さて、今回の物語は……。
――八雲紫の式である九尾の妖狐、八雲藍は夢を見ていた。
見える光景は八雲屋敷の一角、紫がよくのんびりと過ごす縁側に一組の男女が座っている。
1人は自分自身、そしてもうもう1人は……主の想い人であり、第二の主人である龍人。
お茶を飲みながら楽しげに会話をしている2人は、傍から見ているとまるで……。
「藍」
夢の中の龍人が、夢の中の藍を呼び、彼女は僅かに頬を赤らめ恥じらいの表情を彼に見せ始めた。
そんな彼女を彼は優しく微笑みながら――そっと、夢の中の藍の抱き寄せた。
その光景に傍観者のように夢を見ていた藍は驚愕し、けれど目を逸らす事ができずにそれを見つめ続ける。
一方、夢の中の藍は抵抗するどころか自分の方から彼の背中に手を回し強く抱きしめ返した。
なんという夢を見ているのか、気恥ずかしくて藍は早く夢から醒めてほしいと強く願う。
……暫く抱きしめ合っていた両者が、徐に離れた。
ほっと一息つく藍であったが、夢の中の両者はそのまま互いの服に手を掛けて――――
「な、何をしているのですか龍人様ーーーーーーっ!!!!」
悲鳴に近い叫び声を上げながら、藍は布団から跳び上がる勢いで起き上がった。
「…………」
外から聞こえる、小鳥の囀り。
周囲を見渡すと、見慣れた自分の部屋に居ると自覚した藍であったが、彼女は暫し上半身だけ起き上がらせたまま固まってしまっていた。
ゆっくりと、本当にゆっくりと思考を巡らせていき。
「…………私は、最低の駄狐だ」
頭を抱えながら、自分自身を強く呪うようにそう呟いた。
自己嫌悪と羞恥心に苛まれる事暫し、藍はいつまでもこうしている場合ではないとどうにか布団から抜け出した。
しかし彼女の心は今も自分自身に対する恨み言で破裂してしまいそうになっている。
当たり前だ、大切な主である紫の想い人である彼と、口で説明するには少々憚られるような行為を行おうとした夢を見てしまったのだ。
生真面目で主を崇拝する彼女にとって、あのような夢を見てしまったという事実は紫に対する裏切りに等しいと思ってしまっていた。
そもそも何故、あのような夢を見てしまったのか。
もしかして欲求不満なのだろうか、いや己を“慰める”行為は時折行っている。
妖獣故の“昂ぶり”は確かに存在するものの、あんな夢を見るほど重症ではなかった筈だ。
ならば何故なのか、自問自答を繰り返しながら主人達の為に朝食を作ろうと藍は部屋を出て。
「おはよう、藍」
「――――」
たった今まで、夢に出ていた龍人と出くわしてしまい。
警戒していなかった藍は、不意打ちのように身体を固まらせてしまった。
「藍、どうしたんだ?」
「………………いえ、なんでもありません」
感情を押し殺した声で、藍は龍人の言葉に返事を返す。
明らかになんでもないわけではない彼女の態度であったが、威圧を込めた瞳を向けられた龍人はそれ以上の詮索はしなかった。
一方の藍は表情こそ平静を装っていたものの、内心はまるで嵐のように荒れ狂っていた。
当然そうなった原因はたった今まで見ていたあの夢のせいだ、そのせいで少しでも気が緩むと顔が紅潮してしまいそうになる。
「……まあいいや。それより紫から伝言だ、「今日は式としての仕事はせずにゆっくり休め」だとさ」
「えっ?」
「今日は地底に行って、地上との間に交わす盟約を決めないといけないらしい」
今頃地底の妖怪や、デイダラを含めた元地獄の怨霊管理者だった鬼達と話し合っている事だろう。
当然ながら龍人も同行しようとした、自分とてその案件には大いに関わっているのだから。
けれどそれは紫によってやんわりと否定されてしまった、彼女曰く。
「龍人にはこういう役目は似合わないわ、だって貴方真っ直ぐ過ぎるのだもの」
との事だ、ちなみに苦笑しながら言われてしまった。
若干その態度には納得いかなかったものの、紫の負担になりかねないというのならば引き下がるしかない。
「とにかくそういうわけだ。今日は好きに過ごせばいい」
「はあ……」
気の抜けた返事を返してしまう藍。
いきなりそんな事を言われてしまっても、藍としては困ってしまう。
式として、また従者としての仕事に自身の時間の大半を費やす彼女にとって、突然の休みというのは手に余る。
