タマムシ大学、ポケモン学部の一室にて。
窓から差し込む朝日によって、手元の書類を確認していた目が霞む。ぼやけた視界を治そうと目尻を擦れば、僅かな痛みに生理的な涙が零れた。咄嗟に目薬を差そうと机上を見渡すも、目当ての物は見つからず仕舞いで。
5日5晩まともに寝ていない頭は正常に回らず、私は些細な出来事で駄々をこねる子供の様な大声を上げた。
「あーっもう! ジャンボー!!」
「ピーカチュー」
「ちょっと待ってー」のニュアンスで遠くから返事が聞こえた。ったく、誰だうちの子を拘束している不届き者は!
痛みを押さえつける様に、目元を手で押さえながら椅子の背に凭れ掛かる。自然と顔が上を向くが、ため息しかでない。
あー……ほんと、何やってんだろ私。
苛々しながら相棒を待てば、軽い衝撃と共に膝上に感じる重み。反射的にガバリと抱きつけば、相棒がよしよしと頭を撫でてくれる。
情けない声を上げながら相棒の名前を呼ぶ私に、彼は「どうしたの?」と優しげな顔を向けた。
「目が痛い。目薬ほぢい」
「チャー……」
「俺の分もー!」
向かい側から入った横槍に続いて、あちこちから我もと波紋が広がった。
先ほどまで作業に集中して静かだった室内が、一斉にざわざわと騒がしくなる。それも一旦口を開けばあっという間に、要望を上げる声が状況の不満を訴えるものへと変化していく。どうやら皆、抑圧していたものがこの弾みに飛び出してしまったようだ。
「朝日が目に痛いっス先輩」
「馬鹿言え、俺なんか徹夜4日目だ。ユンケルもマムシも効かん」
「甘いな。俺なんてちまちま寝たのを除けば今日で6徹目だぞ……」
「もうだめだ、間に合いっこない……終わった……」
「諦めんな。まだ希望はある……と思いたい」
「俺、締め切り空けたら結婚するんだ……」
「馬鹿野郎、死亡フラグ立てんるんじゃない!」
「すいません、ガチっす」
「おい誰かマルマイン持って来い」
「リア充爆発させろ」
数分前とは打って変わって騒がしくなった空間に、私は苛立ちを隠せなかった。
眼球疲労に睡眠不足、凝り固まった筋肉からくる節々の痛み。体中にサロンパスを貼ってなんとか姿勢を保っているくらいなのだ。疲労困憊と言っても過言ではない。
お前らは女か。姦しいのか。そんなにギャースカ騒ぐなら股の間にぶら下ってるモノちょん切るぞコラ。
急降下する機嫌の正体は空腹に加えて、今の喧騒が耳から直接脳内へ響くように打ちつける頭痛のせいだ。野郎共いいから黙って仕事しろ。
増える一方な眉間の皺をぐりぐりと揉むジャンボが唯一の癒しと言ってもいい。
ふつふつとした怒りを押さえ込んで、名残惜しくも相棒を解放する。持ってきてくれた目薬を早速させば、沁みる痛みにくぐもった声が出た。やり過ごして再び目を開くと、相棒がポケギアを差し出しているではないか。なになに、と覗き込めば『おつかい頼まれたついでに朝ごはん買ってくるね』とのこと。
お前が女神だったか。愛してるぜジャンボ!
愛用のリュックを提げた相棒を見送り、再び画面に向き合った私は泣き喚く腹の虫にコーヒーを流し込むことで誤魔化した。
研究室での修羅場は珍しいことではない。それは問題ないという意味ではなく、頻繁に発生する事に対する諦めと慣れである。
例の如くスギモリ副室長からヘルプの電話で駆り出された私は、すぐさまタマムシシティへと飛んだ。
しかし現場には見慣れた父親の姿は見えず、まさかと副室長を見れば青い顔でくしゃくしゃになったメモを見せてきた。
《プレゼンに使う写真が足りないから撮ってきます。期日までには戻るから。後はまかせた。じゃ!》
瞬間グシャっと握りつぶした紙が更に酷いことになったが、きっと皆も同じ反応だったのだろう。
あんのクソ親父めがぁあああ!!! と叫んだところで皆からは同意しか返ってこない。
そう、奴が起こす逃亡劇こそが毎度起きる修羅場の原因だったりする。だからこそ、娘である私がフォローに回るのも必然なことで。
ここに就職決めたの早まったかもしれない、なんて今まで何度思ったか……!!
