モンハン商人の日常   作:四十三

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ネオラントと筆頭ハンター~必要な必要のない犠牲の先~

***

 

 

 

 女筆頭ハンター『ネオラント=ラゴア』は思考する。

 

 

 

 自分という存在に。

 もしくはハンターという概念に。

 

 

 

 思えば自分の道はいつからこんな黒く塗りつぶされてしまったのだろう。 

 どこで狂ってしまったのだろう。

 

 そう思考した。

 

 覚めれば命を搾取し、気づけば手を鮮血で染め、後ろを振り向いた時にはもう引き返せないほどの死体を築き、その所業に対し何も感じなくなった。

 

 

 

 いや、それが普通。

 それが暗黙の理解であった。

 

 何も感じてはいけない。

 疑問を持ってはいけない。

 ただ命を刈り取る道具にならなければならない。

 

 

 

 それこそがハンターというもの。

 

 

 

 油断すれば己が死に、慢心すれば村が滅び、情けをかければ人が減る。

 

 

 

 ただただ無心にこなせばいい。

 求められているのだから。

 

 

 このモンスターが蔓延る世界において英雄という存在が求められ必要とされているのだから。

 

 

 滅私であるべきなのだ。

 

 我を出さず。

 己を晒さず。

 個を主張せず。

 

 

 ただ目的のため。

 

 

 

『みんなの幸せのため』に。

 

 

 

 

 そう。

 どうせ。

 

 

 帰る場所などどこにもないのだから。 

 

 

 

 ネオラントは皮肉を込めて笑った。

 そう考えれば自分は今から相手取ろうとしている黒触竜と一体なにが違うのだろうかと。

 

 ただ笑った。

 

 帰る場所を失い、行く当てもなく、己の命を蝕みながら意地汚く生き続ける存在と一体何が違うというのだろう。

 

 

 皮肉。

 実につまらない皮肉である。

 だから何だというのだろう。

 

 

 同情? 共感? シンパシー?

 

 

 それこそ本当につまらない。

 

 

 

 狩るか狩られるか。

 それだけである。

 

 

 自分はもうすでに人情あふれる心温まる物語のステージになど立ってはいない。

 

 

 否。

 立ってはいけないのだ。

 

 

 幸せになる権利などない。

 心の底から笑う資格などない。

 優しさに触れことのできる立場にはいない。

 

 

 

 何故武器を持っているのかを考えろ。

 何故自分が血に染まっているのかを忘れるな。

 

 

 命を賭せ。

 

 

 それが生命を狩りとってきた者の務めなのだから。

 責任を果たせ。

 

 

 心に刻め。

 

 

 自分が筆頭ハンターであるということを。 

 

 

 

 

***

 

 

 

『たいして休むことができなかった』

 

 

 

 渓流にて水をくみ取りながらネオラントはそう思っていた。

 布地を濡らし火傷している箇所に貼り付け応急処置を済ませていた。

 その際の痛みに顔を苦痛にゆがめる。

 

 ネオラントからすればあの場に人が訪れるということが予想外であった。

 

 

 今の渓流付近は先日までの桃毛獣と雷狼竜の騒動、それと現在巷を騒がせている黒触竜の出現のせいで一般人の立ち入りが制限されている。

 

 少なくともユクモ村の住民は好き好んで入っては来ないはずであった。

 だからこそ少し油断していたともいえた。

 

 しかしそんな地であったはずなのにあの男は現れたのである。

 だとするならばあの男は他所から訪れた旅人なのだろうとあたりをつけていた。

 

 

 一体どこの馬鹿なのだろうと、そうも思っていた。

 

 

 黒触竜出現は、近場の地方には知れ渡っている情報。

 なのにもかかわらず武装もせず、護衛もつけず、あんな軽装で歩き回るなど命知らずを通り過ぎてただの自殺志願者である。

 

 

 しかし、自殺志願というのならば己も大して変わらないというのも事実。

 

 

 いや違う。

 決して自殺志願ではない。

 

 ハンター。

 彼女はまごうことなき狩人。

 

 

