SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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前回のあらすじ

名誉ヘイトタンクに妖☆精☆王が就任


Episode21-09 オオカミ ト リュウ ト オオカミ ト

 妖精王オベイロンという巨悪の圧政者によって歪められた世界、改変アルヴヘイム。

 オベイロンの欲望と悦楽の為にどれだけの妖精たちが苦しめられ、絶望し、また死んでいったかは数知れない。オベイロン亡き後は改変アルヴヘイムを生きる妖精たちが存続できたのか、仮に歴史を刻み続けたとしてもオベイロンが残した傷跡と歪みを克服できたのか、もはや知る術はない。

 レコンは考える。改変アルヴヘイムの日々は自分にとって悲劇と絶望に満ち、だが同時に成長を経て希望の意義を見出す長き旅路であったのだと。この先の人生で道半ばで倒れるとしても、何1つ為し遂げられなかったとしても、それでもあの日々は尊く、また忘れてはならない罪を背負わせたからこそ、最後まで全力を尽くして生きねばならない。

 人は罪を重ねて生きていく。誰かと繋がりを持つという事は罪を知ることであり、罰を求める事であり、そして償いを悟ることなのだ。

 

「たった3日でリストの半分を消化……か。スゴウの情報精度には驚いたな」

 

「キミ達の実力があってこそだ。これもオベイロンの置き土産なのだろう。私の頭には多くのアルヴヘイムに関する知識が詰まっている。全知まではいかないが、キミ達の情報と組み合わせれば当然の成果だ」

 

「逆に言ったら、残りの半分はまだまだ手探りって事でしょ? これからが前途多難だね」

 

 表面上は冷静を務め、感情を排し、同じ卓を囲うのはキリト、スゴウ、そしてリーファだ。彼らは秘薬の素材リストと地図を中心に、これからの調査についての方針を話し合っている。

 場所はリーファとレコンが経営予定の農園。まだ正式名称は無く、設備投資は着々と進められているが、まだ稼働には至っていない。

 広大な土地と館付き。自由開拓戦線から『手切れ金』として渡された、レコン達の最大の資産。教会と契約で薬草栽培は決まっており、またいずれは他の栽培や畜産も予定している。

 だが、現時点ではひとまずのところ拠点以上の役割を果たしておらず、2人暮らしでは広過ぎた館はキリトやユナ、そしてスゴウも宿泊していた。

 この3日間でスゴウはその有能さを存分に披露した。

 まずは豊富な知識で素材リストの過半に目星をつけ、またリストの内の半分はほぼ入手方法を特定することが出来た。スゴウ自身が約3ヶ月の間、アルヴヘイムを転々として旅やプレイヤーと交換して得た情報、そして彼自身が元より知っていたアルヴヘイムの知識が合わさったお陰である。これに加えてリーファが持つ『攻略本』の助けもあり、たった3日間で素材リストの半分を埋め、書架よりキリトは多大な評価を受けただけではなく、上乗せのボーナス報酬が確約される事になった。

 次に戦闘面であるが、キリトは前衛の近接アタッカー、リーファは近接アタッカーと奇跡による援護も可能とした前衛寄り中衛、レコンは前衛のタンク、ユナは後衛のヒーラーメインのバッファーで時々シューターとバランスは悪くなかったが、後方からの火力支援が乏しいのがネックだった。これを解決したのがスゴウである。

 スゴウはINTに特化された魔法使いであり、多彩な魔法と呪術による後方からの火力支援はもちろんのこと、魔法の武器系のような魔法属性攻撃力をエンチャントする火力増強のバフ、ソウルの壁といった防御といったサポートも充実していた。特に燃費は悪いが火力は最高峰の結晶系の魔法すらも使いこなし、並のパーティなら遭遇すれば壊滅不可避の準ネームド級さえもタイムアタックかと思わしめる程のスピード撃破に貢献した。

 またスゴウ自身は『護身』と述べているが、彼の槍術は卓越しており、前衛が突破された場合にリーファだけでは守り切れない中衛の防衛ラインを突破された時、自分自身だけではなくユナも守れる実力の持ち主だ。時には自身も一撃離脱戦法で近接戦に加わる事でラッシュをかけるのに協力している。

 そして、飛び抜けて優れているのは対人における交渉力だ。遭遇したプレイヤーとの挨拶から始まり、取っ掛かりから瞬く間に情報交換に繋げ、常に主導権を握って取引を優位に終わらせる。彼が加わった事でプレイヤーから得られた情報の量・質共に劇的な上昇であり、それは今後の素材探索において重要な役割を果たすのは間違いなかった。

 これでもかと有能性を発揮したスゴウに、リーファも能力面だけは認めるしかないようだった。だが、スゴウへの警戒が疎かになっているわけではない。

 プレイヤーの死亡原因の1つに後衛の援護射撃……特に強力な魔法によるフレンドリーファイアが挙げられる。魔法は矢や銃弾ほどの速度は出ないが、その分だけ誘導性、火力、また攻撃方法の多彩さ、魔法回数と魔力は自然回復するので補給が要らないといった強みがある。だが、前衛の背中を撃ち抜いたり、範囲攻撃で巻き込んだりといったケースは後を絶たず、多くのパーティが下位時代こそ魔法使いプレイヤーを優遇しても、中位以降は倦厭する理由でもある。

 仮に乱戦、強敵との戦いの時、スゴウが強力な魔法で攻撃してきたならば、前衛のキリトとレコンは大きな隙を晒すことになる。前衛寄りの中衛のリーファも危ないだろう。そして、ユナにはスゴウの凶行を止めるだけの実力はまだない。

 すなわち、現状では警戒すべきなのは相対するモンスターではなく、『仲間』であるはずのスゴウなのだ。それがレコン達に対する大きなストレスとなっており、1日における探索時間の減少にも直結していた。

 効率を引き上げるには何としても解決しなければならない問題だ。いっそのこと、スゴウには留守番してもらうべきなのではないかとも話し合ったのだが、スゴウ自身が有能さを発揮すればするほどに意見として除外されていくことになった。

 とはいえ、このままでは先に精神が参ってしまうのは確かな事である。だからこそ、スゴウが信用できる人物なのか見極めねばならないのであるが、そもそもスゴウ自身は記憶を失ったオベイロンであるとほぼ確定しており、だからこそ見極めたところで信用を置けるかと聞かれれば、心情的には永久に否と断ずるしかないのである。

 唯一、スゴウと因縁を持たないユナだけが親交を深めているようではあった。互いに後衛として連携を取らねばならず、またユナ自身が声を発せられない事を除けば高いコミュ力の持ち主であり、あろうことか外様であるはずの彼女がパーティの緩衝材として大活躍するという事態に陥っていた。

 

(スゴウを傍に置いておくのは、良からぬ事を企んで行動に移した時にすぐに阻止する為でもあるんだけど、このままではいかないよな)

 

 スゴウをフリーに出来ないのは、彼自身がオベイロンの記憶に目覚めた時に暗躍を始める前に倒さねばならないからでもあった。これはリーファの発案であり、レコンも同意見である。

 だが、レコン個人としてはスゴウを身近に置いておくと面白くない理由が他にもあった。

 これまで交渉・取引をリーファに代わって手を尽くしてきたレコンであるが、スゴウの有能さが目立つ程に自分の実力不足を痛感する事になったからだ。

 もちろん、アルヴヘイムの時のように己の優越感や万能性を欲して増長するなど言語道断であるのだが、これまで新生フェアリーダンスの為に走り回った自分が愚かに思えてくる程度にはスゴウは優秀な人間だった。

 リーファも敵意や殺意を超えて能力は認めている。だからこそ、レコンは嫉妬しているのだ。それが会議に参加することなく、ユナを手伝うという名目で台所に籠っている理由でもあった。

 今日の夕飯の当番はユナだ。≪料理≫スキルを持つリーファとユナが交代で食事当番を務めている。台所からは既に食欲をそそるカレーの香りが漂っており、会議中でありながらキリトはチラチラとこちらを窺っており、そんな兄の足の甲をリーファは踏みつけて諫める。

 

「他に何か手伝うことはありますか?」

 

<もうすぐ出来上がるから、キリト達に会議を中断してもらって、テーブルの準備をしてもらってもいい?>

 

 ユナは話せない。会話のテンポは遅れるが、スケッチブックに文章を書いてコミュニケーションを図っている。さすがに慣れているのか、可愛らしい丸みを帯びた文字で、だが驚く程に速筆で綴る手際は見事だった。

 だが、声を出せないのは大きな障害であり、戦闘においては致命的な危険要素だ。悲鳴すら上げられないならば、後衛の危機に前衛が気づくのは遅れ、そのまま死亡に直結することもある。逆に前衛だからこそ気づけない危機を指摘する事も出来ない。そういう意味でもスゴウが後衛にいてくれるのはユナの負担と危険を減らす意味でも大きな価値があった。

 ユナさんは良い人であり、また頑張り屋だ。レコンはそう評価している。本人は戦闘能力の低さを気にしているようではあるが、ヒーラーとバッファーとしては間違いなく逸材である。

 ヒーラーは闇雲に回復を行えばいいのではない。状況を分析し、時には仲間が傷つく姿を後ろから見ながら、ベストなタイミングで回復を行わなければ容易くガス欠を起こす。バッファーにしても同じで、常にバフをかけ続ける事は簡単だが、瞬く間に魔力切れを起こして本当に必要な場面で支援できない事態になる。

 回復に関してはやや拙速な場面もあるが、バフに関しては言うことがない。ユナはヒーラーも兼任できるバッファーに適性を持っているのだろう。

 射撃支援に関しては正直に言ってまだまだである。なにせ近接アタッカーがキリトであり、またリーファも参加するのだ。あの2人が暴れる前線に的確な後方射撃支援を掛け声無しで出来るのは、それこそシノン級の腕前が無ければ無理だろう。逆に言えば、2人の動きを阻害することなく魔法による火力支援を出来るスゴウの優秀さが際立つのであるが。

 レコンとリーファは共に≪奇跡≫を持つので自己回復可能。キリトも≪バトルヒーリング≫やオートヒーリングで秒間回復量はえげつない。そこにユナの回復・バフが加われば鉄壁である。もはや回復アイテム要らずであり、たった3日間でレコン達は大黒字を叩き出し、夕飯の食材もランクアップさせることが出来た。

 最近はリーファと組んでばかりであり、多人数になっても辛辣な思い出しかなかったが、パーティの方が基本的に安全であり、また儲かるのはこういう理屈なのだ。

 

「うーん、絶妙な辛さの中で果実の甘味と風味がほんのり……! ユナさんも侮れないなぁ!」

 

 会議とは打って変わって、リーファは笑顔を咲かせてユナの料理を褒める。キリトは無言で頬張って美味だと全身で表現している。レコンもリーファの料理ばかり食べていたせいか、外食以外で食べた他人の料理に、やはり個人の腕前と好みが反映されるのだなと舌鼓を打つ。

 

「…………」

 

 対するスゴウはキリトとは別の意味で終始無言だ。自分が発言をすれば場の空気が悪くなると悟っているのだろう。また自分だけ別の場所で食べるのは、それもそれで気まずくなる為に、こうして無言を貫いているのだ。

 だが、その一方でスゴウは何処か楽しそうに口元を綻ばす瞬間を垣間見ることもできた。それはキリト、リーファがついつい見せる兄妹漫才であり、しょうもない噂話の盛り上がりであった。

 食後は各々で時間を潰す。キリトは食後の運動だと剣を振るい、リーファはそれに付き合う。ユナはレコンと洗い物を済ませると薪が燃える暖炉の前で読書をしていた。

 朝から夕方まであれだけモンスターと戦ったのに鍛錬するなんて。レコンは2人のバイタリティに……もとい剣馬鹿にはいつも通りに呆れる。

 キリトとリーファは共に高いVR適性の持ち主だ。特にキリトの方が群を抜いているだろう。高VR適性とはそれだけVR接続における脳にかかるストレスの低さを示している。即ち、あの2人は朝から晩まで動き回っても眠れば元気が補充されているのは、それだけ蓄積した疲労が少なく、また脳の回復の効率も良いからだ。

 レコンは2人ほどVR適性が高くない為に、1日フルで活動すれば翌日まで疲労を持ち越す。ましてや、睡眠時間を削れば如実にパフォーマンスに影響が出るだろう。

 だから、2人にとってむしろ重要なのは精神疲労だ。キリトはアスナの、リーファは更にサクヤの因縁をオベイロンとの間に抱えている。レコンもサクヤの仇を取らんと復讐の火は胸に灯しているが、2人ほどではないだろう。冷淡という意味ではなく、心の何処かでオベイロンを倒した達成感を残したままであるからだ。

 だからこそ、VR接続がかけるストレスよりも精神にかかるストレスを解消する方が2人にとって翌朝を少しでも良く迎えるのには必要なのだ。

 

「……お風呂でも沸かすかな」

 

 館にはもちろん浴場もある。とはいえ、十数人が一緒に浸かれるような大浴場ではない。せいぜい4、5人が限度である。それでも十分過ぎる大きさであり、だからこそ2人暮らしでは勿体ないと外付けしたシャワーがメインなのであるが、この3日間の収支が大黒字であり、また少しでもストレス解消になればと湯を沸かす。

 アルヴヘイム南方に位置するこの土地は、遥か遠くに霜海山脈を望むことができる。元々は温暖な土地なのであるが、この周辺は常に霜海山脈から冷たい風が吹き込む為に、夏は涼しく、冬は雪こそ降らないが肌寒い。また、霜海山脈がクリアされている影響下、質の高い雪解け水が流れており、農耕には大きなボーナスが付く。

 湯を沸かすのもタダではない。レコンは浴場の裏に設けられた、後付けの湯沸かし装置を起動させる。薪で沸かす方が情緒はあるのだが、効率優先だと浪漫派のリーファを押し切ってレコンが設置したものだ。ただし、彼女からの妥協点として、外観を損なわないレトロなデザインが採用されており、その分だけ値段が上がったのは言うまでもないことである。

 

「燃料……良し。えーと、このレバーを下ろして、こっちのダイヤルで温度調整をして……っと」

 

 DBOはボタン1つで全て終わらせることは出来ない。いや、正確に言えば、出来ないことも無いが、総じて得られる成果は最低限のものになる。

 たとえば≪料理≫。レシピを選択し、素材を揃えて、後は成功判定を行う。これだけで良いのだ。だが、実際には誰もが手間を惜しんで自分の手で細々と調理を行う。それが当たり前になっている。

 理由は色々ある。手間をかけた方が結果的により質が高くなるからだ。高級食材を揃えてシステムウインドウを開いて≪料理≫を起動させただけの食事よりも低品質の食材でも自分の手で作った方が美味しいなどDBOでは普通の事だ。略式はあくまで最低限を保証するものなのである。もちろん、時間を惜しむならば略式の方が優れているが、料理1つを取ってもバフがかかるのだ。時間を惜しんだら命を粗末にした……などDBOでは珍しくない事だ。

 だが、こうした湯沸かし装置1つを取っても、プレイヤーメイドとはいえ、手間がかかる。それがレコンに時々ではあるが、この世界で生きて死ぬのが当たり前なのだと錯覚させる。自分たちが帰るべき現実世界を忘れてしまう時があるのだ。

 いいや、本音を言えば、レコンは徐々に現実世界の思い出に実感を持てなくなっていた。自分の帰りを待つ家族たちの顔さえも、まるで写真のように過去の思い出として切り離されている気すらもする。

 悪い傾向だ。いや、そうなのか? レコンは迷う。現実世界に帰るのはリーファの願いであり、レコンはだからこそ叶えるべく全力を尽くしているし、これまでは自分も現実世界に帰るのは当たり前だと思っていたが、目指す先が『帰還』か『永住』ならば、現実世界に肉体を残しているとしても、この世界で生きる事を選んでも良いはずなのだ。

 ……考えるのは止めよう。レコンは強引に思考を切断し、湯沸かし装置に給水を開始する。当然であるが、この館にわざわざ水道は通っていない。故に大型のタンクが備え付けてあり、そこから台所や浴場といった場所に給水が行われる。これもレコンが手配したものであり、さすがのリーファも了承した。

 とはいえ、水も使い続ければ無くなる。放置すれば劣化する。故に適度に補給と清掃は不可欠だ。DBOは何から何まで『生活感』を彩る。ただでさえ、現実世界以上の生々しい質感を持つと評価されるDBOにおいて、それは猛毒だ。現実世界への帰還を忘れさせようとする、だが無ければ発狂してしまいそうな程に愛おしいものだ。

 タンクの水はまだまだ余裕がある。無くなった場合、自力で補充するか、近所のNPCを雇わねばならない。貯水タンクをオートメーション化して、近くの川から水を引くパイプラインを作ればいいのだが、その為には莫大な投資が要る。ランニングコストも考慮しなければならない。

 こうして考えれば、最初からインフラが整った都市部にばかり人が集まるのも納得である。特に終わりつつある街から多くのプレイヤーが離れないのは、結果的に言えば、他のステージよりも生活しやすいからだ。他ステージの街の限られた物件は過半が大ギルドに押さえられている事もあるが、こうした街から離れた物件は他の面でコストがかかり過ぎるのだ。

 こんなにも生活感はあるのに、それでも根底では現代日本における便利な文明社会がある。誰もが残酷になっていくはずなのに、確かに学んだはずの道徳観がある。

 環境は容易く人を変えるのか、あるいは人が環境に合わせて変わろうとするのか。両方だろう。レコンは自分の過ちを振り返って嘆息した。

 

「リーファちゃーん、お風呂が沸いたよー!」

 

「え? ホント!? やったー! 1番風呂!」

 

 キリトにしごかれたのか、汗塗れになって今にも腹に詰まった夕飯を吐き出しそうな顔をしたリーファがこれ幸いとばかりにお風呂に向かう。そんな妹にやれやれといった様子で腰に手をやったキリトの目はレコンを射抜く。

 

「レコンもどうだ?」

 

「遠慮しておきます」

 

 キリトに剣を向けられ、だがレコンは丁重にお断りした。キリトの鍛錬に付き合えるのは、それこそ最低限でもリーファ級の実力が不可欠だ。タンクであるレコンでは、盾殺しを得意とするキリトが相手ではサンドバッグ以下である。

 

「ユナさんも一緒に入ろう♪」

 

 リーファに手を引かれ、読書を中断されたユナが脱衣所に連行される。レコンは暖炉の前に置きっぱなしになった本を持ち上げる。

 太陽の狩猟団が発行している【アルヴヘイムの歩き方 ~モンスター・ダンジョン解説編~】である。こうしたガイド本は当たり障りのないことしか書かれておらず、情報源として全面的に信用できるものではないが、それでも読んでいて損はない。

 ユナは勉強熱心だ。今日も足こそ引っ張らなかったが、援護射撃が不十分だったことを気に病んでいるのだろう。彼女の本領はあくまで回復・バフ支援なので、射撃援護に偏重してもらった場合、逆に弊害が出る。自身の適性を考慮した判断が必要不可欠だとレコンは心配だった。

 もちろん、ユナの適性についてはキリトも承知だろう。だが、同時にキリトは典型的な天才型だ。ユナの適性外の部分も高望みし、彼女も引っ張られている危険性がある。指導者など未経験のレコンが口出しすることではないが、無理に射撃援護を挟むよりも後ろで回復・バフに専念してくれた方が何倍も有難いのが本音であった。

 女の風呂は長い。レコンは時計を見て1時間くらいだろうかと見当をつける。

 1時間で出来る仕事は山ほどある。なにせ、レコンには農園を本格的に稼働させて軌道に乗せねばならないのだ。

 組合に話を通してみたが、新参かつ悪い意味で知名度を持ったらしいレコン達は有名人らしく、芳しい回答は得られなかった。

 そもそもとしてアルヴヘイムという立地からも人手を増やすことは思うようにいかない。なにせ農業には人手がいる。最低でも10人は住み込みで欲しいのだ。信用できる従業員ともなれば更に限られ、また待遇面も考慮すれば、雇用にはどれだけのコストがかかるか言うまでもない。

