絢の軌跡Ⅱ   作:ゆーゆ

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12月16日 聖女と白い狼

12月16日、朝6時半。

4階の訓練区画、剣術訓練室。

 

大分理解に近付いてきた。視界が明瞭になりつつあった。

蹴っては殴られ、手を出しては返される。その繰り返しの先に垣間見えてきた、確かな感覚。

 

(―――左の側頭部)

 

見えない側からの蹴撃。視界には、サラ教官の左半身だけ。

無い部分は思い描けばいい。そうすれば、自ずと受け方は決まってくる。

ほら、今もこんな風に。痛みはあっても、頭は揺れていない。

 

「たった1日で見違えたわね。昨日とはまるで別人じゃない」

「あはは、でもそろそろ限界です。朝ご飯を食べないと、やっぱり力が出ません」

「そう。なら次で最後にしましょう」

 

仕切り直し、お互いに距離を取る。

褒め言葉を素直に受け取ることはできない。何せ私の仕掛けは、尽く防がれてしまっていた。

やられっ放しはもう懲り懲りだ。が、この人には何をやっても通じそうにない。

 

「さあ、行くわよ。構えなさい」

 

いや。1つ、試してみよう。

駄目で元々、今の私なら届くかもしれない。

静の極みに触れた今なら、彼女の真似事ぐらいはできるかもしれない。

 

「ふう」

 

しなやかに、緩やかに。タイミングは一瞬だ。

僅かでも噛み合わなければ、『技』にはなり得ない。

透明な針の穴に糸を通しながら、初速から全脚力を引き出す。言わば神の呼吸法。

 

「・・・・・・月影の蝶達よ」

「え?」

 

気配の封絶と、神速の歩法。

その2つが繋がり合った瞬間、私はサラ教官の視界から消えた。

目を瞬いた直後、眼前には無防備となった教官の背中があった。

捉えた。そう確信を抱き、床を蹴った直後―――

 

「あっ」

 

―――サラ教官の裏拳が、私の頭部を襲った。

 

勘弁してくれないかな。もう手遅れだけどさ。

朝っぱらから殴られて落ちるなんて、普通の女の子がする事じゃないよ。

 

_______________________________

 

約30分後。

5階の生活区画、シャワールーム。

 

頭上から降り注ぐ水のシャワーが、火照った身体の熱を奪い去って行く。

冷えるに連れて、じんじんと痛んでいた身体の痛みが和らいでくれる。

軟気功で傷は癒えたが、まだ口内には血の味が残っていた。

 

「あーあ。まだ頭がクラクラしますよ」

「だ、だから謝ってるじゃない。咄嗟に手が出ちゃったのよ」

 

口から血を流しながらピクリともしない私と、狼狽するサラ教官。

端から見れば、それはそれは恐ろしい光景だったに違いない。

この人のバックハンドを貰って無事でいられた自分を褒めてあげたい。

打ち所が悪かったら思うとゾッとする。まあ、自業自得と言われればそれまでだ。

 

「それにしても、面白い妙技ね。あれも母親から教わった技なの?」

「違いますよ。クロスベルにいる知り合いが教えてくれたんです。本家はあんな物じゃありません。本当に視界から消えていなくなっちゃうし」

「へえ。相当な使い手みたいね」

「あはは。もしかしたら、サラ教官より強いかもしれませんよ」

 

私の月光蝶とリーシャの本物とでは、差は明らかだった。

気配の封絶と神速の歩法。理屈は分かっていても、その全てを再現することはできない。

 

月光蝶と月光翼。円月と崩月輪。

月光翼の名付け親は私だが、似通っていたのはネーミングセンスのみに留まらなかった。

どういうわけか、私とリーシャの剣筋や術技には、通じるところが多々見られた。

月光蝶の真似事をなし得たのも、それが理由の1つなのだろう。

 

