第三話
クラナガン郊外のある地域。どれだけ大きく発展した都市であっても、光の当たらない場所は存在する。否、むしろ大きければ大きいほど、光が強ければ強いほど、その影もより大きく、深くなる。ここはそんな、大都市クラナガンの影となっている区域である。
夜のその場所を、一人の人物が人目を気にするように歩いていた。辺りに人は見当たらないが、いつもどこからか視線を感じる。薄汚れたフードを目深に被り直し、その人物は奥へ奥へと路地を進んでいく。既に官憲も手出しを渋るエリアへ入りこんでいた。
暗く薄汚い裏路地をしばらく進むと、そこに一つの質屋があった。薄らと灯る電灯がなければ廃墟と見紛うほど荒れた店だ。人影は最後に一度、周囲の確認をした後、軋む扉を開き中に入っていった。
後ろ手に扉を閉める。中の様子は、外の有様から想像した通りの状態だった。埃っぽく、煙草の臭いが沁みついており、ひび割れだらけの壁。壁際の陳列棚も碌に手入れがされてなく、そして碌なものが入っていなかった。
その人物はここに来てフードを取り払う。そこから現れたのは一人の男。皺が多く、妙に歪んだ顔つきをしており、年齢は推し量れない。その目は“ここ”に来る他の者同様に濁っており、生気が感じられない。
男は並べられた品には目もくれず、その猫背になった体を、カウンターまで進ませた。
「いらっしゃい。何か入用で?」
その奥に腰掛ける男が訊ねる。缶ビール片手に雑誌に目を落としたままの姿で、その太った中年の男は応対した。
「便所を貸してくんねぇかな」
「表でしてこりゃいいだろう」
「じゃあ紙をくれ」
「…………」
カウンターの男は一瞬目の前の男に鋭い視線を投げかけると、奥にある扉を指さした。客の男はそれに従い進み、扉を開ける。その奥には一本の廊下が続いており、さらに奥にまた扉があった。男はその中に入っていく。すると、突如横から飛び出してきた腕に引き倒され、床に倒れ伏せる。痛みに呻く男を無視し、待ち構えていた大男は乱暴にその体をまさぐり、ボディチェックをする。それが一通り終わり、武器を所持していないことが判明すると、その大男は客から離れ壁際まで後ずさった。
客の男はよろよろと立ちあがり、周囲を見渡す。小さい部屋だ。だが先ほどの質屋よりは手入れが行き届いている。そこには先ほど自分を手荒く歓迎した男の他に、もう一人男が椅子に腰かけていた。
「すいませんね、手荒くて。何分昨今物騒なものでして、この店も用心を欠かないようにしているのですよ」
カウンターの男とは対照的に病的に痩せ細ったその男が語りかける。客の男はそんな言葉など聞いてもいないようで、懐から、そこに仕舞ってあった封筒を取り出し、その男に突きつけた。
「これで買えるだけくれ。一番強力な奴だ」
「…………」
その痩せた男は封筒を受け取り、中に入っているもの――現金――を、傍目にもじれったくなるほどゆっくりと数え上げた。そして額が確認できると立ち上がり、奥にある棚から、幾つもの小包を取り出した。そしてそれを客に渡そうとして――その手を止める。
「あなた、ここに来るのは初めてですよね。そうそう見つからない場所に店を構えている筈なのですが……一見さんというのは珍しい」
「…………」
「あぁ誤解しないでください。私どもとしましても、お客様のプライバシーにまで首を突っ込もうなどとは考えておりません。ただしかし……不思議ではある」
「何が言いたい」
勿体ぶった言いように、客の男は苛立ち急かす。その視線は、男の手にある包みから一時も離れない。
「まぁ、あれですよ。ここで会ったのも何かの縁。人の出会いは一期一会と言いますし……ひとつ、お近づきの印でも、と」
その男はそう言うと、もう片方の手に持ったものを差し出した。中に白い粉末の入ったビニール袋だ。
中に入っているのは当然麻薬。それもシオライトだ。男はにこやかな表情の裏で、試すように客の男を見る。これがもし管理局の囮捜査だとすれば、この客はこれは受け取らない筈だ。捜査の結果、局員が麻薬中毒になることなどとてもではないが認められないだろう。“彼ら”からのリークはないが、警戒するに越したことは無い。万が一に備え、壁際でじっとしていた用心棒が密かに全身に力を漲らせる。
しかし客の男はそんな微かな緊張感に気付きもせず、男の手から袋を引っ手繰ると、そこに顔を突っ込み大きく吸い込んだ。まるで溺れかけた者が空気を求めるが如き様相である。
効き目はすぐに出た。何回か吸引を繰り返すと、客の男はびくんと体を震わせ、床に崩れ落ちた。体を大きく痙攣させ、目は飛び出し、顔中溢れだした体液でべとべとにさせながらうわ言を呟いている。疑うまでも無い。完全にトリップしている。
先ほどまでの緊張を解き、客を侮蔑の目で見つめる男。己の快楽の為ならこうも容易く人間性を捨ててしまえるのかと、もう何度目になるかも分からない感慨を抱く。死にかけたゴキブリですら、こいつよりは品位があるだろうに。
