次の思考の果てを経て、思考の果ての僕は、思考の次の僕に至る。
ドクドクと鼓動を刻む心臓がやけに耳障りで、思考を邪魔するそれを砕いてしまいたい衝動に駆られる――俺が、貴様が、夢を、梨深を。私を。
夢見るは世界、管理された世界、幸せな世界、あったはずの世界、誰かの世界を、並べて、並べて、並べて。
情報が足りない、知識が足りない。何が起こっているのか僕にも分からなくて、器を求めて逆流する。
僕は彼であり、俺は彼でありたくない。『それ』はどうしてここに居る? 分からない、分からない、分からない、分からない。情報を。梨深、梨深。
嫌だ、死にたくない。死ぬ訳には行かない。世界の為に、夢の為に。その為に全てを捧げて来たというのに。ざけんな、氏ねよボケナス。ひ、ひ。
なのに、私は、何で、こんな、化物に、子供に、童貞に、凄いんだ、ざまあみろ、ふひひ、ひひ、ひ。
それが望み。妄想された世界。それが、望みなら。管理された世界を、幸せな世界を、あったはずの世界を、小さな世界を、現実として。
エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー。不可能。
引きこもれば良い、妄想力は凄いんだ、自閉しろ。私はまだ思考できる。寄こせ、肉体を。エラー、実現の為の情報を。っ深ぃ、僕は、ぁ、ぁ、ぁ、ぁ――――――。
世界を、梨深の――誰かの――私の――あったはずの、それを――――!!
――――そうやって、膨れ上がり、混ざり合った妄想が、僕の中で炸裂した。
『――――――――ッッ!!』
食い縛った歯の隙間から、獣のような絶叫が迸る。
行き場をなくした『力』が僕の中で荒れ狂い、唸り、猛り。
未だ顕現させたままだった茨の中を無理矢理圧し通り、唯一繋がる外界へと。それが抱く望みを果たせる可能性のある、唯一つの場所に向かって進んでいく。
例えるならば、細いホースの中をサッカーボールが通り抜けるような感じ、だろうか。
それは僕の身体の中身を頭からくり抜かれる様な苦しみで、今まで感じていた苦痛とは比較にならない程のものだった。
そうして限界を超えた痛みに耐え切れなくなった僕の視界は、先程とは逆に真っ黒に染まっていく。
『……ぁ……』
――――ぷつん、と。
急速に掠れていく意識の中、僕の中で暴れていた力が、唯一つの繋がりを除いて跡形も無く消え去った。
凄まじい喪失感と、安堵。二つの相反する感覚が僕を包み込み、途轍もない疲労感が襲い来る。
脱力し、瞬き一つ出来ない身体が、糸の切られたマリオネットの様にシーツの上に広がった。
『――――』
耳元で叫ばれているそれは、妹の声だろうか。耳鳴りが酷くて判別する事が出来ない。
熱を持ち、ギチギチと細動する筋肉が。激流の様に全身を巡る血液が。激しい生命の鼓動が僕の脳に刺さり、ノイズを撒き散らしてくるんだ。
それは長らく感じていなかった、生の証。遠い昔に失っていた筈の、僕の夢。
取り戻す事を諦めていたそれが、僕の身体の上で疼いていたんだよ。
――そしてその代わりに、僕はとても大切なものを、永遠に、失ったんだ。
けれど、それを嘆く間も喜ぶ暇も無く。
妄想の終わる、テレビの電源が切れるような感覚と共に。
僕の意識は、完全に闇に落ちていった――――…………
■ ■ ■
「…………」
暗い世界の中で。チャンネルを、回す。
■ ■ ■
病室の中に、二つの影があった。
一つは、ベッドの上から上体だけ起こした、今にも折れそうな痩身の男――つまりは、僕。
そしてもう一つは、長い黒髪を腰まで垂らしたモデル体型の女性だ。
決して友好的とは言い難い関係の僕達は、お互いを挟んでピリピリとした雰囲気を放っており、何ともいたたまれない空気が病室の中を漂っていた。
彼女が抱くのは、僕に対する強大な敵意。愛する家族を失った原因を作った仇への、強烈な憎悪。
それは確かな圧力を持って。暗く光る眼光という形で、僕の心を責め立てる。
――お前の所為で。
――お前の所為で!