 彼女こそこの地に厄災をもたらしている存在、黒触竜を狩猟するために選ばれた筆頭ハンターである。

 

 

 

『選ばれた……』 

 

 

 

 その言葉にネオラントは薄く笑った。

 

 

 彼女は気づいていた。

 今回の派遣について、彼女はすでに悟っていた。

 

 

 

 この依頼の本質的意味を。

 

 

 

 受容者が自分でなくても別に構わない依頼だということを。

 

 

 黒触竜狩猟依頼。

 確かに黒触竜は狂竜ウイルスをまき散らし他のモンスターを狂竜化させ狂暴化させる。

 放っておけば村、街単位で被害をもたらす存在である。

 

 

 早く手を打たなければ被害は広がるばかり。

 そんなことは誰が考えてもすぐにわかること。

 

 

 そう、誰が考えてもわかるのだ。

 

 

 ならなぜギルドはこの黒触竜討伐にハンターを『一人』しか宛がわなかったのだろうか? 

 

 

『人材不足』

 

 

 建前はそんなところだろう。

 そう建前である。

 

 早く手を打たなければ被害は広がる一方。

 では手を打たず放置すれば一体どうなるのであろうか。

 

 

 単純なこと。

 狂竜ウイルスに感染したモンスターで溢れ返ることになるだろう。

 

 

 では、その狂竜化したモンスターを狩猟するのは一体誰なのか。

 そう考えればその答えは当然のこと「ハンター」である。

 

 

 そしてそのハンターを所有している機関『ハンターズギルド』である。

 

 

 必然、狂竜化したモンスターが増えれば増えるほどハンターズギルドに舞い込む依頼数が増えていく。

 

 黒触竜一頭に対し四人を派遣するのと四つのモンスター討伐依頼にそれぞれ一人ずつハンターを派遣するのどちらがハンターズギルドにとって有益になるのであろうか。

 

 

 その答えは当然『後者』である。

 

 

 黒触竜ゴア・マガラとはハンターズギルドにとって討伐するよりも『生きているほうが金になるモンスター』なのだ。

 

 

 まさに『金の生る木』。

 

 

 だがそれでは納得してくれない者がいる。 

 それこそ被害を受けた村、街の住民たち。

 

 

 まさか彼らの前で「黒触竜は金になるので狩猟しません」など言えるはずがない。

 では彼らを納得させるにはどうすればよいのだろうか?

 

 

 

 その答えが今回の派遣者、筆頭ハンターという肩書を与えられた「ネオラント・ラゴア」。

 彼女だった。 

 

 

 

 筆頭ハンターというあやふやな肩書が彼女一人だけの派遣という不安を住民から拭い納得させる。

 もしも狩猟に失敗しても筆頭ハンターでも狩れないモンスターであるという印象を住民に与えることができ、依頼料の値上げをする理由になる。

 

 

 万が一狩猟に成功しても『ハンターズギルド』という存在、必要性を住民たちに知らしめることができる。

 

 

 つまりハンターズギルドにとってどう転んでも『利益にしかつながらない』。

 いや、後々のことを考えればむしろ失敗してくれたほうがギルド上層部的にはありがたくもある。

 失敗した者に報酬を支払う義務はギルド側にはないのだから。

 

 

 そしてこの筆頭ハンターという肩書をつけられるハンターは正味『誰でもいいのである』。

 

 

 

 結果。

 そのどす黒く汚れた白羽の矢が立った者。

 

 

 

 

 それが『ネオラント』なのであった。

 

 

 

 ――……!!

