1939年、扶桑皇国、東京――
「なんだ! 貴様は!」
扶桑皇国海軍省の一室で、堀井大将は声を上げた。
彼の目の前にいるのは陸軍の軍服を着た軍人。だが、どう見ても少年にしか見えない。
「堀井閣下、あなたは扶桑海事変での指揮の問題についてお聞きしたいことがあるため、拘束させていただきます」
右頬に傷を持つ少年は、そう宣言した。
「馬鹿な! 陸軍が私を捕まえるだと! そんなことが出来るわけがない!」
陸軍と海軍の仲の悪さは誰もが知っている事。そのため陸軍の憲兵が海軍の……それも大将クラスの人物を拘束したとなれば大問題になることは必須だ。
「ああ、ご心配なく。私は確かに陸軍に所属しておりますが、この案件は海軍側も承知している事です。……いえ、海軍側から依頼され、私がこの案件を担当することになったと言った方がよろしいでしょう」
「小童風情が! 誰かこいつを叩きだせ!」
堀井の命令で、完全武装をした海軍兵士が部屋に入ってくる。それに安心した堀井だったが、次の瞬間それは驚愕に変わった。
「おい! なぜ私に銃を向ける!」
兵士達は少年ではなく、堀井に対して銃を向けている。
「だから言ったでしょう? この案件は海軍側も承知していると」
「……くっ」
堀井はガックリと膝をついた。
「……ご苦労だったな。上坂中尉」
陸軍省のとある一室――
石原莞爾中将は椅子に身を預けながら、目の前の少年に労いの言葉をかけた。
「いえ、これ位は当然です。むしろ今まで手を出していなかったことの方が問題かと」
その少年――上坂啓一郎中尉はその言葉を受け取るどころか、かなり問題な発言をする。
「ほっほっほ、これは手厳しいの」
だが石原は怒るどころか、不敵な笑みを浮かべる。こういう性格でないと諜報機関の長は務まらない。
「……まあ今回ので、あらかた掃除も済んだだろう。なにせあ奴が一番の大物だったからな」
「そうですね」
陸軍内部の掃除は去年末までには終わったのだが、海軍の方は庇うものが多かったため、わざわざ陸軍に力を借りなければならなかった。だが今回の場合、海軍に貸しを作った程度ではあるが、陸海軍共同で行った作業ということは変わらず、今後もこのように表裏で連携が進んでいくだろう。
「さて……、上坂中尉」
石原は机に肘をつく。
「君には欧州に行ってほしい」
「……欧州、ですか」
唐突だな。と思う上坂。
「うむ。一応名目上は各国の対ネウロイ対策の視察となっている。いわゆる観戦武官という奴だ」
「つまり、裏でも動けと」
観戦武官とはその国の兵器や戦術を学び、本国に持ち帰ることが仕事であり、公然のスパイ、リーガルとも言われている。上坂が言いたいのはそれだけではなく、裏で動く、つまりイリーガルとして動くと言いたかった。
「いや、君はしばらく表だけで動いてくれ」
「……よろしいのですか?」
「ああ、今回の功績のご褒美だと思ってくれ」
「わかりました。では失礼します」
上坂は無表情のまま敬礼すると、退室した。
「……ふう。まだ傷は癒えず……か……」
誰もいなくなった部屋で、石原は表情を崩す。カミソリと仇名され、冷徹な人物と評される彼だが、不思議と上坂のことを気にかけている。 それは自分がこの道(諜報員)に入れさせたという負い目からくるものなのかもしれなかった。
「…………」
扶桑皇国陸軍、明野飛行学校――
上坂は木の陰から、そっと様子をうかがっていた。
視線の先にいるのは、映画「扶桑海の閃光」で主役を務めた穴吹智子少尉、扶桑海事変で勇名を馳せた加藤武子少尉の姿が。彼女達は新人ウィッチ達と共に訓練に励んでいた。
(……あいつら、元気でやっていたんだな)
あの戦争の後、加東圭子少尉が戦勝記念式典の曲芸飛行中に墜落、重傷を負ったことや、坂本美緒少尉がブリタニアに渡り、新型ストライカーユニットのテストパイロットに任命されたといった情報だけは入って来ていたが、彼の知り合いとは一切会っていない。
彼は二度と彼女達の前に姿を現せる気はなかった。戦争ですべてを失い、陰に身を墜した時点で、過去とは縁を切ると決めたからだ。
だが、空を飛んでいたあの頃の感触が忘れられず、時たま、こうして見つからないよう様子を窺いに来ていた。
(……フッ、なにやってんだ俺は)
上坂は自嘲めいた笑みを浮かべる。何度足を運んでも、あの頃の自分が戻ってくるはずもない。あの頃の自分はあの戦争の時に死んだのだから。