――お前の所為でッ!!
彼女の心に宿る、深く濁った感情が直接精神に叩きつけられて、心が折れそうになる。
でも僕には、その視線から逃げられる権利は持っていない。そう憎まれるだけの事を、僕は彼女達に施したんだ。
『……正直に言って、私はお前をこの手で殺したいと思っている』
そうやって僕を睨み付ける彼女の口から、険の篭った声が放たれた。
『私達を奪う原因を作ったお前を、世界の可能性を殺したお前を。「これ」でズタズタに引き裂いてやりたかった』
吐き捨てるように言い放ち、彼女は自らの右手を振り上げ、僕の頭へと突きつける。
その手の指は、見えない何かを握り込むかのように丸められ。そうして伸ばされた腕は、まるで大剣を掲げているようにも見えたよ。
……いや、彼女は実際に大剣を持ち、僕の頭に突きつけているのだろう。
彼女がほんの少しでも力を込めれば、ほんの少しそう思えば。僕の命はその瞬間に散らされるんだ。
――目には見えない青い刃が、眉間を深く貫いている。
彼女の握る掌の先、何も視認できない空間に、僕はそんな光景を幻視した。
『…………』
『……フン』
しかし何も反応を返さない僕に、彼女は鼻を一つ鳴らし、突きつけていた腕を大きく振るい、下に降ろす。
そうして不機嫌そうに、病室に備え付けられていた椅子に乱暴に腰を下ろし、足を組んだ。勿論、僕を睨みつけたまま。
彼女が纏っている高校の制服。そのスカートがヒラリとはためき、白い太ももが一瞬だけ露になった。
『だが、残念ながらそれは出来なくなった。何故か分かるか』
『……彼の為、だね』
『――ああ、そうだ』
終始憎々しげだった彼女の表情に、ほんの一片。暖かいものが混じる。
それは出来の悪い弟を見るような、愛する人を想う乙女のような……とても、複雑な表情で。僕はそれに少しだけ見蕩れてしまった。
『アイツは、私との約束を守ってくれた。あの男の妄想を殺し、全てに決着をつけてくれた』
『…………』
『……それなのに、私がアイツの守ったものを殺してしまっては、恩知らずも良い所だろう』
彼女はそれを最後に片手で顔を覆い、背中を丸めて俯いた。
その姿は、涙を抑えているようにも、衝動的な行動に走ろうとする身体を無理矢理押さえつけている様にも見えて。
……彼女は一体何を思って、どんな葛藤を抱いているのだろう。
知りたい、とは思ったけれど。僕にはもうその術は無い。
『…………』
そうやって暫く俯いていた彼女だったけど、ある程度は心の整理が付いたみたいだ。
大きな溜息と共に、覆った手の隙間に見える片目を開き、その鋭い瞳を僕に向け、告げる。
彼女が僕の下に来た、その理由。
――――アイツは今、何処に居る。
その凛とした声色には僅かな陰りも無く、病室の白い壁に反射した。
■ ■ ■
「……………………」
チャンネルを回す。
■ ■ ■
『――――早く教えてくれなーいーとー、も~~~っとドカバキグシャー、しちゃうのらー♪』
楽しそうな、それで居て怒りを滲ませるという矛盾した声が、ベッドから転げ落ちた僕の耳に届いた。
『……う、ぁ』
殴られた頬が、じくじくと鈍い痛みを発する。
病室の硬い床に打ち付けた後頭部が、未だ生え揃わない頭髪と擦れて小さな音を立てたよ。
――殴られたんだ、僕は。それも、力の限り全力で。
『ぐ……』
突然の衝撃に朦朧とした意識を、頭を振ってハッキリさせて、震える腕をつっかえ棒に上体を持ち上げベッドの端に縋り付く。
まるで崖を上るかのような体勢になって、弱ったままの筋肉がミチリと嫌な音を発したよ。