 そこで教会と交渉し、薬草栽培を引き受けることが決定したのだが、そうなると得られる利益は微々たるものだ。教会が派遣するならば信用できるが、当然ながら取り分は減る。ただでさえ薬草の買取価格は相場よりも安値になるのだ。これでは教会に飼い殺しにされるのと同義である。

 

「DBOはいつから経営シミュレーションになったんだよ……!」

 

 テーブルに資料を並べて頭を抱えるレコンは唸る。とはいえ、DBOはシステムを提供しているだけで、経済や市場といった概念を持ち込んでいるのはプレイヤーの方だ。薬草にしてもNPC商人に売る方が二束三文になる。そう考えれば、ゲーム基準に比べれば教会は高値で買い取ってくれているだろう。

 悪い噂は他にもある。どうやら3大ギルドはコルに代わる新たな通貨の導入を目論んでいるのだ。

 コルは通貨以外にも資源という側面を持つ。たとえば≪鍛冶≫において装備を製造・修理するにしても燃料費という形でコルの支払いが求められる。そうして消費したコルは永久に失われる。

 他にも多くの場面でコルは消費される。新たな通貨を導入する事で流通を支配し、経済を掌握するつもりなのか。大ギルドの狙いにレコンは身震いする。巨大な組織を相手に自分たちが何処まで立ち向かえるのか。そもそも歯向かおうとしている事さえもが間違いなのではないかと弱気が芽生えそうになる。

 

「困り事かい?」

 

「ほわぁああああ!?」

 

 背後から声をかけられ、レコンの心臓は口から悲鳴と一緒に飛び出しそうになる。半ば椅子を吹き飛ばす勢いで立ち上がって振り返れば、遠慮した面持ちのスゴウが目を逸らしながらホールドアップして距離を取っていた。

 

「済まないね。私の本分が目についたもので……」

 

 スゴウの本分。須郷伸之はかつてALOの運営を担っていたレクトの重役に若くして就任しており、同時に技術者としても敏腕を振るったとキリトには聞かされている。だが、最終的にはVR技術の軍事転用を目論んで様々な違法行為……中には非人道的な人体実験も暴かれ、公にされるより前に秘密裏に処理されたとの事だ。どのような最期を迎えたかは定かではないが、国外逃亡の末に射殺されたと彼は聞いている。

 須郷伸之は亡きアスナの家族とも交流があったらしく、その関係でSAOでは仲が良かったキリトも彼と接触する機会はあったが、ハッキリと言えば、須郷伸之とスゴウの印象はまるで異なるとの事だった。

 須郷伸之は知的な紳士と振る舞いながらも、隠し切れない本性が漏れた……傲慢で支配的な人物だった。だが、スゴウは同じく知的な紳士として振る舞い、他プレイヤーとの取引や交渉の時には時には蛇の如く狡猾な面を見せながらも、基本的には善良な人間として映るとの事だった。

 性根が腐敗して救いようがなく、肥大し過ぎた自尊心で傲慢であったオベイロンこと須郷伸之。確かにキリトの話とオベイロンを統合した須郷伸之はスゴウと印象が食い違い過ぎた。

 

『もしかしたら、スゴウはオベイロンの記憶を失っているだけじゃなくて、「須郷伸之」としての記憶も部分的に欠落、あるいは書き換えられているのかもしれないな』

 

 そうでもなければ世紀の大役者だよ、とキリトはスゴウを分析していた。レコンとしては全て演技だったと邪悪な笑い声で暴露してもらった方が気兼ねなく倒せるので有難いのであるが、スゴウは今のところ尻尾を見せていない。

 

「農場の経営をどうしたらいいのか悩んでて……」

 

「なるほどね。キミ達程にDBOに詳しくないが、大ギルドや教会の存在は熟知してる。現代日本の感覚では失敗するだろうが、通じるものはある。私ならアドバイスできる……が、どうだろう?」

 

 躊躇いながらも助力を申し出たスゴウに、レコンは即答で断ろうとしたが、同時に行き詰まっているのも確かであった。

 意見を聞くくらいならば構わないだろう。レコンは無言で自分の右隣の席を引く。スゴウは腰を下ろすと眼鏡のブリッジを指で押し上げ、真剣な眼差しでレコンがテーブルに広げた各種資料や家計簿を読み始める。

 

「驚いたな。たった2人にしては大した資産じゃないか。これだけ広大な土地の農園を持ってるアドバンテージといい……キミ達には強力なバックがいるのか?」

 

「色々あったんですよ。詮索しないでください。あと、僕たちに後ろ盾はありませんよ。敢えて言うならば自由開拓戦線と教会ですが、前者とはほぼ絶縁状態。後者とは御覧の通りです」

 

「……なるほど」

 

 スゴウは口元を手で隠し、ブツブツと独り言を繰り返したかと思うと強気の笑みを浮かべる。

 

「まずは投資を募ろう」

 

「だから、僕たちにはそもそも伝手が――」

 

「時代の寵児と呼ばれる大成したビジネスマン達の多くは、最初からコネクションを持っていたわけじゃ無い。伝手は無いなら自分から売り込んで作るのは商売の基本だ。まず問題点だが、薬草栽培で卸ルートが教会に限定されるのは避けなければならない。教会御用達とは聞こえもいいが、その実態はキミが危惧してる通りだ。ならばどうするか? キミ達には卸ルートが無い。組合にも倦厭されている。だったら方法は1つだ。卸ルートを確保してくれる投資家を味方につければいい」

 

 そんな都合のいい存在がいて堪るか。反論を口にしようとするレコンに、まだまだ甘いなとばかりにスゴウの目が細くなる。それはまるで蛇が見つけた獲物を丸呑みするかのような残虐性が垣間見えた。

 

「キミはこの土地の性質をよく調べている。何を栽培すべきかのピックアップにも抜かりはない。だが、苗も種も無い無い尽くし。肥料さえも安値で仕入れるルートが無い。だったら、最初から全てを持っている、キミ達の同業者を買収すればいい。ああ、何も従業員を抱え込む必要はない。必要なのは権利だ。保有する種や苗の権利さえあればいい」

 

「そんな事が出来るんですか?」

 

「出来るさ。なにせ、今のキミ達には教会とのパイプがある。これは大きな武器だ。信頼は強力なカードだ。キミ達は教会にお墨付きをもらっていると振る舞えばいい。決して言葉にしてはいけない。文面にもしてはいけない。相手には『教会と仲良くさせてもらっている』と思わせるだけでいい。教会と仲良くしたいと思っている商業ギルドは山ほどいる。特に落ち目であればある程にキミ達は魅力的な投資先だ」

 

 その上で私が狙うべきは……コレだ。スゴウはそう付け加えるとレコンが束ねた商業ギルドの資料から1枚を抜き取る。

 

「酒造……ですか?」

 

「古来より酒と宗教は深い繋がりを持つ。教会に認められた酒というだけで絶大な付加価値がつく。宗教的儀式に採用されればプレミア確定だ。確かにこの農園は広い。だが、大量生産品に立ち向かえる程の生産力は期待できない。これは日本の農業・畜産が輸入品に価格競争で負けるのと同じプロセスだ。だったら同じ手段で対抗できる。とにかく付加価値を与えた高品質に拘ることだ」

 

「教会に権威付けされた酒。でも、そんな事は誰でも思いつきますよね?」

 

「ああ、普通だ。だが、おいそれと実行は出来ない。教会も権威付けを安売りしたいはずがない。ましてや、宗教が金儲けに走ると信仰心が離れる原因になる。だから『ニオイ』を嗅がせるだけだ。『レコン君たちを厚遇すれば、他を出し抜いて教会からの権威付けを得られるかもしれない』と錯覚させればいい。そうすれば買収先は先方がお膳立てしてくれる」

 

 簡単に言ってくれる。要は相手を勘違いさせ、正すことなく、都合よく利用するという事ではないか。だが、スゴウは赤子の手を捻るより簡単だと言わんばかりに肩を竦めた。

 

「ビジネスは契約書が全てだ。契約書に記載されていなければ履行する義務はない。罰則もない。ましてや、DBOには法律もない。ビジネスにおいて成功する秘訣はね、ダーティプレイを躊躇わない事だ。ただし、絶対に信頼を損なってはいけない。信頼は金で売り払って手放すのは簡単だが、買うことも買い戻すことも出来ない」

 

「……参考までに、どんな方法が?」

 

「そうだな。適当な理由を付けて、投資家を招いてディナーをするといい。教会の方と席を囲むのが得策だ。なるべく地位の高い人物が望ましい。ああ、そうだ。キリト君を同席させるのも悪くないだろう。彼は事実上の教会の専属傭兵であり、また高い知名度があるのだろう? 君には教会という強力なバックがあり、これからのし上がることが確定していると思わせることが出来れば、厚遇した投資を引き出せるはずだ」

 

「聞く限りでは簡単ですけど、やっぱり難しいような……」

 

「だから落ち目を狙うんだ。チャンスがあれば飛びつくような……ね。大ギルドの横槍も想定されるが、別に本当に権威付けをさせたいわけじゃない。好きに躍らせればいい。必要なのは経営を安定させ、成長を見込めるだけの初期投資を手に入れ、また仕入れ・卸の2つのルートを確固たるものにすることだ。商業ギルドも教会からの権威付けを狙うならば、キミ達相手に悪条件を出しようがない。こちらは暴利を貪らない程度に良識ある交渉を行えばいい。決して傲慢になってはいけない。あくまで真摯に対応する。それが信頼を呼び、新たな販路とビジネスチャンスに繋がる」

 

 その後、スゴウは瞬く間に綿密な交渉プランを組み立て、また経営に関するいろはを分かり易く説明する。逆に彼に足りない、DBO特有のシステムが絡む知識はレコンが補填する。

 

「獣狩りの夜の影響でNPCの雇用は倦厭される傾向にあるか。効率面を重視すれば、NPCを雇用すべきなのだろうが、それでもコストはかかる。プレイヤーを雇った方が安上がりなわけか」

 

「やはり従業員がネックになりますよね」

 

「いっそギルド化してギルドメンバーに入れてしまうのはどうかな?」

 

「ギルドはギルドで運営すべきなのがリーファちゃんと僕の意見なんです。あくまで農園経営は取っ掛かりに過ぎないというか……」

 

「アルヴヘイムは水準レベル100。従業員の安全性も考慮したいキミ達としては、信用できるとしても低レベルのプレイヤーを働かせたくない」

 

「そこが問題なんですよねぇ。教会に頼りっぱなしなのも危険だしなぁ」

 

「ハハハ! 何を言ってるんだい? それこそキミの古巣の出番だ。自由開拓戦線は中小ギルドの連合体。だが、フロンティアフィールドの探索という命懸けに対して見返りが少ないと辟易しているプレイヤーは多いはずだ。しかもギルド単位で動かさせるのではなく、属するプレイヤーが各々の任務に就く傾向からもギルドへの愛着は損なわれている。そこに自分のスキルを限りなく安全に活かせる場があるとするならば?」

 

「ハングリー精神を持った人間ほどに、折れた後はスローライフと安定を欲するものですからね。≪農耕≫スキルを持ったプレイヤーなら募集に応募するかもしれません!」

 

「そうなると次は交通の便だな。たとえ、スローライフ思考であるとしても娯楽も無ければ給与を近場で使えるわけでもない。ここからでは教会が保有する転移ゲートが遠すぎる。だからといって、キミ達がギルド化しても転移ゲートを設置するのは高コスト。そうなると……」

 

「待ってください! 確かこの辺りに……あった! 近くに釣り愛好会が保有する湖畔があります! どうでしょう? 土地の1部を釣り餌の養殖所にして提供する見返りに転移ゲートを使わせてもらうというのは?」

 

「釣り餌には釣り餌の仕入れルートがあり、利権があるだろうから難しいだろうな。だが、悪くない考えだ。別の視点からアプローチをかけてみよう」

 

 いつの間にかレコンは大いに盛り上がっていた。スゴウが弁に達者だったこともあるだろう。だが、それ以上にレコンが抱え込んでいた悩みに、彼は持ち前の知識と経験で様々なアドバイスをくれた事が大きかった。

 これまで誰にも尋ねることも出来なかった。暗中模索するばかりで何が正解なのかも分からなかった。専門知識もなければ経験もない。ならばこそ、レコンはスゴウと意見を交わせる事に熱が入る。自分の方針と計画が間違っていたり、抜け穴があったりすれば、スゴウは容赦なく切り込んでくれるからだ。

 だが、レコンの背中に悪寒が走る。突き刺すような視線を感じ、レコンが顔を向けた先……暗がりの廊下では、タオルを首からかけた寝間着姿のリーファが立っていた。

 

「……リーファちゃん」

 

「こっちに来て」

 

 リーファはレコンの手を掴むとそのまま早歩きで彼をスゴウから引き離す。そのまま夜風が冷たい屋外にまで連れ出すと責めるような眼でレコンを射抜いた。

 

「どういうつもり? オベイロンとあんなに楽しそうに談笑するなんて……」

 

「談笑なんて……そんな……僕は……」

 

「アイツはオベイロン。たとえ、記憶喪失だろうと改竄されていようと、オベイロンなの。アルヴヘイムで暮らしていた皆を苦しめて、アスナさんとサクヤさんを殺した仇なんだよ?」

 

「わ、分かってる! 分かってるさ!」

 

 そうだ。忘れているものか。今のは少しばかり気が緩んでいただけだ。レコンは唇を噛み、オベイロンの悪行の数々を思い返す。どれか1つを取っても決して許されてはならない大罪だ。

 だが、罪を背負っているのはレコンも同じだ。肥大化した自尊心のままに殺人を犯した。自分の優越感の為だけに命を奪ってしまった。ならば、記憶すら失っていない自分もまた決して許されない、死によって罰せられるべき存在なのか?

 

「あたしは……オベイロンを絶対に許さない」

 

「……リーファちゃん」

 

 拳と声を震わせたリーファは背中を向ける。それは涙と嗚咽を見せない為か、それとも自身の顔が怒りと憎しみで禍々しく歪んでいると自覚したからか。

 去っていくリーファをレコンは追えなかった。追う資格が無かった。

 

「僕は……僕は……ただ……」

 

 オベイロンの罪を許したわけではない。必ず報いを受けさせねばならない。だが、オベイロンの記憶を失ったスゴウを罰する資格が同じ罪人である自分にあるのか戸惑う。

 

「ああ、チクショウ!」

 

 こんな時だからこそ、キミに会いたい。キミにだからこそ、この苦しみを問いたい。レコンは切り株に座り込み、満天の空を見上げて咆える。だが、その声が届くはずもない。心の内で願っても聞き届けられるはずがない。彼女は現れない。

 

「求められて登場! ナギちゃんデース☆」

 

 ただし、彼女はレギオンである。およそ常識から外れた存在である。まるで最初からそこに存在していたかのように、レコンの正面に立っていた。ウインクして目を覆うようなVサイン。微笑ましいサイズの胸を強調するセクシーポーズ。およそ意識に空白を与えるには十分過ぎる衝撃である。

 

「…………」

 

「…………」

 

「…………」

 

「……さ、さすがに無反応だと、ナギちゃんも恥ずかしいかなぁ?」

 

 先に恥じらって折れたのはナギの方だった。頬を掻きながら姿勢を正したナギに、レコンは大きな溜め息を吐く。

 

「いつからいたの?」

 

「最初から最後まで。本当はレコン達の手で決着をつけるまで現れないつもりだったけど、レコンがナギちゃんに会いたいって顔をしていたから我慢できなくなっちゃった」

 

 少し歩こう。レコンはまだ耕されていない農地を踏みしめ、ナギと並行して月明かりの下で散歩をする。

 

「ねぇ、スゴウは――」

 

「彼についてナギちゃんはなーんにも教えませーん!」

 

 先に釘を刺されてレコンは項垂れる。レギオンならばスゴウについて何かしら知ってると思ったのだが、どうやらナギはヒントの1つも与える気はないようだ。

 

「仮にナギちゃんが教えても解決しないよ。剣士さんは理性と感情の板挟み。妹さんは怒りと憎しみを捨てられない。レコンは……どうかな? 人間関係に対しては3人で1番ドライだからなぁ」

 

 1歩だけ前に飛び出したナギは踊るように振り返り、レコンを上目遣いで見上げる。

 背が伸びて肩幅も広くなったせいだろう。ナギが以前にも増して小柄で華奢に映る。そして、以前とは比べ物にならないくらいに艶やかさを覚える。レコンは自分の心臓が高鳴るのを意識して視線を外そうとするが、レギオン特有の先読みをフル活用してか、ナギはこれでもかと先回りし続けて視界に居座る。

 

「レコンはどうしたい?」

 

「……分からない。僕は罪人だから。オベイロンとは規模が違うだけで、同じような理由で命を奪ったから」

 

「命を奪って奪われて……生きてる限りは死ぬんだから気にする必要ないのに。でも、そうやって苦悩しても立ち向かって選ぼうとする姿はとっても『人』らしいね。すごーくドキドキしちゃう♪」

 

 背伸びをしたナギの吐息が首に触れる。レコンは顔を真っ赤にして彼女の肩を掴んで押し退けようとするが、それを待っていたと言わんばかりに腕を掴んだナギは体重を背後にかける。

 重力に誘われるままに、レコンはまた土も掘り返されていない青々とした芝の上にナギを押し倒してしまう。

 霜海山脈から吹く冷たい夜風。だが、ナギのレザーコートの下は煽情的なキャミソールとショートパンツだ。しかも押し倒された拍子でズレて、男の劣情をこれでもかと誘う色香を増長させている。

 

「キスする?」

 

「しない」

 

「それ以上のこと……したい?」

 

「するわけないだろ!」

 

「ホントに? ナギちゃんは、そんなに魅力が無い?」

 

 抱擁を欲するようにナギは両腕を伸ばして微笑む。まるで血を浴びたような赤黒い髪からは嗅いだ事も無い甘い香りがして、レコンの理性は溶けそうになる。

 目の前にあるのは誰もが欲する極上の果実だ。手を伸ばせばもぎ取れる場所にあって、しかも誰も咎めることはない。

 

「……止めてくれ。僕は人間で、ナギちゃんはレギオンなんだ」

 

「人間はレギオンに恋をしたらいけないの? レギオンは人間と結ばれたらいけないの?」

 

「そうじゃない。そうじゃないんだ。僕が言いたいのは……」

 

 レコンが奥歯を噛みながらナギから離れて立ち上がれば、彼女は残念そうに着崩れしたレザーコートを羽織り直す。

 

「……ごめん」

 

「謝らないでいいよ。だって、レコンがナギちゃんに恋してるって言質……とれたもん♪」

 

 へ? レコンは先のやり取りを思い返し、そして勝手に解釈するなとばかりに右手を全力で左右に振る。

 

「いや、いやいやいや! アレはたとえ話だろう!? 僕が? ナギちゃんに? いやいやいやいや!」

 

「ふーん。否定するの? だったら、ナギちゃんはもう会いに来ない。別の男の所に――」

 

「絶対に駄目だ!」

 

 レコンは思わず大声が飛び出しながら詰め寄ってしまい、ナギは目を見開いて小さく跳ねる。

 途端に自身の失敗を悟り、レコンは顔を真っ赤にして否定の言葉を探す。だが、吐露してしまった感情を隠すだけの余裕はなく、ナギは残虐無比な笑みを描いた。

 

「素直じゃないね。でも、レコンの気持ち……ちゃーんと分かったよ♪」

 

「もう勝手にしてくれ」

 

「うん、勝手にするね♪」

 

 上機嫌になったナギはくるくる回る。回って、回って、舞い踊る。月光を浴びる血染めの如き髪は夜にこそ相応しく、レコンは魅入ってしまった。

 

