古典部シリーズ第2弾「愚者のエンドロール」のその後を描いた後日談。ただし、氷菓の二次小説ではありますが、古典部メンバーがほぼ出ません。
◇
――なあ、
――なんだい、ホータロー?
――お前は以前、俺をタロットに例えた時に「力」と言ったな。
――そうだったかい?
――都合の悪いことだけとぼけるな。……それは当て付けだろ?
――なんだい、ばれてたのか。そうだよ。最近のホータローは女性にいいように扱われている。なんとなくそう思ったからね。
――これまでは姉貴、この頃は
――……珍しいね。てっきり文句のひとつも言われると思ってたのに。
――だったら、文句は飲み込んでやるから代わりに質問に答えてくれ。……当て付けで言ったなら俺は本来「力」じゃない、ともいえるはずだ。なら、「力」以外のタロットで例えるなら、俺は何だ? 「星」とかっても言ったか?
――「星」って言ったのは千反田さんだね。悪くないとは思うけど、ちょっと違うとも思う。うん、そうだな……。きっとホータローは……。
◇
「
校舎から校門までの道すがら。女性の声でふと呼ばれた自分の名に俺は足を止める。同時に俯き加減のままぼんやりと頭にめぐらせていた考えをやめて、その声の主が誰かを探ることへと切り替えた。今の声はよく聞く、同じ古典部で部長の千反田えるのそれではない。無論、呼び方から言って同じく古典部の
しかし確実に女性の声だ、声真似をした里志なんて線はない。だったら誰か。初めて聞く声、ではなかった。記憶に残っている声だ。最近で古典部以外に関係のあった女性のような……。
そう思ったときにまず頭に浮かんだ名は入須
結局答えは出ず、諦めて俺は振り返って解答を求めた。そこで「ああ」と驚きと疑いと納得の交じり合ったような声を反射的に上げる。立っていたのは、低めの背に感情の起伏に乏しそうな表情、そして肩の少し上で切り揃えられた髪の少女。文化祭直前、2年F組と古典部の連絡係を取り持っていた「案内役」の、確か名は……。
「
「はい。江波……江波
これにはさすがの俺も苦笑を浮かべる。先輩のはずなのに元々腰が低く、俺たち後輩にもこの口調だということは以前会った時からわかっていたが、ここまでだったとは。いや、その前に「改めて確認」とは恐れ入る。仮にも俺の苗字を呼んで呼び止めているのに、今更それか。
ここで「いえ、人違いじゃないですか?」なんて返してみるのも面白そうだ。しかし里志ならそのぐらいのことはやるかもしれないが、生憎俺はそういう無駄をしない、省エネ主義だ。
「ええ。古典部の折木奉太郎に間違いないですよ」
「よかった、間違えて声をかけたくはなかったので。お待ちしてました」
「……待ってた?」
俺を? 何のために? 大した面識もないこの人が?
「はい。……少し、時間を頂いてもいいですか? 話したいことがあるんです」
この場に里志がいなくてつくづく良かったと思う。あいつがいたら「ホータローもなかなか隅に置けないね」とかなんとか散々冷やかしてきたことだろう。言うまでもなく、そういう色恋な話のわけがない。大体俺と江波は接点らしい接点などほとんどない。話したのだって2年F組に
「構いませんが、出来れば長話は遠慮したいです。あと、また面倒ごとに巻き込まれるのはごめんですよ」
失礼かもしれないが、俺は率直に腹のうちを述べた。さすがに包み隠さな過ぎたか、彼女の顔色に苦いものが浮かぶ。
「わかりました。では歩きながらでもいいですか? それほど長話にはならないつもりですので」
しかし江波は特に気を悪くした素振りもなく、そう返してきた。こいつは少々意外だった。大抵こんな言い方をしたら諦めるものだが、よほど話したいことらしい。なら、俺も聞かねばなるまい。
「ええ、わかりました」
江波が俺の隣を歩く。話をするために、歩調は普段より遅め。というより、俺が彼女に合わせていると言う方が正しいか。
校門を出る。話があるといっておきながらしばし無言だった彼女が、その辺りでようやく口を開いた。
「……お礼を、言いたかったんです」
「礼……?」
思い当たる節がないわけではない。先日行われた
しかし俺と江波の接点といったら唯一そこだけだ。話は間違いなく文化祭関連。礼を言いたい、と言われても俺としては気乗りはしない、というか、言われてもはっきり言って嬉しくはない。
