――喪失感だけが、彼の脳を侵蝕する。
「は、ぁ……」
無くなってしまった右腕の付け根から、生きる為に大切なものが少しずつ零れ落ちていく。
痛みを痛みとして許容する事ができず、精神は熱に浸され削れていった。
「は、ぎ……ぁ……」
じくじくと、自分自身が溶けていくかのようだ。
どうしてこんな事になっているのか、何故自分がこんな目に遭っているのか。
いや、そもそも――自分は一体誰なのか、それすらも曖昧になっていく。
「う、ぁ、が……」
恐い。
自分が判らなくなっていくのが恐い。
このまま全てが判らなくなって、消えていくのが恐い。
薄れていく。
今まで自分が持っていた記憶が、確実に消えていく。
もう何が消えて何が残っているのか判らなくなって、いずれ今感じている恐れすら忘れていくのだろうか。
「ぎ、ぁ、あ……あ……」
消えたくない、消えたくない、消えたくない。
必死に願って必死に縋って、それでも己の欠如は治まらない。
……そんな中、名前が消えた。
自分の名前が記憶から消え去って、彼は急速に意識を薄めていく。
「ぁ…………」
抵抗など意味を成さない、そもそも何故この茹だるような熱と恐れに抵抗する意味があるのか。
楽になってしまえばいい、このまま目を閉じて漆黒の中に沈んでいけばすぐに終わる。
一刻も早くこの地獄の苦しみから逃れたくて、彼は自分が誰なのかも忘れたまま消えようとして。
『龍人』
金糸の髪を持つ美しい女性の悲しげな顔が、脳裏に浮かび。
彼は、自分の名前を思い出して――現実へと帰還した。
「っ、うあ……っ!!」
跳ねるように飛び起きる。
「あ、はぁ――はぁ――」
荒い息が自然と口から吐き出される。
全身からは汗が溢れるように流れ、その不快感に顔をしかめながら龍人は周囲に視線を送った。
暗く、じめじめとした空間は何処かの洞窟の中だと理解する。
自分が寝ていた場所にはゴザのようなものが敷かれており、冷たくごつごつとした地面に寝かせないようにという気配りが感じられた。
続いて龍人は自分の身体を確認して――おもわず思考を停止させてしまう。
――右腕が、ない。
本来あるべき場所に在る腕はなく、右肩の付け根部分にはそこを覆うように幾重にも重ねられた包帯が巻かれている。
右肩だけではない、身体の至る所に包帯が巻かれていた。
まるで重傷人だと思いながら、龍人は自分の身に何が起きたのかを思い出し、この状態が決して大袈裟なものではないと認識した。
「っ、ぐ、ぅ……」
自分の状態を認識すると同時に、今まで忘れていた痛みが全身から襲い掛かってきた。
痛みには慣れている龍人ではあるが、それでも顔をしかめおもわず呻き声を上げてしまう。
それに傷口から熱を発している為、思考も上手く定まらず朦朧としてしまった。
頑丈な半妖の身体でもこれだ、今の自分の身体はよっぽど酷いものなのだろう。
「――目が醒めたのね。具合はどうかしら?」
「え――――」
顔を上げる。
洞窟の突き当たりに位置する龍人とは逆方向、つまり入口方面から誰かが歩いてくる。
まともに身体を動かせないながらも、龍人は警戒心を抱きながら身構えていると。
「動かない方がいいわ。傷が深いのだから」
水の入った桶を持った女性が、龍人の警戒を解こうと優しい言葉を放ちながら現れた。
自分は敵ではないと態度と言葉で訴える女性を見て、龍人は自然と身体の力を緩めていく。
何故かはわからない、けれど龍人は目の前に現れた女性が自身の敵ではないとあっさり認めていた。
「素直な子ね。警戒され続けていたらどうしようかと思ったわ」
龍人の前に座り込み、女性は近くにあった布を桶に浸し、よく絞ってから龍人の身体を拭き始めた。
ひんやりとした冷たさが熱を和らげ、汗が拭われる感覚は龍人の表情を安らいだものへと変える。
このままこの安らぎに身を委ねたかったが、確かめなければならない事があったので龍人は女性へと問うた。
「ここは、何処だ? 俺は……」
「ここは魔界の外れにある、誰にも認識されない最果ての地。
あなたは半死半生の状態で洞窟の外に倒れていたのよ、右腕は……始めから無かったわ」
「……ああ、それはいい。それより助けてくれて本当にありがとう、えっと……」
「名前、かしら? 名乗りたいけど、もう名は捨てたの」
「名を、捨てた……?」
「ええ。……大切な我が子を、孫を守れなかった時から私は自分の名を捨てた」
だから今の自分に名などないと、無名の女性は自嘲するように言った。
それがあまりにも哀しそうで、けれど何て言葉を掛けていいのかわからなかったから、龍人はそのまま俯いてしまった。
