そして、舞台は再び幻想郷へと戻っていく……。
――足音が、近づいてくる。
まだ覚醒しきっていない頭でそれを自覚した紫は、ゆっくりと目を開けた。
それと同時に部屋の襖が開かれ、自分を起こそうとやってきた藍と目が合う。
「紫様、おはようございます」
「……おはよう藍」
半身を起き上がらせる紫。
すると藍はそれを見て安堵したように口元を緩ませていた。
「失礼ね。二度寝なんてしないわよ」
「どうでしょうか。そう言って夜まで二度寝を決め込んでいたのは紫様では?」
「……あの時は春の陽気があったからよ」
小さく言い訳をしつつ、これ以上の小言を言われたくない紫はさっさと布団から抜け出した。
「もうすぐ朝食ができそうですので、居間に来てくださいね?」
「わかってるわ」
それでは、紫に一礼して藍が部屋から去っていく。
大きく伸びをしてから、紫は縁側へと出た。
まだ太陽が昇ったばかりではあるものの、降り注ぐ日差しの強さは春のような暖かさを含んではいない。
「――もう、本格的な夏なのね」
今日は暑くなるかもしれない、そう思いながら紫は自室に戻りいつもの服へと着替え始めた。
■
紫と藍、2人で朝食を食べ始める。
八雲屋敷の食事風景は比較的賑やかなものであるが、その原因の殆どは龍人もしくは時々共に食事をする他の者達によるものだ。
しかし現在ここに居るのは紫と藍のみである、故に静かな朝食風景が広がっていた。
「今日も龍人様がいらっしゃいませんから、静かですね」
「そうね。でもたまにはこういう静かな朝食もいいものだわ、貴女もそう思うでしょう?」
「…………正直に言えば、ですが」
なかなかに素直な式に苦笑しつつ、紫は藍の作ってくれた食事をゆっくりと楽しんでいく。
彼は今八雲屋敷には居ない、と言っても別に修行の旅に出たとか喧嘩して家出したとかそういうわけでもなかった。
時々ではあるが、彼は数日間この屋敷を留守にして人里で生活するようになった。
定期的に里の住人達と交流を深めようとするのと、人間達に自衛手段を教えるためである。
尤も、このような生活サイクルは前にも実行に移した事があるので、今更どうこう言うつもりはない。
ないのだが……なんというか、本音を言えばだが少しばかり文句が言いたいような気がしなくもないわけで。
「紫様、どうかなさいましたか?」
「……いいえ、なんでもないわ」
ややぶっきらぼうに返事を返してしまう、すると藍は何かを納得したような表情を見せてきた。
「何か言いたげね?」
「い、いえそんな……ただ、やはり数日とはいえ龍人様が屋敷に居ないというのは、寂しいなあと……」
「別に屋敷で寝泊りしている時だって、頻繁に里に行ったり妖怪の山に行ったりで殆ど居ないけれどね!」
最後の方は語気を荒くしてしまった。
どうも自分の思っている以上に龍人の行動範囲の広さには不満を抱いているらしい、反省。
主の機嫌がどんどん悪くなっていく事に気づいた藍は、顔を引き攣らせながらもどうにかこうにか話題を逸らそうと頭を捻り……思い出したかのように紫にとある報告を告げる。
「そ、そういえば紫様! 妖忌殿が正式に冥界にある“
「そう……じゃあ、“あの子”が亡霊になる準備が整ったというわけね……」
あの子――紫の数少ない人間の友人であった少女、“西行寺幽々子”。
彼女はあの世の閻魔達によって冥界を管理する立場としての“亡霊”として蘇る事になっている。
蘇る、とはいっても幽々子の場合「肉体を持つ死者」という特殊な“亡霊”なので、明確には違うかもしれないが。
とはいえ再び人と同じように笑い、泣き、怒るという行動ができるようになったとはいえ……“亡霊”となった彼女に生前の記憶は受け継がれない。
彼女の肉体は呪いの桜である“西行妖”を封印する為に用いられているからだ、だから紫はおろか付き人であった妖忌の事も彼女はわからないだろう。
その事実は正直悲しい、だが一番傷ついている妖忌が再び幽々子との思い出を作ろうと考えているのだ。
悲しいのは自分だけではない、だから紫の心は事実を聞いても落ち着いたものになっていた。
「妖忌殿が仰っていました。「近い内に遊びに来い」と」
「死者の世界である冥界に遊びに行くというのも、普通に考えたらおかしなものだけれどね」
「それはまあ、確かに……」
おそらく閻魔辺りが煩いだろうが、そんな事は知った事ではない。
今度時間を見つけて皆で遊びに行こう、勿論“はじめまして”と装う事は忘れずに。
「――ごちそうさま、少し出掛けてくるわ」
