SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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英雄の書、鬼の書、獣の書。

いずれから読みますか?

これは獣の書の下巻。


娼婦が傭兵と狼に贈る物語。


Episode21-16 アクイ ノ モノガタリ 獣の書-下

「噂以上に頭は回る。あれだけ小出しにした情報で、こちらの事情と手段をほぼ見抜いてくるとはな」

 

「誉めても何も出来ないわよ。今の私にあの子をコントロールすることはできない」

 

 撃てなかった。撃ちたくなかった。恐怖よりも親愛が勝ってしまった。積み重ねられた煉瓦に腰掛けたグリセルダは、自衛用のハンドガンをその手に見下ろす。

 会話さえ出来る状況に持ち込めば説得できる。グリセルダの自信は木っ端微塵に砕かれた。

 当たり前だ。クゥリは依頼となれば、かつての相棒にして親友のキリトにだろうと剣を向け、また殺すことを厭わない。

 傭兵として依頼をこなす。妥協はしない。破壊と殺戮をもたらす性質上、依頼主の意向に沿わぬ、思わぬ損害と混乱を与える事も多々あるが、『依頼内容』自体は確実に全うするのはクゥリだ。

 

「……いいえ、違うわね。最初からあの子に私の鎖なんて付いていない。あの子を縛るのは自分自身に付けた首輪だけ。約束を守る。契約を履行する。絶対に裏切らない。まるで……」

 

「素直で純粋な子どもだな」

 

 ジャガーヴォックの呆れたような、だが何処か羨むような笑みに、グリセルダは少しだけ心地良くなって同意した。

 

「私が最初からスイレンを……リンネを犠牲にするつもりと言っていたら、あの子は耳を貸してくれたのかしら」

 

「しないだろう。依頼に背くことになる」

 

「だったら、どうすれば良かったの? 傭兵として依頼を果たすのはあの子にとって絶対。私に出来るのは、マダム・リップスワンの帰還を待って、彼女が死ぬ前に依頼終了の申請を受理して、あの子を止めるくらいよ」

 

「マダムはまだ? メールも使えないのか?」

 

「ええ。どうやらイベントに参加中らしいのよ。優雅にバカンスを楽しめる、非戦闘・非探索系イベント。お金をかけて優雅にね。竜虎コンビがなんとか抜け道を使って接触して、依頼完了書類にサインさせようとしているけど、明日の朝まで間に合うかどうか」

 

 頭が痛いとジャガーヴォックは額を押さえる。だが、どれだけ唸っても事態は好転しない。

 夜明けまでにスイレンを差し出さねば、終わりつつある街全域にテラ・モスキートが解き放たれる。本体は動けず、撃破は容易だが、複雑怪奇の迷宮同然の終わりつつある街では、全てを排除することはできない。必ず犠牲者が出る。

 普段ならば黄龍会の皮を被ったヴェノム=ヒュドラの犯行だと声明を出せば済むだろう。だが、旧市街と貧民街の1部が焼け野原になるほどの被害をもたらした大騒動があったばかりだ。

 ヒビが治っていない薄氷は今度こそ割れ、大ギルドの秩序は崩壊し、在りし日の頃の混沌としたDBOが戻ってくる。即ち、弱き人々は生きられない時代だ。

 だが、それも正しいのかもしれない。今も大ギルドという強大な組織の『力』によって支配されることによって秩序が成り立っているだけだ。それさえもが3大ギルドの軋轢、陣営内の派閥争い、与した商業ギルドの影響力、有力ギルドやテロによる代理戦争の激化で混迷している。

 現実世界で培われた社会秩序を再構築しようとしても不可能なのだ。前提条件の多くが異なるのだから。それを最も理解しているのは、決して手を取り合えない3大ギルドであり、そして何よりも教会だろう。

 

「教会はどうするの?」

 

「……今、エドガー神父から連絡があった。『【渡り鳥】には手を出すな。リンネの確保は『説得』による穏当な手段に限定する』とな。次策を打つ準備はできているそうだ。部下や同僚を無駄死にさせたくないので同意するが、だが神父らしくない生温い手だ」

 

「……【黒の剣士】は呼び戻すの? アルヴヘイムからなら間に合うわ」

 

「連絡が取れんし、そもそも彼の分野では無い。個人戦力も英雄性も……聖剣すらもこの状況を覆すカードにはならん。むしろ、アルヴヘイムにいてくれた方が首を突っ込まれずに済む。下手に【渡り鳥】と交戦して、街に被害が及んでは堪らんからな」

 

 適材適所だ。【黒の剣士】が活躍する局面ではない。むしろ、彼が動けば目立ち、終わりつつある街に無用な危機感が蔓延し、大パニックになるかもしれない。そうなれば敵の思う壺だ。

 テラ・モスキートによる無差別攻撃は裏の住人にとっても重要事項だ。混乱を避ける為に情報規制はされているだろうが、教会と大ギルドはそれぞれ協力要請を出しているだろう。

 だが、クゥリが護衛しているとなれば、いずれの犯罪ギルドも二の足を踏むはずだ。チェーングレイヴさえも容易には動けない。あるいは、クラインならば説得材料としてユウキを用いるかも知れないが、完全仕事モードのクゥリには通じない。

 よくて四肢を切り落とされて達磨。普通に考えれば殺害だ。たとえユウキ相手だろうとクゥリは手抜きしないだろう。

 

「1つ訊いてもよろしいか? グリセルダ女史はどうして協力してくれたのだ? 貴女はあの【渡り鳥】のマネージャーだ。彼の性質を最も理解している1人だ。そして、それが分かった上でマネジメントしているはずだ」

 

「……本音を言えば、私も終わりつつある街がどうなろうと興味はないのよ」

 

 グリセルダが教会に協力してクゥリからスイレンを奪い取ろうとしたのは、不特定多数のプレイヤーを守るなどという高尚な正義感に突き動かされたからではない。ましてや、数多の死人が自分の行動のせいで築かれる恐怖心でもない。

 

「あの子の優先順位を知っている。より多くを生かして勝つことを至上とするなら『少数を切り捨てる』。最速最短で敵を殲滅するならば『味方を見捨てる』。そして、たった1人を守るならば『それ以外の全てを切り捨てる』。後先なんて考えない。馬鹿なのよ、あの子は」

 

 スイレンを優先して数多の死をもたらす。クゥリはより多くの罵倒と悪名を背負うことになるだろう。

 それが嫌だった。クゥリの理屈を捻じ曲げても『守りたかった』のだ。決して英雄になれない、賞賛と名誉を手に入れる道を歩めない純白の傭兵を。

 

「教会が手をこまねくならば、大ギルドは動くだろうな。ここで弱腰を見せられないだろうし、何よりも≪ボマー≫を再び手に入れるチャンスでもある」

 

「本当に……どうしようもない世界ね」

 

「同意しよう。こんな世界、さっさと燃やし尽くして灰になってしまえばいい。心からそう思う時があるよ。まぁ、思うだけで死体の山が築かれるのはご免だがね」

 

 ジャガーヴォックに親近感を覚えたグリセルダだが、ここで呆けているわけにはいかない。

 クゥリを止める方法はただ1つ、現在の護衛依頼をどうにかして取り下げ、スイレンの確保に依頼を切り替える事だ。

 依頼に不備を見つけ、サインズに申し立てて依頼中止勧告を出せることができれば、止められる。

 

「本当に馬鹿な子」

 

 夜明けは遠く、だが必ず訪れるならば、せめて救いがありますように。

 誰に? 分からない。グリセルダは自嘲し、少なくともそれは自分では無いだろうと歩き始めた。

 

 

▽       ▽      ▽

 

 

 胎動。暗闇の中で彼女は自我と意識の始まりを得た。

 もたらされるのは知識。DBOやこれから主となるプレイヤーの情報。不足はあるが、随時学習して補えばいい。

 自分に何ができるのか。不思議と曖昧だった。能力や武装は把握できるのに全容が自覚できない。自分の『底』が分からない。

 これで主に役立てるだろうか。未来への不安と自分への不満が募る中で、彼女は生温い闇の中で丸まって『その時』を待っていた。

 闇の中で瞼を閉ざしても何も変わらない。だが、確かに見えるのはたった1つのイメージ。

 血と屍の海で、月光も星明かりも失われた夜の下に立つ主。その身は傷つき、際限なく血を流し、目は虚ろで、何処に行くかも知れずに歩き続ける。

 決して止まることはない。誰も主に追いつけない。誰もが『弱い』から。主は『強すぎる』から。

 燃えている。傷口が燃え上がり、主は徐々に灰になっていく。

 傷口から流れた血は苦悶を泡出せて、だが主は悲鳴すらなく淡々と突き進む。

 舞い散る灰は喪失の証であり、だが主は焔火を刃に宿して己を薪にして立ちはだかる全てを切り払う。

 これが主。自分が仕える主。彼女は絶望した。

 追いつけるはずがない。助けになれるはずがない。いや、そもそも自分は必要ない。

 主は『独り』でこそ完結する。何者も必要ない。何者も追従を許さない、だが孤高とは違う……孤独。

 彼女は闇の中で丸まり、主の呼ばれる『その時』を怯えた。自分は不要だ。相応しくない。役に立たない。

 だが、蛍火のように切なく儚い光を帯びて闇で彼女を照らす。

 1つは何とも知れぬ、鋭く尖った血濡れ欠片。

 1つは微かな熱を帯びた、揺らめき靡く火の粉。

 彼女はそれらこそ自分が生まれた理由。存在する意味に思えた。

 だが、蛍火は何も教えてくれない。ゆっくりと、彼女の中に吸い込まれていく。

 温かい。彼女は涙した。温もりに癒やされたからではない。切なかったからだ。苦しかったからだ。悲しかったからだ。

 この蛍火は清廉なる透き通った祈りのような、重々しくも熱く煮え滾った呪いのような、だが全く異なる純粋なる想いを束ねて結晶にした身勝手の極みの如き願いだ。

 祈りでもなく、呪いでもなく、ひたすらに願うからこそ残され、託され、受け継がれた願い。

 やがて『その時』が来た。周囲の驚愕を感じ、困惑しながらも礼節を尽くさし、忠誠を示そうとした。

 マスター。それがいい。そう呼びたい。自分で選んだ。サポートユニットとしての忠節ではなく、名も無き狼として、主の武器として仕える、決して裏切らない主従の契約を結ぶ特別な呼び名だ。

 主……マスターは見目麗しく、だが何を考えているか分からず、そして実力行使に躊躇いがなかった。与えられた知識と生まれ持ったビジョンが合致して、出会って1分と待たずに後頭部と額を叩き割られて瀕死に追いやられながら、とんでもない御方に仕えることになったと、元々無かった自信を粉砕された。

 だが、マスターは不器用ながらも、彼女の価値と意味を探る眼差しをくれた。もしかしたら、マスターは気付いていなかったのかもしれないが、とても穏やかで、不安と臆病で支配されていた彼女を気遣う目だった。

 話せばちゃんと聞いてくれた。何が出来るのか、まだ何も考えていない彼女の代わりに、真剣に悩んでくれていた。やっぱり、本人にはまるで自覚がないのかもしれないが、目と口元の動きを見れば、とても分かりやすくて、嬉しくて堪らなかった。この御方のサポートユニットに選ばれた自分もまた価値に見合わねばならないと己を奮い立たせた。

 だから有用性を証明しなければならない。マスターのサポートユニットとして恥じない性能を誇らねばならない。

 だが、活躍できなかった。有用性を証明しようとしても空回りするばかりで、元より期待されていないから失望されないだけで、彼女は立ち止まりそうになった。

 マスターはそれを許した。同時に立ち止まるならば置いていくと突き放した。

 ああ、分かった。マスターは優しい御方ではない。一緒に立ち止まってくれることはない。振り返りもしない。そのまま駆け抜けていく。

 だが、駆けるかどうかは己次第だと言葉にせずとも伝えてくれた。

 諦めたくなかった。有用性を証明して側に置いてほしかった。だから我武者羅に頑張った。

 傷だらけになるのは構わなかった。マスターの本当の姿が見えていたから。冷たい暗闇の下、傷だらけで、灰になりながら、血と屍の海を踏みしめる、決して止まることがない焔火。

 出来る全てをした。自分でも気付いていなかった能力も分かった。それでも足りず、命を捧げても守ると行動で示した。

 マスターはようやく有用性を認めてくれた。だが、同時に自分の為に命を捨てるなと契約させた。

 また1つ分かった。マスターは孤独だ。強すぎるから。誰も追いつけないから。自分と同じ場所に来るのは、自分を殺しに来る者だけだと知ってしまっているから。

 そして、たとえ自分と一緒に歩もうとしても、『弱い』から倒れ伏す。マスターに何かを残していくとしても……死んでいく。マスターは『強すぎる』が故に。

 マスターは優しくない。だが、『優しくあろうとする』御方だ。優しくすることはできずとも、優しくありたいと。彼女はそれに気付けた。自分の為に死ぬなと突き放す言葉に、優しくあろうとする在り方に胸が締め付けられた。

 蛍火のせいかもしれない。だが、彼女は自分の意思で選んだ。他の誰かが不要と叫んでも、自分だけはどのような場所でも、いかなる戦場であろうとも駆けつけるのだ。

 たとえ、必要ではなくとも、無意味だったとしても、それでも側にいるのだ。

 

 

 火はいつか陰るもの。

 万物を焼き尽くす業火であろうとも必ず消える。

 ならば……?

 ならば……?

 ならば……?

 

 分からない。まだ分からない。何も分からない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 左腕を蜂の巣にされて出血した灰狼は、託されたスイレンを守るべく隠れ家に向かっていた。

 電磁索敵フィールド……視覚特化モード。暗視ゴーグルのように視界内のプレイヤー、モンスター、オブジェクトを感知する、有効範囲が限定化されるモードであるが、光源のない暗闇の下水道を進むのに有効だ。

 

「スイレンさん、足下にご注意を」

 

「う、うん。ありがとう……」

 

 スイレンには≪暗視≫スキルや補う装備・アイテムはない。灰狼はアサルトライフルの残弾を確認し、サブストレージより注射器と包帯を取り出す。

 

(ヨルコ様が作成したという灰狼専用の救急セット。まだ試作品とのことですが、効果は……十分ですね)

 

 注射器の中身の緑色の液体が注入され、灰狼のHPが回復する。オートヒーリングとアバター修復・再生能力はあるが、それでは追いつかない負傷時に使用するようにとマスターから渡されたものだ。

 犬歯で食い千切らないように注意しながら、左腕を覆った止血包帯を強く締め直す。この腕では精密狙撃は不可能だ。だが、入り組んだ下水道ならば致命的ではない。

 

(この区画を抜けたら1度地上に出て、3カ所の撹乱ポイントを使って追っ手を振り切る。補給もそこで出来ますが、現状はスピードを最優先すべきですね)

 

 マスターは抜かりがない。グリセルダ様が『裏切った』場合に備えてプランを準備していた。灰狼は頼もしさと同時に寂しさを覚える。

 裏切りに備えるのは当然だ。リスクマネジメントだ。だが、マスターのそれは『習性』の域に到達している。

 誰も彼もが死んでいく。裏切る。殺しに来る。諦観とも違う事実からの学習。それでも信じずにはいられない。

 

(マスターは灰狼も……灰狼も『裏切った場合』に備えたプランがきっとあったはずです。でも、スイレンさんを灰狼に託しました。灰狼が裏切るよりも守ることを選ぶと信じてくれました)

 

 有用性だけではない。灰狼個人を認めてくれている。信用してくれている。だからこそ、『期待』を裏切るわけにはいかない! スイレンを曲がり角に隠し、灰狼はトリガーを引く。

 これで何度目かも分からない奇襲だ。スイレンを守りながらも移動は負傷を重ね、小さくない損耗は確実に窮地へと追いやっていく。

 激しい火花が散り、銃撃戦の中で接近する足音を感知する。振るわれた、闇に溶け込む黒色の片刃の鉈……近接暗殺用に調整されたブラックマチェーテをライフルでガードし、だがSTR負けして押し込まれる。

 左腕の傷が……! 顔を歪める灰狼は、狼耳に隠した金属突起より光の糸を展開する。広範囲索敵モード及び騎乗化能力に使用するコネクトケーブルであり、殺傷性はない。だが、驚いた暗殺者の隙を作る。

 灰狼専用装備・電磁ショートブレード。灰狼の体格に合わせて再設計された、取り回しのいい短剣である。暗殺者の横腹に突き刺し、電磁解放することで体内からダメージを与える。

 感電した暗殺者は怯み、その隙に灰狼は強烈な蹴りをこめかみに放つ。下水に落ちた暗殺者に駄目押しの乱射を浴びせるも、新たな暗殺者が迫る。

 ナイフが喉を掠め、一呼吸と共にアサルトライフルを構えるも蹴りで弾き飛ばされ、接近されて額を左手で掴まれ、壁に叩き付けられる。

 振り払うより先に、横腹を何度もナイフで突き刺され、怯んだ灰狼を掴む暗殺者の手首で金属音が響く。

 突き出されたのは小型の杭。暗殺仕様の小型ヒートパイル。暗器でこそないが、破壊力は絶大。右目を貫通され、そのまま頭部中心までダメージが到達した灰狼は多量の出血と共に背中を壁に擦りつけながら倒れる。

 対人用に調整された暗殺仕様ヒートパイル。対モンスターではダメージも貫通力もリーチも足りないが、対人ならば十分すぎる破壊力を持つ。頭部に打ち込まれれば、頭部防具次第であるが、高VITのレベル100プレイヤーでも即死も見込めるダメージが期待できるだろう。

 だが、暗殺者にとって想定外だったのは灰狼がプレイヤーではなくサポートユニットであるが故に、プレイヤーを超えるタフネスであった事だ。ヒートパイル頭部直撃のスタンから復帰した灰狼は、油断した暗殺者の脛を裂いて転倒させる。

 灰狼が投げるのは拳ほどの大きさがあるガラス玉だ。倒れた暗殺者に命中して中身が飛び散る。

 溢れるのは、まるで真夏に放置した生ゴミのような悪臭だ。だが、単に嗅覚を混乱させるアイテムではない。

 暗闇の下水道で気配が蠢く。下水道の住民……犬ネズミだ。平均で1メートル前後の巨大な肉食性のネズミのモンスターであり、野犬と並んで終わりつつある街で暮らす貧民プレイヤーの死因でもある。

 1体1体は脆弱であるが、野犬と同じく群れを成す。野犬の牙がアバター損壊性能に優れ、低レベルプレイヤーにアバター損壊の恐ろしさを教えるならば、犬ネズミはデバフ……毒の恐怖を知らしめる。

 

「うわぁあああああああああああああああ!?」

 

 下水対策でモンスター除けのアイテムを使用していたのだろうが、灰狼が用いたのは真逆のモンスター集めのアイテムだ。それもマスターが準備したとなれば、生半可ではない劇薬である。犬ネズミが群れを成して暗殺者に襲いかかる。

 対人向けの、暗殺仕様の装備。逆に言えば、対モンスターにおいてそこまで有効ではない。暗殺者は犬ネズミに囲われ、生きたまま貪り喰われていく。

 マスターが準備しただけあって効果絶大ですね。闇で見えずとも悲鳴で何が起こってるのか理解して腰を抜かしたスイレンの手を灰狼は掴もうともするも、がくりと膝を折る。

 頭部ダメージ甚大。右目損壊。左腕及び左脇腹より多量出血。意識が飛びかけ、咳き込んで吐血し、だが止まっていられないとアサルトライフルを握る手に力を入れ、スイレンの手を取って先導する。

 

(意識が……ダメージが大きすぎて……休眠モードに……駄目です……作戦続行……生命維持ラインを……引き下げ……)

 

 下水道の脱出ポイントに到着する。排水口の金網は外れるように細工されている。これもマスターが常々と準備していた逃走工作の1つだ。

 

「こんなの、いつの間に……」

 

 驚くスイレンだが、灰狼はむしろ悲しみが大きかった。

 護衛の為に準備されたものではない。潜伏した隠れ家も、これから向かう別の隠れ家も、この逃走路も、各種仕掛けも、補給物資も、全て事前に準備されていたものだ。

 黄金林檎の面々が拷問で情報を吐いた場合、あるいは裏切った場合、いつでも対処できるように。

 それが当然なのだろうか。決して裏切らない『誰か』をマスターには1人も思いつかなかったのだろうか。単なるリスクマネジメントの域を超えた入念さだった。

 排水口から出た灰狼はスイレンの手を引っ張り、撹乱ポイントの廃屋に入る。床板を剥いで保管されていた弾薬、薬品、攻撃アイテムを補給する。そのまま地下室に向かい、取り付けられたダイヤル式の鍵ではなく、ドア近くのタイルを外してレバーを引く。

 ダイヤルはダミー。こちらが本当の鍵だ。地下室内は簡素な調度品が揃えられた、一見すれば隠れ家であるが、実際には違う。床のタイルの下には爆弾が敷き詰められているのだ。

 ドアを破壊、ないしダイヤル解錠をした場合、時限装置が起動。侵入者を内部に誘い込み、一網打尽にする。

 

「確か……ポスターの裏に抜け道が……」

 

 灰狼はマスターから渡された攪乱ポイントの情報を思い出す。『目立つポスター』と言っていたはずだ。周囲を見回せば、金髪巨乳際どいビキニの美女がビーチでセクシーポーズを取っている、健全なる思春期男子にとって喜ばしいポスターを発見する。

 

「…………」

 

 血塗れの手で自分の胸をペタペタと触った灰狼は、改めてポスターを、そして背後のスイレンの体の1部を見る。

 

「…………」

 

 別に何の感情もない。灰狼はポスターを荒々しく剥ぎ取る。壁の穴が隠されていた。引き紐を引っ張れば、壁の穴を隠すように傍らの棚がスライドする。

 地下道を進む最中に、背後から爆音、そして土煙が舞い込む。誘い込まれた追っ手がまんまと罠に引っかかったのだろう。地下道を出れば太陽も月光もほとんど差し込まない下層であり、貧民街でも特に人気の少ない区画だ。

 更に似たような攪乱ポイントを2つ経由し、ようやく到着したのは終わりつつある街の原型が残る、だが廃墟群でもある旧市街だ。貧民プレイヤーでも特に居場所がない者でもなければ、旧市街には寄りつかない。旧市街よりも最下層の方がまだ『社会』があるからだ。

 野犬や犬ネズミ、ゴーストといったモンスターも跋扈する。更にはレギオンの出現率も高く、最近はそれ以外の奇妙なモンスターも目撃されている。だが、灰狼の知識ではせいぜい危険地帯という事くらいであった。

 

「ここです。マスターの到着を……待ち、ましょう」

 

 血の跡は限りなく隠したつもりだが、出血量が多すぎた。ミスを犯しているかもしれない。灰狼は到着した小さな神殿跡にて倒れ込む。背中にも銃創や裂傷がある。いずれもスイレンを守った時の傷だ。

 

「治療しないと。見せて」

 

「大丈夫です。自分で、できます。灰狼は……高性能……サポートユニットです、から」

 

「駄目。ほら、貸して」

 

 スイレンの慈母の笑みに絆され、灰狼は医療用具を手渡す。

 縫合糸、止血包帯、流血軟膏、各種回復・再生アイテム。元々の手持ちを含めれば物資に余裕はある。逃走資金も回収出来ている。ただし、食料だけはマスター基準の為か、ゴムのような触感の味を度外視した携帯保存食だった。

 荒れた呼吸を整えようとする灰狼を、スイレンは落ち着かせるように何度も頭を撫でながら治療を始める。

 

「お上手……なんですね」

 

 灰狼の横腹を縫い、左腕の銃創に軟膏を塗り込んで止血包帯を巻くスイレンの手付きは熟練のものだ。

 DBOにおいて応急処置や医療技術は周知されておらず、会得しているプレイヤーは稀だ。ほとんどのプレイヤーがアイテムや奇跡の使用で十分と考えているからだ。

 

『たとえば縫合糸。敵襲が無い、余裕がある時はコイツを使え。流血・欠損のスリップダメージを緩和させるだけじゃない。アバター修復所要時間も短縮される。それに何もダメージ関連だけじゃない。肉体のバランス、STR・DEXエネルギーの伝達、治療しないデメリットの方が数えたら切りがない』

 

 マスターは勤勉だ。ただし、その全てが戦闘・殺傷に集約されている。医療技術も戦闘継続の為だけに会得したものだろう。

 だが、スイレンは高級娼婦だ。正体はユニークスキル≪ボマー≫を有するリンネだとしても、長きに亘って戦場から身を引いていたはずだ。

 高級娼婦は教養が高いと聞いている。医療技術も持って当然なのだろうか。戸惑う灰狼の眼差しに気付いたのだろう。スイレンは少しだけ目を伏せた。

 

「……小さい頃からね、たくさん怪我をしていたから。だから慣れてるの」

 

「そう、なの……ですか?」

 

「うん。私の家はね、お寺だったんだ。お寺って分かる? 仏教……確か、浄土真宗『だった』のかなぁ。でもね、おじいちゃんがおかしくなっちゃって……」

 

 スイレンは灰狼の右目周りの血を拭い、薬を塗り込んで止血包帯を巻く。その手付きは優しく、灰狼は自然と警戒心を抱けずにいた。

 

「おかしく、ですか?」

 

「うん。お寺の裏山にあった祠から古い『何か』を見つけて、仏門を捨てた。ううん、おじいちゃんもお父さんもお母さんも、むしろ『本当の仏の道』だって信じ込んでいた」

 

 スイレンの両親と祖父は『何』を『見つけてしまった』のだろうか。

 

「学校にも行けなくて、友達もいなくて、ううん、それどころか戸籍さえなかった。認めてもらえていなかった。ネットなんて、もちろん論外だよ。外を知る機会なんてなかった」

 

 スイレンは水筒の水で濡らしたタオルを絞り、灰狼の頬を拭う。ゆっくりと、労るように、傷つけまいと恐れるように。

 

「私にとって、おじいちゃんが、お父さんが、お母さんが、訪れる信徒が……・全てだった。全て『だった』んだよ」

 

「……スイレンさん」

 

「はい、これで良し! 少しでも早く治るといいね」

 

「ありがとうございます」

 

 埃被ったテーブルを手で払い、スイレンは腰かける。灰狼はアサルトライフルの弾倉に手動で銃弾を詰め始める。

 元々は神殿を預かる神官の私室だったのだろう。古ぼけた祭具が飾られているが、いずれも触れれば壊れてしまいそうな程に朽ちている。そもそもとして、この神殿は何を祀っていたのかさえも分からない程だ。

 

「体の治りが早いね」

 

「灰狼はプレイヤーではありません。サポートユニットです。回復・再生力は灰狼の強みです」

 

 この調子ならば3時間以内に右目を除く身体の修復が見込める。ただし、それは継戦能力の低下だ。

 灰狼はスタミナ、オートヒーリング、アバター修復の全てを1つのエネルギーで賄っている。これらのバランスが保てている内は問題ないが、ダメージ……アバターが著しく損壊した場合、生命維持の観点からスタミナへのエネルギー分配が減り、スタミナ回復が悪化する。

 回復専念する休眠モードならばオートヒーリングとアバター修復速度を大幅に強化できるが、一定ラインまで回復するまで活動ができなくなる。現状ならば、右目の再生も含めれば4時間もあれば完全回復できるだろう。

 

(マスターが言っていた、暗殺者が特に好んで使うアバター損壊性能と修復阻害効果が高い武器ですか。想定よりも修復に時間がかかりそうです)

 

 より相手に深手を負わす為に、ダメージよりもアバター損壊を狙うのは対人戦の要だ。どれだけHPが多くとも、足を1本でも失えば案山子以下である。逆に言えば、アバター損壊対策は対人だろうと対モンスターだろうと重要だ。

 マスターのメインウェポン……贄姫の血刃長刀モードは緋血で刀身を覆って長刀と化し、カタナ特有の純斬撃属性攻撃を失う代わりに荒い鋸状の刃と化す。長刀故の攻撃力を保持しつつ、鋸によるアバター損壊性能と修復阻害効果を両立させ、なおかつチェーンモードの追加で一撃必殺と劇毒の超蓄積を可能とする。

 大物食いであり、同時に単身で敵陣に乗り込んで大立ち回りして敵戦力を文字通り『削ぎ落とす』。相手からすれば悪夢を具現化させたような武器だろう。

 灰狼の右目を貫いたヒートパイルも螺旋状の加工が施され、アバター修復阻害効果を高めている。他にもマスターの話では、モンスターにはあまり有効ではないが、修復阻害効果がある薬品を塗装した銃弾も大ギルドを筆頭に採用され始めているとの事だった。

 

(マスターは人々に恐れられていると聞きました。でも、灰狼には分かりません。人間は人間をこれ程までに傷つけ、苦しめ、死に至らしめる事に執着しているのに、どうしてマスターだけを恐れるのですか?)

