すると、彼女は不可思議な空間へと迷い込む………。
「………………えっ?」
目の前に広がる空間を見て、紫は目を見開いたまま固まってしまった。
漆黒の空間、地面すら見えず自分が浮いているのか立っているのかもわからない。
その空間の周りには数え切れぬほどの扉が浮かび、同じく数え切れぬほどの巨大な瞳が周囲に浮かびながら、紫を見つめている。
一体此処はどこなのか、何故自分はこのような場所に居るのか。
呆然とする紫に、何処か聞き慣れた声が語りかける。
「こんにちは、それともこんばんは? それとも……おはようございますかしら?」
「えっ……」
そこで紫は漸く気づく、自分の目の前に誰かが立っている事に。
だがそれに気づいた瞬間、彼女の思考は再び凍り付いてしまった。
しかしそれも無理からぬ事だ、何故なら紫の目の前に立っているのは……。
「わ、私…………!?」
そう、紫の目の前に立っているのは……自分自身だったのだから。
背丈も、服装も、髪も、何もかもが自分と同じ。
違う点と言えば、紫が金の瞳に対し……目の前の女性の瞳は血よりも赤黒く恐ろしい目をしている事ぐらいか。
「挨拶も返せないだなんて、お姉さん悲しいですわー」
肩を竦め、小馬鹿にするような口調でそんな事を言う女性。
「あ、あなたは……?」
挑発ともとれるその態度に苛立ちすら抱く余裕のない紫は、上記の問いかけをするので精一杯だった。
そんな彼女の態度が愉快なのか、女性はくすくすと笑ってから言葉を返す。
「ここは“境界の地”、貴女“達”がいずれ辿り着く場所であり同時に始まりの場所……でも、今回は今までで一番早かったわね」
「…………?」
「この間の暴走で入口の扉は開いていたのだけど、少なく見積もってもあと七百年程はここに到達する事はできないと思っていたのに……」
「な、何を……」
「理解しなくてもいいわよ、理解できないでしょうしいずれ判る事だから。
さて……それで、貴女の望みは一体何なのかしら?」
「えっ?」
「ここに来れたという事は、貴女は自分の力である【境界を操る力】を際限無く使用できるようになった。この力はあらゆる存在に干渉し支配できる力、貴女はこれを使って一体どんな望みを叶えるのかしら?」
「…………」
正直、紫は今のこの状況を理解できていない。
だが不思議と……ここは安心できた。
理由はわからない、けれど警戒する必要はないと自分自身が訴えている。
そして同時に、女性の問いには答えなければならないという強迫観念じみたものが彼女の中で生まれ、だから――紫はしっかりと女性を見据えて、自らの思いを口にする。
「――自分の力を際限無く使えるようになったというのなら、友人である萃香を助けるわ」
「…………」
紫の問いに、女性からの反応は無い。
だが、その瞳には僅かな驚愕と……ほんの少しの呆れが見え隠れしていた。
しかし紫は動じない、心の何処かでこのような反応が返ってくるであろうと思っていたからだ。
それから数十秒、互いに何も話さず沈黙が続き……先に口を開いたのは、女性の方であった。
「それだけの力がありながら、他者を救うために使うというの?」
「ええ、そうよ。少なくとも今の私の望みは……」
「誰かの為に、などという行為は愚行でしかない。それを理解しているのに何故それを望むのかしら?」
「否定はしないわ。だけど……損得勘定だけを考えて動くのは、虚しい生き方だと思っただけよ」
「“彼”に影響されたのかしら?」
「…………」
何故それを、という疑問は浮かばなかった。
目の前の女性が何者なのかはわからない、だが紫は自然と女性が自分の事を知り尽くしていると当たり前のように理解できた。
だから女性が彼の事を知っているのに疑問を抱く事はしなかったし、自分の心中を悟られる事にも抵抗感を抱く事はなかった。
「……彼の考え方はいずれ自身を滅ぼす、それがわかっていながら彼と同じ道を歩むというのかしら?」
「…………」
「貴女は知っている。誰かの為に動くなど愚かでしかないと、物事と現実は簡単なものではないと。
今までの人生でもうそれは理解できているでしょう? だというのにどうして自ら無意味な道を選択するのかしら?」
淡々と、真実だけを口にする女性。
……それを否定する事は、紫にはできない。