と言っても、やはり腕前の差は比べるまでもない。

凍てつく静の気当てを以って身を縛り付ける奥義は、まさに暗殺の剣技。

巨大な斬魔刀を振るう様は、アルゼイド子爵を彷彿とさせた。

 

「とりあえず、今日はこれぐらいにしましょう。今の調子なら、もうあたしから教えることは残っていないわ。これ以上は悪戯に傷を増やすだけね」

「え・・・・・・で、でもまだ朝練しかしてないですよ?」

「無理しないの。消耗しているのが見え見えよ」

 

反論の余地は無かった。それに、事実疲弊し切っていた。

昨日は軟気功のために気力を振り絞った途端、気絶するように寝入ってしまっていた。

そして今朝の一件だ。軟気功は傷を癒すと共に、残存する体力を根こそぎ奪ってしまう。

外傷はどうにかなっても、肩に重く圧し掛かる疲労だけは消えてくれなかった。

 

「それに、日常生活から学べることも多い筈よ。艦内のことはみんなに任せて、今日はゆっくり過ごすといいわ」

「・・・・・・剣を握るのも駄目ですか?」

「そういうこと。ほら、背中を洗ってあげるから、前を向きなさい」

 

サラ教官は私の肩を掴み向きを直すと、背中にタオルを当てた。

わしゃわしゃと背中を擦られる度に、心地良い刺激が汚れを落としていく。

 

今は誰もが自分のすべきことを直向きになしている。

こんな状況下で休めだなんて、それはそれで酷な話だ。

だが焦っても仕方ない。12月13日から、色々と事が起きすぎた。

少しの間、自分を見つめ直す時間があってもいいのかもしれない。

 

それにしても―――うん、やっぱりすごい。

 

「な、何?ジロジロ見ちゃって。何か言いたそうね」

「いや、その・・・・・・相変わらず、エロい身体してますね」

「はいはい、それはどうも」

 

鍛え抜かれ引き締まった四肢に、纏わり付く赤髪。

無駄な肉など一切無く、尚且つ母性を感じさせる滑らかなボディライン。

私達学生には決して纏うことができない、大人の魅力。

同性の私から見ても、思わず生唾を飲み込みたくなってくる。

 

「ひゃっ・・・・・・こ、こら。何処触ってるのよ」

「あはは」

 

そしてこの初々しい反応。

成熟した果実が見せる、蕾のような愛おしさ。

 

「あははじゃないでしょうが。やめ、んっ・・・・・・さいってば」

 

あー。何だろう、この感じ。

無性に悪戯がしたくなってくる。ていうか、可愛い。何これ。

いやいや、私は何をしてるの。でもやばい。止められない。

こんな表情見たことがない。普通でない教官の顔が、邪な何かを湧き上がらせて―――

 

ガララッ。

 

「えっ」

「あっ」

 

突然開け放たれた扉の先に、少女が立っていた。

その容姿は天使に形容され、帝国の至宝と称賛される皇族の1人。

腰元まで伸びる金髪は、彼女がアルノール家の人間である証。

 

数秒間、お互いに顔を見合わせた。

いつからそこに立っていたのだろう。知りたいような、聞きたくないような。

シャワーが降り注ぐ音だけが、室内へ静かに響き渡る。

頭から冷水浴びたように、急速に身体が冷え切っていく。

 

「・・・・・・コホン。おはようございます、アルフィン殿下」

 

私はサラ教官に続き、とりあえずの挨拶を言いながら頭を下げた。

するとアルフィン殿下は口元に手をやりながら、少々意味有り気な笑みを浮かべた。

 

「フフ、おはようございます。どうやらお邪魔をしてしまったみたいですわね」

「いえ、あたし達は別に。邪魔なんて―――」

「これも『耽美な世界』というものでしょうか。ウフフ、素敵ですわ」

「「・・・・・・」」

「ウフフ」

 

私とサラ教官は、石鹸の泡を洗い落としてから、逃げるようにシャワー室を後にした。

 

___________________________________

 

午前9時前。カレイジャス4階の大会議室。

 