 

 

 

 ネオラントは気が付けば傍らに立っていた木の幹に拳を打ち付けていた。

 

 

 彼女の頭の中にあったのは屈辱という感情。

 自分はつまり使い捨ての駒以下か、とそう唇をかみしめた。

 

 

 傷だらけになり、痛みをこらえ、人びとのために武器を振るい、血まみれになりながらも尽くしてきたものに対する処遇がこれなのかと。

 

 

 帰れない。

 このままでは帰れない。

 

 

 ここで自分がこの依頼から離脱すればすべてギルドの思うつぼ。

 ギルドに痛手を負わせる最適手はさほど狂竜化の影響が出ていない今この段階で黒触竜を狩猟すること。

 

 そのためには己一人の力で狩ったといういう事実が必要なのだ。

 

 

 ハンターズギルドから押し付けられた筆頭ハンターという肩書と黒触竜を一人で狩ったという実績があれば今後の黒触竜討伐依頼の際にも先陣切って動きやすくなる。

 

 これでギルドを逆手にとれる。

 

 

 ネオラントは『この腐った社会に一刃を入れられる』とそう確信した。

 

 

 

 負けるわけにはいかない。

 そのためには『死』すらいとわない覚悟。

 

 もしもそうなってしまったならば誰か後続のハンターに託すしかない。

 その為にハンターノートにこれまでの数々の情報を書き込んできた。

 

 

 そう思考したときネオラントは初めて自分がハンターノートを落としていたことに気が付く。

 

 

 あの洞窟で落としたのだろうと当たりはすぐについた。

 取りに戻ろうかとも考えた。

 しかしまたあの洞窟で出会った男に遭遇するを避けたいとネオラントは思っていた。

 

 

 巻き込みたくない、云々以前にあんなふざけた危険意識のないような輩に再び説教されるのも邪魔されるのも冗談ではなかったのだ。

 

 

 ハンターノートに関しては問題ない。

 狩猟すればいいのだから。

 己一人で黒触竜をこの地で討伐すればいいのだから。

 

 そこまで考えてネオラントは頭を黒触竜狩猟へと切り替え始めた。

 

 そんなに遠くには行っていないはずである。

 手傷を負わされはしたがこちらも手傷は負わせた。

 

 

 

 手ごたえは有った。

 狩れない相手ではない。

 

 

『渾沌に呻くゴア・マガラ』

 

 

 確かに強敵である。

 だが攻撃の手段はさほど多くない。

 

 見慣れてしまえば対応できる。

 

 

 

 『――あの攻撃』を除いては。

 

 

 

 そう思考を巡らせたその時である。

 

 

 

 

「――……!!」

 

 

 

 

 突然の殺気にネオラントは勢いよくその場から回避行動をとった。 

 

 

 その刹那、己の頭部があった場所を薙ぐ丸太のような青い腕が空を切る姿が目に映った。

 

 

 勢い余て渓流へと片足を突っ込んだ。

 耳には空を切った際の風の音がへばりついていた。

 

 体が濡れることを気にしてなんていられる状態ではない。

 

 

 全身を覆う青い体毛。両前足を守るように発達した甲殻。

 通常は四足歩行である体を今二足にし臨戦態勢をとっているモンスター。

 

 

『青熊獣 アオアシラ』

 

 

 当然のように、狂竜化個体である。

 

 

 ネオラントの頬に冷や汗が伝う。

 気が付かなかったことに。

 

 攻撃をされるその瞬間まで青熊獣の接近に気が付かなかったことに。

 唾を大きく呑み込む。

 

 

 

 完全に油断していた。

 

 

 

 黒触竜を狩ることばかりに意識が行っていた。

 まさかこんな初歩的なことを失念するとは。

 

 『狩る者』は同時に『狩られる者』だという当たり前のことを忘れてしまっていたことに戦慄した。

 

 

 

 ネオラントは一歩、また一歩と後ずさっていた。

 この時彼女の頭にあったのは『戦線離脱』の文字のみ。

 

 

 単純に体力を温存しておきたいという考えのもとの行動だった。

 平時であるのならば相手が狂竜化している青熊獣であろうと敵ではない。

 

 

 しかし彼女の目的は渓流の治安維持ではなく、あくまでも黒蝕竜。

 優先するべきはその黒蝕竜狩猟のために己の状態を少しでも万全の状態へ戻すこと。

 

 あの洞窟で体を休めていたのもそのため。

 無駄な戦闘をしている場合ではない。

 

 

 洞窟にいた男といいこの青熊獣といい邪魔が多い、とネオラントは心の中で悪態をついていた。

 ここで時間を食えば黒蝕竜の足取りを見失ってしまう恐れもある。

 逃してしまえばせっかく与えた手傷が無駄になってしまう。

 

