「――大変だな、ミーナ」
坂本は執務室で大量の書類と格闘しているミーナに、労いの言葉をかける。机の上には山のように積まれた書類が何束も置かれていた。
「ええ、ずっと啓一郎に任せていたから……」
憔悴した顔を隠せないミーナ。
「でも、私はまだいい方よ。他の皆はここ最近様子が変だから」
「確かにな……」
坂本もそれは薄々と感じていた。
宮藤とリーネは最近料理を失敗することが多くなり、シャーリーもスピードテストの結果が振るわず、サーニャは昼頃には起き出すようになり、さらにはエーリカの部屋が綺麗になった。
まさに異常事態である。
「……本当、私達は知らず知らずのうちに啓一郎に頼ってばかりだったのね」
「そうだな……」
上坂はいつも目立たなかったが、部隊のために自分が出来ることを粛々と行い、隊員達を精神面も含めて支え続けてきた。わかっていたつもりでも、それを今更ながらに痛感した二人だった。
その時、電話が鳴る。
「はい、501統合戦闘航空団です」
『初めまして、だなヴィルケ中佐』
ミーナが受話器を取ると、聞こえてきたのは聞きなれない男性の声だった。
「あの……、どちら様でしょうか?」
『これは失礼した。扶桑皇国陸軍中将、石原莞爾。上坂少佐の上司だ』
「石原……閣下……!」
突然の大物に絶句するミーナ。まさかいきなり電話を掛けてくるとは想像すらしていなかったのだから当然だろう。だが彼女はすぐに気を取り直す。
「……失礼しました。それで、何かご用でしょうか?」
『はっはっは、そう身構えなくてもいい。儂はただ伝えるために電話しただけだ。……上坂の居場所をな』
「……!」
『上坂は今アンナ・フェラーラという老婆の所にいる。一応場所さえ知っていればあとは訓練中だとかいろいろ言い訳が出来るからな。とりあえず顔を見せに行くぐらいはしていってあげてくれ』
「……なぜ?」
ミーナは尋ねずにはいられなかった。
『何がだね?』
「なぜ、その情報を私達に?」
上坂の上司ということは、彼は明石機関のトップ、またはそれに準じる地位についているはずである。そして諜報機関というのは国益のために動くものであるが、情報提供などは見返りが無ければ渡すことは無い。それなのにもかかわらず石原はあっさりとこちらが知りたい情報を教えてくれたのだ。ミーナが勘ぐるのも無理ないだろう。
『それは儂らの国益につながると判断したからだ。……それに、君は少し勘違いをしている』
「勘違い?」
ミーナは首をかしげる。
『……そもそも明石機関が出来たのは、1904年に起きた大規模怪異発生の後……』
扶桑皇国は当時荒廃し、生物が一切住まないユーラシア大陸に領土を広げていた頃、シベリア方面から大規模なネウロイ(当時は怪異)が現れ、開拓民として送り込まれていた国民を守るために軍を派遣し、大規模な戦闘が起こった。
それは翌年まで続き、戦死者数47000人、負傷者140000人を出しながらも何とかこれを撃退することに成功した。だが、実はこれ以外にも戦病死者が37000人出ていた。そのうちの28000弱、約75%が、脚気による死者だったのだ。
「脚気……、たしかビタミンB1不足で起こり、激しい疲労、異様な体調不良、むくみ、そして最後は心臓発作を起こす病気ですよね」
『そうだ。ただ当時既にその対策は出来ており、白米の中に麦を混ぜることによりこれを防ぐことはできた。実際海軍ではこの対策をし、この戦争中脚気に掛かったのは僅かに数十人、それも症状は軽く、全員が完治した』
「それならなぜ……?」
海軍側で出ていないなら、残るは陸軍のみ。だがいくらなんでもこれはおかしいだろう。
『……当時の大本営陸軍部が、白米に固執し続けたからだ』
確かに大本営陸軍部は白米に固執し、麦飯を嫌っていた。だが実は麦飯は虫がつきやすく、輸送するのが難しいことと、当時の兵士達は貧しい者達だったので、彼らにとって白米は憧れの食事だったという理由もある。しかしそれによって多くの死者を出してしまったのは何というべきなのか……。
