海の上、船の縁に座り込みタイミングを見計らう。
ダイビングスーツを着て、ゴーグルを掛け、丁寧なことにタンクまで装着させられている。
そう、俺は今から人生初のスキューバダイビングとやらに洒落こもうとしている。
しかし問題がある。もしこの海域に鮫が出たら、もし急な海流に飲み込まれたら、もし俺のタンクに空気がはいっていなかったら、もし突如現れたギャングに襲われたら、もし一緒に来た友人が日頃の恨みから俺のことを殺そうと考えていたら、もしインストラクターが突発的な殺意の波動に目覚めたら等々……考え出したら止まらない。
生まれたときからお前はマイナス思考だ、暗い、一緒にいても面白くないといわれ続けてきた。
そしてその一言が更なるマイナス思考を生んでいく。正にマイナス思考スパイラル。最終的には海のように暗く、深く寒くなっていく。沈み続ける思いとは裏腹に海の表面は太陽の光を反射しキラキラと輝いている。
「早く行けよ!」
友人に背中を蹴られた。船の縁から滑り落ちる。暗く、暗い海の底へと静かに沈んでいく。やはり、俺の考えは間違っていなかった。
友人の作戦は完璧だ。重たいタンク、歩きにくい水掻き、視界を狭くするゴーグル、インストラクターと船の船長以外目撃者のいない海上での犯行、凶器など始めから存在しない。二人さえ言いくるめてしまえば完全犯罪となってしまう。
恐らくこのタンクには毒ガスが入っていて、海に落ちた俺が慌てて吸い込むことを見越しているのだろう。
人は誰かを恨み、蹴落として生きている。それは生物として仕方ないことだ。それがなければ生物といて成り立たない。俺だって何万人という同い年の奴等を何人も蹴落として生きている。勝手に落ちていく人間もいるが、そいつらは俺の嫌いな人種なので見ぬふりをしている。
そして俺はそんな自分をこの世で一番恨んでいる。
『どんな人にも優しく手をさしのべられるように』
父親の顔が脳裏に浮かぶ。俺の名前は『優しくあれ』という願いが掛けられている。親の願いを不意にする自分を恨んでいる。
沈んでいく。光のない世界に
沈んでいく。永遠と不変の世界に
沈んでいく。リュウグウノツカイのいる世界に
沈んでいく。フクロウナギのいる世界に
沈んでいく。海の底に
沈んでいく。俺の気持ちが
沈んでいく。恨み辛みの底に
最後に友人の作戦に乗ってやろう。俺はマウスピースを噛み、思いきり吸い込んだ。
呼吸ができた。不思議と毒ガスは入っていないらしい。
もしかしたら死なずにすむかもしれない。
太陽の光が見える方向へ体を向け足をバタつかせる。
水泳は昔から得意ではないが不思議なほどに早く泳ぐことができた。
この水掻きのお陰だろう。
もしかしたら生きられるかもしれない。
水面に波がたつ。浮き輪が投げ込まれたようだ。
もしかしたら友人が銛をもって待ち構えているかもしれない。
そのときはそのときだ。
俺は浮き輪をつかみ明るく希望に溢れた太陽のもとへ顔を出した。
友人は銛を持っていなかった。
しかし、サブマシンガンは卑怯だろう。