第一話
おかしな夢を見ている。それははっきり分かった。
暗く淀んだ液体の中に浮かんでいる。やけに粘度が高く、体が動かない。そもそも身体があるのかも判然としない。視界が動かないから周囲の確認もできない。
酷く、気だるい。
目の前では歪んでぼやけた映像が次々流れていくが、それが何を示しているのかいまいち掴めない。頭を掠めるモノもあったが、捉える前に霧散してしまった。
どこからか、人の話し声のようなものも聞こえる。それも大勢の。やけに遠くにあるので内容は理解できないが自分に関係があるのだと直感した。興味はわかなかったが。
映像が薄れ、音声がより遠くなる。
この世界は自分から“なにか”を奪おうとしているのだ。そう思ったが抵抗する方法も、気力もなかった。
そのうちに周囲が明るくなってくる。目覚めだ。
最後に通り過ぎて行った映像は、何かの光に、一人の少女の姿だった。もう、それが誰だったのかも、思い出せない――
第一話
白い部屋で目を覚ます。自分はどうやらそこのベッドに寝かされているらしい。
身体を起こして周囲を見渡す。カーテン越しに差し込む陽が眩しい。
内装は清潔感あふれる、というか潔癖っぽい部屋である。私物の類も少なそうだ。
そこまで考えて、ここは病室だ、と思いいたる。
傍らには見慣れない機器が設置してあり、自らの腕に管が繋がれている――点滴――ことからも確実だろう。
自分はどこか悪かったのかな、と身体をチェックしてみるが、外傷らしいものは見当たらない。手術痕もなさそうだ。
途方に暮れていると、外から、こちらに向かってくる足音――2人分――が聞こえる。
ぼぅっとしていると、その足音は部屋の前で止まり、そしてドアを引き開けた。
入ってきたのは2人の男女――医者と看護婦?――で、こちらを見ると一瞬驚いた顔をしたがすぐに笑みに切り替え近づいてきた。
ちょうどいい、事情を聞こう、と思ったのだがここで致命的とも思える問題が発覚する。
なんと相手の言葉が分からないのである。こちらの言葉も通じていないようで、お互い不思議そうな顔してお見合い状態になってしまった。
なんてこった言葉も通じない地にいるとは……。自分の身に一体何が起こったんだ?
非情な現実を目の当たりにし、呆然とするこちらに向かって、医者の男は、手のひらをつき出す“ちょっと待っててね”というジェスチャーとともに退室していった。
残された看護婦――試しに話しかけてみたが、困った顔で首を横に振られた――は一通りこちらの様子を確認した後、やはり出て行ってしまった。
残された俺は未だに現状の把握もできず、この混乱をどう吐き出せばいいものか悩むことになった。
結局悩んでも答えは出そうにないので、なにかで暇を潰そうということになった。
幸い壁にはテレビ――だと思う――が備え付けられていたので、多分テレビ用のだろう机の上のリモコンを操作することにした。文字は読めないが所詮テレビのリモコン。電源つけるぐらいワケない。
そうして流れる映像を影像を眺めること一時間。俺はなんと、言葉が理解できるようになっていた……。
最初の内はチャンネルを適当に変え、どの番組も自分の知らない言語で見覚えのない風景を流していることを確認し、最終的にニュース番組らしきものに固定してぼーっとしていたのだが……徐々に流れる音声の意味がつかめるようになり、もう少しすると殆ど不自由なく聞き取れるようにまでなってしまったのだ。
我がことながら全くワケが分からない現象だ。漫然とテレビ見てるだけで言語を学習したとでも言うのだろうか……?
そうこうしていると再びこちらに向かう足音が聞こえる。これはさっきの医者だな、と直感する。足音の感じが先ほどと同じだ。
しかし医者が出て行ってから既に一時間ほど経っているが、もしかしたら先ほどのメッセージは自分の誤解だったのだろうか。“ちょっと待っててくれ”ではなく、“しばらく待っててくれ”、だったのだろうか……。
そして再びご対面。思った通り、さっきの医者だった。
「すまなかったね、待たせてしまって。ちょっと急用が入ってそちらに釘付けされてしまって……っといけない。翻訳デバイスを作動させてなかった」
バツの悪そうな表情をして、手元にある機器(?)をいじり始める。
「いえ、まぁ有意義に待たせてもらったのではないかと……」
医者が驚いたようにこちらを見やった。そして俺はもっと驚いた。なんとなく返答してみたのだが、口から出てきたのは目も前の医者と同じ、異国の言葉だった。先ほどの言語学習現象は、単に聞き取れるようにするだけでなく、会話までこなせるようにするものだったのか……?