何故ならそれは全て正しい言葉だからだ、龍人達と出会う前に……紫は嫌というほどに現実を見てきたのだから。
「彼は妖怪だけでなく、人間や妖精……あらゆる生物に手を差し伸べようとするわ。でもその先に待っているのは感謝ではなく、彼に対する恐れと拒絶だけ。
今はまだ幼い彼だけど、これから成長すれば
「…………そうね。それは正しいわ」
「そうなれば彼は悲しみの海に溺れ、自らの存在意義を失い自身を呪っていく。そんな未来しか存在しないのよ、彼が自らの考え方を変えない限り」
「……そうかもしれないわ」
紫は否定しない、否定できない。
彼を受け入れない者達が、他ならぬ彼の心を傷つけ破滅させていく。
そんな未来がいずれ訪れる事など、今の紫にだって容易に想像できた。
だから、本来ならば自分は龍人の今の考え方――誰かの為に自分自身を懸けてまで救うという行為を止めなくてはならないだろう。
それはわかっている、だが…………
「――――それでも、私は彼に自分自身を貫いてほしいと思っているわ」
自らの願いだけは、裏切りたくなかった。
「…………」
「それにね、龍人は1人じゃないもの。たとえどんな事があっても私が彼の傍に居る。
彼がどんなに困難な道に歩もうとも、私は最後まで彼の傍に居て彼を支えてみせるわ」
それが、紫の今の一番の願い。
今は亡き龍哉から頼まれたからではない、彼女自身が自分で決めた願いだ。
非情で悲しい現実を見てきたからこそ、彼のような考え方を持つ者を無くしたくはない。
きっと彼はその現実すら変えてくれると思えたから、紫は彼の生き方を止めたくはなかった。
「…………いずれ、後悔するかもしれないわよ?」
「未来の事はわからないわ。ただ今は……」
「――能力開放は諸刃の剣、使用すれば自分自身を蝕むから気をつけなさい」
「えっ……?」
「一度暴走した貴女なら今の言葉の意味を理解できる筈よ、能力を開放させれば自分より上位の存在の境界にすら干渉できるけど……その代償は大きいわ。――それだけは忘れないように。わかったわね?」
視界が、歪んでいく。
「――さて、今回の貴女は一体どれだけその悲しい願いを貫けるかしら?」
「待って……!」
手を伸ばす。
その言葉の意味は何なのか、問い質したくて紫は手を伸ばした。
だがその手は女性に届く事はなく、紫はそのまま意識を手放して――
「――――紫!!」
「――――」
龍人の声が聞こえ、彼女は現実へと帰還した。
「…………龍人」
「紫、お前……目が」
「目?」
「目が……赤黒くなって……」
「…………大丈夫よ、龍人」
安心させるように言ってから、紫は視線を萃香へと向ける。
そして能力を発動させ――紫は自らの変化に気がついた。
(…………見える)
先程まで見えなかった萃香の境界が、呆気なく簡単に見えるようになっていた。
それだけではない、自らの内から感じられる妖力の量も今までとは比べものにならないほど増大している。
(この力が……)
能力開放の恩恵は、紫の想像以上の代物だったようだ。
……しかし、その恩恵にいつまでも甘えている余裕は存在していない。
「っ、…………」
自分の中で、何かが軋みを上げている。
能力開放による代償、それは己自身の“全て”だ。
秒単位で八雲紫という存在そのものが壊れていくような感覚は、気味が悪いなどという表現では追いつかない程の絶大な不快感を彼女に与え続けている。
時間は掛けられない、紫はその不快感と戦いながら萃香の境界へと意識を集中させた。
萃香の身体に赤黒い靄のようなものが纏わりついている。
それこそが萃香の精神を蝕み彼女を傀儡としている術の境界、能力解放により紫には完全にそれが見えていた。
「ぁ、ぅ……」
だが――見えた瞬間、紫の身体を蝕む代償が本格的に牙を向け始める。
能力開放は諸刃の剣だと女性は言った、これ以上開放を続ければ……紫自身が消えてなくなる。
(ま、だ……!)
少しでも気を抜けば跡形も無く消えてしまう。
そんな不快感と恐怖に襲われながらも、紫は左手を萃香に向けて翳し出した。
(萃香、今……その呪縛から開放してあげるわ!!)
大丈夫、自分は決して消えたりしない。
萃香を助けると誓ったのだし、何よりも……右手には、彼の温もりがある。
――ならば、どんなものにだって負けたりしない!!!