麻薬の入った小包を抱えさせ、男は用心棒に顎で合図をする。大男はそれに従い、床で蠢く客の足を掴み、引きずっていく。そして更に奥にある部屋に放り込んだ。そこから裏口に通じている。酩酊状態から覚めれば勝手に帰るだろう。
痩せた男は再び椅子に座り直し、次の客が来るまでの間、売上を数え直すことにした。着々と増え続けていく金額に、思わず笑みが浮かぶ。全く楽な商売だ。アイツらに感謝しないとな――
一時間後。路地裏からフードを被った男が出て来た。先ほど質屋に入って行った男だ。麻薬によって身体能力が高まり、神経が鋭くなっているからか、非常に機敏な動作で歩いていく。
暫く進むと、俄かに人の気配が強くなってくる。このスラム街の境界に近づいているのだ。
このまま出ていくのかと思われたが、男はそこで少し立ち止まり、傍目には分からぬほど軽く、周囲をチェックする。そして、道を一つ折れ、再び路地裏に入りこんでいく。その先は、雑居ビルに囲まれた空き地になっていた。
男はその壁際に蹲ると、息を凝らし、入って来た道を見つめる。十分間身動き一つせずに待ち構えていたが、誰一人入りこんでくる気配は無い。それを確認すると、男は立ち上がり、壁に向き直る。そして両手を壁につけたかと思うと――何とそのまま登り始めた。如何な力が働いているのか、男が壁についた四肢は離れもせず、その体重を軽々と持ち上げる。まるで蜘蛛のように、スルスルと滑るように這い進んで行くのだ。
その調子で屋上まで登りきると、男はもう一度注意深く周囲を確認し――そしてフードを取り、その“顔”を剥ぎ取った。
その下から出て来たのは、先ほどまでの男とは似ても似つかない、少年と言っていい容貌だった。その目は生気を取り戻し、標的を見つけた高揚感で鈍く光っている。
「……ようやく一つか」
夜の街を見下ろしながらそう、エンダー・アヴェンタは呟いた。
◆
夕暮れの倉庫街
暗闇に蠢く死体の山
絶望の中全てを諦めた男
向けられた銃口の暗さ――無力さ
燃える――燃える――燃える
――そんな光景を、エンダーは今でも昨日の事のように思い出せる。自分のデータが何者かによってばら撒かれていることを知ったあの日から、当時の事がいつも頭のどこかに引っかかるようになっていた。あの時の事件が、思った以上に自分の心を縛り付けているのだと今になって気付かされた。
あの後、エンダーは念のためテスタロッサ家のサーバーを全てチェックし直してみたが、どこにも侵入の形跡は見られなかった。だとすれば、データの流出経路は一つしかない。あの医者からだ。
――あんたは誰と繋がっていたんだ?
そう問いかける。 エンダーは、真相究明の一番の近道は当時あの医者と繋がっていた人間を探し出す事だと考えていた。おそらく違法技術に手を染めているであろう科学者だ。その人物が、今回の事件に関わっている。
根拠はある。あの時の、倉庫の地下室を思い出す。人体のコピーを造り出そうとそこで稼働していた機械の山。表の医者としての生活を保ちながら、あれだけの設備を全て独自で集められた筈がない。必ずどこかに横の繋がりがあった筈だ。そう、データのやり取りも。
その人物の存在は管理局も当然気付いた筈だが、それらしき人物が捕まったと言うニュースは見つからなかった。おそらく未だ逃げおおせている。その可能性は高い。
だが記憶の中の男はエンダーに向かって空しく微笑みかけるだけで、何の答えも寄こさない。
あの事件があったからこそ、自分のことを知らねばならないと、失われた記憶を取り戻さねばならぬとエンダーは改めて認識した。自分の抱える秘密が、自分でも知らないうちに他の誰かを狂わせてしまうことを知ったから。
今また、自分の存在が誰かを狂気に追いやろうとしているのだろうか。
だとしたら――探さねばならない。エンダーはそう決意した。
あの時の銃声が、今も頭の中で木霊している。
◆
隊舎より徒歩三十分ほどのマンションの一室。そこがエンダーが普段寝泊まりしている場所である。周囲は静かで値段の割に部屋が広く、中々気に入っている。寮を借りられなかったのでここを適当に選んだのだが、今となっては正解だった。寮にいては人目が気になって動きにくかったろう。
壁を這い上がってベランダによじ登り、窓から帰宅する。慣れたものである。
『お帰りなさいませ、エンダー様。相も変わらず文明人らしからぬ帰宅方法ですね』
そんなエンダーを抑揚の欠けた電子音声が出迎える。ジークフリートである。エンダーは顔をしかめ、盗聴防止用のフィールドが作動しているかを確認する――問題なし。
「……別にいいだろ。自分の部屋にどう入ろうが」
『勿論構いません。しかしエンダー様がドアの使い方を忘れてしまったのではないかと心配になっただけです。何時か御友人宅に招かれた際、恥をかきますから』
「余計なお世話だ」
『失礼。まずは御友人を作らなければなりませんね』
「…………」
こいつは一体どうしてこんな性格になってしまったのか。設計したエンダーですら不思議に思うほどの慇懃無礼さである。