「はい、いってらっしゃいませ紫様」
スキマを開き、紫は八雲屋敷を後にする。
当然向かう先は、人と妖怪が共に暮らす不可思議な隠れ里――幻想郷だ。
■
吸血鬼一族の騒動から、四ヶ月が過ぎた。
流れる風には夏の暑さが感じられ、けれど幻想郷は変わらない。
今日も今日とて人と妖怪が共に生き、過ごしている。
「紫、おはよう」
「あら妹紅、それに慧音に阿爾……おはよう」
人里に降り立った紫の前に、妹紅達が現れた。
互いに朝の挨拶を交わし、ゆっくりとした足取りで里の中を歩いていく。
「もう里には慣れたかしら?」
「まあね。それに慧音は阿爾の所で歴史を学ぶようになったし」
「あら、そうなの?」
「は、はい……実は私、もっと知識を得て成長したら……ここで寺子屋を開きたいと思っているんです」
この里では、子供達に勉強を教えるような大人は存在しない。
それを知った慧音は
だから今は稗田家を頻繁に訪問し、阿爾の元で幅広い知識を学んでいた。
「そういえば、昨日里に美鈴からの手紙が届いたわよ?」
言いながら、妹紅は懐から一枚の和紙を取り出した。
そこに書かれていたのは――現在旅に出ている美鈴の現状を報告する内容のものであった。
今から二月ほど前、美鈴は自分を鍛えなおす為に旅に出ると紫に告げた。
彼女なりに吸血鬼騒動で発覚した己の未熟さを思い知ったのかもしれない、だから紫達は快く彼女を送り出した。
手紙を見る限り変わらず元気にやっているようだ、それがわかり紫の口元には柔らかな笑みが浮かぶ。
「も、妹紅さーーーーん!!」
と、前方から慌てふためいた様子で1人の青年が駆け寄ってきた。
紫達の前で立ち止まり、余程慌てていたのか荒い息を繰り返す青年に全員が首を傾げる。
「どうしたの?」
「はぁ、はぁ……そ、それが……人狼族が現れたんです!!」
青年の言葉を聞いて、場に緊張が走る。
「……数は?」
「や、八雲様……!? こ、これは見苦しい所を御見せしまして……!」
「気にしないでくださいまし。それより現れたという人狼族はどれほどの数なのですか?」
「そ、それが……た、たったの1人でして」
「…………成る程」
青年の報告を聞いた瞬間、紫は緊張の糸を解いた。
「なら心配は無用ですわ。放っておきなさい」
「えっ!? で、ですがどうも殺気立っている様子でして……」
「大丈夫。あの男の目的は幻想郷ではありませんから」
紫がそう言った瞬間、遠くから甲高い爆音が響き渡ってきた。
それと同時に発生する妖力のぶつかり合い、それがそのまま突風となって紫達の髪を靡かせていく。
「この妖力……もしかして」
「妹紅も気がついた? ――性懲りもなく戦いを挑みに来たようね」
「? 紫さんに妹紅さんは、現れた人狼族の事をご存知なのですか?」
妙に落ち着いた様子の紫に怪訝な表情を向けながら、阿爾は問う。
彼女の疑問は尤もだ、人狼族はこの幻想郷には存在しない妖怪の一族。
この里を襲いに来た可能性があると考えるのが自然であり、故に落ち着き払った紫の様子には訝しげるのは当然と言えた。
だがもちろん紫がこうまで落ち着いているのには訳がある。
とはいえ説明するよりも実際に見て貰った方が早いだろう、そう思った紫は阿爾達と共に爆音が聞こえた場所へと赴いた。
そこは里の入口付近、既に里の住人達が遠巻きに何かを見つめている。
それを掻き分けながら紫達は中心部が見える場所へと向かい。
――そこで戦っている、2人の青年の姿を視界に捉えた。
青年の1人は龍人、そしてもう1人は……槍を持つ人狼族の青年。
かつて紫達と戦い敗れ去り、龍人の情けともとれる行動によって命を長らえている人狼族の若き戦士。
今泉士狼が、絶殺の意志を込めながら龍人と戦っていた。
「と、止めなくていいんですか!?」
「大丈夫よ慧音、ここは龍人に任せておきなさい」
というよりも、士狼の目的は龍人の命だけだ。
この幻想郷を攻め入るつもりも、里の住人達の命を狙うつもりも彼にはない。
かつて仕えていた主であった大神刹那の敵を討つ為に、彼は龍人と戦っている。
対する龍人も、逃げる事も説得する事もせず、真っ向から彼を迎え撃っていた。
士狼が忠義を誓っていた主をこの手で殺した、その咎を理解しているからこそ龍人は彼の戦いを受け入れている。
とはいえ龍人とて黙って命を奪われるつもりはなく、こうして手加減などせずに士狼の攻撃を捌き切っていた。
「――――覚悟!!」
「っ」
空気が変わる。
士狼から発せられる殺気が、まるで刺すような鋭利なものへと変化した。