「っ、ガ……ッ!?」
「えっ……!?」
紫が翳していた左手を閉じた瞬間、萃香の口からくぐもった声が放たれた。
そして萃香の動きが止まり……彼女の身体が、元の大きさまで戻っていった。
「なに……っ!?」
傍観していた豪鬼の声から、驚愕の声が放たれる。
「紫、やったのか……!?」
「え、ええ…………ぐっ」
凄まじい頭痛が紫を襲い、たまらず彼女はその場で膝を付いてしまった。
だが成功した、萃香を蝕んでいたモノの境界は消し去る事ができたから、もう彼女は大丈夫だ。
「女ぁ……一体、何をした!!!」
「っ……!?」
怒りに満ち溢れた形相で、紫達に迫る豪鬼。
「はぁぁっ!!!」
「ぬうぅ……!?」
だが、豪鬼の前に勇儀が立ちふさがり、彼女の拳が彼の身体を吹き飛ばした。
「勇儀……」
「……紫、萃香は……もう大丈夫なのかい?」
「ええ、彼女を蝕んでいたモノは消滅できたわ……」
「………………すまないねえ」
感謝と同時に、勇儀は己の弱さに怒りすら覚えた。
……自分は諦めてしまった、友人である萃香を助けるという道を捨ててしまった。
だというのに、自分より遥かに子供でありまだ己の能力すらまともに扱えぬ紫が、その道を決して諦めようとしなかった。
紫だけではない、龍人も決して諦めず……そして、願いは現実のものとなった。
それに比べて自分はなんて情けないのだろう、鬼という種族でありながら友1人救えないというのか?
「勇儀ぃぃぃぃぃぃぃ……!」
「…………」
いや、それは決して違う。
もう諦めるなどという選択肢は選ばない。
紫達は萃香を助ける道を諦めなかった、ならば自分にできる事は……そんな2人を命を懸けて守る事。
「豪鬼、お前さんはもう終わりだよ!!」
「萃香を止めたぐらいで、勝った気でいるなよ勇儀!! オレに勝てると思っているのか!?」
「勝たなくちゃいけないんだよ……もうこれ以上、お前さんの好きにはさせない!!!」
■
大地が、悲鳴を上げていく。
豪鬼と勇儀の凄まじい拳の応酬により、地響きと衝撃が山全体を軋ませていた。
……周囲の誰もが、その中に入る事ができない。
それほどまでに両者の戦いは凄まじく、けれど――誰もが勝敗を理解せざるおえなかった。
「――負けるな。勇儀は」
「えっ……!?」
紫と妖忌と萃香を連れ、絶鬼達の元まで避難してきた龍人は、絶鬼の言葉を聞き驚愕した。
「確かに今の所は互角だが、元々豪鬼と勇儀の力の差は歴然じゃ。このままでは勇儀は勝てん」
「そ、そんな……! で、でしたらすぐに援護を!!」
龍人と同じく絶鬼の言葉を聞いた文が、すぐさま援護しようとするが。
「よせ文、お前程度の攻撃など豪鬼には効かん」
そんな彼女を、沙耶が厳しい口調で止めてしまう。
「ですが天魔様……!」
「お前の気持ちも判る。しかし力無き者が介入した所で無意味でしかないのだ」
「……っ」
それは事実だ、文とて沙耶の言っている事は理解できた。
理解できたが……今の文にとってその言葉は、酷く不快に思えてしまう。
「――文、豪鬼の足止めできるか?」
「えっ?」
龍人がそう言った瞬間、彼を中心に凄まじい突風が吹き荒れ始める。
この現象を文は知っている、地下牢で絶鬼達を出そうとした際の現象とまったく同じ。
「龍人、まさか貴方また……!」
いまだに続く頭痛に顔をしかめながらも、紫は龍人が放とうとしている技に気づき、声を荒げた。
「あいつに生半可な攻撃は効かないんだろ? だったら……こいつしかねえ」
「よしなさい。一度だけでも相当な負担なのに、二度も放ったら貴方の身体がどうなるか……」
そこまで言いかけて、紫は言葉を切った。
……違う、彼は制止の言葉など望んではいない。
それに自分は龍人に自分自身を貫いていってほしいと願ったではないか。
ならば自分のすべき事は彼を止めることではない、そう判断した紫は絶鬼達にある願いを告げた。
「――星熊絶鬼、天魔、どうか龍人に力を貸してあげて」
「なんだと……?」
「力の殆どが使えないといっても、このまま何もしないなんて大妖怪として恥ずかしいでしょう?
