もし青銅が黄金だったら   作:377

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第十話 積尸気!死を司る巨蟹宮

 現在アイオロスは既に双児宮を抜け、先行していたムウと合流している。

 ムウは幻覚に囚われただけであり、アイオロスも直接攻撃を決められた訳では無いため、双児宮では二人共に大したダメージは受けてはいない。

 しかし、未だに三つ目の宮を突破したばかりであることを考えると、残りの宮を抜けるのに一体どれほどの時間が掛かってしまうのか。

 火時計にある双児宮の火はもう消えてしまっていて、既に次の巨蟹宮の火が小さくなり始めている。

 アテナの命を救うのにもはや一刻の猶予も残されてはいなかった。

 

 だが目指す巨蟹宮が目前に迫る中、ムウは数日前の邂逅を思い出していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――数日前、中国、五老峰

 

 五老峰、それは中国でも広く名を知られた名峰である。

 その峰から千年間姿を変えずに流れ落ちると言われる廬山の大瀑布は見る者を圧倒する。

 そんな悠久の自然を感じさせる廬山の滝の近くの崖の上に目を向けてみよう。

 目を凝らすと、そこには何か人のような小さな影を見ることが出来る。

 その影の正体は定かでは無く、稀に動いているようにも見えた。

 観光客どころか、地元の人間でさえも近付くことが出来ないその崖の上には、一体何があるのだろうか。

 その付近に住む人々の間では、あれはただの妙な形の岩だとか、小さな老人が座っているのだとか、仙人の休憩所であるとか様々な噂が飛び交っている。

 代々そこに住んでいる年寄りの話によれば、少なくとも百年前にはもうあの崖に存在していたらしい。

 尤も誰一人としてそれを確かめた者はいないのだが。

 ともかくそこには、いつもその奇妙な影を見ることが出来たのだ。

 

 人には近付けない険しい崖の上にある影。

 だがその影に近付くことができれば、やがて分かってくるだろう。

 その影が、実は座した老人のものであるということに。

 

 老人の名は童虎。

 

 れっきとした人間である。

 その背は大きく曲がり身体中の皮膚は垂れ下がっていて、長く伸びた白い髭と血色の悪い皺だらけの顔が覗いている。

 しかしその正体は、88の聖闘士の頂点に立つ十二人の一人、天秤座(ライブラ)の黄金聖闘士。

 そして現在ではたった一人となってしまった前聖戦からの生き残りでもある。

 その実力を見た者はほとんどいないが、齢二百を越えた老人の身でありながら全聖闘士の中でも最強と謳われる程の男である。

 またやはりその長い間の聖闘士としての経験からか、聖域の者達の多くは彼を老師と呼んで尊敬している。

 そんな童虎であったが、実際には闘うどころか滝の前から動くことさえ稀だ。

 星矢の仲間の青銅聖闘士の一人、ドラゴンの紫龍はこの老師の元で聖闘士としての修業をしていたが、その修業の間ですら彼は滝の前から不動のままであった。

 何故彼がずっとそうしているのか――――それを知る者はもう、いない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日も童虎は滝の前にちんまりとただ座っていた。

 もう果たして何年そうしてきたのかも分からない。

 その様子は、正に周囲の自然と一体と化しているといえる。

 だがその日はいつものようにのんびりと滝の前に鎮座したままで終わってはくれなかった。

 普段は童虎の小宇宙が立ち込める五老峰に、別の何者かの小宇宙が割り込んでくる。

 

 「ムッ……これは………」

 

 童虎は座った状態のまま動くこと無くその気配を察していた。

 

 「ホッ……一体何の用じゃ?」

 

 「さすがは老師。気配を絶って近づいたはずだが、こうもあっさり気付かれるとは」

 

 いつの間にか童虎の背後に男が現れていた。

 本来崖を登ってくる以外にそこに辿り着く道は無いはずだが、そんな姿は見当たらなかった。

 信じられないことに、その男は廬山の大瀑布の中から空中を歩いてくるようにして現れたのだ。

 男の名は蟹座(キャンサー)のデスマスク。

 彼もまた童虎と同じく黄金聖闘士の一角を占める者。

 デスマスクも聖闘士の中では強力な超能力を持ち、空中を歩くことなど彼にとっては造作も無いのだ。

 

 「デスマスクか……何しに参った?」

 