それと同時に彼は大きく右足で踏み込み、呪狼の槍の切っ先を撃ち放つ。
狙うは龍人の心臓ただ一点、一撃で相手を葬る気概で放たれたそれはまさしく必殺の領域だ。
更にその一撃は今までのどの一撃よりも速く、充分に警戒していた龍人ですら反応が一歩遅れてしまうほど。
次の一手は先程のようには捌けない、かといって回避も間に合わない。
だから――龍人は“龍の鱗”でその一撃を受け止める。
「――――――」
槍を突き出した態勢のまま、士狼の動きが止まる。
彼の放った必殺の一撃は、確かに狙い通り龍人の心臓へと向かっていった。
だが、士狼の槍は龍人の命を奪う事はできず。
――
「阿呆」
「しま――っ、ぐっ!?」
自身の一撃が真っ向から受け止められてしまった事で動きを止めてしまった士狼は、そのまま龍人の反撃をまともに受けてしまう。
士狼の腹部に叩き込まれた龍人の拳は、その破壊力を示すようにそのまま彼の身体を大きく吹き飛ばし。
里の外まで飛ばし、大木に叩きつけてしまった。
「が、ぐ……!?」
如何に強靭な肉体を持つ妖怪とて効いたのか、咳き込むだけで士狼は起き上がってくる気配はない。
「――今回は俺の勝ちだ。出直せ」
「くっ……!」
後ろに大きく跳躍する士狼。
そして彼はそのまま後退を続け、幻想郷から逃げるように去っていった。
彼の勝利に周りの住人達は歓声を上げ始める。
その歓声に軽く手を振って応えつつ、龍人は紫達の元へと駆け寄った。
「やっぱり見逃したのね、龍人」
「あそこであいつまで倒したら、他の人狼族が黙っていないだろ?」
「あら、貴方も少しは考えているのね」
割と本気の口調でそう言ったら、ジト目を返されてしまった。
……彼も中途半端に甘いものである、まあそれが彼の良い所であるのだが。
「よかったのですか? あのまま取り逃がしたりして……」
「ああ。――俺は大神刹那、つまりあいつらの親玉の命を奪った。だからあいつは俺を憎んでいるし殺してやりたいと思ってる、その気持ちは……理解できるんだ。
でも俺だって死にたくないし死ぬわけにはいかない、だからああやってあいつが俺に勝負を挑んでくる以上は自分の全力で相手をして、けど殺したりはしないと決めているんだ」
あの青年は、人狼族を纏め上げる“器”を持っている。
彼が刹那の代わりに人狼族を束ねる事ができたのなら、きっといつか……遠い未来ではあるかもしれないけれど、共に歩める日がやってくるかもしれない。
そんな願いを抱いているから龍人は彼を殺さず、また紫も彼の意志を尊重して手出しをしないのだ。
「それより紫、妹紅、慧音、阿爾、これから時間あるか?」
「ええ、あるけど」
「私と慧音も大丈夫だよ」
「急ぎの用事はありませんが……何かあったのですか?」
「いや、これから子供達と遊ぶ約束をしてるから、付き合ってほしいんだよ」
軽い口調でそんな事を言ってくる龍人に、紫達はポカンとしてしまう。
今の今まで命のやり取りをしていたというのに、彼はもう“幻想郷で生きる龍人”に戻っていた。
切り替えが早いというより早すぎる、彼の態度には呆れすら抱いてしまう。
――けれど。
同時に、そんな彼がたまらなく“らしい”と思うのも事実であった。
「……ええ、いいわよ。私でよければ」
「勿論私も構わないわよ、慧音も大丈夫よね?」
「はい、もちろん!!」
「あのー……私、あまり運動は得意じゃないんですけど……」
小さく進言する阿爾。
だが、今の紫達にそんな言葉は通らない。
にやーっと意地の悪い笑みを浮かべる紫達を見て、阿爾は嫌な予感が全身に駆け巡ったがもう遅い。
「ちょうどいいわ阿爾、貴女いつも屋敷に閉じ篭りっ放しだからたまには運動しなさい」
「ちょ、紫さん!?」
逃がさないように阿爾の腕を掴む紫。
当然抗議の声を上げる阿爾だが、その声に耳を傾ける者はいなかった。
幻想郷は、今日も平穏な日々に守られている。
それがいつまで続くのか、この先にどんな未来が待っているのか。
それは誰にもわからず、それでも手探りで前に進んでいく。
――たとえどんな結末が待っていようとも。
それを、受け入れなければならない。
無意識の内に、そんな覚悟を抱きながら。
紫達は、夏が訪れた幻想郷で生きていく――
To.Be.Continued...
第五章はこれにて終了です。
最後まで読んでくださった方々、どうもありがとうございました。
次回からは幻想郷を中心に物語を進めていくつもりです。
また読んで下さると嬉しく思います。