 

 今日のマスターとスイレンを見守っていた灰狼は道行く人々の噂話を多く耳にした。

 他愛も無い話の中で、『英雄』への期待と渇望、そして【渡り鳥】という『バケモノ』への恐怖がまるで病のように人々を蝕んでいた。

 望まれるのは『バケモノ』を殺す『英雄』だ。だが、同時に人々は『英雄』を欲するからこそ『バケモノ』を求めているようにも思えた。自分達を導いて、守ってくれて、希望の光を見せてくれる『英雄』を絶対的なものにする『バケモノ』を。

 

(やっぱり分かりません。灰狼には……分かりません)

 

 銃弾を詰め終わった灰狼は、電磁索敵フィールドを展開して索敵を怠らず、だが心は乱れて膝を抱えて蹲る。

 

「……どうしたの?」

 

「な、何でもありません。何でも……ありません」

 

「何でも無いって顔してないよ。話してみて。こんな時だもん。心に抱えてるものは吐き出した方がいいよ」

 

 隣に座ったスイレンは水筒の水を注ぎ、灰狼に差し出す。受け取って一口飲めば、冷たい……だが保存料が入った薬品臭が校内から広がる。

 迷いながらも、灰狼は街で聞いた、『英雄』と『バケモノ』の話を聞かせる。スイレンは黙って耳を傾け、やがて一息吐いて天上を見上げた。

 

「人間は『弱い』から神様を求めるんだ。人智の及ばない存在を欲して呼びかける。それと一緒だよ。理解できなくて恐ろしい『バケモノ』。それを倒すのは人間より出でる『英雄』。死天使信仰と本質は何も変わらない。人間の『弱さ』が作り出した幻想」

 

「死天使……信仰?」

 

「灰狼ちゃんは知らない方がいい。知らなくていいよ。あんなのただの偏見だよ。私も反省しなくちゃ。【渡り鳥】さんに会うまでは、ものすごーく偏見と思い込みだらけだったもん」

 

 自嘲するスイレンは、だがそれも良い思い出になったと語るように清々しさすらも感じさせる目をしていた。

 

「【渡り鳥】さんって、辛辣な物言いも多いけど、意外と面倒見が良い世話焼きで、優しい……とは違うけど、気遣ってくれていて、上手く言い表せないけど……温かくて……でも、触れたら燃やし尽くされてしまいそうな危うさがあって……まるで……『火』みたい」

 

「灰狼も……そう思います。マスターは『火』です。暗闇の中で……独りぼっちで燃え続けてる……寂しそうな『火』です」

 

「……そっか。そっかぁ。そうなのかなぁ」

 

 何故かスイレンの頬に涙が流れた。灰狼には彼女が泣いた理由が分からなかった。

 

「今日ね、【渡り鳥】さんとデートしたよ。デートのつもりだったよ」

 

「し、知ってます。灰狼は……ずっと見てました。ちゃんと見守ってました! いつでも狙撃出来る体勢を維持していました! ほ、本当です!」

 

「信じるよ。灰狼ちゃんって、【渡り鳥】さんと同じで真面目だし」

 

 笑ったスイレンは今日を振り返るように、自分の右手を見つめて左手の指で何度も掌を撫でる。

 

「まるで『見えなかった』なぁ。あんなの初めてだった。【渡り鳥】さんは……本当に隠すのが上手だね。逆に、私の方が……うん、やっぱり【渡り鳥】さんで良かった。だって、こんなにも楽しかったの……生まれて初めてだもん」

 

 スイレンは灰狼の狼耳を撫でる。聴覚器官ではなく、多目的機能を備えた金属突起の保護組織なのであるが、感覚は鋭敏であり、擽ったくて灰狼は体を震わせる。

 

「付き合いは短いって聞いたけど、私よりも灰狼ちゃんの方がちゃんと『見えてる』んだね。少しだけホッとした」

 

「そ、そうですか? 灰狼はスイレンさんにとって有用でしたか?」

 

「もちろん。灰狼ちゃんが守ってくれなかったら生きてないし、それに……心配も無くなっちゃった」

 

 何を心配していたのだろうか。悩む灰狼の頭を撫でたスイレンは起き上がると部屋を漁り始める。

 

「何か食べるものものないかな。お菓子は贅沢だけど、缶詰とか……」

 

「ありません。マスターが自主的に缶詰を準備するはずがありません。マスターは味覚がありませんから」

 

「そっか。それも知ってるんだ。当たり前だよね。サポートユニットなんだもん。味覚の有無の把握は大切だよね」

 

 だが、マスターは何も教えてくれない。教える必要が無いと判断した事は、自分の事を何も語ってくれない。灰狼は踏み込むべきか悩む。それは自分がすべき事なのか、別の『誰か』の役割なのではないかと俯く。

 スイレンが部屋を漁っている間、灰狼は何度も装備と物資の確認を行う。周囲はたまに野犬やゴースト、そして貧民プレイヤーが通り過ぎるだけで、追っ手もマスターも到着する様子はない。

 いや、マスターならば電磁索敵フィールドを潜り抜けてもおかしくない。故に灰狼は視覚でドアが開く瞬間を心待ちにするのであるが、その時は訪れない。

 

(2時間以内に合流できなかった場合、プランLに移行。スイレンさんを連れて、ここから脱出する。プランLは、ま、マスターは……『死亡』の前提で……こ、行動すること。あと17分22秒。マスター……何があったんですか?)

 

 追跡を振り切るなどマスターならば容易い。ならば想定以上の戦力と交戦を? 灰狼は手汗を握り、緊張と焦燥を隠すようにアサルトライフルを何度も構え直す。

 マスターが死亡した場合、召喚は自動で解除されるのだろうか。維持されるのだろうか。判別する手段が無い。

 もしかして危機的状況なのではないだろうか。先の仮面の男のような危険人物と交戦したのではないだろうか。不安と最悪の想像が巡り、灰狼は生唾を飲む。

 

「落ち着いて。心配なのは分かるけど、まずは信じること」

 

 心安らぐ香水の抱擁。スイレンに後ろから抱きつかれた灰狼に抱きつき、耳元で囁く。

 

「助けに行きたい気持ちは分かるよ。だけど、信じて待つ事を蔑ろにしたら駄目。【渡り鳥】さんは灰狼ちゃんを信じて『仕事』を任せてくれたんだから」

 

「でも……マスターはすぐ無理をして……」

 

「それでも、待たないといけない時がある。勘違いしちゃ駄目だよ。『【渡り鳥】さんを信じて待つ』のと『【渡り鳥】さんの「力」を信じて待つ』のは全くの別。灰狼ちゃんが【渡り鳥】さんに信じて欲しかったように、灰狼ちゃんも【渡り鳥】さんを信じないと」

 

 灰狼の強張る肩を解すように、スイレンは彼女の肩を軽く叩く。そして、灰狼の首に小さな布袋を吊り下げる。

 

「これは?」

 

「お守り。私ね、≪裁縫≫持ってるから、ここにあったあり合わせの道具で作ってみた。ボロボロだけど灰狼ちゃんにプレゼント。お仕事が終わったら中身を見て。私からの特別報酬が入ってるから。気に入ってはくれなさそうだけど、良かったら使って」

 

「いただけません! マスターに怒られてしまいます!」

 

「いいの。灰狼ちゃんがこんなに頑張ってるのに、【渡り鳥】さんだと『サポートユニットになんで報酬を支払わないといけないんだ?』って言いそうだもん」

 

「そうでしょうか? マスターなら、お、お小遣い……くれそうです」

 

 少しの期待を込めて、思わず頬を赤らめながら灰狼が主張すれば、スイレンは一瞬だけ呆けて、やがて小さく笑った。

 

「そうだね! きっとそう! やっぱり、灰狼ちゃんの方がちゃんと『見えてる』んだね」

 

 笑い終えたスイレンは、透明感のある眼差しと微笑みと共に、灰狼の胸にかけられたお守りを撫でる。

 

「使っても使わなくてもいい。でも、受け取って。お願い」

 

「……分かりました。マスターに誓って、灰狼はスイレンさんからの報酬をいただきます。信じてください!」

 

「うん、信じました」

 

 スイレンと灰狼は向き合って笑みを交わし、だがスイレンは耐え切れなくなったように正面から灰狼を抱きしめる。

 その体は小刻みに震えていた。恐怖とは違う、別の何かに耐えるように。

 だが、灰狼はスイレンを抱くことができなかった。まだ分類できていない感情が湧き上がってしまったからだ。

 

「憶えてなくていい。忘れてもいい。聞いて欲しいの。私の名前。本当の名前。【六條 睡蓮】……それが『私』なの」

 

「六條……睡蓮。綺麗な名前です」

 

「私は嫌いだった。でも、やっと好きになれた気がする。【渡り鳥】さんのお陰で……やっと……私は……」

 

 聞かないといけない。聞いてあげないといけない。スイレンの『心』を受け止めてあげないといけない。灰狼は自分の感情に混乱しながらも、震える腕を伸ばして彼女を抱きしめようとした。

 だが、灰狼はスイレンを突き飛ばす。

 拒絶ではなく、救う為に押し飛ばす。

 

 

 

 轟音。壁を撃ち抜いた銃撃が灰狼の右腕を二の腕から引き千切った。

 

 

 

 灰狼は千切れた腕に未練なく、歯を食い縛って悲鳴を堪える。

 腕を千切り飛ばす程の威力。加えて電磁索敵フィールドの範囲外。高威力の狙撃……スナイパーキャノン! 攻撃の正体を特定した灰狼は、敵に自分達の居場所がバレていると判断する。

 だが、灰狼は目を見開く。狙撃に使われた、砲弾にも等しい大型銃弾。壁を撃ち抜いたそれは地面で煙を上げ、だが赤い血が溢れ出し、まるで闇術のように形を成して『灰狼』に牙を剥く。

 スイレンさんではなく灰狼に!? 自分が攻撃対象になった事で、灰狼は分析を開始する。

 最初の狙撃……回避できたのは、一見すればただの廃屋であるが、隠れ家として壁に金属板が覆われていたからだ。≪工作≫・≪建築≫を持たないマスターによる仕事であったが、それでも貫通に僅かなラグが生じたお陰でスイレンを引き剥がせた。

 だが、そもそも最初から灰狼を狙っていたとするならば? スイレンを突き飛ばす際に灰狼の位置もズレて、心臓を狙ったはずの狙撃が腕に命中したのだ。

 

(護衛の灰狼を排除する為? 違う! 今の狙撃……スイレンさんを狙っていれば即死もあり得ました。そうでなくとも逃走不可能になるダメージがありました。最初から狙いは灰狼のみ!)

 

 食らい付く血のような何かを、電磁ショートブレードで切り捨てるも、次弾が左太股を掠める。

 

「ぐぎぃ!? あがぁ……!」

 

 直撃していないのにこの威力! 肉が削がれている。いや、『喰われている』!? 銃弾自体が生きているのだ。灰狼に命中した瞬間に攻撃範囲を拡張させて抉り取っているのだ。

 まるでマスターのパラサイト・イヴのような攻撃……! 灰狼は止血する暇もなく、部屋の隅で怯えて丸まるスイレンを見つめる。

 守らねばならない。スイレンさんを守る。マスターに……託されたのだから! 灰狼は悲鳴を噛み殺すためではなく、自身を奮い立たせて決意する為に歯を食いしばる。

 

「スイレンさん……地下へ行ってください。地下水が流れていて、小舟が準備されていています。途中で桟橋がありますので、そこで……降りて……真っ直ぐ進むと礼拝堂があります。右から6番目にある、燭台を引くと……隠し扉が……そこから真っ直ぐ進めば……街の外縁で……」

 

 全てを伝えるより前に狙撃が喉を掠める。危うかった。あと1ミリでも近ければ喉を食い破られていた。

 

「そこからどうすればいいの!?」

 

「わ、分かりません! プランLはマスター死亡が前提で、灰狼が1人でスイレンさんを守るプランで……それで……!」

 

 狙撃のインターバルが短くなっている!? 灰狼は狭い室内で逃げ回るのは不可能だと判断する。

 

「逃げてください! マスターは生きています! 生きている限り、必ずスイレンさんを見つけ出します! 必ずです! 行ってください!」

 

「でも……!」

 

「行ってください! 灰狼……大丈夫です。どうかご無事で。マスターと再会できたら……灰狼は後から合流するとお伝えください。お願いします」

 

 この敵に追跡を許せばスイレンは死ぬ! 灰狼は意を決して外に飛び出す。

 狙撃ポイントは割れている。狭い室内でないならば回避はできる! 灰狼は遠方からの赤い狙撃を大きく躱し、傷口から血飛沫を上げながら加速して接近を試みる。

 旧市街に高層の建物は少ない。現・終わりつつある街のような立体構造の複雑怪奇な迷宮ではないが、それでも建物の間を通り抜ければ狙撃リスクは下げられる。

 問題はどうやって灰狼の位置を正確に特定したのか。スナイパーキャノンともなれば射角は限られているので接近するほどにリスクは低減できるが、不安が拭えない。

 

(いいえ、灰狼の優先すべきは2つ。スイレンさんの安全確保と灰狼の生存! マスターの為にも、この命……まだ失うわけにはいきません!)

 

 見えた! 狙撃に利用されているのは他よりも高い4階建ての建物だ。元々は如何なる施設だったかも分からぬ焼けて半壊しているのは獣狩りの夜のせいか、それとも終わりを間近に控えた街であったが故にか。

 まずは狙撃手を確認すべく、曲がり角で止まって様子を窺う。だが、足下の違和感が背筋に悪寒を走らせ、飛び退かせる。

 コンマ1秒にも満たないズレ。それが灰狼の生死を分けた。炸裂した地雷をまともに受けていれば、足の1本は失っていただろう。だが、幸いにも両足共に形を残している。

 こちらの動きを完全に読んだ地雷の設置。尋常では無い。だが、ここで逃げれば背中から撃ち抜かれる確信があった。

 

(右足が……! いいえ、まだ戦闘続行可能です!)

 

 右足は足首から先が骨まで露出する程に肉が抉れて骨まで露出し、脛から膝にかけて皮膚が飛び散って肉から血が零れている。機動力は半減したが、灰狼は苦悶の表情で立ち続ける。

 片手ではアサルトライフルを支えきれない。狙いを付けられない。故に装備するのは電磁ショートブレード。灰狼は逆手に構えて地雷から何とか立ち直る。

 だが、『上空』からの狙撃が右狼耳を抉り飛ばす。

 頭部貫通しなかったのは狙撃手のミス。灰狼の電磁索敵フィールドの範囲を見極めていなかったからだ。あるいは最初から知らなかったのか。

 ギリギリで回避した灰狼はまだ動く左足で跳び、狙撃手の着地狩りを狙う。

 だが、地面から突き出した血の如き刃が灰狼の左手首を半ばまで断つ。電磁ショートブレードが地面に落ちる。

 

 

「王手、飛車角落ち。他愛ない」

 

 

 からん、からん、からんと鳴るのは、旧市街にも戦場にも不相応な漆塗りの高下駄。

 纏うのは絢爛なる赤。花魁の如き和装束を着崩し、豊満なる胸元から肩にかけて露出している。

 夜風に靡くのは純白の髪。双眸を覆うのは血で汚れた包帯。紅を塗った唇は優雅に笑みを描いている。

 引き摺るのは格好に不釣り合いなスナイパーキャノン。本来ならば接地による固定射撃が前提である銃火器を軽々しく片手で持ち上げている。

 雲が割れて月光が降り注ぐ。白髪の女を照らし、伸びる影は人の形ではなく……猫。

 

「あな、たは……?」

 

「猫さ。知らないのかい? 狩人と夜の女神の仲人さ。猫なのに仲人だ。面白いだろう?」

 

 楽しそうに袖で口元を隠して笑う『猫』は、灰狼の目が向くスナイパーキャノンを見せつける。

 

「この世界……DBOでは猫と言えば女傭兵らしくてね。それにあやかってみたんだ。初めてにしては悪くない腕だろう? 個人的には弓矢の方が性に合ってるんだけど、技術の進歩には適応しないとね。私も銃で追い詰められたんだ。いやぁ、銃は痛いね。内臓がグチャグチャにされちゃうんだ」

 

 地面から突き出した赤い棘。それが灰狼の腹を一切の抵抗なく貫く。そして、小さな突起を生やし、更にドリルのように回転する。

 

「いぎぃぁああああああああああああああああああ!?」

 

「そう、こんな風にね」

 

 赤い棘の威力が大きすぎて吹き飛ばされた灰狼は、地に倒れて痙攣する。

 アバター損害甚大。第3生命維持ライン突破。即時、修復再生に専念すべく休眠モードが求められる。

 離脱。離脱。離脱離脱離脱! 頭では分かっていても、体が追いつかない。

 理由は分かっている。痛みだ。初めて経験する痛覚だ。『猫』が突き刺した棘によって、灰狼の全身の負傷に痛覚が適応され、初めての激痛で動けなくなってしまったのだ。

 声すらも出なくなる程の痛み。蹲る灰狼に、『猫』は加虐心に満ちた笑みを浮かべて見下ろし、そして下駄で腹を蹴り上げる。

 

「ああ、ごめん。ここまではされていなかったよ。再現しきれなかった。私の悪い癖。ついつい嬲りすぎてしまう。でも仕方ないよね。だって、私は猫だもん」

 

「あ……ぎぃ……が……」

 

「痛覚をアンロックした。どうして出来るかって? 私は猫だからさ。説明になってない? それも仕方ない。だって、猫は気まぐれなんだ」

 

「うぐ……あな、たは……『何』……です、か?」

 

 地面に叩き付けられた灰狼は息絶え絶えに尋ねる。尋ねずにはいられなかった。

 幸か不幸か。『猫』の興味を引けたのだろう。彼女はスナイパーキャノンの銃口を灰狼の頭に押しつけこそするが、トリガーを引かなかった。

 

「『何』か。悪くない。少しは分かっているようだ。だけど、冥土の土産を教えるのは趣味じゃないし、請われても教えない。猫だからじゃない。私はお前が嫌いだからだ」

 

「灰狼は……貴女を……し、りま……せん」

 

「うん、初対面だ。キミは何も悪くない。でも、とっても悪いんだ。『その場所』は私のものだ。私のものになるはずだったんだ! あの時、私が死んでいなければ! 私がいたはずなんだ!」

 

 意味が分からないが、『猫』はとても怒っている。だから灰狼は謝りたかった。だが、謝りたくなかった。

 この場所……マスターのサポートユニット……マスターの『武器』。灰狼は残された左目で、睨むことはなく、静かに『猫』を見つめる。

 

「嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ嫌いだ嫌いだ! 我が友を知った気になってる『恐怖』の使徒も! 天敵を信奉する殺戮者も! 家族を作って群れる水面の映しも! 愛されて、愛しながらも『答え』に至れずに照らせなくなった赤紫の月光も! 嫌いだ! 嫌いだ! 大嫌いだ!」

 

 子どものように泣きわめき、『猫』は影を赤く濁らせる。赤き影はスナイパーキャノンに注がれていく。まるで彼女の耐え難い嫌悪……何よりも煮え滾る意思を注ぎ込むように。

 

「我が友を参考にして設計したんだ。少し良い『素材』が手に入ったものでね。だが、足りない。この能力を使いこなすには、より良質な素材が必要だ。お前は使える。食べてやる」

 

「……無駄、です。灰狼を食べても……能力は……奪え、ません。灰狼の能力の源は……マスターがお持ちですから」

 

 マスターが装備した首飾り。それこそが灰狼の本体だ。ここで死ねば破損するが、それでも素材としてグリムロックならば有効活用してくれると灰狼は確信していた。

 

「そうか。だったら死んでくれ。嫌いだ。嫌いだ。大嫌いだ。卑しくも夜明けを求め、黄金の稲穂を食い荒らす! 夜の闇を払う篝火の意味も知らずに! 駄犬は死んで鍋になって喰われてしまえ」

 

 篝火。血で染まった灰狼の左目に映り込むのは、決して消えることがないヴィジョン。

 月も星も奪われた闇夜で、血の海を歩む。傷から溢れる血が溢れ、その身を焦がす炎は灰を散らし、だが刃は闇を裂く焔火。

 破片と灰が蛍火となって舞う。重なるのはスイレンの笑み。

 分からない。分からない。分からないことだらけだ。だが、灰狼は自分がみつけた、たった1つの真実を告げる。

 

 

 

 

「『火』はいつか陰るもの」

 

 

 

 

 破裂した轟音。頭部を破砕するはずだった銃撃を、銃身を掴んで逸らした灰狼は『猫』を見上げる。

 

「灰狼は……知ってます。『火』はいつか陰るものだって、知ってます。『何か』を燃やさないと……いけないって……マスターは、大切なものを、燃やしてでも戦う。傷つき、苦しみ、それでも……『約束』したから」

 

 分からない。分からない。分からない。だが、『分かる』のだ。灰狼は自分が生まれた理由を知らずとも、生まれた意味があり、それは祈りにも似た、呪いにも似た、だが願いだった。

 それは噛み合わない歯車だった。ただ衝動のままに灰狼を突き動かしていた。

 

「灰狼は分かりません。祈りも、呪いも、願いさえも分かりません。でも・・・・・決めました。灰狼は自分に『約束』します」

 

「……何を?」

 

 問いかける『猫』に、『狼』は怒りも、悲しみも、哀れみも、憎しみもなく、静寂であるからこそ意思を貫く眼差しを向ける。

 

 

 

 火はいつか陰るもの。

 

 万物を焼き尽くす業火であろうとも必ず消える。

 

 どれだけ薪があろうとも、燃やし続けるこそが火であるならば、いつか必ず『その時』は来るのだ。

 

 ならば傍にいよう。

 

 燃え尽きる時だけは、たとえマスターの心が『独り』であるとしても、『1人』ではないのだと伝えよう。

 

 どうか孤独に囚われないように。優しくあろうとしたマスターの為に涙を流せる者が見届けてもいいはずなのだから。

 

 

 

 知りたがりの『猫』をからかうように『狼』は笑う。嗤う。笑う。嗤う。

 

「教えません。知らなかったんですか? マスターは秘密がたくさんあるから、灰狼もたくさん秘密があるんです。似たもの同士なんです。貴女と違いまして、主従は似るんです」

 

「……訂正してやる。大嫌い。大嫌い。大々嫌いだ」

 

「灰狼は嫌いじゃありません。仲良くしませんか?」

 

 銃身で殴り飛ばされた灰狼は、まだ半ばで繋がってる左手首を確認し、『猫』に犬ネズミを誘う薬液玉を投げつける。

 だが、『猫』は当たらず、避けず、掴み止める。ガラス玉は割れずに『猫』の手にある。

 

「知らないだろうけど、猫は器用なんだ。お前のような犬とは違ってね」

 

「灰狼は狼です」

 

「それは悪かった、駄犬」

 

 薬液玉を灰狼へと投げ返した『猫』は嘲う。

 避けられない。この手では受け止められない。この体では犬ネズミの群れから逃げられない。

 絶望は無い。最後まで抗わねばならないという意思が突き動かす。

 だが、どれだけ意思があろうとも、行動に移そうとも、言葉で示そうとも、それで結果が必ず変わるわけではない。

 結果とは偶然と必然の積み重ねである。

 情報を収集し、能力を磨き上げ、意思を持って行動に移す事によって必然を蓄積し、偶然という揺れ幅に挑む。

 ならばこそ、これは必然だ。

 薬品玉を切り裂いたのは『光』。そう見紛う程の一閃。

 それを人は『閃光』と呼ぶ。

 薬液で濡れた刀身は変形してスライドし、刀身に隠された銃口を露わにする。そこから吐き出されるのは銃弾であり、『猫』の胸を真っ直ぐに狙って放たれる。

 これに対処できない猫では無く、スナイパーキャノンでガードするが、直撃と同時に炸裂する。銃弾と思われたのは、小型のグレネードだったのだ。サイズに見合わぬ爆発の威力と範囲である。

 

「みゃぁ!?」

 

 まさしく『猫の悲鳴』だった。まるで後ろから尻尾を踏みつけられたかのような驚きの声である。

 

「……灰色の髪と『犬耳』。貴女が【渡り鳥】君のサポートユニットね?」

 

 灰狼の前に断つのはフード付きマントを羽織った女剣士。教会の意匠こそあるが、防具からして教会剣のような正規の戦力では無いだろう。

 右手に有するのは教会公式の変形刺剣レイテルパラッシュ……をベースにして改造が施された試作品である。だが、武器の詳細までは灰狼の知識の範囲外であり、変形武器という認識に止まった。

 

「つぅぅううう……それにしても酷い反動ね。GRっていう有名な鍛治屋さん考案の改造が施されたらしいんだけど、反動が強すぎるわ。あとで低威力改造にしてもらわないと」

 

「ああ、その方がいい。驚いた。実に驚いたよ」

 

 土煙の中から『猫』が現れる。無傷でこそがないが、目立った負傷もなかった。

 

「プレイヤーじゃないわね。何者なの?」

 

「プレイヤーだよ?」

 

「このグレネード、最前線でも通用する重量級鎧にもダメージを与えられる設計なのよ。そんな軽装で直撃を受けて、HPが1割も減っていないなんてあり得ない。何よりも……貴女の気配はプレイヤーじゃない」

 

「理論を重視するが、感情・直感が優先されるタイプ。分かりやすいな」

 

 クスクスと『猫』は笑う。スナイパーキャノンが溶けて消えると身長を超える長刀が赤い影によって形成される。

 再び刺剣モードに戻したレイテルパラッシュで女剣士は応じ、苛烈な火花を散らす。

 リーチと純斬撃属性の切断力に秀でた長刀。幅広の刀身で刺剣でありながら斬撃にも対応できるレイテルパラッシュ。剣戟で生じる火花は加速度的に増加し、いつしか2人の間には真昼のように明るくなる。

 

「パワーは私の方が上のようだ」

 

「そう。でも、スピードとテクニックは私の方が上みたいね」

 

 一際大きな火花と共に交差すれば、『猫』の右肘、左脇腹、右太股、右鎖骨の4カ所から血飛沫が舞う。斬撃と突きを深く受けてダメージを負った『猫』に対し、女剣士は無傷だ。

 赤い影が蠢き、形を成す。それはまさしく猫だ。灰狼を襲った銃弾にも赤い影が付与されていたのだろう。形を変えながら女剣士に襲いかかるが、彼女の左手に白光が凝縮する。

 奇跡【白教の大剣】。それは魔法・ソウルの大剣に似てた、光属性の大剣を生み出して振るう奇跡である。だが、ソウルの大剣が生み出されたのは白教誕生よりも後であるならば、その奇跡が意味するものは神の英智と物語ではなく、収奪である。