そうして苦労して目線を向けた先には、明るい髪色をツインテールに縛った小柄な少女の姿があった。
彼女は思い切り僕を殴った拳を摩りながら、ニコニコと楽しそうに笑っていた。
しかし、その表情に温度は無く。冷たい笑顔と言うのは、ああいう表情の事を言うのだろうか。ぼんやりと濁った思考の中で、そんな事を思ったよ。
『き、みは……そうか、彼女からか……』
『知りたかったーら、貴方に聞けって言われたのら』
僕がその事を皆に知らせる前に、どうして彼女がそれを知っているのか。一瞬疑問に思ったけど、彼女と関わりの深い女性の事を思い出して、納得。
自分で伝えないのは、おそらく僕に対する嫌がらせの様なものなのだろう。殴られる事まで予想していたのか分からないけれど。
――嫌われてるなぁ。
溜息を一つ吐き。腕に力を込め、自身の身体を引き上げる。
まだ立ち上がる事さえ困難な身体に鞭を打ち、必死の思いでベッドの上に体重を乗せる。そしてシーツを皺になるまで握り締め、しがみつき。荒い息を立てながら這い蹲った。
『……っ、ごめん、僕は――』
『……聞きたくないのら』
息を整え、縺れる口を必死に動かして最初に謝罪を告げようとしたけれど。にべもなく一蹴されて、遮られ。
彼女は僕の声を聞きたくもない、と言った風情で耳に手を押し当て、イヤイヤと首を振った。
――笑顔を消し、涙で濡れた目で僕を睨みつける。
『帰ってきたら、い~~~っぱいスキスキしたかったのに。い~~~っぱいありがとうしたかったのに』
『…………』
『なのに、帰ってきたのは、貴方のほう』
苦しんでいた自分を救ってくれた、君。
苦しむ原因を間接的に作り出した、僕。
全てが終わった後で帰ってきたのは、彼女が望んだ君では無くて。
『そんなのの言葉なんて、絶っっっ対に、聞きたくないのら……っ!』
――君を、返してくれ。君に、会わせてくれ。
言葉と態度の節々に、そんな痛々しい程に大きな君への想いが見え隠れして、心が締め付けられる。
今にも涙を流しそうな彼女の様子に、何かを言わなければならない衝動に駆られたけど――でも、何と言えばいい?
こんな筈ではなかった、本当は僕が居なくなる筈だった。
言い訳にも似た後悔は幾らでも口に出来るけど、彼女達が望んでいるのはそんな言葉ではないのだろう。
求めているのは、情報だけ。僕自身の言葉なんて、彼女にとっては塵芥以下なんだ。
『……彼が今、何処にいるか。だったね』
『うぴぃ』
言葉から一切の感情を消し、ただ情報を伝えるだけに努める。
『……これは、僕の感覚と知識、そして聞かされた情報に基づいて妄想した、ただの推測だ。まずは、それを理解して欲しい』
『妄想なーら、慣れてーるよ』
彼女は頷きを一つ返し、間延びした口調で応じる。
しかしその軽い空気とは裏腹に、目には真剣な光が宿っていて。僕は小さく身動ぎして姿勢を直し、口を開く――――
■ ■ ■
「……」
彼が殴られたシーンは面白かったけれど、それだけだ。不快な事に変わりは無い。
チャンネルを、回す。
■ ■ ■
『まず、あの時に彼に何が起きたのか。君は何処まで聞いているのかな』
『え? えっと……』
ベッドのすぐ横に備え付けられている安楽椅子。
重病者用の個室だからこそ置く事の出来る上質な椅子に腰掛け、その細い眉をハの字に垂らしながら、彼女はかけている眼鏡の弦に指を当てた。
それはおそらく、考え事をする際の癖の様なものなのだろう。
彼女が纏う高校制服、きちんと校則通りに整えられているそれと合わせて、何やらお嬢様と言った印象を受けたよ。