会議室には、今朝方にカレイジャスへ合流した《Ⅶ組》と、新たに乗艦した士官候補生。

トワ会長やサラ教官、他数名の人間が集い、近況を報告し合っていた。

既に簡易な情報交換をお互いに済ませてはいたが、初めのうちは密にやり取りをすべき。

そんなトワ会長の考えの下、新メンバーへの状況説明を含め、一堂に会する流れになった。

 

「私からはこんなところかな。みんな、何か質問はある?」

 

トワ会長がカレイジャスの運用面について語り終えると、1人の女性が右手を上げた。

ガイウス達と合流し、今日が初の乗艦となる、美術部の部長だった。

 

「トワ、美術室は何処にある」

「・・・・・・えーと、物作りなら最下層の工房がいいと思うよ。お仕事も沢山ある筈だから、頼りにしてるね」

「そうか」

 

以上、会話終了。

喋っている暇があるなら石を削り、土を弄り、何かを創り出す。

こんな状況下でも、クララ先輩はクララ先輩だった。その姿に、安心感を抱いてしまった。

次に手を上げて質問を投げたのは、マキアスだった。

 

「東部の状況には、特に変わりはないのですか?」

「そうだね。大きな動きはないみたいだけど・・・・・・今朝、鉄道憲兵隊から少し気になる報告があってね」

「鉄道憲兵隊から?」

 

《Ⅶ組》を回収する前の出来事だった。

鉄道憲兵隊のドミニク中尉から、直々にカレイジャスの状況を問う通信が入った。

順調に運用できつつある旨を伝えると、中尉も正規軍と貴族連合の近況を教えてくれた。

 

今週に入り、双龍橋東部で発生した戦闘は3回。

そしてクレイグ中将率いる第4機甲師団が撃破した、機甲兵の数は7体。

勢力図に変化は無いものの、第4の激しい抵抗を受け、連合側に焦りが見え始めているようだ。

正規軍側も演習場を砦とする以上、長丁場になれば補給が乏しいという不利が重く圧し掛かる。

クレイグ中将も、追い風が吹いているうちに攻勢に転じたい構えなのだそうだ。

 

「父さんが・・・・・・確かに気になりますね」

「こちらからも連絡を密にして、逐一状況を把握するようにするよ。他はどうかな?」

 

質問者無し。当然と言えば当然だ。

トワ会長の報告は要点を押さえていたし、質問を挟む余地などほぼ残されていなかった。

 

「無いみたいだね。じゃあ最後に《Ⅶ組》B班、宜しくね」

「分かりました」

 

トワ会長の振りに、B班のエマが応えた。

元々この場の主立った目的は、B班が収集した情報を共有することにあった。

昨日に依頼した物資補給の件も含めて、今後の動き方に関わる重要なポイントだった。

 

「物資については、大まかな目途はついたの。おじいちゃんも多方面に働き掛けてくれたし、近日中にケルディックへ集まる筈よ」

 

モリゼーさんが言うと、私を含めた大部分の人間が首を傾げた。

当のモリゼーさんは、そんな私達の態度が腑に落ちなかったのか、同じ仕草を取った。

皆を代表して、私は心当たりのない人物について触れた。

 

「あの、モリゼーさん。『おじいちゃん』って、誰のことですか?」

「へ?・・・・・・あっ。も、元締めのことよ。オットー元締め。みんなも知ってるでしょ?」

 

一応言っておくけど、お祖父ちゃんじゃないからね。

少々取り乱した様子で、モリゼーさんは血の繋がりを否定した。

 

―――モリゼーは過去の自分と、この女の子を重ねたのじゃろう。

 

夢見中のモリゼーさんを見守る、オットー元締めの言葉が思い出された。

心を壊したポーラを見て、モリゼーさんが何を想ったのか。あの時流した、涙の意味。

そしてオットー元締めとの関係は。それらをこの場で問う気にはなれなかった。

 

モリゼーさんは「それより」と前置きをしてから、物資の調達へと話を戻した。

 

