第77話 ~小さな日常の一幕~
――小鳥の鳴き声が、ゆっくりと紫の意識を覚醒させた。
瞼を開けた紫の視界に映ったのは、自分の屋敷とは違う天井。
続いて右腕に何かを抱えている事に気づき、そちらへと視線を向けると。
「…………酒瓶?」
何故か、酒が入っていたであろう一升瓶が見えた。
どうして自分は空の一升瓶を抱えているのだろう……記憶を探ろうとして、紫の頭に鈍い痛みが走った。
ズキズキと痛むそれに顔をしかめながらも、紫は半身を起き上がらせ周囲を見渡す。
高そうな壷やら掛け軸やらが目立つ、和風の部屋。
やはりここはいつも自分が暮らしている「八雲屋敷」ではないと改めて自覚しつつ、再び痛み出した頭に手を置く紫。
すると出入り口であろう襖が開き、水が入った湯のみを持った薄紫色の髪を持つ少女が入ってきた。
「ああ、起きたんですね紫さん。おはようございます」
「…………おはよう」
痛みに耐えつつ挨拶を返す紫、そんな彼女に呆れたような視線を返しつつ、少女は持っていた湯飲みを彼女に手渡す。
それを受け取りつつありがとうと返し、一気に中身を飲み干す紫。
「昨日の事、覚えていますか?」
「……ええ、酷い醜態を晒したような気がしますわ」
「気がする、ではないですけどね。まあいつも腹の底が見えない紫さんの意外な一面が見れたという事で、里の者達は喜んでいましたが」
「………………」
存外に、里の住人達というのは逞しいようだ。
そして紫は漸く思い出す、何故自分がこのような状態でいつもと違う場所――稗田家の客間で眠っていたのかを。
里の者達が良い酒を造れた事を祝う宴会に参加して、これでもかと羽目を外した結果……妖怪だというのに二日酔いに陥ってしまったというわけだ。
妖怪は一部を除いて酒豪が多く紫も当然酒に強い部類に属しているものの、調子に乗って随分と宴会を楽しみすぎたらしい。
そして泥酔した彼女は自分の屋敷に帰る事もできず、仕方なく稗田家の者達によって介抱され今に至るわけで。
……おもわず頭を抱えてしまった、なんと情けない醜態を晒してしまったのかと後悔しても遅い。
「紫さんも得体の知れない大妖怪ではないと改めて認識させたのですから、結果的に良かったのではないですか?」
「……否定はしないけど、これが里の外の妖怪達に知れたら色々と面倒な事になりそうよ」
「大丈夫です。ちゃんと口止めをしておきましたから」
「ありがとう。――
割と本気の口調で紫が感謝の言葉を述べると、少女――稗田家五代目当主である
水を飲み彼女との会話で少し気分が楽になった紫は、縁側へと向かう。
既に太陽は真上に昇り、雲一つない快晴を見せている。
――幻想郷に来て六百年、今日もこの地は平和な時を刻んでいた。
■
「たすけてえーりん」
「………………」
「いや、そんなに冷たい目で見なくてもいいじゃない……」
少しは楽になったとはいえ、二日酔いによる頭痛は紫を苦しめていた。
かといって我慢したくない彼女は、友人であり薬師である
とはいえ永遠亭は迷いの竹林という天然の迷宮の奥深くに存在するため、そこまで歩くのが面倒な彼女は一気にスキマで移動。
そして場を和ませる為に上記の台詞を放ったのだが……返ってきたのは、絶対零度よりも冷たい永琳の呆れたような視線だけであった。
「一体何の用かしら?」
「昨日飲み過ぎちゃって……何かいい薬ない?」
「……少し待ってなさい」
ため息を吐きつつ永琳は立ち上がり、近くの棚を開き中から錠剤の入った小瓶を取り出す。
そこから三粒の乳白色をした小さな錠剤を出し、紫へと手渡した。
「……これ、苦い?」
「子供みたいな事言わないの、二日酔いの頭にはちょうどいいわ」
「えぇー……」
あからさまに不満そうな呟きを零しながらも、紫は永琳から受け取った錠剤を口に含む。
すぐさま三粒全てを呑み込むと――ズキズキという痛みを発していた頭の痛みが一気に消え去った。
「相変わらず、デタラメな効力ね」
「褒め言葉と受け取っておくわ。ところで、龍人の姿が見えないけれど喧嘩でもしたの?」
「どうしてそんな楽しそうな声で訊くのよ。――少し出掛けているの、時折ふらっと何処かに行っちゃう時があるのよ」
そしてふらっと帰ってくる、三百年ほど前から龍人はそんなちょっとした旅をするようになっていた。
色々な景色を見て回り、いざこざに首を突っ込み解決する。
……寂しいと、紫は内心ちょっと思ってしまっていたのは余談である。
「なら寂しいわね」
「どうしてよ?」
「だってあなた、彼が居ないと寂しくて死んじゃうでしょ?」
「どこぞの兎よ、私は」
「あれは迷信だけどね」
「とにかく、別に寂しいだなんて思った事は…………ないわ」
「今の間はなにかしら?」
うっさい、悪態を吐きながら永琳から視線を逸らす紫。
