「はぁ……」
三週間後、アフリカ、アガラス岬沖――
霧の濃い海上を、六隻の駆逐艦に守られた扶桑皇国海軍航空母艦「赤城」がゆっくりと航行している。その艦内で扶桑皇国海軍兵学校一号生(軍曹相当)、服部静夏はため息をついていた。
(お父さま、私は軍神である宮藤少尉の護衛任務を遂行中です。ですが……)
彼女のため息の原因は、三週間前まで遡る。
――彼女は士官候補生として今年海軍に入ったばかり。毎日訓練に明け暮れ、あどけなかった少女から軍人の自覚が見え始めた頃のこと。
「服部候補生!」
その日も自主訓練としてグラウンドを走っていた服部は、教官室の窓から顔を出す教官に呼ばれ、駆け足で向かった。
「お呼びでしょうか! 坂本教官!」
彼女の教官はかつてあの第501統合戦闘航空団の戦闘隊長を務めていた坂本美緒少佐。本来候補生にとっては雲の上の存在であり、めったに顔を合わせる人物ではないのだが、現場主義の坂本は希望して教官任務を務めている。
服部は荒い息を気合で止め、直立不動になる。
「服部、お前の憧れの人に会わせてやるぞ」
「は……」
不敵な笑みを浮かべる坂本だが、服部は突然のことで良くわからない。
「あの、それは……?」
「ああ、すまんすまん。……以前お前は宮藤に憧れているって言ってたよな?」
「は、はいっ! 宮藤少尉はウィッチの中のウィッチ! 扶桑の英雄です!」
以前ふとしたことがきっかけで坂本から501の話を聞いたことがある彼女は、その頃から宮藤に憧れを抱いていた。
それまでも宮藤芳佳と言えば新聞でも活躍が書かれたと通り、ガリアとロマーニャを救った第501統合戦闘航空団の一人。その中でも先のヴェネツィア奪還作戦では自らの魔法力と引き換えに、単身ネウロイを撃ち滅ぼした英雄であることは知っていた。だが当時一緒に肩を並べて戦っていた坂本からの話を聞いているうちに、次第に心の中で宮藤の存在が大きくなっていき、彼女の目標とまでなっていた。そして服部は気付く。
「ま、まさか……!」
「ああ、そのまさかだ」
坂本曰く、魔法力を失った宮藤は現在医者となるため、帝都女子医学校を目指しているらしい。だが坂本は彼女は海軍のとって必要な人材と考えているらしく、出来れば医官として海軍に復帰してもらいたいらしい。そこで欧州三大医学校であるヘルウェティアの医学校の一つに手紙を送った所、ぜひ宮藤を招聘したいとのことの返事が返ってきたのだとか。
「本当は私が直接渡したかったんだが、他の任務で忙しい。だから代わりに推薦状を渡し、随行員として欧州に行ってくれないか?」
「だ、大丈夫なのですか? 私はまだ訓練生なのですが……?」
心の中では飛び上がって喜んでいる服部だが、同時に不安になる。欧州に派遣されると言うことは最低でも二カ月はここを離れなければならず、他の候補生と比べて訓練が遅れてしまうし、何より軍神ともあろうお方である宮藤の随行員を、自分なんかが務めても良いのかと思ってしまう。……何か粗相があってからでは遅いのだ。
「はっはっは! 心配するな! むしろ宮藤から色々話が聞けて、良い勉強になるだろう! どうだ、やってみるか?」
ここまで言われたら最早答えは決まっている。
「はい! その任務、立派に努めてまいります!」
服部は覚えたての敬礼を、綺麗に決めた。
(……とまあ私は、あの時憧れの宮藤少尉に会えると舞い上がっていたのですが……)
服部と宮藤の出会いは、始めから散々だった。
任務を言い渡され、早速手紙を手に宮藤の実家がある横須賀へ向かっている途中、犬を助けようとして落っこちたのか、少女が川に流されている所を発見。滝つぼに落ちかかっている所を助けたのだが、その少女がその宮藤少尉だったと知った時は思わずびっくりした。
それでも服部は、宮藤は真の姿を隠しているのだろうと思って任務に就いていたのだが、軍を辞めていたから軍服を持っていないのはしょうがないにしても、厨房で炊事兵と呑気に談笑しながら料理をするわ、砲術科の兵士達に混ざって甲板掃除をするわ、とにかく彼女は士官……いや、軍人としての自覚が全くないのという結論に至った。
(坂本教官は良い勉強になるだろうと言っておられましたが……勉強になるどころか、私が宮藤少尉に軍人としての在り方を教えなければならない状態……本当にあの人がガリアを、ロマーニャを救った英雄なんでしょうか……?)