「手配はできたけど、費用については大丈夫なの?相当な額になるわよ?」

 

自然と、皆の視線は艦長代理であるトワ会長へ向いた。

皆の予想に反して、口を開いたのはトワ会長ではなかった。

 

「ご安心を。軍資金については、お兄様より一任されています」

 

ただし。少々の間を置いてから、アルフィン殿下は続けた。

 

「このカレイジャス自体もそうですが、言わば国民の方々の血税。そのご自覚があるのなら、惜しみなく使って頂いて構いませんわ♪」

 

重かった。唯々重かった。

語尾に付いた音符マークが皮肉に思える程に。

考えるまでもなく、ランニングコストだけでもこの艦には途方も無い額が費やされている。

とりあえず、今日からおかわりは程々にしよう。私は小さなコスト削減案を心に決めた。

 

次に論題に上ったのが、このカレイジャスに関する報道だった。

エマは数部の帝国時報を取り出し、それをテーブルに置いた。

人数分は無いようで、私は隣に座るミリアムと一緒に、新聞へ目を落とした。

日付は昨日。問題とされた記事の見出しを、ミリアムが声に出しながらなぞり始める。

 

「えーと、『カレイジャス号の行方、未だ分からず』・・・・・・あはは、バッチリ載ってるね!」

「笑えないよミリアム・・・・・・」

 

記事によれば、皇室に所属するこの新型巡洋艦は、行方不明扱いされていた。

皇城関係者曰く、『正規の運用ではなく、乗員は反逆罪が疑われる』。

貴族連合は目撃情報を募りながら、その行方を追っているのだという。

 

フィーとユーシスが、記事の問題性について不安を述べ始めた。

 

「これ、結構ヤバくない?人によっては真に受けちゃうと思うけど」

「フン。貴族派の人間なら、喜んで情報を提供するだろうな」

 

2人が言うように、帝国時報に掲載された以上、益々身動きが取り辛くなる。

貴族派の人間が多い主要都市など以ての外だ。近付くだけで危険性が増す。

 

「昨晩のうちに、運航ルートは見直したんだ。でもこれで、より一層地上には近付き辛くなっちゃうね」

 

今日のA班の目的地はレグラム。B班はガレリア要塞の演習場と、付近の街道。

目的地に変更はないものの、やはり漠然とした不安が脳裏を過ぎってくる。

より直接的な表現を以って、私はアリサに聞いた。

 

「ねえアリサ。この艦を撃ち落としちゃうような兵器って、連合側にあるのかな?」

「地対空の導力兵器なら、百日戦役を境にしていくつも考案されてきたわ。何とも言えないけど・・・・・・ラインフォルトの動向が気になるわね」

「ラインフォルト?何で?」

「戦車と一緒で、ノウハウは第2製作所にあるのよ」

 

成程。もしそれが第1製作所へ流れていたら、というわけか。

貴族連合の脅威は主力の機甲兵部隊だけだと思っていたが、そういった可能性もあるのだろう。

 

「でもさー、機甲兵も色々な新型が造られてるみたいだよ?」

 

アリサに続いたのは、昨日までゼンダー門へ身を寄せていたミントだった。

ミントは第3機甲師団を通じて知り得た情報を、私達に教えてくれた。

機甲兵は今も改良が加えられ、数種類の新型が前線へ投入されている。

大口径の導力砲を搭載した機体は対空能も高く、やはり脅威となり得るようだ。

 

「確かに、オーロックス渓谷道で対峙した機体は、今までに見たことがない機種だったな。あの砲撃をまともに食らっていたら、ヴァリマールでも無事では済まなかったかもしれない」

「いずれにせよ、今後はその辺りのことを考慮しながら動く必要があるね・・・・・・エマさん、次の問題に移ろっか」

「はい。隣の紙面の、左下の記事をご覧になって下さい」

 