今の自分にできる事を……望む事をやり遂げる、少なくとも龍人と文はそれがわかっているから行動に移ろうと思ったのよ?」
「…………」
「龍人、決して無理はしないで?」
「大丈夫だ、俺を信じろ!!!」
「ええ、勿論」
いつだって、信じている。
だから紫はもう龍人を止めたりしない、彼の望みを叶えさせたいから。
「…………文、わたしの合図に合わせて己の力を解放しろ」
「天魔様……」
「このような小娘にここまで言われて、何もしないわけにはいかん。それに……わたしだって、お前と同じ気持ちなのだからな」
「……はい!!!」
「――龍人、ワシの力でお前を豪鬼に向かって投げ飛ばす。その勢いのまま豪鬼にお前の一撃を叩き込んでやるんじゃ」
「絶鬼のじいちゃん、頼む!!」
「任せろ。――頼むぞ、龍人」
龍人に向けて、両手を翳す絶鬼。
すると、ふわりと龍人の身体が浮かび上がった。
「――この一撃は龍の鉤爪、あらゆるものに喰らいつき、噛み砕く!!!」
力ある言葉が放たれる、だが……。
「っ、ぐ……!」
思うように【龍気】が収束しない、そればかりか激痛が龍人の身体を襲い掛かった。
既に彼は一度
「く、そ……!」
これでは放てない、しかし悠長にしていれば勇儀が……。
「任せてください、龍人さん!!」
「文……!」
「私と天魔様で、足止めをしてみせます!!」
「――今だ、文!!!」
「はい!!!」
勇儀と豪鬼の距離が一度離れた瞬間を、沙耶は決して見逃さなかった。
刹那、沙耶と文は同時に己の全妖力を解放、それは荒れ狂う竜巻へと変わり――豪鬼を包み込んだ。
「うお……っ!?」
「限界まで高圧縮させた竜巻だ……豪鬼、いくらお前とて逃げられんぞ!!」
「馬鹿が……こんなもの、足止め程度にしかならねえんだよ!! 天狗の長も地に堕ちたな!!」
「ふん。否定はしないさ、だが今回は……あの小僧に任せるしかあるまい」
「何…………っ!?」
そこで豪鬼は、漸く気づく。
自分を見据える龍人の強い眼差しと、彼の右腕に集まる凄まじい力に。
勇儀との戦いで周囲に意識を向けられなかったが故に、豪鬼は龍人の一手に気づけなかった。
そして、彼に集まる力は自分を打倒できると理解できたが――その理解はあまりに遅すぎる。
「――じいちゃん、今だあああああっ!!!」
「ぬおおおおおおおおおっ!!!」
裂帛の気合を込めて、絶鬼は龍人を豪鬼に向けて文字通り
その速度はまさしく光の如し、そして………。
「くらえ!! ――
神速の速度すら力に変えて、龍人は必殺の一手を豪鬼へと叩きつける――!
「が、ご、ぁぁぁぁ……っ!!?」
その一撃をまともに受け、豪鬼は血反吐を撒き散らしながら吹き飛んでいく。
更に豪鬼の身体から破裂音が響き、
「……が、ぎ、ざま……!」
「なっ――」
だが、それでも彼は生きていた。
身体を二つに分けられても、彼が龍人に向ける目は――絶殺の意志が込められている。
「ごぶ……っ、な、何故……オレが、こんな、小僧に……」
「…………」
「お、オレ、は……鬼、だぞ………! なのに、こんな、ガキにぃぃぃ……!!」
「ぁ…………」
おもわず、龍人は全身を震わせてしまう。
豪鬼のそのあまりに恐ろしい瞳に、彼は生まれて初めて恐怖に身体を支配されてしまった。
もう相手は動かない、命の灯火は今にも尽きそうになっている。
でも、それがわかっても龍人は恐怖心を抱かずにはいられなかった。
「――見るな、龍人」
「ぁ……絶鬼の、じいちゃん……」
そっと、絶鬼が龍人の前に出て豪鬼の視線を遮る。
それにより、漸く龍人は身体の震えを止めさせる事ができた。
「豪鬼よ、お前は誰も信じずたった1人で戦った。だから、力を合わせたこの子らに勝てなかったのだ」
「ふざ、けるなぁぁ……! そんな事で、このオレが、負けた、などど……」
「鬼という種族は確かに妖怪全体から見れば優れた力を持っているだろう、じゃがそれだけでは駄目なのだ。ワシも昔はお前と同じ考えを持っていた、自分1人でも全てを支配できると信じて疑わなかった。しかしな……それはとても虚しく何も残らぬ道なのだ」
お前にも、それをわかってほしかった。
そう豪鬼に告げる絶鬼の声は、ひどく弱々しく……悲しいものだった。
「オレは、鬼だ……人間も、妖怪も、等しく支配する力を、持っ……た……」
「…………」
それ以上、豪鬼の口から言葉が放たれる事はなかった。
……その意味を理解し、絶鬼はぽつりと呟きを零す。
「――力だけでは無駄な争いを生むだけじゃ。それだけを信じて歩んできたからこそ……今の人間と妖怪の関係を生み出してしまった。
豪鬼、過ちを繰り返してはならんのだ……何故、それがわからぬ」
物言わぬ息子に、絶鬼は独白する。
しかし、その言葉が豪鬼に届く事は……もう、二度とない。
To.Be.Contiued...
楽しんでいただけたでしょうか?
第三章ももうすぐ終わりになります、最後までお付き合いしてくださると嬉しいです。