「馬鹿なこと言ってないで、ちゃんとマーク出来てるな?」
『はい。発信器、集音マイク、共に正常に作動中』
エンダーは先ほど、麻薬で朦朧としていると思われていた隙に店にそれらの機器を仕掛けていた。どちらも、“あまりお行儀の良くない”店で購入した、“必ずしも合法的ではない”代物である。
あの店こそ、エンダーが一ヶ月探し求めた場所――正確にはその一つ――である。
麻薬組織について調査する内に、エンダーはその組織の仕組みを大まかにだが掴み始めていた。ここでポイントとなるのはシオライトの売買である。
件の麻薬組織は、ミッドチルダ中に点在する犯罪組織に麻薬を卸しているおり、そこから更に下部組織に薬を卸し、流通させていた。ここで重要なのは、シオライトを扱っているのは一番最初に組織から麻薬を卸された所に限るということだ。その場所を突き止めることが出来れば、そこから情報を得、あわよくば薬を卸す取引の現場を押さえてやり更に上の組織についての情報が得られるだろうというのがエンダーの考えだった。
その為エンダーは深夜、もしくは休日を使い、自らを麻薬常用者に変装させ裏社会を歩き回り、そこら中で麻薬を買い漁りながら単身囮調査を続けていた。
元々は当時の、あの医者の事件から犯人を追おうとしていたのだが、流石に何年も前の事件を単独で追跡するのは困難を極めたので、この方法に落ち着いたのだ。そしてつい先程、ようやく探していた店を発見することに成功した。
いやようやく、と言うよりは、早くも、と言い換えた方が良いのかもしれない。何せ、我が身を薬漬けにするという形振り構わない強行捜査をしているとは言え、管理局がこの二ヶ月間まるで押さえられなかった証拠をエンダーは一ヶ月の内に一人で集めてしまったのだから。
そこで、自分が管理局の捜査官達より優秀だ、などと自惚れられるほどエンダーも単純ではなかった。前々から薄々感づいていていたのだが、おそらく局内で情報漏洩がある。内通者がいるのか、それともハッキングされているのかは分からないが、相手は何らかの形でこちらの情報を得、捜査の網を掻い潜っている。
「…………」
今まで集めた情報をまとめたファイルを前にして、エンダーは唸る。そもそもエンダーには、手柄を独り占めしたいという気持ちも、自分で事件を解決したいという拘りがあるわけでもなかった。ただあのデータをばら撒いている者とその理由を突き止め、二度とそれらに関わらないようにしたいと思っているだけなのだ。
だからこそ手に入れた情報は全て匿名で管理局へ流すつもりだったのだが、情報漏洩があるとなるとそう言う訳にもいかなくなってくる。今は管理局の捜査を隠れ蓑にして比較的自由に動いているが、これだけの情報を集められる存在がいることを知られれば、それも難しくなるだろう。
そんなことを暫く考えていると、ジークフリートがエンダーに語りかけて来た。
『エンダー様、一つよろしいですか』
「何だ?」
『この一ヶ月間であなたが摂取した麻薬の量が、既に成人男性二十人を死に至らしめるほどの量に達しています』
「……それで?」
『あなたの健康が害される可能性があります。今後は薬物の摂取を控えるべきです』
エンダーは面倒臭そうに溜息を吐く。
「俺を常人と同じ基準で量っても仕方ないだろう……。丈夫にできてるんだ、問題ないよ」
『加えて、この三ヶ月間の睡眠時間の合計が一時間を切っています。……エンダー様、どれだけ強化されようが、あなたはあくまで生身の肉体をベースに作られているのです。どうか御自愛下さい』
何時になく真面目な様子でエンダーの心配をするジークフリート。流石に鼻で笑えなくなってくる。
「……メディカルチェック」
エンダーの音声に反応して、全身のナノマシンがスキャンを開始し体調をチェックする。暫くして結果が網膜に投影される。
「……特に異常は見られない。これで気は済んだか、ジークフリート?」
『異常が発見されてからでは遅いのです。その時には既に、あなたの健康に致命的な問題を引き起こしている可能性が――』
「ジークフリート」
尚も言葉を続けようとする彼をエンダーは強引に遮る。
「次俺の前で“健康”という言葉を使ったら、お前を医療センターに寄付するぞ。いいな?」
『了解しました。エンダー様』
素直に了解するジークフリート。何だかんだって、彼はエンダーの命令に従順だった。
◆
数日後の深夜。エンダーはとある倉庫の屋根に這い上がり、その天窓から中の様子を窺っていた。そこでは十人ほどの人間が集まり――中にはあの時の痩せた男に、用心棒の大男もいる――相手を待っている。集音マイクから得た情報により、早くも取引の現場に居合わせることに成功したのだ。この連中は、上の組織からもたらされる管理局の捜査情報に頼りきっており、後を追うエンダーから見れば隙だらけだった。
どこから、どうやって情報が漏れているのかも一度調べないといけないか。そう考えながら下に注意していると、やがて動きがあった。倉庫内に魔法陣が展開されたかと思うと――次の瞬間その場所に古びたコンテナが出現した。