 「既にお分かりのはず。あなたは十三年の長きに渡り、教皇の命に逆らい聖域への招集を拒んできた。その罪によって今ここで死んで貰う」

 

 とぼけたような童虎の言葉にデスマスクはじわじわと小宇宙を高める。

 そんな不穏な気配を隠さないデスマスクに対して、童虎はいつもと全く変わらぬ様子で言った。

 

 「フム……教皇じゃと? あやつなら、儂がここから動かぬ理由は百も承知のはず。儂を聖域へ招集するような命令を出すはずがなかろう」

 

 そう言って目を細める童虎は、まるでデスマスクなど眼中に無いかのようだ。

 

 「フン! 減らず口を……ならばこの場で死ぬがいい!」

 

 そんな態度に、遂にデスマスクが痺れを切らして拳を向けた。

 もはや形ばかりの敬意などかなぐり捨てて、デスマスクはその本性を剥き出しにして攻撃を放った。

 童虎目掛けて、光の速さで拳が叩き込まれる。

 

 「チッ……かわしやがったか」

 

 しかし、デスマスクの拳はついさっきまで童虎が座っていた地面にめり込んでいた。

 肝心の童虎の姿は既にそこから消え去っている。

 デスマスクがすぐ横に目を向けると、先程と同じような姿勢で変わらず童虎が座っていた。

 その顔は相変わらずデスマスクの方を向いてはいない。

 しかし、仮にも黄金聖闘士の攻撃を背を向けたまま回避する様は、やはり歴戦の聖闘士であることを思わせる。

 

 「ホッホッホッ……デスマスクよ、そのように昂っていては当たるものも当たらんぞ」

 

 「……ならばこいつはどうだ!」

 

 デスマスクはそう言って小宇宙を高める。

 その途端、デスマスクの周囲に青白い霊気が漂い始めた。

 

 「ムッ、これは……積尸気か!?」

 

 その時ようやく童虎はデスマスクの方を向いた。

 それまでとは違い、わずかな緊張感が見てとれる。

 

 「そうだ……積尸気とは死体から立ち上る燐気にして冥界へと続く道。これを受けた者は魂が積尸気に引きずり込まれて絶命するのだ」

 

 辺りに漂う積尸気が渦を為してデスマスクの指先に集まってゆく。

 それに伴いデスマスクの小宇宙も更にその強大さを増していった。

 

 「い……いかん!」

 

 「死ね! 積尸気冥界波!!!!」

 

 デスマスクの指先から放たれた積尸気が、青白い塊となって突き進む。

 しかし、童虎に命中する寸前で再び童虎がその姿を消した。

 対象を失った積尸気は、やがて散り散りに拡散して霧消した。

 

 「……誰だ! 俺の邪魔しやがったのは!」

 

 確実に童虎を捉えていたはずの積尸気冥界波から逃げられた。

 直前の様子から見て童虎に回避する余裕は無かったことから、デスマスクはこの場に自分と童虎以外の何者かがいることに気が付いた。

 辺りを見回して、ある一点に目を止める。

 

 「間一髪でしたね。お久しぶりです、老師」

 

 「ホッ、友有り遠方より来る、か」

 

 童虎と並んで立っていたのは――――黄金聖闘士、アリエスのムウ。

 積尸気が命中する直前に、ムウが童虎をテレポーテーションさせて救ったのだ。

 

 「何故お前がここに……!」

 

 突如現れたムウに、デスマスクは顔をしかめた。

 ムウもまた童虎と同じく聖域の命に従わぬ男。

 やがては討伐の命令が下されるはずであったが、今この場に現れたということは童虎と手を組むつもりなのか。

 

 「さて、どうしますかデスマスク? これ以上闘うつもりなら、私が相手になりますよ」

 

 改めてデスマスクは、童虎とムウの二人と対峙した。

 

 しかし双方の間に高まっていく緊張感を破って先に口を開いたのは、明らかにやる気を削がれた雰囲気のデスマスクの方であった。

 

 「チッ……いくら俺だって黄金聖闘士二人を相手にするほど馬鹿じゃねえ。今回は潔く退いておいてやるよ」

 

 そう言ったデスマスクは、驚くほどあっさりと来た時と同様に滝の中へと消えていった。

 デスマスクが去るのを見送ったムウと童虎は、ようやく警戒を解いて話し始めた。

 