「君は……こちらの言葉が通じなかったのでは?」
不思議そう、というか怪しむように疑問を口にする医者に、自分の動揺を悟られないようにする。正直に言うわけにはいけない。いくらなんでもテレビ見てたら覚えましたというのは不自然すぎる。
結局、目を覚ました混乱で忘れていただけで、さっき思いだしたんです、と嘘をつくことにした。
医者は明らかに訝しんでいたが、深く追求してこなかった。助かる。
「まぁ意思疎通ができるようになったのはいいことだね。話したいことがあるし、聞きたいこともある」
「聞きたいこと……そうだ、たくさんある。まず……どうして俺はこんなところにいるんですか?」
「ふむ、覚えていないかね……。君は事故に巻き込まれたんだよ。とても大きな事故に……」
「事故……」
ここから少し離れたところに、ある企業の施設があるらしい。先日――正確には一週間前――そこで大きな事故があった。次世代魔力炉の実動試験中に起こった事故で、広範に及ぶ被害が出たと言う。俺はその現場で倒れていたところを救助隊によって運び出され、この病院まで運び込まれてきたのだという。
「君が発見された状況には色々と不自然な個所があるらしい……が、それは後で管理局の人が直接聞きに来るだろう。その前に私が聞いておかなければいけないことがある。君の名前と出身地だ」
聞きなれない単語と身に覚えのない事故の話に混乱していると、そんな質問が飛んできた。
はいはい名前……名前は、えーっと………………?
「……………………」
「……どうかしたかね?」
口を半開きにして虚空を見つめるこちらを、心配、というかちょっと不気味そうに覗き込んでくる。
ようやく目の焦点を合わせた俺の口からは、容赦なく、致命的で、どうしようもない事実が、こぼれ落ちることになった。
すなわち――
「名前……分かりません」
出身地も
検査の結果、記憶喪失です――と宣告された時の自分は、おそらく捨てられた子犬より惨めな姿だったろう。
冷静に思い返すと、俺が分からないのは名前や出身地だけではなかった。自分が巻き込まれたという事故の事はおろか、それ以前のいかなる出来事も思い出すことが出来なかった。
これはもしかするともしかするんじゃないか、と戦々恐々としている所に、この結果――記憶喪失通知――である。真面目に目の前が真っ暗になった。
「一口に記憶と言っても色んな種類がある。赤信号は止まれ、青信号は進めといった物事の“意味”の記憶。昨日の晩御飯の内容といった“体験、経験”の記憶。歩き方、泳ぎ方なんていう“体”の記憶、とか様々だ。それらは全て脳の中の別々の場所へ保管されている。君が失ったのは“体験、経験”の記憶だね。一般的な知識はあるし、体だって動かせるが、自分がいつ何をしていたのかが思い出せない」
目の前でさっきと同じ医者が講義をしている。半分も頭に入らない。
「一般的に記憶“喪失”なんて言っても、本当の意味で“喪失”している場合は滅多にない。脳のその部分を物理的に切除でもしない限りは。記憶は常と変らず、頭の中に保存されている。ただ、それを引き出す方法が分からなくなっているだけなのさ」
「そして、それを探し出す手伝いをしてくれるってことなんですよね、センセイ?」
「…………」
ごく、当り前の質問――いや確認をしただけなのに、目の前の医者はなぜか、いわく言い難い表情で黙りこむ。
「……もしや、できない……と」
「……脳というのは不思議な臓器だ。これほどまでに科学、医学が進歩してもなお、その全容は解明されていない。寧ろ分からないことが増えている。」
「……センセイは俺を傷付けに来たんですか?」
「まさか、元気づけに来たんだよ。記憶喪失の患者に対する最も有効な治療法はとりあえず放っておくことだ――多分。そうすれば自然に思い出す――大抵は。特別治療も必要としないで治るんだから、そこまで気を落とすことじゃないよ――おそらく。幸い君は精神状態も安定しているようだし、態々薬を必要とすることもないだろう――と思われる」
「…………」
所々小声で付け足される部分に不安しか感じないが、現状どうしようもなく、頷いておくしかなかった。
医者が出て行ってしばらくした後、来客があるという。時空管理局――聞き覚えはない――という組織の人たちだそうで、記憶喪失の話はしてあるから、とりあえず話を聞いてやってくれとのことだ。