『確か……ノアⅡ? っていう機械を壊して、ニュージェネを起こしていた真犯人を、その……倒しちゃったんですよね?』
『うん、そうだね』
順序が逆ではあるけれど、わざわざ訂正するほどの事ではないので、流しておく。
彼女はニュージェネの真相からは比較的遠い位置にいたからね、正確に事件を把握していなかったとしても何らおかしな事じゃない。
『それで…………その、爆発に巻き込まれてしまって――』
『――彼は、行方不明になった』
途中で彼女の声が震える気配を感じ、君を「死んだ」と表現される前に咄嗟に言葉を遮る。
それを確たる言葉として発せられるのは、お互いの為にならない気がしたから。
『……行方不明、ですか』
『そう、行方不明』
『私、どうしても分からないんですよね。どうして皆がそれを断言できるのかが』
彼女はそんな僕の様子に、納得のいかない表情を浮かべ。目を逸らしながらそう告げたよ。
それも当然の事。爆発に巻き込まれた人間が消えたんだ、ならばその被害者は死亡し、木っ端微塵に吹き飛んだと考えるのが普通だろう。
「行方不明」と言い張る僕らの方が、本当は間違っているんだ。
『別に、断言してる訳じゃないよ。ただ、その可能性があると言うだけで。居合わせた当人も、最初からそう思ってた訳じゃないしね』
『……まぁ、確かに涙とか鼻水が凄い事になってましたけど』
……その可能性を示唆されるまでは、妹と一緒に号泣して手が付けられなかった。
良く分からない理由で互いに殺し合おうともしたし、諌めるまでにどれ程の寿命が縮んだ事やら。
彼女の様子を思い出して、げんなり。凄まじい疲労感が湧き上がり、また以前のような皺だらけの老人に戻りそうになった。
『……皆、信じたいんだ。彼が生きている可能性を。彼が存在している世界を』
『ええ、それは分かります。だって、私も――――』
■ ■ ■
これ以上彼女の言葉を聞きたくなくて、無理矢理チャンネルを回した。
「……やめてよ、そういうの」
君は。あれだけ僕の事を疑っておいて、犯罪者扱いしておいて、今更何を言うつもりなんだ。弁えてくれよ、最低限、僕の気持ちを汲み取って。
確かに僕は最後の時には君の事を許したけど、何。それで好感度爆上がりとか言うつもり? 本当にやめて欲しいよ。どんだけチョロいんだよ。
他の奴らだってそうだ、今更好意なんて見せられてもどうすれば良いんだよ。
「……遅、すぎたんだ。腐ってやがる……!」
■ ■ ■
『ノアⅡが破壊された時、周囲には膨大なエネルギーが撒き散らされた。周りの建物全てを瓦礫の山にして、大きなクレーターを作るほどのものが』
『…………』
『それは人の身体から外れ、ギガロマニアックスとしての最極地に至った彼でさえどうにも出来なかった。ただ呑み込まれ、衝撃に翻弄されたまま、消え行く事しか出来なかったんだ』
目を瞑ったままの彼女は、その言葉に僅かに眉を顰め、持っているチョコレートを齧る。
折れた茶色の板からふわり、と病室の中に甘い香りが漂い、しかし留まる事は無く。空調の風に流されていく。
『そうして薄れ行く意識の中で、彼は一つの妄想をしたんだ。……それが何か、分かるかい?』
『……邪神に囚われし黒騎士の、無事』
『そう。彼の愛しい想い人、爆発の現場に居合わせてしまった彼女の事だ』
君がノアⅡを破壊すると決心した、最大の要因。
消え行く間際に伝わってきた幾つもの妄想のうち、一番大きな物が彼女を案じるそれだった。
『…………』
彼女は、顰めたままの眉に不機嫌さを加え、ゆっくりと瞼を開きこちらを見た。