 「すまんのう。助かったぞムウ」

 

 「いえ、要らぬ助太刀をしました」

 

 たった今、命を狙われたばかりというのに童虎はのんびりと話し始めた。

 ジャミールとここ五老峰は比較的近いため、この二人には親交がある。

 ムウも幼い頃にジャミールで暮らさなくてはならなかったので、かつてはよく五老峰の童虎を訪ねていたのだ。

 成長してからはその回数も減ったが、今でも互いに連絡を取ることがある。

 今回も、そのためにムウは童虎の元を訪れたのだった。

 

 「老師、私は今から聖域に向かいます」

 

 「ほう? これまでずっとジャミールに籠っていたお主が突然聖域に行くとは……」

 

 童虎が怪訝な眼差しでムウに尋ねた。

 彼の知る限り、ムウはジャミールに籠るようになってからは一度も聖域に戻ってはいない。

 役目があって動けない自分と違って、本来ならばムウは白羊宮を守らねばならない。

 以前そう言って聖域に戻るよう促したこともあったが、ムウは結局その言葉に従わなかったため童虎もそれについて言うのはやめた。

 そのムウが、今になって自らの意志で聖域に向かうというのは童虎にとっても気になることであった。

 

 そんな童虎に対してムウが言うことには、何と十三年前に死んだはずのアイオロスが日本で生きていたという。

 直接その姿を見た訳ではないが、数日前日本で青銅聖闘士達と会って別れた際にアイオロスの小宇宙を感じたらしい。

 そして神の――おそらくはアテナの――雄大な小宇宙も同時に感じられたそうだ。

 もしもそれが本物のアテナによるものならば、近い内に必ずや聖域を目指すはず。

 ムウはそう考えて十三年振りに聖域を訪ねることにしたのだ。

 

 童虎はその理由を知ってしばらく顔を臥せて黙っていた。

 いつの間にやら元いた場所に戻ってまた座り込んでいる。

 そして、ややあってから口を開いた。

 

 「ムウよ、お主がそう決めたのなら儂は何も言わん。だがこれだけは伝えておこう。今聖域で教皇を名乗っているのはシオンではあるまい。あやつならば儂の所に刺客を送るような事はせんからのう」

 

 「はい……それは分かっております。十三年前に師の小宇宙が途絶えたのは確認しました。そして、アイオロスの事件を機に私は聖域から逃げ出したのです」

 

 かつての出来事を思い出したためか、はたまた過去の自身の行動を悔やんでいるのか、ムウはそう言って顔を曇らせた。

 それを見た童虎は軽いため息をつくとムウに背を向けて言った。

 

 「そうか……既に知っておったか。ならばもはや言うことは無い。お主のことじゃ、心配は無いじゃろう。だが、用心は怠るでないぞ」

 

 「はい。では老師もお元気で」

 

 「ウム、達者でな」

 

 そんなやり取りの後、ムウは聖域の白羊宮へと向かったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 老師に会いに五老峰へ行った時のことがムウの頭をよぎる。

 次の巨蟹宮の主はデスマスク。

 五老峰では黄金聖闘士二人は相手に出来ない、と言ってあっさりと退いたが今度はどうするつもりなのか。

 あの時、形の上では二対一だったが、実際に戦闘が続いていたら結果はどうなっていたか分からない。

 デスマスクには、そう思わせるだけの危険性がある。

 積尸気を用いた技は五老峰で初めて目にしたが、下手をすればたとえ黄金聖闘士といえども一撃で倒され兼ねないだろう。

 老師の言葉を思い出し、ムウは更に警戒心を強めて巨蟹宮へと突入した。

 

 巨蟹宮に辿り着いたムウとアイオロス。

 しかし、中に突入したと同時に二人は大きく目を見開いた。

 

 「何だ……宮の床に浮かび上がるこの人の顔は!?」

 

 「床だけではありません。壁や天井まで広がっています」

 

 巨蟹宮の内部はとても筆舌に尽くし難い、なんともおぞましい光景が広がっていた。

 宮の中の石畳の床から、壁を通じて更には天井に至るまで、何百何千という人の顔が浮き上がっていたのだ。

 しかもその顔は精巧であり、どれ一つ取っても同じ顔は無い。

 だが、その全てが怨みや苦しみの表情を浮かべていて、そこにはあらゆる負の感情が渦巻いていた。

 