……くすくすと笑う声が耳に入り、紫の表情が不機嫌そうに歪んでいく。
「――ところで」
「?」
「何か用事があったのではないの?」
「二日酔いの薬を貰うという用事なら済ませたじゃない?」
「そういうのはいいのよ。変に誤魔化したりはぐらかす様な仲ではないでしょう?」
「…………そうね」
その問いかけを聞いた瞬間、紫の表情が引き締まった。
そう――永琳の言葉は正しい。
勿論薬を貰いたいというのはあったものの、そんなものは建前の一つでしかなかった。
「……少しずつ、時代が人間達のものになろうとしているわ」
「あら、そうなの?」
「そうなのって……貴女、外の情勢を知らないの?」
「興味ないもの。私の最優先事項は輝夜の守護でしかないのだから」
あっけらかんと、なかなかに酷い言葉を放つ永琳。
とはいえ彼女にとって人間達や妖怪達の情勢がどうなろうとも、輝夜に影響が及ばないのならば本当にどうでもいいのだろう。
彼女はそういった考えを持つ人物だとわかっているのだから、紫としても今更どうこう言うつもりはなかった。
「あちこちに式神を送り出しているけど……届いてくる報告は争いばかり、それも人と妖怪だけじゃなく人と人、妖怪と妖怪の争いもあるみたい」
「そんなの、昔からでしょう?」
「そうだけど、人間同士の争いの頻度が増えているみたいなのよ」
それも、人間の数が劇的に増えているのが原因なのだろう。
中には全てを支配する為に動きを見せる人間も居るらしく、血生臭い報告しか返ってこないのは正直気が滅入るというものだ。
一方、妖怪達の方も正直良い報告を聞かない。
人の増加に比例するように、少しずつではあるものの妖怪の数が減ってきている。
昔のように妖怪はただ人間に恐れられるだけの存在では無くなりつつあり、中には徒党を組んだ人間達に排除された大妖怪も居たとの事だ。
そんな状態故に、古くから生きる妖怪達も危惧を覚え始めていた。
しかしだ、それでも妖怪達の多くは人間を侮り互いに協力関係を結ぼうとはしない。
妖怪は自分勝手で傲慢な輩が多い傾向が強いとはいえ、それでは何も変わらないというのがわからないのかと紫はそう思わずにはいられなかった。
「争いばかりが肥大化しているこの時代、いずれ幻想郷にもその戦火が及ぶとも限らないわ」
「……それで、私に何をしてほしいというのかしら?」
「別に特別何かをしてほしいというわけではないわ、でもいざという時は……どうか私達に力を貸してほしいの」
そう言って、紫は永琳に向かって深々と頭を下げる。
彼女は既に六百年という年月を生きた妖怪であり、その強さは既に大妖怪の領域に達している。
そんな彼女が何の躊躇いもなく、他者に向かって頭を下げたのだ。
従者であり彼女の式神である八雲藍が見たら、卒倒しかねない光景である。
それでも彼女は永琳に頭を下げる、全ては幻想郷に生きる者達を守る為に。
妖怪としての誇りも大事だ、強き妖怪である彼女はそれをよく知っている。
けれどその誇りだけを大事にしては、成すべき事も果たせないというのもよく判っていた。
何よりもだ、紫にとって永琳は大切な友人の1人である。
そんな彼女に妖怪の誇りなど表に出す必要はないし、良き関係を続けて生きたいと思っている以上、礼節を重んじるのは当然であった。
「頭を上げなさい紫、もうあなただって立派な大妖怪なのでしょう?」
「ただ長い年月を生きているだけよ。それに大妖怪と呼ばれる存在は千年二千年生きてる輩ばかりだから、まだまだ若輩者よ」
「どの口が言ってるんだか」
確かに生きてきた年月だけを見れば、彼女はまだまだ妖怪としては若い部類に入るだろう。
だが内に宿る力はただ絶大である、彼女が持つ「境界を操る」能力は勿論、単純な戦闘力とて相当に高い。
そして彼女の傍には九尾の狐である八雲藍が従い、何よりも――常に彼女を守ろうとする龍人族の青年である龍人が居る。
――八雲紫という存在は様々な妖怪に一目置かれ、同時に恐れられている。
それは彼女の力だけでなく、彼女の傍に居る者達もまた強大な力を持っているからだ。
組織力としては決して大きくなくとも、個々の力は絶大である。
既に彼女を安易に狙おうとする妖怪はおらず、逆に彼女に取り入ろうとする者達すら存在する始末だ。
まだ生まれて二十年程度だった時期を考えると、今の彼女の立場はその時とは真逆といえよう。
「それで、どうかしら?」
「気が向いたらね」
「………………」
「睨んだって答えは変わらないわ、あなた達とは友人だけど里の住人達にそこまでの思い入れは無いのだから」
それにだ、あまり自分の力を当てにされては困るという考えが永琳にはあった。
紫や龍人ならばそのような事はしないだろう、だが……他の者はどうだ?