「……優しい子。何の打算もなく他者に優しくできる事なんてそうそうできる事じゃない、きっと色々な人から祝福されて育ってきたのでしょうね」
「ああ、俺みたいな半妖を好いてくれるヤツがいっぱい居てくれる。凄く幸せな事なんだろうな」
「半妖? そう、あなたは妖怪と人間の間に生まれた混血児なのね」
「そうだ。でもあんた……あなたは、人間……なのか?」
女性から放たれている匂いや霊力は、人間のものだ。
だが解せない、何故魔界に人間の女性がたった1人で存在しているのか。
余裕ができたから周囲の気配を探っても、自分とこの女性以外の生物は感じられない。
女性はここを誰にも認識されない最果ての地と言った、それが真実ならば何故このような場所に居るのだろう。
……それに、女性からは微かではあるものの
「人間よ私は。でも確かにただの人間ではないのは確かね」
「…………龍人族」
「っ、驚いた……よくわかったわね?」
「俺も龍人族なんだ。紫……俺の大切な仲間が教えてくれたんだけど、俺を生んでくれた母親が龍人族だったらしい」
まさか、このような場所で同族に出会うとは思わなかったと龍人は内心驚いた。
とはいえ女性から感じられる龍人族としての力は本当に僅かなものだ、“龍気”を扱える程ではない。
今では龍人族の血は殆ど薄れてしまったと紫から聞いている、自分は隔世遺伝というよくわからないがそういった理由で龍人族としての血を濃く受け継いで生まれてきたそうだ。
「………………まさか」
「……?」
どうしたのだろう、女性が何か驚いた様子で龍人を見つめてきた。
「俺、何か変な事言ったか?」
「…………ううん。なんでもないよ、気にしないで今はゆっくりおやすみ」
「…………」
嘘だと、龍人は女性の態度ですぐにわかった。
でもそれを問い質す権利なんて自分にはないし、何より女性が「これ以上訊かないでほしい」と目で訴えてきている。
ならば何も訊く事などできるわけがない、でも。
なんとなくではあるが、女性が自分を別の誰かと重ねて見ているような気がした……。
「……は、ぁ」
けれど頭に浮かんだ疑問も、女性に促され横になるとすぐにどうでもよくなった。
まだ身体は消耗したままのようだ、それになくなってしまった右腕の事もある。
「…………紫」
彼女は無事だろうか、怪我はしていないだろうか。
生きてくれているだろうか、自分が死んだと思い込んで……己を責めていないだろうか。
もしそうだとしたら――彼女の心を傷つけた自分を、龍人は許せない。
「会いたい……」
だけど、会いたい。
たとえ自分のせいで彼女が傷ついていたとしても、会いたいと願っている。
そしてもし叶うのならば、また一緒に居たい。
「ぁ、う……」
ぐらりと、視界が揺れた。
どうやら身体は余計な事を考えずに休めと言っているらしい。
悔しいが、今は休み動けるようにならなければ。
目を閉じる。
瞬時に睡魔が訪れ、龍人は意識を夢の世界へと誘いながら。
必ず戻ると、紫に誓いながら眠りに就いた……。
■
――お前に……龍人を託す。
それは、ある者の最期の願いだった。
自分ではもう果たす事ができない願いを、愛する子を守ってくれという願いを“彼”は紫へと託し――逝った。
もう六百年以上昔の話、けれどその時の事は今も鮮明に思い出せる。
そしてその時から、紫は常に龍人の傍に居る事を誓い、彼を守り支えようと決めた。
――あなたに、彼は守れない。
けれどその誓いを思い出す度に、“彼女”の言葉が脳裏を過ぎる。
どんなに願おうとも、お前に龍人は守れないと言い続けてきた、気に食わない相手の言葉が頭から離れない。
何故か、などという疑問など浮かぶ筈がなかった。
彼女の言葉は正しいと、他ならぬ紫自身が認めているからだ。
――あなたは、いずれ後悔する。
ええ、それは正しい。
だけど――それを正しいと思うだけで終わらせるわけにはいかない。
どんなに困難な道だろうとも、いずれ後悔だけがこの身に残るとしても。
彼が今歩んでいる道を歩み続けるのならば、自分はそれにどこまでもついていくと決めているのだから。
だから、こんな所で立ち止まってはいられない。
だって、彼が歩もうとしている道は自分にとっても――
「…………」
客人用の、柔らかで暖かなベッドから起き上がる。
まずは自らの状態を確認しようと、紫は目を閉じ内側へと意識を向ける。
妖力はいつもと同じ総量に回復、能力開放による反動も完全に収まっていた。