 ぞっとするような光景の中、アイオロスとムウが巨蟹宮を進んでいくと、行く手に立ち塞がる男の姿が明らかになってきた。

 

 「……デスマスク」

 

 「ククク……気に入ったか? この宮に満ちた死に顔達が」

 

 「死に顔だと……?」

 

 「そうだ。この顔は俺が今まで殺してきた奴らのもの。俺への怨みで成仏出来ずに巨蟹宮をさ迷う死者の怨念が顔となって浮かび上がってくるのだ! この俺の名の通り、死に顔(デスマスク)となってな!」

 

 己を怨む者達の死に顔の中、不敵とも言える態度で傲然と姿を現したのは蟹座(キャンサー)の黄金聖闘士デスマスク。

 この不気味な宮の守護者には死者への敬意はまるで存在しないようだ。

 

 「デスマスク、私達はアテナを救うために教皇の元に向かっている」

 

 「ああ、知ってるぜ」

 

 呆気ない答えに拍子抜けしそうになりながらも、アイオロスは言葉を続けた。

 

 「そうか、ならば宮を通してもらえないか?」

 

 だがデスマスクはアイオロスに対して一気に攻撃的な小宇宙を解き放った。

 

 「フッ……俺がここを通すとでも思ったか? お前達は揃ってこの巨蟹宮で息絶えるのだ! 喰らえ! 積尸気冥界波!!!!」

 

 高々と突き立てた指を振り降ろすと同時にデスマスクの指先から青白い霊気が迸る。

 そんなデスマスクに対して、ムウが瞬時にアイオロスの前に出て立ち塞がった。

 そして小宇宙を高め強く念じる。

 

 「クリスタルウォール!!!」

 

 ムウの両掌から出現した鏡のような小宇宙の障壁が、迫り来る積尸気の威力を跳ね返す!

 

 「なにぃ!?」

 

 跳ね返された積尸気の塊がデスマスクの身体を覆い尽くした。

 

 「あじゃぱアァァァァァァ~~!」

 

 積尸気と共に、デスマスクは妙な悲鳴を残して二人の目の前から消滅していった。

 

 「…………………」

 

 「…………………」

 

 「……行きましょうか」

 

 「……そうだな」

 

 こうして二人は巨蟹宮の出口に向かって駆けだした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 早々に守護者を失った巨蟹宮を二人は走り抜けていく。

 そして次の宮である獅子宮について考えていた。

 獅子宮の守護者は当然、獅子座の聖闘士であるアイオリアだ。

 アイオロスとも日本で一度出会っていたが、アテナについて教皇に問い質すと言って聖域に帰ったきり音沙汰が無い。

 日本で見た様子からして、アテナのこともアイオロスのことも信用してくれたようで、アイオロスはてっきり味方になってくれるものと期待していた。

 しかし自分達が聖域に向かうことは伝えてあったのに、十二宮の前まで来てもアイオリアの姿は無かった。

 獅子宮を目指すついでにそのことをムウに話してみる。

 

 「アイオリアですか。私もここに着いてからまだ大して時間も経っていないので何とも言えませんが、アイオリアの姿は見ていませんね」

 

 「アイオリアに何かあったのだろうか」

 

 「アテナが倒れたことを知らず、自分の宮であなたとアテナが来るのを待っているのでは?」

 

 「そうだといいが……」

 

 ここまで通り抜けてきた宮では図らずも戦闘になってしまったが、アイオリアの宮なら闘わずに済むだろうとアイオロスは考えた。

 

 「老師の天秤宮と私の人馬宮は無人だから、次の獅子宮を抜ければ残る黄金聖闘士は5人……いや6人か」

 

 黄金聖闘士は全員で12名いる。

 それぞれが太陽が一年かけて回る軌道、つまり黄道の上にある十二の星座を司っているのだ。

 

 「十二宮も既に三分の一は突破した。このまま行けば、必ずやアテナを救うことが出来よう!」

 

 だがアイオロスはこの時ふと気付いて振り向いた。

 

 「ムウ?」

 

 アイオロスの背後には、浮かび上がる顔の他には何も無い巨蟹宮が広がっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ムウは今、自分が目覚めた場所について思案していた。