好きに過ごせという主の優しさは嬉しく思うものの、これといった趣味を持たぬ藍にはその過ごし方というのがわからない。
「龍人様は、これからどのような御予定があるのですか?」
「俺か? いや、特に決めてないけど里には行こうと思ってる。それがどうかしたか?」
「…………」
里に行く、きっと彼はまた里に行って困っている人が居ないか捜すのだろう。
彼らしい日々の過ごし方ではあるものの、藍としてはもう少し休んでもらいたい所だ。
いつだって彼はそうやって里の力になろうと生きてきた、最近は旅に出る事もあったがこの幻想郷に居る間はずっとそういう生活を送っている。
……彼こそ休むべきなのだ、この考えは藍だけではなく彼女の主である紫も常々抱いていた。
――なので、丁度いいと藍は何処か自分に言い聞かせるようにしながら。
「――龍人様、でしたら私も御一緒しても宜しいでしょうか?」
少しだけ鼓動を速めながら、そんな願いを彼に向かって申し出ていた。
ただ彼の助けになればいいという意味を込めての申し出だ、それ以外に別の意図はない。
そう言い聞かせているのに、藍の鼓動は少しずつ跳ねるようにその動きを速めていく。
それだけではない、我慢していたのに頬の紅潮がだんだんと止められなくなっている。
頬から感じる自身の熱によりそれに気づき、その変化に内心困惑しつつ藍は彼の返答を待ち。
「ああ、それは勿論構わない」
「ぁ…………!」
快く自分の提案を受け入れてくれたもう1人の主に対し、無意識の内に頬を綻ばせた。
尚も鼓動は煩いくらいに鳴っているが、今の彼女にそんな事を気にする余裕はなかった。
彼と共に過ごすというのは今までにも何度もあったが、常にその傍には紫の姿があったのだ。
けれどその紫は今は出掛けている、その事実が藍に彼女自身もわからない謎の高揚感を与えていた。
「では少々お待ちください、すぐに準備をしてきますので!!」
言うやいなや、藍は凄まじい速度で自室へと戻り襖を閉める。
そのまま寝巻きを脱ぎ捨て、いつもの導師風の服装に着替えながら……ふと、藍の視線が台の上に置かれた
あれは前に紫が西洋から取り寄せたという化粧道具だ、「たまには着飾ってみなさい」という主からの厚意だったのだが……まだ藍は一度も使った事がない。
着飾る必要など自分にはなかったし、そんな事よりも式として主の支えになる事の方が彼女にとって重要だったからだ。
「…………」
しかし、これから龍人と共に2人だけで里へと向かうという事が、藍にある変化を齎し。
着替えを済ませた藍は、そのままゆっくりと右手を鉛白に伸ばした……。
■
人里へとやってきた龍人と藍。
2人が最初に向かった先は……飯屋であった。
なにせまだ朝食すら食べていないのだ、一日の活力を得る為にはまず飯という結論に達するのは当然である。
「よく食うなー、藍」
「何を言いますか、龍人様に言われたくはありません」
いや、どっちもどっちだから。周りに居た客達は内心そんなツッコミを2人に放つ。
龍人の周りには沢山の皿やお櫃、既に常人の数倍以上の食糧を腹に収めていた。
一方の藍も二十近い丼が重ねられており、その全てがきつねうどんという徹底振り。
狐故か油揚げが大好物な彼女はそれが乗っているきつねうどんも好みであり、しかもこの飯屋は一杯で三枚も乗っているのだ。
藍としてはこの上ないご馳走に等しく、自制しなければと思いつつもついつい食べ過ぎてしまっていた。
「そういえば藍、お前今日は化粧してるんだな」
「ええ、まあ……たまには良いかと思いまして」
口には紅を塗り、顔には鉛白をまぶした今の藍はいつも以上の美しさを見せ付けていた。
現に店に居る男達は、人妖問わず彼女に魅了されてしまっている。
だが藍にとってそんな視線になど価値は見出せない、何故なら見せたいと思った相手からはそのような視線を向けられないからだ。
「紫もそうだけど、化粧すると女は変わるんだな」
「それはそうですよ、化粧というのは“化ける”という意味も込められているのですから」
「なんかそう聞くと変な感じだな……まあ、綺麗になるんだから見てるこっちとしても嬉しいけどな」
「……嬉しい、ですか」
「ああ、だってそうだろ? 誰だって綺麗なものを見たら嬉しくなるものじゃないのか?」
だから、龍人は今の藍を見れるのは嬉しいと思っている。