その目はあからさまな嫉妬心を込めた物だったけど、それは僕に重なる君に向けられたもので。僕自身を見る視線に温度は無かったよ。
(人気者だね、君も)
「続きを言って」彼女は一言たりとも言葉にはしなかったけど、そう思っている事は明白に感じられる。
僕はそれに苦笑を一つ、ベッドのリクライニングを少し倒して話がしやすいように環境を整え。そして、続けた。
『君も知っている通り、彼の想いは彼女を無事に生還させたよ。……けれど、その妄想が、彼を行方知れずにさせたのさ』
『…………』
『彼が彼女を助ける為に行ったこと――――結果から言えば、それは「ノアⅡから溢れでたエネルギーと身体とを混ぜ合わせる」という物だった』
きっと、エネルギーに溶かされていく身体から、そういう妄想に至ったんだろう。僕には、それが残念でならなかった。
『幸運だったのか、それとも不幸だったのか。その妄想は成功し、彼は反粒子の塊となっていた身体をノアⅡと同化させ、膨大に猛るそれを全て押さえ込んだ』
『…………』
『流石に物理的な衝撃や、それ以前に撒き散らされた物はどうにもならなかったみたいだけどね』
そう言って、一息。
僕はベッドに背と後頭部を預け、長いため息を吐いた。
『……そうして、彼は「彼ら」になったんだ』
『……?』
ポツリと漏れたその言葉。
あの時、「彼ら」が逆流してきた時の苦痛を思い出し、一瞬だけ手が痙攣を起こす。
反粒子の蓄積による自己崩壊の苦しみには慣れていたけど、あの時のそれは今までの物とは一線を画していた。
生の終着点が遠のき、以前よりも色付いた世界を生きている僕にとって、その記憶はトラウマに近いものとして刻まれていたんだよ。
恐怖をごまかすように身体を起こし、彼女に視線を向けて、続ける。
『そもそも、押さえ込まれたエネルギー……ノアⅡから放たれたそれは、一体何だったのだろう?』
『――それは、
■ ■ ■
チャンネルを回す。
……不快、不快、不快!
もう良いだろ、僕はもう消えるんだ。だったらそれで終わりじゃないか、今更掘り起こして何の意味があるんだよ。
確かに僕は自分に何が起こっていたのかを知りたかった。でも、もう、終わったんだよ。
ネギだった僕はアーニャを助ける為に殴られそうになってて、どうせ殺されるんだ。だったら、何を知ったところで無意味極まりないじゃないか。
それとも、走馬灯ってやつ? だとしたら悪趣味な記憶をお持ちだね、君は!
何で、今になって、こんな。何だ。何なんだよ。何でこんなのを見せるんだ。止めてよ。止めてくれよ……っ。
■ ■ ■
『……ノアⅡ、それは人工的に作られた、機械仕掛けのギガロマニアックス。ある男を除き触れる事も出来ず。Ir2の電磁波にその男の妄想を乗せて、ただ発信するだけの存在。それに意思は無く、感情も無く。あるのは命令を遂行しようとするプログラムだけ。
生体では無い故に事故崩壊の危険が無く、パーツを取り替え続ければ何百年だって存在し得る。永久機関すらをも備えた、望まれる限り永遠に稼動し続ける悪夢の具象化だ』
『その程度の事は知っている、私も随分と調べ回ったからな』
嘲る様にそう言い放ち、苦々しく口元を歪ませた。その名を聞くだけでも苦痛なのだろう。
それもその筈だ。彼女の愛する家族は、ノアⅡ完成の為の礎として犠牲にされているのだから。
『……けれど、僕は思うんだ、ノアⅡは本当は生きていたんじゃないかって』
『……どうやら、お前は滞留した反粒子と一緒に脳細胞も吹き飛ばされたらしい。いい医者を紹介してやろう』
――脳の問題なら、彼以上にお似合いの医者は居ないんじゃないか? なぁ?
