「……38.4度。風邪ね」
ミーナは体温計を見るなり、そうつぶやく。
「……面目ない」
その体温の主――上坂は、自室のベッドに寝込んでいた。
――予算会議から帰った後、体調不良を感じていた上坂だったが、一晩寝れば大丈夫だろうと昨日早めに(いつもに比べて)床に就いた。しかし今朝起きてみると、頭痛に吐き気、寒気までもが襲い掛かり、何とかベッドから這いだし、ミーナへ報告に行き、そのまま連れ戻されたのだった。
「仕方ない。上坂は多忙だしな」
坂本は上坂のベッドの脇に立ち、そう告げる。
「そうね。予算も何とかなったし、今日は私達で何とかするからゆっくり休んで頂戴」
「……出来ることなら、仕事を手伝って――いや、そもそも佐官であるミーナや坂本の仕事を手伝うのが普通なんじゃ……」
「じゃ、ゆっくり休んでね」
「また後でな」
ふと思った上坂だったが、それを言う前にミーナ達はさっさと部屋を出て行った。
「ミーナ」
朝のミーティングが終わり、いつものように執務室に向かっていたミーナは、途中で後ろから声を掛けられた。
「どうかしたの? トゥルーデ」
振り返ると、そこにはバルクホルンの姿。
「ミーナ。私に上坂の看病をさせてくれないか」
「えっ?」
ミーナは思わず首をかしげる。バルクホルンは今日シフトには入っておらず、休暇申請も一週間前から出ている。看病については全く問題ないのだが、わざわざ貴重な休暇をふいにしてまでやるのかとミーナは思った。
「それは別にかまわないけど……別に大丈夫よ。啓一郎も一晩寝れば治るって言ってたし」
「確かにそうかもしれないが……」
バルクホルンは視線をあちこち動かすが、やがて決心したのか、再びミーナに視線を向けた。
「……借りを返したいんだ」
「?」
「いや、この前迷惑をかけたからな。だから……」
(ああ、なるほどね)
ミーナは以前バルクホルンが、がむしゃらにネウロイに突撃し、あわやというところで撃墜されかけた時のことを言っているのだと気付いた。
あの時は確かに、上坂の機転によって彼女は救われた。だから今回看病したいという嘆願も理解できた。
「……わかったわ。まあ休暇中のあなたに、私からどうこう言えないものね」
「……! ありがとう、ミーナ」
バルクホルンは頭を下げると、速足で戻っていく。
その姿を、ミーナは微笑ましく見守っていた。
「上坂、失礼するぞ」
「うん……バルクホルン……?」
バルクホルンがノックして上坂の部屋に入ると、部屋の主はゆっくりと、ベッドから身を起こした。
「ああ、すまない。寝ていたのか」
「……いや、どうやら昼間から寝ることが出来ないようだ」
彼は苦笑するが、いつもと彼からは想像もできないほど弱々しく感じる。まるでこのままひっそりと消えてしまいそうな……
「バルクホルン?」
「あ、いや……すまん。それより大丈夫なのか?」
慌ててごまかしたバルクホルンは、容態を尋ねる。一見元気そうにも見えなくないが、やはり顔が少しばかり赤く、心なしか頭が揺れている。
「……少々辛いな、やはり」
「そうか、どれ」
と、言うなり、彼女は自分の手を上坂の額に当てる。
「……結構熱いな。横になってろ」
「ああ……」
バルクホルンに指摘され、上坂は素直にベッドに潜った。
「しかし、珍しいな。お前が風邪を引くなんて」
「まったくだ。何年振りだろうか、こうやってゆっくり床につくのは」
上坂はバルクホルンが何か準備しているあいだ、小さく呟く。その声はバルクホルンの耳には届いていなかった。
(……再び床に就くときは、死ぬときだろうなと思っていたが、まさか風邪如きで寝込むと……わひゃぁっ!?)