 白教の大剣で猫の影を跡形も無く粉砕するも、『猫』は直撃を免れ、音も無く女剣士の背後を取っていた。背後からの奇襲を灰狼は急いで伝えようとするが、女剣士は安心するように露わになっている口元だけで優しく微笑ませる。

 既に変形済みのレイテルパラッシュを逆手に持ち、長刀が薙がれるより先に銃口を向ける。

 

「この距離なら――」

 

 躊躇無く引かれたトリガー。放たれたグレネードは指向性のある爆発を起こし、女剣士にはマントを踊らせる熱風だけを、『猫』には血肉を焦がす爆風を浴びせる。

 

「これ、性質の異なる多種のグレネードを装填できるのが強みなのよね。範囲爆破型はあまり効果がなかったみないだけど……」

 

「ぐっ……あぁ……!」

 

 HPの減りは少なくとも体が焦げている『猫』は苦しげに息を漏らす。

 

「オブジェクト損壊に特化させた指向性グレネードは効果があったみたいね。3センチの要塞用イジェン鋼板に穴を開けられる性能らしいのだけど、『対モンスター』にも有効みたい」

 

 強い。灰狼が手も足も出なかった『猫』を一方的に追い詰めている。

 

「さすがは……あの【黒の剣士】と同格だった女剣士。DBOでの戦闘経験は不足していると思っていたが、これ程とは。もう既にこちらでの戦いは我が物にしているというわけか。他の連中が石英ならば、お前はまさに金剛石だ。格が違う」

 

「…………」

 

「隠さなくてもいい。私は知っているよ。お前の正体も、何を失ったのかも、守るべき者も、ぜーんぶ知ってるんだ。私は猫だから知ってるんだ」

 

 超加速からの突き。だが、『猫』はそれこそ読みやすいとばかりに軽々と躱し、高下駄を用いたサマーソルトキックを穿つ。だが、女剣士は顎を引いてこれを躱し、逆に連続突きで追い打ちをかけるも、車輪のように宙を舞いながら大きく後ろへと飛び退いた『猫』は廃墟の屋根に着地する。

 

「怒った。怒った。とっても怒った。先程までの感情を御し切れていた剣技が台無しだ。殺気塗れで実に避けやすかった。何故かって? 私は猫だから避けられるんだ」

 

「……ユイちゃんに手出ししたら許さない」

 

「仕返しに子どもを襲わない。それに、お前は嫌いじゃない。むしろ好きだ」

 

 好意を示す『猫』に、女剣士は不愉快そうに剣先を向ける。だが、安易に間合いを詰めないのは『猫』の底知れなさを軽視していないからだろう。

 

「……恐怖の使徒に勘付かれたか。あの女は嫌いだ。嫌いだ。大嫌いだ。今夜はここまでか」

 

 面倒臭そうに欠伸をした『猫』は、息絶え絶えの灰狼を見下ろし、やがて鼻を鳴らすと閉ざされた月光と共に夜の闇へと消えていった。

 脅威が去ったと判断しただろう女剣士は剣を腰に差し、倒れ伏した灰狼の体を抱き上げる。

 

「貴女は?」

 

「正式所属では無いけど、教会の人間よ。主な請負業務は聖遺物探索なんだけど、人手不足で色々と厄介な事件にも駆り出される事があるの。今回みたいにね」

 

「マスターとスイレンさんの居場所は明かしません」

 

「誤解しないで。私の仕事は【渡り鳥】くんの援助よ。スイレンさんを引き渡してもらえないならば、【渡り鳥】くんが信用してくれる戦力を派遣することになったの。それで白羽の矢が立ったのが私。アンナよ。よろしくね」

 

「マスターと仲がよろしいのですか?」

 

「…………」

 

 フードで顔を隠した女剣士の視線が彷徨うのを感じ取った灰狼は訝しむが、10秒ほどの沈黙の末に彼女は大きく頷いた。

 

「もちろん♪ 姉弟みたいな関係だよ!」

 

「ほ、本当ですか?」

 

「うんうん♪ 2人だけの秘密を共有したり、一緒にご飯を食べたり、相談に乗ってもらったり! 嘘じゃないから後で尋ねてみて」

 

 何故か妙に上機嫌になった女剣士のアンナは奇跡で灰狼を回復させる。だが、プレイヤーならば確実に死亡している負傷だ。またサポートユニットであるが故に、プレイヤーと違って回復アイテムや奇跡の効果が低減される。

 

「酷い怪我。専門的な治療を受けないとまずいかもしれない。すぐに応援を呼ぶわ」

 

「これくらい問題……ありません。灰狼は頑丈です。それよりも……」

 

 アンナには『猫』から助けて貰った恩義がある。ここで不信と非礼で応じれば、マスターに対して不利益を被ることになりかねない。故に灰狼は言葉を選ばねばならなかった。

 

「どうして、ここが? 灰狼達の追跡は不可能であったはずです」

 

「……貴女達に差し向けられた追っ手はほぼ全滅していたわ。【渡り鳥】君らしいトラップね。でも、私の相方はこの手の類いに滅法強くて、逃走経路と僅かな痕跡から貴女達の潜伏先候補を3カ所まで絞り込んだの。私はその内の1つを探っていただけ」

 

「そう、ですか。灰狼のせいで……」

 

「……相方が異常なだけよ。あの人はプロだから」

 

 だが、追跡を許したのであれば『猫』に補足されたのは灰狼の能力不足があったからこそだ。

 マスターに信用されたのに! 灰狼は震える足で立ち上がり、スイレンの逃亡先へと向かうべく踏み出す。

 

「動いちゃ駄目! その傷、プレイヤーなら死んでもおかしくないわ!」

 

「問題ありません」

 

 だが、立ち上がった拍子に脇腹と右足から出血し、ただでさえ赤く汚れていた止血包帯から血が噴き出す。

 

「無理したら駄目。貴女の傷は精神でどうにかなるレベルを超えてるの」

 

「それでも行かないと。マスターに託されたんです! マスターも……きっと向かっているんです!」

 

「……分かったわ。私も一緒に行く。肩を貸すわ」

 

 ああ、この人はきっと優しい人なのだろう。アンナは裏表なく善人であり、心から自分を心配してくれていて、教会の援助として駆けつけてくれたのも事実なのだろうと受け入れる。

 

「駄目です。アンナさんは優しくて良い人なのだと灰狼は信じたいです。でも、マスターは信じません。殺さないにしても無力化します」

 

「……そうかもね。【渡り鳥】くんなら、私の手足を千切ってから真偽を確かめるくらいはするかも」

 

 苦笑するアンナに、逆に灰狼は驚く。やはりマスターの知人であるのは間違いないのだろう。

 

「灰狼は……マスターにそんな真似をさせたくありません。マスターは……容赦も妥協もしませんから。それに……」

 

 もう1つ、灰狼には切実な問題があった。決して避けられない危機だ。

 

「アンナさんはしばらくここから動けません」

 

 旧市街の側溝や排水口から続々と湧き出すのは犬ネズミ。それらは一直線にアンナを目指してくる。

 これは予想外だったのだろう。彼女の頬が引きつき、錆びた歯車を回すように体を回転させて灰狼を見下ろす。

 

「も、もしかして、さっきの薬品って……妙に臭いと思ったけど……まさか!?」

 

「はい。犬ネズミを集める薬です」

 

 飛びかかる犬ネズミを切り払ったアンナは、地上にいては不味いと屋根に跳ぶが、犬ネズミは興奮して仲間を踏み台にしてでも迫ってくる。

 アンナの腕ならば犬ネズミの群れから逃げ切るのは容易い。だが、まずは数を減らさねばならないだろう。グレネードで一掃したくても数が多すぎるからだ。

 この埋め合わせは必ずします! 胸の内で謝罪しながら灰狼はあんなに背を向けて走り出す。

 まだだ。まだ間に合うはずだ。スイレンと合流し、マスターを待つのだ。灰狼は全身の痛みに唸りながら、それでも歩みを止めなかった。

 

 

▽      ▽       ▽

 

 

 グレネード残弾無し。レイテルパラッシュに付着した犬ネズミの血を払い、アスナは溜め息を吐く。

 軽く200を超える犬ネズミの死体。逃げようと思えば逃げ切れたのであるが、アスナは丁寧に駆逐する事を選んだ。人気が無い旧市街とはいえ、貧民街さえも追われたプレイヤーがいないわけではないのだ。下手に逃げてトレインの犠牲を作りたくなかった。

 

「ふむ、死屍累々とはこの事だな」

 

「遅いわ。【渡り鳥】くんのサポートユニットには逃げられた。血痕から追跡できそうだけど、あの子は馬鹿じゃない。素直に追わせてくれないわ」

 

「こっちが当たりだったか。となると、私が担当しなくて正解だったな。キミと違って私は信頼されるとは思えない」

 

 咥えた煙草を揺らすスミスの頬には血が付着している。アスナと違って犬ネズミでは無い。プレイヤー……人間の返り血だ。

 

「それで、どうだったかね?」

 

「奇妙な何かに襲われたわ。プレイヤーじゃなかった。モンスターでもなかった。NPCが最も適切だと思う。ヴェノム=ヒュドラかもしれないけど、断定するには情報が少なすぎる。でも、【渡り鳥】くんのサポートユニットに個人的な恨みがあるみたいだった」

 

「まぁ、彼には敵が多いからな。しかし驚いたよ。まさかサポートユニットとはな。それも多機能の獣人型だ。あらゆる工房がサンプルとして研究したがるだろう。彼と敵対するリスクとはとてもではないが釣り合わないだろうがね」

 

 同意だ。単独行動・戦闘を得意とする【渡り鳥】にサポートユニットは最も縁遠く、また本人も用いたがらないだろう。だが、アスナは心から安堵していた。

 まずはサポートユニット。そこから初めていけばいい。少しずつ、少しずつでもいいから、誰かと共に生き、戦い、笑えるようになればいい。

 

「追いかける?」

 

「いや、タイムリミットだ。テラ・モスキート対策の水銀蓮の香が間もなく届く。効果は低いが、スタミナ回復速度低下のデバフが付いて吐き気や倦怠感が予期されるそうだ。私と君は散布部隊を護衛しつつ、テラ・モスキートの本体を潰して回る。クリスマス前のボーナスみたいな仕事だ。報酬は高く、だが仕事は簡単。最高だね」

 

「……予定より早いのね。この調子なら夜明け前までに主要区画はほぼカバーできるわ」

 

「テラ・モスキートはフロンティア・フィールド≪旧都の湿地≫で猛威を振るって『いた』モンスターだ。水銀蓮の香で対策は必須であったし、当然ながら研究・対策は進んでいた。≪旧都の湿地≫の領有権を獲得した聖剣騎士団には多量の在庫があるし、別の材料を混合することでより広範囲に効果を発揮する試作もあるそうだ」

 

 アスナには知らされていなかった情報だ。眉を顰めるアスナに、スミスは特に珍しいことでもないと紫煙を吐く。

 

「政治という奴さ。先の大騒動で教会に大きな譲歩をしたとはいえ、腐っても大ギルドだ。先の件もあるから『街を救ったヒーロー』という分かりやすい人気取りはしておきたい。明日の朝刊を心待ちにしたまえ。見出しはこうだ。『終わりつつある街を救った聖剣騎士団。教会は最大の賞賛を贈る』。大多数の人間は政治よりも明日の食事、ゼロの数が多い貯金、不自由でも安定を好む。喜んで盲目に喝采するさ」

 

「……だったら、最初からスイレンさんを確保して時間稼ぎなんてする必要はないじゃない」

 

「プランBは常に必要であるし、C、D、Eと数はあるだけ望ましい。それに騙すならば味方からと言うだろう?『教会は焦っている』と思い込ませることで、こちらのカードが無いと敵を増長させて隙を作るのは定石だ。お陰でスムーズに水銀蓮の香は夜明け前までに設置完了できる」

 

「だったら、哀れじゃない。【渡り鳥】くんも、あの子も、スイレンさんを守る為に全てを敵に回すつもりで戦っているのに、こんなの……!」

 

「ただの道化だな」

 

 あっさりと切り捨てたスミスに、アスナは感情を堪えきれずに睨み付ける。だが、そもそもスミスが画策したことではなく、故に怒りをぶつけるのはお門違いでもあるからこそ暴言を呑み込む。

 

「スイレンをわざと泳がせ、≪ボマー≫を狙う不穏分子を【渡り鳥】に処分させる。身内の膿み出しと粛清を、報酬を支払わずに勝手にやってくれるんだ。実に安上がりかつ効率的だ」

 

「……許せない」

 

 個人の抗いなど組織のパワーゲームにおいて無意味だ。だが、それでもアスナは憤りを隠せなかった。

 

「だが、本当の道化は果たして誰だろうな」

 

 アスナの義憤を淡々と眺めたスミスは、だが嘲うように呟く。

 雪は降り続ける。夜の闇に相応しい凍てついた空気は、まるで夜明けを拒んでいるかのようだった。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 これで47人目。安価な革装備を夜間の隠密ボーナスをタカ面ルブラック・コーティングが施されている。装備も同様だ。暗器ではないが暗殺仕様だ。

 最新素材・技術では無いが、廉価版の塗料や素材が出回り、市場獲得の為に加工技術が公開されている。多くの小さな魚を獲る為に危険な素材・技術がばら撒かれた。3大ギルドは純粋無垢なる秩序の守り手ではない証だ。

 殺した暗殺者の首には特徴的なタトゥーが入っている。4枚羽根の風車と円……まるで車輪だ。

 

「暗殺ギルド【旋風の車輪】か。ギルドエンブレムで偽造不可」

 

 暗殺ギルドは犯罪ギルドの亜種だ。

 一言で犯罪ギルドと纏めても色々だ。娼館や『見世物』などのグレーゾーンの商売を手広く行うフォックス・ネストやエバーライフ=コールは、言うなれば裏の商業ギルドだ。チェーングレイヴは荒事を代行する用心棒であり、犯罪ギルド同士の無闇な抗争を防止する、裏の治安維持機関と呼んでも差し障りがない。

 ダンジョン、フィールドでプレイヤー、パーティ、更には商業ギルドの隊商を狙い、これを売り捌くのは盗賊ギルドだ。地下の闇市場には盗賊ギルドから流れてきた装備、アイテム、素材が売られている。もちろん、殺して奪った遺品もだ。より闇が深い場所では人身売買も行われている。

 暗殺ギルドはその名が示す通りに殺しを含めた暴力行使を生業とする連中の寄り集まりだ。言うなれば裏の傭兵だ。だからといって実力が秀でているのかと問われれば違うし、場数を踏んでいるのかというとそれも異なる。

 犯罪ギルドも殺しをやる。専属の殺し屋や実行部隊を飼っている。だが、組織だからこそ外部の者を雇って使いたい時がある。言うなれば大ギルドが傭兵を雇うのと同じ感覚で暗殺ギルドに依頼するのだ。

 ……まぁ、オレに言わせれば暗殺ギルドだろうとサインズ所属の傭兵だろうと殺しは殺しなのだがな。唯一の決定的な違いがあるとするならば、サインズ傭兵は対人・対モンスター・対組織・探索に至るまで、自身の素質・能力・装備を考慮して多岐に亘るミッションを単独戦力を商品にして請け負うのに対し、暗殺ギルドはその名の通りで暗殺……対人に特化されているという点だろうか。

 DBOにおいてレベル差は絶対では無い。レベル100のプレイヤーであろうとレベル1のプレイヤーに囲まれて袋叩きにされたら、何も出来ずに死ぬことだってある。まぁ、普通はそんな状況になるより前に完全包囲させず、また包囲を突破できるだけの地力の差があるんだがな。

 まぁ、さすがに1と100は極端だが、レベル差が20くらいならば対モンスターと違って覆せない差ではないし、高レベル帯になるほどに装備もスキルもステータスも充実するので、そこまでレベル差が絶対的ではなくなってくる。

 とはいえ、装備……特に防具はレベルによる性能制限が大きいからな。低レベルでは装備条件ステータスを満たしていても性能を十二分に発揮しきれないし、逆に高レベルが低レベル帯の防具を装備したら標準以上の性能を引き出せる。まぁ、わざわざ低レベル帯の防具を装備する意味などほとんど無いのだがな。それこそレベル偽装以外では。

 逆に武器は正直だ。装備条件さえ満たせばいい。武器スキルさえあればステータス補正も得られて性能をより引き出せる。熟練度を高めれば更にだ。熟練度はプレイヤー個人に蓄積されるポイントと武器に蓄積されるポイントの2種類があり、後者ならば別プレイヤーが購入・奪取すれば熟練度を引き継げる。熟練度上昇には武器スキルの有無も関係ないので、後者を職業にした熟練度請負という仕事もあるくらいだ。

 まぁ、余程に信用があるか、契約をしっかり固めてもいない限り、持ち逃げされたり、所有権を奪われて逆に盗人呼ばわりされたり、最悪の場合は売り払われて2度と取り戻せなくなる。故にオーダメイドやカスタム品はまず任されない。あくまで大量生産品がターゲットの仕事だ。

 閑話休題。余計な事を考えてしまったな。ともかく暗殺ギルドは対人に特化された、殺しを含めた暴力行為を裏専門で請け負う連中が所属するギルドだ。ギルド特有の結束は無いに等しく、ギルドを運営するギルドリーダーを含めた幹部はサインズの真似事……斡旋、営業、報酬を含めた契約の取り纏めがメインだ。

 旋風の車輪は暗殺ギルドの大手とされている。即ち玉石混交だ。食い扶持を求めて殺しに生きる道を求めた貧民プレイヤー。大ギルドでも制御しきれなくなった元暗部の快楽殺人者。サインズから再三に亘る警告を無視して追放された元傭兵までいる。

 誤解する者も多々いるが、確かに傭兵は殺しをする。依頼主の敵対勢力を、罪も無い相手を殺す事も珍しくない。オレのように粛清を含めた暗殺などの汚れ仕事を任されることもあるだろう。だが、それは職務の1つに過ぎない。

 ……サインズや専属先のクラウドアースから再三に亘って警告を受け、謹慎処分や報酬減額どころか違約金の常連であるライドウでさえ、好き勝手やるギリギリのラインを見極めている。逆に言えば、追放・暗殺対象にならず、自身の有用性を証明し続けている脅威のバランス感覚の持ち主でもあるのだが。

 オレも随分と殺しているが、『依頼中』は基本的に依頼範疇でしか殺しは行わない。それ以外も基本的には『正当防衛』以外では殺さない。サインズも認めてるし、オレがした暗殺を追及しようものならば、3大ギルドのいずれも真っ黒な裏事情を暴露するのと同義である。

 今回のスイレンの件についても同じだ。スイレンの護衛がオレの仕事だ。彼女を守る為にあらゆる脅威を排除する。実行部隊は殺す。それでも襲撃リスクが高いならば、実行部隊に命令を下す指揮系統を破壊する。うん、何も問題ない。たとえ、3大ギルドがオレを正式に訴えようとも、そもそもそんな真似をした時点で3大ギルドが暗殺者を差し向けた事実の公表になるし、サインズも他の傭兵を考慮すればオレを非難・警告する事は出来ない。

 まぁ、今回はせいぜいが『やり過ぎないように』くらいの注意勧告だろうか。今回の依頼が終わったら、グリセルダさんとの関係悪化は避けられないし、受付嬢のヘカテさんからは小言があるだろう。こういう時にクリーンな依頼は面倒だ。何もかも闇に葬られるクローズド依頼ならば、そもそも全部が真っ黒なので、どんな形だろうと仕事をきっちり済ませばそれで終わりだからな。

 

「依頼書は……あるか。所詮は下っ端。派遣社員と同じだな」

 

 装備と得られた経験値からせいぜいレベル20前後。目的はオレの足止めか。コイツらの反応から察するに、オレが相手とは思っていなかったようだ。せいぜい高レベルプレイヤーくらいの情報しか聞かされていなかったのだろう。罠に嵌めて数で囲めば楽勝だと思っていたに違いない。

 ヴェノム=ヒュドラは最下層で勢力を拡大した、裏の新進気鋭の問題児。裏の秩序を脅かす存在だ。暗殺ギルドも裏の住人。あくまで仕事も裏限定であり、表……大ギルドの秩序に喧嘩を売るような真似はしない。

 旋風の風車も暗殺ギルドとしては大手……逆に言えば、危険なプレイヤーの受け皿だ。大ギルドも目こぼししていただろうし、何ならもしもに備えてパイプくらいはあるだろう。

 約50名の構成員を差し向ける。レベルを考慮しても小さくない額の金が動かされた。犯罪ギルド間の抗争とは訳が違う。

 

「1人くらい生かして『お話』しておけば良かったか」

 

 依頼書にもオレについては書かれていない。仕事内容はあくまで足止め。ただし生死は問わない。

 彼らが待ち受けていたのは下水道だ。汚水が合流する十字路であり、脆い金網からは死体より流れる血が滴り落ちている。間もなく血と死臭に誘われて犬ネズミが集まるだろう。

 教会の動きが把握されていた……までは問題ない。オレの逃走経路を読んで配置していた? となると、オレの隠れ家付近の下水道の地理を把握し、なおかつルートを絞らねばならない。

 教会からの情報漏洩したのか? だが、それだけでは……ああ、なるほどな。

 

「……厄介だ」

 

 下水道を照らすのは天井に埋め込まれた、淡く発光する鉱石。水……湿気に反応する水光石だ。とはいえ、品質は劣悪なので有効視界距離は7割減だし、詳細を見極めるには当然ながら光量が足りない。

 闇の虚空に手を伸ばして掴み、潰す。オレの左手の中にあるのは蠅にも似た直径3センチ程の虫だ。緑色の体表からは黒ずんだ体液が溢れている。

 そうだ。ザクロがそうであったように、≪操虫術≫には広範囲索敵能力がある。それこそ終わりつつある街1つをカバーするくらいは容易い。

 しかもコイツは品種改良されて寒さにもある程度は強いようだ。12月だとしても、生温い湿気で満たされた地下下水道ならば問題ないだろう。

 とはいえ、ダンジョン顔負けの広大・複雑・立体構造の終わりつつある街だ。全域を索敵及び情報共有範囲にするのは難しいだろうな。スキル保有者も現地に赴くリスクも必要になるはずだ。

 つまり、この虫を広範囲に拡散させた≪操虫術≫所持者が近隣にいる。

 ザクロの顔が脳裏を過る。微かに霞がかかっているが、まだ顔も、名前も、彼女の生き様と死に様を思い出せる。まだ灼けていない。まだ全ては灰になっていない。

 

「考えるまでも無いな」

 

 虫から大元を辿るのは難しいが不可能ではない。虫を拡散させているとしても均等では無いだろう。虫の濃度で拡散位置が分かるし、偽装しているならば不自然な空白や薄い地帯が浮かび上がる。そうでなくともヤツメ様の導きの糸で捕まえられる。

 特に今回、≪操虫術≫所持者はテラ・モスキートによる恐喝の為に終わりつつある街に来ている。濃厚な殺気をばら撒いている。時間さえあれば確実に狩れる。

 だが、後回しだ。≪操虫術≫を勘定に入れていなかった。灰狼とスイレンは追跡されたと見ていいだろう。あるいは、ヴェノム=ヒュドラの目的は最初からこれか? テラ・モスキートによる恐喝と脅迫はフェイクであり、オレがスイレンと逃亡すると読み、彼女の暗殺を?

 

(やっぱりアナタに護衛は不向きね。誰かや何かを守るなんてアナタにとって最も苦手なことだもの。ワタシも得意じゃないわ。どんな罠でも食い破ればいい。どんな敵でも食い千切ればいい。でも、アナタにはできてもアナタ以外は死んじゃうもの)

 

 そうだ。この虫にしてもオレ単独だったならば大した脅威にはならない。位置を知られたところで返り討ちにするだけだ。だが、灰狼とスイレンは違う。灰狼はオレのレベル基準にした性能を獲得しているが、逆に言えば基本性能自体は耐久面を除けばレベル100オーバープレイヤー1人分。そこからは彼女自身の戦闘能力に左右される。

 灰狼はオレの想定を上回ったが、戦闘経験が足りず、専用装備もまだ試作段階だ。ましてや初任務が護衛であり、しかも不特定多数の暗殺者による奇襲と波状攻撃が予想され、更には現在地まで暴かれる。

 灰狼の電磁索敵フィールドならば、虫の存在さえ知っていれば警戒は容易だが、逆に言えば無知のままでは永遠に見落とし続けることになる。言うなれば、目の前にGPS発信器があっても気付かない状態だ。

 こんな事は言いたくないが、港砦の件も含めて、ザクロよりも≪操虫術≫を使いこなしているな。まぁ、彼女にとってそもそも戦いや争いは……いや、何も言うまい。言ったところで現状は変わらない。

 それに敵は犯罪ギルドだけではない。大ギルドは先の大騒動で≪ボマー≫を狙って暴走した過激派やそれに準ずる連中に圧力、あるいは粛清を行ったはずだ。だが、大ギルドは1枚岩ではない。多くの派閥や思惑、利権が絡み合ってしまっている。

 ディアベルやサンライスといったカリスマによって統率された大組織であろうとも変わらない。いや、あの2人は強権を振るって組織を私物化しないからこそ、かもな。聖剣騎士団にはラムダ、太陽の狩猟団にはミュウといったダーティな手段も厭わない強力なブレーンがいるが、彼らには逆に絶対的なカリスマ性とリーダーシップが欠落している。

 クラウドアース? あれは論外だ。大ギルドといってもギルドの寄せ集め……ギルド連合だからな。だからこその強みもあったのだが、最近はなんか権力争いの末に統合して1つに纏めようとしているとか。まぁ、頭の良い連中なので最後は妥当なところに落ち着くのだろうが、それまで内外にどれだけの傷痕を残すのやら。今回の≪ボマー≫騒動もそうした権力闘争の1部なのかもしれない。

 何はともあれ、≪ボマー≫を狙う連中は、表裏含めて、これがラストチャンスだとばかりに動くだろう。それだけの価値が≪ボマー≫にはあるのだ。

 

(クヒヒ♪ 愚かね。本当に愚かだわ。人間は変わらない。手を伸ばせば身に余る『力』が得られると確信した時、理性と知性を手放してしまう。あるいは『力』こそが金銀財宝を超える、人間の欲望を増長させて、心を病ませる甘美な毒なのかしら)

 

 嗤う。嘲う。ヤツメ様の言う通りなのかもかもしれない。

 夜空の月に人は何を望んで手を伸ばすのか。導きの月光は常にそこにあるというのに。月より聖剣を手にすることを望む。

 

(あるいは気付いていても認められないのかしら。全ては幻だったのだと認めるのが恐ろしい。それが『人』の業よね)

 

 何にしてもオレのやる事は変わりませんよ、ヤツメ様。

 スイレンを害するならば殺す。スイレンを守る邪魔をするならば殺す。殺して、殺して、殺し続ける。彼女を傷つける『敵』がいなくなるまで。

 利用されていようと何だろうと興味はない。大ギルドが手を打たないのも、粛清代行とよしんば≪ボマー≫を得られるかもしれないという期待感程度の事だろう。教会との関係悪化を防ぐ為にもきっちりと保険はかけているはずだ。政治は分からないが、オレでもそれくらいは予想がつく。

 ともかく、今は立ち塞がる全てを排除してスイレンと合流する。プラン通りならば灰狼は旧市街の神殿廃墟に設けた隠れ家にいるはずだ。仮に包囲されても地下道から脱出は可能だから、まだ逃げ切れる。

 問題はプランLに移行した場合だ。プランLはオレが死亡した前提で行動する事になっている。オレが死亡した場合、灰狼の召喚が解除されるかどうかは不明だ。プランLは召喚が維持される前提であり、スイレンを伴って隠れ家を移動する。