そう挑発し、僕を睨みつける。
……あの人を引き合いに出された事に少しだけ腹が立ったけど、それに反論をする権利は僕には無い。聞かなかった振りをして、続ける。
『確かに、ノアⅡの身体は無機物で出来ているし、ギガロマニアックスとしての能力は、電磁波とプログラムで作られた紛い物。思考誘導による洗脳装置がその正体だ』
『そこまで分かっているのなら――――』
『――だけど、それが引き起こす現象は、僕らの妄想とそう変わらないんだ。ただ、そこに至る経緯が違うだけで』
彼女の言葉を遮って言い切った。
■ ■ ■
チャンネルを回す。
何度も何度も記憶が前後し、流れが理解できなくなっていく。
■ ■ ■
『えっ、と……?』
『ノアⅡは妄想が出来たんだ。自分自身のそれじゃない、「敵」の――野呂瀬達の妄想をそのまま、という形だったけれど、紛れも無く自身の「意識」でもって妄想を行っていた』
『……自意識が、あったと?』
『少なくとも、それに似た物はあったと確信を持って言えるよ』
人間であるギガロマニアックスを模したノアⅡは、人間の脳の機構を擬似的な回路で再現していた。
それが電磁波とプログラムで組み上げられた、意思も感情も無いただの人形のようなものだったとしても、与えられた命令――妄想――を現実に反映させられるだけの思考能力は生成できていた筈なんだ。
――その程度の事さえ出来ないのならば、機械の塊がギガロマニアックスとして存在するなど不可能なのだから。
『でも、例えそうだったとして、それが何になるんですか? にし――――』
はた、と。
彼女は何かに気付いたかのように言葉を止め、こちらを伺うように、恐る恐る視線を向けてきた。
『あの、もしかして……』
『そう、あの時発せられたエネルギーの正体――それはノアⅡが行っていた、リアルブート寸前の妄想。そして、彼はそれと混ざってしまったんだ』
■ ■ ■
チャンネルを回す。
■ ■ ■
『ノアⅡを破壊した時に、彼はとあるモノを武器にした』
『……邪神の、使途……』
『そう、この世界で唯一ノアⅡに接触できる男――――野呂瀬 玄一。ディソードから放たれた反粒子の「巳」に貫かれた彼は、その身を剣としてノアⅡに突き立った』
ノアⅡを守る為の防御機構が、逆にトドメの一撃となった。なんと言う皮肉だろうか。
『分かるかい? この時、ディソードを通じて何人もの意識が――妄想が、一つに繋がったんだ』
『……グラジオール、邪神の使途、そして……私の ■ 』
『――それと、彼と繋がっていた僕自身。だ』
■ ■ ■
チャンネルを。
■ ■ ■
『最初に、ノアⅡと接触できる唯一の存在だった野呂瀬の妄想が流れ込んだ。死を前にした彼は、屈辱と共に自らの夢見た世界を妄想したんだ。こんな筈じゃなかった、こんな結末は認めない……ってね』
『その妄執ともいえる強い思いを受けたノアⅡは、主の妄想を叶えるべくリアルブートしようとしたんだ』
『うん、図らずも彼らの最終目的を実行に移してしまったんだよ』
『当然、それが成功するはずも無い。ポーターの数や事前の準備といった要因とは別に、その直後にノアⅡそのものが破壊されてしまったんだから』
■
■ ■ ■
……もう、止めてくれ。
■
■ ■ ■
『でも、一度放たれた妄想――Ir2の電磁波は止まらなかった。永久機関が仇になったんだろうね』
『完全に壊れ切るまでの僅かな間で組み上げられたそれは、最早止められる段階には無く――暴発し、件のエネルギーとなって撒き散らされた』
『そうして本来ならばサードメルト以上の惨状を引き起こす筈だったエネルギーは、先程話した通り、彼の最後の妄想によって防がれる事になる』
■
『しかし、リアルブートの流れは止まらない。何故なら、彼もまた野呂瀬とは別の世界の創造を妄想していたから』