「レコンの悩みはとってもとっても『人』らしい。だから、たくさん悩んでね。たくさん迷ってね。その最果てに殺しても殺さなくても、後悔してもしなくても、ナギちゃんはレコンを許して、認めて、受け入れる。世界中の誰もがレコンは間違ってるって責めるとしても、ナギちゃんだけは味方をしてあげる」

 

「……なんだよ、それ」

 

「でも、これで気が楽になったでしょ? 間違ってもいいよ。失敗してもいいよ。レコンなら必ず立ち上がって前を進めるから、ナギちゃんは気長に傍で待っててあげる♪ 苦しくて堪らないなら愚痴を聞いてあげる。涙を流したいならぎゅーってしてあげる。眠れないなら添い寝をして子守唄を歌ってあげる。独りぼっちになりたくない、明ける事が無い血と死に満ちた『夜』が嫌なら……」

 

 月と星の光を束ねるように舞っていたナギは不意にレコンとの距離を詰め、まるで大顎で喰らい殺すかのようにレコンの頭に両腕を伸ばすと抱き、そのまま引き寄せる。

 ナギの温かな吐息が混じった唇がレコンの唇と重なり、呼吸が止まる。意識が蕩けて、心臓が止まったように締め付けられて世界が無音となる。

 甘く細やかな幸福と充実に満ちた時間はほんの数秒。ナギは呆然とするレコンから離れると人間を喰らうレギオンとは思えない程に、美しく、優しく、穏やかで、切なさと儚さで溢れた笑顔を咲かせた。

 

「この命だろうと魂だろうと何だろうと使って、一夜の夢に溺れさせて、そして目覚めをあげる。たとえ、ナギちゃんの全部を……王より受け継いだ『敬愛』すらも否定することになっても……必ずレコンを救ってあげる」

 

 これは……何だ? レコンは遅れて重なり合って襲い掛かった衝撃によって心は打ちのめされ、わなわなと震える。

 

「いや、いやいや、いやいやいや、いやいやいやいや! 待って! ナギちゃん、待とうよ! 今までの流れを思い出そうよ! 僕、ずっと拒否してたよね! 全力で駄目って断ってたよね! もうお決まりの流れだったよね! それなのに……え? え? えぇえええ!?」

 

「ナギちゃんはレギオンでーす。目の前に油断した獲物がいたら噛み殺すのは当然だよね? クヒヒ♪」

 

 本当にキミは何なんだ!? レコンは問い詰めようとすれば、ナギは捕まるものかと走り出す。

 ナギを追いかけたレコンは、だが眩い程の月明かりですぐに気づいてしまった。

 赤黒い髪が靡く後ろ姿。だが、隠しきれていない耳まで真っ赤にした羞恥を必死に隠そうとするナギに、レコンは愛おしさを覚えて、手を伸ばそうとして、だがレギオンだからという妨げの声が煩わしいくらいに立ち塞がって、それでも大きな1歩でついに後ろから抱きしめる。

 

「僕は悩むよ。迷うよ。間違って、失敗して、落ち込んで、もしかしたら立ち上がれないかもしれなくて……だけど……それでも……」

 

「いいよ。もしも本当に立ち上がれなくなった時はナギちゃんを呼んで。殺してあげる。王より賜った『敬愛』を失うことになったとしても、レコンを愛しながら殺してあげる」

 

「どうして君はレギオンなんだろうね? キミがレギオンでさえなければ……僕は悩むことも苦しむことも……!」

 

「違うよ。レギオンだからレコンはナギちゃんに興味を持ってくれたし、ナギちゃんもレコンを好きになれた。王から受け継いだ『敬愛』があったからこそ、ここまで心を育むことができた。ナギちゃんはね、やっと……やっと……やっと……『人』じゃなくて……『レコン』が好きなんだって分かるまで……学ぶことが出来たんだよ」

 

 レコンの抱擁に甘えるようにナギは体重を預け、レコンは一緒に星が見たいと腰を下ろす。まるで猫のようにレコンの腕の中で丸まったナギは愛おしそうにレコンの心臓に触れるかのように胸を撫でた。

 

「ナギちゃんが『レコン』を好きだって気づけたのは……ちゃんと分かったのは……妹のお陰なんだ。ナギちゃんの大切な家族。もう長くは生きられない妹。生まれた時から滅びが定められた、哀れで、愛おしくて、救いようがない……形も色もない『憎悪』を受け継いでしまったレギオン」

 

 ナギは小刻みに震える。恐いもの知らずのレギオンが怯えるように、レコンに縋りつく。

 

「レコン……レコン……『レコン』! 駄目だよ。絶対に……絶対に『鬼』だけにはならないで。『鬼』は『獣』じゃない。『人』が歪んで狂って壊れて……それでも……それでも……それでも、擦り切れようとも突き進んだ最果てに辿り着くものだから」

 

「……ナギちゃん」

 

「王は『人』を愛した『獣』。本来ならば不必要だったはずの人間性を憑代にして『鬼』となって『獣』を縛った」

 

 まるで古い、古い、古い伝説でも語るように、ナギは決して忘れてはならないと告げるように、レコンに囁いて聞かせる。

 

「ああ、哀れだね。『鬼』は本当に……哀れだよ。得られずとも、報われずとも、救われずとも……それでも……」

 

 それからどれだけの時間が経っただろう。

 現れた時と同じように、気づければレコンの傍からナギは消えていた。まるで最初から存在しない幻であったかのように、だが確かに温もりだけを残して……

 レコンは考える。この世界に残るか去るか、そんな贅沢な選択の時が来たならば、自分は迷わずに現実世界に帰ることが出来るのだろうか。

 悩んで迷って、もしかしたら間違えるのかもしれない。それでも、自分で考えた末に選ぶのだ。

 スゴウについても同じだ。選択の時は必ず来る。だから、その時まで悩んで、迷って、それでも自分で選ぶのだ。たとえ、リーファと異なる選択をすることになるとしても。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 アルヴヘイム東方のメインダンジョンの1つ、聖剣の霊廟。

 永遠の黄昏に満ちた霊園の最奥には霊廟があり、そこには1人の深淵狩りが墓守として霊廟を守っているとされている。

 だが、今は黄昏も失われ、霊廟は朝を迎え、昼を経て、夕暮れの果てに夜を知る。まるで宝物の如き黄金の薔薇が咲き乱れる霊園は複雑な迷宮でもあり、また立ち塞がるモンスターは容易には霊廟に辿り着かせない。

 本来ならば、アルヴヘイム最強のランスロットがボスとして待ち受けるはずだったダンジョンである。だが、オベイロンによってランスロットは解き放たれた。キリトは結局のところ、このダンジョンに1度として踏み入れることなく、知り得た情報も正常化したアルヴヘイムで収集されたものに過ぎない。

 キリトがランスロットと戦ったのは2度だ。1度目は廃坑都市で完敗し、2度目はペイラーの記憶でコピーに辛勝した。ただし、再戦したランスロットは本来の実力を発揮できておらず、結果は勝利でも心は敗北感を拭えずにいる。だからといって、復活して立ち塞がった場合、聖剣をある程度まで使えるようになった今でも果たして勝てるのかという疑念と不安が大き過ぎるのであるが。

 今回の素材の収集対象は1つが【白銀の薔薇】だ。聖剣の霊廟を探索した経験があるギルドから、黄金の薔薇が咲き乱れる中で1輪の銀の薔薇を見たという情報を得たのである。

 もちろん、見間違いもあり得る。広大なダンジョンを隈なく探索するにしても人手が足りずに時間もかかる。だからと言って戦力を分散させれば死亡リスクが高まる。故に普通の攻略と同様にパーティを組んで細々と調査をするしかない。

 聖剣の霊廟では狼系のモンスターである【霊廟の守り狼】と【深淵堕ちの騎士】が大きな脅威となる。

 霊廟の守り狼は群れで出現し、素早い動きで翻弄し、また高い攻撃力とアバター破壊性能を持つ。また、仲間が傷つけば傷つく程に攻撃力とスピードにバフがかかり、追い詰められる程に強敵となる為に短時間で纏めて倒さねば危うい。

 深淵堕ちの騎士は、大剣、曲剣二刀流、槍と盾、弓といったバリエーションに豊富であるが、いずれも耐久力が高く、また闇属性攻撃力が高い。いずれも闇の呪術を操り、特に大剣持ちは【黒炎の嵐】を発動させ、広範囲攻撃を仕掛けてくる。彼らは闇に堕ちた深淵狩りのランスロットを討伐せんとした騎士達であり、だが逆に霊廟から漏れる闇に感化されてしまい、深淵に堕ちてしまった存在……ダークレイスと同類である。

 とはいえ、単体ならばキリトの敵ではない。大剣持ちが繰り出す苛烈な連撃を華麗に捌き、逆に聖剣の一閃でカウンターを決める。よろめいたところでメイデンハーツの連射で追撃する。

 そのままメイデンハーツを変形させる。グリップに対して銃身が直線になるように折れ曲がる。本来ならばここで腰の鞘……専用のカートリッジと合体させて黒騎士ブレードやヤスリエネルギーを伝導させる使い捨てのクリスタルブレードを召喚・接続するのであるが、改良されたメイデンハーツはキリトの要望で速攻性能を引き上げている。

 それが腰のブレード・カートリッジに接続することなくメイデンハーツ本体にブレードを形成する、通称クイック・ブレードだ。半透明の灰色のブレードは無属性攻撃力を有し、また最大5秒しか展開できないという弱点こそあるが、銃撃モードからより高速で斬撃モードに切り替えることができる。また、Qブレードは元より耐久面が低く、攻撃力を大幅に高めている為に脆いのであるが、そもそも破壊されようと何度でも再形成が可能であるので弱点とはならない。

 Qブレードの機能追加に伴い、メイデンハーツの銃弾製造スピードは低下したが、それを補って余りある戦術の幅の向上が見られている。

 瞬間的にQブレードと聖剣による二刀流の斬撃を浴びせ、再び銃撃モードに戻し、至近距離でヘッドショットを決め、スタンしたところにトドメの聖剣の一閃で縦に両断する。闇の塵となって消えていく深淵堕ちの騎士たちの骸を越えて、新たな曲剣二刀流の深淵堕ちの騎士がキリトに飛び掛かるも、彼は冷静に銃口を向ける。

 メイデンハーツ、【竜牙ヤスリ】特殊弾【竜衝弾】。武器の衝撃・スタン蓄積を瞬間的に高める竜牙ヤスリを用いた衝撃弾は、着弾点からまるで竜の咆哮のように衝撃波を解き放つ。殺傷性よりも衝撃による怯みやスタンを狙ったものだ。

 腹部に竜衝弾が命中し、不可視の衝撃波が体内に浸透し、そのまま背中まで抜けていった深淵堕ちの騎士は吹き飛んで転がる。キリトと入れ替わるように飛び出すのはリーファだ。彼女は倒れた深淵堕ちの騎士の腹に剣を深く突き立てる。そのまま≪片手剣≫の単発系ソードスキル【ライジング・スワロー】に繋げる。強烈な斬り上げで対象を浮かすことを目的としたソードスキルであるが、敵に剣を突き刺した状態ならば斬撃で相手を裂きながら効果を発揮する。

 貫かれた腹から胸にかけて刃で裂かれ、宙を浮いた深淵堕ちの騎士にリーファは≪片手剣≫の連撃系ソードスキル【フラッシュ・アウト】を繰り出す。高速の5連突きの後に踏み込みからの強烈な突きか1歩後退してからの薙ぎ払いのどちらかに派生させることが出来る。どちらかと言えば対人向けであり、相手に点の突きか線の薙ぎ払いか、どちらの対処を取らせるか迫る、使いこなせば強力なソードスキルだ。

 だが、キリトが感嘆したのはリーファが平然とシステム外スキルの1つであるスキルコネクトを使用した事だ。実戦で運用できるプレイヤーは上位プレイヤーでも稀、トッププレイヤーでも数える程しかいない。

 スタミナが実装されているDBOにおいて、ソードスキルはおいそれと使うことが出来ない。モーションが固定化されているので、たとえモンスター相手でも安易に使用すればカウンターの餌食になるという危険性もあるが、継戦時間が削れてしまうからだ。

 だが、その分だけ決まった場合の火力増強はリスクに見合うものだ。リーファのように、一撃の威力に秀でた単発系から総火力でダメージを稼ぐ連撃系に繋げる流れはスキルコネクトの理想形であるが、キリトも拍手を送りたい程度には動きに淀みも迷いもない。

 リーファはスタン蓄積も計算に入れていたのだろう。フラッシュ・アウトの連続突きの最中にスタンした深淵堕ちの騎士に、モーションを上乗せした渾身の突きを見舞う。深淵堕ちの騎士は吹き飛ぶ空中で闇の塵となって消える。

 だが、まだ終わりではない。上空から闇の玉が降り注ぎ、黄金の薔薇の茂みより次々と闇の刃が突き出す。霊廟のレアモンスターである【闇潜りの魔導士】だ。見た目は真っ黒でボロボロのローブを纏っており、中身は亡者であるが、人骨を組み合わせた杖を振るって強力な闇魔法を使ってくる厄介なモンスターである。

 杖を振り上げた闇潜りの魔導士より地面を抉る程に巨大な闇の玉が放たれる。だが、キリト達の前に全身を分厚い甲冑で纏ったレコンが壁となって立ち塞がり、大盾で巨大な闇の玉をガードする。

 霊廟の探索という事もあり、闇属性に特化させた防具である【洗礼騎士シリーズ】だ。白銀の分厚い甲冑は闇属性防御力が高い。金の装飾が施されたバケツヘルムは洗礼騎士の特徴である。更にタワーシールドの大盾である【深淵封じの扉】は、その名の通り、本来は深淵を封じ込める為の鋼の扉だったものを盾に改造したものだ。芸術品にも見える精巧なレリーフが施された表面からは考えられない程に堅牢であり、巨大な闇の玉を浴びても微動することなく拡散させて無効化する。

 闇潜りの魔導士は更に杖を振るい、自分の周囲から闇の霊魂を次々と生み出させる。闇術の追う者たちと同様の高い追尾性を持った、闇の黒の中に目の如く白い光のようなものがぼんやりと2つ浮かぶ闇の霊魂はキリト達に襲い掛からんとするが、レコンは大盾を振り上げ、そして構える。≪盾≫の特殊系ソードスキル【スケープシールド】だ。誘導性のある攻撃を自身に集めて仲間を守る、≪盾≫に相応しいソードスキル……いや、ガードスキルである。

 闇の霊魂は全てレコンの大盾に据われる。何十という闇の霊魂ともなれば、闇属性防御に秀でた大盾であっても無効化しきれず、貫通ダメージがレコンのHPを削る。だが、それでもレコンの姿勢は崩れない。闇属性は強力な衝撃が伴い、スタミナを奪う効果がある。深淵封じの扉ならばスタミナ減少効果は軽減できるだろうが、衝撃までは減衰されないはずである。

 ならばこそ、あれだけの物量を一身に受けてもレコンの体の芯がブレる気配すらもないのは、彼の卓越したガードセンスのみならず、視界を埋め尽くすほどの闇の霊魂を前にしても気後れすることなく、恐怖することもなくガードできる精神力があってこそだ。それはタンクの最大にして最も過酷な条件である。

 たとえ自分のHPがゼロになる瞬間まで背後の仲間を守る為に微動すらせずにガードをし続ける。それが出来るタンクはほとんどいない。かつて、聖剣騎士団が最前線攻略及びネームド討伐において最も信頼を置いた、【黒鉄】のタルカスが率いる精鋭タンク部隊亡き今では真にタンクと呼べるプレイヤーはヒーラー以上に貴重な存在だ。

 闇の霊魂による物量攻撃さえも防がれた闇潜りの魔導士は、だが更に自身の周囲に闇を巡らせる。新たな闇術を発動されるより前にキリトは接近しようとするが、彼をサポートするように、闇もぐりの魔導士の直上に青い光の塊……ソウルの輝きが生じる。

 繰り出されたのは魔法【ソウルの封剣】。ソウルの大剣が闇潜りの魔導士の頭上より降り、その全身を刺し貫いて地面に拘束する。

 ソウルの封剣は発動時に相手の直上に魔法の起点が発生し、また誘導性も低いために、相手の動きを見極めねば不発どころか前線で戦う近接アタッカーの邪魔、あるいは巻き込みかねない高難度の魔法だ。

 ソウルの封剣で動けない闇潜りの魔導士と交差した刹那で聖剣を振るったキリトは一撃で首を落とす。闇潜りの魔導士は闇の塵となって消える。

 キリトが間合いを詰めるタイミングと完璧に合わせ、なおかつ闇潜りの魔導士がカウンターの闇術を発動させようとした回避できない瞬間を狙う。見事と言わざるを得ない手腕である。

 これで全部か。黄金の薔薇が裂く生垣に周囲を覆われた戦闘の終わりを迎えたかに思われたが、まだリザルト画面は表示されていない。生垣を飛び越えて霊廟の守り狼の群れが後方で陣取っていたスゴウ達に牙を剥く。

 俺の腕では狙い打てない。メイデンハーツによる射撃ではなく、聖剣の月蝕光波による迎撃を狙ったキリトであるが、月蝕は闇術のように質量……重圧を伴う為に収束と放出に時間がかかるパワータイプであり、どうしてもスピードに欠ける。

 間に合うか否か。キリトが焦りを覚える間際で、ユナが銃口を地面に向け、冷水を放出しながら薙ぎ払う。圧縮された冷水は地面に接触する傍から氷となり、それは瞬く間に大きく成長し、霊廟の守り狼の奇襲を防ぐ壁となる。いや、それどころか数体は成長する氷に呑み込まれて身動きが取れずにいた。

 戦闘中はスケッチブックを使った文字によるコミュニケーションは不可能だ。故にユナはアイコンタクトをしてキリトにチャンスを作ったと伝える。ユナとスゴウはそれぞれ左右に跳び、氷の壁に捕らわれ、あるいはまだ跳び越えられないでいる霊廟の守り狼とキリトの間に攻撃を通すルートを作る。

 月蝕光波。フルチャージした巨大な月蝕光波を縦に放てば、地面を抉りながら月蝕の漆黒で満ちた三日月状の光波は霊廟の守り狼たちを文字通り一掃した。

 今度こそリザルト画面が表示され、キリトは一息を吐く。リーファやレコンも同様だ。

 

「みんな、大丈夫か?」

 

「怪我はないよ。HPもほとんど減ってない。これもユナさんの【太陽の慈雨】のお陰だね!」

 

 リーファはガッツポーズをして無事を伝える。キリト達にはオートヒーリングと防御力上昇のバフをかける奇跡の慈雨が使用されていた。これのお陰で多少のダメージは気にすることなく攻勢に出られた。キリトの場合、≪バトルヒーリング≫と元から備わったオートヒーリングも合わされば、相手の攻撃は片っ端から無効化されているようなものであり、アバターを破損しても太陽の慈雨の効果で早送りのように塞がるのだ。

 これまでも傭兵で何度かネームド戦に参加してヒーラーの有難さは実感していたが、こうした攻略でも1人いるだけで安全性の向上は桁違いであった。ただし、回復や支援を当てにして攻撃を優先した結果、ダメージを貰い過ぎてしまった点もあり、そこは個人として気を引き締めるしかないだろうと肝に誓う。

 最もHPの減少が酷いのはレコンだ。タンクとしての役割を全うしたからこその、言うなれば名誉である。レコンは兜を脱いで回復アイテムを使おうとしたが、ユナが全員を自分の周囲に集めて奇跡の中回復を発動させる。発動の光の円陣に触れていた全員のHPと破損したアバターの修復が施されるだけではなく、温かな光は内側に溜まっていた疲労感のようなものも洗い流してくれた。

 スタミナはあらゆる行動で消費するが、同時に常に回復し続けている。だが、短時間で極度のスタミナを消耗したり、連戦を繰り返したり、長時間に及んで休みなく移動した場合など、様々な要因でスタミナ回復速度が低下する。これはアイコンやステータス画面で表示されないクローズであり、個人の管理や感覚が肝となる。尤も、過半のプレイヤーはスタミナ回復速度の減少よりも連戦・長時間の移動による精神面の疲労や集中力の低下の方が問題なのであるが。