最早軍がでっち上げたプロパガンダではないかと思い始めたその時――
「うわっ!」
突如船体が大きく揺れ、服部は転倒する。そして警報が鳴り始めた。
「警報……まさかネウロイ!」
だが、それはすぐに違うと分かる。
『本艦は巨大氷山に激突! 補助発電機室付近で火災発生!』
スピーカーから被害の状況が伝わってくる。服部はその情報を聞くと、補助発電機室に向けて駆け出した。
「遅くなりました!」
服部が駆けつけると、そこは黒煙がもうもうと立ち込めている。先ほどの氷山との激突のせいで通路が半壊しており、火災現場はその奥にあるため水兵たちは立ち往生するしかなかった。
「服部軍曹、現在消火装置が断線して作動しておらず、非常用バルブもこの奥にある。奥には結城兵曹長が取り残されているが、衝撃の影響でバルブが作動しない。このままだと隣の弾薬庫が誘爆してしまう。何とかできないか?」
現場の指揮を執っていた中尉が、赤城で唯一のウィッチである服部に一縷の望みを託す。
「やってみます!」
服部はそう言うと、使い魔である柴犬の耳と尻尾を発現させ、衝撃で歪んだ壁に手を掛ける。そして力一杯壁を押し、何とかして人が通れる道を確保しようとした。しかし。
「!」
内部で爆発が起こり、同時に炎が服部を襲う。彼女は咄嗟にシールドを張ったため無事だったものの、火の手が強まった為迂闊に近づけなくなった。
「結城! 大丈夫か!」
中尉は咄嗟に伝声管で、中に取り残されている兵曹長の無事を確認する。
『火がそこまで迫ってきています! 今すぐ水密扉を閉じ、注水してください!』
返事が返ってきたものの、最早危険水域にまで達していることを告げられる。
「しかしそれではお前が!」
確かに水密扉を閉じ、閉鎖区間内に注水すれば弾薬庫の温度上昇を食い止められる。しかし当然中に閉じ込められてしまう結城兵曹長は……
『お願いします! 早く注水してください!』
そのことを重々承知の上で、結城は叫ぶ。彼にとって自分の命よりも艦の保全、そして他の乗員の安全の方が大事なのだ。
『……最古参の結城の判断だ』
別の伝声管から艦橋にいる艦長の声が聞こえてくる。ずっと話を聞いていた艦長は少し言葉を詰まらせながら命令を下した。
『水密扉閉じ、ただちに応急注水を開始せよ!』
「……了解」
中尉や水兵たちは無念の思いを押し殺し、水密扉を降ろす作業に入る。その間服部はただ立ち尽くすしかなかった。
(そんな……)
確かに艦長の決断は間違っていない。このまま何もしなければ艦は誘爆を起こし、より多くの犠牲者が出てしまう。しかし多くの人を守るためにウィッチとなった服部にとって、目の前の命すら救えない現実に打ちのめされていた。
――やがて、水密扉がゆっくりと降りてくる。
「……すまん、結城」
中尉は唇を噛みしめ、帽子を目深に被り直した。
その時、後ろの方で水音が響いた。
「?」
その場にいた全員が振り返ると、そこには鉄パイプを両手に抱え、水を被った為にずぶぬれになっている宮藤の姿がある。
「み、宮藤さん!?」
あっけにとられる皆をよそに、宮藤は降りかかっている水密扉に向け、駆け出す。
「待ってください!」
我に返った服部が、慌てて宮藤の裾を掴む。
「危険です、宮藤さん! 隔壁が降りかかっています!」
「中に人がいるんでしょう!?」
宮藤は顔だけ振り返り、服部の目をしっかり見据える。
「艦長命令です!」
服部は上官からの命令を盾に、宮藤を止めようとした。だが――
「だからなんなの!?」
「!?」
宮藤の強い調子に、服部は思わずたじろぐ。
宮藤はその隙をつくと、閉まりかけた隔壁を腹這いにすり抜けて行った。