エマに従い、件の記事へ視線を移す。

見出しは『未確認飛行船、共和国製の可能性が濃厚』。

続いて前文へ目を通し、大まかな記事の内容を把握していく。

 

「・・・・・・ヴェルヌ社製の、ガンシップ?」

 

記事を読み終えた人間が、次々と眉間に皺を寄せ始める。

初めの目撃証言は、今から数日前。各地のそれを合わせて、合計7件。

B班がケルディックで収集した情報を含めると8件。

 

目撃者曰く、上空を飛行する、見慣れない飛行船を目撃した。

形状から察するに、軍用の飛空艇。専門家の推察では、共和国製。

複数の証言に見られる共通点から導き出された可能性が、ヴェルヌ社が製造するガンシップ。

新聞に書かれていることが事実だとするなら、分からないことだらけだった。

 

「ふむ。俄かには信じ難いが、これはどう解釈すればよいのだ?」

「こんな状況下で、国外の飛空艇が帝国領内へ入り込めるとは思えないけどなぁー・・・・・・でも、目撃情報がやけに多いね。そもそも同一の機体なのかな?」

「分かりません。ケルディックに来ていた行商人の方は、北西の方角に飛行する飛空艇を見たとしか・・・・・・少なくとも、その一件だけは確かな情報だと思います」

 

単独なのか、複数なのか。誰が操縦していて、何が目的なのか。

帝国か、共和国か、それ以外の第3者なのか。そもそも、記事の信憑性は。

不確かな点が多すぎる余り、考え出せば際限が無い。

 

「とにかく、この件も含めて鉄道憲兵隊とやり取りしてみるよ」

 

トワ会長が執りまとめ、この場では一旦保留という流れになった。

結論の出しようが無い以上、分からない事は分からないと割り切るしかない。

 

でも、どうしてだろう。得体の知れない不安のような気持ち悪さが残ってしまう。

思い過ごしであってほしい。今は、そう願うしかなかった。

 

_____________________________________

 

「―――今のところはこんな感じです。A班は今レグラムに、B班はガレリア要塞方面へ降りています」

『うんうん、順調に依頼をこなしてくれているようだね』

 

午後10時半。

私は艦橋に備え付けられていた導力端末を使い、オリヴァルト殿下と通信を試みていた。

殿下からの依頼の確認や報告は、この端末を介して行う手筈となっている。

地上へ降りた皆に代わって、私が現段階の状況とカレイジャスの近況を報告していた。

 

「お兄様は、今どちらにいらっしゃるのですか?」

『私の心配は無用さ。無事に親友とも合流できた。計画通りに事は運んでいるよ』

 

報告には、アルフィン殿下にも付き合って貰っていた。

彼女も彼女で、兄の安否が気に掛かっていたようだ。

艦の運用面に関して確認したかった事があるらしく、資金繰りについても触れていた。

 

「それにしても、素晴らしい機能ですわね。お兄様の顔が見れるとは思ってもいませんでしたわ」

『ハッハッハ。既存のシステムに、多少の裏技を組み合わせただけなのだがね』

 

多少の裏技、か。その一言だけで済ませないでほしい。

遥か西で移動中のオリヴァルト殿下と、動画付きで会話をする。

そんな通信機能聞いたこともない。オーバーテクノロジーにも程がある。

 

だが心当たりはなくもない。ミリアムが貸してくれた無線通信機がそれだ。

あの時に彼女が言っていた『皇子様』は、オリヴァルト殿下を指していたのかもしれない。

 

『アルフィンも元気そうで何よりだ。見たところ随分とご機嫌のようだが、何か良い事でもあったのかな?』

「はい、それはもう。今朝方、新たな世界を知ることができましたの」

 

背筋に悪寒が走った。

どうしよう。知らん振りを決め込もうか。

いやいや、誤解は早いうちに解いておいた方がいい。後々面倒になる。

 

「そういえば、エリゼはアヤさんを『姉様』と呼んで慕っていましたわね」

「え?あ、はい。それが何か?」

「ウフフ」

 

