薄暗い真夜中の樹海。およそ全ての生物が眠り、夜行性の動物が暗闇から光る眼を覗かせる中、一つの影が走っていく。
ーー傷だらけの少女、
時々周りから聞こえるガストレアの雄叫びに震えながらも、その足は前へと駆けていた。
もう何時間走ったか分からない。
前に見た風景は日が高く登っていたのに対し、辺りは暗黒が広がっているからして、すでに4時間以上は走っている。
『呪われた子供たち』の中でも稀有なその頭部から生えている三角耳を使い、唯一と言える自分の長所の聴覚の強化をして、ガストレアと遭遇しないように警戒を張り巡らせながら走っていた。
これまでに何度も危ない橋を渡ったかは覚えていない。
ただ逃げる為に走って、走って、走っていた。
いつからだろう、と朱莉は何時間も走り続けた所為で酸欠気味になった頭で考えた。
いつからこの悪夢は始まったのだろうと考えると、あの時しかなかった。
元々、朱莉は多くの『呪われた子供たち』の例に漏れず、外周区で他の子供たちと一緒に暮らしていた。
生活はとてもではないが豊かだとは言えず、毎日の食事にも困るような生活だったが、朱莉は幸せだった。
だが、その生活は容易く崩れ去った。
ある日突然一人の男が外周区にやってきたのだ。
その時一緒に居た他の子供たちは、男を見るなり散り散りになりながら逃げてしまった。
だが、朱莉は外から来た人を見たのは初めてだったのだ。
“好奇心は猫をも殺す”と言うように、朱莉は好奇心という誘惑に負けてしまった。
だから、話し掛けてしまったのだ。
「なにか御用ですか?」
そう朱莉が男の後ろから話しかけると、男は少し驚いたように振り返る。
男の顔は三本の傷が入っていて、元からの強面の顔をさらに上へと押し上げていた。
優しそうなイメージを浮かべていた朱莉は驚きや困惑、恐怖などに駆られて動けないでいた。
男は朱莉を頭からつま先までじっと見つめると、ニヤリと笑ってこう言った。
「お前、俺のイニシエーターになれ」
勿論、拒否は認められずに手を引かれ、外に停めてあった男の車に乱暴に乗せられた。
まだ、状況を理解出来ずにいる朱莉に、後部座席に乗り込んできた男は懐から拳銃を取り出し、朱莉の眉間に当てた。
「静かにしてろよ。もし暴れたりしたら、ブチ殺す」
朱莉は恐怖で真っ青になりながらも、ゆっくりと頷いた。
それからの事は、ほとんど覚えていない。
外周区では見れないような立派な建物に入って、男が何かを登録していたのを辛うじて覚えている。
それからはずっと車の移動で、朱莉は恐怖でブルブル震えていた。
後悔しかなかった。
あの時、話しかけるなんて事、しなければよかった。
その言葉が何度も脳裏に反響するが、事態は何も変わらない。
少しすると、周りに他の車が並んでいた。その窓は空いており、何かに警戒しているようだった。
チラリと後ろを見ると、見慣れたモノが目に入り、驚愕するとともに絶望した。
黒光りする、その巨大な建造物。
あんなモノを人が本当に作ったのかと最初は疑った。
ーーーーそれは、モノリスだった。
先ほど見たときは前方にあった筈のモノリスが後方に見えている。
その意味は、絶望という感情以外は芽生えてこないものだった。
つまり、ここはモノリスの外。
エリア外、未踏査領域。
仮初めの楽園の外であり、ガストレアが蔓延る地獄のような世界。
泣き叫びたかった。
しかし、それを許すまいと運転席に座る男は威圧していた。
泣き叫ぶなんてことをすれば、自分はすぐに殺されるだろう。
朱莉は静かに涙を流した。
モノリスの外に出てから少し時間が経ったところで、車が停止した。
後部座席で震えていた朱莉を、男は乱暴に引きずり出した。
車の外に出ると、目の前には鉱山が広がっていた。
