比企谷八幡は、生徒指導室内の革張りのソファに腰かけていた。
本来、生徒指導室は、校則を違反した生徒や、外部で問題を起こした生徒が連れてこられる場所であるが、俺は別に何もしていない。
文字通り高校では何もしていないのだ。何せ総武校内に入ったのは、説明会などを除けば今日が初めてなのだから。
では、なぜこんなところにいるのか。
入学式に行けなかった俺は、その日に張り出されているはずの、クラス名簿を見ていないため、自分のクラスもわからず、路頭に迷っていた。
どうすればいいのかわからず、とりあえず近くにいた先生に自分のクラスがわからない旨を伝えたところ、「ここで待っていてください」と生徒指導室に連れてこられたのだ。
しかし見る人が見たら完全に俺が何か悪さをしたのだと思うだろう。一年生の上履きを履いた生徒が入学1カ月で生徒指導室に連れられる。完全に不良だ。
あぁ。思った以上に俺の高校生活はハードモードになりそうだなぁ。
自分の目がいつもの3割増しで腐っている気がする。
どのくらい待っただろうか。
「失礼する」
そんな声とともに一人の女教諭が室内に入ってきた。
背中まで垂れる長い黒髪に白衣。化学かなんかの先生だろうか。
女教諭はドカッと俺の対面に座ると、ポケットからライターと煙草を取り出し、吸い始める。生徒の目の前で煙草はどうなんですか。
俺の非難の目に気づいたのか、女教諭は「おっとすまない。いつもの癖でな」とすぐさま煙草をもみ消した。
「まぁそうびくびくするな。怒るわけじゃない」
別にびくびくなんてしてないと思うんだけどな。でも生徒指導室なんて初めて来たから、少し不安にはなってたかもしれない。
女教諭は目を細め俺をじっと見る。しかしその目は俺を見ていて俺を見ていない。まるで過去の誰かと俺を重ねて、懐かしむような。そんな目だ。
女教諭は何か合点がいったように「うん」と少しうなずくと、話始めた。
「比企谷八幡くんだね」
「・・・はい」
「生活指導であり、君の担任もすることになっている。平塚静だ。よろしく」
女教諭、改め平塚先生はすっと手を差し出した。握手をしろ、ということだろうか。すごい男らしい。
俺は彼女の力強い握手に答えながら、質問をする。
「あの・・・俺まだ自分がどこのクラスかも知らないんですが」
「そうだったな。君のクラスは1年C組だ」
いやだからクラスが何組かだけじゃなくてC組がどこにあるかも教えて欲しいんですけど・・・。
「あぁ場所は心配するな。私が連れて行ってやる」
何だろう。やっぱり男らしい。
「・・・それは・・どうも」
「うん。あと、君には自己紹介をしてもらうから、そのつもりでいてくれ」
なん・・・だと。
自己紹介なんて黒歴史イベント、やりたいわけないだろ。
本当は俺の108の特技の一つである、ステルスヒッキーを駆使して、誰にも気づかれずにクラスに溶け込む、というかクラスの空気になろうと思っていたのだが、自己紹介なんてすることになったら否応なく皆が俺に気づいてしまう。やばい断ろう。
「あの・・嫌です」
「君が嫌というなら、私が君を紹介してやるが・・・」
何だよそれ。もう自己紹介じゃないだろ。
人に紹介なんてされたら、それこそ赤っ恥だ。
「・・・はぁ。わかりました・・・やります」
「うん。君は物わかりが良くて助かる」
物わかりっていうかそうなるように仕向けましたよね。先生。
キーンコーンカーンコーン。
チャイムがなった。
「もうこんな時間か。そろそろ教室に行こうか。ついてきたまえ」
「・・・うす」
立ち上がった平塚先生に続いて、俺も席を立つ。
つかつかと姿勢正しく前を歩く先生。めっちゃかっこいい。
「あっそうだ」
先生は、何かを思い出したのか、立ち止まった。
首だけこちらに向けて来る。
「放課後、少し私に時間をくれ。君に話したいことがあるのでな」
うわーこれ、上司に言われて困る言葉ランキング上位に入るやつだ。「明日の朝話があるから・・・」などと言われた日には「何言われるのかなぁ。クビなのかなぁ」なんて考えて眠れなくなって、結局次の朝、寝不足で会社に行くことになるんだ。最悪だ。
「大丈夫だ。何も心配するようなことはないさ」
まぁ。先生に来いと言われたら行かなきゃいけないのが生徒だ。反抗しても争いしか生まない。
「・・・・・わかりました」
「うん」
平塚先生は俺の返答に満足そうにうなずき、再び歩き出す。