 

 

『こんな雑魚にかまっている暇などない』

 

 

 

 ネオラントは腰のポーチからあるものを取り出し青熊獣に投げつける。

 

 

『音爆弾』

 

 

 生物の器官『鳴き袋』を利用して作られる殺傷力のほぼない狩猟補助用の爆弾である。

 もともとは狩場にいる邪魔な小動物を追い払うために携帯していた音爆弾。

 

 

 この行為は青熊獣を必要以上に刺激してしまうことになるだろう。

 だが逃げるための一瞬のスキさえできればそれでよかった。

 

 

 ……――!!

 

 

 突然の耳を劈くような高音に反射的に体を硬直させる青熊獣。

 そのスキに青熊獣とは正反対の方向へ遁走するネオラント。

 

 

 

 十全である。

 逃げるという観点において彼女のとった行動は非の打ちどころのない完璧なものだった。

 みるみる青熊獣との距離が離れていく。

 

 

 何も問題はなかった。

 彼女のとった行動自体には何の問題もなかった。

 

 

 しかし、本当の意味でネオラントは己の現状を理解しているとは言い難かった。

 彼女はもっと考えるべきだったのだ。

 

 青熊獣に背後から襲撃されたときの自身の異常に。

 周囲に対する注意力の散漫さに。

 

 

 

 誰かに『尾行されている』という可能性に……。

 

 

 

 ――……トン。

 

 

 

 世界が一転した。

 それは比喩ではなく実際にネオラントの視界は一転していた。

 

 

 

 

 理解ができなかった。

 

 

 

 自身の身に何が起きたのか理解が追い付かなかった。

 分かっているのはついさっきまで走っていたはずの自分が地面に『倒れている』こと、左太腿に激痛がありその部位に『ナイフが刺さっている』こと、そして……。

 

 

 

 ――体が『麻痺して動かない』ということ。

 

 

 

 この三つだけだった。

 

 

 

「ちょっとぉ、ちょっとぉ!! 筆頭フンターなのにモンスターを目の前にして敵前逃亡とかやめてくださいよ!! 一般の人が見たらフンターの心証が悪くなるじゃないですかぁ!!」

 

 

 

 突如そんな快活な声が聞こえてきた。

 

 

 

「って。もともとフンターは心証が悪いか……なんつって!!」

 

 

 

 ネオラントは痺れて動かない上体を無理やり起こし声の主を確認する。

 底抜けに明るく、場違いな冗談を口にし、一見すると頭の悪そうな……。

 

 

『少女』がそこにはいた。

 

 

 彼女はこの緊迫した空気にお構いなしに笑っていた。

 だがその笑みはまるで張りつけたような不気味な笑みをしていた。

 

 

「ねえ知ってますか? 『少女』の定義って21歳未満の女性のことを指すそうですよぉ? それ知ったとき私『20歳のどこが小さいねん!! 胸か!? 胸のことか!?』って突っ込み入れたくなったんですけど筆頭フンターさんはどう思います? やっぱり貧乳はおっぱいに含まれない派閥の人ですか?」

 

 

 ネオラントは混乱していた。

 意味が分からないといったほうがこの場合は正しいのだろう。

 

 正直こんな問答に付き合っている暇などない。

 この間にも青熊獣が追い付いてくるかもしれないのだから。

 

 

 

『逃げなければ……』

 

 

 

 そう頭ではわかっているものの体が麻痺で言うことを聞いてくれない。

 この状況を作ったのは間違いなくこの謎の少女。

 

 それはわかる、だが……。

 

 

 

『本当に意味が分からない』

 

 

 

 ネオラントは何度もそう頭の中で反芻した。

 

 

 

「あっ。ちゃんと『麻痺投げナイフ』効果あったみたいですね。よかったですわぁ……本当はゴア・マガラに狩られてくれるのが理想的だったんですけど思いのほかいい勝負するもんだから邪魔し損ねちゃいましたからねぇ。もうこの際、死んでくれるなら『相手が熊タンでもいいかなぁ』って面倒臭くなったのでこんな手段を取らせてもらった次第でございまする!! びしっ!!」