『当然その中にはウィッチも含まれており、ただでさえ少なかった兵力がさらに減り、結果的に多くの犠牲を出してしまったのだ』
「…………」
『当時そのことを知った当時の諜報員、明石元二郎大佐はこのままではいけないと新たな諜報機関設立を強く働きかけた』
「その機関の名が、明石機関……」
『そう、その機関はそれまでの諜報機関とは違い、前線の将兵達が楽に戦えるようおぜん立てをするという理念を元に作られたのだよ』
ミーナはその話が突拍子もなさ過ぎて信用することが出来ない。だがもしそうだとするとこれまで上坂をこき使ってきた自分に、彼らが何も要求してこなかったことに納得する。彼女は強引に納得することにした。
「……わかりました。情報提供ありがとうございます」
『なに、可愛い部下の仲間の為だ』
受話器から含み笑いの声がしたと思うと、唐突に電話が切られた。
「…………」
「どうかしたのか?」
押し黙った表情で受話器を戻すミーナに、坂本は尋ねる。
「……啓一郎の居場所が分かったわ。アンナ・フェラーラさんのお宅よ」
「なんだと!? ……いや、分かった。すぐに……」
坂本はすぐ向かおうとしたが、それをミーナが制す。
「いいえ、しばらくほおっておきましょう」
「どうしてだ!?」
坂本はミーナの意見に驚く。
「今彼を強引に連れて帰ってもいいことなんてないわ。……しばらくはゆっくりさせてあげましょう」
ミーナは今の上坂と、かつての自分を重ねている。クルトを失った時、彼女は立ち直るのに時間がかかった。だから今回も上坂は時間を掛ければきっと戻って来てくれる――。そう信じていた。
(啓一郎……、必ず、必ず戻ってきて頂戴……)
心の中で、そう祈るミーナだった。
「よろしかったのですか?」
同時刻。扶桑皇国陸軍省のとある一室で、石原に尋ねる部下。彼は簡単に情報を提供してもいいのか、と尋ねたのだ。
「心配ない。それに、現場の人間が隊員の居場所を把握していないとわかったら、反ウィッチ派はここぞとばかりに攻撃してくるからな」
以前のウォーロック事件の際、連合軍内では反ウィッチ派はその影響力を大きく落とした。だが完全には駆逐されておらず、いつまた何かを仕掛けてくるかわからない状態である。そのためウィッチ達にはあまり問題を起こしてもらいたくないというのが明石機関及び連合軍親ウィッチ派の一致した意見だった。
「たしかにそれはそうでしょうが……」
「それにだ」
石原は部下の目をしっかりと見る。彼の眼には何かを企んでいる様子はなく。純粋な瞳があった。
「上坂を救えるのは、空を愛する彼女達だけなのだから」
その言葉は石原の数少ない、偽りのない言葉だった。
「ここらへんか……?」
バルクホルンは一人空を飛んでいる。今日の飛行計画には名前が無かったが、彼女は命令違反を覚悟で飛行していた。その理由は――上坂に会いに行くため。
先ほどミーナに用事があったバルクホルンは執務室の前まで行ったのだが、その時にミーナから上坂の居場所を聞いてしまったのだ。彼女は居ても経ってもいられず、いつの間にか上坂の置いて行った刀“黒耀”を引っ掴むと、ストライカーに足を滑らせていた。
(確かにミーナの言う通り、しばらくほおっておいた方が良いのかもしれない。だが……)
バルクホルンは先ほどミーナが言っていた言葉を思い出す。今彼を強引に連れて帰っても、上坂のためにならないことは彼女にもわかっていた。しかし、それでもバルクホルンは上坂に会いに行きたかった。
(……私も以前自分を見失いそうになった時、あいつは助けてくれた。だから……今回は私があいつの傍にいてやらなきゃ……)
バルクホルンは宮藤が入ってきた当初、何処か雰囲気が似ている自分の妹、クリスと重ね合わせてしまい、苦しんでいた時があった。
自分が弱かったから、彼女は前線に立たなければいけなくなった――
今思えば物凄い傲慢な考えなのだが、その時は本当に悩み、宮藤に強く当たってしまったこともあった。