俺の前を堂々と歩く平塚先生はやっぱり、かっこよかった。
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時刻は午後の4時を回っていた。放課後である。
自己紹介は「比企谷八幡です・・・まぁその・・よろしくお願いします」なんてことぐらいしか言えなかった。「えっなに転校生?」「この時期に転校とか絶対複雑だわ~」なんて俺に丸聞こえのひそひそ話が聞こえたが、平塚先生がすぐに、俺が入学式当日に事故に遭ったことを説明してくれた。なにこの先生。超やさしいんですけど。先生じゃなかったら間違いなく平塚静ルートに入ってたわ。
そのあとに転校生が来たとき特有の質問タイムなんてものがあるわけもなく、何もないまま放課後になってしまった。
まぁそうだよな。まだ入学して1カ月。生徒たちは皆、お互いの距離感を計り、これから1年うまくやっていこうと必死だ。そこに新しい男子なんかあらわれても、絡んでいる余裕なんてない。それよりは俺のことを話のタネに、より仲良くなろう、なんて思うのだろう。
まぁ俺は事故に遭ってなくてもどうせボッチだったと思うし、一人でいたほうが気を遣わずに済むし、別にいいや。いやほんとだよ。
そんなわけで放課後になり、俺は平塚先生に職員室に連れてこられた。
先生は、自身のデスクに腰かける。
まだ帰りのHRが終わっていないクラスが多いのか職員室内に人はまばらだ。
平塚先生は一度煙草を取り出し、すぐに俺が前にいることを思い出したのか再びポケットにしまった。煙草の代わりなのか、デスク横においてあった缶コーヒーを開け、一服する。
「あのー。話って何ですかね」
このままでは、先生がいつまでたっても話始めない気がしたので、俺から話を振る。
先生は「ああ」っと生返事をした後、グビグビと缶コーヒーを一気に飲み干し、俺に向き直った。
「比企谷。君は部活に入る気はあるかね」
「はい。俺は帰宅部希望です」
「ないのだな。ちょうどいい。君に入ってほしい部活があるんだ」
なんですと。先生に強制的に部活に入れられるとか、勘弁してほしい。それだけは断固阻止しなければいけない。
「あの・・入学が遅れた俺のためを思っての発言なら有難迷惑極まりないんですが・・・」
「ハハッ。失礼なことをいうやつだな。別に君に同情しているわけではないよ」
「・・じゃあどんな意図で?」
「・・・・・これは口止めされていることなんだが、まぁいいだろう」
先生は一呼吸置き、再び話始める。
「君の"姉"に頼まれていてな。弟を部活に入れるようにと」
姉貴か。朝のセリフはこういうことなのか?
あれ?姉貴が頼み事をして先生がそれに答えるってことは・・・。
「あの・・先生ってもしかして・・」
「そうだ。私は君の姉、小町の担任をしていた」
やっぱりか。
先生は俺に姉の面影を感じていたらしい。
「ということはその部活って姉貴が所属していたんですか?」
「所属していた・・・というか、その部活を設立した人の一人が君の姉なのだよ」
言葉が出なかった。姉貴は学校でのことを全く家に持ち込まない人だったため、姉貴が何部に所属しているかなどは、一切知らなかった。でも姉貴が部を設立していたとは・・・驚きだ。
正直に言おう。興味が湧いてしまった。
俺は姉貴が、何が好きなのかとか、何が得意なのかとか、そういうことはほとんど知らない。ゆえにどのような部活に入っていたのかも全く想像がつかない。運動部だろうか。文化部だろうか。
知りたいと、思ってしまった。
「あの・・」
「なんだね」
「部活見学、させてください」
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静かな廊下に二人分の足跡が響く。
一つはカツカツと一定のリズムを奏で、もう一つはタン、タンと遅いながらもこれまた一定のリズムを奏でている。
無論、平塚静と比企谷八幡の足音だ。
ここは総武高校の第二校舎。生徒たちは特別棟や部活棟と呼ぶ。その4階。
グラウンドからは運動部たちの軽快な掛け声が聞こえるが、こちら側は、グラウンドとは違う世界なのではないかというほどの静寂に包まれていた。
学校の果てって感じだな・・。
窓枠には薄くほこりがつもり、掃除が満足に行き届いていないのがわかる。
こういう場所を見ると、ついつい掃除をしてしまいたくなるのは、長いこと家事をやってきたからだろう。