 だが、奇跡や1部の回復アイテムにはこうしたシステムとしての疲労の蓄積を減少の速効がある。キリトのようなVR適性が高過ぎると逆にシステムがもたらす様々な効果にも敏感である為に、パフォーマンスを維持する上でもユナの奇跡による回復はHPやアバター修復以上に有難かった。

 

「潜って4時間です。そろそろ戻った方がいいのでは? このままでは帰る前に日が暮れますよ」

 

「そうだな。ひとまず今日はもう切り上げよう」

 

 レコンの意見を採用し、キリトは退避を決意する。今は無理をしてでも探索を推し進める時ではないのだ。

 最奥の霊廟までのショートカットは未だ発見されておらず、故にキリト達でもまだたどり着けていない。アルヴヘイムを攻略したなどという名声で持ち上げられているが、キリトの功績はスローネとオベイロンの撃破であり、聖剣の霊廟やシェムレムロスの館、霜海山脈については、実際に探索している他のギルドに比べても無知だった。

 無事にダンジョンを脱出したキリト達はその足で近隣の町に向かう。そこにはプレイヤーが多く屯しており、キリトを目撃すると羨望と敬意の眼差しを向けており、彼は半ばうんざりした気持ちで転移ポイントを目指す。

 

「ここはプレイヤーが多いね。アルヴヘイムなのに珍しい」

 

「近場で闇属性をエンチャントできる深淵ヤスリの原料にもなる【闇濡れの結晶】の採掘されたからだろう。採掘権が確定していないから、商業ギルドがああして雇ったギルドやパーティを送り込んで採掘ポイントの探索を行っているのさ」

 

「……貴方には聞いてない」

 

「……すまない」

 

 リーファの疑問に答えたスゴウは、彼女の冷たい反応に唇を閉ざす。

 リーファはスゴウに明確に敵意を示す態度を崩さない。キリトもリーファの気持ちは痛いほど分かり、また改善を促すつもりもない。

 スゴウを見極める。キリトはその一心で怒りと憎しみを抑え込んでいる。彼の記憶喪失は少なくとも本物であり、それだけではなくオベイロン以前の……須郷伸之の記憶についても幾らかの改竄が見られた。

 敢えて言うならば、スゴウは須郷伸之とオベイロンの悪意に満ちた強欲を取り除き、肥大し過ぎた自尊心が人並みまで縮小された存在に映った。リーファへの態度からも分かる通り、自分に非は無くてもリーファを不快にさせたならばと謝る度量と善意があり、また戦闘中も前線のキリト達や同じ後衛のユナを気遣う振る舞いが目につく。

 その一方で他プレイヤーやギルドとの交渉や取引では狡猾さを発揮し、常に利益を最大限に得ようとする一方で、相手に過ぎた損を与えて敵愾心を育てないようにする、本領とも呼ぶべき手腕を発揮してくれている。

 

「採掘かぁ……」

 

 レコンは何か考え込む素振りを見せる。彼も彼で色々と抱え込んでいるのでキリトも手助けをしたいが、あくまで教会の専属であるキリトが深入りすれば、逆にレコンに不利益をもたらすかもしれないと踏み込めずにいた。

 

「今日はここで解散しよう。俺は用事があるから、今日は帰れない」

 

<私もそろそろ監督役としてエドガー神父に進捗を報告しないと>

 

「そっか。じゃあ、あたしとレコンは――」

 

「あ、ゴメン! 僕も終わりつつある街にちょっと用事があるんだ」

 

 リーファが帰宅を示せば、レコンは両手を合わせて頭を下げる。

 そうなるとリーファとスゴウの2人だけとなる。途端にリーファの目から感情が消え、スゴウだけは視界に収めないようにするように顔を逸らした。

 

「だったら、あたしも今日は終わりつつある街で泊まる」

 

「私は……ここで待っていよう。明日も霊廟に潜るのだろう?」

 

「悪いが、それは出来ないな。アンタとパーティを組んで共同生活をしているのは監視の意味もあるんだ」

 

 スゴウの意見を一考の余地もなくキリトは押し退けたはいいが、そうなると今夜の彼の所在をどうするか悩みどころとなる。

 

<だったら教会はどうかな? 皆も用事があるし、1日にくらいなら教会でスゴウさんを泊めてあげられると思う>

 

 ユナの申し出は有難いが、教会は事情を知らない。果たしてスゴウの危険性を認識して見張ってもらえるかは怪しかった。

 

<心配ならエドガー神父に頼むけど、どうかな?>

 

「エドガーなら……まぁ、大丈夫だろうな」

 

 教会は大ギルドには戦力面で及ばないとされているが、少なくとも図抜けた実力者が2人もいる。

 1人はエドガー。元聖剣騎士団にして円卓の騎士であるが、その実力は未知数であり、誰もエドガーの『本気』を見たことが無いと恐れられている。特異な『灰』の奇跡を使用する事でも知られ、どれだけのカードを伏せているのかも伺い知れない、まさしく教会の切り札と呼ぶに相応しい男である。キリトも何度か手合わせさせてもらった事はあるが、いずれも手を抜いているのは明らかであり、決して手の内と底を明かさない不気味さが際立つ。

 もう1人は主任。信心深いエドガーとは対照的な軽い態度が目立つ男であり、教会の警備主任を任されている、決して名乗る事が無い男だ。戦闘スタイルは通称『ピザカッター』と呼ばれる金属製クラブと分離可能な複数の円盤を組み合わせた奇天烈なチェーンブレードだ。特に戦闘時はバケツヘルムですらない、本当にバケツにしか見えない金属製の被り物をすることでも有名だ。アノールロンドでは不調で戦線離脱したが、エドガーが信仰心ゼロの主任に敬意を払って対応している事からも、場合によってはエドガー以上の教会の最高戦力なのかもしれなかった。

 スゴウの素性は明かさず、それとなく注意するようにメールをしておけば、1晩くらいは警戒してくれるかもしれない。あまりエドガーに借りを作りたくないキリトであったが、スゴウが自分たちの目が無い場でどのような態度を取るのか興味もあった。

 キリト達は使用料を支払い、他のギルドが設置している転移ゲートを使用させてもらって終わりつつある街に到着する。

 もう間もなく夕暮れという事もあり、冬であることを加味しても寒さが呼吸の度に肺を凍てつかせる。

 

「レコンの用事って何なんだ?」

 

「あー……いわゆる根回しですよ。農園の経営を本格的に始めないといけないので」

 

「だったら、あたしも付き合おうか?」

 

「リーファちゃんがいたら話が拗れるから止めて」

 

「なによ! 邪魔者扱いして!」

 

 スグの性格を考えたら、俺が同席する以上に拗れるだろうなぁ。容易に想像できたキリトはユナとスゴウを教会まで送るとその足でワンモアタイムに向かう。

 昼の喫茶店から夜の酒場に切り替わり中のワンモアタイムは今日も盛況だ。キリトは待ち合わせの時間までまだ余裕があると時計で確認しながら2階の1番奥の席に向かう。

 

「時間を間違えたか?」

 

 待ち合わせの席には既にシリカが待っていた。彼女は紅茶を口にしながら雑誌を捲っている。キリトは忍び足で迫るが、数メートルまで近寄ったところでシリカが顔を上げる。

 

「まだ1時間前ですよ」

 

「早過ぎないか?」

 

「今日はオフだったので、のんびり買い物をして、優雅にティータイムを楽しんでいたんです」

 

 納得したキリトは向かい合うように席に腰を下ろす。看板娘のアイラが注文を取りに来るとオリジナルブレンド珈琲を選択する。

 

「…………」

 

「…………」

 

「……似合ってるよ」

 

「ありがとうございます」

 

 さすがのキリトもこれだけヒントを提示されていれば気づく。シリカは普段のツインテールではなく髪を下ろし、また服装も上品で大人っぽい薄ピンクのロングワンピースだ。冬の寒さに対してお洒落優先の度合いはさすが女子と言うべきであるが、足下のブーツから首元の星を模した金のペンダントまで、コーディネートは自分と会うためにわざわざ選んでくれたのだろうと噛み締める。

 だからこそ、キリトも男として彼女にはキッパリと、これからの為にも2人の関係を明確にさせておきたいのであるが、彼女はキリトの出す回答が分かっているからと聞きたがらない。

 褒められたシリカは口元が緩む程度には上機嫌だった。キリトはそれが逆に心を締め付けられ、また彼女の術中であると自覚した上で情けなくも話を切り出せない。

 

「なぁ、シリカ。俺とキミには色々あって、歪んだ関係を正すことを誓って、だからこそ過去の――」

 

「今日は!」

 

 シリカは周囲の客の迷惑にならない程度に声を張り上げる。ネームド相手でも怯まずに戦えるキリトであるが、眼前の少女の威圧の笑みの方が何倍も恐ろしくて身動きが取れなかった。それこそランスロットすらも赤子に感じるレベルである。

 

「今日は別件で呼び出されたと思うんですけど、私の勘違いでしょうか?」

 

「いいえ、仰る通りです」

 

 アイラが持ってきた珈琲に口をつけ、キリトは既にメールで通達してあるとはいえ、どのように自分の口で伝えるべきだろうかと悩む。

 

「……オベイロンが生きていた」

 

 結局はシンプルになる。キリトが告げれば、シリカは雑誌を音もなく閉ざし、大袈裟なまでに溜め息を吐いた。

 

「本当にゴキブリみたいなしぶとさですね」

 

「だけど、俺にはスゴウがオベイロンと同一人物とは思えないんだ。確かに共通する部分はある。彼自身も自分が『須郷伸之』だって自称しているけど……」

 

「私達が知る須郷伸之が全てではないですよ。彼の人となりは、あくまで犯罪者であるという認識を通したものでしたし、彼が友人や家族に対してどのような振る舞いをしていたのかも謎です」

 

 確かに、悪逆非道の犯罪者が家族には優しくて慈悲深いなど珍しくも無い。外と内では同じ人格でも振る舞いも言動も異なって当然だ。

 だが、キリトにはオベイロンと戦い、命懸けの中で彼の本性と本質に触れた実感がある。

 自分以外を虫けら同然に見下し、己の強欲の為ならば如何なる悪事も厭わず、肥大した自尊心は傲慢な振る舞いと油断を招き、だが追い詰められると矮小で情けなく、最終的にはプライドや野心よりも保身を優先する。

 改変アルヴヘイムでは分析する余裕もなかったが、こうして振り返る程に、玉座の間で倒したオベイロンには違和感を拭いきれないどころか、むしろ偽者に違いないという確信すらも芽生えつつあった。

 だが、仮にオベイロンが逃亡に成功したとして、潜伏中にリアルの姿で、しかもスゴウという直球のプレイヤーネームを使用するだろうか。意図的にオベイロンの記憶を欠落させ、須郷伸之としての記憶を改竄し、人格さえも矯正するような手間をかけるだろうか。

 やはりスゴウの演技なのか? だが、演技であると仮定すると余りにも杜撰過ぎる。オベイロンは傲慢であるが故に油断するが、決して無能ではない。そうでもなければ、改変アルヴヘイムであれ程に苦しめられるはずもなかった。あくまで自尊心と野望に対して能力が追い付いていなかっただけであり、彼自身は有能と呼ぶべき人物なのだろうとキリトは感情を排して評価する。

 

「シリカはどうすべきだと思う?」

 

「私はキリトさん程にオベイロンの死を望んでいません。でも、アルヴヘイムで死んだ皆の為にも、オベイロンを倒さないといけないとは思います。まぁ、それも淡白な義務感みたいなもので、本音を言えばオベイロンを生かしておいたら、どうせろくでもない事をやらかしかねないからなんですけど」

 

「そう……だよな」

 

「ただし、倒すにしても、それは『オベイロン』であってスゴウではありません。キリトさんはもうオベイロンとスゴウを切り分けて、別人としてカテゴライズしているように感じます」

 

 付き合いが長いだけに、さすがに鋭い。キリトは珈琲を口にして心を落ち着ける。

 

「そもそも、誰かの意見を聞いて殺すと決めるなら、キリトさんは皆が望んだなら誰であろうと殺すんですか? たとえ、それがクゥリさんだったとしても……」

 

 シリカは紅茶を飲み干したティーカップの底を覗き込みながら、キリトの胸中で疼いていた疑問を容赦なく刺激する。

 

「キリトさんにしても、リーファさんにしても、スゴウをどうするかは自分自身で決着をつけるしかないと思います。私は殺した方が将来的な安全を確保できるという意味で推奨しますけど、スゴウさんが本当に良識ある善人であるならば、さぞかし寝覚めが悪く、ずっと罪の意識に縛られ続けるでしょうね。私は簡単に割り切れませんから」

 

「……分かってるんだ」

 

 一気に残りの珈琲を喉に流し込んだキリトは重々しく口を開く。

 

「スゴウはオベイロンじゃない。まだ数日だけど、演技じゃないって確信があるんだ。だけど、もしも記憶を取り戻したら、その時はオベイロンだ。でも、記憶を取り戻しても人格はスゴウのままだったら? 俺は迷いなく斬ることができない」

 

 脳裏を過ぎるのは、革命の為にオベイロンに立ち向かって死んでいった数多の妖精たち、そして玉座で惨たらしい死を晒したアスナだ。

 オベイロンを許すことは出来ない。感情が決して認めない。

 

「俺はスゴウと会った時、彼の事もろくに知ろうとせず、怒りのままに、憎しみのままに、殺そうとした。リーファもレコンも同じ気持ちだから、自分は間違ってないって、目の前にいるのは倒すと誓った敵なんだってさ」

 

 だが、実際はどうだ? スゴウはオベイロンの記憶を持っていないどころか、須郷伸之としての記憶も改竄され、人格さえも矯正されている。それは果たして本人と呼べるのか? たとえ、オベイロンが生き延びた末の姿だったとしても、容赦なく切り捨てる事が正しいのか。

 ユナがいなければ、キリトはオベイロンを今度こそ倒したという達成感と虚無感を味わっていただろう。自分が斬ったのは本当にオベイロンだったのかという疑問から目を逸らし続けていて、いつかと同じような間違いを繰り返す1歩になっていただろう。

 

「俺はどうするべきなんだろうな」

 

「…………」

 

 会計を済ませたキリト達はワンモアタイムを後にして終わりつつある街を何処を目指すでもなく歩き出す。

 

「今日のこれからの予定はありますか?」

 

「メイデンハーツの微調整したいし、マユの工房に寄って、そのまま泊めてもらおうかって考えてる」

 

「駄目ですよ。マユさんはクリスマスライヴに向けて忙しいんですから。それに、またソファで寝るつもりでしょう? 私の家に来ませんか? 夕食もご馳走しますよ」

 

 シリカが目を輝かせながら提案し、キリトは思わず頷きそうになって、だがそれでは何も変わらないと自制心を働かせる。

 

「止めておくよ。工房が駄目なら傭兵寮を使うさ。折角、高い料金を支払って部屋を取ってるんだからな」

 

「いい加減に新居を準備したらいいじゃないですか。アスクレピオスの書架が提供してくれるんですよね?」

 

「そうなんだけどさ、教会から提供されるのも何だかなぁ……」

 

 書架から提示された物件はいずれも立地に優れた家具付きであり、セキュリティに至るまで最高ランクだ。それもまた専属条件だったからと言えばそれまでなのであるが、キリトとしては教会からの好待遇にあまり浸かりたくなかった。

 

「選り好みをし過ぎたら見つけられるものも見つけられなくなりますよ」

 

「分かってるさ」

 

「本当に分かってますか? このままだと家無しのまま年が明けますよ? それにマユさんの工房って……いい加減にしてくださいよ。マユさんだって女の子なんですよ? キリトさんを泊めるのも、内心では困ってるかもしれませんよ?」

 

 それは確かに不味い。キリトもリーファたちの農園生活で拠点の有難みを感じ入っているところである。やはり帰る場所があるのと無いのとでは精神状態が雲泥の差だ。

 マユの工房と傭兵寮を時と場合によって使い分けながら寝泊まりしているキリトであったが、考えてみればマユにしても専属相手とはいえ男と同じ屋根の下で夜を越すなど不本意なのではないだろうかと不安になる。

 いや、そもそもとして、HENTAI鍛冶屋である以前にマユは歌って踊れて戦えるなんちゃって大和撫子系VRアイドルである。VRアイドル界で熾烈なトップ争いをしていた現役アイドルなのである。今でも3大ギルド関係なしに番組やラジオにゲスト出演したかと思えば、コロシアムが満員御礼になるソロライヴを開ける程の大人気なのだ。彼女がライヴを開くとなれば、それだけでチケットは1分と待たずして売り切れである。

 はっきりと言えば、傭兵として多額の金を動かすキリトでも遠く及ばない程に経済効果を持つのがマユなのである。故に狂信的なファンも多く、キリトが聖剣の使い手にして【黒の剣士】である事以上に、マユの専属で個人的に親しくしているというだけで嫉妬と殺意の目を向けられるのも必然なのだ。

 逆に言えば、傭兵クラスの報酬をアイドル業で稼いでるはずなのに、キリトが絶望するほどに借金を抱えていた彼女のHENTAI鍛冶屋魂の何と恐ろしき事だろうか。

 

「確かにそうだな。マユにこれ以上の迷惑はかけられないか」

 

「ですです! そうですよ!」

 

 キリトは夕焼け色に染まり始めていた空を見上げながら頷く、なお、彼が見ていない傍らでシリカは小さなガッツポーズをしていた。

 

「でも、新居が手配できるまで傭兵寮だけというのは不便ですよね。やはり、私の家で――」

 

「いや、もうしばらくはリーファの農園で世話になるし、まだまだゆっくりと時間をかけて探すさ」

 

 途端にシリカに脛を蹴られてキリトは悶絶する。ダメージを負うような攻撃にはDBO独特のダメージフィードバックが適応されるが、そうでない場合は痛覚が機能する。キリトが悶絶すれば、シリカは不機嫌に顔を逸らした。

 

「それはそうとクリスマスの予定は決まったんですか?」

 

「書架の顔を立てないといけないから、クリスマスの夜は教会の聖夜祭に参列するよ」

 

「だったらスピーチの原稿を準備しておかないといけませんね。教会が聖剣ごとキリトさんを本格的に取り込もうとどんな『サプライズ』を準備してるか分かりませんから」

 

「さすがに無いだろ。書架は教会というよりも研究1番の知的集団だし、エドガーもああ見えて節操はあるさ」

 

「……油断しないでくださいね。教会は大ギルドとはまた違ったロジックで動いてる組織ですから。最近は特にきな臭い事件も増えていますし。昨日なんて快楽街で高級娼婦の館を襲撃なんて事件もありましたから」

 

「DBOで大なり小なり事件が無かった日なんてないさ」

 

「それはそうですけど……」

 

 表に出るか出ないかの差だ。こうしてキリトが手を休めている間にも、誰かが戦い、誰かが殺され、誰かが泣いている。

 全てを救えるなどと驕ってはならない。それでも、傲慢であろうとも、目についたならば心が望むままに、魂が叫ぶままに手を伸ばして、助けたい。救いたい。守りたい。

 だが、キリトは右手を見つめる。今の自分は守る事よりも殺す事に悩んでいる。魂の叫びのままに聖剣を振るうと誓った右手は、もしかせずとも大きな裏切りを為そうとしているのではないかと不安になる。

 

「イヴはマユさんの工房に皆で集まってパーティと聞いてますけど、あの散らかり放題の工房に何人も入るとは思えませんね」

 

「うーん、別の場所でやるのも手だけど、手頃な物件は押さえられてるだろうしなぁ」

 

「それこそ教会を頼ってみたらどうですか? 身内のパーティ感は無くなりますけど、部屋は貸してもらえると思いますよ」

 