 さっきまでアイオロスと共に巨蟹宮を走っていたはずなのだが、意識を失ったのか気がついたらこの場に倒れていたのだ。

 この場所、ここは一体どこなのか。

 辺りには人影も見えず、剥き出しの地面は荒涼としてどこまでも続いている。

 そして空とおぼしき暗闇が頭上を覆っているのだが、何故か自分の手足や辺りの様子などははっきりと見える。

 だが次の瞬間突如として後方から衝撃が襲ってきた。

 

 「誰だ!?」

 

 吹き飛ばされて大地に倒れそうになるが、そこは堪えて振り返る。

 

 そこに立っていたのは――――

 

 「お前は……デスマスク!?」

 

 つい今しがた積尸気の中に消えたはずのデスマスクが、ニヤリと笑ってムウを見下ろしていた。

 

 「また会ったな!」

 

 「何故お前がここに!?」

 

 「ククク……教えてやろう。ここは積尸気、冥界への入口だ!」

 

 「なに……!?」

 

 積尸気、それは死者が冥界へ行くために通る道。

 デスマスクの積尸気冥界波は、敵の魂を肉体から分離し直接この冥界の入口へと叩き落とす技。

 

 「普通この技を受けた奴は魂がここに送られて死ぬ。だが俺だけは違う。積尸気と現世を自由に行き来できるんだよ!」

 

 そう言うとデスマスクの背後に積尸気が現れて、すぐに消えた。

 ムウは得心した。

 積尸気冥界波はデスマスクだけには通用しない。

 クリスタルウォールで跳ね返した先の一撃も、デスマスクにとっては何でもなかったのだ。

 むしろ積尸気の内部から不意討ちを掛けてこようものならもっと厄介なことになるだろう。

 現にムウほどの聖闘士が成す術もなく積尸気に引きずり込まれてしまっている。

 

 だがムウは未だに表情を崩さない。

 どこか余裕すら漂う顔でデスマスクに挑む。

 

 「そうか、ならばここで闘うのは得策ではないな」

 

 そう言うとムウの姿が薄くなってパッと消えた。

 だが再びもとの場所に現れる。

 

 「ムッ!?」

 

 訝しげな顔のムウの耳にデスマスクの哄笑が聞こえてきた。

 

 「ハッハッハ、残念だったな。いくら黄金聖闘士随一の超能力を誇るお前でも、ここから現世へのテレポートは不可能だ!」

 

 デスマスクはムウの意図を見破ったのか、問われもしないのに上機嫌で答えた。

 そして止めを刺したと言わんばかりに言葉を続ける。

 

 「更にここは冥界の入口だ。さすがに即死はしなかったようだが、既にお前は半死人のようなもの。黄金聖闘士といえどもその力は半減する!」

 

 その言葉にムウはデスマスクには聞こえないように歯ぎしりした。

 悔しいが確かに身体に力が入らないのが分かる。

 しかし相手はそんなことで待ってはくれない。

 デスマスクの殺気の籠った攻撃がムウに迫る。

 

 「グッ……!」

 

 デスマスクの拳が一方的にムウを打ち続ける。

 小宇宙を燃やして反撃しようにも、身体が万全ではない今、とてもデスマスクの拳を受けきれない。

 じわじわとダメージが蓄積される中、それでも何とか積尸気内でテレポートを繰り返しながら、攻撃に耐えていた。

 だが遂にデスマスクの前で大きな隙を晒してしまう。

 

 「もらったあ!」

 

 すかさずムウの顎を目掛けてデスマスクの渾身のアッパーカットが叩き込まれる。

 

 「グハァッ!!」

 

 その一撃を受け天高く吹き飛ばされたムウの身体がそのまま重力に従って落下し地面に激突する。

 

 「フッ、これで終わりだな。見ろ、あの穴を!」

 

 ムウの首を掴んで持ち上げながらデスマスクが言った。

 その場所は平坦なこの世界の中でも、唯一存在する高い山のような所だった。

 良く見るとあちらこちらに人の姿をした魂が数多くいるが、彼らは皆一様にその高山を目指してフラフラと彷徨っている。

 そして山の頂上に着いたデスマスクが見下ろすその先には、まるで火山の噴火口のような、黒々とした底の見えない巨大な穴が広がっていた。

 

 「こいつが冥界に続く黄泉比良坂だ。ここに落ちたら俺でも戻ってこれねえ。師匠の後を追わせてやるよ」

 