「映画の件ででしたら結構です。確かに結果として俺は2年F組の作品の完成を手伝ったかもしれない。でも……あれは本来望んでいた結果……『本郷先輩が考えた結末』とは違った。それに実際に期限ギリギリの作品を形にしたのは先輩達F組の皆さんですし、それを取り仕切った入須先輩辺りがもっともな功労者でしょう」
言いつつ、どうにも嫌味が入ったことを否応なしに実感する。俺は礼を言われる立場ではない。言われて嬉しくもない。あれは「答え」ではあったかもしれないが「真実」ではなかった。俺は「真実」を追い求めたつもりが、気づけば女帝の掌で「答え」を出させられていたに過ぎなかった。
「……だとしても、古典部の皆さんの、特に折木さんの協力無しには作品の完成はありませんでした。それは事実だと、私は思っています」
だが江波も引かなかった。どうにも居心地が悪い。俺は無言を返す。
「では……感謝がいらないというのであれば、謝罪をさせてください」
その俺の沈黙を割いて飛び出た一言に思わず面食らった。感謝の次は謝罪と来た。何を謝るというのだ。
「……先輩が俺に何か謝る必要があるんですか?」
「はい。……打ち上げにあなたが来てくれなかったことが気になったので、入須に尋ねました。なかなか答えたがらなかったのですが……。結果的にあなたを傷つける形になってしまった、おそらくそのせいだ、と。それを聞いて……なんだか申し訳なく思ってしまったんです」
果たしてどの口が、江波に対して何と言ったのだろうか。さすがは「女帝」、江波に謝罪させたいと思わせたということは、それなりの話をしたということだろう。その時に俺に対しての良心の呵責などいかほどにあったのか知りたいものだ。いや、俺はそこに別に腹を立てる気はない。入須冬実という人物はそういう女性だと身を以て痛感している。
そのことに対して、確かに過去には怒りに近いものを覚えたこともないわけではなかった。が、今はそんな気持ちは微塵もない。あの冷徹ともいえる判断が出来るから彼女は「女帝」と呼ばれる孤高の存在であり、だからこそ他の者を寄せ付けないほどに美しい。それこそ俺などでは手が届かないほどに、だ。少なくとも俺はそう思っている。だから彼女の口から「心からの」謝罪の言葉が出るとは思っていない、いや、むしろ出ないでいてほしいとすら思える。
だがその代わりに江波が謝る、というのであれば筋違いもいいところだ。「案内役」として関わった責任を感じているのかもしれないが、そんなのを気にする必要はない。今回の一件は踊らされていることに気づかず踊った俺の責任であり、勘違いした俺だけの問題だからだ。
「それも先輩が気にすることじゃありません。俺が勝手に先走って勘違いし、勝手に自爆した。だから打ち上げには行かなかっただけですから」
「でも……。映画の完成に助力してくださったあなたに申し訳がない。私はそう思ったんです」
思わず、俺は大きくため息をこぼした。「映画の完成」。ああ、そうだろう。傍から見ればそうだ。だが違う。あれは「答え」であって「真実」じゃないんだ。
俺は「答え」を、すなわち状況から推測できる映画の結末だけを考えて推理した。入須に「才能がある」などと持ち上げられ、いい気になって自論を展開した上で「万人の死角」などという、今思えば自惚れも大概なタイトルをぶち上げて我ながらよく出来たなどと思っていた。
だが古典部の連中はそれを良しとしなかった。特に千反田は、「本郷が考えた結末とは絶対に違う」と強く言った。俺は「真実」に、「本郷が望んだ結末」に辿り着くことができなかった。だとするなら、どんなに受けがよかろうと、映画が「完成」しようと、肝心の結末が俺からすれば砂上の楼閣に過ぎなかった。
「……俺は本郷先輩の望んだ結末に辿り着けなかった。だから、俺の中ではあれを『完成』と呼んでいいものかと考えています。結局はいいように踊らされていることを見抜けず、最後まで踊り続けた……。そのことで入須先輩を責めようという気はありません。F組の皆さんに対してなんてもってのほかです。見抜けなかった俺が悪い。いや、本郷先輩の真意を見抜けなかった俺が、自業自得なわけだ。だから、謝る必要はありません」
「だけど、古典部の皆さんの協力無くしてはではどうしようもありませんでした。だって元々の結末じゃ……」