 確かに大聖堂ならばクリスマス・イヴだろうと部屋は余り溢れるだろうが、場所が場所だけに肩の力を抜けなくなるだろう。特にキリトの場合は翌日が肩肘を張ることは必至の聖夜祭だ。イヴくらいはリラックスして過ごしたかった。

 

「折角の専属なんです。借りを作り過ぎるのは危険ですけど、特権を使わないのも勿体ないですよ。それに、こちらの腹を見せたフリくらいはしないと得られる情報もありませんしね」

 

 シリカは強かだ。自分とは大違いである。ここ最近はシリカの有難みを噛み締めてばかりのキリトは彼女の事務能力の高さに感服するしかなかった。

 

「さてと、私はそろそろお暇しますね。今日は朝から遊び倒して疲れたんです」

 

「夕飯くらい一緒にどうだ?」

 

「あ、いいですね。じゃあ、市場で買い物して帰りましょうか」

 

「OK。今日はここでお別れだな」

 

 キリトがあっさりと引き下がれば、シリカは頬を膨らまして背中を向けて去っていく。

 シリカの駆け引きはお見通しだ。だからこそ乗らなかったのだが、キリトは1人になった途端に、騒がしい雑踏で孤独感を覚える。

 右を見ても、左を向いても、クリスマスを歓迎する華やかな飾りが目立つ。だが、その心の中には恐怖を潜ませている。いつ死ぬかもわからず、常に破滅の予感を覚えている。故に刹那の快楽に身を委ねるものは後を絶たない。

 キリトが立ち寄るのはラストサンクチュアリの難民キャンプだ。ヴェノム=ヒュドラの件があったからか、警備は厳重になっており、まるで隔離するかのように金網によって囲われてしまっている。かつては乱闘ばかりだった配給も整然としているが、各々の顔に貼り付いているのは拭いきれない不安と俯くしかない諦観だ。

 12月で難民キャンプは閉鎖され、各々の独立が余儀なくされる。これまでは補償されていた衣食住を自身でつかみ取らねばならなくなる。

 ラストサンクチュアリの難民の多くは配給に頼り切っていた者達ばかりだ。悪い言い方をすれば自助精神が欠落している。ラストサンクチュアリの資産の売却が完了すれば均等に分配され、支度金としてDBOの荒波に漕ぎ出さねばならないのだが、その多くは食い物にされるか、早々に支度金を使い潰して貧民街でも底辺……最下層に沈むだろう。

 これを防ぐべく、ラストサンクチュアリの難民を対象とした雇用の斡旋や職業訓練も行われているのだが、それは同じ立場であるはずの貧民プレイヤーからの悪印象を強めている。難民キャンプを囲う金網は難民を外に出さない為ではなく、外からの悪意ある襲撃を防ぐ為の意図が大きいのだ。

 

「あれは……」

 

 難民キャンプを訪れているディアベルの姿が映り、キリトは物陰に隠れる。多くの記者を引き連れたディアベルは、ラストサンクチュアリの難民を対象とした大々的な雇用政策……フロンティア・フィールドへの開拓移住を発表しているようだった。また、難民から聖剣騎士団に……いや、ディアベルに直にスカウトされ、これからの聖剣騎士団の戦力を担う人材として期待するといった宣伝も行っている。

 そして、聖剣騎士団の関係者に隠れるようにして、特徴的なサボタンのような刺々しい髪型をしたキバオウも混じっている。聖剣騎士団から多量の装備を購入し、借金を一身に背負った彼はラストサンクチュアリの資産売却が完了次第、債務者として鉱山送りが事実上確定している。だが、こうして聖剣騎士団の上層部と並んでいる姿を見るに、彼は難民のフロンティア・フィールドへの開拓移住を推し進めているのだろう。

 フロンティア・フィールドとはいえ、聖剣騎士団の直下の領地であるならば決して悪くはない。なにせ大ギルドの直轄で待遇が劣悪であるならば、そのまま大ギルドの評判を落とすことになるからだ。

 ラストサンクチュアリ壊滅以降、キバオウは頑なにキリトと会おうとはしない。キリトは彼に問いたい事があり、だが彼は何を尋ねられるのか分かり切っているとばかりに顔を合わせることを拒否している。

 もう終わった事だと区切るのは簡単だ。だが、それでもキリトはキバオウの心中を知りたかった。

 自分を裏切ったのは構わない。キリトは結局のところキバオウの戦友にはなれなかった。傭兵として稼いでラストサンクチュアリの財政を助け、また聖剣騎士団の依頼を引き受け続ける実質的な専属のような状態となる事で多くの譲歩と支援をラストサンクチュアリにもたらしたが、最後の最後までラストサンクチュアリの運営には手も口も出さなかった。ならば、キバオウがそれを無情であると断じて、ラストサンクチュアリが滅びる間際にキリトの背中を刺そうとしたならば、それは私情とすれ違いの行き着く先に起きた、何処にでもある、ありふれた悲劇だ。

 だが、キバオウがキリトの想像通りに動いていたならば、彼だけではなく守ろうとしたラストサンクチュアリの住人にすらも多大な被害をもたらしかねなかった。いや、あの戦いで避難者が全員無事だったのは奇跡にも等しい。ならばこそ、キバオウの画策は四苦八苦して守ろうとしていたラストサンクチュアリの人々にも牙を剥いていた事になる。

 大ギルド相手に頭を下げ続け、穏健派にしてギルドリーダーとしてラストサンクチュアリ内の過激派と腐敗に立ち向かい続けた男が、どうして最後に守りたかった者達に弓を引いたのか、知りたくてならなかった。

 だが、同時に何1つとして証拠が無いのも事実だ。ラストサンクチュアリの本拠地は今や壊滅した湖の底に沈み、クラウドアース主導で再開発が進められる予定が、聖剣騎士団と太陽の狩猟団も介入し、なかなか進捗がない。キバオウが真に企んでいたか否かは彼の口から語られる以外に知る術はない。

 だからこそ、キバオウの面会拒絶は疑いを確固たるものにするばかりだ。それが分からぬキバオウではないとキリトも知っているからこそ、言葉にしない肯定であることは違いないと受け入れるしかなかった。

 難民の1人と目が合いそうになり、キリトは背中を向けて立ち去る。聖剣騎士団の思惑はどうであれ、過半は貧民街……それも最下層暮らしを余儀なくされるしかないだろう彼らの雇用を請け負ってくれるのは有難い事である。そんな大事な発表の場に自分が居合わせるのは無用な混乱を招くだけであった。

 何よりも今のキリトは既にアスクレピオスの書架の専属だ。ギルドは消滅したとはいえ、過去の専属先に必要以上の干渉をすれば余計な顰蹙を買うことになる。好条件で専属契約を結んでくれている書架の面目を保つ為にも、キリトはラストサンクチュアリの難民には必要以上に接触すべきではないのだ。

 なお、こうした心構えをお節介にも説いてくれたのは、専属歴が長いシノンである。一見すれば猫のように気まぐれに傭兵ライフを送っているように見えるシノンだが、その実は常に専属先の太陽の狩猟団との契約に縛られ、また専属先に不利益が被らないように聖剣騎士団やクラウドアース製は徹底的に避け、また追及された場合の建前を常に準備している。

 キリトは専属先が専属先であるだけに、装備・アイテムは3大ギルド問わずに使用できるが、それでも回復・バフアイテムに関しては書架の面子と告知の為に書架製を積極的に使用する事を余儀なくされている。何処に他のプレイヤーの目があるかもわからない以上、今回のアルヴヘイム探索においても書架製のアイテムの積極的仕様を心掛けていた。それは逆に言えば、これまで慣れ親しんだアイテムを安易に使えなくなることを意味していた。

 独りは嫌いだ。独りは寂しくて、すぐにネガティブ思考の螺旋に堕ちていく。キリトは夕焼けの闇が深まり続ける終わりつつある街を目的地もなく歩く。

 

「キリトじゃないか」

 

 だが、人数が多い場所ならば知人と出会う機会もあるというものである。キリトは自分が寂しさ故に黒鉄宮跡地周辺の歓楽街の賑わいに惹かれていた事実に自嘲したくなった。

 遭遇したのは私服姿のラジードとミスティアだ。暇さえあれば終わりつつある街のパトロールを自主的に行っているが故に、常に防具を纏ったラジードの珍しいオフの姿にキリトは驚く。常に黒色でほぼ埋め尽くすキリトとは違い、モスグリーンのコートを着こなすラジードの素のオシャレ力の高さは足下の靴からして遺憾なく発揮されている。

 ……なんだか裏切られた気分だ。というか、ラジードのオフってこんな姿なのか。分かっていた事であるが、そもそも見た目からして爽やかスポーツマン系を直球で行き、基本的に誰とでも仲良くなれる交友関係の広さが持ち味で、なおかつあのクゥリとさえも友好関係を結べているラジードが、キリトと同じ陰側の人間であるはずが無いのである。

 ミスティアもミスティアで、如何にも上流階級育ちのお嬢様といった雰囲気に相応しく、着込んだ白のダッフルコートまで上品さが際立っている。ただし、ラジードと仲睦まじく腕を組んでいるのは、恋人である自負というよりも、周囲へのアピールというよりも、たとえ10分の休憩時間であろうとも持ち前の正義感を発揮しかねないラジードの拘束に思えて、何処か薄ら寒さを覚えるのは自分の気のせいに違いないとキリトは思い込むことにした。

 

「やぁ。2人は仲良くデートみたいだな」

 

「あははは……。野犬事件があって、しばらくはパトロールで治安回復に貢献したかったんだけど、副団長直々に休暇の命令があってね。メイン装備をほぼ取り上げられてるんだ」

 

「アタシはその監視です。ラジードくんはすぐに自分を蔑ろにするんだから。正義感が強いのは良いし、皆の役に立ちたいって気持ちは頼もしいけど、限度を考えて」

 

「僕は別に無理してるつもりは無いんだけどなぁ」

 

 いや、キミはクーに負けず劣らずのワーカーホリックだから。キリトは先日のラジードがミスティアに捕獲されて連れ去れる末路を思い出して身震いする。

 

「キリトは買い物かい? それとも夕食?」

 

「別に。暇だからブラブラしてただけだよ。そろそろ夕飯にしようとは思ってたけどさ」

 

「そうなんだ。だったら――」

 

「2人の大事な夜を邪魔するつもりはないさ。邪魔者は退散するよ」

 

 ラジードの事だから夕食に同伴しないかと誘うだろうと読んだキリトは先んじて断る。ミスティアはキリトの心遣いを感謝するように口元を微かに綻ばせて小さく何度も頷いて見せたが、ラジードはむしろ眉間に皺を寄せて芳しくない表情だった。

 

「ミスティア、先に行ってもらっていいかな? 後から必ず行くからさ」

 

「……ラジードくんのお人好し」

 

 ラジードの申し出に、ミスティアは仰々しく溜め息を吐くも、恋人は嘘を吐かないと信頼しているように頬にキスをして別れる。

 何事かと困惑したキリトに、ラジードは躊躇いなく距離を詰めた。

 

「ちょっと付き合ってもらっていいかな?」

 

「あ、ああ」

 

 有無を言わさぬ気迫に満ちたラジードがキリトを連れて向かった先はサインズ本部……そこからほど遠くない場所にある、錆びついた街灯が1本だけ立つ空き地だった。

 繰り返された無秩序な開発のせいで、終わりつつある街には深刻な高低差が生じた立体構造になっている。空き地は直角同然の崖と隣接しており、柵から首を出して覗いてみれば、下水がまるで滝のように落ち、底の暗く澱んだ下水道に飛沫を上げている。

 下水道では今日も流れてきた廃材やゴミ、あるいはお宝であるプレイヤーの遺品を漁るゴミ拾いたちがいる。彼らは下層の住人であり、下水が更に下へと流れた行き着く先では同じようなゴミ拾いで日々の糧を得る最下層の住人がいる。そして、一見すれば底辺に思える彼らの行動も明確な縄張りがあり、この崖下の下水道のような、排水が直接流れ込む場所は『一等地』扱いであり、貧民コミュニティでも上位が陣取ってるのだ。

 キリトもこの場所については認知していたが、踏み入れたことはあまり無かった。だが、この空き地はサインズ職員や関係者、そして傭兵が愛用している喫煙スポットであることは知っている。

 ラジードは真新しく取り換えられたばかりらしい柵にもたれかかると懐から取り出した煙草の紙箱を叩き、中身を1本取り出すと咥える。そして、手慣れた手つきでオイルライターで火を点けると紫煙を漂わせる。

 

「キリトもどう?」

 

「俺は……」

 

 吸わないから要らない。そう言おうとしたが、ラジードは無言で差し出し、キリトは何かに駆り立てられるような衝動のままに受け取る。

 たどたどしい動作で煙草を咥えたキリトに、ラジードはライターを着火させる。

 見よう見真似で吸ったキリトはすぐにむせ返り、だがラジードは笑うことなく、キリトの背中を撫でた。

 

「ごめん。そうだよね。僕も最初は分からなくて同じだった。一気に肺に取り込むんじゃなくて……とりあえず口に含んでゆっくり味わう感じから始めよう」

 

 ラジードにレクチャーしてもらえば、飲み込みが早いキリトはすぐに彼と遜色がないくらいにスムーズに煙草を吸うようになる。

 

「相変わらず器用だなぁ。僕は慣れるまで2、3日はかかった覚えがあるんだけど」

 

「薬草を焚いた煙で回復するなんていうニッチな方法を採用していたゲームを前にやった事があるからな」

 

「ゲームの経験の応用か。ははは、キリトらしいね」

 

 もう間もなく太陽も沈む黄昏の終わり。まるでガス灯のように弱々しい光を唯一の街灯が主張し始める。

 キリトはラジードと並んで、だが彼とは真逆に下水が流れ落ちる崖下を見下ろすように柵に両腕を重ねて体重を預けていた。

 

「意外だった。吸うんだな」

 

「んー……前は全然だったんだけど、スミスさんに勧められてからかな? あの人みたいにヘビースモーカーじゃないけど、そこそこ楽しませてもらってるよ」

 

「スミスは吸い過ぎだ。リアルでも愛煙家だろうな。現実の肉体の肺は、絶対に吸い過ぎで真っ黒だぞ」

 

「ははは。あり得そうだね。でも、DBOの煙草は別に健康被害があるわけじゃないし、そこまで目くじらを立てることじゃないさ」

 

 DBOでは酒と煙草といった古来からの嗜好品が広く普及している。だが、どちらかと言えば酒の方が隆盛であり、煙草に関してはそこまで大きく目立っていない。故に取り扱っている店も希少とまではいかないが少なく、故に高値が付く傾向にある。

 

「まぁ、最低限のエチケットは必要だけどね。歯は黄ばまないけどニオイは付くしね。ニオイが嫌いって人は多いし」

 

「ミスティアもか?」

 

 ラジードの実感が籠もった発言にキリトが切り込めば、彼は苦笑で応えた。

 

「僕が吸うのを好ましく思ってないよ。煙草のニオイも嫌いだしね。だから彼女の前では絶対に吸わないようにしてるし、吸った後は消臭を心掛けてる。前に煙草を吸った後にキスしようとしたらゴミを見るような目をされたこともあるしね。あの時は心が折れそうだったよ」

 

 確かにミスティアは煙草を毛嫌いしていそうな印象だ。納得したキリトはしばしの間、初めての煙草を味わう事に集中する。

 

「僕はメンソールが好みだけど、キリトはどう?」

 

「初心者だぞ? 分かるわけないだろ」

 

「だよね。まぁ、色々と探してみるといいよ。キリトのイメージには合わないけど、フレーバーなら初心者も取っ付き易いしね。店の数は少ないし、割高は否めないけど、客層が限られてる分だけ質は補償されているしさ。逆にお手頃価格は注意した方がいい。煙草とは名ばかりの粗悪品だからさ」

 

 プレイヤーメイドという事は需要と供給のバランスが存在するという事だ。需要が限られているだけに、煙草の素材を生産するプレイヤーも限られており、故に希少性が生じるのだろう。

 

「ちなみに僕が好きなコイツは1箱1000コル。中身は20本しか入ってないんだよね」

 

「1本50コルか。確かに高いな」

 

「へぇ、キリトって高給取りの傭兵なのに、金銭感覚がまともなんだね」

 

「そう言うラジードこそ、太陽の狩猟団のエースじゃないか」

 

「僕の給与なんて傭兵と比べたら子どものお小遣いさ。装備の開発や整備、アイテムの手配、家賃は全ギルドが全額負担してくれるから自由にできる額面は大きいけど、それでもキミとは資産のゼロの数が違うんじゃないかな」

 

 ラジードのような大ギルドのエースであっても、装備はあくまでギルド側の資産である扱いだ。彼が独立する際には買い上げるか返却しなければならない。確かに個人で自由にできる資産はキリトの方が遥かに高額だろう。たとえば、聖剣を抜きにしても、メイデンハーツだけでもラジードの個人資産を上回るかもしれなかった。

 だが、そんなキリトの資産でさえも大ギルドからすれば砂粒のようなものだ。なにせ、ラジードが羨む程の高額報酬を欲しいがままにする傭兵を最も積極的に活用しているのは大ギルドなのだから。

 

「コレみたいな紙巻はやっぱり煙草ってイメージ通りで取っ付き易いけど、慣れたら葉巻とかも試してみたら?」

 

「俺が葉巻って……どう想像してもネタにもならないぞ」

 

「ははは! 確かに!」

 

 ラジードは笑いながら2本目を咥える。キリトはまだ1本目を弄びながらも、煙草の深みに徐々に嵌まっていく自分を危惧する。

 

「DBOの煙草にもタールみたいなのが設定されてさ、吸ってる内にどんどん多い……重い煙草にシフトしちゃうんだよね。人間っていうか生物ってさ、やっぱり慣れてくると刺激が物足りなくなっちゃうんだなぁって感じたよ。お酒を飲み続ければ、より度数が高い強い酒を求めるみたいにさ」

 

「……止めろ。自分が子どもの頃に『絶対になるもんか』って思ってた大人の姿にどんどんなっていく気がする」

 

「気がするんじゃなくて、なってるんだよ。僕も小さい頃はキリトと同じだった。でも、今では御覧の通りさ。お酒も飲んで、煙草も吸って……なりたくないって思ってた大人と同じことをしてる」

 

 ラジードは火を点けた煙草を咥え、深く煙を味わうと夜の色合いを少しずつに滲ませ始めた空に紫煙を吐く。

 

「でも、今なら分かるよ。なりたくないと軽蔑していた大人たちが、どうして煙草を吸ってたのか。どうしてお酒を飲んでたのか。嫌という程……分かったんだよ」

 

 子どもが大人になりたいと背伸びをして飲酒喫煙をするのとは違う。煙草を吸うラジードの横顔には、スミスと同じく大人の色気のようなものが醸し出されていた。普段は正義感で突っ走る、どちらかと言えば子どもっぽさが目立つ彼の別の顔を見て、廃材を組み合わせた簡素な設置型の灰皿に吸殻を押し込んだキリトは無言でラジードに手を差し出す。

 

「品揃えが良い店、紹介しようか?」

 

「……ああ」

 

 別に気に入ったわけではない。だが、興味は否定できない。キリトはスミスの邪悪な手招きを幻視し、ここで2本目に火を点ければ引き返せなくなると分かっていながらも、ラジードが差し出したライターの火を受け入れてしまった。

 今度は2人で同じ方向を……夕闇の空を見上げながら煙草を味わう。まだまだ煙草の良さは分からないが、これまでタブー視していた喫煙に手を出したことで、何処か自由になったような解放感があった。

 

「少しは気が晴れた?」

 

「……やっぱり気を遣ってくれてたのか」

 

「当たり前だろ。じゃないとミスティアの機嫌を損ねるような真似するわけないじゃないか」

 

 ラジードはキリトが知る中でも、DBOという悪意に満ちた世界でありながら、輝かしいばかりの善意を保ち続けている素晴らしい人間の1人だ。キリトでさえ眩しさを覚える時が多々ある。心遣いに感謝しながらも、キリトは内なる悩みを無関係な彼に打ち明けるべきか迷う。

