しかし他ならぬ輝夜の器の大きさを思い知り、彼女は復讐を諦めたのだった……。
「――よっ、ほっ、ほいっ」
輝夜が住まう広大な屋敷の中庭。
その中で龍人は蹴鞠で遊び、その光景を1人の少女が感心したように見つめていた。
少女の名は
器用に鞠を上空に向かって蹴り続ける龍人を、両手で鞠を持ちつつ見続けている妹紅。
……既に彼女の中で、輝夜の命を奪おうという目的は綺麗さっぱり無くなっていた。
「上手……」
「へへーん、そうだろー?」
得意げな顔を見せつつも、鞠を地面に落とさないまま蹴り続ける龍人。
それを見て、妹紅はますます瞳を輝かせるのであった。
そんな子供2人を微笑ましく見つめながら、紫と輝夜は縁側で将棋を嗜んでいた。
「龍人が居てくれて助かったわー。わたし、子供の相手とかできないし」
「一度命を狙われた相手を再び招くなんて、随分と図太いのね」
既に妹紅からは輝夜に対する憎しみの感情は感じられない。
前回のやりとりによって誤解は解けたようだが……それでも、紫は輝夜が妹紅を再び屋敷に招き入れる行動はあまり理解できなかった。
「図太くなければ今の時代、楽しんで生きる事なんてできないわよ」
上記のやりとりをしつつも、繰り出される一手一手は真剣そのもの。
互いに一歩も譲らず、しかし……紫は自分の不利を悟っていた。
「紫ってば、わかりやすいわよねー」
「どういう意味かしら?」
「というより潔いっていうか、諦めるのが早いのよ。
自分が不利になった瞬間に一手に精彩を欠いているわよ、だから巻き返せない」
「…………」
痛い所を突かれ、紫は押し黙る。
また自分の悪い面が出てしまったようだ。
どうしても不利になると、紫は無意識の内に諦めてしまう。
それは今までの生き方が影響しており、彼女自身このままではいけないとわかっているのだが……ちょっとした所で出てしまうようだ。
「もっと諦めが悪くなってもいいと思うけどねー、せっかく生きているんだから」
「そんなの、泥臭いだけですわ」
「泥臭くなれってわけじゃないわよ、わたしもそういうのはあんまり好きじゃないから。
でも紫の場合はちょっと達観しすぎよ、まだまだ若いんだから」
「年寄りみたいな事言うのね」
「おっとっと」
苦笑しながら、パチンと駒を打つ輝夜。
瞬間、紫の表情が苦々しいものに変わり、対して輝夜はしてやったりと言わんばかりの笑みを口元に見せた。
「王手」
「……待った」
「できるわけないでしょうが。はいまたわたしの勝ちー!」
「むぅ……」
また負けてしまった、紫の表情が悔しげなものに変わる。
と。
「あ」
「あ……」
「えっ――ぶっ」
龍人と妹紅の間の抜けた声を耳に入れ、何事かと紫は顔を上げた。
瞬間、彼女の顔に勢いよく鞠が直撃する。
不意打ちに近いものだったため、紫はそのまま後頭部を地面に強打しながら倒れ込む。
ズキズキと痛み出した後頭部を擦りながら、彼女はすぐに起き上がり――龍人と妹紅を睨み付けた。
瞬時に紫から視線を逸らす2人、輝夜はというと一連の光景を見て必死に笑いを堪えている。
否、堪えきれず大声で笑い出してしまい、紫の顔が羞恥と怒りによって真っ赤に染まった。
「龍人ーーーーーーーっ!!!」
「わ、わりい!!」
「貴方は、何度やったら気が済むの!!」
龍人に向かって飛び込むように迫る紫。
慌ててその場から逃げ出す龍人、何故か……妹紅の手を掴みながら。
「えっ、なんで私まで!?」
「妹紅、俺と一緒に逃げてくれ!!」
「私関係ないのに!?」
「待ちなさい!!」