衝撃覚めやらぬ今の俺に、これ以上話を聞く余裕などあるかと断りたかったが、殆ど強制ともいえる強引さで、面会が決定されてしまった。
青を基調とする制服を纏った2人組が入ってくる。
彼らの要件はこうだ――君の身元を証明したい、不審な点があるから――。
記憶喪失だということ以上に不審な点があるのか、と皮肉を飛ばしそうになるのを抑え、詳しく聞く。
俺がとある事故に巻き込まれ、意識を失っていたというのは先ほど聞いたが、まずその発見状況からおかしいらしく、その確認をしたいのだと言う。
発見された場所はとある住宅のリビングなのだが、俺はそこでもう一人の少女と一緒に倒れていたらしい。そこが俺の家で、一緒に倒れていたのは妹、だったら話は単純だったのだが、どうやらそんなことはないらしく、その家に住んでいるのは2人の母娘だけだという。そして事故当時家にいるのは娘である少女一人だけのはずだ、と母親である女性が語っている。
「彼女たちの名前は、女性がプレシア・テスタロッサ。娘がアリシア・テスタロッサ。……どうだい、覚えはあるかい?」
プレシアにアリシア。テスタロッサ親娘……。
何度も頭の中で反芻してみるが、一向にピンと来るものはない。それが果たして本当に知らないのか、それとも忘れているだけなのか、それすら判別できない。
素直にそう言う。
次の不審点に進む。俺の奇怪さはまだまだある。
その後、俺が気を失っている間に身元の照会を行おうとしたが、身分を証明するものは何一つ所持していなかった。仕方なく聞き込みで済ませようとした――未だ混乱が残る中大変だったらしい――が周辺住民で俺のことを知っている人はだれ一人いなかったらしい。
ここに至って、本格的に怪しいと思われ始めたらしい。各所に行方不明者問い合わせをしてみたり、もしかしたらということで管理局のデータベースにも照会してみたが、結果は全てハズレ。俺のような行方不明者はいないとのことだったし、データベースにもない――前科者ではない――ということだった。
ここまで話し、局員は理解を求めるようにこちらを見やった。それに曖昧に頷き返しておく。
自分が行方不明者だとか、犯罪者ではないかと疑いをかけられたことに実感を持てなかった。どれもこれも、覚えがない。
他にも、着ていた衣服だとか、外見だとか、所持品が全くないことだとか、寧ろ不審じゃないところを探すほうが大変なほど、色々突かれたが、やはり俺の答えは同じ――NO、いいえ、覚えがありません。
局員は諦めたように頷く。俺の記憶がないことで、俺以上に歯がゆい思いをしているだろうな、と思いながら、退室の準備を始めた彼らを眺める。
「……そう言えばもう1つ、おかしなことがある」
「……?」
立ち上がった彼は、どうにも言いづらそうにしながら、口を開く。どちらかと言えば、ひとり言のように……。
「君が発見された場所なんだけど、事故の現場からそれほど離れていたわけではない……。あの事故はかなりの広範を巻き込んで、そこより遠くにいた人たちにも死傷者が出るくらいだった。あの住宅には結界が張ってあったけど、それでも発見当時内部はどうしようもないぐらいに汚染されていた……」
「…………」
「でも君は生き残った……もう一人の少女と一緒に」
それはなにかの、答えのような気がした。
俺が目を覚ましてから一週間が経過した。
その間何かあったと言えばあったし、なかったと言えばなかった。
まず俺は未だ入院中である。
記憶は全く戻らないし、そもそもここを出てどうすればいいのかも分からないので助かる話ではある。
記憶に関してだが、あの医者は本当にほったらかしにすればいいと思っていたわけではないらしく、様々なカウンセリングと検査を用意してきた。……今のところ効果はないが。
「気長に行くしかないね。記憶喪失の仕組みは解明されていないんだ。ふとしたこと、ほんの些細なことがきっかけでももどる可能性がある。基本的には、それを待つ」
ある日の検査を終えて、やはり成果がなかったことを確認しての言葉である。
「それはいいんですけど、俺は今猛烈に不安に思っていることがあります」
それは金である。つまり入院費、検査費、その他もろもろにかかる費用の事だ。
「俺、今のところ一文無しですし、保険に入っているかも分からない。仮に故郷が見つかっても、それだけの費用が払えるとは限りませんよ?」