彼とて美的感覚は持ち合わせている、普段は口に出さないが綺麗なものを綺麗だと思えるのだ。
「嬉しい……私を見て、嬉しい」
何度も龍人から放たれた言葉を呟く藍。
気恥ずかしい、けれどそれ以上の幸福感が彼女の内側から溢れ出しそうになる。
彼の言葉一つ一つが、己の全てを変えていくような錯覚すら覚え、困惑しながらもやはり彼女の口元には嬉しさを隠し切れない笑みが浮かぶ。
――その後、もう少しだけ食べた2人は飯屋を後にした。
次の目的地は決めず、のんびりとゆったりした足取りで2人は里の中を歩き回る事に。
道行く人々と挨拶を交わし、世間話に華を咲かせ、今日も幻想郷が平和である事を認識していく。
そういった光景を見る度に、藍は改めて紫と龍人の偉大さを思い知るのだ。
無論、この平和は2人だけが守っているわけではないという事ぐらいはわかっている、この里に生きる者全てが手を取り合っているからこその平和だとは理解している。
けれどその基盤を作ったのはあの2人であり、だからこそ藍は式として2人に仕える事に悦びを見出していた。
しかし、同時に己の未熟さも思い知ってしまう。
藍にとって紫も龍人も、遥か先を歩く存在であり、後を追いかければ追いかけるほど自分の小ささを認識してしまうのだ。
だから彼女は時折こう思う、「本当に自分は2人の役に立っているのか?」と。
式として、本当に自分は2人の役に立っているのか、支えになっているのかという不安が……。
「こんにちはー、龍人様、藍様!!」
「こんにちはー!!」
「えっ?」
突然聞こえた人間の子供達の声に、藍は思考を中断させ前方へと視線を向ける。
これから寺子屋に行こうとしているであろう子供達が、藍達に向かってニコニコと微笑みを見せていた。
それを見て、藍はおもわず怪訝な表情を浮かべてしまう。
龍人に対しこのような好意を隠そうとしない態度を見せるのは理解できたが、自分に対しても何故このような好意的な態度を見せるのか理解できない。
……正直藍は、人間に対し特別良い感情を抱いてはいない。
ただ主が守ろうとしているから守っているだけだ、見下しているわけではないが好いているわけでもなかった。
だというのに、向こうが好意的なものだから怪訝になるのは致し方ないだろう。
「この間は、もこたんと一緒に竹林に行ってくれてありがとうございました!!」
「竹林? 藍、何かあったのか?」
「えっ、ええ、まあ……」
あれは数日前だったか、買い物の為に人里へと赴いていた藍だったのだが、道端で倒れている人間の大人とその子供の姿を見かけたのだ。
話を訊くとどうも突然腹痛を訴えたらしく、何やら尋常ではない様子だったので見捨てるわけにもいかず藍はその親子を永遠亭に連れて行くことに決めた。
とはいえ藍も「迷いの竹林」の地理全てを把握しているわけではないので、途中で案内人となっている妹紅の協力を仰ぎ無事親子を永遠亭まで連れ込んだ。
その後、永琳によって体調をすぐに快復させた親子を家まで送って……特に主に報告する必要などない案件だったので、藍は何も言わなかったのだ。
と、その時の子供だけではなく他の子供達も藍に感謝の言葉を送ってきた。
言われて藍は、自分に対し感謝する子供達は前に気紛れで手を貸していた者達である事に漸く気づく。
手を貸した、とは言ってもたいした事ではない。ただ転んで受けた怪我を治したり里の外で迷子になろうとしたのを助けたり……藍にとって、たまたま目撃したから行動しただけで感謝される謂れはないものだった。
そもそも人の感謝など藍にとって必要になるものではないし、された所で困るだけだ。
「あの時は偶然目撃したから手を貸しただけだ、感謝する必要などない」
なので藍はわざと距離を離すような物言いで子供達に上記の言葉を言い放った。
あまり良い態度ではないかもしれないが、あまり馴れ馴れしく踏み込まれるのも困る。
だからこその態度だったのだが……子供達には
「お、おい……」
その姿に、藍は困惑してしまう。
露骨なまでに拒絶の意を込めた態度を見せたというのに、何故子供達は自分に向ける態度を変えようとしないのか。
そればかりか「尻尾、触ってみてもいいですか?」などと馴れ馴れしい事を言ってくる始末である。
本音を言えばすぐにでも追っ払ってやりたかったが、隣に龍人が居る以上それもできず。