『――最愛の人が傷つく事の無い、ささやかな幸せのある世界を』
■ ■ ■
もう、
■
■ ■ ■
■
『猛る力を押さえ付けられ、行き場の無くなった妄想は、リアルブートできる道を探した』
『そして、見つけたんだ。そう、彼と僕との繋がりだ』
『それを辿って逆流してきた妄想は、自らをリアルブートする為に僕のディソードに流れ込んだ。身体の許容量なんて無視してね』 ■
『世界最高峰の二人のギガロマニアックスがその命を賭して描いた妄想と、世界全土に影響を齎すノアⅡのエネルギー。幾ら僕でも、そんなのに耐え切れる訳が無かったんだよ』
■ ■
『僕は内側で暴れるそれを制御できず――全部、持って行かれ■た』
■
■ ■ ■
■ 嫌だ。
■ ■
■ ■ ■
■ ■
■
『描いていた妄想』
『僕自身と現実とのズレ』
『ギガロマニアックスとしての力』 ■ ■■
■
『そして、身体に滞留していた反粒子。良いものも、悪いものも、全部。押し寄せてきた妄想に巻き込まれ、ディソードを通って何処かに消えてしまったんだ』
『……何処か、それは、現実世界の他の場所って意味じゃない』
■ ■■■
■ ■
『僕の身体はもう、世界を作るなんて大掛かりな妄想をリアルブートする事には耐え切れないし、そもそもギガロマニアックスの力を失った時点でそれも不可能になっている』
■ ■
『だから、その前の段階――――つまり、ディソードがディラックの海に干渉した時点で、僕はその反動の大きさに耐え切れず、全てを放棄してしまったんだ』
■
『……よく分かんねぇけど、あいつが、俺のダチが居なくなったのはテメェの所為って事かよ!?』
■ ■
■ 『……すまない、何度殴っても良い。ただ、今は、■』 止めてよ
『では、その妄想は何処に行ったのか』 ■
■ ■ ■ 聞きたくない
■■■ ■ ■ ■■ ■ ■■ ■ ■ ■ ■ 『奇しくも、世界を望む妄想が三つ、揃ってしまったんだよ』■■■ ■ ■ ■■■■ ■ ■ ■ ■■ ■ ■ ■ ■
止めてくれ
■ ■■ ■ ■
■■ ■■『そんなの、現実世界では無理だろうね。でも、ディラックの海の中なら■■■ ■ ■ ■ ■ 『争いの無い、管理された世界』
聞きたくない、そんな真実なんて ■■ 『あったはずの世界』■■ ■
■ ■■ ■ 『ささやかな幸せのある世界』 ■幾らなんでも世界その物は無理だろうけど、心象世界 ■ ■ ■ ■妄想なら ■ ■ ■ 界を構成するための知識なら、日々ディラックの海に干渉してくるギガ■ロマニアックス達から得れば良 ■ ■
■ 止めてよ、止めてくれよ ■■ ■■ ■ ■ ■■思考盗撮 ■ ■■ ■ ■■ ■■ 嫌だ、嫌だよ■■■ ■■ ■
■ 象世界なら、どうかな ■ ■ ■ ■ ■■
■ ■■ ■■■ ■ ■■ ■ ■■■■ ■ ■■■ ■■■ あ ■ ■■ ■■ ■■ ■■やめて ■ あ
■■ ■ ■ ■ <負担も少ない所か、無いに等しい ■ ■■■ ■ あ ■ ■■■■■■ あ あ あ ■ ■■■あ 最低限、妄想できる機関があれば あ
■■■ ■ ■ ■■
■■■ ああ あ あ ■ ■■ あ ■■■ ■■ ■
■■■ ■■ ■ ■■ ■ ■■■■■案外、ディ ■ 海の中には ■ 誰か ■ の脳髄やノアⅡ ■ 機 ■ が、漂っているのかもしれな
あ■
■
『――――そう、彼は今、ディラックの海の中に浮かんだ妄想の世界。三人と一基のギガロマニアックスが作り出した心象世界に居るんだよ』
あ、
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ――――――!!」