だが、上坂はそれを受け入れたうえでずっと気にかけていてくれた。そして自分も怪我を負いながらも彼女の危機を救ってくれたのだ。
だから、今度は自分が上坂を助ける番だ――
バルクホルンはそう心に強く誓った。
「それにしても、アンナ・フェラーラさんか……。確か宮藤達が以前お世話になっていたな」
アンナ・フェラーラ。元ロマーニャ空軍所属で今だウィッチである彼女は、たまに若いウィッチを預かって訓練を行っている。501再結成直後ブランクがあり、基礎すらままならない状態だった宮藤達はそこに送られて僅か数日で実践レベルまで戻ったことを考えると、相当優秀な指導者なのだろう。
バルクホルンはそう思いながら、ふと頭に疑問がわいた。
「しかし、なぜ上坂はその人の所に? ……いや、そんなことを考えるのは後だ」
確かに501とは繋がりのある人物だが、上坂とは面識がない。バルクホルンはそのことが気になっていたが、やがて目的地が見えてきたのでその思考を頭の隅に追いやった。
彼女の眼下にはロマーニャ本土から一本の細長い橋が伸び、その先に小島が海に浮かんでいるのが見える。あそこが目的地、アンナ・フェラーラ氏の御宅である。
「ここか……」
バルクホルンは小島にあった一軒家の前で、地上スレスレでホバリングをする。彼女は外から小屋の中を見たが、誰もいなかった。
「おかしいな、確かにここで間違いないはずなんだが……」
まさか聞き間違えたか? いや、そんなはずは……、と思案していた時、後ろの方から重そうな足取りが聞こえてきた。
「!? けいいち……ろう……?」
「うん……? ……なんだ……トゥルーデか……」
バルクホルンが振り返ると、そこには変わり果てた上坂の姿があった。
「ハァ……ハァ……」
太陽が照りつける中、上坂はバケツに入った水を運び続けている。
既に五往復目。体中は汗まみれ、結局昨日は眠ることが出来ず、ただでさえ少ない体力を太陽が容赦なく奪っていった。
「ハァ……ハァ……、くう……」
何とか家の前までたどり着き、一息つく。
「!? けいいち……ろう……?」
「うん……? ……トゥルーデか……」
顔を上げると、そこには驚愕した表情を浮かべるバルクホルンの姿があった。
――まあそうだろうな……。
上坂は心の中でつぶやく。彼の心は荒廃し、碌に眠れない日々が続いている。そのため目の下には大きなくまが出来、足元もおぼつかない。そんな状況を見れば誰だって驚くだろう。
「……連れ戻しに来たのか?」
「……いや」
バルクホルンは言葉を詰まらせたが、否定する。
「お前にただ会いに来ただけだ」
「…………」
嘘は言っていない。上坂はバルクホルンの真剣な目を見て思った。
「なぜ逃げたんだ?」
「なぜ、か……」
上坂は自嘲めいた笑みを浮かべると、右手を見る。
上坂の右手は、小刻みに震えていた。
「……怖いんだ、戦うことが」
大戦初期の頃は、どんなに味方がやられようとも、感傷に浸っている余裕などなく戦い続けてきた。その結果次第に感覚が麻痺し、たとえ目の前で命が消えようとも悲しみという感情が浮かんでくることが無くなった。しかし、第501統合戦闘航空団に異動してからは人死にが無く、さらに個性豊かな隊員達との交流もあり、上坂の心は次第に溶かされていった。
本来ならそれは非常に良い傾向なのだろう。だが、今回はそれがマイナスに働いてしまった。
久しぶりに見てしまった遺体。それを見た途端、それまでの地獄のような光景が上坂の脳裏を駆け抜けたのだ。
501ではほとんど無縁だった死。しかしそれはいつもそばにいることを思い知ってしまった。そしてそのことに気付いた上坂は恐怖したのだ。自分がいつの間にか死と隣り合わせの環境に立っていることを普通に受け止めていたことを。
「……俺は臆病だ。昔から争い事は極端に避け、平穏な生活を望んでいた。――だけど、魔法力が発現したとき、自分は周りからの目もあって軍人になる道を選んだ」
上坂は顔を上げる。彼の眼には悲しみの表情が浮かんでいた。