「艦長! 宮藤さんが中に入っていきました!」
『なんだと!?』
中尉から報告を受け、驚きの声を上げる艦長。しばらくして、返事が返ってきた。
『……二分待つ。それまでに消火装置が作動しなかったら……注水を開始せよ』
「はっ……」
「……宮藤さん」
服部は黒煙が立ち込める通路で待ち続ける。その隣では中尉が腕時計で時間をずっと確認していた。
――宮藤が中に入ってから、秒針が二周する。
「……残念だが二分経った。応急注水を開始する」
中尉は静かに部下に告げた。隔壁閉鎖レバーの近くにいた水兵は、落胆の表情を見せながらレバーを降ろす。すると人ひとり分くらい通れるほどの隙間があった通路が完全に閉まった。
「宮藤さん……」
服部が小さく呟いた。と――
「…………!」
スプリンクラーが作動し、その場にいた全員を濡らす。そして理解した。スプリンクラーが作動した理由を。
「おお! やった! やったぞ!」
「宮藤さんがやってくれたんだ……大した人だ」
水を滴らせながらも喜びを爆発させる水兵たち。現場の指揮を執っていた中尉も宮藤への賞賛を惜しまない。
「…………」
しかし、服部だけは素直に彼女へ賞賛を送ることが出来なかった。
あたりがまだ薄暗い中、服部は一人、赤城甲板上に立っていた。
高緯度の為吹く風が冷たいが、服部にはその風が非常に心地よい。
「寒いね」
後ろから宮藤がやってきて、静かに隣に並ぶ。
「私、アフリカってもっと暖かい所だと思ってたよ」
「…………」
服部は、返事をしない。
「……さっきはごめんね。怒鳴ったりして」
「……いえ、ですが――」
服部はようやく口を開いたが、その声は固い。
「――どうして命令を守らなかったのですか?」
服部にとって、命令は絶対な物。それなのに宮藤はそれを無視したのだ。彼女にとって宮藤の行動は全く理解できないでいた。だからこそ詰問したのだが……
「ごめん……。でも、みんな助かってよかったよね?」
宮藤は回答をはぐらかす。元々自分の行動に理由などない。ただ助けたかったから動いた。そう言うしかできないのだ。
「――――ッ!」
その答えは、服部の琴線に触れる。
「良くありません! 艦が沈むかもしれなかったんです! 宮藤さんがうまくいったのは偶然! たまたまです!」
「それは……」
「命令は、絶対なんです!」
軍人として、上官の指示に従わなければならない。軍規にのっとって行動しなければならない。海軍兵学校で散々叩き込まれた服部にとって、最早宮藤は憧れの存在ではなく、理解不能な存在となっていた。
「……失礼します。宮藤少尉」
服部は踵を返し、その場を立ち去る。
「…………」
あとに残された宮藤に、冷たい風が吹いた。
数日後、ロンドン――
「失礼します。報告書を持ってまいりました」
連合国軍総司令部、ガランド中将の執務室に、上坂はとある調査報告書の結果を提出していた。
「ふむ……」
ガランドはしばらく渡された資料に目を通す。
「……やはり、他の戦線ではネウロイの活動は確認されていないか……」
「はい、どうやらネウロイは完全に攻勢を停止しているようです」
ややぁと呟いた言葉に、上坂は答える。
その後も資料を読んでいたガランドだったが、全ての資料に目を通したのか顔を上げた。
「わかった。報告ご苦労」
「いえ」
「さて、では次の任務を言い渡す」
ガランドは資料を机の上に放り出し、引き出しを開ける。
「次の任務ですか?」
「ああ。……なに、今回みたいな調査ではない」
ガランドはそれを取り出すと、悪戯っ子のような笑みを上坂に向ける。
「――喜べ、前線勤務だ」
「…………はっ?」
ガランドの手に握られていた物――それは、一本のロープだった。