 その言葉を聞いた瞬間ムウの意識が覚醒した。

 今確かにデスマスクははっきりと言った、師匠の後を追わせてやる、と。

 

 「何故……お前が……」

 

 「ああっ?」

 

 ムウは身体中の力を振り絞ってデスマスクの手をはね除けると、強い口調でデスマスクを問い詰めた。

 

 「デスマスクよ、何故お前がシオン様の死を知っている……お前は教皇の正体も知っているのか!?」

 

 「ククク……教皇の正体か? 知ってるぜ」

 

 「なにい!」

 

 信じられない言葉だった。

 

 ムウも、先のアルデバランと同様にデスマスクもアテナが既に聖域にいるという教皇の言葉を信じて行く手を塞ぐというのなら仕方ない、と思っていた。

 もしそうならばやはり闘って通り抜けるつもりだったのだが、デスマスクは教皇が偽物であることを知っていたというのだ。

 教皇が偽物であることを見抜いていながら、その命令に従っているとはどういうことなのか。

 

 「俺はお前達と違ってアテナに忠誠を誓ってるつもりは無い。俺が信じるのは力。ただそれだけだ!」

 

 「お前はそれでも地上の正義と平和のために闘う聖闘士か!!」

 

 デスマスクの言葉に激昂して拳を放つムウ。

 

 「おぉっと」

 

 だがムウが怒りに任せて振るった拳をデスマスクは軽やかにかわす。

 

 「フッ……正義などというのは常に流動的で変化する。旧日本軍やナチスの正義のようにな。教皇はその力で以て地上の平和を守っているのだ! いずれ教皇こそが正義となろう!」

 

 「バカな! 強大な力を己のために振るうような男が正義であるはずが無い!」

 

 更に繰り出された拳を容易く受け止め、デスマスクは尚も言い放つ。

 

 「所詮この世は力こそ正義! 力を持たない弱者に正義を語る権利は無い! サガに殺されたお前の師匠のようにな!」

 

 その瞬間、ムウの怒りが限界を越えた。

 

 「デスマスクよ……聖闘士の正義に背くだけでは飽き足らず……我が師までも侮辱するとは許せん!!」

 

 「な……なんだこの小宇宙は!?」

 

 ムウの小宇宙が爆発的に高まっていく。

 その様子にデスマスクは冷や汗を流しつつも、自身も小宇宙を高めてムウを迎え撃った。

 

 「クッ……それがどうした! このまま冥界に突き落としてやる!」

 

 デスマスクが凄まじい勢いで突進しながら光速拳を撃ち放った。

 しかしその拳は無造作に掴みとられる。

 そしてムウがその手に力を込めると、デスマスクの腕に激痛が走った。

 

 「うぎゃぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 デスマスクが顔を歪める中、ムウは勢い良くデスマスクを空に向かって放り投げると、拳を掲げて攻撃の構えを取る。

 ムウの両手の間に瞬く光。

 流星群を思わせる輝きは徐々にその激しさを増し、デスマスクへと降り注ぐ!

 

 「受けよ……我が師シオン譲りのこの拳を! スターダストレボリューション!!!!」

 

 「ぎゃあぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 ムウの放った光速拳に、デスマスクの身体が吹き飛んだ。

 派手な音を立てながら宙を舞い、轟音と共に大地に激突するデスマスク。

 

 「ハァ……ハァ……くそっ! ムウの奴あんな優しそうな顔してなんて力だ!」

 

 だが全身に光速拳を受けボロボロになりながらもデスマスクは立ち上がった。

 その表情はつい先程まで勝ち誇っていた男とは思えない。

 そしてそんなデスマスクにムウが追撃の拳を繰り出した。

 

 「今一度受けろデスマスク!!」

 

 「聖闘士に同じ技がそう何度も通用するかあ!」

 

 デスマスクも必死で小宇宙を込めた光速拳を放ち、ギリギリでムウの技を食い止める。

 そして二人の間で激突する小宇宙が徐々に圧縮され、二人共身動きが取れなくなっていく。

 荒れ狂う小宇宙の中、ほとんど千年戦争のような状態に陥った二人。

 だが、やがてその均衡は崩れだす。

 

 「なにい!?」

 

 何と先に圧され始めたのはムウの方だった。

 息を荒げて小宇宙を燃やしているが、二人の間の小宇宙の塊は段々ムウの方へと近付いていっている。

 