「わっ! ど、どうした上坂!」
いきなり飛び上がった上坂に驚くバルクホルン。
「バ、バルクホルン……いったい何を……?」
「うん? ただ両足のすねにタオルを置いただけだが……」
そう、バルクホルンはいきなり布団の足の方をめくり、作務衣をずり上げ、濡れタオルを左右それぞれのすねに置いたのだ。
「……普通頭に置かないか? タオル」
「なにいってんだ? すねだろ?」
「…………」
「…………」
二人の間に、しばらく沈黙が漂っていた。
――なぜこのようなことが起こったか?
それは、異文化コミュニケーション不足が原因だろう。
扶桑では風邪を引いた場合、体を温め、汗をかかせることで体温を下げようとする。そしてその際、熱に弱い頭を冷やすため、冷たい濡れタオルを頭に乗せるのだ。
一方カールスラント――というより、欧州の大半の国では冷たい水を張った風呂に浸かり、熱を冷ますという方法を取る。そのため、バルクホルンは濡れタオルを頭ではなく、すねに置いたのだ。
――この後、この一件が引き金となったのか、上坂とバルクホルン主導による、各国の文化交流について話し合いが行われるようになったという……
一方、その頃――
「教えてほしいって……おにぎりの握り方をですか?」
早朝訓練を終え、上坂が風邪でダウンしたため、昼食を作ることとなった宮藤は首をかしげていた。
「ああ、正式に作り方を覚えたい、と思ってな。――ちゃんと三角形になったおにぎりを」
そう言うのは、部隊のトップ2である坂本。彼女はいくら規律が緩いウィッチ隊とはいえ、5階級も下の宮藤に頭を下げていた。
「正式にって……まあ坂本さんの作るおにぎりは、見事な球体ですけど……」
ごくたまに宮藤を手伝い、おにぎりを作ったことのある坂本だが、彼女のおにぎりはどう頑張っても球体にしかならず、三角形になったためしがない。また味も宮藤の作ったものに比べておいしくないらしく、簡単に見分けがつくことからおにぎりを作った時、いつも球体のおにぎりが残ってしまうのだった。
「それではだめなんだ」
坂本はまるで戦闘時の時の様に、表情を引き締める。
「扶桑軍人たるもの、常に精進し続けなければならん。……それに、伝統の携行食一つ満足に作れないのは、さすがにまずいだろうし」
「わ、分かりました。じゃあ行きましょう」
坂本の熱意に押されたのか、宮藤はあっさりと頷くと、厨房へと向かい始めた。
30分後――
「これは……」
調理台の上には、米を材質とした奇怪なオブジェが並んでいた。
「く……! 三角おにぎりを握るのがこれほど難しいとは……!」
「あの……なら俵型は……」
とても悔しそうな坂本に、宮藤は別の案を提示する。
「俵型? なるほど! その手があったか!」
そう言うなり、坂本はご飯を固め始める。
二時間後――
「うむ! 出来た!」
「…………」
いい汗をかいたと言わんばかりの笑みを浮かべる坂本の前には、実物の俵と同じくらいの大きさを誇るおにぎりが。これだけで何升炊いたのか。見当もつかない。
「どうだ、宮藤! 忠実に俵を再現できているだろう!? わはははは!」
「あはははは……」
もし上坂がここに居たら、こんな暴挙を起こさせなかっただろうな……と、宮藤はそう思いながら、乾いた笑みを浮かべていた。
「……ようやく寝たみたいだな」
静かに寝息を立てる上坂の顔を覗き込み、バルクホルンはホッと息をつく。
先ほどまで彼は寝れず、ならばとバルクホルンはとっておきの『ホットビール』(ビールをあっためたもの。当然アルコール入り)を作ったのだが、ビールを温めるのかと驚愕する上坂に彼女は驚いた。聞けば扶桑ではビールは冷やして飲むものだそうで、普段は常温で飲む生粋のカールスラント人としてはなんて非常識なと思ったほどだ。
……と、そんないざこざがあったが、アルコールが回ったためか、熟睡する上坂の表情は穏やかである。
「こいつも、こんな顔をすることが出来るんだな」
いつもの真面目な態度からは想像できない、あどけなさの残る上坂の寝顔。とても戦場で頼りになる“上坂啓一郎大尉”と目の前の青年が同一人物とは思えない。
「……さて、戻るか」
とはいえ、ずっと寝顔を観察している訳にもいかない。仮にも上坂は病人。いくら体調管理を徹底しているバルクホルンともいえども、風邪をうつされたらたまったものではない。
彼女はそっと立ち上がり、部屋を出ようとした。が――
「……ちゃん……」
「?」
「……ねえ……ちゃん……」
かすかに聞こえる声。最初は幻聴かと思ったバルクホルンだったが、すぐにその声が上坂のものであると分かった。
「上坂?」
バルクホルンは再びベッドの脇に近づく。今度ははっきりと聞こえた。
「姉ちゃん……行かないで……お願いだから……」
(……もしかして、お姉さんの夢? それも幼いころの?)