 

 

 

 

 静寂。

 

 

 

 

 疑問符が頭の中を駆け巡る。

 

 それと同時に我が耳を疑った。

 

 麻痺投げナイフ。

 ゴア・マガラ。

 邪魔し損ねた。

 

 

 そんな文字が頭に流れていった。

 ただその際、ネオラントの頭に確かに残った言葉がある。

 

 

『死んでくれるなら』

 

 

 その言葉に頭心が熱くなった。

 

 

「大丈夫です、安心してください!! きちんとゴア・マガラに殺されたことにしておきますから!! もしも遺体が戻ってきたらあれです、ちゃんと唯一の友人役として遺体の前で泣き崩れる演技するので心配しないで下さい!! なのでまずは名前教えてください!! じゃないと私が困るので!! って喋れないかぁ、テヘペロ!!」

 

 

 視界がゆがむ。

 胃液が込みあがる。

 指先が凍える。

 

 

 麻痺のせいだろうか。

 

 

 いやネオラント自身がこの少女の発言一つ一つに理解が追い付ていないためだった。

 受け入れがたい現実に脳が拒絶反応を示していた。

 

 

 黒蝕竜は生きてるほうが金になる。

 この黒蝕竜討伐依頼は、失敗したほうが利益に繋がる。

 失敗した者に報酬を支払う義務はない。

 

 

 

「後のことは全部任せてください、だって……」

 

 

 

 その言葉がネオラントにとって死の宣告と同義に聞こえた。

 

 

 

 

 

 

「――あなたの『代役』なんていくらでもいるんですから」

 

 

 

 

 

 

 青熊獣の物と思しき足音が近づいてきていた。

 

 

「おっとっと、思いのほか遊びが過ぎましたわぁ。じゃあ私はこれで帰らせてもらいまっす!! それじゃ、お大事に!!」

 

 

 と手を挙げてその場から立ち去ろうとする謎の少女は何かを思い出したように面倒くさ気に「あぁ……」とつぶやき再びネオラントのほうを見据えた。

 

 

 

 そして心底面倒くさそうに頭を掻きながら。

 

 

「私の所属する部署、伝統かなんか知らないですけど別れの挨拶だけはきちんとしろっていう意味の分からない規則があるんですよねぇ」

 

 

 

 ――ああ、めんどくさ。

 

 

 

 と、愚痴を溢したのち少女は服の裾をまるでスカートをつまむ様に持ち上げ礼儀正しい年相応のお辞儀をし、こう言い残していった。

 

 

 

 

 

「――それでは、次のご縁がありましたらどうか私(わたくし)こと『シルバニア=ガレアス』を今後ともどうぞよろしくお願いします」

 

 

 

 

 

 そして今度こそ「チャオ!!」と横ピースを残しその場から姿を消していった。

 

 

 

 

 刹那。

 言葉にできない寒気がネオラントを襲う。 

 

 

 

 冗談にすらなっていない。

 この状況は冗談で済ませられるようなものではない。

 

 

 逃げなければ。

 逃げなければ本当に終わる。

 

 

 

 どこに?

 

 

 

 腕を懸命に動かし地を這うように動こうとするも、腕はむなしく地面に擦り後を残すだけ。

 心臓が激しく脈打つ音が鼓膜を揺らす。

 その音がなお己を焦燥に駆り立てる。

 

 

 早く。

 手遅れになる前に。

 

 

 

 

 なんで?

 

 

 

 

 背中の太刀に手をかける。

 いつかしていたように太刀を鞘ごと引き抜き杖のように己の体を支える。

 

 

 今ならまだ間に合う。

 大丈夫、まだ間に合う。

 

 

 上体を起こすも一歩も進むことなく、無様にその場に崩れ落ちる。

 その拍子に太刀も地面に倒れた。

 

 

 まるで神がこの状況を楽しんでいるかのような錯覚すら覚える。

 太腿に刺さったナイフを抜くことすら忘れ、ただただ足掻く。

 

 

 違う。

 まだ諦めたくない。

 

 

 

 

 

 

 

 何で?