 「ワハハハハ、やはり積尸気の中では限界だったようだな!」

 

 デスマスクは更に小宇宙を高めて、ムウの方に押し込もうとする。

 そして遂にムウが押し切られて蓄積した二人分の小宇宙がその身体に襲いかかった。

 

 「グハアッッッ!!」

 

 黄金聖衣の上からでも身体に響く強烈な一撃が、ムウをその場から弾き飛ばした。

 その威力にムウは冥界に続く穴の上まで飛ばされる。

 

 「クッ…!」

 

 しかし穴に落ちる寸前で、なんとか淵に手を伸ばす。

 だがそんなムウの手を踏みつけてデスマスクが現れた。

 

 「散々てこずらせやがって。だがこれでお前も終りだ!」

 

 そう言ってムウの手を何度も脚で踏みつける。

 ムウは手を放さないよう堪えていたが、突然何かに気付いた。

 

 「デスマスク、お前の背後のそれは何だ!?」

 

 「あぁ? 何のことだ?」

 

 しかしムウの視線の先にあるものを目にした途端、デスマスクも驚きの声を上げる。

 

 「ッ! 何だこいつらは!?」

 

 そこにいたのは黄泉比良坂を彷徨う亡霊達。

 彼らは何も言わずにゆっくりと近付き、デスマスクの身体に纏わりついた。

 

 「クッ………放しやがれ!」

 

 「なんとおぞましい光景だ……デスマスクが今まで殺してきた人々の亡霊が、デスマスクを取り囲んでいる」

 

 次々と押し寄せる亡霊。

 だがデスマスクはその姿に驚きながらも、それらを力ずくで振り払った。

 

 「亡霊如きが俺の邪魔をするな! お前らなどまとめて地獄に叩き落としてくれるわ!」

 

 デスマスクの拳が亡霊の群れを吹き飛ばした。

 亡霊達は何も出来ずに、人形のようにただ吹っ飛ばされては冥界へと落ちていく。

 

 「自分が殺した者の亡霊に襲われて微塵の恐怖も感じないとは……なんと強靭な精神力か……!」

 

 やがて亡霊達はことごとく冥界へと突き落とされ、後にはムウとデスマスクだけが残った。

 そしてデスマスクが再びムウの手を踏みつけて言った。

 

 「これでようやくお前を冥界に突き落とせるぜ」

 

 「ウッ……!」

 

 するとデスマスクはムウがつかまっている黄泉比良坂の淵を粉々に踏み砕いた。

 

 「あばよムウ」

 

 「うわぁぁぁぁぁぁ!」

 

 ムウが冥界へと落下していくのを見下ろしながら、デスマスクは悠々と積尸気を開いて巨蟹宮に帰還した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「アイオロスの奴はもう行ったか。ま、俺にはどうでもいいことだがな」

 

 宮の中は無人でムウと共にいたアイオロスの姿は既に無い。

 とっくに巨蟹宮は抜けたのだろう。

 敢えて追う気も無いデスマスクは、ムウを黄泉比良坂に引きずり込んだ時に隠したムウの死体を始末しようと宮の中をうろついていたが、いくら探しても死体が見つからない。

 冥界に落ちたのは魂だけだから身体はこの世に残っているはずなのだ。

 不審な想いに駈られつつも宮を見て回るデスマスク。

 そしてやっとムウを発見した。

 だがその顔が驚愕のあまり硬直する。

 

 「お前……何故生きている!?」

 

 デスマスクが見つめる先にあったのは、死体ではなく生きて立っているムウ。

 茫然と立ち尽くすデスマスクに、ムウはゆっくりと近付いていく。

 その姿にデスマスクは思わず後ずさりしそうになった。

 そしてようやくムウが口を開いた。

 

 「戻って来たのだ。お前に落とされそうになったあの黄泉比良坂から!」

 

 「バカな! 俺以外は絶対に積尸気の中からは抜けられるはずは無い!」

 

 デスマスクはそう言ったが現にムウは巨蟹宮に立っている。

 積尸気について、聖域の誰よりも精通している自負があるデスマスクですら理解不能だった。

 

 「私のテレポートは通り道さえあれば異空間からでも帰還できる」

 

 「まさか…! 冥界の入口からでも戻ることが出来るというのか!?」

 