――そういうことか……
その場面を目撃し、エンダーは思わず舌を巻いた。待ち構えていた連中はコンテナの中の包み――麻薬――と、自分達の持っていたケース――おそらく売上――を入れ替えている。今目の前で行われているのが、取引の瞬間なのだ。転移魔法を使った薬と金のやりとり。道理で足取りが掴めない訳だ。おそらく下の連中も、自分たちがどんな相手と取引しているのか、詳しいことは何も知らないのだろう。
軽く舌打ちをして、バリアジャケットを展開する。危険は承知で、コンテナが引き戻される瞬間に飛び込むか――
「!! おい、誰かいるぞ! 上だ!」
突如、そんな声が響き渡った。一斉に天井を見上げ、懐に手を突っ込む男達。対するエンダーは、何が起こったのか一瞬分からず反応できない。しかし次の瞬間下から山ほどの銃弾が飛んでくると、ようやく事態を把握した。ばれたのだ。
薄いトタンやガラスを貫通して銃撃される。そんな中取引使われているコンテナが再び魔法陣で覆われ、光を放ち始める――転移だ。
やむを得ず割れた天窓から倉庫内へ身を躍らせる。覆面で顔を隠し、マフラーたなびかせた黒装束の男が突如飛び降りて来たことに周囲は混乱する。その隙をついてエンダーはコンテナ目がけて走るが――間に合わない。エンダーの目の前で、コンテナは再び姿を消した。
「クソ野郎! 何もんだテメェ!」
怒号とともに銃撃を再開する男達。エンダーは仕方なくその場を制圧する。バリアジャケットとナノスキンの防御力があれば、一般的な銃火器程度なら問題にならない。
唯一脅威になりそうだったのは例の用心棒だった。魔法素質があるらしく、銃撃が効果無いことを悟ると、身体強化を駆使して接近戦を挑んできた。丸太のような腕が魔力を帯び、高速で振るわれる。エンダーは軽く体を流して回避すると、同時に相手の鳩尾に向けて腕を伸ばす。さほど力の入っていないように見えたその拳は、大男の飛び込んできた体にカウンターで突き刺さり、男はまるで風船から空気が抜けるような音を立てて息を吐いたかと思うと白目をむいてその場に崩れ落ちた。
「ひ、ひぃいぃぃ!」
抵抗する連中を全て昏倒させる。残っているのはあの骸骨のような男だけで、降って沸いた異常事態に腰を抜かせ、這ってエンダーから離れようとする。その男に右腕を向ける。手から深紅の魔力糸が放出され、男の足を絡め捕り、引き戻す。地面で擦り卸されながらやって来た男の首根っこを掴むと、その体を片手で持ち上げ壁に叩きつける。
「言え。あいつ等は何者だ。どうやって知り合った」
「し、知らねぇんだ。俺たちは何も。ほ、ほんとだよ」
「嘘を言うな……!」
「本当だって! や、奴ら、急にやってきて、良い儲け話があるって。管理局の情報まで流してくれるし、ぼろい商売だと思ったんだ。それで乗っただけなんだよぉ」
涙と鼻水と唾液と、擦り傷からの出血で顔をドロドロにしながら男は答える。とても嘘をついているようには見えない。
「ならあのデータは何だ。店のパソコンにあるデータの断片だ。何故あんなものを持っている」
「で、データ……? 知らねぇよぉ。あいつ等、“売上の計算にはこれを使え”って言って、パソコンを弄ってたけど、そ、そんなデータなんて知らねぇ、知らねぇんだ」
エンダーはまだこの男達のパソコンを調べた訳ではなかったが、ある筈だと決めつけ問い詰める。だが返答は予想通りと言うべきか、その存在すら知らないというものだった。
くそ、と思わず毒づく。骸骨男は堪え切れなくなったように、子供みたいに泣き出し始めた。あまりに見苦しかったので意識を刈り取り、床に転がす。
明かりも無い倉庫を、一転して静寂が支配する。エンダーは辺りを見渡す。十数人の犯罪者たちが、呑気に意識を失い倒れている。これが結果だった。一ヶ月間必死に走り回って捜査を続けた成果が、この有様だった。
「くそ……!」
もう一度吐き捨てるように口にし、エンダーはその場から姿を消した。
数時間後、自宅に戻り管理局に倉庫街の調査を依頼した後、自らの醜態を嘆く。
「見つかった原因は、バリアジャケットの発する魔力反応、か……」
『ご明察です、エンダー様。今後もニンジャごっこを続けるおつもりでしたら、別の装備が必要になるでしょう』
すっかり失念していたがバリアジャケットも魔法の一種なのだ。だとすれば当然魔力反応を発している筈であり、敵はその警戒を怠っていなったという訳だ。“敵は隙だらけだ”などと甘く見ていた自分が情けない。この失態によって、相手にも警戒される。再び同じ機会に恵まれることなど望めそうも無かった。
エンダーはベッドに放り出した変装用マスクを眺める。特別精巧なものではない。ただのジョークグッズである。そんなものでも、エンダーのナノマシンにより表面をコーティングしてやれば、殆ど判別が出来ないぐらい完璧に変装が出来た。しかしこれからはこんな物では通用しない。