バルクホルンが思案していると、やがて、上坂の閉じた目から光る何かがあふれてきた。
「いやだ……行かないで……軍に戻らないでよ……」
(……上坂)
以前、上坂のお姉さんは彼を養うため、教師になるという夢を一旦諦めてまで軍に入ったと聞いた。その後、上坂は自身の魔法力が“発現”するや否や、陸軍に入ったと言っていたことから、今彼が見ている夢は、恐らく上坂がまだ軍に入ってなかった頃なのだろう。
(……上坂もクリスと同じように、お姉さんに甘えてた頃があったんだな)
――それは二度と叶わない。なぜならもう上坂の姉、良子はこの世にいないのだから。
バルクホルンは、そっと上坂の手を握る。
「……大丈夫だ。お姉ちゃんはここにいるぞ」
それが通じたのか、彼の表情が少し和らいだような気がした。
「う……」
夕方、上坂は目を覚ました。
(熱は下がったみたいだな。気怠さもない。吐き気も)
どうやら風邪が治ったようだ。ホットビールのおかげなのかは……わからないが。
「うっし……ん?」
身体を起こそうとした上坂だったが、ふと左手に感じる重さに、今更ながら気付く。そちらの方に視線を移して――
「……え?」
ベッドの近くに椅子が置かれ、上坂の左手を覆いかぶさるように寝ているバルクホルンの姿があった。
「……お~い、バルクホルン」
「…………」
返事は無い。時折微かな寝息が聞こえてくることから、看病中に寝てしまったようだ。
「まったく……」
呆れたように息をつく上坂は温かく、しかしどこか寂しそうな目で彼女を眺めながら、ポツリとつぶやく。
「……あまり俺を信用するな。いつか傷つくから」
「う……ん……?」
その時、バルクホルンの体が僅かに揺れ、ゆっくりと顔を上げた。
彼女の口からはよだれが出ているが――優しい上坂はそれを無視することにする。
「おはよう。よく眠れたか?」
「ふぇ……? ……あ、あああああ!」
バルクホルンはしばらく焦点の合ってない目で上坂を見つめていたが、やがて自分が寝ていたことを思い出したのか、顔を真っ赤にした。
「ま……まさか……私は寝ていたのか?」
「多分。少なくとも俺が起きた時は寝てたな」
上坂は嘘をつく理由もなく、穏やかな表情で正直に答える。
しかし、それが彼にとって仇となった。バルクホルンから見れば、上坂が笑っているようにしか見えなかったからだ。
「わ、笑うなぁ―――――!」
羞恥で顔を真っ赤にしたバルクホルンは、使い魔の耳と尻尾を発現させ、思いっきり拳を繰り出した。
「…………どうすんだ、これ。米の備蓄もあと僅かだってのに」
「ごめんなさい、私には止められなくて……」
その後、宮藤の治癒魔法を受けながら、食堂で山となって積まれたおにぎりの山を眺め、ため息をつく上坂の姿があった……。