(……まあこうすることも、もうないだろう……)
欧州への派遣。過去を引きずっている現在の状態から脱却するちょうど良い機会になるだろうと、上坂は考えていた。
「……では、お元気で。さようなら」
上坂は小さくつぶやきながら敬礼すると、その場を後にした。
軍の基地の周辺には、色々な商店が立ち並ぶ。これはどこの国でも見られる現象である。
なぜなら、娯楽の少ない軍隊生活から抜け出す休日には、兵士達はこぞって基地を出て街に繰り出すからだ。
この兵士達が落すお金は馬鹿にならず、明野飛行学校周辺にもウィッチをターゲットにしたお店がいくつも立ち並んでいた。
「……こんな所に喫茶店が出来たのか」
帰り道でふと足を止めた上坂の前には、新しくできたらしい喫茶店がある。
普段なら特に気にも留めないのだが、今日はなぜか気になってしまった。
「…………」
上坂はしばらく考え込み、喫茶店のドアに手をかける。どうせ帰ってもやることが無かったので暇つぶしに、と。
「いらっしゃい」
ドアを開けて中に入ると、欧州製の机や椅子を並べた西洋風の内装。窓際に置かれた蓄音機からはクラシックらしい音楽が流れている。カウンターには、新聞を広げている店主――その人物を見て、上坂は息を飲んだ。
「江藤……さん?」
「上坂……?」
同じように驚いた顔をしているのは、かつての上坂の上司であった元扶桑皇国陸軍、江藤敏子中佐だった――。
「はい、コーヒー」
江藤は憮然としながらも、コーヒーを上坂の前に置く。上坂は立ち去ることも出来たのだが、なぜかそれは出来なかった。
「……どうも」
上坂は静かにコップを持ち上げ、カップに注がれた黒く苦い液体を口に含む。
「……うまい」
「驚いた? フジ直伝の味よ」
江藤は誇らしげな笑みを見せるが、それはすぐ真剣なものに変わった。
「……で、あなたは今どこにいるの?」
「……どこ、とは?」
「とぼけないで!」
江藤がカウンターを強く叩く。
「あたしが退役するまであなたの行方を捜していたのに、一切情報が無かったのよ! わかる!?」
江藤の表情に、哀しさが混じる。
「……あの戦いの後、あなたの生死すらわからなかったのよ!? ずっと戦ってきた仲間じゃない。なんで連絡の一つも寄越さなかったのよ?」
「……自分の所属は、軍機により話せません」
上坂は小さくそうつぶやく。
「軍機って……、あなたね!?」
江藤は思わず上坂の襟元に掴み掛った。が、
ゾクッ――
「…………!」
上坂に触れた途端、途轍もない悪寒に襲われ、慌てて手を放した。
「どうかしましたか?」
上坂は江藤に尋ねる。その顔には獰猛な笑みが。
「どかしましたかじゃないわよ……」
そこにいるのは、かつて一緒に戦っていた頃の上坂ではない。
「狂ってる……」
「狂ってる……ね。フッ……、確かにそうかもしれません」
上坂は顔をあげる。
「私はずっと狂いっぱなしですよ、あの戦いからずっと。恐らくそれは死ぬまで狂い続けるんじゃないでしょうか?」
あの戦いで姉を失い、生きる意味を失った上坂。彼がこうして生きているのは、まだ自分を必要としてくれる人がいるからであり、もしそうでなかったらとっくに自殺しているか精神的に廃人となっていただろう。
「……まあご心配なく。もう二度とあなたの前に姿を現すつもりはありません。……どうか忘れてください」
「忘れられるわけないじゃない!」
江藤は久しぶりに声を上げた。
「いい!? あなたは私の部下で、大事な仲間なの! そう簡単に忘れられるわけがない!」
一緒に戦ってきた期間は短いものの、その中でお互い信頼できる関係を築きあげられた。江藤はそれをそう簡単に壊す気などない。
「……いつでもいい。またこうやってここにコーヒーを飲みに来なさい」
「…………」
上坂は残っていたコーヒーを飲みほすと、おもむろに立ち上がり、カウンターに代金を置いた。
「……少なくとも、しばらくは帰ってこれません。……まだ心の整理が出来ていないので」
弱々しく、ポツリとつぶやいた上坂。そこには昔の気の弱かったころの面影が残っている。
彼はそのまま背を向け、振り返ることなく店を出て行った。
「……いつか、……いつかきっと戻るわ。あなたは」
誰もいなくなった店内に、江藤の声が響いた。
その後、その喫茶店には誰も据わらせない席が出来、そこにはいつも湯気を立てたコーヒーが置いてあった。
その意味を知る者は、今のところ誰もいないという……。