 

 

 

 

 

 

 

 

 かえりたい……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『帰る場所もないのに?』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 無慈悲。

 それは無情で残酷な言葉。

 

 

 彼女の背中に青色の剛腕が叩きつけられた。

 

 

 

「――……!!」

 

 

 

 声にならない悲鳴が口から飛び出す。

 背骨がきしむ音が脳へ直接響く。

 奥歯を砕けんばかりに噛み締め痛みを堪える。

 

 

 体は麻痺しているのにもかかわらず痛みだけはきちんと感じた。

 痛みに頭を支配される中、己の太刀に夢中で手を伸ばすもその手はむなしくも砂を掴むだけ。。

 青熊獣はお構いなしに体重をその腕に乗せネオラントの背中をなお圧迫する。

 

 

 目尻から涙が溢れ出る。

 

 

 痛みから? 

 この情けない己の現状に?

 捨て駒として扱われた悔しさから?

 こんな状況になっても助けを呼べる名が無いから?

 

 

 強くなりたかった。

 ただ強くなりたかった。

 

 どんなモンスターにも負けないくらい。

 必要とされるほど強くなりたかった。

 

 

 必要とされれば自分にも帰る場所ができるのではないかとそう思ったから。

 

 

 孤独だからここまで来れたわけじゃない。

 

 

 

 一人だから……。

 

 

 

 

 

『強くなるしかなかったんだ』

 

 

 

 

 

 青熊獣はその太い腕で器用にネオラントの体を地面に押し付ける。

 彼女にはすでに抵抗するだけの体力などありはしなかった。

 

 麻痺した体は身じろぎ一つすら許すことはない。

 青熊獣の口が大きくあけられた。

 唾液がしたたり落ち地面に斑なシミを作っていった。

 

 

 その捕食される寸前、ネオラントが見ていたのは青熊獣の鋭利に発達した牙……。

 

 

 ――ではなかった。

 

 

 彼女の眼には見覚えのある禍々しく黒い夥しい量の『鱗粉』が映っていた。

 

 

 

 

 ――……ガチンッ。

 

 

 

 そして聞き覚えのある音が……牙と牙同士をかみ合わせる音がネオラントの耳に響いた。

 その音の発生源は青熊獣?

 

 

 否。

 その音の発生源は――。

 

 

 

 目を覆いたくなるほどの『閃光』が。耳を塞ぎたくなるほどの『轟音』が。

『熱量』が、『爆風』が。

 

 

 青熊獣を包み込む。

 あまりの衝撃にネオラントはその場で何もできず目を固くつむるばかりだった。

 

 

『鱗粉粉塵爆発』

 

 

 そして間髪入れず黒い影が――『黒と金の影』が青熊獣に食らいついていた。

 

 

 

 漆黒と黄金のアシメントリーの体躯を有す異形の者。

 別名『この世に生きとし生けるものと決して相容れぬ存在』

 

 

 

 

『渾沌に呻くゴア・マガラ』

 

 

 

 

 黒触竜は体から剥がれ落ちる鱗粉をまき散らしながらその姿を現した。

 青熊獣の首元から黒く濁った血液が噴き出す。

 

 

 断末魔にも似た咆哮が渓流内に轟いた。

 この咆哮は黒触竜の物なのだろうかそれとも青熊獣の物だったのだろうか。

 

 

 どちらであろうとたいして問題ではない。

 今問題なのは黒触竜がネオラントの存在を認識していないこと。

 

 いやもしかしたら認識はしていたのかもしれない。

 だが黒触竜にとっての優先順位が青熊獣であったことは確か。

 

 黒触竜の攻撃性の高さは今更説明するほどのものではない。

 青熊獣はその黒触竜の敵索網に運悪く引っ掛ってしまったのだろう。

 

 

 突然の襲撃と不祥に暴れ狂う青熊獣。

 

 その一連の出来事でネオラントへの拘束も解かれていた。

 そして己の体の変化にも気が付く。

 

 

 

『動ける』

 

 

 

 末端にこそまだ痺れは残っているものの自身の機動力が戻りつつあることを確信する。

 