俺は思わず江波へ視線を移す。その視線に気づいたのだろう、ハッとしたように彼女は口を閉じた。珍しく、顔に焦りと後悔の色が見える。
やはりか、と思う。入須から抜擢された「案内役」であった以上、江波も元々の結末を知っていた。いや、厳密には俺が推理した本郷の結末は想像に過ぎないが、十中八九的を射ているだろう。ともかく、その上で俺たちに話を振ってきた、つまり、「本郷の考えた結末」ではなく、「より出来のいい結末」を求めて、あの「推理大会」を行ったのだとわかっていた。だから申し訳なく思ってる、というわけか。
「……黙っていてごめんなさい。私も……元々の結末は知ってました。そして……それがクラスの総意にそぐわない、ということも」
「俺は気にしてませんよ。実を言うと入須先輩の真の狙いに気づいた時、ひょっとしたら数人ぐらいはそのことを知ってたんじゃないかと薄々は勘付いてましたから。だからいいですよ」
「……繰り返しになるかもしれませんが、映画は大盛況でした。クラスの皆も大喜びでした。本郷もそこで嬉しそうでした……。本当なら、元々の結末がよかった、そう思う心もないわけではありません。だけど、それ以上にクラス皆で何かを完成させて喜びたかったという本郷の思いがかなった、その方が嬉しかったんです。
でも……その裏側で古典部の皆さんに、殊に折木さんにはとても迷惑をかけてしまった。だから……クラスの皆が納得する結末を導いてくれてありがとう、そして私達のわがままのせいで嫌な思いをさせてしまってごめんなさい。そう、伝えたかったんです」
俺は、黙ってそれを聞いていた。「案内役」の頃はこれほど口数の多い人間だとは思わなかった。そんな彼女が長々と話を終え、まず最初に俺の頭に出てきた感想は「なぜ」だった。
なぜ、江波がそこまで言う必要がある? 確かに彼女は本郷の親友かもしれない。それでも元々は企画に無関係の人間だったはずだ。それがここまで実直に、あけすけな言葉で語れるだろうか。
だとするなら考えられるのは、江波と本郷は本当に親しい、それこそ文字通りの親友だということだろう。普段、とはいえ実際に話したのは今日を除けば案内役で数度だけだが、見るからに無機質で感情を出そうとしない彼女にここまでの言葉を言わせているわけだ、よほど親密ということになる。
仮にそうだとするなら、「ミステリが楽しめないと思うぐらい読んだ」と言った千反田よ。お前が思ったとおり、本郷という人間はその予想通りに優しく、そして魅力ある人間ということになるらしい。そう、自分の脚本の中ですら人を殺すことができない、お前と同じく人が死ぬ話は好きじゃないような人間らしいものな。
だが、それならそこまでの親友がクラス企画に、それも中枢の脚本というポジションに関わるとなった時、なぜ江波はクラス企画に全く参加しようとしなかったのだろうか。たかが後輩の俺にここまで礼やら謝罪やらを言いに来るほどの人間が、なぜ無関係を決め込んだというのだろうか。
どうもそれは腑に落ちない。だから俺は、あえてこの考えを提唱したい。
本郷真由という人物は、本当に
頭がおかしくなったわけじゃない。だが俺は本郷という人間に会ったことはない。なら、本当に存在するかわかっていない。
では脚本を書いていたのは誰だ。それは本郷真由じゃないか、そう言われるだろう。
ならばペンネーム、というのはどうだろうか。例えば他の人間がペンネームとして本郷真由を名乗り、そして脚本を書いていた。
言っておいて自分で否定するのもあれだが、結論から述べればそれもノーだろう。F組の人間と会ったとき、彼らは淀みなく「本郷」という名を口にした。つまり、本郷真由は実在すると考えるのが妥当だ。
ここまで行き着いたところで、次にこういう考えはどうだろうか。
では、
それこそ頭がおかしくなったと言われるかもしれない。じゃあお前が今話しているのは誰だと言われる。亡霊か、それとも江波倉子を名乗る偽者か。
強いて言うなら、
証拠も確証もない。我ながら荒唐無稽、折木奉太郎もここまで壊れたかと思われるかもしれない。古典部の連中に話したところで、伊原は普段以上に軽蔑した眼差しを向けてくるだろうし、里志も愛想笑いを浮かべつつも本心では呆れ返ることだろう。千反田に至っては同情を通り越して憐憫したように俺を心配してくるかもしれない。そもそも目の前の本人にそのことを言ったら一笑に付されて終わりだろう。