丸一日眠っていたのが幸いしたのだろう、紫はベッドから降りいつもの服へと着替え始める。
充分に休息は取れた、ならばすぐに出発して未だ何処に居るのかわからない龍人を捜しに行かなければ。
一度神綺達にも声を掛けておこうと、紫は部屋から出ようとして……外から騒がしい声が聞こえてきた。
扉を開け、外の様子を覗き見る。
無駄に長く広い廊下がどこまでも続いており、遠くから神綺と小さな少女が楽しげに会話をしながらこちらに向かってくる姿が確認できた。
「紫ちゃん、おはよう」
扉を開け外に出ると、紫に気づいた神綺が声を掛けてきた。
神綺に挨拶を返しつつ、紫は隣に立つ少女へと視線を向ける。
両手で抱えるように本を持つ金髪金眼の少女。
将来は誰もが羨む美しい女性へと成長するだろう、そう思わせる気品と美しさを少女の身でありながら醸し出していた。
「おはよう神綺。……その子は?」
「この子はアリスちゃん、私の娘よ!!」
そう言って、神綺は少女を勢いよく抱きしめる。
少し鬱陶しそうにしながら、アリスと呼ばれた少女は紫へと声を掛けた。
「あなたが、八雲紫?」
「ええ、よろしくねアリス」
「よろしく! それよりママ、いい加減離れてくれない?」
「ええっ!? アリスちゃん、ママの事嫌いなの!?」
「そうじゃないけど……恥ずかしいから」
頬を赤らめるアリス、その姿は傍から見ている紫ですら保護欲を掻き立てられる程に愛らしい。
当然、彼女を抱きしめている神綺はそれ以上の影響を受けているのは言うまでもなく。
「アリスちゃん……可愛いっ!!」
「むぐっ」
離れろというアリスの意見を無視し、余計に強く抱きしめるのであった。
可愛いと連呼しながら頬擦りを繰り返す神崎と、それを少し迷惑そうにしながらも強く抵抗しないアリス。
少々神綺側の愛情が一方的過ぎるようにも見えるが、それでも互いに確かな愛情を向けているのがわかる。
……龍人に会いたい気持ちが、より一層強くなった。
「神綺、永琳と零は?」
「永琳ちゃんが零ちゃんを連れて都市部に行ったわよ、なんでも今の内に目的の薬の材料を色々と買い込むみたい」
零ちゃんは無理矢理連れて行かれたけどね、そう言って神崎はくすくすと笑う。
成る程、容易に想像できる光景だと紫も僅かに口元に笑みを作った。
「一輪達はまだ戻ってきてないわね?」
「戻ってきてないよー。ところで紫ちゃん、お腹空いてない? 夢子ちゃんの美味しい朝食を一緒に――」
「悪いけど、私も出掛けるわ。やらなければいけない事があるから」
「……龍人ちゃんを捜すの? でも何処に居るのかわからないのよ?」
「それでも捜すわ。きっとあなたや永琳は非効率だと思うけれど……会いたいの、今すぐに」
あのような夢を見たからなのか、彼を今すぐにでも捜し出し会いたいという想いが際限なく強くなっている。
そして彼の事を想えば想うほどに、この身体から溢れ出しそうな程に力が湧き上がってくるのだ。
今の自分にできないことは何もないと、本気で錯覚させられるほどに。
「…………もし永琳ちゃん達が先に帰ってきたら、伝えておくわね?」
「ありがとう神綺。よろしく頼むわね」
「え、せっかくお話したかったのに……」
「ごめんなさいねアリス、帰ってきたら色々と話を聞かせてね?」
「いいわよ。その代わり紫も地上の事を教えてね?」
ええ勿論、そう言うやいなや紫はスキマを用いてすぐさま魔界都市を後にする。
目の前に広がる広大な魔界の大地、この中からたった1人を捜し出すなどほぼ不可能に近い。
それは紫にもわかっている、それでも彼女の心は待つという選択肢は選ばなかった。
「――藍、来なさい」
「はい、紫様」
幻想郷にて待機させておいた藍をこちらへと呼び戻す。
すぐさま姿を現した藍に、紫は魔界で起きた事を説明すると――案の定、藍は絶句し取り乱し始める。
「そ、それで龍人様は!?」
「生きているわ、それは間違いない。ただ何処に居るのかは魔界神の“千里眼”でも見えないから……」
「承知致しました。ではすぐにこの魔界全てをしらみつぶしに」
「いいえ。単独行動は危険よ藍、私と一緒に来てくれるかしら?」
「畏まりました。では紫様、早速行きましょう!!」
「あっ……」
焦りと不安を隠そうともせず、吶喊していく藍。
その若さ溢れる未熟さに苦笑しながらも、紫は良い式を持ったと改めてそう思いつつ、彼女の後を追う。
――だが、2人は気づかなかった。
彼女達が都市から離れた後。
複数の影が、まるで少しずつ侵蝕するように都市へと侵入していった事に……。
To.Be.Continued...