 だが、行き先は指定していない。地下道を使えば終わりつつある街の南方外縁までは逃げられるが、そこから先は灰狼の判断になるし、敵の奇襲を受けた場合、灰狼は囮となってスイレン単独による逃走を選択するかもしれない。

 何にしても迅速な合流が肝となるのだが、こうも奇襲が多いとなるとな。やはり、灰狼よりもオレの足止めが優先か。これだけの奇襲……旋風の風車だけではなく、暗部の誘導も行っているな。

 

「…………っ」

 

 最短ルートを敢えて外し、地下下水処理施設を経由する。だが、頭上のパイプを破壊しながら奇襲される。

 身を翻して回避する。襲撃者は身長190センチはあるだろう大男だ。両腕に爪を備えた鈍色の手甲を装着している。

 更に背後から斬撃。跳んで体を反らしながら躱し、着地より前に血刃居合を放つも回避される。まるで忍者のような風貌をした、口元を隠すマスクが特徴的だ。左右にそれぞれ毒々しい紫色の短刀を有している。

 量産武器ではないな。オーダーメイド……それに今の動き……強い。レベル80オーバーは確実で対人戦慣れしている。殺しも相応の経験があるな。

 大男は左右の拳を打ち付け、手甲の金属音を響かせる。空間が振動して歪み、周囲の機材やパイプが影響を受ける。

 空間震動能力……! 大男が拳を振るえば、空間震動が伝播してオレを襲う。範囲外に脱するも、今度は忍者が高DEXを活かしてオレの背後に回り、手裏剣を投じる。

 贄姫で手裏剣を弾くも、火花を散らすと手裏剣の数が増える。体に突き刺さるよりに手裏剣を全て掴み取り、指の間に挟む。

 やはり暗器か。他の武器と違って消費型が存在する。その中でも手裏剣は暗器でもポピュラーな部類だ。

 投擲系攻撃アイテムはDBOで最も普及しているジャンルの1つだ。投げナイフから手榴弾に至るまで多種多様で幅広い。≪投擲≫スキルがあればロックオン、ソードスキル、ステータスボーナスも付く。まぁ、ステータスボーナス目的ならば獲得しない方がいいがな。攻撃力の上昇幅は誤差……というとさすがに言い過ぎであるが、貴重なスキル枠を消費して得られるリターンとしては乏しい。あくまでロックオンとソードスキルが強みだ。

 とはいえ、ロックオンは癖があるし、見切られやすい。より精密な投擲には不向きだ。ソードスキルもスタミナ消費量に見合うリターンがあるのかと問われたら首を傾げる。ただ外れスキルとも言い難い。評価が難しいスキルの1つだが、愛好するプレイヤーは多い。

 武器系スキルは数あれども≪暗器≫はソードスキルが存在しない。クリティカル部位へのダメージボーナスが全武器ジャンルで最高性能を誇り、その暗器の攻撃力を上昇させられるステータスボーナスが付くだけで、ソードスキル無しのデメリットを帳消しに出来るからだ。

 故に投擲型暗器は暗器使いでも極端に評価が分かれる。投擲という性質上、どれだけ貫通性能が高くてもダメージ到達深度に期待が出来ず、故に暗器の強みであるクリティカルダメージが伸びにくいからだ。

 では産廃なのかと問われれば全く異なる。暗器のもう1つの強み、デバフ蓄積において投擲型暗器を超える武器は存在しない。

 元から毒が付与された毒投げナイフか、あるいは投げナイフに毒液を塗装すれば、わざわざ武器枠を消費せずとも毒の蓄積をねらル投擲攻撃が可能になる。だが、投擲型暗器と投擲型攻撃アイテムではデバフ蓄積性能は雲泥の差だ。

 手裏剣を軽く掌に突き刺す。レベル3の毒か。毒はスリップダメージ。デバフレベルが上昇する毎に秒間ダメージ量が増加し、総ダメージ量もまた増える。即ち、高レベル・高VIT程に脅威度は下がるのが毒の特徴だ。逆に言えば、低VITであればある程に毒は死に直結する。

 例に漏れずにレベル不相応な低VIT型のオレにとって毒は最大の脅威だ。だからこそ対策済みである。防具はデバフ耐性が総じて高めで特に毒耐性は重視している。とはいえ、今のオレは教会服だ。防具の白夜の狩装束は手首仕込みのアンカーナイフ機構の修理も含めた改造処置をグリムロックが行っているからだ。

 インナー防具は後から改造予定だったので装着済みであるが、現状では白木の根による痛覚代用とアバター強度上昇くらいしか単体運用における特筆事項はない。

 だが、やはり毒は問題ないな。教会服は物理防御が貧弱である代わりに属性防御とデバフ耐性は高めだ。それに何より、パラサイト・イヴの能力である抗体獲得でレベル3以下の毒は無効化している。

 手裏剣を投げ返すが、忍者はこれを躱す。投擲型攻撃アイテムや矢とは違い、投擲型暗器は獣血感染・侵蝕できない。獣血簒奪でなければならないか。地味に有益な情報だな。思えば投擲型暗器と戦う機会は少ないからな。

 大男が手甲を床に叩き付ける。空間震動が床に伝播し、金属板が膨張しながらオレに迫る。

 特性不明だが、わざわざダメージを受けて調べるのは非合理的だな。それより先に彼らを殺す。

 首筋に殺意が絡まる。贄姫を差し込んで『断つ』。手応えあり。『切断』されると同時に露わになったのは棘が付いた鞭だ。いや、蔦をそのまま鞭にしたというべきか。忍者の左手、まるで鞭を振るうような動きだ。短刀、手裏剣、鞭か。悪くないチョイスだ。短刀は恐らく≪カタナ≫と≪短剣≫の2つの武器スキルのボーナスが付いてるな。≪暗器≫ほどではないが、≪短剣≫はクリティカル部位へのダメージボーナスが高く設定されている。次点が≪刺剣≫だ。まぁ、そもそも刺突属性攻撃自体がクリティカルダメージとカウンターダメージが伸び易いから妥当ではある。ちなみに最もクリティカルダメージが期待できないのは打撃属性だが、その代わりに苦手とする相手も少なく総じて安定したダメージが見込める。

 故に強弁するが、やはり片手剣はやはり素人から熟練まで愛用されるに足る。武器ジャンルの特性として、刃は打撃・斬撃のバランスがよくて相手の防御耐性に左右され難く、剣先は刺突属性が高いのでここぞというダメージは大きく伸びる。戦槌のように純打撃属性ではないからこそ対応力は高く、カタナのように純斬撃属性はないからこそ斬撃対策に左右されず、刺剣よりも基礎攻撃力が高いからこそ純刺突属性ではなくとも突きのダメージは大きく伸びる。

 片手剣だからこその取り回しの良さ、安定性と隙が無い。更に火力を引き上げるならば優秀なソードスキルが揃い踏みだし、防御を重視するならば空いた手に盾を持てばいい。

 似たような性能で防御を捨てて火力を欲するならば両手剣がある。特大剣までいくとまた違った評価になる。何にしても片手剣は優秀だ。これを極めれば、対人から対モンスターまで何でもこなせる。弱点があるとするならば、タフな相手……大型モンスターではやや火力不足になりがちという点だが、これは両手持ち前提・大型武器と比較すれば全ての武器がそうであるし、STRさえ許せば重量型にしてこれもある程度は解消できる。

 だからこそキリトの≪二刀流≫は地味にチートなんだよなぁ。どう見ても単発ダメージが両手剣クラスだ。片手剣の性能据え置きで両手剣クラスの単発ダメージを叩き出す。DPSを見ただけでゲロが出るえげつなさだ。

 だって奥様、ダメージが短剣1歩手前の軽量型片手剣を振るっても軽量型両手剣級のダメージを引き出せるのですよ? それが重量型片手剣ともなればどうなりますか? 重量型両手剣でやっと出せるダメージを片手剣で与えられるのですよ? しかもキリトが使ってるのは聖剣だから更に火力はアホみたいに高くなるしな。

 うん、単純に考えただけで異常を超えた異次元火力だな。やはりユニークスキルってバランスブレーカーだわ。≪操虫術≫といい、本当にプレイヤーを超強化するな。

 こっちは贄姫でここまで火力を出すのにどれだけの手間と投資が必要だったか。グリムロック級の鍛治屋でなければ不可能な技術を駆使して、更にはユニークソウルを複数ぶち込んでいるのだ。

 カタナの特性による刃を正確に立てて斬ることによる切断力上昇・クリティカルダメージ・耐久度消耗軽減、闇朧を素材にする事で≪カタナ≫と≪暗器≫の両立、パラサイト・イヴによる血質属性攻撃力付与、更にはVITを捨てて耐久を紙にして攻撃力・持久力・機動力を確保。

 うーん、我ながら嘆息が零れそうだ。しかもカタナは耐久とガード性能が最下位だしな。まぁ、だからこその軽さに反した大ダメージを狙える特性があるし、オレに適した武器ジャンルなのだがな。しかし、やはりユニークスキルは別格だな。特に武器を壊すつもりで扱っても失われないのが物凄く便利だ。

 まぁ、ユニークスキルをモデルにして設計されたパラサイト・イヴがあるのだ。即急にユニークスキルが欲しい状況でもないし、欲しがっても手に入るものではない。今ある手札を有効活用していこう。

 

「それで、何の話でしたっけ?」

 

 少し考え事をしてしまったな。床を膨張させた空間振動を縫うように潜り抜け、すれ違い様に大男の首を刎ねる。見えない鞭を左手で掴み取り、そのまま引っ張って闇に隠れる忍者を引きずり出し、喉元に贄姫を突き立て、そのまま心臓を経由するように股まで裂いて絶命させる。

 ふむ、レベル2の麻痺か。暗器ではなく武器に元から備わったデバフ能力なのだろうが、対人向きの悪くない武器だな。左手に突き刺さった棘から忍者の得物を分析したが、コイツは一撃必殺よりもデバフ狙いで、大男の大火力で仕留めるといったところか。

 アイテムストレージには空きがあるし、遺体を荒さって武器を貰おうか。忍者の裂かれた臓物より降り注いだ血の雨に溜め息を吐きつつ、倒れた遺体に手を伸ばす。

 だが、喉元を危うく短剣が裂きかける。HPがゼロになったはずの忍者の体が動いた。それだけではない。首を失った大男もまた動き出し、羽交い締めにしようとする。

 体を反転させて大男の胴を薙ぐ。贄姫に付着する血は新鮮だ。遺体が動いていたわけでは無い。だが、新しく出来た遺体が動かされた? もしやユニークスキル≪死霊術≫か? いや、さすがにあり得ないな。

 忍者のHPが急速に回復している。大男も同様だ。首を失った大男はまるで虫のように両手両足で地面を掴んで闇へと消える。忍者も毒煙玉でご丁寧に姿を消して撤退する。

 

「……ケホ」

 

 全身に浴びた忍者の血を見つめれば、僅かに闇の揺らめきがあり、それもまたすぐに消える。

 深淵に列する者か。誓約のせいか、それともDBOの傾向か、どうにも深淵を狩る機会が多いな。さっさと他のプレイヤーも深淵狩りの誓約を結んでもらいたいのだがな。条件は確か単独で深淵系ネームドの撃破だったか。誰か1人くらいいるだろうに。さっさと深淵狩りの誓約を結んでくれ。深淵に対して明らかに数が不足している。

 しかし、存外に罠にはまってしまったか? 深淵に汚染された血を浴びたせいで深淵の病が疼いた。いや、そもそもそんなシステム外デバフがあるのはオレくらいだし、狙ったものではないのだろうがな。

 返り血を浴びれないとなるとリゲインと相性が悪いんだよな。どうしたものか。

 

「……ぞろぞろとお出ましですね」

 

 さっさと地下下水処理施設を抜けたいのだが、今度はガスマスクとヘルメット、タクティカルアーマーを身につけた近代装備の兵士達がお出ましだ。数は全部で12人。ガスマスクの赤レンズのせいでこちらからは相手の目が見えていないが、どうにもまともな雰囲気じゃないな。

 ガスマスク兵士達はアサルトライフルを一斉掃射する。射線から逃れて壁をかければ、3人が腰の刃がない柄を手に追いかけてくる。

 レーザーブレードか。黄色い光の刃は高威力の放出型では無く、剣戟も可能とする汎用性の高い固定型だ。贄姫で弾き、刃と刃の衝突とは異なる異質の火花が散る。

 グレーのタクティカルアーマーに刃を侵入させ、そのまま空中で袈裟斬りにする。まずは1人。そのままもう1人を背後から心臓を突き、振り回してアサルトライフルの銃撃の盾とする。仲間を撃つことに躊躇が無いガスマスク兵士との間合いを詰め、贄姫を突き立てたガスマスク兵士を喉まで裂いて絶命させた後に引き抜き、敵陣の懐に入り込んでから斬る。斬る。斬る!

 最後の1人、背後から迫るレーザーブレードによる突きを見ずに贄姫で受け流し、首を刎ねる。

 近寄り中距離射撃武器であるアサルトライフルは、ライフルには及ばない単発火力と射程、マシンガンに劣る連射性能と装弾数、ショットガンには及ばないスタン蓄積性能と衝撃と近接適正……いわゆる器用貧乏であり、扱い次第では最も化ける。なにせ、スミスが最も愛用するのはアサルトライフルだ。それだけで使いこなした際のポテンシャルは極めて高い。

 だが、逆に言えば習熟しないと強みの半分も活かせない。隊列を作って一斉掃射による弾幕もありだが、それならば装弾数と連射性能が馬鹿げてるガトリングガンがあるしな。何もかも中途半端で、だが『攻撃してる感』が強いせいで素人ほどに好まれ、また配備される傾向が高い。

 アサルトライフルを習熟するならば、集団よりも単独がオススメだ。機動力を活かして足を止めずにマシンガンの如く撃ちまくり、また時にはライフルのように着実なダメージを狙っていく。スミスのように全弾命中で理論上最大ダメージを叩き出し続けるとか初期目標にするべきではない。

 オレも射撃技術に関してはあの男よりも遙か後ろにいるからな。狙撃も含めれば銃火器に関してはオレよりもシノンが絶対的に上だろう。というか、狙撃はシンプルに面倒臭いから相手にしたくない。狙われたら面倒だし、狙撃手を殺すのも距離があるから更に面倒だ。

 

「さて、如何ですか?」

 

 斬った手応えからしてアンデッド系ではないことは確実だ。だが、今度は逃さなかった微かな違和感。何よりも飛び散った血に混じる闇。さて、どうなる?

 ガスマスク兵士達はまるでゾンビのようにゆらりと起き上がり、各々の武器を構える。カーソルはあくまでプレイヤーだが、どうにもおかしい。まぁ、カーソル詐欺なんて今に始まったことではないしな。むしろ経験しすぎて信用していない。

 首を失ったガスマスク兵士、その断面から飛び出すのは百足にも似た虫……虫? 虫でいいのだろうか? うん、もう虫でいいよ。

 なるほどな。寄生虫か。先の大男と忍者も同様か。

 

(最近はどうにも不死ばかりね。『昔』を思い出して嫌になるわ。どうして、こうも不死に固執するのかしら)

 

 回顧するヤツメ様は不機嫌だ。どうやら不死はお気に召さないようだ。まぁ、確かに同感だ。

 

(こういう時に『アレ』があればいいのだけど、何処にやったかしら? 贄姫に溶かしたかどうか草部の刀工なら憶えているかもしれないけど、そもそもここにはないし)

 

 ふむ、『アレ』とはなんぞや? 不機嫌を通り越して不愉快そうに嘆息するヤツメ様を尻目にガスマスク兵士達の首を片っ端から切り落とし、出現した百足を刺して殺しきる。逆に言えば、体内から露出しなければどれだけ肉体にダメージを与えてもガスマスク兵士の不死性は衰えない……のだろうか?

 少し実験するか。最後の1体の首を刎ねず、腕を切り落とす。次は足だ。1本ずつ奪っていく。

 肉体の損壊が影響してか、あるいは死亡できる回数に限りがあるのか、ガスマスク兵士は動かなくなった。しまった。こんな事ならもう2、3人は実験対象として生かしておくべきだったな。

 

「そろそろ出てきたらどうですか?」

 

 鋸ナイフを何も無い闇に投擲する。だが、鋸ナイフは空中で弾き落とされる。

 

「いつから気付いてたのかな~?」

 

 間延びした、緊張感の欠片もない声だ。同時に周囲の風景に擬態していた虫……どう見てもゴキブリが大群を成して舞い上がる。

 現れたのはウェーブがかかった栗色の髪の女。年頃は20歳前後……あるいはもう2,3歳は下かもしれない。流星を思わせる金色の大きな星形のヘアピンが特徴的であり、翡翠のような瞳をしている。

 羽織るのはやや大きめの白衣であり、黒のプリーツスカートと黒タイツとアンマッチしている。まるで学生が白衣を着ているかのようなズレだ。事実として白衣の下は学生服を思わせるデザインだ。

 

「敵意も悪意も害意もない。だからこそ正確な場所の特定には彼らの数を減らすまで時間がかかりましたが、気付けば逆探知は容易でした」

 

「逆探知? 何それ? スキル? それともキミがたくさん持ってるユニークウェポンの能力なのかな~?」

 

「直感。本能ですよ。アナタがオレに向けていたのは、殺意でも悪意でも害意でもない。知的好奇心。好奇の狂熱だ」

 

 殺意でも害意でも悪意でもヤツメ様の導きは絡め取る。能動的に向けられたあらゆる意思決定のベクトルを蜘蛛の巣で捕まえる。たとえ、一切の興味がない無関心にして無感情の機械であっても逃さない。SAOの経験でAIの狩り方は学習した。自身に到達する生命を損壊させる危険性の察知……逆探知をすればいい。むしろ、コツさえ掴めば蜘蛛の巣で捕らえるこちらこそが本領とも呼べる。というか、こっちの方が楽だ。

 結局のところ、機械……意思や感情が宿らぬ『命』無き攻撃には深みがない。どれだけAIに特徴があろうとも本質は単調。合理的で論理的で不完全性の揺らぎがない。故に逆探知すれば読みやすい。

 だから、むしろオレにとって掴みにくいのはこの女のような殺意でも悪意でも害意でもない、狂気の域に到達した感情と意思のベクトルを向けられた場合だ。つまり? オレが苦手とするのはキリトくんがホイホイしちゃうようなヤンヤンなんですよね。アレ、本当に読めなくて苦手だわぁ。

 

(だとすると、殺意と愛情が完全融合したアナタって、自分自身で殺意を受け取るとどうなるのかしら? うーん、気になるわね。ねぇ、ちょっと分裂してみない?)

 

 ヤツメ様、余裕ですね。それとも不愉快すぎて話を逸らしたいんですか? まぁ、オレも苦手ですよ。

 

「まずは初めまして。ヴェノム=ヒュドラ所属、通称ドクターこと【ミントカフェ】だよ~。気軽にミントと呼んでもらえると嬉しいな。ドクターとか私には不似合いすぎて心地悪いんだ。この格好もさ~、好きだってやってるんじゃなくて、みんながドクター呼ばわりするから仕方なくコスプレ的な意味で――」

 

 抜刀、血刃居合。最大溜めの血刃居合だったが、ミントカフェはふざけたくらいに腰を引いた動きで躱す。コイツ、言動と見た目に反して強いな。かなり実戦慣れしている。 

 わざわざオレに近距離まで接近してきた様子から察するに、現場まで出向いて自分の目で観測しなければ気が済まなくなる、フィールドワーク大好きタイプ。データ収集はオレに任せて工房に籠もるインドア型のグリムロックとは真逆のタイプであり、だが同質の知的好奇心を持つイカれ女か。

 

「おお! これが噂の……! 映像と違って生だと迫力が全然違うね~。でも『調整不足』かな?」

 

 ミントカフェは血刃居合で壁に刻まれた傷痕、そして付着した緋血をまじまじと見つめる。その目はグリムロックと同じく、無邪気な好奇心の輝きで浸されている。

 

「…………」

 

「溜めからの抜刀までにラグを感じてるんじゃないかい? それはキミ自身が原因じゃない。緋血の放出システムに問題があるんだ。刀身の血管状の溝に緋血を巡らせて暗器化と特殊強化を実現しているのだろうけど、それのせいでただでさえラグがあったのに居合時の腕にかかる負荷が大きくなってる」

 

「…………」

 

「普通の使い手なら問題にならないだろう。そもそも多機能搭載の複雑機構過ぎて使い手がいない。ソードスキルにはシステムアシストを通じてプレイヤーの無意識レベルに戦闘技術を習得させる効果があるけど、それらのサポートがあっても、『天才』でも実戦運用の域には最低でも20年は血の滲む鍛錬が不可欠だろうね~」

 

「…………」

 

「刀身の重心がそもそも近接武器として狂ってる。素人が振るえば自分自身を傷つけてしまうだろうね~。純粋に武器としての性能だけを追及した狂気の逸品だ。さすがはGR作。だけど、悲しいかな。GRは超高性能……使い手の一切を無視しているからこそ大きな見落としがあった。いや、この場合の問題はキミかな~?」

 

「…………」

 

「GRは精密な調整を施しただろうね。『最大威力・最高効率』を『武器』だけに求めるように……ね。そして、キミは本来ならば到底使いこなせない武器を『使いこなしてしまう』という悲劇が起きた。悲劇だよ! これは悲劇なんだ~! キミがどんな武器でも使いこなしてしまうからこそ、武器とキミの『ズレ』を、GRは『武器の性能不足』だって思い込んでしまったんだ! 逆にキミ自身は『自分の腕がまだ武器に追いついていない』と勘違いしちゃったのかな~?」

 

 指を覆う長い袖の白衣を舞わせ、自説を語れて満足したとミントカフェは笑む。明確に、性悪に嘲う。

 

「ご感想は~?」

 

「ノーコメントでお願いします」

 

「そっか~。まぁ、『敵』に語るようなことじゃないよね。でも、私の話を聞いてくれるなんて律儀だね~」

 

「存外に隙が無いだけですし、≪操虫術≫を相手に安易に間合いに踏み込む程に愚かではありません」

 

 ザクロには悪いが、プレイヤーとしての実力として彼女とは『桁』が違う。≪操虫術≫の深奥にこの女は至っている。完璧に使いこなし、なおかつ研究と拡張に余念が無い。

 

「ですが、ご指摘には感謝します。後で再調整を施させていただきますよ」

 

「あははは~。ちゃっかりしてるな~。でも、そういうところ……好き♪」

 

 ……は? 満面の笑みで、両手を組み合わせてハートマークを作ったミントカフェに面食らう。

 

「聞こえなかった~? ス・キ♪ どう? キミさえよければ、私を調整限定専属鍛治屋兼恋人として契約してみない? 装備開発は本業じゃないし、GRには及ばないけど、調整に限定すれば私なら完璧に仕上げてあげるよ~」

 

「……お断りします?」

 

「何故に!? キミと武器を完璧に調整すれば、1割……ううん、2割は殺傷能力の上昇を約束するよ!?」

 

「調整を任せるとは武器の強みも弱みも秘密も全て明かすということ。どうして専属鍛治屋という制度があるのかご存じないので?」

 

 何故か衝撃を受けて涙目になってるミントカフェは、オレの指摘に何が問題なのかと首を傾げる。

 

「私がキミの武器の情報をバラすと? なんでそんな真似をしなければならないんだい? キミは貴重なサンプルだ。暗器……肉体融合型を完璧に使いこなしているだけではなく、深淵の副作用にどういうわけか絶大な抵抗力を有する! 私の研究にはキミが必要なんだよ~!」

 

 この世で最も心が動かされないラブコールだな。本人はぐるぐると回って顎に手を当て悩んでいる。

 あと地味にパラサイト・イヴを完全に見抜いてやがる。大ギルドもまだ半信半疑だろうに。なんだ? これも≪操虫術≫による情報収集か? それともコイツの観察眼と分析力か?