「あぁ、そのことは気にしなくていい。記憶喪失の患者から金を毟ろうなんて思ってはいないよ。事情のある患者からは上から特別に費用が降りる場合もあるし、心配することじゃない」
「はぁ……」
釈然としないものを感じながら頷く。個人的に、助かる話ではあるのだが。
「それにしてもこんな大規模な装置使ってまで、検査するようなことなんですかね? なんかもう脳の検査って感じじゃなくなっていますけど……」
さっきまで自分が身を任せていた装置を見やる。全身をすっぽり覆ってしまうほどの巨大で複雑なものだ。
医者は肩をすくめる。
「先ほど言ったように、記憶喪失とは明確な原因の分からない症状だからね。一般に脳の異常と信じられているが、本当にそうかは分からない。もしかしたらもっと別の、体の他の部位が原因である可能性もある。そういうものだ」
「はぁ……」
これまた曖昧に頷く。医学的な話で医者にケチをつける気はない。
「何しろ少ないケースだからね、記憶喪失というのは。君は慌てず騒がず、落ち着いていればいい。……言うまでもないことかもしれないけど」
「…………」
確かに、俺は落ち着いていた。
その日の夜、シャワーを浴び、後はもう寝るだけと言う時、窓の外――正確には反射して映った自分の顔――を見ながらぼんやり考えていた。
黒髪、黒目の十代中頃か、ちょい下ぐらいの少年が見返してきた――俺だ。
確かにこれは自分の姿だと思う。子供だ――だが、違う。
何か、違和感を感じてしまう。言葉にできない、全く捉えどころのない微妙な感覚だが……。
それでも俺は落ち着いていた。記憶が無く、自らの外見にさえ違和感を覚える、全くの異常に中にありながら、自分の心は平静だった。
当初、記憶喪失だと知らされ、動揺していた時とは大違いだ。
きっかけは分かる。あの日、時空管理局の人が訪ねてきてからだ。あの時の話に、今の俺には理解できないが、何かそうさせるものがあったのだ。
奇妙な満足感を与えてくれる何かが……。
そして変わったこと。
俺の出身地が分かった――正確には分からなかったことが分かった。
様々な要素を検討した結果、俺は“次元漂流者”である可能性が高いと判断された。
“次元漂流者”とは何か。
この世界はいくつもの次元世界からなっている――初耳だった。俺は知識だけは備えている。知っている言葉なら意味もちゃんと分かる。つまりこれは完全に知らない知識と言うことだ。そういう言葉が、割と頻繁にある。
通常次元世界同士は行き来不可である。特殊な魔法を使うか、専用の船を使用しない限りは。
だがごく稀に、それらの力を借りずに、別の、イレギュラーな方法で次元間を“跳び越して”しまうことがあるらしい。
それが俺だ、という話である。
「それにしたって不可解な点はある。人一人が次元移動するほどの力が働けば、必ずキャッチできるだけの反応があるはずだ」
再び訪ねてきた管理局員は納得できなさそうにしていたが、正直もうそれぐらいしか考えられないらしい。他の方面での操作は全て空振りだったので、多少強引でもこの方向で進めると言う。
「手掛かりはある。君がミッド語を話せること、そしてリンカーコアの反応が認められたことだ。このことから、君は大分ミッドチルダに近い世界からやってきた可能性が高い」
そう言って、一つの機器を置いていった。
「これには各次元世界のパンフレットのようなものが入っている。可能性の高そうな世界を前の方に入れておいたから、目を通しておいてくれ。覚えがある――そこまでいかなくとも、引っかかるものがあると思ったら連絡してくれ」
そう言って去っていった。
出て行ってから気付いたが、俺がミッド語を喋れるのはテレビで覚えたからだし、魔法とか、リンカーコアといった単語に、思いつくものはない。
要するに見当違いだと思うのだが――どうそうするか……。
態々教えるため呼び戻すのも面倒だったし、それに、それらの事については、黙っていた方がいい気が、した。
理由は分からない。この考えが、失われた記憶によるものなのか。もしかしたら俺は、彼らが危惧しているような、身分が知られると不味い立場の人間だと言うことなのか。
分からない。分からないが、この直感とも言えぬ感覚だけが今の俺に信じられるものだった。
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