 

『今なら……』

 

 

 そう考えたとき地面に伏せているネオラントに巨大な影が覆いかぶさる。

 己の体躯を翼脚ごと空へ振り上げる黒触竜の姿が彼女の目に飛び込んできた。

 

 

 全身の身の毛がよだつのを感じた。

 

 

 ネオラントは覚束ない足取りで無我夢中にその場から回避行動をとった。

 

 

 一方、青熊獣は違った。

 狂竜化をしてしまっていた青熊獣は、生物としての危機意識からくる逃避行動が欠落してしまっていた。

 

 

 一瞬。

 それは一瞬の出来事。

 振り上げられた翼脚は重力と膂力そして全体重をもって青熊獣の頭部を地面に叩き潰した。

 

 

 骨が砕ける音。

 飛び散る肉片。

 陥没する大地。

 

 

 

 青いはずの青熊獣の体を血液が赤く染め上げる。

 

 

 

 圧殺。

 一言で起こったことを言い表すのならばただそれだけ。

 

 

 ネオラントの体がいまだ麻痺により行動不能だった場合、あの場所にはもう一つ死体が横たわっていたことだろう。

 

 

 そんなことは彼女が一番理解していた。

 自身があの場で息絶えている姿を想像すると動機が荒くなる。

 

 

 あの攻撃はかろうじて避けることができただけ、とてもではないがこの状態は黒触竜を相手どれるコンディションではない。

 

 

 逃げる。

 

 

 一度体勢を立て直すために。

 それ以外の選択肢などあるわけがない。

 

 

 逃げ切れるだろうか?

 限りなく無理に近いだろう。

 

 あまりにも機動力に差があり過ぎる。

 

 だが逃げねばそれこそ終わり。

 

 

 黒触竜が一歩また一歩とネオラントに接近する。

 

 

 隙を窺っている暇などない今すぐ逃げなければ、そう決心し駆けだそうとしたネオラントの目がある物を捉えた。

 

 

 

 青熊獣の死骸の傍らに置き去りにしてしまっていた己の武器。

 

 

 

 太刀『天廻刀・早蕨(さわらび)』

 

 

 

 ネオラントは駆け出した。

 逃げるために?

 

 

 いや、『己の武器を取り戻すために』。

 

 

 刀匠だった祖父が『唯一の肉親』が打った刀。

 自分が勝手に持ち出した刀。

 

 別に祖父と強い思い出があったわけではない。 

 勝手に持ち出した刀だから無くしたりでもしたら怒られるのだ。

 

 

 ただ……。

 そう、ただ――。

 

 

 

 彼女には『返す人も場所もすでにどこにも存在しない』というだけのよくあるお話である。

 

 

 

 

 自分が馬鹿なことをしていることはよくわかっていた。

 死んだら元も子もない。

 

 一度逃げた後にまた取りに戻ればいいそれだけの話ではないか。

 なぜ、必死になって危険な思いまでして走っているのだろう。

 天廻刀を回収した後、一体どうするつもりなのだろう?

 

 戦う?

 

 走るのがやっとのこの状態で?

 ……阿保らしい。

 

 

 ネオラントは太刀に向かって飛びついた。

 起き上がると同時に天廻刀を抜刀した。

 

 

 

 彼女の瞳に映ったのは夥しい数の鱗粉。

 先ほども見た攻撃。

 

 

 いや黒触竜との戦闘中に幾とどなく目の当たりにしてきた攻撃。

 太刀という武器ではどう足掻いたところで防ぐことも避けることもできない爆発。

 

 

 

 鱗粉粉塵爆発。

 そのための大量の鱗粉。

 

 

 その景色を見たネオラントは小さく笑った。

 利用されるだけ利用されて、逃げられる唯一の機会を棒に振って、馬鹿みたいに一人突っ走った挙句犬死。

 

 

 

『本当に……阿保らしい』

 

 

 

 火花を作るため黒触竜が口を大きく開ける。

 牙と牙をかみ合わせるその音が聞こえればそれが終焉を告げる知らせとなる。

 

 

 