 

「僕はキミを友人だと思ってる。デュエルで互いの技を磨き合えるライバルで、いつかはクゥリと同じくらいに、必ず超えると誓った目標でもある」

 

「…………」

 

「僕はキミの悩みを聞けないくらいに頼りないかな?」

 

「そうじゃない。そうじゃないんだ。俺の悩みは、誰かに尋ねて……答えが出るものじゃないんだ。ついさっきも相談して……だけど、迷いが大きくなっただけだった。自分が情けなくなっただけだった。だから……」

 

 キリトの吐露に、ラジードはしばしの沈黙を挟む。それは考え込んでいるのではなく、煙草をゆっくりと吸っているからであり、またキリトにもそう促しているかのようだった。

 別に深刻な会話をしたいわけじゃない。ラジードの態度は暗にそう告げているようで、キリトも先程までと同様に煙草に意識を傾ける。

 

「どうせ相談した相手って女の子なんだろう?」

 

「どうせってなんだ。どうせって……まぁ、当たりだけどな」

 

「キリトも分かるだろう? 男は女の子の前では格好つけようとするものなんだよ。悲しいくらいに見栄を張ろうとしちゃうんだよね」

 

「似たような事を……クーにも言われた気がする」

 

「だろうね。キリトは特にその傾向が強いから」

 

 そうなのか? 自己分析が足りないと判子を押されたようで、キリトは困惑する。むしろ、男女関係なく情けない姿を晒した覚えしかなかった。

 

「キリトは自分が思っているよりもずっと格好つけたがりで、自分さえも騙そうとするタイプさ。弱くて情けない姿を見せても、その実は本当にみっともない部分だけは隠そうとする。どうしよもないくらいに取り繕えなくなる、最低最悪の姿を晒すまで、自分の内側で悩みも苦しみも腐らせてしまう」

 

「よ、容赦ないな」

 

「容赦しないよ。だって……僕も同じだから。好きな女の子には幻滅してもらいたくなくて、だから恰好を付けたくて、余計に張り切って、本当は自分の胸の奥底に抱えられないモノを持っていて、誰かに知ってもらいたくて、助けてもらいたくて、だけど……彼女の前では明かせない。もしかせずとも、バレバレかもしれないくせにさ。挙句に、抱えきれなくなって溢れ出てしまった時は、選りに選って1番知ってほしくない、いつも格好つけた姿を見せたいって思ってた女の子の目の前で醜態を晒しちゃうんだ」

 

「…………」

 

「だから、ミスティアには感謝してるんだ。格好つけたい僕も、みっともなく情けない僕も、どっちも受け入れてくれる。だから彼女の前では……僕はいつだって見栄を張る男でありたいんだ」

 

 身に覚えがある。キリトは振り返れば、確かにラジードの指摘は当てはまっていた。そして、キリトが思い出したのは、アルヴヘイムにて、心折れて立ち上がれずに腐るのを待つだけだった自分の前に現れた、夢とも現とも思えぬ再会をした白き友だった。

 あの時もクゥリはラジードと似たような事を言った。女の子の前では格好つけたがるからと、だから自分が悩みも苦しみも聞こうと、キリトが心から吐き出した全てを受け止めてくれた。

 あの夜が無ければ、今の自分はいない。生きてさえもいない。だが、あの夜が夢だったのか否かをクゥリに尋ねることはできない。聞いてしまえば、クゥリは何処か遠くに消えてしまい、今度こそ絶対に相容れない『敵』として立ち塞がるような気がするからだ。

 キリトは煙草から漂って宙を泳ぐ煙を見つめながら、やがて意を決して口を開く。

 

「……もしも、ミスティアを殺した仇がいたら、ラジードはどうする?」

 

「殺した理由にもよるだろうけど、平常ではいられないかな。多分……剣を向けてる。勝てるかどうかも分からない相手だとしても、僕は必ず殺すと誓って剣を振るう」

 

「じゃあ、仇を殺したとして、その後に……殺したはずの仇が再び現れたらどうする? 自分が犯した悪行を忘れていて、少なくとも素行は善人と呼べるものだったら?」

 

 キリトの質問にラジードは先程とは違い、深く自意識の……思考の深みにダイブするような沈黙に籠もる。そうしている間も夕焼けの色は移ろい、夜空は広がり、星々の煌めきが目立ち始める。街灯の弱々しかった光が闇を押しのける頼りとなる。

 

「それがキリトの悩み?」

 

「……ああ」

 

「そうだなぁ。僕だったら……ひとまずは様子見かな。腸は煮えくり返っているだろうけど、でも、即決で殺すことなんて出来ないよ。そもそも自分の手で1度殺した相手なら、まずはどうして再び目の前に現れたのかって疑問が優先だろうしさ」

 

 キリトが出会い頭に感情のままに殺そうとした点を除けば、今のキリトと同じ対応だ。そして、ラジードならばキリトと同じ境遇であっても発言と同じ対応をしただろうという説得力はこれまで見てきた彼の在り方にこそあった。

 

「つまり、キリトは罪の所在を探してるわけだね。罪を罰するとしても、罪を背負っているのは何なのか。記憶か、体か、心か」

 

 罪の所在が記憶と定義するならば、罪の記憶を持つならば等しく罰するべきだ。たとえば、スゴウがオベイロンのコピーだったとしても己の所業を思い出したならば、オベイロンとして罰せねばならない。

 体であるならば、スゴウがオベイロンと同一の存在であるか否かが焦点になる。この場合の体とは自意識を形成する存在だ。茅場晶彦のようにデジタルデータに変換された自意識か、それとも抽出されたフラクトライトか、あるいはフラクトライト・コピーか。何にしてもオベイロンとスゴウが同一であるか否かで罪の所在は決まる。たとえ、スゴウの本性が極悪非道で、今も演技をしているのだとしても、アスナを殺したオベイロンとは別物であるならばスゴウを罰するべきではない。

 心ならば、スゴウの心に罪の意識があるか否かによるだろう。あるいは、罰する者……キリトの心だろうか。キリトの心がスゴウに罪があると感じるならば罰すればいい。あるいは、スゴウの心が罪を覚えたならば、それもまた罰を下すこともできるだろう。

 

「罪を感じるのは心で、罰を欲するのも心」

 

「誰の言葉?」

 

「お節介焼きの兄貴分みたいに鬱陶しくて、随分と前に道が分かれた……戦友だよ」

 

 辛辣とも呼べる評価は友愛の裏返しだ。かつて、鬼に堕ちかけた自分を全力で止めてくれた……殺してでも引き留めようとしてくれたクラインへの感謝があってこそだ。

 だが、キリトがこの言葉を聞いたのはクラインにとって最も残酷で苦痛に満ちた経験をした時だ。

 アインクラッド末期、フロアボス線でギルドの仲間全員をクゥリに惨殺され、絶望して立ち上がずにいた彼はクゥリに問いかけた。どうして殺したのか、と。

 クラインは分かっていた。少なくとも、キリトにはクラインはクゥリが仲間殺しをした理由を受け止めていた。殺さねば全滅していた。クラインは間違いなく死んでいた。キリトさえも、クゥリが仲間殺しをしていなければ、生き残っていたのは最大数でも自分とクゥリだけだと分析していた。

 だから、クラインが欲していたのはクゥリの自分の所業に対する罪の意識だったのだろう。仲間を手にかけてしまった事への罪悪感の吐露だったのだろう。

 

『必要だから殺した。それだけだ。他に理由が要るのか?』

 

 だが、クゥリは欠片と罪悪感すら見せず、淡々と、蜘蛛のように無機質な殺意の瞳のままに、フロアボスを殺しきるのに必要な犠牲だったと告げた。

 その時だったはずだ。クラインが罪の所在と罰の要求について説いたのは。

 クラインはクゥリに罪の意識があって欲しかった。罰を求めて欲しかった。他でもないクライン自身は、クゥリに罪はなく、罰を下すべきではないと信じていたからこそ。

 あの頃は誰もが精神の崖っぷちに立っていた。キリトも誰かを案じる余裕などまるで無かった。結果として、クラインもエギルも離れて行った。キリト自身も2人から……そして、クゥリからも距離を置いた。その結果が今に繋がっている。

 

「心こそが罪を定める。心こそが罰を求め、また下す。だとするなら、俺はどうすればいい? 迷ってる俺は……どうすればいいんだ?」

 

「キリトは『仇』をどう思ってるんだい?」

 

「……少なくとも、現時点では本物じゃない。名前と容姿は共通していても、性格も違って、記憶も欠落・改竄されているならば、もう別人だ。それでも、似通ってる部分はある。本質的には同じなんだって感じる部分もある。だから、怒りを……憎しみを……どうしようもないくらいに思い出してしまうんだ。俺と同じように大切な人を奪われた人が怒って憎んでるのを見たら、俺はどうすればいいんだって……迷ってる事さえもが間違いである気がするんだ」

 

「なるほどね」

 

 ラジードは2本目の吸殻を灰皿に投げ入れる。キリトは話すばかりで2本目を無駄に燃やしている事に気付いて咥え、だが慣れないのに強く吸ってしまい、最初と同じようにむせる。

 目尻に涙を浮かべて咳をしたキリトに、ラジードは心から馬鹿にするような目で溜め息を吐いた。だが、それは煙草を吸うのが下手だったからではないのは一目瞭然だ。

 

「キミ……馬鹿ってよく言われない?」

 

「不本意だけど、クーに連呼されてるな」

 

「そっか。だよね。僕も馬鹿だと思ったよ」

 

 ラジードはコートのポケットに手を突っ込む。そろそろ出発の時間なのだろう。予約を入れたレストランでミスティアを待たせているならば、これ以上の時間は取れないはずである。

 

「キリト自身が言ったじゃないか。怒りと憎しみを思い出させるってさ。つまり、キリトにとって『仇』に対する怒りも憎しみも……もう過去の思い出だったんだよ。思い出になっていたはずなんだよ。ずっとずっと心の片隅で燻り続けていたものじゃない。過去にして終わらせたものだったはずなんだ」

 

 ラジードは夕闇の果てに訪れた夜に吹く風に白い吐息を混ぜる。まるで、過去に失った多くの人々を思い出すかのような切なさが籠っていた。

 

「キリトはもう前を向いて進んでいたんだ。『仇』に対する怒りも憎しみも終わらせたものなんだ。思い出から蘇ってきた感情に、今の心が振り回されるかどうかはキリトの自由だけど、迷うキミの心は……ううん、魂はさ、迷ってる時点で分かってるんだよ」

 

 意味が分からない。ラジードが言わんとする事を理解できないキリトに、彼は再び心から馬鹿にした溜め息を、だがこれならば心配要らないと友人を信頼する笑みを浮かべる。

 

 

 

 

 

「キリトは過去にした怒りや憎しみよりも、ずっとずっと優先しないといけない大切なものがある。だから、今のキリトがすべき事があるとするならば、感情のままに罪を償わせる罰……復讐なんかじゃなくて、選びたい未来に進む為の、再び立ち塞がった過去との決着なんじゃないかな?」

 

 

 

 

 

 ラジードを撫でた夜風はそのままキリトを突き抜けて、終わりつつ街を凍えさせていく。彼の中で渦巻いていた悩みや苦しみを一緒に連れていく。

 キリトは自分の胸に手を当て、規則正しく鳴り続ける心臓の音色を感じる。

 

「キリトはきっと僕よりも多くの苦しくて耐え難い過去がある。その分だけ、何かの拍子に蘇る負の感情はたくさんあると思う。だけどさ、キミは迷うことができる人間なんだ。負の感情を思い出にできていたんだ。今の心は過去の感情に振り回されるべきじゃないって、ちゃんと分かってるんだよ。だからこそ迷うんだ」

 

「……ラジード」

 

「僕も偉そうな事は言えない。仲間を傷つけた奴は憎いし、怒り狂うよ。ミスティアを殺したなら猶更だ。だから、もしも僕が同じように、過去の感情で迷ってる時があったなら、キリトが僕を助けてくれ。僕はキミと同じで、胸の内側に抱え込んで、腐らせて、悪臭塗れでぶち撒けて醜態を晒しちゃうタイプだからさ。僕は……どれだけ怒りと憎しみを抱いていた過去だとしても、思い出に今を生きることを……その先の未来を台無しにされたくない。過去は過去のままにしておきたいんだ」

 

 頬を掻きながら苦笑したラジードは、そのまま背中を向けて立ち去ろうとして、だが何かを思い出したようにキリトに向かって投げる。

 

「それでも、大切な人を失ったからこそ過去の感情だと割り切れない。過去に誓った正義を果たさねばならないって義務感が突き動かす。まだ掴めてもいない未来よりも、確かにあった過去を優先する。何を選ぶのかはキリトの自由だけど、僕は……僕自身の願いを込めて、未来を選んで欲しい」

 

 それは残り半分程になった煙草の紙箱だ。キリトは思わず力んで握り潰しそうになる。

 

「餞別だよ! キリトがどんな形で決着をつけるのであれ、僕とキミは変わらず友達だ!」

 

 そして、ラジードは爽やかに、今度こそ走り去っていく。愛する恋人の元へと戻っていく。

 残されたキリトは煙草を1本取り出して、だがライターを持っていない事に気付いて紙箱に戻す。

 

「俺は恵まれてるな」

 

 ユナが止めてくれていなければ、過去の憎悪と憤怒の残影に踊らされて虚無の復讐を為し遂げていたのだろう。

 ラジードがお節介を焼いて悩みを訊き出してくれていなければ、出口のない思考の迷宮に閉じ込められていたのだろう。

 大衆が知ればスゴウを殺せと叫ぶだろう。キリト自身も過去の感情に突き動かされるままならば、己の正義に則って復讐の刃という罰を振り下ろすだろう。

 

「それでも、俺は……迷うんだ。迷っているんだ。ごめん、アスナ」

 

 キミの仇を取るべきなのに。忘れたくても忘れられないキミを奪ったオベイロンに復讐してこそ、未だに過去に出来ないままに心に灯り続けるキミへの愛の証明となるのに。迷いの底でキリトは夜空を見上げていれば、聖剣特有の金属が共鳴したかのような美しい高音が響く。

 たとえ、月光を満たせずとも、いつだって月はそこにある。それが月蝕なのだと教えてくれる。キリトは月蝕の聖剣の鼓舞に頷いた。

 迷いはあっても、苦悩は無い。キリトは冬の寒さも忘れさせる程に爽やかな風を吹かしてくれたラジードに感謝した。

 

 

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 駆け抜けていくラジードの背中を見つめたシリカは喫煙スポットの空き地を窺える物陰にて、吐息を漏らしながら壁にもたれかかる。

 別れた後、やはりキリトが気になって後をつけていたシリカは、男2人の喫煙の始終を見届けていた。

 あれ程に悩み苦しんでいたキリトを救ったのは、白き傭兵ですらなく、デュエル仲間のラジードだ。その事実にシリカからは溜め息しか出ない。

 

「……男の子ってズルいですね」

 

 女は入って来るなと言わんばかりに自分たちの世界を作ってしまう。太刀打ちする余地すらも無い。

 

「男は見栄を張りたがるのかもしれませんけど、女の子は自分だけを見ていて欲しいから頑張って、本当に苦しいなら甘えてもらいたいものなんですよ?」

 

 惚れた男の弱い姿なんて見たくない。だが、だからこそ弱った男を再び歩き出せるように癒して、そして背中を押してあげたい。そう望むのも女というものだ。そこにあるのは母性であり、独占欲であり、恋慕であり、愛なのだ。

 シリカは知っている。自分は心折れて蹲ったキリトを立ち上がらせることは出来ない。寄り添うことは出来ない。ならば、迷って立ち止まりそうになった時、背中を押してあげる事くらいはできるのではないかと。

 だが、シリカは結局のところキリトの迷いを深める言葉しか与えられなかった。彼に前を向かせ、迷う事もまた時として未来への前進の証明なのだと伝えられなかった。そんな考えさえにも至らなかった。

 だから、結局はこの胸に渦巻くのはラジードに対する嫉妬であり、キリトの背中を押してあげられなかった自分の情けなさへの唾棄なのだ。そして、それこそがどうしようまく彼を好きになってしまっていて離れたくないという執着なのだと噛み締める。

 シリカは夜風を深く鼻で吸い込み、男たちが漂わせた紫煙の名残を探る。だが、どれだけ嗅いだところで、終わりつつある街の埃っぽさと湿気、そして冬の寒さしかなく、苛立つように踵を鳴らして帰路に立つ。

 

「煙草なんて大嫌いです」

 

「タバコ、キライ、カ? ソウカ。ソウカ。オボエタ!」

 

 不意に隣から聞こえた憶えのある声にシリカの肩が跳ねる。

 真夏の太陽のひまわり畑にこそ相応しいジーンズ生地のオーバーオール姿の12歳にも届くかも定かではない幼い外見をした色黒の美少女。笑えば可愛らしく覗かせる八重歯は快活な容貌に相応しい。だが、その正体は人肉を嬉々と貪り喰らう無邪気な怪物。

 思わず悲鳴を上げそうになったシリカは両手で口を押え、色黒美少女の手を掴むとキリトから距離を取るべく走り出す。

 

「オ? ナニナニ? デートカ? ヨメ、セッキョクテキ!」

 

「違います! どうして急に!?」

 

「ウーン、イロイロ、アル。デモ、ヤルコト、カンタン! オレ、スケット。ケンシ、サポート、スル! ダカラ、ヨメ、アイサツ、キタ! オレ、カシコイ、レギオン! シゴト、マエ、チャント、アイサツ、スル! コレ、ツマラナイ、モノ! オオサメクダサイ!」

 

「あ、ご丁寧にどうも……って違います!」

 

 高そうな菓子箱を差し出され、事務的に頭を下げて受け取ったシリカは我に返って咆える。

 

「ン? グングニル、オカシ、エランデクレタ。コレ、アマイ。オイシイ。モシカシテ、チガッタ、カ? オサケ、エラブ、タダシイ、カ?」

 

 お菓子ではなく酒類を持ってくるべきだったかと見当違いな問いをするのはミョルニルだ。自分に隠さず好意を示すレギオンに、シリカは今度こそ唸り声さえも飲み込み、心の……いいや、魂の底から漏れた渇望を口にする。

 

「胃薬……誰か……胃薬をください……!」

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 蟲毒の穴。全ての敵とプレイヤーを倒した1人だけがユニークスキル≪瑠璃火≫を手に入れて脱出する事が出来るソロ専用ダンジョンである。

 荒れ寺周辺はモンスターも出現せず、基本的に安全そのものである。山間の雪景色であり、ムライの説明の通り、竹林の先には肥え太った魚が泳ぐ小川があった。反対側の崖際には燃え落ちたらしい釣り橋があり、そこから先にはどうしようとも進むことは出来ない。

 エイジは荒れ寺周辺を探索し、早々に5個の【記憶の品】と呼ばれるアイテムを手に入れた。

 即ち、【血塗れの忍びの犬笛】、【色褪せたからすの羽】、【濡れ細ぼった猿の白毛】、【割れた般若の面】、【錆び付いた古刀の破片】である。

 これ以上の記憶の品はない。最期に立ち塞がるネームドだろうコドクに関すると思われるアイテムは見当たらなかった。

 順当ならば、これら5つの記憶の品で相対するネームドを全て撃破することが出来れば、ダンジョンボスのコドクと戦う権利を得るといった流れなのだろう。同時にエイジが疑問に憶えたのは、仮に自分が3つ攻略し、別のプレイヤーが2つを攻略した場合、果たしてコドクは出現するのかどうかだった。

 ソロ専用という特性上、荒れ寺という他プレイヤーと接触・協力が出来る拠点があるのは些か奇妙だった。無論、荒れ寺から地続きではない以上は個人が5つ全てを攻略しなければコドクと戦えないと考えるべきなのであるが、どうしてわざわざ他プレイヤーと接触できる拠点を準備しているのかは不可思議である。