なんて思い出していたのは夢の中だったようで。
私はいつの間に寝落ちしていたのか、室内に響くチャイムの音によりハッと意識を取り戻した。
どうやら船を漕いでいたようで、もう少しでカップにぶつかる直前にまで顔の位置が下がっていた。やっべ、危ないところだった。画面を見ればジャンボが出て行った時から全く進んでいない。こっちも別の意味で危ないぞ……!!
とにかく、私は誰も出ようとしないチャイムに出るため席を立った。扉横のインターフォンを弄れば予想通りの顔が映り、「おかえりー」と一声かけてすぐさまロックを解除する。
いつも通りの流れる動作。しかし、どこか違和感を感じた。はて……そういえば先程の画面に映る黄色の後ろに誰か立っていたような……?
とりあえず相棒を迎え入れるべく扉を開けば、大きな紙袋を持ったジャンボがゆっくりと、落とさないよう慎重に部屋へ入っていく。そしてやはり見間違いではなかったらしい。扉の向こうに立っていた和服美女がニコリと笑って「こんにちは」と挨拶をした。状況が飲み込めないがとりあえず挨拶を返しておく。
誰のお客さんだ? 疑問に思うよりも先に、室内から悲鳴じみた声が上がった。
「……つ、躑躅森さん!?」
「うっそマジで!」
「ぉひょっ?」
「寝不足すぎてついに幻覚が見えはじめたか!?」
背後からガタタッという椅子の音が聞こえると同時に「ぐはっ!」という三流悪役のような断末魔が上がる。振り返れば、こちらへ群れようとした男共をジャンボが一撃で昏倒、一掃したらしい。まったくもう、と呆れた表情のジャンボが手をパンパンと払いながら溜め息を吐いている。さすがだぜ相棒。
お見苦しいところをお見せして、と謝罪すれば気にしないと笑って流してくれた和服美女の胸には『
「朝っぱらから煩くてすみません。皆限界超えちゃってて、変な方向にハイになってるというか……」
「大丈夫ですの?」
生きる屍化は我が研究室にて恒例の朝行事です。なんて評価の下がることを言える筈もなく、真実は心の内に留めて「毎度のことですのでお気になさらず」とだけ返しておく。
いつまでも立ち話はなんなので室内へ招き入れると、ジャンボが応接ソファのところで手を振っていたので案内する。すぐさまコーヒーを入れて持ってきてくれた相棒に、躑躅森さんは驚くことなく「あら、いただいてよろしいのですの?」「ピッ!」「うふふ、ありがとうございます」なんて会話をしちゃってる。
なんだろう、娘が突然知らない男友達を家に連れてきた気分になった。お父さんちょっと戸惑っちゃうなあ……役どころの性別が完全に逆だけど。
「あなたがこの子のトレーナーさん?」
肯定すれば、先ほどの手荷物がいっぱいだったジャンボを見かねて研究室まで着いてきてくれたらしい。
おそらくカードキーを差し込む時に手間取ったのだろうと推測する。うちの大学は場所によって入室するのに権限が必要だ。よって入室を許された範囲のカードキーが個人に配布される。ジャンボは私と同じものを持っていて、この研究室にくるまでカードキーを使用する場所が三箇所ある。両手にいっぱいの荷物を危なっかしく持ったまま移動するジャンボを見かねて、親切心で彼女は着いてきてくれたようだ。
相棒がお世話になったことには違いない。私がお礼を言うと、ジャンボも同じく頭を下げた。さらに先ほどパン屋で買ってきたのだろう、ラスクまでお茶請けに出している。
初対面なのに随分と好意的な反応を示す相棒に私の方が内心驚く。社交的な性格をしているとはいえ、そこまで警戒心を解くようなことはないのだが。
されるがまま撫でられているジャンボを不思議に思って見るが、どこにも異常はない。ふむ、と考え込む私に向けて、躑躅森さんがふわりと花が咲いたように笑う。
「さっきのお礼かしら。この子、優しくて賢いのね」
褒められて悪い気はしない。「自慢の相棒です」と答えれば、ジャンボがえへんと胸を張る。その姿に私たちは視線を合わせると互いに微笑んだ。
「学内で見かけない珍しいピカチュウがいたので、つい声をかけてしまいましたの」
「自分は派遣調査員なので、普段は外に出ていることが多いんです」
「随分とお若くお見受けいたしますが、こちらの研究所の方だったのですね」
「所属はしていますが、まだ正規ではありません。扱いで言えばお手伝いのようなものです」
「それでも、その歳で立派に研究職に就いていらっしゃるのは素晴らしいですわ」
「大したことないですよ。父がここの室長で、昔から手伝いをする内にいつの間にかって感じです」
「室長って……」
驚く彼女が私の胸元を見る。ああ、そっか。暫く研究室に篭りっぱなしだったから、ネームプレートを外していたんだっけ。
「日下部真紅といいます。こっちのピカチュウはジャンボです」
「ピッカ!」
「まあ、日下部教授のお身内さんでしたのね!」
「ご存知で?」
「ええ、その……クサカベ教授は、ある意味有名でして……」
どれだけ悪評流されてんだよ父さんッ!!