 

「わ、分かった! 契約に色を付けよう! 貧相だと自覚はあるが、男を欲情させるには足るつもりだ。見てくれもそれなりに気にしてるし、悪くないと思う。どうだい? 私との情事……そうだな、週3回もセットに付けよう!」

 

「…………」

 

「あ~、分かった分かった! 週5回でどうだい? それもキミが満足するまでだ。媚薬も準備しよう。清楚な見た目のキミが実はベッドヤクザだろうとうぇるかむお~け~! 私も性欲は強めだ。知的好奇心は性欲に似ているとはよく言ったもので、研究が進まなくて悶々としている時は体の方も――」

 

「どうでもいい」

 

 血刃居合、2連! 首と体を切り離すつもりで放ったが、またもダイナミックにふざけた動きで躱される。

 

「ふむ、やはり巨乳派か。そうなんだな!? だが、侮るなかれ。足の綺麗さはヴェノム=ヒュドラでも堂々1位。あの【雷光】には劣るがどうだい?」

 

「…………」

 

「何だい!? その冷めた目は!?」

 

 いや、ミスティアも確かに美脚だが、彼女は胸と尻が強みだと思います、はい。あと美脚に関してはアスナが殿堂入りなので、はい。

 そもそもとして、オマエ如きが貧相な体とか宣うな。服の上から十分に膨らみが分かる時点で中堅レベルだ。

 もう無視して殺してもいい? 多少の負傷を覚悟すれば殺せると思うんだ。というか殺す。こんなヤツが≪操虫術≫を持ってるとか色々とザクロに申し訳なくなる。≪操虫術≫は変な女しか持てない条件とかあるのだろうか。

 

 オレが直で斬りにいけば、ミントカフェは嬉しそうに口元を歪ませる。

 連続斬りを余裕で躱し、3連突きをギリギリの間合い外に逃れる。血刃放出でリーチを伸ばせば、丸形フラスコの中身をぶちまけ、半透明のガラスのようなオブジェクトが血刃を阻む。

 

「血刃居合。最大の脅威は溜めによる貫通効果だ。最大チャージなら大盾のガードすら無効化する。怖いね~。恐ろしいね~。でも、逆に言えば低チャージなら貫通力はそこまで高くない。居合はともかく刀身放出なら即席オブジェクトで簡単に防げる」

 

「…………っ」

 

「お! 少しだけ顔が変わったね~。うんうん♪ やっぱり美形は眼福だね~。どんな顔をしても綺麗だ~」

 

 どうする? オレのスピードならば振り切れるだろうが、スイレンと合流しても≪操虫術≫を敵に回すリスクは消えない。ここでミントカフェを殺さなければ後々まで不安材料を残す。

 少し本気で狩るか。贄姫の反りで肩を叩き、右足の爪先で数度床を叩く。

 ステップでミントカフェを囲うように動き、背後から首を狙うと見せかけての右脇からの胴体狙い! だが、ミントカフェはまるで霞のように散る。いや、オレが斬ったのは虫だ。

 虫の集合体がバラけて、オレを逆に囲うように4人のミントカフェが出現する。

 

「擬態虫だ。集合して人間に擬態させる試作でね。残念な事に配備するには問題が多くて、私の専用になってしまったんだよ。キミさえも欺けるとは大きな収穫――」

 

 そこだ。何も無い空間を裂けば、先程と同じく周囲の風景と同化したゴキブリが散る。贄姫を受け止めたのはミントカフェの右腕に手甲の如く組み付いた巨大クワガタの顎だ。

 さすがのミントカフェも脂汗を滲ませている。STRはどうやらオレのが圧倒的に上のようだ。このままクワガタごと斬り殺す。

 

「そ、そういえば迷彩ゴキブリは看破されていたね~。私とした事が凡ミスしちゃったよ~。さすがにDBO最『凶』と悪名高いキミと直接戦闘は分が悪すぎる」

 

「1つのミスで死ぬのが戦場。技術者が現場に出てくるには不用心でしたね」

 

「勉強になったよ~。だから、これは私からのお礼だ」

 

 ミントカフェの腹を蹴り飛ばすより先に彼女はクワガタを自爆させる。弾け飛んだ甲殻は狂気となり、体液は気化してレベル2の麻痺を蓄積させる。だが、目的はデバフ蓄積でもダメージでもなく目潰しだ。背後からの攻撃に対して、逆にバックステップで間合いを詰めることで攻撃タイミングを外させ、逆に背中を取る。

 やはり忍者か。となると大男は上……いや、下か! 腕が床を突き破って伸びるより先に贄姫を突き刺す。

 

「ふ~む、キミ……もしかして目が悪い? 全体視は最前線で生き残る上で必須技能だけど、キミの眼球運動の『無さ』はそれだけでは説明できない。見えていないとも違うな~」

 

 天井のパイプにぶら下がっているミントカフェに鋸ナイフを投擲するも、忍者が間に入って短剣で弾く。この2体はガスマスク兵士とは違う特別製といったところか。

 

「それに麻痺付き悪臭煙幕自爆を受けても無反応すぎる。嗅覚もイカれてる?」

 

「…………」

 

「ははーん! ウルトラスーパー天才の私には分かっちゃったぞ~。五感が無い、もしくは著しく機能不全なんだね? それであれだけの戦闘能力を!? 規格外だよ! まさにイレギュラーだ!」

 

 殺す。殺さねばならない理由が出来た。だが、鋸ナイフが当たらない。ならば氷雪の弓矢を……いや、間に合わないな。大男が床から這い出て、忍者が揺らめく。

 

「安心したまえ。キミの戦闘情報は組織の人間として報告するけど、キミのウィークポイントは口外しないでおくよ~。私からの好意と受け取ってくれたまえ」

 

「返品します」

 

「そう言わずに。これからキミはちょーっと大変だろうから前払いさ。ソイツらの不死虫はスペシャルでね。貴重な素材と融合させてあるんだ」

 

 右手だけでパイプぶら下がるミントカフェが左手の指を鳴らす。フィンガースナップ。

 それは合図だ。首無しの大男の防具が弾け飛ぶ程に全身は膨張して皮膚は硬質な赤褐色となる。忍者の背中から羽根にも似た青銀色の不定形の膜が伸びる。

 

「不死虫はまだ実験段階でね。死亡すると自我が崩壊してしまうみたいで、不死虫が記憶した本人の戦闘技術を再現するしかできなくなる。さっきの兵士もソイツらも不死虫に動かされる操り人形なのは同じなんだけど、ソイツらの不死虫はスペシャルでね~」

 

 呑気に語るミントカフェを余所に、大男の首が再生する。だが、それは縦割りの顎をした昆虫のそれだ。赤い複眼はやはり深淵の怪物を思い起こさせる。

 忍者の全身が青銀の甲殻に覆われ、鼻より上の頭部が弾け飛んで肥大化した脳は多量の蛆に置き換わり、無数の蠅を散らし始める。

 カーソルがモンスターに変わる。デーモン化の行き着く先……獣魔化か。それはレギオン化に似て、だが決定的に異なるのは人間の好奇の狂熱の産物という事だ。

 そうだ。この女は本質的にグリムロックと変わらない。だが、決定的に違うのはグリムロックにはグリセルダさんという良心が外付けであるからこそブレーキが踏めて他人を犠牲にする研究は行わない。まぁ、オレがいるからその必要性も薄いからかもしれないが、彼女のように自身の好奇心を満たす為に他者を材料にはしない。

 まぁ、別にその点については好悪などない。医学・薬学の進歩なんて非人道的な人体実験があってこそだしな。オレがこの女に対して気に食わないのは、ただ1つ……手段として≪操虫術≫を使っているという著しく個人的な理由だ。

 ザクロへの弔いでは無い。彼女を穢しているとか高尚な反論があるわけではない。単純に苛立つ。それだけだ。酷く子どもじみた理由だ。

 

「キミの防具を参考にした疑似デーモン化は難しかったけど、鹵獲した寄生型レギオンを研究して改良した不死虫で、レギオン化の再現に成功したんだ。設計したとおりのモンスターに変異できる。ぶっちゃけると不死虫の宿主支配を極暴走させただけで元には戻れないのが難点なんだけど、気を付けてね~。不死虫の改造に用いた素材が素材だけに――」

 

 かつて大男だった赤褐色の異形は今や全長4メートルにも達し、かつて忍者だった蛆頭は翅の如き青銀の膜で浮遊する。

 

 

 

「ネームド級だよ♪」

 

 

 

 速い! 蛆頭は超スピードで間合いを詰めたかと思えば、腕を覆う青銀の甲殻に備わった刃を振るう。腕と足に刃を備え、極めて鋭く、攻撃が通り過ぎた場所は鋭利に断たれている。

 赤褐色の異形が巨大な拳を鳴らす。空間振動を伴ったそれは攻撃範囲が3倍にも到達し、破壊力は絶大だ。床を粉砕され、足場を失ったオレは落下する。空中で身動きが取れなくなる事態を避けるべく、贄姫を壁に突き立てブレーキをかけ、刀身を足場にして迫る蛆頭に穿鬼のカウンターを入れる。

 頭部が粉砕され、蛆が飛び散る。だが、そもそも蛆の集合体だからか、ダメージが見られず、すぐに増殖するどころか振るった拳に蠅が集る。柄を蹴って壁に刺さった贄姫を抜いて掴み取り、血刃で蠅を一掃するも、上空から赤褐色の異形が全身に空間震動を纏いながら落下してくる。

 壁をステップで弾けるとように跳び、敢えて高速で落下していく。ひたすらに壁を蹴り続け、2体より先に地面が見えた頃で氷雪の大鎌を壁に突き立ててブレーキをかけ、落下ダメージを殺す。

 ここは地下下水道よりも更に下……地下ダンジョンの1部か? 水の流れもない、汚水だけが不浄に溜まった何処とも知れぬ地下の空洞。どうやら腐肉とゴミと藻が排水を妨害しているようだ。何か分からぬ機材が汚水と汚泥に沈んでいる。

 落下してきた赤褐色の異形が空間震動を爆発のように広げる。範囲外にまで脱してノーダメージで切り抜けられたが、肝心の赤褐色の異形は落下ダメージを秒速で回復している。馬鹿げたオートヒーリングだ。呆れを通り越した回復力だ。

 蛆頭は悠然と舞い降り、蠅をばら撒く。コイツの本質はスリップダメージエリアの構築か。今まさに教会と大ギルドが対処に乗り出しているテラ・モスキートと性質は同じだが、どちらかと言えば蠅はカウンターであり、攻撃手段は青銀の甲殻による近接戦闘か。

 深淵の病が疼く。不死虫……深淵の産物だろうな。だが、何故だろうか。脳髄が引っ掻かれるような感覚が走る。

 

(いつの時代、何処であろうとも、世界が変わろうとも、虫憑きは絶えないのね)

 

 不快にして不愉快。だが、懐かしい。そんな口ぶりのヤツメ様はぺろりと舌舐めずりした。

 

(虫憑きってどんな味だったかしら。もう食べ飽きたと思ったけど、こうして振り返ってみると食べたくなってきちゃった)

 

 興味ない。どうでもいい。プレイヤーが不死虫に寄生され、不死虫に完全に乗っ取られて暴走した姿。カーソルもモンスターだ。確かにレギオン化と似て非なる。

 彼らは進んで実験体になったのか否か。それは知る由も無い。だが、DBOにおいて『力』を手に入れる為ならば人間性を捨てることも厭わない者は多いだろう。

 だから彼らはこの姿を望まずとも、自身で選択したのかもしれない。それを知る由はない。

 だが、受け継がれた狩人の血が訴える。かつての狩りを今こそ蘇らせろ。虫憑きを滅せよと囁く。

 

「闇……不死性か」

 

 DBOにおいて、不死とは何か。ダークリングが浮かび上がった人間は不死となり、死にすぎると知性と記憶と人格が破壊されて亡者となる。亡者はかつての技術を再現する、ソウルに飢えた存在だ。そして、更に殺され続けた亡者はやがて動くこともできなくなる。だが、それでも不死性は失われない。

 古竜も不死と同列だった。鱗こそが不死の秘密であり、それが暴かれるまで神々は劣勢を強いられた。だが、逆に言えば鱗を焼かれて剥がされてしまえば古竜はあっさりと不死性を失う。何かに依存して成立する不死の典型だ。

 なまなかに死ねぬ。虫憑き。記憶の片隅が引っ掻かれる。小さい頃、そんな話を聞かされた気がする。もう灼けてしまった、遠い日の記憶だ。だが教えてくれたのかも思い出せない。

 抜刀、血刃長刀。空間震動を躱して赤褐色の異形の懐に入り込み、外皮を、肉を、骨を削ぎ落とす。血を削る! 飛び散る血肉は闇に汚染され、浴びる度に否応なく深淵の病が進行する。だが、それよりもリゲインだ。

 赤褐色の異形の口が開く。空間震動をレーザーのように放つ。コイツの攻撃は音に似ている。アルフェリアの叫びと類似性がある。ならば対処は容易だ。

 蛆頭は背中の翅より次々と青銀の刃を射出する。直線と曲線、加えて数が多い。だが、回避ルートは読める。背後から次々に放たれる青銀の刃を見ずに躱し、正面に捉えた赤褐色の異形の拳と空間震動を躱しながら同時にカウンターを入れる。

 HPゼロ。だが、赤褐色の異形は体を震わせてHPを回復させていく。再起動か。だが、ガスマスク兵士よりも強化されているとしても根本は同じだ。不死虫を引きずり出して殺すか、再生不可能になるまでアバターを破壊する。

 贄姫・血刃長刀ならば血も肉も骨も削ぎ落とせる。だが、効率が悪いな。

 思い出すのはアリシアを殺す時に邪魔してきた謎の戦士。闇そのものであるかのように深淵を内包し、無数の装備を持っていた。

 不死虫とは異なる性質の不死だ。まったく不死ばかりとはな。HPがゼロになったら死ね。それくらいのルールは守れ。

 

「うわぁお! まさに異次元だね~。背後からの攻撃を見ずに躱しながら、範囲攻撃持ちを真っ正面から回避とカウンターを両立させて最速最短で殺しきるなんて」

 

 どうせ擬態虫とか使っているのだろう。いつの間にかミントカフェが数メートル先に立っていて拍手を送っている。失敗した。限定受容をしてでもさっさとぶち殺しておくべきだった。

 見られているならば、対不死に通じるかもしれない『アレ』を明かすべきではないか。だが、ここで時間を食われてはスイレンと合流が遅れる。

 手札を切るしかないな。削り尽くして再生不能となって、今度こそ死にきった赤褐色の異形から贄姫を抜きながら、左拳の裏拳で背後に迫っていた蛆頭を吹き飛ばす。

 

「これでネームド級? 確かに『最低基準』には到達していますね。これが目標ならば随分と自分に甘い設定です」

 

「……最低でもネームド級なら、普通のパーティなら全滅必至なんだけどね~。上位プレイヤーでも単独遭遇した即死だよ?」

 

「傭兵には通じません」

 

「え~。ネームド級2体同時に相手しても余裕をかませるのは、キミと【黒の剣士】くらいだって」

 

 馬鹿を言うな。ユージーンだったらオレみたいに丁寧に付き合わず、≪剛覇剣≫でまとめて吹っ飛ばすくらいやってるぞ。オレはまだ温情だ。というか、オレもミディールか魔剣があったら無造作に消し飛ばしてる。

 もう1体の蛆頭は高速で飛び回り、近接攻撃と刃の射出、カウンターの蠅と多彩だ。根っこからパワータイプだった赤褐色の異形よりも時間がかかる。斬撃結界も超再生とは相性が悪い。

 血刃長刀解除。贄姫を逆手に持ち、呼吸を挟む。

 

「孕め、贄姫」

 

 獣血のソウル……受容。欠月の剣盟を蝕んだのはレギオン……即ちオレの獣性そのもの。だが、贄姫が受容することで引き出された能力は全くの別。獣血のソウル……そこまで獣血を束ねた彼らの妄執にも似た継承の意思……即ち、深淵狩りの誓い。

 迫る蛆頭に対して贄姫を振るう。刃は青銀の外殻を裂く。だが、持ち前の再生と回復で体内の不死虫は耐え抜こうとする。

 だが、出来なかった。裂かれた分だけHPは削られていく。

 獣血のソウル。それはパラサイト・イヴに使用され、獣血の毒性と侵蝕作用をもたらした。それは緋血の源でもある。だが、それ故に獣血のソウルを受容した場合、贄姫は緋血の使用が不可能になる。

 刀身は澱んでボロボロとなり、刃毀れさえもある。ただし、刀身は伸びて大太刀の域に到達している。そして、獣血の名残のように禍々しい赤のオーラが蠢いている。

 

 

 

 

 

「贄姫……【不死斬り】」

 

 

 

 

 

 オレの頭で『拝涙』という過去の残響があった。小さい頃に誰が聞かせてくれた物語の名残か。もはや分からない。

 だが、どうでもいい。深淵の怪物と戦い続けた改変アルヴヘイムで紡がれた欠月の剣盟、その歴史と意思にして遺志を能力として反映した不死斬りは、闇の持つ不死性……再生力と回復力を阻害する。

 ただし、血刃は使えない。純粋にカタナとして振るうことができるのみ。全てが不死を……深淵を狩る為に刃へと集結された姿だ。

 ラジードに譲渡した退魔剣・影喰が闇を喰らって強化される深淵狩りの武器ならば、深淵の不死性を脆弱化させるのが不死斬りだ。

 

「不死虫の回復と再生を阻害か。なるほどね~。まさに不死虫の天敵だ」

 

 蛆頭の腹に突き立て、地面に縫い付け、そのまま胸まで引き裂く。体内の不死虫まで不死斬りの効果が及んで滅ぼす。

 不死斬り。不死虫には効果覿面であり、深淵の魔物が持つ高い再生力を弱めることができるだろう。だが、アリシアを深淵の怪物へと変えた『闇』そのものと呼ぶべきヤツの不死性を何処まで抑え込めるかは定かでは無い。

 だが、闇に属する不死である限り、強弱はどうであれ効果は見込めるだろう。必ずヤツを葬るジョーカーになるはずだ。

 

「ぱ~ちぱち。お見事だよ~。闇属性特有の回復・再生を抑制されるとはね」

 

 自分の作品が倒されたのに随分と嬉しそうだ。いや、これは試作品か。改良点が見つかる実戦データが得られたと考えれば、戦力の損耗があってもお釣りが来るか。グリムロックならそう考えるだろう。

 ともかく、コイツに付き合ってる暇は無い。証拠集めの為に2体からドロップした【不死虫の遺骸】というアイテムを入手するが、これでどれだけ痕跡を追えるのか不明だ。少なくともオレ単独の調査力では無理だ。

 グリムロック経由でグリセルダさんに任せるか。果たして関係修復できるかは、それこそ期待できないがな。

 

「ところでさ~、1つだけ謝らないといけない事があるんだ。いやね、私も知らなかったんだよ~」

 

 舌を小さく出すミントカフェの謝る気がまるでない表情に、嫌な予感を募らせる。具体的には足下が盛り上がっていくから、もう予想云々ではなく確定事項なんだがな。

 汚水と汚泥を弾け飛ばして現れたのは、巨大なスライム。汚水と汚泥で染色された禍々しい緑色でありながら、何処か金属の光沢を讃えている。

 その名は【腐朽の兵器たち】。HPバーは3本。正真正銘のネームドだ。

 地下下水処理施設。元より終わりつつある街に備わっていた地下建造物が、プレイヤーによる増築・改築によって拡張され続けて迷宮化した終わりつつある街で、規模を変えながらも存在し続けていた。そして、いつしかその真下が地下迷宮に通じる穴となり、更にはネームドが潜むボス部屋だったとなっていた。

 ……ふざけるな。暗殺ギルドに絡まれ、大ギルドが粛清期待で野放しにした連中の暗部に襲われ、不死虫で回復と再生を手に入れた軍団の相手をし、ネームド級の戦闘能力を持つ2体を同時の次は本物のネームドだと?

 

「ほほーう! 不定形のスライム型ネームドだね! 打撃属性はまず効果が無い! 純斬撃属性のカタナなら悪くないけど、1番効果的なのは核にまで届く刺突属性かな?」

 

 解説は要らん。スライムの相手はこれが初めてでは無い。というか、灰狼がいるならば実戦経験を積ませたい相手だな。全長5メートルにも達する巨大スライムは、液体金属のように滑らかな動きで触手を形成し、叩き付けを繰り出してくる。

 だが、それでは終わらない。触手が変形し、無数の銃口に変じる。吐き出されるのはスライムと同色の弾丸!

 なるほど。だから腐朽の兵器達か。コイツは下水に満ちた腐肉に兵器達が溶けて同化した姿だ。こんなネームドが終わりつつある街の下では蠢いている。プレイヤーの諸君よ、これがDBOだ。イカれてると後継者に殺意を募らせろ。

 不死斬り解除。贄姫を元に戻す。さすがに深淵の眷属ではない以上、不死斬りの効果は見込めない。むしろ緋血関連全般が使えない分だけ弱体化だ。

 スライム攻略の定番は体内の何処かにある核を攻撃すること。打撃属性はNG。そもそも物理属性全般の通りは悪い。贄姫は物理属性攻撃であるが、獣血侵蝕させて暗器化させれば血質属性攻撃力を持たせられる。血刃も問題なく通る。

 ならば血刃長刀で削り斬る。ステップを踏み、触手と銃弾を回避して接近すれば、巨大なアームが形成される。スライムが形を変えているにしては精巧すぎる。精密機械をそのままスライムが再現しているのか。

 アームを回避して本体にカウンターを入れる。だが大きすぎる。刀身全てを埋め込んでも中心部まで届かない。

 だが、朗報だ。ロボット系であるが、汚水と汚泥を媒介としている為か、血刃ゲージの回収ができる。回収効率は決してよろしくないが、できるだけで贄姫の運用には雲泥の差がある。

 汚水と汚泥に溶けた兵器達に刻まれた記憶、あるいは使い手の無念か。どうでもいい。殺す。狩り殺す。

 

「……ゲホ!」

 

 だが、足が止まりかける。喉に詰まった血が吐き出る。闇に汚染された血が際限なく零れ、意識が黒く塗り潰されかける。

 心臓が……! まずいな。キリト戦の消耗を引き摺ったまま、港砦でも発症し、アリシアと闇の戦士でも深淵の影響を受け、中華服との戦いで限定受容……ここに来て絶食の影響が極端に出て、深淵の病への抵抗力が薄らいで来たか。

 視界がブレる。息が……上手くできない。内臓が腐って、爛れ、溶けていくかのような痛み。脳に針を1本1本丁寧に突き刺さっていくかのような鋭い頭痛。血液が灼熱の鉛に置換されたかのように全身が熱くて重たい。

 瞼を閉ざし、唾を呑み込み、呼吸を浅く長くする。ステップに決して余計な力を入れない。バランス崩壊をそのまま重心移動に利用し続ける。

 核に届かない? ならば抉り、破壊し、核まで刃を届かせるまでだ。血刃居合の貫通効果も使う。

 ヨルコの薬を使えば、全身激痛と引き換えに一時的に深淵の病を抑制できる。だが、ヨルコからも戦闘中の使用はなるべく避けるように強く言われている劇薬でもある。

 

「重度の闇の汚染か~。症例は確認しているけど、ほとんどがショック死してしまってね。単なる裏ステではない、もっと別の何かが絡んでると私は推測しているんだ。文献によれば、最も近しいのは、深淵に犯された土地の住人、そして深淵狩りに多く見られた病……通称・深淵の病」

 

 黙れ。うるさい。口を閉じてろ。スライムの肉を削り、核を探る。移動させても無駄だ。恐怖はなくとも、自己保存……生存本能の疼きをヤツメ様は捕まえる。

 

「興味深い。精神構造が違うのかな~? それともキミには何か特別なものが備わってるのかな~? 私も≪操虫術≫を手に入れて知見が広がったけど、キミには知的好奇心が刺激されて堪らないよ。絶頂しちゃいそう」

 

 顔を赤らめて震えているミントカフェを無視する。コイツに思考を割り当てるリソースが無駄だ。これだけスライムの攻撃が激しい戦場に何か余計な介入をさせてきても巻き込まれるだけだしな。

 見えた。左手を獣血覚醒で覆い、魔爪を形成して突き入れる。

 爪痕撃! 掴み取った核を引きずり出す。スライムが震えて不動となり、核はボールのように跳ねて戻ろうとするが、それを許さない。

 スライムは確かに打撃属性を無効化する。だが、核は違うだろう? ソウルの光が蠢く球体たる核を蹴り上げる。

 深淵で黒ずむ意識の中で湧き上がらせるのは、中華服の拳、蹴り、足運び、体捌き。100年や200年では足りない、数多の屍を積み上げて練られた殺人術。格闘の極地の1つ。殺し合いの中で『喰らった』。まだまだ臓物を引き摺り出して、真髄まで味わい尽くしていないがな。

 受け継がれた矜持も、理想も、信念も、遺志も関係ない。上辺だけの暴力。人間の技術を本能の爪牙へと貶める。それがオレなのだろう? 別に構わないさ。

 穿鬼。中華服と同じように、穿鬼の破壊力を極限まで引き出して核に浸透させる。

 打撃属性はダメージ到達深度が低い。だが、破壊力を伝播させることができれば、その限りでは無い。肝となるのは攻撃力ではなく拳打の極み。

 

「……悪くないな」

 

 ふむ、血に『馴染んだ』な。これならばあらゆる≪格闘≫のソードスキルどころか、格闘攻撃全般の強化に繋がる。これを魔剣の打撃ブレードに応用すれば、更に殺傷力を引き上げられるだろう。

 

「い、一撃でネームドのHPをあれだけ……穿鬼ってここまで凶悪なソードスキルだったのかな~?」

 

 オレが言うのも何だが、外したらカウンター確定の超高等ソードスキルだぞ。SAOではオレがユニークスキル持ちと勘違いされていた原因だぞ。オレだってキリトみたいな格好いいユニークスキルが欲しかったのに。

 本体に戻った核だが逃さない。深くめり込むより先に血刃で削り尽くす。HPバー1本目、全損完了。2本目だ。

 頭に闇が霞のようにかかっている。大丈夫。まだだ。まだオレを殺すには足りないぞ。この程度、ランスロット戦に比べれば可愛いものだ。

 ああ、痛い。痛い。痛い。でも、不思議だね。前に比べれば『痛み』が小さい。オレは何でこんな所で戦っているのだろう?

 痛みがどんどん大きくなって、『痛み』は薄らいで、だけど人間性が叫ぶんだ。

 踏み止まれ。常に思い出せ。刃を握る理由を。夜明けを求めろ。狩りを全うしろ!

 スライムより吐き出されるのはミサイルだ。何でもありだな。次々と怒る爆破だが、スライムが分裂する。その数は30体以上だ。それぞれが兵器変形能力を持つ。銃火器の塊。ミサイル発射装置。ロボットアーム。更には複数体のドローンになってレーザーを繋げ合う。

 HPバー2本目は分裂体と核を潜めた本体か。どれが本体だ? 攻撃に最も不参加のスライムか? それとも敢えて攻撃が苛烈なスライムか?

 いいや、違う。ヤツメ様の導きの糸では無く、振り返るのは分裂の瞬間であり、経験だ。

 足下は依然として汚水を啜った汚泥。スライムを育ませた元凶。そして、登場の起点だ。

 レーザーが頬を掠める。教会服は戦闘用ではない。ミサイルの直撃だけで即死もあり得る。というか、オレの低VITではネームド級の攻撃ならばクリーンヒットで瀕死か即死だ。ならば、いつもと大して変わらない。当たったら死ぬ。それだけだ。

 ロボットアームが振るわれ、銃弾が雨霰のように迫る。少し手札を切るか。

 背中……肩甲骨付近より皮膚を突き破って白木が伸び、緋血が翼膜の如く覆う。白木の骨格は常に変形し続け、纏う緋血は翼よりも怪物の顎と呼んだ方がオレは適切だと思う。

 限定解除バージョン2。怪物の顎の如き緋色の片翼。インナー装備でもこれは可能だから助かる。翼膜で銃弾を受け止める。触れていれば何でも侵蝕できる……のだが、どうやらこの銃弾はスライムの1部のようだ。獣血侵蝕はできそうにないな。だが、弾幕を防ぐには十分だ。これで動きの自由度が増した。

 ドローンが放たれるレーザー。更にはドローンがレーザー同士を繋げて網状にしてオレを囲う。だが、囲いが狭まるより先に抜け穴を見つけて通り、待ち構えていた火炎放射を血刃居合で吹き飛ばしつつ、大きく跳び上がる。

 デーモンの息吹。緋翼より放出して加速し、宙を舞い上がる。何処だ? 何処にいる。

 面倒臭い。深淵の病を利用する。敢えて心停止に追い込み、走馬燈を招く。

 贄姫前提OSS……霞桜。6連撃に到達した斬幕を放つ先は群集となったスライムが最も薄い地面。汚水を啜った汚泥の底だ。途端に全てのスライムの動きが停止する。

 着地と同時に贄姫を突き立て、汚泥を裂きながら霞桜直撃ポイントに到達する。そのまま強引に駆け回り、刃が核を触れた瞬間に斬り上げる。

 

「≪釣り≫でも取るかな?」

 

 汚泥より舞い上がった核に微笑みかけ、穿鬼を放つ。吹き飛ばされた核は壁に激突してバウンドし、オレは納刀したまま突進して血刃居合を刀身ごと叩き込む。

 スライムが再び地面に潜るが逃がさない。見えずとも追える。血刃居合を繰り出し続け、逃げる核を攻撃する。

 

「本来は分裂したスライムを全て無力化することで第1段階に戻る……っていうギミックだったと思うんだよね~。キミは力業で最速最短にしちゃうなんて運営泣かせだな~」

 

 茅場の後継者など幾らでも泣かせておけ。もう血反吐を拭いもせず、HPバー2本目が削り尽くされ、最後にして本番だ。

 スライムが形を変える。再び1つの巨大なスライムとなり、だが銃口を無数と備えた触手を8本、そして中心部より光点を幾つも秘めた人間の上半身を模した部位が形成される。

 触手で立ち上がり、まるで蛸の口のように下腹部には巨大な砲口がある。

 核は人型の部位? いや、違うな。見え透いている。ブラフだ。ではまた地下に? それもない。足下から張り巡らしたヤツメ様の導きに引っかからない。まぁ、息を殺しているのかもしれないが、コイツに生や死の概念はない。

 あるのは腐って朽ちた妄執にも等しき記憶の残滓だ。使い手を失い、あるいは捨てられた武器達に染みついた戦いの記憶。それが『敵』を求めているのだ。

 どうでもいい。興味は無い。オレの仕事はスイレンの護衛だ。コイツは障害以外の何物でも無い。

 

「それでも……」

 

 ひと思いに終わらせてやる。『命』が無くとも、倒すべき『敵』を見失おうとも、使い手を失った武器が行き着く先は2つ。倉で埃を被るか、錆びて腐って朽ち果てるかだ。それが出来ずに迷い続けるなど本懐から外れているだろう。

 ……いや、もう1つだけ末路はあるか。はたして、それが戦いの記憶だけに突き動かされるコイツに……名も無き兵器達にとって弔いになるかは分からないが。

 次々と放たれるミサイルは内部に小型ミサイルを内包した分裂型。触手を地面に対して水平に伸ばし、高速回転をしながらアタックを仕掛けてくる。同時に全方位に弾丸をばら撒くオマケ付きだ。

 緋翼で銃弾を受け止めるが、やはりこれだけの物量を受け止めきれるものではないな。命中しそうな弾丸だけを弾き、血刃居合を放つも目立ったダメージは無い。通りはするが、この様子だとレイド級の人員で総火力を叩き込んでもHPを削りきれないだろう。

 やはり核にダメージを与えなければならないか。核は何処だ? 地下ではない。スライムの奥に隠されている? 最もあり得るが、何かが違う。何かが異なる。

 第1段階はシンプルにスライムの深奥、第2段階は分裂体で惑わしつつ汚泥の下。ならば第3段階は?