鬼の形相で追いかけてくる紫を見て、妹紅は全速力で逃げる事に決めた。
今の彼女に何を言っても無駄だ、捕まれば自分も折檻されると悟り逃げる道を選んだ妹紅。
中庭で追いかけっこを始め出した3人を見て、輝夜はますます声を上げて笑うのであった。
「――いってー」
「なんで私まで……」
「だ、だから謝ってあげてるじゃない……」
数分後。
縁側には、頭を押さえている龍人と妹紅の姿があった。
……さすがに拳に妖力を込めての拳骨はやり過ぎたか、紫は内心反省しつつも表の態度はやや不遜だ。
尤もその拳骨は人間の妹紅には繰り出していない、そんな事をすれば頭蓋を粉砕してしまう。
「あー面白かった! いい逃げっぷりだったわよ、妹紅」
「…………」
微妙な表情を輝夜に向ける妹紅。
輝夜の方は既に妹紅に対し地を見せているが、対する妹紅はまだぎこちない。
当たり前だ、既に妹紅は輝夜を殺そうという意志は見られないものの、それでも彼女に心を開く理由がない。
それは輝夜もわかっている、その上で彼女は妹紅にありのままの自分を曝け出していた。
「ところでさ」
「?」
「あいつ……まだ情けなく引き摺ってるの?」
「えっ……」
一体何の事を言っているのか理解できず、キョトンとする妹紅。
そんな彼女に、輝夜は。
「――あんたの父親、まだ部屋に引き篭もって情けない醜態を晒してるのかって訊いたのよ」
情け容赦なく、妹紅が一番聞きたくはないであろう問いかけを、投げ掛けた。
「なっ――!?」
「事実じゃない。わたしに拒絶されただけで、妹紅みたいな家族すら見捨てて独りになってる憐れな男」
「輝夜……!」
キッと輝夜を睨む妹紅。
だが輝夜は決して自らの発言を撤回しない、そしてそれは……全て事実だ。
だから妹紅も輝夜を睨むだけで、それ以上の事はしなかった。
認めたくはない、認めたくはないが……父が自分や兄達から離れ、5日以上も部屋から出ないのは事実である。
……それは、家族である自分達を見捨てていると言っても過言ではない。
「元はと言えば、輝夜が……!」
「じゃあ、あんたは好きでもなんでもない男に求婚されて、喜んで夫婦になれっていうのかしら?」
「っ、だけどそれは……貴族という立場があるのならば、仕方がない時だってある!」
「へえー……じゃああんたは父親にまったく会った事がない男と夫婦になれって言われても、喜んでその指示に従うのかしら?」
「あ、当たり前よ!!」
「…………」
嘘ばっかり、言葉には放たず輝夜は視線でそう訴える。
虚勢を張っているのは目に見えて明らかだ、だが子供故の虚勢なので不快感はない。
とはいえ、見ていて見苦しいのもまた確かであり、輝夜は更に追い討ちを掛ける事にした。
「わたしがあの男と夫婦になって、あんたは嬉しい?」
「…………」
「わたしがあんたの義理の母になって、幸せなの?」
「…………」
妹紅は答えない。
否、答えられる筈がなかった。
だって彼女にとっての母は、自分を産んですぐに亡くなってしまった、面影すら残っていない実の母親だけなのだから。
だから――白状すると妹紅は、輝夜と父が夫婦にならなくて良かったと、そう思っている。
しかし彼女は父を傷つけた、それは許せない。
――では、どうすれば良かったというのだ?
内なる自分が、問いかけてくる。
輝夜がどのような行動に出れば、自分は満足したのだろう?
夫婦になる事は望んでおらず、けれど父を拒絶してほしくもなかった。
……あまりに身勝手で、傲慢な願いだ。
そう、だったら――初めから父が輝夜に求婚しなければ、このような事にはならなかったのではないか?