――振りぬいた茨だらけの睡蓮が、風を切り、空間を切り。彼の世界を裁断した。
「――ぁッああああああ!! あああああああ!! ぁぁああああぁぁっ、ぁぁぁ、あぁ、ぁぁあぁ、ぁ……ッ!!」
……そうして、気づけば僕は、青と白の世界にいた。
何処までも続くような、広く、高い、青い空。そしてそれをくすみの無い白い雲が彩りを加えていて。
暖かな太陽は優しい光を放ち、頬をなでる風はとても穏やかで、眠くなるような心地よさを運んでくる。
「―――……っはぁ、はぁっ……!!」
足元に広がるのは、まるで鏡面のように澄んだ湖。
僕の足を中心に波紋を広げるそれは天空の青と白とを映し出して、それが無ければどちらが空なのか分からないほどだ。
上を見上げても、下を向いても空、空、空―――……
見渡す限りの青空。何時までも続く穏やかな空間に僕は立っていた。
三歳児のちんちくりんな身体じゃない。僕は僕の身体のまま――西條拓巳の身体で。
「はぁっ……は、ぁ……っぐ、ぉえ、ぇ……っ!!」
そんな平穏な世界にあって、僕を襲うのは死の恐怖への残滓、そして先程の記憶から来る強烈な嘔吐感。
ぐるぐると視界が回り、立って居られなくなって湖に膝を付いて四つん這い。大きく口を開いて胃の中身を吐き出そうとした。
……でも、口からは涎と声以外何も出ては来ず、ただ僕のえづく声が辺りに響き渡るだけで。
「……っは、っは、っは……」
右腕に違和感を覚え、ふと腕を見てみれば、肘の先から二の腕にかけて、気味の悪い茨が何時の間にか巻き付いていたよ。
そして、茨の続く先。固く握り締めた右手の中に見えるのは、茨だらけの長剣の姿。
それは金属のようにも見え、有機物の様にも見える繊細さと。思わず息を呑んで見惚れてしまうほどの美しさを持ち合わせて……いねぇよボケ! 氏ね!!
「……くそ、くそっ!!」
何で僕はこんな気持ち悪いものを手にしているんだ。
腕を振って投げ捨てようとするけど、長剣はともかく茨の方が固く絡み付いていて、とても引き離せそうに無い。
――――そんな最悪な気分の中、僕はゆっくりと顔を上げた。
この世界は何なのか、何処に何があるのか。そんなのは嫌というほど知っている。
あんな胸糞悪い記憶を見せられた事は無いけど、どうせこの剣を持つ事がトリガーになってたとか、そんな感じに決まってる。
つかアレを見せて僕にどうしろって言うんだよ、意味ワカンネ。
「……っぐ、は……」
荒い息を整えつつ、手中の剣より更に茨を辿り見る。
目に映るのは、二本の茨と一本の枯れた蔓。今まで何回も夢見た景色が、今度は僕の身体から直接続いているんだ。
――僕は覚えている。毎夜この世界に訪れていた事を。
――僕は覚えている。茨塗れの長剣から対の方角に伸びる、二本の蔓の事を。
――僕は覚えている。この茨から送られてきた記憶を。
――僕は覚えている。覚えている。覚えている――――
「……ストーカーかっつーのぉ……ッ!!」
キモイ、キモイ、マジでキモ過ぎる。
本当に、何回も何回も。ああ、ああ、覚えてる。覚えてる。覚えてるよ。
僕がこの剣に触れるまで、ずっと同じ事やってたのかよ、君は。
「っ当に、呆れた執念だよ、ねぇ――――」
そうして、僕は剣から続く茨の一本。左方向に伸びていくそれを目で追って、その先に居る人物を視界に納めた。
以前は見通す事が出来なかった景色だったけど、今はしっかりと見ることが出来る。
ガリガリに痩せ細った体躯。それに着せられた、ぶかぶかの入院服。
そして、未だ髪の毛の生え揃っていない、薄青の坊主頭。
粘ついた唾液の絡みついた舌で呟かれたのは、僕の大嫌いな男の渾名。
「――――将軍……ッ」
――――皺だらけじゃない、年相応の容姿をした彼の姿が、そこにはあった。
……夢は、もう見ていない。
【挿絵表示】