別の装備、か……。確かに必要ではある。敵に魔導師がいることは確定している。魔力弾やバインドが飛び交う中を、生身のまま全て掻い潜るのは流石のエンダーでも自信がなかった。だがどこでそんなものを手に入れる? 当ては全くない。
『それと、あなたが留守の間にメッセージを預かっています』
「誰から?」
『プレシア・テスタロッサ様からです』
「……聞こう」
◆
秋も深まり冷気が差し込んでくるようになった季節。エンダーの姿は地球の海鳴市、そのマンションの前にあった。
理由はあの時のプレシアからのメッセージである。引越し祝いパーティをすると言うので参加しろとのことだった。
「でも今は仕事が忙しくて……」
『一日の休みも取れないほどこき使われているの? 引越しの時だってそう言って来なかったじゃない。あなたのことを待っているからこれまで延期してきたのに』
「職場の付き合いってものが……」
『家庭の付き合いの方が大事よ。この日はクロノ君やエイミィさんも休みを取れてるんだから。何としてでも休暇を了承させなさい。良いわね?』
「はぁ……善処します」
と言うやりとりがあの日の翌日にあったのだった。昔の苦い思い出からか、プレシアは家庭を犠牲にしてまで仕事に打ち込むことに関してえらく批判的だった。
休暇に関しては、懸念するほどの事無く許可が下りた。どうも自分は周囲から少し働き過ぎだと思われているらしい。タイムカードプログラムを弄ってあるおかげで実際ほど勤務時間は加算されていない筈だが、それでも大分超過していたようだ。
予め教えてもらってあった暗証番号を入力し、エレベーターに乗る。エレベーターは自動で目的の階――最上階――まで移動し、そこで扉を開いた。部屋番号は聞いていない。その必要がないからだ。何せ一フロア丸々が、彼女達の家なのだから。なんでも一階層全てを買い取り、専用にリフォームしたらしい。充分に常識はずれな気はするが、時の庭園という前例を知っている以上、エンダーもこれぐらいの事では驚かなかった。
それでも何となく気後れするものを感じながら立ち尽くしていると、奥から一人の女性が出迎えに来てくれた。
その人はエンダーに向かって穏やかに微笑みかけ、歓迎の言葉を口にした。
「いらっしゃい。そしてお帰りなさいエンダーさん」
「……どうも、お久しぶりです。ハラオウン提督」
時空管理局提督、リンディ・ハラオウンその人だった。
そもそもの始まりは、テスタロッサ家の地球への移住に許可が下りなかったことにある。元々管理世界から管理外世界への移住は敷居が高く、しっかりした身分、充分な教育、高い経済力など様々な審査を乗り越えねばならないのだが、彼女達はとある問題のせいでその審査を通らなかった。
その問題とは、フェイトの存在である。不起訴処分とは言え、保護観察の期間中である彼女を別の次元世界に移住させることがどうしても出来なかったのだ。
これには彼女達も流石に諦めざるを得ない状況だったのだが、そこに救いの手を差し伸べたのがリンディ・ハラオウンである。彼女はこの秋から長期の休暇を取ることが決定しており、前回の事件の際訪れ、いたく気に言った地球――日本――に私宅を持つことを考えていた。そしてそこでテスタロッサ家が難儀していると聞き及んだ彼女は、「でしたら一緒にどうですか?」と彼女達に提案し、結果的にホームシェアまでするようになったのである。時空管理局の提督が保証してくれるともなれば文句も出なかった。
と言う訳で地球でのこの住居は、テスタロッサ家とハラオウン家の共同住居と言うことになっている。全員揃うと九人という中々の大所帯だが、広さ的にはそれでも大分余裕がある。しかも、緊急時には管理局の拠点とすることを了承したおかげで、個人用転送ポートの使用許可も降りたのだ。制限こそあるが、これで仕事がしやすくなったとプレシアもご満悦だった。
適当な世間話をしながら中を案内してもらう。今テスタロッサ家は買い物で出ており、この場にいるのはリンディ、クロノ、エイミィの三人だけだ。リンディとエイミィは午後からのパーティーの準備をするということなので、手持無沙汰となった男二人は、邪魔にならないようソファーに座って雑談でもすることにする。
「君が来てくれて助かったよ。流石に肩身が狭かったんだ」
クロノは少し困った風に微笑んで言う。ちょっとやそっとでは動じなさそうなクロノでも男女比七対一というのは中々堪えるものらしい。
暫く会話を続ける。まさかこんな形で再開することになるとは思わなかったな、と言うクロノに対し、同感ですとエンダーも応える。その際エンダーの言葉使いを修正することになる。今では管理局の一員なので、つい上官に対する固い言葉づかいになってしまっていたのだが、クロノに「プライベートでは気にしなくていい」と言われ、少し崩すことにしたのである。年が近い(ということになっている)こともあって、今後はお互い呼び捨てで構わないと。
「それで、フェイトの様子はどう? 上手くやれてる?」