だが、一瞬だけでも、俺はそう思ってしまった。今の「江波」の感謝と謝罪は、俺にそんな風に錯覚させるだけの、まるで「本郷」が語ってきているかのような力があった。親友とはいえ、元々はクラス企画に全く関わっていないと言った人間が、これほどまでに俺に気をかけてくるだろうか。
確か以前、千反田が本郷とはどういう人物かを江波に尋ねた時、彼女はこう言ったはずだ。「生真面目で、注意深く、責任感が強く馬鹿みたいに優しく、脆い、私の親友です」と。今、俺の目の前にいる彼女こそ、まさにその言葉どおりの存在ではないだろうか。わざわざ俺を待ち構え、今更ながら改めて感謝と謝罪を律儀に述べる。ぴったりと当てはまるのではないだろうか。
天を仰ぎ、俺は一度息を吐く。わかっている。こんなのは妄想だ。ありえるはずもないことだ。実にナンセンスだ。里志が巾着から2年F組の名簿なんてものを取り出して「ほら、江波倉子と本郷真由はちゃんと両者とも存在するじゃないか」とか言い出せばそれでおしまいという絵空事だ。だがそれでも、と俺は思ってしまう。そして目の前の「江波倉子」に口を開いた。
「……先輩」
「何か?」
「確認しておきたいんですが、先輩は本郷先輩の考えた結末をご存知なんですね?」
「……ええ」
「細部まで?」
「……一応は」
「じゃあ……」
俺は以前千反田に説明した、俺が考えた本郷のトリックを語り始める。とはいえ、入須から「当初の本郷の脚本では死者が出なかった」ということは聞き取り済み、これは個人的興味からの細部の確認、そして目の前の彼女の反応を見るためにすることだ。
説明を続けても、彼女の表情は全く変わらなかった。俺たちを案内していた時と同様、無表情を貼りつけ、俺の説明を聞いていた。
「……以上が俺が考えた本郷先輩の脚本の結末になります。これはどの程度当たっていますか?」
「完璧、と言ってしまっていいでしょう。……そう、結局は誰も死なない、そんな脚本だった。だけど、クラスの皆は当然劇中で殺人事件が起きると思い込んでいた。それで……」
そこまで話し、彼女は言葉を詰まらせる。それから一度息を吸い、そして吐いた。
「……そんな陳腐な結末よりは、折木さんが考えた『万人の死角』の方が素晴らしい内容だった。だから、好評を博したんだと思います」
「かもしれません。しかし、ずっと述べてる通り俺は最後の収録までに本郷先輩の結論に辿り着くことは出来なかった。だから俺からすればあんなのは手前味噌だ。……これだけは言わせてください。あなたは結果として俺が考えた内容が好評だったと言ってくれましたが……俺は本郷先輩が考えたラストも、嫌いじゃありません」
これまで無表情を貼り付けてきた彼女が目を見開いた。きょとんと俺を見つめてくる。俺は畳み掛けるように続ける。
「何より、うちの部の部長……千反田は、そのラストに共感してました。『自分も人の亡くなる話は嫌いだ』と。なぜクラスメイトを刺さねばならなかったのか、なぜ刺されたクラスメイトはそれをかばったのか。それを本郷先輩がどう描こうとしていたか気になった、そうも言っていました。……それでもミステリーとしては二流、三流以前に根本から破綻しているのかもしれない。見た人にはつまらないと言われるかもしれない。
だけど、それでもいいんじゃないですか。初めて映像を俺たちに見せた後で、入須先輩は『技術のない者がいくら情熱を注いでも結果は知れたもの』とばっさりと切り捨てた。でも、そこに注いだ、一夜漬けとはいえ脚本を完成させようとした本郷先輩の情熱は本物じゃないんですか? 文化祭なんてのは、エネルギーの塊みたいなものだ。あれをやりたい、これをやりたい、華の高校生活を謳歌したい、それがもっとも形となって現れる場でしょう」
まあ「灰色」な俺には全く関係のない、という注釈付きだが。
「だったら、言葉は悪いですが自己満足だっていいじゃないですか。皆で何かを目指し、そしてそれを成し得た。それでいいじゃないですか。今回F組の映画は大盛況だったとあなたは言った。皆大喜びだとも言った。でも本郷先輩はその時、心から笑っていられたと思いますか?