 

(考え得る理由は2つ。1つはクリアしなければ脱出できないという性質上、他のプレイヤーと情報交換することで攻略難易度を調整している。もう1つは……情報交換して協力し合った仲間を殺害しなければ脱出できない悪意に満ちた条件そのものが茅場の後継者の狙い……か)

 

 茅場の後継者はDBOの各所……特に凶悪なダンジョン内に様々な悪意を潜ませることで有名だ。それに如何に気付けるかが勝敗どころか生死に直結する場合もある。

 エイジはDBO最前線の攻略の経験が少ない。グローリーの協働でクリアしたボーレタリア王城とつらぬきの騎士だけであり、双方共に正統派だった。故に茅場の後継者の悪意を直に経験するのに慣れていなかった。

 いや、十分に味わったか。エイジは『ユナ』と駆け回ったペイラーの記憶を思い返す。あれもまた茅場の後継者の悪意が詰まったイベントだったに違いない。

 茅場の後継者は律義だ。ユナを餌にしてエイジをDBOに招いたならば、報酬として準備をしている。ただし、多大な悪意を添えているだけだ。

 ならば、この蟲毒の穴もまた悪意に満ち溢れて居ようとも、クリアした暁には必ず≪瑠璃火≫の獲得は補償されているだろう。エイジは荒れ寺に戻り、仏像を彫り続ける仏師を正面に捉えて左側……彼が彫る鬼の形相とは異なる優しい顔をした仏像の前に立つ。

 

「仏様は己と繋がりのある過去を見せる」

 

 エイジに見向きもせずに、淡々と仏像を彫る仏師に声をかけられ、エイジは実体化したアイテムを供える手を止める。

 

「儂らは繋がり合っておる。供えた品はお前さんに見せるじゃろう。もはや見えず、聞こえず、触れず、それでも蟲毒の穴に囚われておる者達を」

 

「…………」

 

「任を果たさんと乗り込んだ者。迷い込んで逃げ出せなくなった者。独りに耐えられずに隠れ潜んだ者。終わった使命の続きを欲した者。無限の修練を望んだ者」

 

「仏師殿も何かを求めて蟲毒の穴に?」

 

「……さぁな」

 

 会話は終わりだ。そう言うように仏師は沈黙を貫く。エイジはいずれの記憶の品を最初に置くべきか悩む。

 想起の神殿と類似性はある。終末の行き着く先である終わりつつある街とその周辺を除けば色の無い濃霧に呑まれた世界で、想起の神殿から過去の英雄、組織、土地の記憶や記録を手繰り寄せて構成された世界を旅をする……という仕組みになっている。この優しい顔の仏様はそのミニチュア版である。

 システム的には何も変わらない。ここから別の……それぞれのネームドが担当するエリアに飛ばされるだけだ。

 だからこそ、慎重にならねばならない。エイジは己が全てを1発で攻略できると驕ってはいない。まずは5つ全ての内容をチェックしたいが、ムライの話によれば、いきなりネームド戦が開始されるものも含まれている。

 始めて1秒でネームド戦など余りにも危険である。エイジが悩んでいれば、荒れ寺の床板が軋み、背後から気配を感じる。

 

「悩んでるみたいんだな」

 

 ムライだ。無精髭を生やし、ボサボサの髪を藁で束ねただけのみすぼらしい白衣の男は、エイジの悩みをよく分かるとばかりに腕を組んで頷く。

 

「俺が知る限り、戻って来た奴がいないのは般若の面と古刀の破片だな。犬笛はどうにも日本の城みたいな場所を攻略するミニダンジョン型で、そこそこ進んで心が折れて戻って来た奴がいる。猿の毛も同じダンジョン攻略が要求されるタイプで、かなり地形が荒い谷みたいで進むのも一苦労って話だ。からすの羽は……よく分からねぇな。霧に満ちた森でどうにもネームド戦らしいんだが、敵の姿が全く見えねぇらしい。生きて帰って来た奴は多いが、他2つよりも情報が無い厄介なネームド戦だ」

 

「……随分と詳しいですね」

 

「最古参って言っただろ? 蛮勇馬鹿や心が折れた馬鹿の話をたくさん聞いてやってたのさ」

 

 ムライの情報の真偽は疑わねばならないが、仮に正しいと仮定した場合、最も安全性が高いのはからすの羽だ。だが、DBOにそもそも安全なネームド戦などない。ならば、最も概要が掴めている犬笛か猿の毛が妥当だろうとエイジは判断した。

 悩んだ末にエイジが選んだのは犬笛である。彼の決意を悟ったらしいムライは別れの挨拶もなく寺から出て行った。

 エイジは犬笛を仏に供えて拝む。すると視界が闇に包まれ、そして次の瞬間には地面の感触が変わる。

 

「ここは……」

 

 先程までは冬の凍てついた空気であったが、今は違う。確信を持っては言えないが、季節は夏に変じたようだった。

 足下も今にも抜けそうだった木板から畳に変じている。エイジの四方は煌びやかな金箔が貼られた襖で囲われている。調度品も含めてDBOでは珍しい和のテイストである。エイジは呼吸を整え、ダーインスレイヴを抜く。

 

<記憶の世界から抜け出すならば、主を倒すか、鬼仏に拝むべし>

 

 システムメッセージが表示され、エイジは眉間に皺を寄せる。ネームドを倒せば戻れるという意味なのだろうが、もう1つの鬼仏とは仏師が掘っていた鬼の形相をした仏像の事だろうか。ネームドを倒さずに荒れ寺に戻る為には鬼仏を見つけねばならないようだった。

 仏師はやはりただの商売人兼鍛冶屋のNPCではない。ここは犬笛の持ち主の記憶の世界という体裁を保っているが、仏師による影響を強く受けているのだろう。あるいは、エイジ達が拠点と呼ぶ荒れ寺もまた仏師の記憶の世界なのかもしれなかった。仮にそうであるならば、仏師は他の記憶の世界にも強い影響力を持つ存在だと設定されている。こうした情報は後々の攻略に役立つはずだとエイジは脳に刻み込む。

 エイジは金色の襖を開く。場内は驚く程に静かだ。それも当然だろう。エイジがまず目にしたのは遺体だ。老若男女関係なく、ある者は斬り殺され、ある者は獣か何かに喉を食い千切られ、ある者は全身の皮膚が変色して吐血して骸を晒している。

 いずれの服装も和服だ。その中でも特に目立つのはカタナを抜いた侍らしき遺体である。いずれも奮闘したようであるが、力及ばずに倒れたのだろう。

 格子窓から差し込むのは月光。どうやら夜のようであるが、場内は異様に明るい。蝋燭の光だけではなく、城のあらゆる場所に貼り付けられた金箔そのものが太陽のように輝き、照明の代用を果たしているのだ。

 さて、どうするべきか。悪趣味にも思える人間の顔と蛇を組み合わせたような金箔たっぷりの像を眺めながら、エイジは足音を鳴らさないように廊下を歩く。

 目指すべきは本丸の天守閣か、それとも地下か。どうやらスタート地点はどちらでも目指せる中間らしく、階段を上ることも下ることもできる。

 天守閣でネームドが待っているのだろうと見当をつけたエイジは地下を目指す。階段を下りて進めば、武装した犬が伏せていた。エイジは馬鹿正直に階段を下りずに跳び、犬の脳天にダーインスレイヴを突き立てる。

 犬笛が導いた記憶の世界。ならば犬が出現するのには不思議ではないが、どうやら人間の手で武装されているようだった。エイジは油断せずにダーインスレイヴを引き抜いて絶命した犬の血が付着した刃を振るい、周囲を見渡す。

 金、金、金。この城の主は黄金に魅入られていたようあった。悪趣味を通り越えた狂気すらも感じる黄金への執着である。エイジは音を立てずに歩を進め、閉ざされた襖を開く。そこでも畳を真っ赤に染めた侍たちの遺体が重なり合っていた。

 何か情報はないか。エイジは侍たちの懐を探るが、アイテムは得られなかった。

 喉を食い千切られた死体は犬によるものだろう。斬られた者達は犬を操る襲撃者に殺されたのも分かる。だが、全身が変色して吐血した遺体は他と比べてもおぞましい死に方だった。

 毒使いがいるのか? エイジは遺体から情報を拾い上げて自分の物資を再確認する。

 デバフに対処する為に、【教会の毒消しの粉薬】を準備している。レベル3までの毒を解除し、また使用後は短時間だけ毒耐性を高める事が出来る。数は十分とは言えないが、そもそも毒を何度も受ける状況ならば死を免れないだろう。

 しかし、真に恐ろしいのはレベル4以上の毒だ。DBOでもレベル4以上の毒への対抗手段は十分ではない。そもそもレベル5はほぼ致死クラスの毒であり、たとえ高VIT型のレベル100オーバーのプレイヤーであっても迅速に対処しなければ死に至るまさに『猛毒』だ。故に使用するモンスターは少なく、最初の死者ニトの眷属に限定される。

 だが、レベル5の毒が異常な殺傷性を持つというだけで、レベル4の毒でも脅威には変わらない。事実として、エイジもレベル4の毒になってしまった場合、回復アイテムで減少したHPを回復し続けるごり押し以外に生存方法は無いのだ。

 

(レベル4の毒だった場合、攻撃を避け続けるしかない。デバフ攻撃は総じてガード貫通性能が高めだしな)

 

 エイジがその場を離れようとした時、視界の端……自身の頭上に視覚警告が生じる。瞬時に身を転がすようにしてその場を離れたエイジは、1拍遅れで自分がいた場所に突き立てられた刃を目にする。

 忍び刀というのだろう。反りが無い、突きに特化された直刀だった。それを畳に突き立てているのは目元以外を黒の覆面と頭巾で覆った忍び装束の人物だった。

 

 

<孤影衆・忌み手>

 

 

 ……ネームド! エイジは奥歯を噛み、その場を離れようとするが、忌み手は忍びらしく恐るべき速度で距離を詰め、的確にエイジの喉を狙ってカタナを振るう。それに合わせてダーインスレイヴで弾けば苛烈な火花が生じ、だが忌み手は弾かれても怯むことなく、むしろ上等だと言わんばかりに蹴りを繰り出す。

 ただの蹴りではない。よくよく見れば、黒の忍び装束に紛れるように、脛の部分には苦無が取り付けられて威力を増強させてある。

 

(なるほどな! ただの格闘攻撃じゃない! 剣で防がれることも想定しているってわけか!)

 

 格闘攻撃の弱点は、繰り出した攻撃に対して斬撃・刺突属性の武器で攻撃を合わせられた時に確定でカウンター判定を取られる事だ。だが、忌み手はこれを防ぐべく苦無を脛に装着することによって武器によるカウンター判定が生じないようにしてある。

 ネームド側がする事かよ! エイジは悪態を吐きながら、忌み手の連続蹴りを弾かんとするが、緩急にタイミングをズラされてしまい、弾ききれずにガードに切り替える。それを好機と見た忌み手の強烈なミドルキックがガードの隙間を縫ってエイジの腹に突き刺さり、そのまま襖を幾つもぶち抜く程に吹き飛ばす。

 

「……がっ!?」

 

 ライドウの蹴りにも劣らぬ威力……! もはや蹴りというよりも槍の突きにも等しい威力だ。一撃でエイジのHPの4割が消し飛ぶ。

 忌み手のHPバーは2本。エイジは影を置き去りにするような忌み手がその実は長い袖で隠した左手を使わない事実に歯ぎしりをする。恐らくであるが、HPバーを1本削り切らなければ、忌み手の本気は見れないという事だろうと察知する。

 やってやる! エイジはカタナによる斬撃と蹴りのコンビネーションを捌く。忌み手の攻撃は基本的にカタナによる斬撃で間合いを詰め、また攻防のテンポを狂わせる。そして、強力な連撃の蹴りを繰り出す。

 宙を舞った忌み手の急行落下の蹴り。そこからの足払い。エイジはギリギリで躱すも、不意に放たれた跳び蹴りが側頭部に迫り、左腕でガードする。

 苦無が腕に突き刺さり、また蹴りの強打が追撃する。押し飛ばされたエイジがよろければ、好機と見た忌み手は先程の連続蹴りを繰り出した。

 弾ききれない。エイジはダーインスレイヴでガードを固め、だが先程と同じくフィニッシュのミドルキックを待つ。エイジがわざと晒した鳩尾に、狙い通りに忌み手は蹴りを穿つ。

 槍の如き鋭き蹴り。ならば本質は同じだ。エイジは忌み手の蹴りを踏みつける。体勢を崩した忌み手の胸にダーインスレイヴを突き刺そうとするが、させるものかと忌み手は遠ざかり、胸を浅く突くだけだった。

 

「……忍びの体術に通じるものがあるな。風貌といい、絡繰り仕掛けのカタナといい、鎮護も奇特な食客を囲ったものだ」

 

 忌み手は興味深そうに声を発するが、微塵と殺意は衰えていない。会話は成立しないだろう……いいや、むしろ隙を晒すだけだと判断したエイジは再び間合いを詰めてきた忌み手を迎え撃つべく爆竹を準備する。

 だが、不意に放たれたのは左手。禍々しい緑の霧状のオーラを発した突き手がエイジの左頬を抉る。攻撃の間際に生じた視覚警告が無ければ、間違いなく目潰しされていただろう。

 忌み手の攻撃は終わらない。更に緑のオーラを左手に集め、連続の拳打を繰り出す。オーラが邪魔しているせいか、ダーインスレイヴでカウンターを狙っても決まらず、激しい火花を散らすばかりだった。

 だが、そんな事は大した問題ではない。忌み手の攻撃はデバフ付与……毒を蓄積させるものだ。幸いにもレベル3の毒であったが、蓄積性能が異常過ぎた。頬を抉られ、またガードどころか弾いても緑のオーラにが接触すれば蓄積する。

 躱すしかない! エイジが忌み手の名前の由来を実感しながら、左手の連撃を躱そうとするが、それを待っていたとばかりにカタナが振るわれる。危うく鼻を削ぎ落されそうになるも寸前で躱し、だが無理な回避行動は体幹の乱れを呼び、忌み手の蹴りが胸に炸裂して受け身も取れずに転がる。

 

「趣はあったが、所詮は異国の技か。他愛ない」

 

 忌み手は禍々しく緑に変色した左手に力を溜める動作をしたかと思えば、爆発的な速度とオーラ放出を行う。ガードも弾きもできないエイジはダーインスレイヴのギアを上げる。

 毒の発症を覚悟で全て弾く! エイジは忌み手の左手の連撃を真っ向からダーインスレイヴで弾く。強烈な火花が散る中で、忌み手も1歩も引かずに連撃を繰り出す。

 レベル3の毒となり、HPの減少が減る。それでもエイジは弾くのを止めない。ダーインスレイヴのギアを上げていく事で、弾きがもたらす衝撃は大きくなり、忌み手が堪らずに下がれば、エイジは片手突きで追撃をかける。

 

「おぉおおおおおおおお!」

 

 突きは忌み手の左腋を抉る。否、忌み手は腋と腕を使ってダーインスレイヴを捕まえる! 本来ならば人体急所の1つにもなる腋であるが、DBOでは……ゲームシステムによるHPこそが生死を分かつならば、こんな無茶をしても致命傷には至らない!

 忌み手が左手でエイジの喉を掴むが、それを待っていたとばかりにエイジは膝蹴りを繰り出して顎を狙う。忌み手は顎を引いて蹴りを躱し、その間にエイジはダーインスレイヴを強引に振るい抜く。左腋から右横腹にかけて斬られた忌み手は右手のカタナによる連続突きを繰り出すもエイジがばら撒いた爆竹の閃光と煙に阻まれて彼を見失い、その間に背後に回ったエイジは渾身の突きを忌み手の背中に穿つ。

 だが、忌み手は先程のお返しだとばかりに背後も見ずにエイジの突きを踏みつけて防ぎ、逆に足場にして宙を跳んで彼の背後に立とうとする。

 させるものか! 刀身を踏みつけられた衝撃で体勢を崩しながらもエイジは左手で忌み手に照準をつけていた。

 呪術【火炎噴射】! 単純に炎を噴き出すだけの呪術であり、威力は低いが対処に継続的な炎属性ダメージを与えられる呪術である。忌み手は炎に呑まれて怯み、そこにエイジは今度こそ突きを繰り出す。

 忌み手の喉を刺し貫く。ダーインスレイヴのラーニングを知覚したエイジは忌み手の技……【毒手】を発動させる。

 今度はこちらの番だ! エイジが勢いよく左手を突き出そうとした時、だが左手から尋常ならぬダメージフィードバックが……まさしく内側から焼け落ちるような『痛み』を覚える。

 こ、これは……!? グローブの隙間から覗かせる左手の皮膚は忌み手と同じく緑色に変色している。ラーニングした攻撃を発動できている証拠だ。だからこそ、『忌み手と同じ苦痛』もまた生じているのだ。

 

「妖術で毒手を模倣したか。愚かな。我らの毒手は幼き頃より毒水に左手を浸らさせて極めた己が手を暗器にする忍びの業よ」

 

「それが……それがどうした!?」

 

 エイジは毒のオーラを放出しながら左手の突きを繰り出す。忌み手も応じるべく左手を放ち、互いの拳と緑の毒オーラが衝突する。

 軍配が上がったのはオリジナル……圧倒的に練度に勝る忌み手だった。押し飛ばされたエイジはもう1度だと毒手を発動させようとするが、忌み手は間合いを詰めていた。

 毒手の再発動を狙ったエイジに対し、忌み手はエイジが毒手に拘って攻撃すると読んだのだ。鋭い斬撃がエイジの左肘の内側から潜り込み、そのまま脆弱な関節まで裂いていく。

 左腕が……肘より先が斬り飛ばされかける。血飛沫が舞う中で、エイジはまだだとダーインスレイヴで斬り上げる。腕を斬られてもなお反撃するエイジに対応しきれず、忌み手もまた左脇腹から左鎖骨にかけて深く裂かれていく。

 辛うじて繋がっているが、これでは回復も満足にできない。焦るエイジは毒のスリップダメージで、HPが2割を切っているのに焦る。流血のスリップダメージも加味すれば、早期に決着を付けねばならない。だが、忌み手はまだHPの7割が保たれており、しかもHPバーの2本目も温存している。

 撤退するしかない。だが、エイジは忌み手が逃がしてくれるはずがないと攻め込む。忌み手の耐久力は低い。攻撃を畳みかければ必ず倒しきれるはずなのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〔おいおい、エイジちゃんよぉおおお。そりゃ悪手だ。熱くなり過ぎずにクゥウウウウルにいこうぜ!〕

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 不意に耳に……いいや、頭に響いた声。忌み手の攻撃であったならば効果覿面だっただろう、エイジの思考の空白。だが、幸いにも忌み手はエイジを十分に追い詰めたと距離を取り、手裏剣による中距離攻撃に切り替えていた。

 何処だ? 誰が話しかけている!? エイジはまさかダーインスレイヴを通してスレイヴが通話しているのかと疑ったが、聞こえた声はキーの高い濁った男だった。

 

〔ここだ、ここ! 得た能力はちゃんと確認しようぜ、エイジちゃんよぉおおお〕

 

 何処だ? 何処にいるんだ!? エイジは目だけを動かして周囲を確認しても、らしき影は見当たらない。

 

〔オラ、『左手』を突き出しな! 俺様が手を貸してやるぜ!〕

 

 左手? エイジが苛立ちながら、手裏剣をダーインスレイヴで弾く中で、忌み手に断面を見せつけるように左腕を突き出す。

 瞬間、肘の断面の肉が盛り上がる。そして、左腕から禍々しいオーラが迸ったかと思えば、それは1つの形を取る。

 それは深い、深い、深い青。限りなく黒を思わす程の青の体毛。前から後ろにかけてサイズが小さくなっていく3対の翼。猛禽類のような後ろ足と熊を思わす形状をした短い前足。頭部は爬虫類……いいや、竜を思わせるものも、顎はなくて黒い嘴。目は黄色の竜瞳を有し、隈のように赤い体毛で囲われている。