ウフフじゃないだろう。その熱烈な視線は何だ。

また大変な誤解が生じたように思えてならない。

私はアルフィン殿下の笑みを放置し、再度端末に向き直った。

 

「報告は以上です。何かあれば、また一報を入れますね」

『了解した。それで、君の方はどうなんだい?目の具合を聞いてもいいかな』

「調子は良いですよ。サラ教官が指導してくれたおかげで、大分慣れてきました」

「シャワー室では立場が逆に―――」

「今日は1日お休みを貰う予定なんです。焦りは禁物ですから」

 

何か聞こえた気がするが、放っておこう。

私はサラ教官の指導の程と、今日は1日身体を休める旨を伝えた。

 

正直に言って、時間を持て余していた。

暇があれば身体を動かす性分なだけに、どうもしっくり来ない。

日記も既に書き終えていたし、何をすればいいのかが思い浮かばなかった。

 

『成程。なら、資料室で読書というのはどうかな』

「読書、ですか?」

『あの部屋には様々な書籍を置いてある。有意義な時間を過ごせる程度には揃えているつもりだ・・・・・・ん、そうだね。君には、私のお薦めを紹介しよう』

「お薦め・・・・・・も、もしかして『軌跡シリーズ』ですか?」

 

私が以前完読したシリーズについて触れると、殿下は笑い声を上げて否定した。

一瞬期待してしまったが、続編を執筆する時間も構想もないようだ。

 

代わりにオリヴァルト殿下は、1冊の本を紹介してくれた。

曰く、殿下の秘蔵本。その存在を知る人間は僅かで、希少本に属する書物。

そして本来ある筈のない『続編』であり、もう1つの『真実』が描かれた、作者不明の1冊。

殿下は本のタイトルを言うより前に、その前作となる作品の名を口にした。

 

『聖女と白い狼、という作品を知ってるかい?』

 

___________________________________

 

とある村へ、恐怖と絶望が訪れた。

過去に前例の無い病が、唐突に村人を襲った。

 

初めに発症した村人は、屈強な男性だった。

質実剛健を絵に描いたような男性は、突然世界の半分を失った。

何の前触れも無く、左目から光が消えたのだ。

医者は首を傾げるばかり。何せ昨日まで、男性は健康その物だった。

原因が分からなければ、当然治療法も無い。何も見つかりはしなかった。

 

悲しみに明け暮れる男性は、次に左の嗅覚を失った。

単なる鼻詰まりではないことを理解したのは、片側の味覚を失った頃だった。

立て続けに一方の五感が去って行く事態に、男性は恐怖のどん底へ突き落とされた。

 

医者の努力の甲斐も空しく、男性の左耳へ静寂が訪れたのも、突然の出来事。

男性は涙を流しながら脅え、毎晩泣き喚き続けた。暴れに暴れ回った。

次に失うであろう感覚は何だ。左半身へ残された物は、既に数少ない。

 

答えは、『全て』だった。

その日を境にして、男性の左半身は、動かなくなってしまった。

何も感じない。暖かみも冷たさも。痛みも何も無い、真っ暗な世界。

 

やがて男性は、右目から涙を流しながら―――息を、引き取った。

医者は頭を抱えた。命までもが奪われるだなんて、考えもしていなかった。

丁度その頃、別の村人が目にしていた半分の世界が、暗闇に包まれた。

1人。また1人と。男性に続くように、村人は大切な物を失い始めていた。

 

 

 

多くの有識な医者が匙を投げる一方で、1人の『女性』が村へ足を踏み入れた。

高齢の女性だった。村を見放すには、女性は優しすぎた。

既に夫には先立たれ、子供達は1人で生きていける程に成長していた。

人から人へ感染する可能性が残されていながらも、女性は躊躇いを捨て、村で生活を始めた。

 

症状は全て共通していた。

まず左目を失い、左側の嗅覚、味覚が後に続く。

聴覚も失い、やがて半身が不随になる。その先に待っているのは―――死。

 