その彼女の心を思うと、俺はどこかやるせないんです。得意気に披露した自分の『推理ごっこ』がなければよかったんじゃないか。そんな風に思ってしまうんです。彼女が描いた『誰も死なないハッピーエンド』、それでよかったんじゃないか。
……俺は良いように担がれたかもしれません。踊らされていただけかもしれません。確かにそれに対して腹も立ちました。でも、自分が本当に書きたかった内容を、志半ばで筆を折らざるを得なかった本郷真由という人物……。その彼女のことまで考えられず、千反田にそのことを指摘されるまで彼女の存在をないがしろにしてしまっていた、そんな自分に対しても苛立っているんです」
ああ、話しすぎだ。らしくない。俺自身を納得させたいだけの言い訳がましい理由付けをしているだけ、そう言ってしまってもいい。だが、どうしてもこれだけは言いたい。
「だから、先輩が俺に対して何かを気に病む必要はありません。むしろ、俺は自分の間違いに、『特別ではない』と気づけたことで天狗にならず、変わらずにこれまでの生活を送れるらしいとわかりました。改めて自分の身の丈をよく知ることが出来た。それだけでもいい経験でした。……要するに俺が言いたいことを掻い摘むなら、全く気にしていないからそちらも気にしないでくれ、そして元々書かれようとしたラストも気になったのは事実だった、そういうことです」
俺は入須にうまいこと担がれた。もしあのまま自分が「特別」だと勘違いしたままだったら、いつかもっと痛い目を見ていたかもしれない。「やらなくてもいいことなら、やらない。やらなければいけないことなら手短に」がモットーなはずの俺が、その勘違いから余計なことに自ら首を突っ込むなど、そんな馬鹿げたことをするようになったかもしれない。
そんなのはゴメンだ。俺は「灰色」でいい。省エネ主義、節約人生。実にいい響きじゃないか。
「……折木さんは、優しいんですね」
間が空いた後、「江波」はそうポツリと呟いた。
「優しい? 俺が? ありえませんね」
「そんなことはありません。入須からは本来省エネ主義だと聞いてました。だから、もっと淡々としてると思っていたんですが……。そこまで気にかけていただいていたとは、思っていませんでした」
「よしてください。その通り俺は省エネ主義、俺が望むのは『灰色』の生活ですよ」
「『灰色』……?」
「世の高校生が夢見て望む、薔薇色と正反対、味気ない普通の生活ってことです」
クスリ、と彼女は笑った。苦笑でも冷笑でもない笑顔を想像出来なかった俺は、思わず虚を突かれる。
「私は、勿体無いと思いますけどね。あなたほどの人なら、いくらでも有意義な高校生活が送れると思います」
「謹んで遠慮させていただきますよ。今回のような面倒ごとに巻き込まれるのは金輪際勘弁願いたい。だからうまいこと言って俺をその気にでもさせようってのはやめてください。……これ以上女性にいいように扱われるのはゴメンだ」
「最後の……どういう意味です?」
……しまった、口を滑らせた。仕方ない、乗りかけた舟だ。
「先輩、タロットの知識は?」
「タロットですか? 少しならわかりますが」
「古典部で部員をタロットになぞらえたことがあったんです。その時俺を『力』に例えた奴がいまして。調べてみたら意味は『内面の強さ、闘志、絆を表す』。まったく当てはまらないと思って文献を読み進めていたら、『獰猛なライオンが優しい女性に御されている絵に象徴される』と書いてあったんです」
「……ああ」
彼女は今度は苦笑を浮かべた。わかったのだろう。実にうまい風刺だと。
「元々俺は姉貴にいいように扱われてた。近頃古典部に入ってからは部長の千反田に。そしてつい先日はそちらの入須先輩に。……次の対象があなたになってはかなわない。そういう意味ですよ」
「……私程度の人間が、あなたを手なずけられると思いますか?」
「さあ、どうでしょうね。でも、
「……私はこっちなので、ここまでで。時間を取らせてしまってすみませんでした」
「気にしないでください。俺も少しすっきりしましたから」
それは事実だった。出来るだけ気にしないようにしていたが、あの日以来、やはり胸のどこかに何かがつかえていた気もしていた。
と、渡ろうとした信号が点滅を始める。ここの横断歩道は少し長い。走る、などという非省エネなことはしない。大人しく俺は一度待つことにした。
そこで俺はあることをふと思いついた。帰ろうとする彼女を引き止めるようで少し気が引けたが、元々向こうからの話だ。もう少し話してもいいだろう。
「あ、そうだ、先輩」
俺の呼びかけに彼女が振り返る。
「タロットを少しは知ってる、と言いましたよね?」
「ええ」
「じゃあ、俺をタロットに例えるとするなら、何だと思います? 無論、『力』以外で」
僅かに眉を寄せ、考え込む仕草を見せる。彼女が渡るべき信号が青になった。だが、それを気に留める様子もない。
「……『
ああ、やはりそうか。そうきたか。
反射的に、口の端が上がり、息が漏れる。堪えようと思ったが叶わず、俺は声を殺して笑っていた。
「あの……」
「……すみません。まさか、古典部の友人と全く同じ事を言うとは思ってなかったものですから」
「確か意味は『忍耐、辛抱』……。折木さんにはぴったりと思ったのですが……」
なんてこった、理由まで同じだった。里志め、こういうところまでぴったりと当ててくると、もはや腹立たしさを通り越して関心まで覚えるぞ。
「そんなに俺は辛抱してるように見えますか?」
「ええ、周りに振り回され、辛抱しながら望まないことをやっている。今回の一件では、そう見えましたよ。……でも、そんな生活も、案外楽しんでるんじゃないですか?」
俺は失笑するしかなかった。楽しんでる? 平穏に過ごすはずが千反田にそれをめちゃくちゃにされて振り回される生活を?
