「なんだと!? 北野がバザールに行った!?」
珍しく上坂の驚愕の声が響き渡る。近くで聞いていた加東は痛む耳を押さえながら、上坂に抗議した。
「ちょっと! 近くで大声出さないでよ!」
「す、すみません……って! そういうことではなくて!」
とりあえず頭を下げかけた上坂は、慌てて加東に尋ね返す。
「北野がバザールに行ったって本当ですか!?」
「え、ええ……。以前バザールでお買い物したことがあるから平気だって言って……」
「なんてこった……」
上坂は頭を抱えながら、しゃがみ込む。何がまずかったのか、加東はおずおずと尋ねる。
「えっと……、そんなに心配しなくてもよくない? ほら、ウィッチは世界中で人気者だし……」
「ええ、以前までならそうでした」
済んだことは仕方ないと、ため息をつきながら上坂は立ち上がる。そして顔を加東に向けた。
「以前……ってどういうこと?」
「1940年にネウロイの侵攻があった時、在エジプトブリタニア軍はエジプト市民の避難よりもスエズ運河防衛を取ったことはご存知ですよね?」
「ええ、そのくらいは知っているわ」
1940年、欧州各地で猛威を振るっていたネウロイだったが、突如スエズにも出現し、瞬く間にカイロを占領下に置いてしまった。在エジプトブリタニア軍は総力を挙げて回路奪還を行ったものの、戦力不足により失敗。一時ハルファヤ峠すら奪われる寸前まで陥ったのだった。
「……あの時エジプト政府はカイロ市民脱出に力を貸してくれとブリタニア政府に要請したのですが、スエズ運河を失うことを恐れたブリタニア政府はそれを無視したんです。それ以来エジプト市民は他国の軍そのものを嫌悪するようになり、さらに各国軍の主力であるウィッチにもその矛先が向かったんです。……さすがに暴行事件までにはいっていませんが、それでも嫌悪感を覚える人たちもいるということで、基本的に市民との接触は禁じられているんですよ」
上坂の説明で、ようやく事態が重いことに気付いた加東の顔が青くなる。
「ちょ、それじゃあ……!」
「とにかくヒガシさんはここで待機を。俺はエジプト軍の高官に電話をするのでよろしくお願いします」
「わ、わかったわ!」
加東の返事を待たずに、上坂はテントを飛び出した。
『――ほぅ、まさか君からかけてくるとはね……』
『突然の電話を失礼します。実は現在ウチの部下がエジプト軍の管轄であるバザールに向かっているのですが……』
『おや、たしかバザールに来るのは禁止していたはずだが……』
『申し訳ありません。まだこちらに来て日が浅い奴でして……』
『――わかった。部下達には穏便に追い返すように伝えておこう』
『感謝します――閣下』
「……フム」
男性は受話器を置くと、ポツリとつぶやく。
「やはり、まだまだだな……あの子達は」
地平線に陽が落ち始めたころ――、
「…………遅い」
上坂はバザールのある方向を向き、腕組みをして部下の帰りを待っている。隣には加東と氷野、池田の姿もあった。
「……そろそろ上に報告をした方がいいかしら」
隣では加東が心配そうに同じ方向を向いている。
「こうなったら、バザールに突撃するしかないんじゃないっすか、隊長!」
血の気が多い池田が、物騒なことを言い出す。
「これ以上面倒なことを起こさないでくれ……んっ?」
池田の発言にあきれ返った上坂は、ふと地平線上に人影が見えた。遠く離れているためよく見えないが、一般市民ならわざわざこちらに来ることはない。間違いなく北野だろう。
「ようやく帰ってきたか……」
「ヤレヤレ。寿命が縮んだわ……」
「全く、世話掻かせやがって……」
全員が安堵のため息をつく。これで司令部に対して報告をしなくても良いと、誰しもが思ったからだ。だが――、
「はっ……?」
大きくなった人影を見て、全員の目が点になる。
「おーい。ただいまー!」
心配されていたとは知らず、北野は背中に荷物をいっぱい乗っけたロバの手綱を引きながら、空いた方の手で呑気に手を振っていた。
「……全く、北野の能天気さと言ったら……」
上坂はジョッキに注がれたビールを飲み干すと、ため息をつきながら北野がお土産としてもらってきた干し果物を口に入れる。
夜になり、年長者組達はマティルダがバーテンダーを務める基地内のバーで、一つのテーブルを囲んでいた。こうした集まりの場では日ごろの部下への対処の仕方や愚痴、意見の交換などをしている。上坂が話しているのはもちろん今日の北野の行動についてだ。
「まあいいじゃないの。結局何もなかったんだし」
加東も空になったジョッキにビールを注ぎながら苦笑する。確かに心配はしたものの、何もなかったことなので、あまり問題にはしたくはないのだろう。
「そうはいってもですね……あ、どうも」
マティルダからビールが並々と注がれたジョッキを受け取ると、上坂は目の前に座っているマイルズに話を振る。
「マイルズ。こういう場合はどういった対処が必要だ……マイルズ?」
「ん、どうしたのよ?」
同じようにビールを飲んでいたフレデリカも、ふと手を止め、目がトロンとしているマイルズを心配そうに見つめる。
傍らに置いてあるビールが全然減っておらず、マイルズはテーブルに頬杖をついて、時折ため息をついている。
「マイルズー。どうしたのー」
「わっ! な、何?」
加東が目の前で手を振ると、ようやく気付いて慌てて背筋を伸ばす。
「何って……今の話を聞いてなかったのか?」
上坂は懐疑的になる。他の二人は何か分かったのか、ニヤニヤと笑みを浮かべていた。
「ご、ごめん。ちょっと考え事をしていて……」
「ふーん。その考え事ってもしかして翔平のこと?」
「ち、ちがう!」
本人は必死に否定しているが、頬が赤い。
「ま、確かにショーヘーは結構男らしい所があるものね。……シュミットほどではないけど」
「わー、ノロケですねー」
加東が茶々を入れるが、フレデリカは大人の余裕を感じさせる笑みを浮かべるだけだ。恋愛ごとには全く興味のない上坂は、黙ってビールを飲んでいる。こういう時は黙っているのが一番だというのが人生で学んでいる。
「まあね。……それより、マイルズはショーヘーのどんなところが気に入ったの?」
「だから! 私は別にショーヘーのことなんて気にしていません! アンナでデレカシーのない奴!」
頬を赤く染めたマイルズは両手で机を叩くが、二人は冷やかすのを止めない。
「あら聞きました奥さん? マイルズのお嬢さんたら扶桑の男性に恋をしたそうよ」
「ええ、知っていますわ。シャーロットから、ショーヘーがマイルズさんを押し倒している所を見たと聞きましたから」
加東とフレデリカは、近所の井戸端会議の様に、口元に手を当てて囁き合っている。その姿を見て、マイルズはさらに顔を真っ赤にして抗議する。
「ショーヘーに押し倒されてなんかいない! 啓一郎さんもなんか言ってください!」
「……諦めろ。“人の噂も七十五日”だ」
マイルズは助け舟を求めるが、上坂は巻き込まれたくないために、扶桑の古い言葉を残して席から立ち上がる。三十六計逃げるにしかず。これ以上かかわると碌なことが無いと判断したようだ。
「う、裏切もの―――――!」
上坂はその声を背中に受けながら、テントから出ると煙草を口に加え、つぶやいた。
「ヤレヤレ……」