「俺がウィッチになった理由は、ただ空が飛びたかったからなんだ。――誰かを守りたいとか故郷を守るんだとか……そんな大層な理由なんて持ち合わせていなかったんだよ」
かつて姉に言った言葉――姉さんを守るために飛ぶ――。それは後から思ったことであり、最初の頃はほとんど何も考えずにウィッチとなった。何も考えていなかったのだ。
「俺には覚悟が無かった。……だから多くの人を、姉さんを俺は――!」
「それは違う!」
バルクホルンが、叫ぶ。
「……お前のせいじゃない。お前の姉さんや、多くの人達が亡くなったのはお前のせいじゃない」
彼女は上坂のことをあまりよく知らない。だが彼と戦ったのは僅かな時間だけでわかった。彼は優しい性格なのだと、優しすぎるくらい純粋な青年なのだと。
「……確かにお前の目の前で多くの人達が亡くなった。だが彼らは、彼女達はお前を恨んでなんかいないはずだ。お前に託したはずだ。……未来を」
「……でも、俺には重過ぎる」
亡くなった人々の遺志を受け継ぐのは、非常に重い。上坂はその重荷になんとか耐えていたが、もうそれに耐えきれる自信などない。
「なら私達を頼れ」
バルクホルンはフッと頬を緩ませ、柔らかな表情を見せる。
「一人で抱え込まないでくれ。かつてお前が私達を大切な仲間だと言ってくれたように、私にも、あいつらにもお前は大切な仲間なんだ」
仲間とはただ守るべき存在ではない。時に助け、時に助けられ――。お互いが信頼しあい、協力し合っていくのが仲間なのだ。上坂は今更ながら、そのことに気付いた。
「トゥルーデ……」
その時――
爆発音。
「……!」
二人は慌てて上空を見やる。
上空に、二つの黒い点。魔法力によって強化された眼で見ると一つはリベリオンの双発戦闘機、P-38そしてもう一つは……。
「……! ネウロイ!」
人類の敵、ネウロイ。細長い流線型の形状をしたそれは、味方戦闘機を執拗に追い回し、時折ビームを撃ち放つ。P-38は一撃離脱を得意とした高速戦闘機なのだが、右側のエンジンから黒煙が噴き出していて、本来の持ち味を出せない状態にあった。
「くっ……!」
バルクホルンは今何一つ武器を持っていない。一応上坂の刀“黒耀”は持ってきたものの、とても彼女には扱えそうになかった。
ならばとバルクホルンは上坂を見やる。彼なら刀一本で十分に対応できると思ったからだ。だが――。
「……啓一郎?」
上坂はネウロイを見上げたまま、固まっていた。
――上空にネウロイがいる。
上坂は味方偵察機を執拗に追っているネウロイを、瞬き一つせずに見続ける。
時折発射されるビーム。禍々しいまでの赤を見るたびに、上坂はこれまでの戦いが思い出される。
初実戦であり、姉を、そして自らを失った扶桑海事変。
再び空に戻り、絶望的な状況の中戦い続けた欧州撤退戦。
一進一退、血で血を洗うような戦場だった東部戦線。
――上坂が戦ってきた戦場全てが、地獄だった。
「はぁ……はぁ……」
呼吸が、荒くなる。目は血走り、口の中が乾いていく。
――怖い。
「……ッ!?」
その言葉が脳裏をかすめた途端、上坂は崩れ落ち、膝を地に付ける。
――体の震えが止まらない。
上坂は自らを抱きしめ、抑えようとしても止まるどころか震えはどんどん大きくなる。
(……いやだ……いやだ……いやだ……!)
「啓一郎っ!」
柔らかい何かに、包まれる。バルクホルンが上坂を強く抱きしめたのだ。
「ゆっくり……深呼吸をするんだ……」
「ハァ――……ハァ――……」
バルクホルンに言われたとおり、大きく深呼吸をする。何回かおこなうことで、徐々に落ち着いてきた。
「……大丈夫か?」
優しく語りかけるバルクホルン。
「あ、ああ……」
上坂は彼女のぬくもりに戸惑いながらも、何とか言葉を振り絞った。
「そうか」
そう言うと上坂から離れた。
「……心配するな。あいつは私が何とかする」
「あ、待て……!」
バルクホルンは慈愛に満ちた表情を上坂に見せると、彼の制止も聞かず、ストライカーを履いて大空へと飛び立っていく。
「……トゥルーデ」
その後ろ姿を、上坂はずっと見続けていた。