父は輝夜を愛したわけではない、ただ彼女のこの世のものとは思えぬ美貌を手に入れようとしただけ。
それだけで父は、母を愛した心が残っていながらも、輝夜を夫婦にしようとしたのだ。
(…………ああ、私は)
自分は子供過ぎたと、漸く彼女は自覚する。
身勝手なのは輝夜ではなく、自分や父ではないか。
それを理解せず、自分も父も輝夜に対し向ける事すら間違いな憎しみを抱き、自らに至っては彼女の命すら奪おうとした。
馬鹿げている、ここまで自分は愚かだったのかと妹紅は自分自身の情けなさに泣きたくなった。
輝夜は初めから気づいていた、自分達の傲慢な感情に。
その上で、輝夜は弱く子供な自分自身を受け入れてくれた、赦してくれたのだ。
……最初から、自分達と輝夜の間には決定的な差があった。
圧倒的なまでの器の差だ、それを改めて妹紅は自覚して……気がつくと、己が情けなさに涙を流していた。
「えっ!? 妹紅、どうした!? 腹が痛いのか!?」
「……違うの龍人、そうじゃないの」
「じゃあ……どうしたんだよ? もしかして、輝夜の言い方が恐かったのか?」
「うぅん……輝夜は何も悪くないの、悪いのは……私なの」
必死に嗚咽を抑えながら説明しようとするが、上手く言葉が出てこない。
そんな妹紅の様子に龍人は慌て、紫と輝夜は黙って彼女の言葉を待っていた。
そして暫し経ち、涙も収まった妹紅は、しっかりと輝夜の瞳を見つめながら。
「――ごめんなさい、輝夜」
澄んだ声で謝罪の言葉を述べながら、輝夜に向かって深々と頭を下げた。
「えっ、えっ……?」
「龍人、少し黙っていなさい」
未だに状況がわかっていない龍人にそう言いながら、紫は彼を連れて輝夜達から少し離れた。
「……今の謝罪は、どういう意味なのかしら?」
「――私は子供過ぎた、それなのに輝夜はそんな私を赦してくれた。
謝って済む事ではないと私だってわかってる、でも……謝りたかった」
謝罪の言葉だけで赦されると、妹紅だって思っていない。
これは言うなれば自己満足、それでも妹紅は輝夜に対して謝罪したかったのだ。
それを、どう捉えたのか。
「ふーん……なんだ、あんた結構大人じゃない。少なくともわたしが思っていたよりずっと大人よ」
意外そうに、けれど嬉しそうに輝夜は言った。
その言葉に顔を上げる妹紅を、輝夜は優しく包み込むように抱きしめる。
「うんうん。その言葉だけでわたしは満足よ、だって……
「えっ……?」
「今のは独り言よ、気にしないで。――ありがとね妹紅」
「…………」
どうして自分はお礼の言葉を述べられたのか。
その理由が理解できずキョトンとしてしまう妹紅であったが、次第にどうでもよくなった。
抱きしめられている感触があまりにも心地良くて、まるで母のような抱擁のように思えて、考える事すら億劫になったからだ。
それを知ってか知らずか、輝夜は妹紅をより優しく抱きしめる。
……それに堪えるように、妹紅も輝夜の身体を抱きしめ返した。
「……なあ、紫」
「何?」
「なんで妹紅は輝夜に謝ったんだ?」
「……龍人はまだ子供だから、わからないわよ」
「ふーん……?」
やっぱりよくわからないと、龍人は首を傾げた。
ただ……輝夜も妹紅も嬉しそうに見えたので、良い事があったと自己解釈する事にしたのだった。
■
「……?」
時刻は流れ、夜となった。
久しぶりに安らいだ気分になりながら、妹紅は自らの屋敷に戻り……首を傾げる。
いつもと変わらぬ屋敷の中、だというのに妹紅は何処か違和感を覚えた。
(……静か過ぎる……)
夜になったとはいえ、時間的にはまだ真夜中というわけではない。
いつもならば使用人達がまだ仕事をしており、また自分が帰れば誰かしら出迎えてくれる筈。
だというのに誰も来ない、それに対して不満があるわけではないが……違和感を覚えるのもまた確かだ。
ギシ、ギシ……床を踏み歩く音だけが、妹紅の耳に入ってくる。
灯台を持ちながら廊下を歩くが、誰かとすれ違う事はおろか人の気配すら感じられない。
まるで自分と屋敷だけが世界から切り離されたような、そんな錯覚にすら陥りそうになる。
だんだんと不安を募らせながらも、妹紅は屋敷内をゆっくりとした足取りで歩いていく。
だが途中の部屋を除き見ても、誰も居ない。
全員が揃って出かけているのかとも思ったが、それこそ在り得ない話だと彼女はすぐさま否定する。
(どうして誰にも会わないの……? それに、この臭いは……)
先程から、妹紅の鼻腔を刺激する臭いがある。
それはあまり嗅ぎ慣れた事のない、けれど何故か不快感を湧き上がらせる臭いだった。
できる事ならば嗅ぎたくはない、でも同時に身近にある臭いのようにも彼女は感じられた。
顔をしかめる妹紅、廊下を進むにつれその臭いが強くなっていくのだから当然だ。
(……父様は、まだ部屋だろうか……?)