「ほらお前達、そろそろ寺子屋にいかないと慧音が怒るんじゃないか?」
他ならぬ龍人が助け舟を出し、子供達の意識が藍から外れた。
彼の言葉を聞いて一斉に子供達の表情がげんなりしたものへと変化する。
慧音が怒る、その事態は彼等にとってあまりよろしくないものなのだろう。
「龍人様、藍様、さよーならー!!」
「おい早く行こうぜ、頭突きされたくねえし!!」
「俺も俺も!!」
急ぎその場を駆けていく子供達。
それを、龍人は見えなくなるまで手を振って見送った後。
「――困ってたな藍、お前はあまり人間が好きじゃないから戸惑ったのか?」
彼は、藍の心中を読んだかのような言葉を投げかけてきた。
その言葉にどきりとしながらも、偽りは無意味だと理解した藍は無言で頷きを返す。
「別に無理をして人を好きになれなんて言えないさ、どうしようもない事だってあるし人だって綺麗な生物じゃないからな」
「えっ、龍人様は人に対してそのような認識を抱いているのですか?」
「綺麗な生物なんてこの世の何処にも居やしないさ、そしてそれは俺達のような妖怪と呼ばれる存在だって同じ事が言える。
どっちが優れていてどっちかが劣っているなんてことはない、だからこそ俺は人も妖怪も大好きなんだ」
「…………」
真っ直ぐな瞳で、里で生きる者達を見つめる龍人。
人も妖怪も関係ない、ただここに生きる者達に慈愛に満ちた瞳を向けている。
彼の姿は藍には眩しくて、けれど……少しだけ理解できない部分があった。
「……龍人様は、人と妖怪が共に生きる世界を望んでいますが、果たしてその世界で生きる妖怪というのは本当に妖怪と呼べるのでしょうか?」
前に紫にも訊いた問いかけを、藍は龍人にも問うた。
対する彼は、その真っ直ぐな瞳を藍に向けたまま静かに問いかけを返す。
「人は妖怪を恐れ、憎み。そして妖怪は人を見下し、糧としか思わない。
ずっと昔からその関係は変わらない、でもな――その関係が正しいとは俺は思わないんだよ藍」
「…………」
「同じこの世界に生きている者同士なら、きっと解り合える。
昔からの関係なんてそれこそどうだっていい、それが正しいと誰が決められるんだ?」
人から恐れられない妖怪が居たっていいではないか、そんなものは妖怪ではないと一体誰が決められるというのか。
昔からのしがらみなど、龍人にとっては未来を阻む枷でしかないのだ。
新しい時代はすぐそこまで迫っている、人も妖怪も変わらなければならない時がやって来ているのだ。
「それに何よりさ、せっかくだしみんな仲良く生きていられたら幸せだろ?」
「…………」
甘い、なんという甘い理想なのか。
けれどその理想は、願いは彼だけのものではなくなっている。
紫、この幻想郷に生きる者達、妖怪の山や地底世界。
少しずつ、けれど確実に彼の想いを賛同する者達は増え続けている。
――ただそれでも、世界総てを変える事は難しい。
物事はそう単純なものではない、それはきっと彼自身もわかっているだろう。
それでも、そんな未来が来ると信じて彼は前を向いて歩いている。
それは純粋な妖怪である藍には決して真似できぬ、眩しい姿であった。
「…………ああ、そうか」
わかった、わかってしまった。
ある“感情”を理解して、藍は心を躍らせ喜びを溢れさせる。
「龍人様」
「ん?」
「私は紫様の式です、ですが私にとって龍人様は第二の主人です。
私の総てをあなたに捧げる覚悟も決意も抱いています、ですからいつでも私の力が必要な時は遠慮なく使ってやってくださいね?」
「……ああ、ありがとう藍」
笑みを浮かべる龍人に、藍もまた満面の笑みを返す。
……どうやら先の言葉の“本当の意味”を、彼は理解していないようだ。
けれど構わない、いずれ判ってくれればいい。
今は主人と従者の関係のままで充分だ、そう……今は。
「龍人様、これから散歩でもしませんか? たまにはゆっくりと里を歩きたくなりました」
「いいなそれ、じゃあ行くぞ?」
「はい!!」
歩き始める龍人の隣を、同じ歩幅で歩いていく。
穏やかな気分のまま、秋の風を全身に感じつつ、2人は里を歩いていった。
そんな2人の姿を、周りの者達は微笑ましそうに見つめていたのだった――――
To.Be.Continued...
楽しんでいただけたでしょうか?
もしそうなら幸いに思います。