 「いや、黄泉比良坂には現世へと繋がる道は無い。それでは私もテレポートは不可能だ」

 

 「なんだと……?」

 

 デスマスクにはムウの真意が読めなかった。

 事実ムウは積尸気の内部から脱出したにもかかわらず、テレポートは出来ないと言っている。

 それなのにテレポートで戻ってきたとは一体どうゆうことなのか。

 だがそこでデスマスクはある可能性に思い当たった。

 

 「ま…まさか……!」

 

 「そうだ……私はお前が開いた冥界波を通ってテレポートしたのだ。積尸気と現世を繋ぐ道があれば、黄泉比良坂からでもテレポートすることは出来る」

 

 それはデスマスクにも完全に盲点だった。

 冥界へ落とされそうになったムウは、デスマスクが巨蟹宮へ戻るために積尸気を使うのを上からは見えない深い所で浮遊しながら待っていたのだ。

 そして積尸気により巨蟹宮と繋がった瞬間にテレポート。

 魂は自然と肉体に戻り蘇ったということか。

 

 それを知ったデスマスクは歯噛みして悔しがったが既に後の祭りだった。

 しかしその目はまだ勝負を諦めてはいない。

 デスマスクの周りに前にも増して強大な積尸気が集まってゆく。

 

 「だったらもう一度積尸気に叩き落としてやる! それならお前は二度と戻っては来れないはずだ!」

 

 「聖闘士に同じ技は通用しない、そう言ったのはお前の方だぞ?」

 

 ムウとデスマスクが睨み合ったのは一瞬、だがその一瞬に二人の小宇宙は大きく膨れ上がる。

 

 「死ね! 積尸気冥界波!!!!」

 

 白く渦巻く霊気の嵐!

 冥界へと繋がる積尸気が、巨大な塊となって迫り来る!

 

 だがその時、デスマスクの周りに光のリングが現れた。

 

 「な……なんだ!?」

 

 激しく明滅する光輪がデスマスクの身体の身体を包み込む。

 そして――――

 

 「スターライトエクスティンクション!!!!」

 

 小宇宙が織り成す滅びの光輪!

 消えゆく光と諸共に散れ!

 

 光輪の収縮と同時に、デスマスクの身体が放った積尸気の塊ごと光に飲み込まれ消失していく。

 

 「なっ……俺の身体がぁ~~~!」

 

 光が消えると、デスマスクはムウの目の前から完全に消え去っていた。

 

 「かつてシオン様の師もまた積尸気の使い手であったと聞く。これも何かの縁か……」

 

 やや複雑な表情でそう言い残すと、先行するアイオロスに追いつくために疲弊した身体を奮い立たせて、ムウは走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ちくしょう、どこだここは!?」

 

 デスマスクはそう言って立ち上がると辺りを見回した。

 

 「ここは……コロシアムか」

 

 そこは聖域の中でも主に聖闘士候補生の訓練を行う場所である。

 そしてそのど真ん中に、デスマスクの姿があった。

 

 「…あいつの技で俺はここまで飛ばされたのか」

 

 周囲に誰もいないことを確認しつつ、デスマスクは十二宮に向かって歩き始めたが、すぐに足を止めた。

 

 「今から慌てて行っても仕方無い、か……負けたのは俺の方だしな。奴の方が俺より強かっただけのことだ」

 

 力こそ正義という真理に従うならば、既に敗北したデスマスクはムウ達に立ち向かうことは出来ない。

 何故なら相手の力が自分の力を上回ったということ、それは即ち相手の正義を認めなければならないことに他ならないのだ。

 そして勿論そのことについては何の不満も無い。

 地上の平和を守るためにはより強い力が必要だというのはデスマスクの信念でもあるからだ。

 例え力を尽くす相手が誰であっても、その強さでもって地上を治める者ならばデスマスクはその態度を変えることは無い。

 

 アテナの元で地上を守ろうとするアイオロス達と、己の力で世界を守ろうとするサガ、この闘いを勝利するのは果たしてどちらなのか。

 いや、デスマスクにとってはそれがどちらでも構わないのだろう。

 より強い方に従う――――それが彼の唯一の行動理念なのだから。

 

 「次に会う時は首を洗って待ってろよムウ」

 

 内心ではムウへのリベンジを考えつつも、デスマスクはまたゆっくりと十二宮の方向へと歩き始めた。

 

 

 

 

 

 

 


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