躑躅森さんはハっと気づいたように慌てて私に頭を下げた。
「私ったら名乗りもせずご馳走になってしまって申し訳ありません。タマムシ大学植物学部講師を勤めております、躑躅森 恵梨華と申します」
「講師の方だったのですか」
「あら、意外でして?」
「すみません、随分とお若く見えたので」
「ふふふ、嬉しいですわ」
上機嫌な躑躅森さんがコーヒーを飲む。その空いた間に、何かが引っかかった。タマムシ……植物……ん?
「………………躑躅森、エリカ、さん?」
「はい。何でしょう?」
「失礼ですが……もしかして、タマムシジムの?」
彼女はクスリと笑うと、佇まいを正して先ほどとは全く違った印象で口を開いた。
「改めまして。タマムシジム、ジムリーダーのエリカでございます。どうぞよしなに」
ふんわりとした雰囲気から一転、まさに隠されていた花の棘のように攻撃的な瞳でエリカさんは正体を明かした。
いや、ただ単に私が気づかなかっただけか。道理でジャンボが彼女に対して無警戒なのかがようやく理解できた。
一部の花から取れる「あまいミツ」が僅かだが彼女から香っていた。人間にはただの香水と遜色ないものの、ポケモンにとっては大きな効果を発揮する。推測だが、相棒はそれに当たってしまったようだ。
黙りこむ私に「意外でしたか?」と元の柔らかい雰囲気に戻った彼女が小首を傾げる。
「お恥ずかしながら、名乗るのもおこがましい程のジムリーダーでして……」
自分を卑下する彼女に、背後で倒れていたゾンビたちが「そんなことありませんよ!!」と援軍に立ち上がった。
「エリカさんは素晴らしいお人っス!!」
「そうですじゃ!」
「大学教授に加え華道、茶道、合気道の師範代を務めるエリカ女史は、まさにスーパーウーマンなのです!」
復活した男共が拳を握って高らかに主張するが、された当の本人が引いていることにまったく気づいていない。だからモテないんだよ、と白い目で相棒共々哀れみの視線を送る。
と、そこで真面目に作業をしていた副室長が思い出したように口を挟んできた。
「そういやお前、今トレーナーやってんだろ?」
「一応ね」
「エリカさんには挑戦しないのか?」
「まあ、あなた挑戦者ですの?!」
いきなり立ち上がった彼女は目を輝かせてこちらを見つめる。その勢いに驚いて適当に返事をしてしまったのが私の運の尽きだった。
「ええと……じゃあ、はい……」
「大歓迎ですわ! いつジムにいらしてくださるの?!」
「ひ、昼過ぎからなら……」
「お昼過ぎですね!! お待ちしておりますわ!!!!」
対面に座る私にずずいっと顔を迫らせ、もはや脅迫の勢いで約束を取り付けられた。「挑戦者なんて何ヶ月ぶりかしら、バトルも久々でとても楽しみです!!」なんて言いながら手をがっちり掴んでブンブン回し、何度も約束を強調して笑顔で研究室を出て行ったエリカに私は暫く呆然としてしまう。
ようやく硬直から戻ったところで、私は背後のゾンビーズに向かって声をかける。
「……あの人のジムって人気ないの?」
「馬鹿言え、エリカさんはアイドルが裸足で逃げ出す程の人気者だ」
「人気者すぎてあの人の受け持ってる講義とお稽古事はいつも定員オーバーで高倍率なんだぞ」
「でも本業はジムリーダーなんでしょ?」
「それがなあ……」
「エリカさん自身はジムリーダーの仕事に誇りを持ってるし挑戦者大歓迎なんだけど」
「なまじあの人ハイスペックすぎるから、他所にひっぱりだこなんだよ」
「おまけにミーハーなファンは、ジム戦だと一緒にいれる時間があっという間だからって理由でお稽古事の方に人が殺到して、エリカさんはジム運営どころじゃなくなってるってワケ」
「……苦労してんだなあ」
とりあえず、昼過ぎまでに仕事を終わらせないと。
突如決まったジム戦の予定に自分で自分の首を絞めてしまったと後から気づく体たらく。
寝不足の頭で考えるほうが間違ってるんだよね、うん。自業自得!