だが、違う、と否定できないかもしれないと思った。思って、いややはり違うと改めて否定する。俺が望むのは「灰色」の高校生活だ。それでいいし、それがいい。
「……存外悪くないかもしれませんが、省エネで生活するのが、俺には一番ですよ」
嘘は言っていない。今の俺の本心だ。それを聞いた江波は僅かに表情を緩めた。
「そうですか。……ですが、『
返す言葉が出なかった。里志から「忍耐、辛抱」という意味だけは聞いていた。だが「自己犠牲が報われる」なんて意味まであったとは。
確かに俺は今回報われなかったのかもしれない。入須にいいように扱われ、貴重な夏休みを浪費し、挙句俺に残ったのは歯がゆい思いだけだった。
だが、今日の彼女との会話で俺は早くも少し報われたようにも感じていた。なるほど、「
「……では改めて、今日はありがとうございました。話せて楽しかったです。機会があったら、そちらの部長さんも交えて、また話したいですね。……それでは」
そう告げると、こちらの返事を待たずに彼女は信号が点滅し始めた横断歩道を速足で渡り始めた。俺はしばし呆然とその背を見つめる。
……話せて楽しかった? また話したい? 俺と? まったくもって変わり者だ。本当に「案内役」だった江波倉子かと疑いたくなる。かといって、俺がぶち上げた「江波=本郷説」を証明する物も何もない。結局、江波倉子という女性の謎は深まったままだ。
だが別にそれでいい。俺も今日は話せて楽しかった。それは事実だ。彼女が何者かなどどうでもいいことじゃないか。
省エネ主義に則って余計なことを考えるのはやめることにしようと決めた。そして俺は信号の変わった横断歩道を渡り、家へと向けて歩き出す。少々喋り過ぎて疲れた。帰ったら夕飯まで一眠りでもしよう。
ああ、実に「灰色」だ。それがいい。
自分がこの「愚者のエンドロール」の後日談を二次小説として書きたいと思ったのは、「もしもこうだったら」と主に以下の3つの点のことを思ったからです。
1.入須の1人勝ちと見せて最後は折木姉に見抜かれ、結局は誰も勝たないある意味バッドエンドな感じに、どこかやるせなかった。
2.里志は奉太郎を「力」と言ったが、それは当て付けだった。では本当はなんだったのか。
3.「江波=本郷」ではないのか。
千反田や本郷じゃありませんが、自分もどうせならハッピーエンドの方が好きです。だからそこに加えて、色々思っていたことを突っ込んでこの話を書いてみました。
タイトルの意味です。「吊るされた男」は本文中でも述べている通り、言うまでもなくタロットに例えられた奉太郎です。少なくとも自分は、奉太郎は「吊るされた男」だろうとずっと思っていました。苦労してるし辛抱してるし。……まあ原作中で千反田は「星」と言ってますが。
サブについている「Supposing she is not EBA?」は「彼女がEBA=江波でなかったとしたら?」という意味になります。原作やアニメのラストに書かれていた「Why didn't she ask EBA?」を意識してつけたものになります。もっとも、両者の意味合いが全く異なってますけど……。
以上、「愚者のエンドロール」の後日談という、古典部メンバー出ないけど氷菓の二次小説でした。ないとは思いますが、もしこの後日談のさらに後日談、あるいは別な話で氷菓を原作に書く機会があったら、今度は古典部メンバーも出したいと思います。