その入り口には、ヤクザのような強面の男はたちが黒光りする刀を持ちながら周囲を警戒していた。
それはガストレアを警戒することよりも、その鉱山で働いている者たちを見張る意味合いの方が強かった。
そこで、男は見張りの男らに朱莉を連れていき、突き出した。
こいつは赤目だから、遠慮なく使えと。
そこからは、地獄の日々だった。
なんの希望もない鉱山労働を寝る間も惜しんでさせられた。
逃げようとも考えた。
しかし、朱莉は他の子供たちとは違い、身体能力は力を解放しても大人と同じか少し上くらいだった。
一体一なら、まだ希望はある。
だが、外にいる男たちはチラッと見えただけで十は居た。
逃亡は無理だった。そんな事をすれば殺されるのは確実だった。
労働の合間に、男たちは自身の鬱憤を晴らす為に朱莉を殴っていた。
バラニウムでは無く、鉛玉も撃ち込まれた事もあった。死なないように、急所は外し、朱莉が悲鳴をあげるのを楽しそうに見ていた。
そんな日々がどのくらい続いたかなんてものは分からない。
感覚が麻痺してたのもあるが、自分の行く場所には時を示す物はなかったのが一番の理由だった。
だが、そんな地獄の日々は唐突に終わりを告げた。
いつものように、男たちに叩き起こされ、仕事場に向かおうと重い足を引きずりながら歩いていると、突如森の方から空間を揺らすような咆哮が響き渡ったのだ。
男たちを含めた全員が狼狽し、恐怖に駆られた。あれは明らかにガストレアの雄叫びだ。
その証拠に、其処ら中から地響きが聞こえてくる。
チャンスはここしか無い。
朱莉はそう思った。この地獄を終わらせる唯一の機会は、これを逃すと絶対にこない。
男たちの絶叫が響き、混乱に陥っていた。その混乱に紛れて、朱莉は走り出した。
逃亡はあっさりと成功した。成功はしたが、それからが問題だった。
追っ手は、ない。だが、辺りには興奮したガストレアが獲物を見つけようと身を潜めている。
朱莉は力を解放し、絶対にガストレアに遭遇しないように走っていた。
だが、足音は立てず、全力で。
心臓はバクッバクッと張り裂けそうなほどに高鳴っている。
緊張を切らせたその時、その瞬間が死を意味すると、朱莉は本能的に分かっていた。
足取りは悪くなり、走ることもままならなくなってきた時、ある変化に気づいた。
いないのだ。ガストレアが。
走ることに精一杯で辺りの異変に気づくのが遅れたのだ。一瞬でも気を抜けば、死ぬと思ったくらいにいた筈のガストレアが、今は全くいない。
それを最後に、力が解放出来なくなった。疲労や栄養不足もあり、力を解放し続ける事が出来なくなった。
だが、最後に確認出来て良かったと朱莉は思った。
もし、それを確認出来ずにいたら、自分は恐怖に押し潰されていただろう。
空へと視線を向けると、暗闇の中に星々が爛々と輝いていた。
そして、見た。天を貫くと言わんばかりにそびえ立つ樹を。
朱莉の足は、自然とあの樹を目指していた。
朱莉自身、地面から飛び出た木の根に足を取られ、転んで初めて気づいたのだ。
だが、自覚しても進むのをやめなかった。ただただ、あの樹に向かって歩く。
そして、一つの草むらを抜けた時、それは居た。
体長8メートルはある。
その背には満月があり、月光を浴びていて、まるで後光のようだった。
体毛は何物にも染まらないように真白く、腰部から伸びている幽鬼のような青白い炎がユラユラと揺れている。その後ろには、大きな三本の尻尾が波風に揺られるに佇んでいる。
その月光が、神々しくその生物を照らしていた。
そう、まるでーーーー、
「………かみ、さま……?」
神の如し。
今回は主人公はほとんど出番無し!
次回はきちんと登場しますのでご安心を。
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