「覚えが早いよ。魔導師としてかなり優秀だ。……ただ、特攻癖を治すのに少し苦労しているけどね」
苦笑するクロノ。フェイトは現在アースラに嘱託魔導師として勤務して、クロノ達の下で職務に励んでいる。その彼女は以前の、バスティオンを使用した際の癖が抜けないなしく、自分の防御力を過信して不用意に飛び込むことが多いのだという。クロノはまず彼女に官給品のデバイスを使わせ、基礎の基礎から固め直そうとしていた。
「人づきあいでは少し苦労をしているみたいだけど、アルフがサポートしてくれているし、彼女自身徐々に前向きになってきているみたいだ。問題無いと思う」
「引っ越したのは正解だったかな」
あのままミッドチルダに居たらどうだったか……などという仮定が無意味なのは分かっているが、少なくとも今現在彼女が幸せそうならそれに越したことは無い。素直に安心した。アースラでも、事情を知るクロノやリンディから上手いことフォローをしてもらっているようだ。
「しかし俺よりクロノの方がよほど兄っぽいな」
「……君ももう少し頻繁に休みを取った方が良い。聞いた話では、随分根をつめてるそうじゃないか」
「あー……気にしてくれてたの」
「一応、僕の推薦ということになっているからね」
ソファーにもたれかかり、素っ気なさを装ってクロノは言う。そんな彼に思わず笑みが浮かぶエンダーだったが、その反面罪悪感が鋭く胸を突いた。今自分が裏でやっていることが知られれば、それはクロノの面子を潰すことにもなりかねないのだということにようやく気付いたのだ。そんな内心を反射的に誤魔化す。
「忙しさじゃあ、本局の執務官には到底敵わないよ。そっちも大変だろうに」
「……まあね。特に最近サイバー犯罪の被害が増えてるんだ。本局のデータベースにまでちょっかい出してくる輩もいる。この前も医療記録が狙われたらしい」
「よほど他人の健康状態が気になるのかね」
「厄介だよ。今回のは余程やり手らしく、足取りは全く掴めていない」
君を手放したのは痛手だったな、と言うクロノ。エンダーは曖昧に笑う。
「こーらっ、そこの男二人。こんな時にまで仕事の話をするんじゃありません!」
そこに大きな声で割り込んでくる女性――エイミィ。
「休暇の時ぐらい仕事を忘れて、その仏頂面も緩めなさいよっと」
「余計なお世話だよ……ま、待て、まずそのお玉を放すんだ」
口をへの字に曲げたクロノの顔をエイミィがマッサージしようとしてくるが、その手には湯気が立ち上るアツアツのお玉を持ったままだったのでクロノは戦慄した。
「全く、最近は仕事一筋な男性なんて流行らないよ。家庭を大事にしなきゃ、家庭を」
「……君が家庭を語るのか、エイミィ」
「あ、そんなこと言っちゃうー? そんなクロノ君は家庭的なエイミィさんの美味しい料理で、腰を抜かせて見せましょう。エンダー君も、期待しててねー」
そう言ってエプロンを着けた彼女は、鼻歌交じりにキッチンへ戻っていった。いつの間にか部屋には美味しそうな良いにおいが漂っており、空腹を刺激する。
「……期待できそう」
「……そこそこだよ、そこそこ」
再び仏頂面に戻ってクロノが言うが、意地を張っているだけだろう。その顔が一瞬歪む。エンダーはその理由を一瞬で察した。
「エイミィさんに、言っておいた方が良くないかな。あの事」
「……君は良いのか?」
「俺は全然気にしない。それにこれから一緒に住むのであれば、どこかで知られるだろうし。多分テスタロッサさん達も反対しないと思う」
「そうか……ありがとう」
肩をすくめる。“あの事”とは当然、エンダー達の抱える未来世界の事情である。
「エイミィさんには同じ居候仲間としてシンパシー感じてるからね。隠し事は無しにしよう」
冗談めかすエンダーに、クロノは少し肩が軽くなったよと笑った。
「お礼として俺の一家でのヒエラルキーを回復させてくれないかな。具体的にはマッサージ機扱いされる未来を防ぐこととか」
「……難しいな」
近い将来必ず来るであろう自分の姿にエンダーはげんなりした。
◆
その日の夜、パーティも終わり、はしゃぎ疲れた子供たちが眠りについた後、エンダーの部屋を訪れる者がいた。
「エンダー? 起きていますか?」
「リニス? どうぞ」
扉を開けて入って来たのはリニスだった。その姿に少し驚く。何時も隠している猫耳は露わにされ、寝巻というか、ネグリジェと言えばいいのだろうか、その服に軽く上着を羽織った、何と言うか、隙の多い格好をしていたのだ。人型のリニスとはもう四年の付き合いになるが、こんな姿のリニスを見ることはエンダーの記憶にある限り一度も無かったと思う。
「どうしたの、急に?」
「用がなければ、訊ねてはいけませんか? 少し話をしようと思っただけですよ」
そう言って彼女は持っていたボトルとグラスを掲げて見せる。酒か。益々珍しい。
デスクライトだけを灯した薄暗い部屋の中で、リニスはグラスにワインを注ぐ。生憎エンダーにはジュースしか出してもらえなかったが。交わされる会話は、どれも他愛無い話題ばかりだ。引っ越した後の生活のこと、文化の違いによる戸惑い、子供たちの学校生活。