 彼女の頭に駆け巡るは走馬燈。

 思い出すのはモンスターの死体、血塗られた己の軌跡ばかり。

 

 

 

 黒触竜の口が勢いよく閉じられた。

 

 

 

 ああ、本当に……。

 

 

 

 

『――本当につまらない人生だったなぁ……』

 

 

 

 

 ――……ガチンッ。

 

 

 

 

 音は無慈悲にも響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 無音。

 

 

 

 

 

 

 

 目を覆いたくなるほどの閃光も、耳をふさぎたくなるほどの轟音も熱量も、爆風も。

 すべて起こることなく正真正銘それはただの『無音』だった。 

 

 

 

 その不可思議な現象に疑問を感じたその時、聞き覚えのあるあの『男の声』が聞こえてきた。

 

 

 

 

「――女ハンタァァァ!! お前に『三つ』言いたいことがある!! 耳の穴かっぽじってよぉく聞けやぁぁぁ!!」

 

 

 

 姿は見えずそんな声だけが聞こえてくる。

 

 

 

「ひとぉつ!! お前はドアホかぁ!! おまえ自身狂竜症が発症しかけてて精神異常が起きてることに気づいてないのかぁ!! 馬鹿ですか!? あなた馬鹿なんですかぁ!? あとお前に渡した巾着の中身は『ウチケシの実の丸薬』じゃなくてただの俺のおやつだ!! 気が付かなかっただろぉ!! 食べるの楽しみにしてたんだから後できちんと返せぇ!!」

 

 

 

 場違いな怒号のような言葉の羅列がこの緊迫していた空気を飲み込んでいく。

 

 

 

「ふたぁつ!! お前はドアホだぁ!! 帰りたきゃ帰ればいいだろがぁ!! 帰る場所がなけりゃ作れ!! こんなところで棒切れ振り回して世界救ってる場合かぁ!! なんですかぁ!? 帰る場所を持たない自分かっこいいとか思っちゃうタイプの人ですかぁ!? 恥ずかしいですよぉ!!」

 

 

 ネオラントは、この声が聞こえ始めた時から夥しい数の鱗粉とは別に宙に滞留している『白い煙』があることに気が付いた。

 

 いや、気が付いたのが今なのであっていつからこの「白い煙」が存在していたのかはわからない。

 

 

「みっつめぇ!! 安心しろぉ!!俺もドアホだぁ!! ちょっとその場の乗りとテンションでここまで来ちゃって正直今、後悔し始めてます!! ごめんなさい!! もうボク、帰っていいですかぁ!?」

 

 

 

 

 この「白い煙」がいつから存在していたのかはわからない。

 しかし、もしもこの白い煙があの黒触竜の『鱗粉粉塵爆発の発生を阻害している』のだとしたら?

 

 

 そうだとしたらこの声の主が現れたのとほぼ同時にこの現象が起こったことは果たしてただの偶然なのだろうか?

 

 

 そんな偶然が果たして本当に起こり得るというのだろうか。

 

 

 

 

「――そして『四つ目!!』」

 

 

 

 

 この現象が偶然ではなく人為的に起こした『必然』だとしたら?

 この声の主が作為的に鱗粉粉塵爆発を『封じた』のだとすれば?

 

 

 

 

「この俺が現れた以上この後の展開に――!!」

 

 

 

 

 ネオラントは声のする方を見据えた。

 声の主は木々の合間からゆっくりとその姿を現した。

 

 

 底抜けに明るく、場違いな戯言を口にし、頭の悪そうな洞窟で出会ったあの男に対しての疑問はただ一つ。

 

 

 

 

 

『この男は一体何をしたんだ……?』

 

 

 

 

 

 

 男は黒触竜を見据えながら不敵に笑いこう言い放った。

 

 

 

 

 

「この後の展開に……シリアスパートが来ると思うなよ、『金箔顔グロ』」

 

 

 

 

 ――さあ、鬼ごっこの続きだ。

 

 

 

 

 




ヒーローは遅れてやってくるもの(お約束)


***



次回『ご主人vs渾沌に呻くゴア・マガラ』

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