 

「……上か?」

 

 頭上より降り注ぐのはレーザーの雨。ドローンが徘徊している上空に血刃居合を放てば、8面体のバリアで守られた核が可視化される。

 バリア解除は全てのドローンの撃破? それとも8脚体のダウン? 単純にバリアの耐久度を削る?

 どうでもいい。全てを試す。レーザーの雨を掻い潜り、8脚体を踏み台にして宙に舞い上がり、緋翼で銃弾を防ぎながら居合の構えを取る。

 斬撃結界・壱式。範囲内全てを斬り刻む斬撃の結界はドローンの9割を撃墜する。巻き込まれたミントカフェの擬態虫が拡散するも、倒された数は全体の1割にも満たないのか、僅かにスケールダウンして再構成される。

 空中のオレにドローンはレーザーを放つも、贄姫で弾き返す。水銀コーティングは属性攻撃……エネルギーを引き裂き、また屈みように反射する。レーザーを弾き返されてダウンしたドローンは8脚体の攻撃に巻き込まれて潰れる。

 だが、不可視化した核が出現する様子はなし。鋸ナイフを投げるもバリアは解除されていない。あと地味に移動しているな。面倒臭い。

 8脚体が大きく浮上し、下腹部の砲口を輝かせる。誘導レーザーが放たれ、青白いエネルギー球が放たれる。

 これは……まずいな。エネルギー球は地面に接触した瞬間に炸裂し、ボス部屋全てを満たす超広範囲攻撃となる。

 ただし、攻撃範囲は8脚体よりも下に限られるが。跳び上がって8脚体の頭上を取り、必殺の一撃をやり過ごして、逆にカタナを突き立てる。

 手応えがない。ダメージは微々たるものだ。撃墜したドローンも全て液体金属のスライムに戻り、8脚体へと吸収され、改めて構築される。

 上空の核が可視化され、赤い立方体の結界を展開して拡大する。回避不能。攻撃による拡散……不可。緋翼で体を覆い、防性侵蝕でダメージに備えるも、赤い結界は素通りするだけでダメージもデバフも無い。

 だが、8脚体が震え、またドローンを形成するかと思えば、全身から生やしたのは……贄姫。数十本にも及ぶ贄姫がくるくると回ったかと思えば、全方位に射出される。

 刀身は動いている最中だけ解像度が下がっているかのようにぼやける。贄姫の能力だ。

 なるほどな。核のスキャンでプレイヤーの武器をコピーして再現するのか。ふむ……さすがに嫌な汗が背中を流れたぞ。

 偶発的なネームド戦でもなければ、プレイヤーは高性能な武器を準備して挑む。仮に予期せぬ戦いでも第3段階まで持ち込めるならば相応の性能を秘めた武器は確実に装備している。それらをコピーして、無数に複製して使用するとはな。

 オレにとって幸いだったのは、贄姫単体では水銀被膜コーティングが施され、振るう間は刀身がぼやけて見え難くなり、ソウル受容能力と緋血の浸透・放出の機構が備わった、≪カタナ≫と≪暗器≫の武器スキル2つを持つ切れ味が凄まじいカタナという事だ。

 ……いや、ユニークソウルを筆頭にした超希少素材を使いまくっているし、≪カタナ≫と≪暗器≫によるダブル・クリティカル補正による必殺性は十分に脅威だが、複製されたからといって脅威かと問われたら……うん。緋血やソウル受容といった、別装備との連携が強みだしな。

 これが魔剣やミディールだったら大惨事だった。全方位アロンダイトとか、全方位にミディールの白光とか、1000回死んでも足りなかったオーバーキルが実現しただろう。

 だが、次のコピースキャンでパラサイト・イヴをコピーされた場合、別の意味で危険だ。パラサイト・イヴ自体はコピーされたところで問題ないのだが、ミントカフェに目撃されたら分析されかねない。その前に倒す。

 時間を食いすぎている。スイレンとの合流が遅れれば遅れる程に依頼失敗……彼女の死亡リスクが高まる。

 どうすればバリアを剥げる? やはり8脚体を黙らせるか? 鋸ナイフを投げて核の位置を再確認して……

 

「これは……」

 

「おや、気付いたみたいだね~」

 

 苛立つ。コイツ、最初から見抜いていたな。

 8面体の透明度の高いバリア。その内の1面が変色して僅かに乳白色がかかっている。

 8面体のバリア。1面の変色。これらが意味する事は2つ。

 1つはオレは意識せずにバリア解除の条件クリアした、もう1つは8面体の性質からして全部で8つの条件をクリアすればいい。

 考えられるのは1つ、ドローンの撃墜が1つ目の条件か。その証拠のようにドローンは再生されていない。

 だとするならば、やはり8脚体か! 呼吸を整えようとするが、肺に深淵に汚染された血が溜まってむせ返る。

 

(獣性を解き放つ? 注意しなさい。今のアナタは飢えている。乾いている。痩せ細っている。食べてもいないのに使いすぎよ。絶食状態になったアナタは……喰い漁るかもしれないわ)

 

 注意する割には機嫌が良さそうですね。さっさと獣性を解放して貪ってもらいたいんですか? まぁ、『獣』に誘ってるわけではなくて事実の指摘だからセーフなんだろうがな。

 だが、確かに深淵の病に抵抗する獣性を回すので精一杯だ。STR・DEX出力がじわじわと低下しているのを感じる。もう7割は切っているだろう。

 

「……面倒臭い」

 

 贄姫をその場に突き刺す。無手となり、中華服の闘争を血より引きずり出す。

 

「打撃が効かないなら……全て吹き飛ばす」

 

 拳を、蹴りを打ち込む度に弾力のあるスライムの肉体が衝撃を吸収する。

 だが、もう『馴染んだ』のだ。打撃は浸透し、スライムの弾力ある肉体を揺さぶって突き抜ける。

 

「こんなものか」

 

 本能の爪牙となった。もはや武技では無い。人が血と汗で積み重ねた鍛錬の末の絶技ではない。それがどうしようもなく虚しくて自嘲する。

 打つ。打つ。打つ。打つ打つ打つ! スライムの体が揺さぶられ続け、結合が弱まり、爆ぜる時まで!

 8脚体が消し飛ぶ。粉々に飛び散った8脚体を確認したから鋸ナイフを投げる。新たにバリアの面に変色を確認。残り6面か。

 

「う、うわ~。打撃ダメージを無効化してるのに、衝撃を浸透させて分散力の限界まで到達させてアバターを破壊するなんて、単純にシステムとして打撃属性無効化を付与していない、アバターの構成情報を細部まで作り込んでるDBOだからこそ裏目に出たごり押しだね~」

 

 ドン引きした様子のミントカフェから寒々しい賛辞が贈られる。いいから黙って失せろ。

 

「だけど、可能だとしても実現できるものではない。打撃を受けたスライムの震動を完璧に把握し、内部共鳴を起こさせるべく刹那の世界……人間の限界を超えた攻撃タイミングでズレなく刻む。更には打撃をスライムに対して的確に浸透させるインパクト。STRエネルギーの伝達に関しては管理画面からコマンド入力しないと不可能な微調整。しかも12秒間に180発に及ぶ、拳と蹴りのコンビネーションを、ネームド級の攻撃を回避しながら成立させる。いや~、これぞ『バケモノ』だね~」

 

 そんな難しい事はやっていない。殺す為に最短を走っただけだ。STRエネルギーの調整は慣れたものだしな。ただVR適性が低すぎるオレの場合は、こんな極微調整すると脳が潰れるくらいに激痛が伴う負荷ストレスがかかるだけだ。

 

(また寿命を削ったわね。獣性無しで狩人の血……狩人の予測だけで成功したのはお見事だけど、消耗に対して得られたものは小さいわ)

 

 そんな事ありませんよ、ヤツメ様。8脚体を最速で潰せた。これだけでスイレン合流に近付いた。

 破裂したスライムが再び結集する。左右に6本のロボットアーム……チェーンソーを備えた戦車に変わる。地面に突き刺さった贄姫を引き抜き、チェーンソーを躱しながら懐に入り込む。

 装甲は鋼の如く硬質だが、内部はスライムだ。最も理想的な構造だろう。だが関係ない。斬り裂く。

 20センチにも到達する砲口から放たれるのはもはや爆炎。だが、飛び出すのは追尾ミサイル……いいや、違う。ミサイルはスライムに戻って変形し、電撃を伴った網となる。

 捕獲攻撃か。恐らく斬撃、刺突、打撃のいずれでも破壊不可能。ならば回避しかない。だが、範囲が広い。

 戦車の影に入ってやり過ごすしか無いが、チェーンソーが邪魔だな。

 チェーンブレード対決といくか。抜刀、血刃長刀……チェーンモード! 全長3メートルにも達するチェーンソーと真っ向から激突し、だが血刃長刀はそれを押し返す高速回転放出する鋸状の血刃によって逆に押し返す。

 

「上手い。相手のチェーンソーの刃を裂くように撫で、最大限に無力化した上で力点をズラして受け流し、そしてバランスが崩れたところで最低限のパワーで押し返した。まるで合気道の極地を見ているようだよ。それをチェーンブレード対決で実現させるなんてね~」

 

 電撃ネットをやり過ごしたオレに対し、直撃を受けても擬態虫が散けるだけのミントカフェは余裕そうだ。ふむ、遠隔から五感を共有できるとなれば斥候において他の追従を許さないな。ネームド相手にリスクなく観察に徹せられるのは強みだろう。これが技術応用が利く上に資本力のバックアップを受けたユニークスキルか。

 確かに同種だろう≪ボマー≫を欲しがる勢力が後を絶たないわけだ。オレの想像を上回る実用性と応用性だ。

 戦車の解体完了。これで3つ。スライムに戻り、今度は4メートルのロボットが巨人の如く現れる。だが、それは武器の塊だ。単純な質量だ。

 ドローン、銃口を生やした広範囲は開港撃持ち8脚体、チェーンソーアーム付き戦車、次は武器の塊の巨人。なんとなくだが、行き着く先が見えてきた気がするな。

 質量任せの連撃。贄姫で足首を裂いて1体のバランスを崩させ、衝突させて2体を同時に転倒させる。

 氷雪の大鎌。踊るように薙ぎ払う。普通のスライムだったならば属性攻撃は有効で、特に水属性はスライムを凍らせて打撃属性を有効にさせるのだが、コイツはスライム状になった金属だ。しかも内部に膨大なエネルギーを持っているとなれば、純水属性でもより威力が求められる。

 氷雪のレガリアの『大技』でなければこの巨体のスライムを完全凍結させるのは難しい。

 2体の巨人を氷雪の大鎌で破壊し尽くせば、バリアが更に2面も変色する。

 巨人はスライムに戻って合体する。今度は砲口……いいや、内部に回転する牙を模した鉄屑を備えた武器が寄せ集まった巨大ワームとなる。汚泥に潜り、大口で飲み込みを仕掛け、その度に錆びて腐った武器の破片を撒き散らす。

 これまであれ程に高性能を発揮していたが、コイツは地下下水道の奥底……汚水と汚泥で使い手を失った武器達だ。

 整備されていたはずがない。まともに動くはずが無い。何度も何度も壊されて、それでもスライムだから無効化しているように見えても、溶けた武器は……真実はこれだ。

 氷雪の大鎌、解除。氷雪剛剣、解放。左手に氷と冷気で生み出された両手剣が収まり、緋翼より熱風を撒き散らす。

 

「くれてやる」

 

 緋翼を枝分かれさせ、高速回転しながら突っ込む。氷雪剛剣を回転させながら突き入れ、緋翼とカタナで回転斬りを浴びせる。

 キリトのG&S専用ソードスキル、ガンズ・サーキュラーをオレなりに分析して我流化させたものだ。オレの場合は【回転剣風突き】といったところか。OSS化検討中である。

 武器ワームを体内から引き裂いて破壊していき、内部から突き破る。こんな荒技、イジェン鋼の大剣でも剣先が潰れて使い物にならなくなるが、氷雪剛剣ならば氷なので即再生する。獣血浸食で血質属性と≪暗器≫を付与しているとはいえ、≪両手剣≫ほどにダメージボーナスが付かないので威力には不満があるのだがな。

 本命の魔剣ならば、大群相手でもミキサーとドリルの合体であるかのように切り刻みながら突進し、今回のように巨体相手ならば内部を広範囲に引き裂きながら突き破る。

 

「……人間業じゃないね~。それって【黒の剣士】のソードスキルの真似事だろうけど、あっちが威力を誇りながら銃撃を合体させた剣技という美麗なのに対して、キミのそれは暴虐なまでに殺傷性だけを追及した破壊の業だ。しかもソードスキルじゃ無くて、緋翼から放出した炎で推進力を得ているとはいえ、根幹となっているのはキミ自身の緻密な肉体制御だ」

 

 これで残り2面。もはやスライムとしての利点を失ったように、汚泥を纏った腐って朽ちた武器達は集まり合って、這うようにして突撃してくる。もう銃撃もミサイルもレーザーもない。

 もういい。散れ。氷雪の大鎌に戻し、体を捻る。冷気が充満し、大地を裂くように斬り上げると同時に冷気が地面を駆け抜ける。

 冷気が爆ぜ、ただでさえ僅かだったスライムの流動性が失われ、それでも主を失った武器達はオレに挑む。氷雪の大鎌を消失させ、彼らの頭上より氷雪剣を降り注がせる。絶え間ない冷気の刃が全身を凍てつかせる。

 これが最後のバリアの守り。最後の力を振り絞ってスライムとしての性質を取り戻したのか、寄せ集まる。

 生み出されたのは無数の人型。銃を、剣を、大砲を、中にはロボットアームを手に持っているかのようだ。

 よくよく見れば、輪郭だけだが、兵士、技術者、整備士……かつて武器に携わっていただろう者達のようだった。

 

「ああ、いいさ。終わりにしよう」

 

 ミントカフェが見ている? どうでもいい。興味は無い。好きにしろ。

 

「孕め、贄姫」

 

 餞だ。贄姫・【白雪剣】。凍てついて霜に覆われ、純白の刀身と化した贄姫は、それだけで周囲を凍えさせる。それこそ、ミントカフェを模る擬態虫が凍え死ぬ程に。

 白雪剣は無条件で周囲に寒冷のデバフを蓄積させる程の冷気を放出する。それは太陽の温もりを求め、深淵狩りとなった騎士の胸にいつもあった故郷の風景であるかのように。

 忌み者たちにとって最後の居場所……絵画世界を呼び起こさせる。

 

 

 

 

 斬撃結界・特式【氷花封印】。

 

 

 

 繰り出されるのは冷気の斬撃結界。だが、それは少しだけ優しくて、切なくて、悲しげな氷の音色を奏でる。

 冷気の斬撃は荒れ狂うことなく静かに浸透し、通り過ぎた全ての場所から冷気を溢れさせ、凍てつかせ、氷の花を咲かせる。

 そして、地下の奥底には降り注がないはずの白雪が舞い落ちる。全てが凍てついた世界を染める。

 最後のバリアが変色して砕け、核が落下する。オレは氷片を散らす贄姫・白雪剣を核に突き立てる。まるで凍えるように震えた核は、だが霜に覆われていく。

 ネームドにしては呆気ない程にHPは少なかった。そして、同じくらいに抵抗はなかった。

 

 命が無いならば、祈りも呪いも無い眠りさえもないのだろう。それでも……それでもね……ヤツメ様。

 オレは武器を使い潰す。辛辣な評価はする。オレ以上に武器の扱いが悪いプレイヤーもいないだろう。

 だが、それでもいつだって……オレは……いや、センチメンタルになりすぎたな。灰狼のせいだ。アイツがオレの武器なんかになってしまうから。だから……ああ、もういい。どうでもいい。

 

 

<【腐朽の兵器達のソウル】:終末の時代、破滅と色の無い濃霧に挑んだ戦士達はしかし倒れ、諦め、ついには主無き武器ばかりが残った>

 

 

 簡素であるが、それが全てだった。全てだったんだよ。ソウルを抱きしめ、弔いを誓う。彼らの使い手では無く、使い手を失っても戦いを欲した……武器の本懐を為し遂げようとした兵器達に新たな戦場を与えよう。それが弔いになるはずだから。

 

「圧勝にして完勝。私の見立てでは、このネームドは能力とギミック、更にはプレイヤーの対応力を試す高難度ネームドだ。上の下といったところかな? これにノーダメージでスタミナ切れもせずに殺しきるなんて、キミは本当に逸材だな~。好き♪」

 

 まだ擬態虫が残っていたのか寒そうに鼻水を啜り、頬を冷気で紅潮させたミントカフェが背後より賞賛を贈る。

 

「失せろ」

 

「いいね~。ゾクゾクするよ。礼儀正しいキミ。凶暴性を隠さないキミ。演技でも、裏表でも、何でもない。全てがキミなんだろうね。キミはまるで万華鏡だ。ソウルを抱きしめるキミはまるで聖女のようだったよ。美しくて、愛らしくて、何よりも意味不明すぎて胸が高鳴ったよ」

 

「アナタの好きは研究対象としてでしょう? あるいは研究材料ですか?」

 

「どっちもだよ? キミのバイタルを24時間観測したい。キミのあらゆる細胞を顕微鏡で観察したい。キミの脳や筋肉、神経に電極を差して反応を調べたい。キミを生きたまま解剖し、死後もホルマリン漬けにしてじっくりと眺めながら新たな研究を模索したい! これが好きと言わずに何が好きなんだい!?」

 

 ウインクしながら右手の人差し指をオレに向けるミントカフェに、いよいよヤツメ様が呆れて溜め息を吐く。

 

(アナタが愛情と殺意が結びついて1つになっているならば、彼女は好奇心と愛情が1つになってしまったのかもしれないわね)

 

 オレとは性質が異なるのだが、傍から見るとオープンにしたらこんなに支離滅裂レベルなんだな。オレ、憶えておくよ。

 

「あと、もう1つ、キミにとって私の『好き』を受け取る素晴らしいメリットがあるぞ!」

 

「……それは?」

 

 取って置きの切り札だとばかりに、ミントカフェは胸を張る。

 

 

 

 

「私はレズだ! 女の子が恋愛対象だ!」

 

 

 

 

 ……ぶち殺す。いや、コイツは擬態虫だから無駄だ。無意味な消費はすべきじゃない。だが、殺す。殺す。殺す。殺して良いよね、ヤツメ様?

 

「キミが男子と偽ってる系女子なのは、私の綿密なリサーチで確定しているんだ。なーに恥じる事はない。今の時代に、男同士、女同士の恋愛なんて珍しくないだろう? わざわざ男と嘘を吐いて女の恋人を欲しがらなくて良いんだ。私もレズビアンだ。女の子とチュッチュするのは大好きだ」

 

「…………」

 

「おっと、さすがにキミの了解を得ずに秘密をバラしたのはよくなかったね。気分転換に話を変えよう。キミの戦闘データは実に有意義だった。ヴェノム=ヒュドラに報告させて貰う分と私だけで止めておく分にきっちり区別させておくよ。その方が面白いデータを後々まで得られそうだしね」

 

「さっさと反逆に問われて粛清されろ」

 

「いや~、それがヴェノム=ヒュドラにとって私は貴重な人材らしくてね。ウィーニーも私を手放してくれないんだ。囚われのプリンセスを救い出すナイトになる気はあるかい?」

 

「キリトに頼め」

 

 頼む、キリト。コイツに惚れられてくれ。オマエなら何とかなるだろう!? コイツ、好奇心もあるだろうが、同時にオレを女として欲情してやがるんだよ! オマエなら百合な女子を男に堕落させてヤンヤンさせても大した問題にならないだろ!?

 というか、キリトはなんであんなに男前になっちゃたんだよ! SAOの頃は違っただろ!? はい、そうでしたね! あの時は外見年齢14歳で止まっていらっしゃいましたね! でも、それを加味してもスムーズに成長したら中性青年だったはずじゃん!

 なんで筋肉付いちゃったんだよ。なんで身長伸びちゃったんだよ。なんでイケメンになってるんだよ。確かに今も中性寄りだけど、まず女子と間違えられないじゃん。インドア系イケメン(筋肉付き)になるとか反則じゃん。

 よし、落ち着いた。ひとまずコイツは殺す。本体を見つけ次第に殺す。殺しても問題ないヤツだから殺す。こんなヤツが≪操虫術≫を持ってるとかザクロに申し訳立たないから殺す。そういう建前で殺す。

 

「酷いなぁ。キミへのラブコールなんだよ? 他の男を寄越すなんて甲斐性がないんじゃないかい?」

 

 頼むからキリトとエンカウントして興味をあっちに持ってくれ。ほーら、聖剣もあるぞぉ。アイツも筋肉落として女装させればまだまだいけると思うんだ。だからさ?

 落ち着け。落ち着け。落ち着くんだ。さっさとここから脱出しなければ。大きく長い穴に落ちてきたようなものだからな。ウォール・ランでは限界があるし、緋翼は飛行できるものではない。投げナイフを突き刺していくか、それとも壁を蹴り続けるか。あるいは、ネームドを倒したから何処かに出口は出現しないだろうか?

 壁に触れて隠し通路を探すオレに対し、ミントカフェは白衣の長い袖を振り回しながらオレに絡んでくる。

 

「おいおい、無視は酷いなぁ。よし! こうしよう! テラ・モスキートによる終わりつつある街広範囲攻撃は取り止める! どうだい? もう少し私と話をする気に――」

 

「ならない。テラ・モスキートはどうせ大ギルドに駆逐される。オレの見立てでは夜明け前には完了するはずだ」

 

「あ~、やっぱりそうか~。大ギルドを舐めてたわけではないし、元より脅迫材料としては弱いからね~」

 

 ヴェノム=ヒュドラも承知の上か。そうなると……いや、勘ぐりは止そう。政治や裏取引の伏魔殿に首を突っ込む気は無い。

 

「悪い申し出じゃないと思うんだよな~。キミがあのHENTAI鍛治屋GRを専属に持つのは大きな強みだ。だけど、どんな天才も死ねばお終いだ。私はGR程に装備の開発力も独創性もないけど、修理・修復ならばキミの合格ラインだろうし、調整に限定すればGRを超える。悪い申し出じゃないと思うんだけどな~。し・か・も、今ならヴェノム=ヒュドラの情報漏洩付き♪ ああ~ん! 都合の良い女すぎる! これも惚れた弱み! 安売りしちゃったよ~!」

 

「……対価は何だ?」

 

「キミの戦闘データ、バイタルデータ、あと私の各種実験に付き合ってもらう。解剖は最後だから末永いお付き合いができると思うよ? できれば現実世界に戻ってからも実験させてくれ! 試したい薬や機材がたくさんあるんだ! 間違いなく、キミのリアルボディは現代科学を覆す神秘の塊だろうからね!」

 

「論外だ。そもそも専属契約とは双方向によるものだ。オレとグリムロックの取り決めを、オレから一方的に反故にはできない」

 

「えー!? 仕方ないな~。だったら、お近づきということでバイタルデータだけでいいよ。それなら装備は関係ないだろう? 深淵の病の研究しないといけいないし。不死虫との適合は課題なんだ。キミを研究すれば解決の糸口が見つかるはずだしね」

 

 オレにとっての利点は深淵の病の対策が見つかること。問題点はヴェノム=ヒュドラの非人道的実験が進み、また戦力強化に繋がること。前者に比べて後者のリスクが高すぎる。

 だが、グリセルダさんとの関係が悪化による専属契約の打ち切りという懸念もある以上、グリムロック以外の鍛治屋を見つけておくのは悪くない。ヨルコ程では無いにしても≪薬品調合≫にも秀でているだろうしな。

 それにコイツの言動から察するにヴェノム=ヒュドラに愛着はない。あくまで研究1番だ。好奇心に突き動かされる、倫理観が欠落したマッドサイエンティストだ。

 

「どうだい?」

 

「……まずはヴェノム=ヒュドラの情報を持って来い。そしたら考える」

 

「OK。だったら、まずは耳寄りな情報だ。ヴェノム=ヒュドラがどうしてこれだけの資本力を持っているのか。大ギルドも首を傾げているはずだ」

 

「…………」

 

「実に簡単だよ。ヴェノム=ヒュドラにはパトロンがいるんだよ。裏の秩序を破壊し、表に混乱を招き寄せ、絶望に満ちた闘争を望む! 薄っぺらい社会秩序を押し流し、混沌の時代を取り戻したいと願われているんだ!」

 

「ろくでもないな」

 

「だよね~。私は『どうでもいい』んだ。たまたま≪操虫術≫を手に入れたらスカウトされただけなんだ。ヴェノム=ヒュドラに拾われていなかったら、今頃は大ギルドの研究所で働いていただろうね~」

 

「オマエの身の上話に興味は無い。簡潔に答えろ。パトロンは誰だ?」

 

「……『戦争を望む者たち』だよ」

 

 それはエドガーやミュウの『にっこり』とは違う、だが人類史を嘲うような満面の笑みだった。

 

「大ギルドは肥大化しすぎたんだ。あらゆる派閥、利権、そして経済が密接に絡んでいる。たとえば聖剣騎士団! その名の下に集ったギルドの数は有象無象まで含めれば軽く300を超える! そして、ギルド内でも派閥争いがあり、工房の独立化が分離を招き、装備・素材・技術のコンペが競争を激化させる! 生産ライセンス、技術特許、多種多様な権益!」

 

 オレの手助けのつもりか、壁を触って出口を探すミントカフェは、だが視線だけはオレから途切れさせない。

 

「大ギルドは確かに大戦力を有し、教会と並んでDBOの秩序を形成している。ディアベルやサンライスは絶大なリーダーシップであの超巨大グループを機能不全に陥らせずにいる。でも、悲しいかな。人間ってのは集まったらろくでもない内部抗争をして、外部に火種を作るのが大好きな生き物なんだ」

 

「つまり、大ギルド……いや、大ギルドという陣営を構築する派閥や商業ギルドにおいて、戦争を起こさせたい連中がいる。平たくいえば金稼ぎの為に」

 

「そういうこと♪ 今回の≪ボマー≫騒動と同じさ。もはや大ギルドは攻略にさえも派閥や商業ギルドと調整を行わねばならないんだ。1回の探索派遣でどれだけのお金が動くと思う? フロンティア・フィールドなら尚更だ。もはや攻略は『事業』の1部に過ぎないんだよ! 戦争なら莫大な金と権益が動くからね!」

 

 本質はレジスタンスの支援と同じだ。他の大ギルドや傘下の有力ギルドを襲わせて勢力を削ぎ、装備の実戦データを集める。そしてガス抜きまで出来る。そして、有力ギルド同士は小競り合いをして大ギルド同士はぶつかっていないという建前の下で代理戦争に勤しむ。

 

「金、金、金! リアルだろうとDBOだろうと変わらない! 人間は金という名の欲望に支配される生き物さ! 金は『力』だ。財力こそが権力を生み、暴力を従わせる! 真の暴力の前では塵芥のように燃え尽きるというのにね」

 

「どうでもいい。興味ない。それに大ギルドも馬鹿じゃない。いずれはヴェノム=ヒュドラを支援する連中を粛清する」

 

「できるかな~? 確かに粛清という自浄作用は組織にとって不可欠だけど、出血多量で死ぬ、ないし弱まったところをライバルに食べられたら堪ったものじゃない。終わりつつある街が燃えかけた騒動を起こした連中は、ヴェノム=ヒュドラのパトロンになれなかった『敗者』たちの暴走。今まさに逃げたスイレンを殺そうとしているのは、ヴェノム=ヒュドラに切り捨てられかけてるトカゲの尻尾。どちらも腐った血肉だと切り捨てられる範囲だけどね~」

 

 想像以上に根深い問題というわけか。だが、ならばヴェノム=ヒュドラの狙いは、最初から裏の支配を奪うことなどではなく、表の秩序の破壊だ。3大ギルドの戦争の火種を作る事だ。その為だけに準備された『駒』だとするならば?