「意外だな、アリシアが体育苦手だとは」
「運動神経は良いのだけど、体力の無さが足を引っ張っているみたいですね。悔しそうにしていました」
「体が弱かったりするわけじゃあないんだよなぁ。俺の知る限り病気になんて一度もかかって無いわけだし」
「もっと昔は、病気がちで大変だったとプレシアが言ってましたけどね」
「あの元気っ子がねぇ。想像できないな」
「フェイトが来てから、益々明るくなりましたから」
「待望の妹だったからね。友達はどう?」
「大丈夫みたいです。アリシアも、フェイトも、新しく出来た友達と仲良くしているようです。特になのはちゃん達と仲が良くて、よく家にも遊びに来ていますよ」
「ふーん……まぁ新生活は、大まかには上手くいっているわけか」
「ええ」
会話が途絶える。それまで穏やかに流れていた雰囲気が、ここで少し変化したのをエンダーは感じ取る。リニスは一口ワインを口に含むと、ゆっくり語りかける。
「プレシアの提案……また断ったんですね」
「……あぁ、養子の」
多分これが本題だったのだろう。真剣な様子でこちらを見つめるリニスに、エンダーも気持ち姿勢を正す。この話題は、今まで一度や二度と言わず何度も繰り返されてきたものだった。
既に五年も一緒に暮らしているのに、エンダーの立場は居候のままである。エンダーはともかくテスタロッサ家としてはこのままでいいとは考えておらず、その度に養子に迎える誘いをしてきたのだったが――
「まだ、納得できないのですか」
「…………」
昔エンダーは彼女達にこう言ったのだ。「記憶が戻るまではその提案を受けられない」と。
自分がどういう人間なのか、自分ではっきり口にすることが出来ない内は、とても、本当の意味であなた達の家族にはなれない。彼女達はそれでも気にしないと言ってくれた。優しかった。
……だからこそ、今の自分がその優しさに甘えることは余計に許せなかった。
「……普段表には出しませんが、アリシアは寂しがっています。最近になってあなたがどんどん遠くへ行ってしまっているから。エンダーも気付いているでしょう?」
『そんなこと、ないよ、ね?』
分かっていた。分かってはいたが、しかし今は……。
空になったグラスに、残されたワインを注ぎ覗きこむ。険しい顔をした自分が、液面に反射している。
『結局のところ、養子と言うのは形だけのものです。そうでなくても、あなたが私達の家族であることには変わりありませんから。……それだけは覚えておいてくださいね』
リニスはそう言って微笑むと、部屋から出ていった。
ひと思いに飲み干す。
「ぐっ……ぶはっ!」
盛大に噴き出してしまい、顔がワインまみれになったので、洗面台に行き顔を洗う。その帰りに居間を通りかかると、中から人の気配がする。もう日も変わったのに誰だろうと覗いてみると
「あー……フェイト?」
月明かりに照らされた後ろ姿から一瞬アリシアかと思ったが、すぐに違うことに気付く。彼女は窓際で月を見上げていたが、急に呼びかけられて少し驚いたように振り向く。
「リーダー……」
「エンダーだって。……どうした、こんな夜更けに」
「…………」
そう問いかけると、俯いて黙り込んでしまう。月夜の雰囲気も相まって、どこか儚げに見える。そんな彼女に並び、エンダーも外を眺めてみる。綺麗な満月だ。それを見ていると、否応なしにあの時のことが思い出される。
「……学校、上手くいってるようで良かった。新しく友達もできたんだってな」
「うん……なのはと一緒のクラスになれて、アリサやすずかとも仲良くなれて……アリシアもよく上の学年から遊びに来てくれるんだ」
照れたようにはにかみながら、いつもより饒舌に学校生活を語ってくれるフェイト。彼女のこんな姿が見れただけで、地球に来て良かったと思う。
「フェイト、なのは達には未来の事とか、言ってないんだって?」
「え、う、うん。……その、リーダーが言わなかったみたいだし……その、えっと……」
途端に表情を曇らせ、言葉を濁すフェイト。その様子から事情を察するエンダー。管理局で拘留されている間、未来の話をするたびに“頭おかしい子”扱いされたことが心の傷になっているらしい。それを狙ってエンダーやクロノ達は彼女に「嘘をつけ」とは言わなかったのだが……ちょっと悪いことをした気になる。
とにかくその件については、フェイトが明かしたくなったらいつでも言って構わないと伝えておいた。相談に乗るし、なのはならきっと受け入れてくれる筈だとも。
「分かった、リーダー」
「エンダーだって……ん? そう言えばフェイト、俺はともかくアリシアのことは“お姉ちゃん”って呼んでないのか?」
「……うん」
「引っかかることでもある? 気が乗らないとか?」
「そうじゃないよ。そうじゃないんだけど……」
フェイトは苦しそうな、哀しそうな顔をする。
「夢を、見ていたんだ」