村人の半数以上が発症していた。

感染の疑いが残されている以上、住民は村を離れることも許されなかった。

そして人の尊厳を奪い去る病に対し、村人達は恐怖に慄き、冷静ではいられなかった。

暴言、暴力、破壊。村は廃れ、荒れ狂い始めていた。

 

女性は懸命に皆を諭しながら、治療の術を模索し続けていた。

その努力は報われることなく、命は減少の一途を辿り、暴動は治まる事を知らなかった。

次第に健全な人間が少数派となり、未発症の者は、ただその時を待つのみ。

 

女性は覚悟を決めた。このまま村へ留まり、添い遂げると誓った。

天を仰ぎ、空の女神へ祈りを捧げた、その夜―――女性の世界も、半分へ減った。

 

_______________________________

 

考えに考え抜いた末に、女性は道端に転がるゴミを拾い始めた。

老いに蝕まれる身体に鞭を打ち、唯々拾い続けた。

 

村人は絶望した。

医療の知恵を持つ唯一の人間。最後の希望が、突然村の清掃を始めたのだ。

頭が狂ってしまったのか。そうではない事を、村人達はその直向きな姿から理解した。

 

ある日。1人の老婆が、女性に続いた。

荒れ果てた村中に広がる不要物を、1つずつ拾い上げ始めた。

毎日毎日、愚直に繰り返した。嗅覚や味覚の片方を失っても、手を止めることはなかった。

その全てを拾い集めた後、女性と老婆は規則正しくあろうと努めた。

垂れ下がった店先の看板を直し、放置されていた花壇へ水をやった。

水浴びをして身を清め、泥だらけになっていた衣服を石鹸で洗った。

 

村人は首を傾げながら、その姿を見守り続けた。

胸の奥から込み上げてくる何かに、戸惑いを覚えた。

 

まず、目を閉じた。不思議なことに、皆が同じ行動を取り始めた。

鋭敏になっていた右耳に、風が木々の葉を撫でる音が聞こえた。

右耳を塞ぐと、周囲の風景が一風変わって見受けられた。

知らぬ間に研ぎ澄まされていた片方の感覚が、生きているという実感を与えてくれた。

 

忘れていた記憶。

捨て去った感情。

失った筈の何かが、思い出されていく。

 

 

世界が―――輝き始めた。

 

 

料理人は久方振りに厨房に立ち、その腕を揮った。

料理を口に入れた瞬間、かつてないその味に感動を覚え、右目に涙が溢れた。

演奏家は1ヶ月振りに楽器を握り、音を奏でた。

カラフルに色付いた音色が自身の心を揺さ振り、やはり涙を流した。

芸術家は一心不乱に筆を動かし、一晩で1枚の絵画を描き切った。

この世を去った筈の伴侶が、眼前で微笑んでいた。涙は止めどなかった。

 

村人達は規則正しく、清く聖しくあるために行動した。

誰かのために何かをなし、それぞれの何かへ心を注いだ。

 

美しい物。綺麗な音。

美味しい料理。心地良い香り。命の温もり。

お互いが与え合い、豊かにするために分け与えた。

命の灯が消え去るまで、全てが失われるその瞬間まで、ただひたすらに。

最期まで、人間らしくあろうとした。

 

 

やがて女性は、独りになった。

残された余生を燃やし切った村人達は、全員が天に召されていた。

女性も、既に動けなかった。空を仰ぎながら、自分自身に問い掛けていた。

 

私は正しかったのか。

私が選び抜いた道は、誤りではなかったのか。

答えを与えてくれる人間は、もういない。

 

不意に、顔へ暖かみを感じた。

目を開けると、右頬を舌で舐める、白い狼がいた。

 

「あなたは、いつも私の傍にいてくれましたね。どうしてですか?」

 

女性の問い掛けに、狼は小さく唸り、答えた。

狼の言葉など分かる筈も無く、女性は自嘲気味に笑みを浮かべた。

 