 

「どうして、ヴェノム=ヒュドラの幹部は、操り人形のウィーニーに従う?」

 

「『人形じゃない』からさ。裏の王様になる。表の秩序も破壊する。そして、何もかも平らげる。それがウィーニーの目的なんじゃないかな~? あの人、DBO初期の混沌の時代を取り戻したいんだよ。だから付き従うヤツがいるんだ。私には理解できないけどね~」

 

 ……オレには分かる気がした。オレも終わらない『夜』で遊んでいたいから。踊り続けたいから。でも、だからこそ、狩りを全うするんだ。

 

「裏付けを取る。連絡先を寄越せ」

 

「ほい。いつもそこに私の支配下にある虫ちゃんがいるから、会いたい時に話しかけて。でも、大ギルドでも容易に尻尾を捕まえないカラクリを、キミ単独で追えるかな? 無理だと思うよ」

 

 住所が書かれたカードを投げ渡され、オレが掴み取った瞬間にミントカフェは接近する。

 

「1つ分かったことがある。キミは殺意、悪意、害意に敏感であり、自身を傷つける全てを未来予知レベルで察知する。無感情も、AIも、天災さえもキミを傷つけることは難しい。でも……」

 

 かぷり、と頬を甘噛みするキス。ヤツメ様が目を見開き、オレが居合を放てば、すでにミントカフェは攻撃圏外であり、巨大な蠅に捕まって舞い上がる。

 

「逆に言えば『絶対にキミを傷つけない純度100パーセントの意思に基づいて決定された行動で、傷つけない事象として確定しているならば察知されない』という事さ! ははは! 見事な分析だろう? 私も伊達に『如月』の末席じゃないんだ! じゃね~♪」

 

 そのまま上空の闇に消え去るミントカフェを見送れば、ヤツメ様が血相を変えて袖でオレの頬を拭う。

 

(道理で気持ち悪くて不愉快で不快だった! アイツ、如月よ! アナタのことを知らないような遠縁だろうけど、如月に名を連ねる奴はろくでもないって相場が決まってるわ!)

 

 如月……確か須和と同じく盟友の家系か。現実世界における日本人総土下座の世界に羽ばたくHENTAI企業のKISARAGIを創設している。まぁ、名前の通りだな。

 ……もしかしたら、オレにとっても遠い遠い遠い親戚かも知れないのか。嫌だなぁ。

 しかし、最後は擬態虫ではなく本物だったとはな。現場まで出てくる実力十分の技術者というのは厄介極まりないな。

 

(次から不快・不愉快も捕らえるわ)

 

 お願いします、ヤツメ様。というか何で今まで対象じゃなかったんですか?

 さてと……今度こそ行ったか。

 ぐらりと体が傾く。両膝が地面につき、体が汚水に浸かる。

 少し……無理をしすぎたな。食べる……食べる……食べないと……いいや、『食べない』。

 絶食状態にも波がある。ランスロット戦がそうであったように、今を耐え抜けば、また何とか……!

 

「ぐ……がぁ……・ぐぎ……!」

 

 胸を掴み、心臓が発する激痛を耐える。動け。動かし続けろ。心臓を止めるな。今はまだ止まれないんだ!

 薬を……ヨルコの……薬……これを使えば、深淵の病も少しは……!

 

「はぁ……がっ……ぐっ!」

 

 注射器を首に突き立て、内容液を送り込む。注射器、粉薬、錠剤と色々なタイプを準備して貰って助かった。光属性による深淵の中和だ。だが、ここまで進行していると1回分では……だが、連用は止められている。負荷が大きすぎると。

 時間を食いすぎた。副作用の痛みの方が動ける算段は高い。注射器をもう1本使えば、全身の細胞が発火したかのような高熱がお襲いかかる。

 吐息が炎のように喉が焦げる感覚だ。眼球が破裂するような圧を感じる。脳が膨張と収縮を繰り返しているような頭痛だ。

 

「栽培と……製薬方法……どうにかして、入手……しておかないとな」

 

 グリセルダさんと仲違いしたら自動でヨルコとも敵対だ。回復アイテムは何とかなるが、この薬に関しては今後も必要になる。

 異常に喉が渇く。お腹が空く。これも副作用か? いいや、違う。深淵の病が中和された事で、抵抗に使われていた獣性が持て余されて暴走している。

 嗤えないな。頭の中が飢餓で塗り潰されそうだ。地下下水道で助かった。ここには誰もいない。食べられる『命』がない。

 立ち上がる。脱出しなければ。スイレンの元に急がないとな。

 大ギルド、教会、犯罪ギルド、ヴェノム=ヒュドラ、戦争を望む者たち。

 どうでもいい。くだらない。興味はない。だが、1つだけ嗤えるのは誰も彼もが踊らされているという点だ。あのいけ好かないミントカフェさえも予想していないのかもしれない。

 ああ、誰が書いたシナリオだったのだろう? 何もかもが幻想だったというのに。あるいは気付きたくないからこそ、恐怖して幻に溺れたというのか。

 

「……というか、これか」

 

 この地下空間は下水が滞って汚泥が溜まった。ならば、汚水が流れる先があるはずだ。戦いの余波か、あるいはネームドを撃破して解放されたのか、汚泥の隙間から僅かに排水口が見えている。

 蹴りで汚泥を抉り飛ばせば、下水道の闇が広がる排水口があった。まったく、何処まで地下を進めばいいのやら。

 振り返れば、贄姫・白雪剣で氷と雪が残っている。それはオレの記憶を引っ掻いた。

 

「もう、すぐ……クリスマス、だな」

 

 ユウキと待ち合わせして、それで……ああ、そうだ。スイレンに指導してもらった歌でも聞いてもらおうかな。聖歌独唱の前に、彼女にだけ歌ってあげたい。少しは他人に聞かせられるようになったはずだから。

 ユウキ……オレは……まだ戦えるから……でも、少しだけ眠いんだ。

 

「……急ぐか」

 

 どれだけの敵がいようと関係ない。殺して殺して殺す。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 祖父は熱心な仏教徒『だった』らしい。名前はその名残だ。

 スイレンが憶えている祖父は、痩身で骨と皮ばかりであり、そして仏ではなく『神』に魅入られた狂人だ。

 始まりは寺の裏にあった祠だ。長年に亘って大岩で入口が塞がれ、忘れ去られていたが、台風がもたらした暴風と雨風が土砂崩れを招き、大岩もまた押し流された。

 祖父は祠の奥で『何か』を見つけた。スイレンは考える。かつて先祖は『何か』を封じる為に大岩で入口を閉ざしたのではないだろうか、と。

 スイレンには姉がいた。年が離れた姉だ。だが、会った事はない。『何か』に魅入られた祖父は、父母もまた狂わせ、そして姉に『何か』を食べさせた。

 時を待たずして姉は死んだ。苦しみ抜き、およそ人間とは思えない死に顔だったと聞いた。

 祖父と父母は考えた。真に悟りを開くには『何か』の助けがいる。だが、『何か』に姉は選ばれなかった。

 魂が穢れていたからだ。より純粋で無垢なる魂……赤子でなければならないのだ。

 何の理屈も通っていない思い込みだ。だが、母は生まれたばかりのスイレンに『何か』を食べさせた。そして、彼女は生き残った。生き残ってしまった。

 母の実家である病院を抱き込んで死亡扱いにされたスイレンは、寺で育てられることになった。その頃にはもはや新興宗教と同列の扱いであったとされている。だが、まだ公安には目を付けられていなかった。何処にでもある小さなカルト集団だった。

 スイレンは文字の読み書きを学ばなかった。『無垢』であらねばならないからだ。知識は魂を歪めるからだ。

 スイレンは友達もいなければ、テレビもネットも知らなかった。『純真』であらねばならないからだ。交友は魂を穢すからだ。

 そうしてスイレンは育てられた。祖父が語り、父母が繰り返す『何か』……仏に至る道……悟りこそがこの世で最も尊く、また自分はそれに最も近しいのだと教えられた。

 信じるも疑うもなく、寺の敷地がスイレンの全てだった。余計な好奇心など湧かなかった。人気のない山奥で、寂れた寺に設けられた、スイレンの世界は、自分の部屋として割り当てられた座敷牢と小さな庭だった。

 やがて祖父が死んだ。父母が『何か』の研究を引き継いだ。母の実家の病院も『何か』に魅了されてしまっていたようだった。

 座敷牢に閉じこめられる時間が長くなった。寺の改築が行われたのだ。何処から金が湧き出すのかは分からなかったが、後にスイレンは多額の寄付があった事を知る。

 父母が信じる『何か』に魅了されてか、あるいは単なる欲望の為か。父母は『何か』により深く繋がる為に、スイレンと信徒の男を『交わらせる』ことにした。そして、スイレンが孕んで『何か』が再誕してこそ悟りへの扉が開かれると信じたのだ。まだスイレンは10歳だった。

 農夫、サラリーマン、医者、代議士、実業家。父には思わぬ才覚があったのだろう。噂を聞きつけ、慈善事業と税金対策、そして本物の狂った信仰心で寺を訪れてスイレンに覆い被さる。ある者は欲望のままに荒々しく、ある者はまるで神と交わるような恍惚にして幸福を味わうように。

 だが、スイレンにとっては何も変わらない。何の感情も湧かない。スイレンにとって物心が付いた時から会ったのは、たった1つのシンプルな事だ。

 

 

 望まれた姿となる。祖父が望んだように、父母が望んだように、信徒が望んだように、『自分』など存在せず、『皆が望んだ自分』を演じるべきなのだ。

 

 

 どうしてだろう? 誰かに望まれた姿を演じようと思えたのは、『自分』など存在せず、誰かの願望と幻想を投影した姿であろうとしたのは、いつからだろう?

 ああ、きっと空を舞う1羽のカラスを見た時からだ。まだ物心が付いたばかりの頃だ。

 仲間の黒いカラスから追われて血だらけの、真っ白な羽根を赤く染めたカラス。庭で倒れていた。だが、生きようとしていた。黒くなくても、仲間とは違う純白でも、必死に飛ぼうとしていた。

 白いカラスは死んだ。飛んで、飛んで、飛んで、落ちた。死肉は同朋に啄まれ、そして見かけた父によってゴミ箱に入れられた。

 自分はあの白いカラスとは違う。飛べない。何処にも行けない。行きたいと思わない。『自分』なんて存在しない。誰かに望まれた姿を演じるしかない。

 子どものように泣きわめいていれば、もしかしたら父母は正気を取り戻してくれたかもしれない。だが、スイレンは泣かなかった。叫ばなかった。欲しがらなかった。

 スイレンは信徒の子を孕まなかった。後に分かった事であるが、スイレンの卵巣には障害があり、子どもを作れない体だった。それは姉を殺した『何か』はスイレンを生かす方がずっとずっと苦しめられると思ったのか。それこそが罰だと嘲うからか。

 病院で調べればすぐ分かることだ。母がスイレンを寺の敷地から出していれば分かったはずなのだ。だが、スイレンが穢れることを恐れた父母はそれが出来なかったのだ。そもそも俗世を生きる信徒と交わればスイレンが穢れないとでも思ったのだろうか。なんとも都合の良い話だ。

 転機が訪れたのは信徒と名乗る、カメラを首から下げた男が現れたからだ。

 男の本名を憶えていない。もしかしたら名乗っていなかったかもしれない。だが、気さくで、優しく、自分のことは『ジョー』と呼んでくれと笑う姿に、彼が求める姿のままに笑い返した

 ジョーは信徒として父母の信頼を勝ち取っていた。世界中の神秘的なミステリーを追う仕事をしており、その中でも寺の『何か』は本物だと豪語し、是非とも協力したいと申し出ていた。

 キミは妹に少しだけ似ている。そう言ったジョーは何処か寂しげで、スイレンと交わらず、頭を撫で、もうすぐ自由になれると言ってくれた。スイレンはそれを信じる不自由で絶望にいる娘を演じた。

 その後、寺から『何か』は消えた。信徒に死者が出て、通報を受けた警察が乗り込み、スイレンは保護された。

 父母はどうなったのか知らない。裁判には出席しなかった。ジョーは一切の痕跡を残しておらず、またスイレンも彼の事を語らなかった。ジョーがそれを望んでいると分かったからだ。事件の真相は闇に消えた。

 その後、スイレンは病院を転々とした。体よりも心が追いつかなかった。寺の敷地……座敷牢と庭だけが全てだったスイレンの世界は広がりすぎた。

 スイレンは医者に望まれた通りに『元気で健康な女の子』を演じた。たくさんの本を読み、より自分の世界を広げて演じるのに必要な『パーツ』を手に入れた。

 物語は素敵だ。1つ1つに世界がある。それだけ自分がどのように演じればいいのか参考になる。医者は見事に騙された。

 スイレンが広がる世界にやや翻弄されていた頃、SAOより僅かばかりが生還して大騒ぎになった。

 仮想世界。自分以外の『誰か』を演じる世界。アバターを着れば無限の姿に変じられる。

 興味はなかった。スイレンは『誰かに望まれた姿』を演じるのであって、『自分を別の誰かに変えたい』とは微塵も思わなかったからだ。

 スイレンは医者からも、役人からも、僅かばかりの真っ当な親戚からも『望まれた姿』を演じた。健全な精神を持つ普通の女の子を『演じる』のは簡単だった。

 親戚がスイレンを疎んでるのだと分かれば、役人に相談して遠縁でも家族と暮らすと昔を思い出してつらいと訴えて施設に入れてもらった。『やはり心に問題がある』と皆を信じ込ませる『演技』は上々だった。誰も疑いもしなかった。

 勉強は得意だった。2年間で高校3年生に至るまでの教養を身につけた。国もスイレンならば問題ないだろうと信頼していた。社会復帰の名目でアルバイトさえも出来た。自立した、社会の1員になれると信じ込ませた。

 本当は空っぽだ。『自分』なんてない。誰かに望まれたままに演じているだけだ。

 DBOにしてもそうだ。スイレンはアルバイト先の友人に誘われて購入しただけだ。付き合いが良い友人を演じただけだ。

 プレイヤーネームは何にするか? 本名でいいだろうと思った。だが、そもそも『自分』なんていない。だからスイレンはリンネと名付けた。自分ではない誰かになる仮想世界。ああ、それはまさしく輪廻転生のようで、あの日の白いカラスを思い出させたのだ。

 デスゲーム化してプレイヤーは狂乱に陥った。だが、スイレンは冷静だった。何も変わらなかった。混乱する友人に望まれるままに、『デスゲームで気弱になった、友達から決して離れることがない依存状態』を演じた。

 友人の望んだ姿になった事で、友人は落ち着きを取り戻した。過酷な環境下で生きる術を見つけるべく奔走した。

 スイレンには戦闘の才覚は皆無だった。友人も似たり寄ったりだったがスイレンほどでは無く、謙虚に真面目に生きていた。

 やがて友人は戦闘とは別の分野で才覚を発揮し始めた。薬作りや鍛冶仕事で慎ましやかに、だが生活の基盤を作っていた。

 暴力で何もかも台無しにされた。強盗に犯され、嬲られ、殺されかけた友人は、偶然にも救ってくれたプレイヤーに新たな依存先を見つけた。頼りにならないスイレンよりも、ずっと逞しくて、強くて、優しい男だった。友人が恋をしたのだと悟った。

 だからスイレンは演じた。『好きな人を奪わないような、地味で、鈍臭くて、そして見下して優越感に浸れる』姿を演じた。

 やがて友人は男の伝手で才覚を売り込み、クラウドアースに居場所を得た。友人は今やスイレンを見下していたが、決して友情を捨てたわけではなかった。お情けもあっただろうが、それ以上に心配してくれて、クラウドアースに勤めさせてくれた。

 雑用以外に仕事はない。望まれたままに仕事をし続けた。やがて、友人はクラウドアースの闇に携わるようになった。ユニークウェポンやユニークスキルをより汎用化できないかという実験だ。そして、それはやがて巨大アームズフォート……アンサラー計画へと関与していくことになる。

 アンサラーに搭載する高火力ミサイル。それの爆薬作成が仕事だった。スイレンは友人の身の回りの仕事をしながら、爆薬の材料の運搬に手伝い、時には性欲処理の相手も密やかに請け負った。それが『望まれていた』からだ。

 なかなか成果は上がらない。開発主任にまで上り詰めていた友人は思い悩んでいた。そして、ある日……強力な爆弾をお披露目した。応用性の幅が広い、合格ラインには届かずとも強大な爆弾だ。

 友人はユニークスキル≪ボマー≫を開発に用いたものだと説明した。スキル保有者は友人の恋人となった男だった。≪ボマー≫獲得の経緯が報告され、クラウドアース上層部は大いに満足した。そして、アンサラーに見合う爆薬の開発を鼓舞し、また多額の予算を付けた。

 本来ならば喜ぶべき事だ。だが、友人と男は何故か絶望していた。絶望の中で狂ったように笑っていた。

 

 

 

 

 最初からユニークスキル≪ボマー≫など存在しなかったのだ。

 

 

 

 

 確かに爆薬を強化する反応剤は開発できていた。友人は間違いなく天才だった。既存の爆薬の性能を大幅に引き上げられる。だが、クラウドアース上層部が設けたハードルは高すぎたのだ。故に禁忌を犯した。

 ユニークアイテムを材料にして、お披露目の爆弾だけ強化したのだ。

 ユニークスキルと違い、ユニークアイテムを素材にしたならば限りがある。嘘に嘘を塗り固めて、友人と男、そして同じく追い詰められた研究メンバーは実在しない≪ボマー≫を真しやかに喧伝した。

 そして、精神が限界に到達した男は真実の告白をすると友人に伝えた。

 殺して。お願いだから殺して。誰か殺してよ。友人は泣き叫んでいた。嘘と重圧で心は壊れかけていて、愛する男を殺さないといけないけど殺したくなくて、だから『誰か』に救われることを願ったのだ。

 だからスイレンは男を殺した。そして、友人を会わせた研究員達によってスイレンは……『ユニークスキル≪ボマー≫保有者のリンネ』としてクラウドアースに報告された。

 だが、嘘は長続きしない。スイレンに……『≪ボマー≫リンネ』に実演が求められる。嘘を重ねすぎたのだ。≪ボマー≫という幻想を膨らませ過ぎたのだ。

 友人は涙ながらに尋ねた。どうして彼を殺したのか、と。スイレンは答えた。生まれて初めて答えた。『あなたがそう望んだから』と。

 笑ってあげれば良かった。抱きしめてあげれば良かった。涙ながらに謝れば良かった。だが、友人に何も出来なかった。

 スイレンは無感情で無表情で、そこには『自分』なんて無かった。

 

『ごめんね。ごめんね、スイレン。あたしのせいで……ごめんなさい』

 

 友人は笑ってくれた。抱きしめてくれた。涙を流してくれた。スイレンは生まれて初めて『誰か』の本物の温もりを得た気がした。

 友人は残ったユニークアイテムを使用した爆薬と全12種の爆薬強化反応剤のレシピをスイレンに託し、施設を爆破した。共犯者も、≪ボマー≫という幻想を信じていた者も、何もかも吹き飛ばした。

 どうしてなのかは分からない。スイレンは生かされた。クラウドアースも知らない反応剤のレシピと欺瞞と嘘と幻想に満ちた爆薬と共に。

 クラウドアースは『物語』を望んでいた。だから『施設を爆破して大量虐殺した≪ボマー≫保有者リンネ』を求めたから演じた。流した些細な噂と施設が爆破されて多くの人が死んだという事実は≪ボマー≫の実在性を強固にした。

 スイレンにとって≪ボマー≫は友人との繋がりだった。そして、『自分』を持っていない事への後悔と嫌悪の始まりだった。

 貧民街で場末の娼婦として生きた。考える事以外は何もしたくなかった。『娼婦』を演じるのは楽だ。男が望まれるままに抱かれればいい。小さい頃から何度も繰り返して慣れていた。

 

『汚らしい娘ね』

 

 そして、エバーライフ=コールのカリンが彼女を見つけた。

 カリンはスイレンに温かい食事と居場所を与える代わりに≪ボマー≫……ではなく、ユニークアイテムを用いた爆薬と反応剤のレシピを寄越せと告げてきた。

 

『男ってのは床を共にした女にはついつい不必要な事まで語るものなのよ。心が弱っていれば尚更ね』

 

 秘密を知る研究員の1人が真実を漏らしていたのだ。娼婦は金になると雇い主であるカリンに密告した。

 きっと件の娼婦はカリンに殺されてるだろうな、とスイレンはぼんやりと想像できた。娼婦は客の秘密を絶対に明かしてはならない。それがのし上がれる娼婦の条件であり、また生き残れる理由なのだ。

 スイレンはユニーク爆薬と反応剤レシピを渡した。ただし、全ては渡さなかった。友人との繋がりを残したかった。

 私を殺しますか、とスイレンは尋ねた。だが、カリンは薄ら笑いと共に首を横に振った。いざという時に≪ボマー≫保有者リンネという肩書きは利用できるからだ。

 

『他に理由があるとするならば、貴女って面白いから。ねぇ、「自分」が無いってどんな感覚なの?』

 

 カリンは確固たる自我を持つからこそ、最初から「自分」を持たないスイレンが気になったようだった。捨てたのでも失ったのでも無い、最初から空っぽのままの彼女に興味があったのだ。

 不自由であるが、生活を保障する。カリンの申し出に、スイレンは1つ申し出た。

 娼婦をやりたい。それが1番楽だから。カリンはスイレンを美しく着飾り、ダンスやマナーを叩き込んだ。スイレンは瞬く間に吸収し、彼女を驚かせた。

 そして、スイレンは『高級娼婦』を演じた。誰も『≪ボマー≫リンネ』とは疑わなかった。

 客は今までにない上客ばかりで戸惑った。そして、ただ性欲を発散すればいいと思ってるこれまでの客とは違い、コミュニケーションから心のストレスを癒やすことが大事なのだと見抜いた。

 だから『演じる』のは容易かった。誰もが心を許し、癒やされ、また来たいと願う聖母の如き女を『演じる』のだ。

 そうして好意を集めれば集める程に嫌悪が募った。そして、嫌悪し続ける姿こそが『自分』なのだと気付いた。

 誰かに望まれた姿を演じることに躊躇いが無く、誰かに愛されても決して『自分』は愛されない。演じるしかできない、醜く、弱く、愚かで、友人を救えなかった『自分』だ。いつまでも、娼婦という過去の鎖に縛られることで安堵している『自分』だ。

 苦しかった。窒息しそうだった。温かな食事も、お風呂も、ベッドも、DBOで最たる贅沢だというのに、スイレンは屋敷と庭だけの世界に閉じこもっている事実が耐えられなかった。

 あの頃から何も変わっていない。寺の座敷牢と庭とここは何も変わらない。やがて、それは悪夢に変わり、彼女から眠りさえも奪っていった。

 死にたい。死にたい。死にたい。そればかりを願うようになった。ならば死ぬ前に何をすべきか考えるようになった。

 思い返したのは友人だった。食べたがっていたケーキがあった。マユユンが大好きだった。1度だけ練習を覗いた演劇を、いつか見ようと誘ってくれていた。そして、今は墓も残さず、だが慰霊碑に名も刻まずに1人の死者としてそこにいる。≪ボマー≫リンネの犠牲者として。

 黄龍会の攻撃を受けた。カリンはいよいよ正体がバレたと明かし、どうするのかと伝えた。望むならば逃げる手助けをするとも言った。

 カリンは冷酷な経営者だ。だが、よく稼がせてくれた『商品』には温情をかける。使い捨てにしない。スイレンがもたらした高性能爆弾と反応剤レシピ、そして高級娼婦で作り上げた人脈はカリンに莫大な利益をもたらしていた。

 だが、スイレンは何処にも行けなかった。逃げる意味が分からなかった。何よりもカリンにはスイレンの処遇について計画があるようだった。ならば彼女が望むままに演じることにした。

 そして、カリンから護衛として【渡り鳥】が派遣されると伝えた。それが意味するのは死であるとスイレンにも分かった。マダム・リップスワンの好意である以上、カリンも無下には出来なかったのだ。彼女の画策が1日と待たずして崩壊したのだと悟った。

 ああ、死ぬのか。せめて失礼のないように身を清めておこう。どんな死に方を望まれるだろうか? 噂では残虐無比で冷酷にして冷血なるジェノサイド・モンスターだ。スイレンもラストサンクチュアリ壊滅戦の映像を目にしたが、およそ人間とは呼べない戦闘能力と精神構造の持ち主だろうと予見した。

 カタナを好む。ならばやはり切腹だろうか? だが、切腹の作法などさすがに知らない。ネットで検索することもできない。死に装束代わりにバスローブを選んだ。辞世の句を詠んで短剣で腹を突けば、とりあえず意図は理解してくれるだろうと楽観した。

 現れた【渡り鳥】は映像よりも遙かに美しく、可愛らしく、儚げで、神秘を感じずにはいられない容貌だった。あらゆる芸術家が求めた美がそこにいて、あらゆる宗教家が夢想する神の姿だろうとさえも思えた。

 カリンは迷惑をかけてもらいたくないと願っている。だから、自分が≪ボマー≫のリンネだと明かし、カリンの罪を少しでも減らしてから殺されようとした。

 だが、【渡り鳥】は短剣を掴んで止めた。血を流してでも、死なせてくれなかった。

 驚いた。訳が分からなかった。この人は自分の死を望んでいないのかと困惑した。その後のやり取りで探ってみたが、まるで分からなかった。【渡り鳥】が自分に何を望んでいるのか、全く見えてこなかった。

 こんなにも『見えない』のだ。だからだろう。自分が死ぬ前提で話をしている内に、死ぬ前にやりたい事リストなんて忘れ去っていたものを引っ張り出してしまった。

 真っ正面から素直に受け取った【渡り鳥】に更に驚いた。そして、スイレンの要望を限りなく叶える譲歩まで見せた。

 この人は『好きなようにやりたい事をやっていい』という自由な姿を望んでいる? だが、どうにもそれも違う。まるで分からない。『見えない』のだ。その瞳が何を求めているのか。

 あれこれ試してみたが、まるで『見えない』のだ。淡々と護衛をする姿は噂とかけ離れていて、だが確かな気遣いが随所に見られて、しかしそれは優しさとも言い難いもので、でも温かかった。あの日、ジョーが撫でてくれた手に、抱きしめてくれた友人の腕に、少しだけ懐かしさに駆られた。

 だからだろう。普段は明かさない、高級娼婦と『自分』の乖離を口にした。何を言うのだろう? 何を望んでいるのか、やっと見せてくれるのではないだろうかと期待した。

 だが、返ってきたのは辛辣な物言いだ。しかもスイレンの演技を指摘した上で、仕事であるならば演技に問題ないとまで言い切った。それもまた『自分』の1部なのだと教えてくれた。

 悪夢で眠れない自分の手を握ってくれた。傍にいるだけで、この人を通じて嫌いで堪らない『自分』を、皆が愛してくれた高級娼婦と重ねることができた。

 やがて時が来た。カリンからリーク情報があり、大ギルドが襲撃を仕掛けてくると連絡があった。何処から殺しに来るのだろう。殺されるのを望まれているならば死ぬべきなのだろうかとスイレンが悩んでいれば、風呂場で首が絞まった。