大き過ぎる力というものは、総じて“正しく”使われる事はないのだ。
「……まあいいわ。もしもの時は力ずくでも協力してもらえばいいから」
とは言うものの、紫自身そのような行動に移るつもりはない。
わかっているからだ、永琳が何故協力的な態度を見せないのかを。
彼女の力は絶大という表現すら追いつかない“異端”の領域だ。
だからこそ彼女は安易に自身の力を使用しようとはしない、安易に力を使えば世界そのものに影響を及ぼすからである。
「これから幻想郷には戦火を免れようと人妖がやってくる、それはそのまま勢力が増えるという事に繋がるけど……当然、“歪み”も出てくるでしょうね」
「ええ……わかっているわ」
その問題は、避けては通れぬものだろう。
人と妖怪が共存するこの幻想郷の基盤を崩さぬように、且つこれから増えるであろう幻想郷の住人達を受け入れる。
中々に厄介な問題が押し寄せていると、紫は疲れたようなため息を零した。
「――ため息を吐くと、幸せが逃げちゃうわよ?」
少女の声が、場に響く。
視線を声のした方へと向ける紫と永琳、そこには艶やかな黒髪を持つ絶世の美女。
かつて帝すら魅了した姫、蓬莱山輝夜がにこにこと笑みを浮かべながら立っていた。
「おはよう永琳、いらっしゃい紫」
「おはようって……今起きたの?」
「あなただって二日酔いで今さっき起きたのでしょう?」
「あら、紫もなの?」
「も?」
首を傾げる紫、すると輝夜はあははーと暢気に笑いながら。
「実は私もなのよ、太陽が昇るまで妹紅と飲んでたのよねー……いたたた」
頭を押さえ苦しげな表情を浮かべる輝夜。
その姿に永琳はため息を吐きつつも、紫に渡したものと同じ薬と輝夜へと手渡す。
「永琳、甘いシロップがいい」
「何子供みたいな事を言っているのよ、紫じゃあるまいし」
「どうせ服用するなら、美味しい方が良いに決まっていますわ」
「さっすが紫は判ってるわねー。というわけで永琳、甘いシロップを――」
「いいから、飲みなさい」
「もがが……!?」
業を煮やしたのか、くわっと目を見開かせ永琳は無理矢理輝夜の口内に薬を入れていく。
いや、あれはもう入れるというよりも「捻り込む」といった方が正しいかもしれない。
「うぅ……永琳、前は「姫様」って呼んでくれたし優しかったのに……」
「優しいでしょ? 竹林の中で寝入ってたあなたを回収してあげたんだから」
ちなみに、妹紅は放っておいた。
そこまでする義理はないからだ、とはいえ二日酔いの薬を近くに置いてあげたが。
「永琳、飲み過ぎたから胃に優しいお粥が食べたいわ」
「輝夜、私の話を聞いているのかしら?」
「聞いてる聞いてる。永琳には感謝してます」
ぺこりと頭を下げる輝夜であったが、そこに感謝の念など微塵も感じられないのは明白であった。
と、なんだか見ていて楽しくなってきた紫も悪乗りし始める。
「はいはーい、ゆかりんも永琳のお粥食べたいでーす!」
「………………」
「うっ……ごめんなさい」
さっきよりも冷たい目で睨まれ、あっさりと萎縮してしまう紫であった。
「……しょうがないわね、ちょっと待ってなさい」
「ありがとう永琳」
「さすが永琳お母さんね」
「誰がお母さんよ」
ちょっと待ってなさい、そう言って永琳は部屋を出て行った。
その後ろ姿を眺めてから、紫と輝夜は同時にくすくすと小さく笑い合った。
「永琳ってば、なんだかんだで優しいのよねー」
「輝夜の我儘ならなんだって叶えようとするでしょう?」
「そんな事ないわよ。結構恐いんだから永琳って」
「それはわかる」
「ふふっ、永琳の前で言わない方がいいわよ」
物凄い良い笑顔のまま怒るだろうから、そう言って輝夜はまた笑う。
ふと、紫はそんな永琳の姿を想像して……噴き出してしまった。
「……気分は晴れた?」
「えっ?」
「歩む道は険しくて、結果が追いつかない事は多々あるけれど……だからって、自分自身の平穏を忘れてはダメよ?」
「輝夜……」
……どうやら、先程のやりとりはしっかりと聞かれていたようだ。
多くは語らず、けれど今の紫にとって必要な言葉を輝夜は紡ぐ。
結果、これからの事を考え沈んでいた紫の心は少しだけ軽くなってくれたのであった。
「永琳のごはんを食べたら……昼寝でもする?」
「いいわね。今日も良い天気だそうだからそうしましょうか」
そうして2人は、宣言通り少し遅めの昼食を食べた後、速攻で輝夜の部屋にて昼寝を開始。
だが、当然そんな怠惰な生活を許さない永琳お母さんによる妨害でひと悶着あったのは余談である。
――幻想郷は、今日も平和だったとさ。
To.Be.Continued...
再び間章突入。
暫くは平和(?)な話が続くかと思いますが、少しでも楽しんでいただければ嬉しく思います。