「そうですか。私も、あなたのことが大好きです」

 

皺だらけの右手が、そっと狼の顎を撫でる。

最期が近いことを、女性は理解していた。

だから女性は、残された力を以って、狼を抱いた。

 

最後の最後で感じることができた、生命の温もり。

確かな息遣いと、鼓動。微笑みながら、女性は動かなくなった。

 

生と死を越えた世界の狭間で、誰もが笑っていた。

世界は、輝いていた。

 

___________________________________

 

右目から流れ落ちる涙が紙を濡らしたところで、不味いと思った。

この本は希少価値のある秘蔵本。私なんかの涙で汚していい筈がない。

 

私はそっと本を閉じ、物語を元の本棚へと戻した。

どういうわけか膝に力が入らず、私はそのままずるずると床へ腰を下ろしてしまった。

 

「・・・・・・感覚が研ぎ澄まされる、か」

 

物語を読む以前から、覚えはあった。

右目が捉える世界が光り輝いて見えるのは、セルリアンハーツだけの力ではない。

見える世界が半分になったせいか、視覚以外の全てが敏感になっていた。

失った物を埋め合わせるように、耳も舌も。そして、心も。

以前の私なら、本を読んで涙を流すなんて真似はできなかったかもしれない。

 

サラ教官が私に教えたかったであろうことが、今になって理解できた。

オリヴァルト殿下が、私にあの本を薦めた理由も。

そしておそらくだが、殿下は知らなかったのだろう。おかげ様で、私は知ることができた。

 

聖女の名に相応しい心透き通る女性と、彼女を見守り続ける狼の物語。

続編などあり得ない。だって女性は、前作においてその最期が描かれていた。

だがそれは、あくまで物語上。本来の彼女は生き永らえ、騎士と結ばれ、子を残した。

白い狼が、そう教えてくれた。だからあれは続編と言うよりかは、別の物語だ。

 

もし、真実なのだとするのなら。

誰が聖女の最期を紙へ綴り、物語小説として世に広めたのか。

それは今でも分からないが、語り部となり得た存在は、私の傍らにしかいない。

 

「ねえラン。ランは、いつも私の傍にいてくれるね。どうして?」

 

聖女に倣い、問い掛ける。

ランは答えない。一緒にこの国へ戻ってから、変わらずにその想いは謎に包まれたまま。

 

「あはは。私も大好きだよ」

 

それでも、一端に触れることはできたのかもしれない。

幻の至宝も、ウルスラさんも。ランにとっては、別れに他ならない。

 

私達の間にも、いずれその刻がやって来る。

避けては通れない別れ。人生は、そう長くは続かない。

最後の最期まで、清く聖しく。今は素直に、そうありたいと願うばかりだ。

 

「・・・・・・ラン?」

 

すると突然、ランの感情が揺れ動いた。

漸く読み取れるようになったランの表情と、その胸の内。

戸惑い。焦り。躊躇い。灰色に濁った感情が、私の中へ流れ込んでくる。

 

「ねえ、どうしたの?」

『1つだけ、おぬしに伝えておくことがある。時間も余り残されてはいない』

 

思わず耳を塞ぎたい衝動に駆られた。

時間が無い。その先の言葉を、聞きたくないと思った。

 

ピロロ、ピロロ。

 

私達の会話に横槍と入れたのは、ARCUSの着信音だった。

通信ボタンを押し、耳にスピーカーを当てる。声の主は、トワ会長だった。

 

「はい、アヤです」

『アヤさん?今何処にいるの?』

「資料室にいますよ。どうしたんですか?」

 

トワ会長の声も、ラン同様に戸惑いや焦りといった色を帯びていた。

何かあったのだろうか。聞き耳を立てていると、懐かしい女性の名をトワ会長が口にした。

手放しには喜べなかった。それ程までに、トワ会長の声は震えていた。

 

『エリオット君のお姉さん、フィオナさんの行方が掴めたの。少し、不味い状況みたい』

 

 


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