蛍光灯が灯ってはいるものの、太陽の位置的に日光がほとんど差し込まない廊下はひどく物寂しい。こんなところにずっといたら心が荒んでしまいそうだ。
ふと、前を歩く平塚先生が止まった。
暗い廊下の雰囲気にあてられたのか気分も滅入り、下を向いていた俺は少し反応が遅れる。
危ない。危うく先生の男らしい背中にぶつかるところだった。
一歩後ろに下がり、再び元の距離に戻る。
「着いたぞ」
俺は辺りを見回した。
平塚先生の横には薄汚れた扉があるだけだ。
活動している気配がないどころか、1カ月近くその扉を開けていないのではないかと思うほど、閑散としている。
「ここですか」
「あぁそうだ」
そういいながら彼女はポケットから取り出したカギを使い、扉を開けた。
先生に続いて室内に入る。
室内には後方に机と椅子が数段積まれているだけで、他には何もない。本当に部室なのかと疑ってしまうくらいガランとしていた。
「あの先生・・・何もないんですが」
「あぁそうだな」
「ここ・・部室ですよね」
「まぁそうだな」
先生は返事をしていても心ここにあらずな感じだ。昔のことでも思い出しているのだろうか。
「あの先生・・もしかしてここの部員って・・・」
「部員なら君と入れ違いで卒業していったよ」
そうですか。要するに部員が0ってことだ。今年部員が入らなかったら廃部になるのだろうか。そもそもここって何部なんだ。
「あの・・ここって何部なんですか」
「正式な名前は特に決まっていないが、去年の部員は奉仕部と呼んでいたな」
何だよそれ。めちゃくちゃだな。そんなんが部活として認められるのか?
「まぁ去年もあまり依頼者は来なかったから、好きに活動していたよ。君も依頼が来ない場合はそれで構わない」
それって要するに学校内にプライベートスペースができるってことだよな。それってかなり俺得じゃね。昼飯もここで食べれるし、ボッチにはやさしい空間だな。
奉仕部という名前から察するに、困ってる人を助ける部活なのだろうけど、そんなに頻繁に依頼者が来ることもないだろうし、そもそも困っていてもただの一生徒に過ぎない俺に相談しにくるとも思えない。なんというぬるい部活。
「今この部活って部員は何人なんですか」
「今のところは0人だな。だから入部したら君が部長ということになる」
「・・・そうですか」
部長か・・・。今まで部長なんてやったことがないが、というか部活に入ったことがないが、部長とはなかなか大変な役職のイメージがある。特に運動部の部長とかだと、部内の誰よりも声を出さなければならないし、試合中なども指示を求められることもしばしば。部長に指示が求められることに関しては文化部もしかりだ。そんなのは御免こうむる。
しかしこと奉仕部に関していえばどうだろうか。まず部員が俺だけだから指示する必要はない。それにここは静かでいい。多少の汚れもあるが、掃除すればどうとでもなるし、廊下とは違い、部室内は太陽光が差し込み、とても気持ちがいい。窓を開ければさらによくなりそうだ。
これはなかなか優良物件なのではないだろうか。これから3年間ボッチ生活を続けるためにここを確保しておいてもよいだろう。
「それでどうするかね。比企谷。奉仕部に入るのか、入らないのか」
姉貴の思い通りになるのは少しばかり悔しいが、俺の答えは決まっていた。
「・・・・入ります」
俺の言葉が少し意外だったのか平塚先生は一瞬目を丸くする。
「君の姉には、君はもっとひねくれていると聞いていたのだがな」
姉貴め。自分の弟のことを人に話さないでほしい。
「まぁ。姉貴が作った部活ですし、それが廃部になるのも腑に落ちないので・・」
「そうか。では、君はこれから奉仕部員として頑張ってくれたまえ」
「うす」
そういうと先生は部室のカギを俺に渡して、部室を出ていった。
まさか俺が部活動に入ることになるとはな。自分で自分に驚いている。
部活なんて人生で初めて入った。これはいわゆる『高校デビュー』というやつだろうか。いや、部活に入っただけでボッチであることは変わってないから違うか。
これからこの学校で、多くの生徒が、それぞれの青春を過ごす。そして俺も他の誰のものでもない、俺だけの青春をこれからこの部活で過ごすのだろうか。
俺の青春の第一歩。奉仕部活動1日目。まずは・・・・
「掃除でもするかな」
そして俺はほうきを手に取り、学校への奉仕を始めた。