不快感と戦いつつ、妹紅はとりあえず父である不比等の元へと向かおうと歩を進めた。
……その間も彼女は誰とも会わず、静寂な屋敷を歩く事になる。
背筋に冷たいものを感じながら、彼女は漸く不比等が篭っている部屋の前まで辿り着いた。
そして彼女は父の名を呼ぼうとして……ある音を耳に入れる。
(何……この音……)
何か固いものを磨り潰すような、引き千切るような、そんな音が父の部屋から聞こえてきて、妹紅は訝しげな表情を浮かべた。
それと同時に彼女は気づく、先程から臭っているあの臭いが……音と同じく、父の部屋から漂ってきている事に。
「…………」
警鐘が、妹紅の内側から鳴り響く。
行ってはならない、これ以上は進んではならないと他ならぬ自分自身に告げられる。
……しかし、今の妹紅に部屋へと入る以外の選択肢は選べなかった。
警鐘を無視してはならないと思っても、この部屋には妹紅の父が居るのだ。
だから彼女は決してこの場を離れる事はできず、ゆっくりと入口の襖を開いて。
――自分の浅はかさを後悔しながら、地獄へと足を踏み入れた。
「――――」
思考が、焼き切れる。
入口を開き中へと入る前に、噎せ返るような臭いが妹紅へと襲い掛かった。
その臭いは先程から嗅いでいたその臭いであり、部屋の前で聞こえた音も奥から聞こえてきている。
奥では蠢く影が見え、だが妹紅はそんな事よりも。
――自分の真下に転がっている、肉片に思考を奪われていた。
「………………ぇ」
掠れた声が、辛うじて妹紅の口から漏れる。
しかし彼女の思考は正常に働く事ができず、視線は変わらず肉片へと注がれていた。
彼女は気づく、先程から漂っていたこの臭いの正体を。
それは―――
べったりと床に散っている赤色の液体から、血の臭いが漂っていた。
床だけではない、天井や壁もまるで塗りたくられたかのように、赤一色に染まっている。
そしてこの肉片、周りの血を見て妹紅は当たり前のようにソレが何なのか理解した。
……この肉片は人間のもの、人間であったものの成れの果てだ。
(……どう、して………)
目の前の現実が理解できない。
どうして、何故と自問自答しても、当然ながら答えは返ってこなかった。
あまりにも非現実な光景に、妹紅はただその場で立ち尽くす事しかできず。
――更に、彼女の心へと追い討ちを掛けるかのような光景が、現れる。
「…………誰、だ?」
「ぁ…………あ」
奥から聞こえた男の声、その声は蠢く影から発せられた。
……その声の主は、間違いなくこの地獄を作り上げた元凶に他ならない。
逃げなければ、瞬時にそう思った妹紅であったが、父の安否が気になりその場から動けないでいた。
やがて、影がゆっくりと妹紅へと近づき、灯台から発せられている明かりによってその全貌が見えたのだが。
「―――――」
ソレを見て。
妹紅は今度こそ、何も考えられなくなった。
目の前に現れたモノ――それは、妹紅の父である藤原不比等。
だが、ソレは不比等の姿をしたナニカだと妹紅は瞬時に理解する。
だってそうだろう? そうでなければ何故。
――何故、妹紅の兄であり自身の息子であった首を、愉しげに食べているというのか。
「ぁ…………」
「妹紅、か……見て、しまったなぁぁぁぁ……?」
ニヤーッと、不比等の口元に歪んだ笑みが浮かぶ。
その笑みはもはや人間ができる笑みではない。
歪みに歪み、冒涜的なまでの不気味さを持ったその笑みは、見るだけで心が凍りつく。
このような異常な世界を見せられても尚、妹紅は気を失わずに不比等らしきモノを見つめていた。
それは彼女にとって不幸とも呼べる状況であり、しかしここで気を失えば二度と目覚めないとわかっているから、彼女は必死に意識を繋ぎ止めている。
だが、それもまた無駄な行為なのかもしれない。
「もう少し、育ってからの方が良かったんだがなあ……我慢できなくなっちまった」
「……とう、さま……何、を……?」
「まあいいかぁ……一番喰いたかったのが、自分からやってきてくれたからなぁぁぁぁぁ……」
ペッと、ソレは喰らっていた妹紅の兄だった男の肉片を吐き出す。
そして、再びあの笑みを浮かべながら、ゆっくりと妹紅の元へと近づいていった。
「旨そうだぁぁぁぁぁ……」
「あ、ぁ……あ」
喰われる。
父の姿をした、父ではないモノに喰われてしまう。
眼前に迫る死への恐怖が、妹紅から逃走という選択肢を与え、彼女はまるで飛び出すようにその場から駆け出した。
死にたくない、ただその一心で妹紅は全速力で逃げ出して。
「追いかけっこ……キキキ、いいぞぉ……もっと恐怖に包まれながら、逃げ惑えぇぇぇ……」
ソレはただただ愉しそうに呟いて。
ゆっくりと、けれど確実に妹紅より早い速度で、彼女を追いかけ始めた――
To.Be.Continued...