 助けてくれたのは【渡り鳥】だった。そして、灰狼というサポートユニットを紹介して貰った。

 ああ、これは何だろう? 知っている。嫉妬だ。真っ直ぐに【渡り鳥】を見る目にどうしようもない嫉妬の念が湧いた。私にも『見えない』ものが『見えている』気がした。

 カリンが『救出』の為に人を送ると言っていた。【渡り鳥】も誤魔化せる強力な助っ人だ。だが、カリンの計画を覆した最大の要因は彼では無くパトロンとしてアリバイ作りで雇ったジェネラル・シールズだった。

 桁違いの強さを持つ【渡り鳥】ならばカリンの助っ人を相手にしても負けないだろう。計画外で救出された彼女は楽観した。いや、【渡り鳥】が負けるイメージを持てなかったのだ。

 全てを焼き尽くす暴力。決して拭えない破壊にして厄災の化身というイメージ。だが、まるで愛される為のような姿をした【渡り鳥】のサポートユニットは、天使すらも焼き焦がす悪魔の如き絶叫で否を唱えた。

 嫉妬は敗北感に変わった。ああ、演じる為に『見たい』自分とは違って、【渡り鳥】を心から心配して助けようと動く彼女だからこそ『見えている』のだ。

 だから死なせたくなかった。守ってあげたかった。スイレンは初めて誰かに望まれるでもなく聖母を演じた。そんな気がした。

 計画が失敗したカリンはもう打つ手が無いと告げた。だが、今回の件には黒幕がいるとも伝えた。黄龍会の背後にいるヴェノム=ヒュドラでも無い、3大ギルドや教会でも無い、言葉にしようが無い……抗いようのない存在がいるのだ、と。

 どうすればいいのか。黒幕に死ねと望まれたら死んでも構わないが、【渡り鳥】の仕事を邪魔したくなかった。死ぬわけにはいかなかった。

 そして、【渡り鳥】はあっさりと屋敷の外へとスイレンを連れ出した。

 小さな隠れ家。サポートユニット……灰狼と合わせて3人の共同生活だ。

 食事を作り、雑誌を読み、【渡り鳥】が灰狼に施す戦闘・戦術・戦略に徹頭徹尾した教導に苦笑いした。

 外出はせいぜいが食料の買い物くらいだ。だが、隠れ家は屋敷よりもずっと息苦しくなかった。寺よりもずっとずっと広く感じた。

 そして、『デート』をした。頑なに認めず、あくまで護衛の仕事だと言っていたが、そもそも敵を炙り出すにしてもこんな危険なプランを組む必要が無い。

 ああ、約束したからだ。叶えるなんて確約していないのに。律儀だ。誠実だ。そして、それはやっぱり優しさとは少し違う。

 だから必ず『見える』ようになってやると意気込んだ。あの手この手を使ってみた。だが、むしろ楽しんでいる『自分』ばかりがいて、友人とは本当ならこんな風に食べて、遊んで、笑っていたのだろうなと胸が苦しくなった。

 慰霊碑で友人に別れを告げた。自分はきっと死ぬだろう。全てから【渡り鳥】が守ってくれたとしても、彼に殺されるだろう。いいや、殺されたかった。もしも死ぬならば、彼以外の誰にも殺されたくなかった。

 お礼がしたかった。友人の願いを叶えてくれて、友人と本来ならばこんなにも楽しい時間を過ごせたのかもしれないと感じさせてくれた。

 歌が下手なんて知らなかった。だが、奇妙なまでに音がズレていた。わざと歌えなくさせられていた。

 不思議と小さな共感を覚えた。思い返したのは庭で見た血塗れの白いカラスだ。飛んで、飛んで、飛んで、落ちた、それでも自由に飛ぼうとした。

 自由が幸福とは限らない。不自由が不幸とは言い切れない。だが、鎖を1つ外してあげたかった。

 歌声を聞いて後悔した。どうして歌を縛り上げたのか、その意図を理解してしまった。祖父や父母を狂わせた『何か』の片鱗を彼の歌声から感じ取ったのだ。

 だが、どうでもよかった。綺麗に歌えた【渡り鳥】が本当に少しだけ……嬉しそうに笑ったから。いつの日か、歌えるようになった事が絶望と苦痛をもたらすとしても、今日だけは笑えたのだと刻み込めたはずだから。

 最後まで、どうやっても『見えなかった』。だが、【渡り鳥】は最初から『自分』を……『スイレン』を探してくれた。演技に振り回されていて困っているようではあったが、その全てを合わせて『スイレン』なのだと『見つけてくれた』。

 存外に単純で、だけど変に考えすぎて、疑り深いようで何だかんだで信じることから始めてくれて、捻くれているけどお節介レベルの世話焼きで、初心で翻弄されやすくてすぐに顔を真っ赤にするくせに自分では気付いていないのかクールに振る舞おうとする。

 見えているのに『見えていない』。万華鏡のように姿を変える。演じるスイレンとは違う。スイレンに覗かせてくれない。こんなにも演じたいのに。【渡り鳥】の求める姿を演じて、これこそが『スイレン』なのだと叫びたいのに。

 

 

 

 

 

 

「……ようやく見つけました」

 

「『見つけられちゃいました』」

 

 

 

 

 

 

 空は白む夜明け前。スイレンは終わりつつある街より出て南方の果て、砂浜より海を眺めていた。

 外縁まで到達したスイレンは、周辺フィールドにレベリングへと向かうパーティに、荷物でも何でもさせてくれと乞食のフリをして頼み込んだ。彼らがそれを望んでいるとすぐに見抜いたからだ。

 そして、警備を突破したスイレンは彼らがモンスターと戦っている内に抜け出して、ここまで走り抜いたのだ。

 美しいとは到底呼べない、船や建物、兵器の残骸だらけの砂浜で膝を抱えて座るスイレンの背後に、【渡り鳥】は安心させるように足音を立てて迫る。

 

「どうして、ここだって分かったの?」

 

「まだ叶えていませんでしたからね。死ぬ前にやりたい事その5『最果ての海を見る』」

 

 ああ、やっぱり凄いな。スイレンは苦笑する。

 

「消したはずなんだけどなぁ。フロンティア・フィールドにあるはずなんだけどなぁ」

 

「調査しました。太陽の狩猟団は最果ての海に関して何の情報も得ていません。客が騙った法螺か、あるいは別の意味なのを貴女が偽ったのでは無いかと推測しました。加えて、貴女は……ゲホ!」

 

 1回だけ【渡り鳥】は咳き込んだ。苦しげな吐息が聞こえた。だが、スイレンは何があったのか尋ねなかった。

 

「その5だけを消しました。それが貴女の……『スイレン』さんの『本当にやりたい事』なのだと」

 

「……何それ? 何で? どうして!? どうして、そんなに私が『見える』の!?」

 

 悔しかった。自分にはこんなにも【渡り鳥】が『見えない』のに、たった1つの行動で全てが見破られていた。

 涙を拭わず、スイレンは顔を膝に埋める。

 探した。死ぬ前にやりたい事は何か? 友人がしたかった事が思いついた。だからこそ、その最後には友人の墓参りをしておくべきだろうと考えた。だが、本当にやりたい事は何も思い浮かばなかった。

 ふと思い出したのは、山奥の寺から決して見えなかった海だ。自由になっても行かなかった。友人も海は好まなかったので足を運ばなかった。

 海という存在を知らずに育ち、文献とテレビとネットで海を感じ、だが演じる必要性がなくて海に行かなかった。

 あの白いカラスと一緒に、何処か遠くへ、誰も知らない世界の果てにある海へと行きたかった。そんなものは存在しないというのに。

 

「辿り着きましたね。最果ての海に。オレが2着。アナタが1着。アレキサンダー大王も果てせなかった偉業です」

 

「何処が? たくさんの人が見てるよ。多くの人が見慣れた海だよ? これの何処が最果ての海なの?」

 

「物は考えようですよ。終わりつつある街と周辺はDBOの歴史において最前線です。フロンティア・フィールドは濃霧に呑まれた世界が繋ぎ合わさったものと考察されています」

 

「だから?」

 

「ここは世界の終わり。終わる世界がようやく作った、濃霧で行き着く先を失った、最果ての海です」

 

 ……本当に、どうしてなの? スイレンは涙を流しながら笑って、『最果ての海』を見つめる。

 

「……全然綺麗じゃないね。がっかり」

 

「幾つか沖縄やカリブ海に匹敵するビーチスポットを知っていますよ。フロンティア・フィールドの開拓も進めば、観光地にもなりそうな場所も」

 

「素敵だね。私……何も見ていなかった。たくさん冒険できる場所があったのに、何も……何も『見ていなかった』んだね」

 

 隣に立ってくれた【渡り鳥】は、教会服が泥と血で汚れていた。下水を浴びたのか、悪臭も酷かった。

 でも、その全てが愛おしく感じるまでに綺麗で、何よりも微笑みは……切なかった。今にも消えてしまいそうな程に儚かった。

 

「しかし、灰狼は遅いですね」

 

「心配じゃないの? 死んでるかもしれないよ?」

 

「……不本意ですが、オレの為に死なない代わりに、オレの為に死ぬ気で戦って生き残ると約束しましたからね。とりあえず信じる前提です。まぁ、死んでいない確信はほぼあるのですが。以前の経験して、彼女のHPがゼロになった場合はオレの装備が破損するんですよ」

 

 首から垂れ下げたペンダント見せる【渡り鳥】に、ロマンチックの欠片も無いと苦笑しつつも、そもそも理屈うんぬんより前に信じてあげている自分に気付いていない【渡り鳥】が面白おかしくて、スイレンは笑いを堪えきれなかった。

 

「もうすぐ夜明けだね」

 

「……夜明けは嫌いですか?」

 

「別に。好きでも嫌いでもないよ。でも……どちらかと言えば夜の方が好きかな。見たいものも、見たくないものも、夜の闇が隠してくれるから」

 

「そうとも限りませんよ。満月は無粋な程に明るい時もありますから」

 

「…………」

 

「これは失敬」

 

 少しだけ仲良くなれた。それは間違いない。【渡り鳥】の悪戯心を微かに垣間見せた微笑みに、スイレンは胸を締め付けられる。

 これは恋? いいや、違うのだろう。だが、スイレンは演じたい。演じたいのだ。

 

「ねぇ、キスしない? もしくはそれ以上でもいいよ」

 

「拒否します」

 

「私のこと嫌い?」

 

「嫌いではありません。むしろ好意を抱きます。ですが、それはキスや肉体関係を欲するものではありません。それに何より……アナタはオレを愛していないでしょう?」

 

「ハッキリ言うね」

 

「護衛ですから」

 

 護衛の仕事じゃないよ。やっぱり駄目だったとスイレンは右手を差し出せば、【渡り鳥】は無言で左手で握ってくれる。冷たい。まるで今にも消えてしまいそうな残り火のように。

 

「ねぇ、最果ての海って、私は生と死の境界線だと思うんだ。世界の果てには死後の世界があって欲しくて、失った愛しい人に会いたくて、死んでしまった人に謝りたくて、そして……自分も船出したいって願うの」

 

「…………」

 

「ねぇ、夜明けだよ。メール……来た?」

 

「ええ。依頼は終了。これにて護衛は完了です」

 

「それで? 次は?」

 

「…………」

 

「私を殺す? それとも教会に連れて行く? 言っておくけど、私は――」

 

「依頼内容は『ユニークスキル≪ボマー≫保有者リンネの連行、それが不可能な場合は殺害』です。どうやら大ギルドや教会はユニークスキル≪ボマー≫なんて『デマ』が存在すると、この期に及んでまで信じているようですね。あるいは、『あの男』の仕業か。まったく、とんでもないシナリオを書いてくれたものです」

 

 知ってたんだ。見抜かれてたんだ。どうして? 戸惑うスイレンの眼差しに、【渡り鳥】は馬鹿にするなと溜め息を吐く。

 

「アナタは≪ボマー≫をいかなる状況でも使用していない。拉致された時も尤もらしい言い訳を並べていましたし、単純に戦闘能力が追いついていないだけとも考えましたが、噛み合いませんでした。だったら、最も事実に近しい推測はアナタは≪ボマー≫を持っていないでした」

 

「……それで?」

 

「ですが誰もがアナタは≪ボマー≫を持っていると指を差す。ここで≪ボマー≫に関する資料がほとんど失われた事を思い出しました。如何に研究施設を爆破したとはいえ、それだけで大ギルドがユニークスキルに関する資料が喪失するなどあり得ないでしょう。だからこう考えました。『何者かが≪ボマー≫をでっち上げたのではないだろうか』とね。さすがに目的までは分かりませんでしたが」

 

「……知らない方がいいよ。知って欲しくない。お願い」

 

 スイレンが涙で目を濡らして願えば、【渡り鳥】は無言で応えた。彼は決して死ぬ時まで語らないだろう。最後まで≪ボマー≫というユニークスキルは存在したと振る舞うだろう。

 

「私は≪ボマー≫を持ってる。でも、教会には行かない。逃げる。逃げてやる。どうする?」

 

「…………」

 

 教会は保護してくれるかもしれない。だが、スイレンは悪意でこの世に≪ボマー≫を残そう。夥しい血が流され、誰もが暴虐なる『力』を欲して止まないならば、いつまでも、いつまでも、いつまでも踊り狂えばいい。道化のように。ありもしない≪ボマー≫を探し続けて血を流せばいい。

 だが、それはこれから始める最後のワガママに必要だからだ。そうしなければ、彼はきっと『見せない』はずだ。

 

「ねぇ、もしも傭兵にはアフターサービスの概念があるなら、私を最果ての海に連れて行ってくれる? ここは……私が見たかった最果ての海じゃないみたいなの」

 

「…………」

 

「楽しかったよ。【渡り鳥】さんとの……ううん、『リク』との『デート』。だから、最後まで付き合って?」

 

「デートではありません。ですが、オレも……存外に楽しんでいたかもしれませんね、『スイ』」

 

 スイレンは立ち上がって歩み出す。冬の冷たさを浸した海へ1歩ずつ、1歩ずつ、1歩ずつ。それに【渡り鳥】も続く。

 首を落とす? それとも溺れさせる? 心臓を突き刺されるかもしれない。だが、スイレンは瞼を閉ざして呼吸を整える。

 全身に駆け巡らせるのは今日までに演じた全てだ。そして、思い返すのは今日までに見た【渡り鳥】の全てだ。

 スイレンは瞼を開けて見開く。【渡り鳥】を正面から見据える。

 

「見せてあげます。アナタが望んだ通りかは分かりませんが、『最果ての海』を」

 

 ふわり。

 

 ふわり。

 

 ふわり。

 

 解けた癖のない、淡く発光した純白の髪が舞う。

 眼帯が剥がれ落ち、左目に座する青の義眼は血に覆われて受肉する。

 白目は青ざめた血のようで瞳は赤き月のように淡く輝く。

 右目の瞳は7つに分裂し、左目の瞳は1つ。

 その身に纏う教会服は浄化されるように、あるいはより穢されるように、あらゆる宗教要素を垣間見せる、だが神道がベースにあるだろう神子装束へと変じる。

 

「最果ての海に夜明けは似合わない」

 

 空が……東から昇る太陽で明るく照らされ始めた世界が再び『夜』の闇に巻き戻される。

 厚い雪雲は星空によって上書きされ、流星と星雲が煌めく幻想の空へと変じる。

 微笑んで【渡り鳥】は……いいや、神子はスイレンの手を引っ張る。それだけで彼女は水面に立っていた。

 海は星空を映す。あるいは海にこそ星があって夜空に映されているのか。まさしくそれは星海。

 神子は舞う。スイレンの手を取って踊る。最果ての海への出航を祝うように。

 白木の小舟がやってくる。スイレンが乗って腰を下ろせば、神子は寂しそうに頷いた。

 

「もう……いいんだね?」

 

「うん。私の旅はここで終わり。ここで終わりたい。駄目?」

 

「……生きるべきかもしれない。優しい英雄が……アナタをハッピーエンドに連れて行ってくれるかもしれない」

 

 悲しげに目を伏せた神子の手を握り返し、スイレンは首を横に振る。

 

「ハッピーエンドは……私に似合わない。でも、これはバッドエンドじゃない。悲劇じゃない。道化を嘲う喜劇だよ」

 

 神子がスイレンを抱きしめる。海で流星が泳ぎ、空で星雲が渦巻く。

 

「……苦しくない? 私のせいで、きっと無理させちゃったよね」

 

「いいんだ。何も気にしないで。もう疲れたでしょう? ここは旅の終わり。最果ての海」

 

 温かい。スイレンは神子の抱擁に溺れる。

 苦しみは無い。とても穏やかだ。恐怖なんてまるで感じない。

 

「……『クゥリ』」

 

 名前を呼べば、神子は……クゥリは少しだけ嬉しそうに笑ってくれた。

 名前を呼んでくれた。それだけで十分だと告げるように。

 

 

 

 

 

 

 

 

「祈りも無く、呪いも無く、安らかに眠れ」

 

 

 

 

 

 

 ああ、飛んでいく。

 血だらけの白いカラスが飛んでいく。

 何の為に飛ぶのだろう? 何処に行くのだろう? 黒に染まらぬ白き翼は誰かに愛してもらえるのだろうか?

 手を伸ばしても届かない。空を飛ぶ事なんてできない。

 だけど、足はあった。狭い座敷牢から、庭から、屋敷から、その気になれば抜け出せた足はあったのだ。

 振り返れば、1匹の純白の獣がいた。

 血だらけで、痩せ細って、それでも自分にはやる事があるのだと全身が焼け爛れていながらも、その眼に曇りはなく、闇を駆け抜けるだろう。だが、今だけは自分を見送ってくれている。

 

 ああ、やっと『見える』よ。

 

 思っていたよりも、ずっとずっと怖くない。

 

 私に出来る事。私が演じないといけない事。やっと分かったのになぁ。悔しいなぁ。

 

 

 でも、『次』こそ演じてあげる。貴方が望んだ『スイレン』を、必ず演じきってみせる。

 

 だから、こっちに来るのは、ずっとずっとずーっと先じゃないと駄目だよ?

 

 

 

 待ってるから。貴方が望んだ『スイレン』を演じて待ってるから。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 駆ける。駆ける。駆ける。

 終わりつつある街の周辺フィールドでは、書き換えられた夜空がもたらす恐怖に、動けなくなっているプレイヤーは狂乱して不動と化している。

 全ての『命』ある者を等しくひれ伏させる絶対恐怖。自分達が喰われる立場であると本能から思い出させる。

 だが、関係ない。『怖くない』から。灰狼は恐怖と呼ばれる、息苦しい悲しみにも似た切なさの中心点を目指す。

 船や兵器の残骸が散らばる砂浜に到着した時には、すでに星空は消えていた。分厚い灰色の雲より雪が降り注ぐ朝だった。

 夜明けの浜辺で、血と泥で汚れきった、髪が解かれて潮風と雪風で靡かせるマスターを見つけ、灰狼は安堵する。

 

「マスター!」

 

 動け。動け! 動け! 最後の力を振り絞り、灰狼は血を飛び散らせながらマスターの元まで辿り着き、そして息を呑む。

 マスターは海を眺めていた。まるで眠るように瞼を閉ざし、呼吸を止めたスイレンを両腕で抱えて、何を求めるでもなく、海の果てを探すように見つめていた。

 

「スイ、レン……さん?」

 

「遅かったな、灰狼。酷い負傷だ」

 

「スイレンさん! スイレンさん! スイレンさん!?」

 

「オマエはよくやった。スイレンは語らなかったが、彼女がここまで辿り着けた事実とその負傷から奮闘が窺える。オマエの有用性は曇らない。治療後、改めて専用装備の調整を行い、戦闘訓練を実施する。期待してるぞ」

 

「マスター!? スイレンさんが……し、死んで……死んでます! 死んでます、マスター!?」

 

 泣き叫び、マスターが抱えるスイレンの死体に縋り付き、灰狼は吼える。マスターが相手だと分かっていながらも牙を剥いて涙を流す。

 

「どうして泣かないんですか!? どうして、そんな平然とした顔をしているんですか!? どうして――」

 

「スイレンを……『≪ボマー≫保有者のリンネ』を殺したのはオレだ。彼女は逃亡を試みた。クラウドアースからの依頼に従い、大聖堂への連行は不可能と判断し、殺害した」

 

「そ、んな……」

 

「そういう仕事だっただろう? 情が移りすぎたな」

 

 言葉通りに受け止めかけた灰狼は、静かに歩き出すマスターの足音で我に返る。

 違う。

 違う。

 絶対に違う!

 

「嘘は駄目です! マスターは嘘が大嫌いなのでしょう!? だったら……だったら、そんな顔で嘘を吐いたら駄目です! マスターからスイレンさんが逃げられるはずがありません! マスターが無力化できないはずがありません! マスターなら手足を千切ってでも連行します!」

 

 拳を握って灰狼は指摘する。マスターは足を止めて受け止めてくれる。それこそがスイレンを守る為に灰狼が流した血に報いることだと示すように。

 

「……そうだな。オレならそうする。きっとそうする。でも、出来なかった。彼女の方が『上』だった。オレは最後まで……彼女に振り回されてばかりだ。まったく、変な女だったよ」

 

 灰色の空を見上げたマスターは白い吐息を漏らし、だが振り返らない。

 

「『≪ボマー≫保有者リンネは死亡した』。これが『真実』だ。オマエが何を選ぶかは知らない。だが、邪魔はさせない」

 

 再び歩き出すマスターを追えず、灰狼は砂浜に泣き崩れる。

 別れ際を思い出す。自分を抱きしめてくれたスイレンの温もりに応えられなかった自分を恥じる。

 駄目だ。無理だ。灰狼は歩けません。スイレンさんを分かってあげられなかった灰狼に、どうして全てを受け止めることが出来たマスターの傍にいることができるというのですか!? 狼の遠吠えにも似た絶叫が喉から零れ、灰狼は残された左手で砂を掴む。

 涙で歪む視界に映ったのは、首にぶら下がったお守りだ。灰狼はお守りの紐を緩めて、約束に従って中身を確認する。

 入っていたのはボロボロの手紙だった。触れているだけで千切れて、ポリゴンの欠片になってしまいそうな、スイレンが残したかったものだ。

 

<灰狼ちゃん、どうか泣かないで>

 

 無理です! 灰狼はスイレンの文字を見て涙を溢れさせる。だが、涙で湿って崩れさせてはいけないと堪えて読み進める。

 

<私はまず間違いなく、【渡り鳥】さんに殺されていますよね? それ以外の死に方は望まないのであしからず>

 

 死んだら駄目です! 死んで欲しくなかったです! 灰狼はまた嗚咽を漏らす。

 

<敢えて私の気持ちは書き残しません。だから、これは全てが終わって迷惑をかけた灰狼ちゃんと【渡り鳥】さんへの謝礼です>

 

 迷惑なんかじゃありません! きっとマスターも同じ想いです! 灰狼は首を激しく横に振るう。

 

<まず【渡り鳥】さんに、以下の場所に行くように伝えてください。小さな金庫が埋めてあります。爆薬を強化する反応剤のレシピがあります。カリンさんも知らない秘密のレシピです。どうか役立ててください>

 

 マスターを呼ばないと! スイレンさんが残してくれたものを伝えないと! 逸った灰狼は立ち上がろうとして、だが最後の文面が目に入る。

 それはスイレンからの贈り物。宣言通り、使うも使わないも灰狼の自由なのだろう。

 涙が零れ落ちた。それは手紙に染み込み、紙を砕き散らし、雪風はポリゴンの欠片を海へと連れていく。

 

「マスター」

 

 立ち上がった灰狼は呼びかける。涙で濡れていようとも、今度は歩き出して、追いかけねばならない背中へと迫る。

 感じ取ってくれたのだろう。やはりマスターは……優しくあろうとする御方だ。灰狼は涙を拭い、だがそれでも溢れるのはスイレンへの感謝だ。

 スイレンさんのお陰で、まだ歩けます。マスターを追いかけられます。灰狼は自分を真っ直ぐ見つめるマスターを見つめ返す。

 

「……灰狼」

 

「違います」

 

 首を横に振った灰狼は……いや、1人の少女は涙で濡れた嗚咽と決意の咆吼を、魂に駆け巡らせる。

 

 この身に祈りでは無くとも!

 

 この心に呪いでは無くとも!

 

 この魂に願いはある! これが生まれた理由であり、生きる意味ならば!

 

 

 

 

 

 

「【輪廻】です! 名前! スイレンさんにもらいました! 今日から……輪廻です!」

 

 

 

 

 

 輪廻の宣言に、マスターは目を見開き、そして穏やかに微笑み返した。

 微かな沈黙の時間に、マスターが何を考え、何を想ったのかは分からない。だが、確かに『何か』を繋ぎ止めたのだと分かった。

 

「良い名前だ。許す。オマエは今日から輪廻だ」

 

「はい、マスター! 輪廻はこれより誠心誠意! マスターにお仕えすること、改めて宣言致します!」

 

「……程々にしろ」

 

 まだ体は痛くて、血は流れて、視界も半分で、腕も再生していない。

 だが、それでも走れる。マスターの隣を歩ける。ならば、輪廻の居場所はここだ。ここであり続けるのだ。

 

「マスター……今回のお仕事分の、輪廻のお小遣いは要らないので、スイレンさんのお墓は素敵なものにしてくださいね」

 

「どうして小遣いがもらえる前提だ?」

 

「……いただけないのですか?」

 

「上目遣いをしても無意味だ」

 

「…………」

 

「……武器のメンテナンス費に金を惜しむ程に困窮していないが、額面は期待するなよ」

 

「はい!」

 

 スイレンさん、輪廻は貴女の本当の名前を忘れません。だけど、マスターには教えません。それでいいんですよね?

 輪廻はまだ分からないことだらけで、挫けそうになる時もあるかもしれませんが、スイレンさんがくれた名前を頼りに、走って、走って、走って、必ずマスターの元に辿り着いてみせます。

 

「マスター」

 

「何だ?」

 

「肩をお貸ししましょうか? それとも、輪廻がスイレンさんを抱えましょうか?」

 

「要らん。スイレンはオレが運ぶ」

 

「……そうですか。でも、どうか……お体をご自愛ください」

 

 何も語ってくれないだろう。今にも倒れそうな体を、まるで何ともないかのように歩ませ続けるマスターのやせ我慢を、今は見届けるしかないだろう。

 だが、もしも倒れそうになったならば支えよう。叫びたいならば抱きしめよう。泣きたいならば受け止めよう。それが輪廻の役目なのだと信じて。

 

「報告が終わったら1つ野暮用を済ませるぞ。傭兵としてアフターサービスは欠かさない。それが次の仕事に繋がる。憶えておけ」

 

「何をなさるのですか?」

 

「黄龍会を潰す。スイレンの墓を暴きかねないからな。見せしめになる」

 

「承知しました。輪廻も同行致します」

 

 

 

 

 細波は冬の冷たさを乗せて潮を香らせ、降り注ぐ雪は空気を凍えさせるが透き通らせて、僅かに差し込む朝日は長い夜の終わりを語った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ、スイレンさんに教えて貰った爆薬の反応剤の場所、何処だったでしょうか? 名前をもらったのが嬉しくて、記憶が曖昧に……!」

 

「ちょっと待て。反応剤って何だ? 思い出せ。絶対に思い出せ! それがあればグリムロック経由でグリセルダさんとの関係回復ができるかもしれないんだからな!?」

 

「えーと……えーと……わ、わふぅ?」

 

「誤魔化すな。あと、オマエは狼だろうが。犬じゃないだろうが」

 

「も、申し訳ありません、マスター! 必ず! 必ず思い出しますので!」




そして、娼婦は悪意で悲劇の書き手を道化に変えた。

残された名を継ぐ狼は傭兵と共にいつか墓前で笑って語るだろう。


傭兵と狼と娼婦の、退屈な思い出話を。



それでは別の書で、あるいはその果てでまた会いましょう!

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