「夢?」
「うん。ずっと昔の話。こんな風に、温かくって、優しくって、幸せな気持ちのする……笑顔の人たちが、手を差し伸べてくれる夢」
「…………」
「私も一緒にいようって、一生懸命手を伸ばすんだけど、どんどん離れて行って。それで目が覚めると、そこには研究所の白い天井があるんだ」
それが、とても悲しかったと。今が幸せすぎて、夢なんじゃないかと、手を伸ばせば消えてしまうのではないかと、小さくそんなことを語った。そう考えると、時々、夜眠るのが怖くなるのだ。目が覚めた時、ちゃんとそこに自分に微笑みかけ、「おはよう」と言ってくれる人がいるのだろうかと。
「幸せな、夢か……」
「…………」
「そういうことも、あるのかもしれないな。俺たちがこうやって生活しているのも、何処かの誰かが見させてる、夢だったりな」
「……うん」
そんな時、自分ならどうやって確かめるだろうか。何とか彼女の悩みを払拭できる答えは無いかと頭の中をひっくり返してみる。その結果――
「……りーらぁー?」
反射的に伸びた両手が、フェイトの頬を横に引っ張っていた。何をやっているのか俺は、よりによってこんな子供だましなのか、と自分で呆れてみるが、その時のフェイトの顔と声が可笑しくてつい笑ってしまった。それまで困ったような顔をしていたフェイトもむっときたのか、自分でも頑張って手を伸ばしてエンダーの頬を抓ってくる。
月明かりだけが照らす夜の居間で、そんななんとも珍妙な光景が展開された。暫くそうやってお互いの頬をずっと抓り合うが、その内にフェイトが涙目になって来たので慌てて離す。
「……心配しなくても良いんじゃないか」
「?」
少し赤くなった頬を押さえながら、恨めしげにエンダーを見上げるフェイトに気楽に語る。数年前似たようなことがあったなぁと思い出したのだ。。
「昔、こんなことを言っていたんだ。アリシアが、“こんな風にいられることが夢みたい”だって」
その時も俺は彼女の頬を抓ってやったんだっけな、と懐かしむ。
「それから暫く経つけれど、一向に目が覚める様子は無い。ということは、これは現実だってことだろう」
「…………」
「夢なら、覚める。何時か必ず。だから、今この瞬間が現実なんだってことは、一年後とか、十年後の君が証明してくれる。今、楽しいだろう?」
「……うん」
「だったら、素直に楽しんでいるといい。夢なら夢で、楽しまないと損さ。きっとその内、自然に受け入れられるようになる。……どうしても不安になったら、また頬を抓ってやろう」
そう言うと、彼女は少し困ったような顔をするが、同時に小さく笑う。それを見てエンダーも安堵した。
そうしているとフェイトは眠そうに欠伸をする。もう深夜だ。部屋に戻って、寝るよう促す。その去り際に――
「リーダー……ゴーストは、ちゃんと元の世界に帰れたかな」
「え」
「ううん、何でもない。おやすみ」
フェイトはそう言って頬笑み、小さく手を振ると部屋から出ていった。少しして微かに扉の閉まる音がする。自分の部屋に帰ったのだろう。
ゴーストか。フェイトは聡い。何か薄々感づいているのかもしれない。何時か、彼女に話してやる必要があるだろう。エンダーはそう思った。
そして大きく溜息をつく。少しは兄らしい態度が取れただろうかと。気休めしか言えないことが情けない。思い返してみれば、アリシアには兄と呼ばれてこそいたが、この世界に慣れない自分の方が実質支えてもらっていたのだ。リニスにも、プレシアにも。
曲がりなりにもリーダーと頼ってもらえている以上、それらしいことをしてやりたいものだが……。ぼんやりとそんなことを考えながら、エンダーも部屋に戻ろうとする。果たして今夜は眠れるだろうかと毎度のごとく気が重くなりながら。
その時、机の上に置かれていた一冊の冊子が目にとまった。普段あまり見かけない類のものだったので、何だろうかと近づいてパラパラと捲ってみる。それは製品カタログだった。デバイスを中心として様々な機器の紹介がされている。
それを見ている内に思い出した。プレシアが以前始めると言っていた新事業は、どこかの企業と提携して行うものだったと。おそらくその会社のものなのだろう。
今度は一体何をしようとしているのか。今のプレシアは、興味の向くままに様々な分野に手を伸ばしているのでエンダーには全く予想が出来ない。本人は楽しんでやっているそうだし、休暇も充分に取っているようなので、心配するようなことも無いか。寧ろ今ではエンダーが心配される側になってしまっている。
自分の事は努めて考えないようにしながら尚も冊子を眺めていくと、そこに気になるものを発見した。カタログの最後の方に、小さく、宣伝する気があるのか分からないほどひっそりと、ある製品が掲載されていた。その内容に、思わず目を見張る。
エンダーはその数行しかない紹介文を何度も読み返す。そして秒針がきっかり五周する間考えて――決める。
冊子を閉じる。そこにはこう印字されていた。
“ヴァンキッシュ・テクノロジー”