 全長は40センチ程度。エイジの正面で軽やかに飛ぶ謎の存在は、呆けるエイジを睨む。

 

〔ボケっとすんな! 俺様が時間を稼ぐから回復しやがれ!〕

 

「あ、ああ!」

 

 異変を悟った忌み手が間合いを詰めるも、謎の生物は飛び回って邪魔をする。その間にエイジは毒消しを服用し、また教会ボトルで最低限の回復を済ませ、左腕を止血包帯で覆う。流血のスリップダメージを止め切れていないが、ひとまずの応急処置は済ませた。

 

〔口は動かすなよ! 俺様とエイジちゃんの思考は繋がってる! 頭の中で俺様の頭に通じた『窓』を探して話しかけろ!〕

 

〔……お前は何なんだ!?〕

 

〔あン!? まだ気づいてねーのかよ! 俺様はエイジちゃんの「力」! エイジちゃんがダーインスレイヴで「ラーニング」した【蟲毒融合】だ!〕

 

 ラーニングした【蟲毒融合】だと? エイジはそんな覚えがないと言おうとして、そういえばコドクの戦いで、本体と思われる百足を刺し貫いた事を思い出す。

 ダーインスレイヴのラーニング条件は2つ。相手の能力を目視する事とラーニング対象のクリティカル部位を刺す事だ。

 

〔助かったぜ! あのハゲ竜狂信ボケから俺様を引き剥がしてくれたんだからよぉおおお!〕

 

〔助けた憶えは無い!〕

 

〔エイジちゃんには無いだろうな。ほら、俺様はアレだよ、アレ。エイジちゃんに瑠璃火をぶっ放そうとしてた竜の顎だ! 今ではこんな貧相なナリになっちまったが、昔はアノールロンドにも一目置かれていた古竜の末席だったんだぜぇえええ? あの糞ハゲに裏切られて背中からぶち抜かれていなきゃ、あともう少しでゴーを消し炭にできたっていうのによぉおおお! ……いや、さすがに盛り過ぎた。せいぜいゴーをこの目に映せるくらいまでは近寄れた。それ以上は無理!〕

 

 いやー、アノールロンドに勝とうとかムリムリ! そう言って忌み手を攪乱してくれていた自称・古竜の末裔であったが、カタナが掠ればHPが減り、慌ててエイジの元に戻ってくる。忌み手は手裏剣で追撃をかけるが、異形の竜を透過する。

 先程までは実態を持っていた異形は、今は青いソウルを帯びた霊体になっている。エイジの周囲を飛び回り、忌み手を威圧している。

 

〔話せば長いが、糞ハゲに捕まった俺様は奴の実験材料にされて肉もソウルもコドクに組み込まれちまった! もうどうする事もできねぇ! 意識も枯れ果てて使役され続けてたら、極上の移住先がやって来たじゃねぇか! ちょいとおかしな力が宿っちゃいるが、俺様の新居には丁度いい!〕

 

 新居……ダーインスレイヴの事か! エイジは忌み手の連撃を弾きながら蹴りつける。腹に蹴りを受けた忌み手は空気を漏らし、そのまま打ち上げられる。

 

〔忌々しいが、俺がエイジちゃんに貸せる力の名は【蟲毒融合】! 俺とエイジちゃんは1つの命を共有した! ダーインスレイヴを通してな!〕

 

 まだ【蟲毒融合】で何が出来るのか定かではない。だが、異形の小竜が飛び回るだけで忌み手の注意は分散される。

 狙いの1つ、【つらぬきの刃】だ。一撃必殺の超火力で忌み手のHPバーを消し飛ばす! エイジは忌み手の連続蹴りを弾き、続く跳び蹴りを躱す。忌み手は毒手でエイジの背中を打とうとするが、異形の小竜が脅かすように間に入り、テンポが崩れたところで逆にエイジは体重を乗せた突きを忌み手に放つ。

 肋骨の隙間に入り込み、忌み手の心臓を貫いた突き。そのまま捩じって斬り上げれば、忌み手は呻き、だがその名を表す毒手で強引にエイジを打ち砕かんとする。

 だが、エイジの視覚警告がその所作を捉え、故に恐れずに1歩先に踏み入る。

 ダーインスレイヴにソウルの奔流が乗った強烈な突き……【つらぬきの刃】。忌み手の胸の中心に穿たれた必殺は残るHPを消し飛ばし、2本目へと突入する。

 ここからが本番か。エイジが構え直すが、忌み手は懐から取り出した煙幕で姿を暗ませる。エイジは奇襲を警戒するも、煙が晴れた後に忌み手の姿はなかった。

 逃げた? エイジは困惑する。まだHPバーの2本目が残っていたはずだ。恩情で見逃したはずがない。ならば増援を呼ぶつもりか。エイジは舌打ちし、この場を離れるべく階段を探して駆け下りる。

 甲冑が無数と飾られた回廊。その奥に瑠璃火が灯った鬼仏を発見する。エイジはスライディング気味で飛び込み、鬼仏に触れ、そして視界が暗転する。

 

「……ほう。戻って来たようじゃな」

 

 光が目を刺激し、エイジは荒れ寺に戻って来たのだと空気で理解した。その場にへたり込んだエイジはアバターの損壊に呻きながら、ひとまず寺を後にする。

 回復アイテムは無駄にできない。エイジはこんな時にオートヒーリングがあればと唸れば、自分のHPが微量ではあるが、回復しているのに気づく。

 

「舐めてもらっちゃ困るぜ。末席とはいえ竜だ。治癒力には自信がある」

 

 頭に響く声ではなく、嘴の奥から聞こえてくる異形の小竜の言葉。エイジは物珍しそうに近寄って来たムライを無視し、倒れた灯篭に腰かける。

 

「お前は何なんだ?」

 

「話を聞いてなかったのかよ! あの糞ハゲにコドクの材料にされた負け犬ならぬ、負け竜だ! 見てくれよ、この情けないキメラみたいな姿! あの糞ハゲ竜が俺様の遺体とソウルをグチャグチャに掻き混ぜて色んな生物の肉やソウルと継ぎ接ぎにした後遺症だぜ! 泣きたくなるね!」

 

 全身を鱗ではなくふさふさの毛で覆われているのは竜よりも鳥に近い。エイジは、そういえば鳥の祖先は恐竜だったな、とどうでもいい事を思い返した。

 

「へぇ、キュートな相棒が出来たみたいんだな。生き残る奴は一味も二味も違うねぇ」

 

 ムライが馴れ馴れしく肩を組んできて、エイジは鬱陶しいと払い除けるが、それでも彼は腕を肩に回す。

 

「それで負け竜さんよ。お名前は?」

 

「名前なんてねぇぞ……って言いたいが、アノールロンドは俺様の事を【ノイジス】と呼んでたぜ。まぁ、古竜の末席である俺様は最初の火が起きた後の世代でね。特に感性は竜から外れてたからな。竜多しといえども言葉を好んで操る竜は俺様くらいなものよ。俺様を名付けて、そりゃもう恐れていたみたいだぜ」

 

 ノイジスか。古竜との血戦の中で、さぞかしお喋りでうるさかっただろう、このドラゴンをアノールロンドが戦力として恐れたのではなく、別の意味で厄介な存在として苦慮し、また恐怖したのは間違いないとエイジは察知した。古竜がストレートに強大な存在として立ち塞がる中で、直接的な暴力ではない、精神と集中力を掻き乱す脅威と判断されたのだろう。

 コドクの戦いの最中では必死だった余りにラーニングした表示を見落としてしまったのか。ダーインスレイヴのラーニングリストを確認すれば、確かに【毒手】の前に【蟲毒融合】を習得していた。

 能力はプレイヤーとの生命と能力の共有、そして融合。詳細はまだ不明だが、ノイジスはエイジのスキルやダーインスレイヴがラーニングした能力の影響を受けるようだった。

 だが、エイジが着目したのは複合の部分だ。蟲毒によって、これまでは個々にしか使用できなかったラーニング能力を融合させることが出来る。これまでよりもラーニング能力をより幅広い戦術・戦略に用いることが出来るのだ。

 

「ひとまず、俺様の今の目的は糞ハゲ信者のコドクをぶち殺す事だ。俺様は頼りになるぜ?」

 

「それは僕が決める事だ。それよりも能力発動をオフにするぞ」

 

 エイジは嘆息しながら手動操作で戦闘モード状態の【蟲毒融合】をオフにし、途端にノイジスの姿が変わる。サイズは10センチ程度になり、より丸まったフォルムに変化している。これには彼も驚いているようだった。

 

「な、なんじゃこりゃぁあああああああああ!? 1億歩譲ってさっきの姿はまだいいが、これじゃ雀じゃねーかよ!」

 

「戦闘モードとは別に【蟲毒融合】はパッシブみたいだな。省エネモードなのかもしれない」

 

 もしかせずともノイジスの様々なアクションには、自身のスタミナと魔力の消費が伴うのかもしれないとエイジは分析する。ノイジスと生命を共有しているという部分は軽視すべきではないと肝に銘じねばならない。

 だが……だが……だが! それ以上に何よりも厄介なのは! エイジは思わず奥歯を噛む!

 

「エイジちゃんよぉおおおおおおお! それよりもメシ! メシにしろ! 俺様は古竜でも随一のグルメ! まずいメシを食わせたらタダじゃおかねーからな!」

 

 この雀もどき……うるさ過ぎる! エイジは思わぬ重荷を背負ったと頭を抱えずにはいられなかった。そして、悩みで重くなった頭の上にノイジスは乗り、物理的にも重量が増す。

 ボールでポケットなモンスターを捕まえるゲームを原作にした国民的アニメの主人公は世界級知名度を誇る電気ねずみを頭に乗せているが、よくぞ耐えられるものだとエイジは思考を逃避させて耐える。

 まだだ。まだ我慢が必要だ。ダーインスレイヴはラーニングした能力を削除することもできる。熟練度の上昇によってキャパシティは増加していくが、劇的に増加しない関係上、ラーニングした能力はいずれ取捨選択が必要になるのだ。

 これまでは【つらぬきの刃】は容量が大きかったが、【蟲毒融合】はそれを上回っている。燃費の悪さと破壊力がイコール関係である【つらぬきの刃】は対ネームドにおいても必殺の火力を叩き出せるので残しておきたいが、【蟲毒融合】は未知数だ。役に立たなければ真っ先に切るべき能力である。

 

「腹が減ったなら消えればいいだろ。ダーインスレイヴでも、僕の中でも、どちらでもいいから戻れないのか?」

 

「あー……どうやらダーインスレイヴに俺様の住処はあるんだけどよ、その間は眠っちまうんだよ。折角のシャバだぜ? 楽しまないと損だろがよ!」

 

 こちら側で戻せないだろうか。エイジは後でダーインスレイヴのラーニング能力リストを再チェックしようと心に誓う。

 

「それよりもメシ! メシ! メシ!」

 

「ははは。陰気なお前にはピッタリなサポートユニットじゃねぇか。よーし、メシだったな? 生還記念に奢ってやるよ」

 

 保存食は持ち込んでいるが、長丁場になるのだ。節約できるのに越したことはない。エイジはムライの後に続けば、小さな社を備えた広場にて、小さな焚火を囲う数十人の集団を目にする。

 いずれも藁を防寒具の代用にして寒さを凌ぐ、虚ろな目をした者達ばかりだった。王若男女問わずに、まるで魂が抜けたように焚火で暖を取っている。

 

「蟲毒の穴に落ちてきて、戦えずに逃げ出す事も出来ず、ダラダラと生を消費している連中さ。戦えないなら戦えないなりに有意義に時間を消費すればいいだろうに。まぁ、時間加速の影響で負荷がデカいからな。ああしてぼんやりして過ごすのは正解って言えば正解なんだがよ」

 

 軽蔑はないが、興味もない。そんな様子のムライは竹林の奥にある日当たりが良い岩場に設けられた小屋に案内した。

 

「燻製施設? 驚いた。こんなものが……」

 

「だろ? この辺りで食える特上の川魚と言えば【桜玉鮎】だ。だが、焼き魚ばかりじゃ腹は膨れても心は錆び付いちまう。だから自作した。本格的な設備を作るには資材が足りねぇから、試行錯誤の不完全品だが、この通りにそこそこ食える代物に仕上げることが出来る」

 

 燻製ならば保存食にもなる。万が一に備えた食料のストックにもなるだろう。ムライはエイジに桜玉鮎の燻製を投げ渡す。

 毒はさすがにないか? エイジは警戒しながら口にすれば、歯応えのある魚肉と燻製時に焚いただろう香草の深みに驚く。

 

「この周辺で採取した草花を使ってる。仏師殿も塩は売ってくれねぇのは残念だが、無いなら無いであれこれ試すのが人間様さ。バフが付く程じゃねぇが、味わいは悪くないだろう?」

 

 思わず夢中で貪り尽くしたエイジに、ムライは何処か嬉しそうに笑う。エイジに続くようにノイジスも欲しがり、ムライは餌付けでもするように千切って啄ませた。

 

「メシの美味さを追求するのは、性別も人種も宗教も超えた世界共通の真理だ」

 

「次からは何を支払えば売ってくれる?」

 

 エイジも馬鹿ではない。今回のサービスはムライの商品アピールである事には気づいている。

 

「難しい事じゃねぇさ。話し相手になれ。あの通り、他の連中は魂の抜け殻だ。俺はお喋り好きなもんでね。仏師殿は仏を彫るばかりで話好きじゃねぇから侘しいんだよ。あとはそうだな……酒か煙草。どちらかを手に入れたら俺にも分けてくれ」

 

「そんな事でいいのか?」

 

「『そんな事』がいいのさ」

 

 善意も悪意も見せないムライからの提案。エイジは戸惑いながらも受託する。孤影衆が出現したダンジョンは広く、また探せば厨房や蔵もあるかもしれない。煙草は定かではないが、酒は探せば見つかるかもしれなかった。

 

「エイジちゃんは心が豊かじゃねーなぁ。美味い酒は金銀財宝に勝るだろうがよ!」

 

 たらふく食べて満足したのか、岩場に敷かれた藁の上で仰向けになり、無防備に膨れた腹を晒すノイジスにエイジは一切の遠慮が無い軽蔑の目を向ける。

 

「お前……本当に古竜の末裔なのか? 詐称してないか?」

 

「ハァ!? こんな貧相になっても、この目を見やがれ! まさしく竜瞳! なり損ないの蛇共にはない竜の証だろうが!」

 

「そうか。僕の中で古竜の評価が大暴落するからもう自称しないでくれ」

 

「安心しな。糞ハゲ竜のせいで、どう足掻いたって古竜の株は上がらねーよ」

 

 糞ハゲ竜……裏切りというワードからして鱗の無い白竜シースのことか。エイジは腕を組んで振り返る。コドクもシースの被造物であるに違いない。シースは魔法の祖であり、眷属や信奉者は軒並みに魔法属性防御力が高い。エイジには特に魔法属性の攻撃手段は無いが、念頭に入れた立ち回りは不可欠だろう。

 

「それで、生き残った感触はどうだ?」

 

 ここでは夜が訪れないのか。日が傾く様子もない、灰色の曇り空の下でムライは問う。エイジは止血包帯が巻かれた左腕を右手で掴み、忌み手との戦いを振り返る。

 認めたくはないが、ノイジスの攪乱と忌み手の謎の撤退が無ければ、エイジが勝てた確率は低い。自身の実力不足を痛感したのが事実だ。

 だが、その一方で忌み手との戦いで、また1つ強くなったと実感しているのも確かである。死闘の経験は何にも勝る強者への近道なのだ。

 

「感謝してますよ。僕はまだまだ強くなれる」

 

「その腕から見るに死にかけただろうに、バーサーカーかよ。だったら≪瑠璃火≫のレクチャーはいらねぇか」

 

 厭味ったらしいムライの物言いに、エイジは自分が≪瑠璃火≫を全く活用できなかった事を見抜かれていると悟った。

 ここで無駄なプライドを発揮するならば、ライドウに弟子入りなどしていない。エイジは素直にムライに頭を下げた。

 

「対価はお支払いします。だから、僕に≪瑠璃火≫についての全てを伝授していただけませんか?」

 

「……コエー奴。あっさりと俺に頭を垂らすなんてよ。だが、そういう奴だからこそ生き足掻けるのかねぇ。いいぜ。教えてやるよ。ただし、報酬は貰うぜ」

 

「何なりと」

 

「敬語禁止だ。あと俺の事は気楽にムライって呼べ」

 

「……分かった、ムライ」

 

 エイジにとって慇懃無礼な態度は自己防衛の1種なのであり、ムライは依然として警戒対象なのであるが、それで知識が買えるならば安いものだった。

 

「HPバーの下を見ろ。新しくアイコンが表示されてるはずだ。ソイツは『形代』。瑠璃火はスタミナでも魔力でもなく、形代を消費する。形代は自然回復して、フルの状態ではアイコンは真っ白ピカピカだが、使う程に色は燻って汚れていき、ゼロになると真っ黒になる。残量はアイコンと感覚でつかめ」

 

 ムライの説明の通り、アイコンはエイジがよく知る形代と同じ形状だった。

 形代とは、人の業や穢れの身代わりにした人形に憑かせて身代わりにさせたものだ。形は様々であるが、紙を人に模して刻んだ紙人形が最も認知度が高いだろう。

 

「言った通り、形代は自動回復するが、他にもモンスターを倒しても回復するみたいだな。プレイヤーを殺しても回復するかは……試したことは無いが、『形代』なんだ。まず間違いなくするだろうさ。他にも回復手段があるかは定かじゃねぇな」

 

 ムライはシステムウインドウを操作すると自分の得物だろう、飾り気のないカタナを装備する。

 竹林にてムライは≪カタナ≫の単発系ソードスキル【開扇】を発動させる。単純な横薙ぎを放つ基礎的なソードスキルだ。だが、ソードスキルのライトエフェクトの代わりに斬撃に瑠璃色の火が伴い、竹林は斬り飛ばされると同時に瑠璃色の火に断面から燃やされる。

 

「ソードスキルに付与すれば御覧の通り。使い方は無限大だ。俺はソードスキルにエンチャント設定をしているが、思考操作も可能だ。説明にもある通り、圧縮すればより物理的な破壊力を持たせることもできる。どう扱うかはお前次第だな」

 

 切断された竹をエイジは拾い上げて確認する。瑠璃火が消えた断面は焦げていない。炎ではあるが、純光属性であるからだ。魔法属性の炎も青い事からも、瑠璃火の運用には類似性があるだろう。

 

「≪瑠璃火≫は単体ではせいぜいが火力増強のエンチャント扱い。だが、他のスキルや武器の能力と組み合わせ、圧縮を使い分けて運用できれば、間違いなく化ける。だが、俺にはそんな技量は無い。他の心が折れてる連中にもお前にレクチャーできるような奴らはいない」

 

「ムライは色々と試したみたいだな」

 

「お前みたいな大馬鹿と取引するのに材料は必要だからな。そうでもなけりゃ、適性もやる気も無い分野に時間は費やさねぇよ。大体にして俺は武闘派じゃねぇんでね。知識は売れるが、修練の相手にはなれねぇぞ」

 

 カタナを肩で担いだムライは疲れたとばかりに首を左右に揺らす。

 

「瑠璃火はイザリスの罪の1つ。呪術と相性が良いと死んだ蛮勇が自慢してたな。俺は≪魔法感性≫を持ってないから使えねぇが、心が折れた連中には使える呪術やサポートアイテムや装備を持ってる奴もいるかもしれねぇぞ。お前は呪術も使うだろうから幅は広がるだろうな。取引できれば攻略の手助けになるかもしれねぇな。ああ、それと……荒れ寺の真ん前の崖だが、生えてる松は長く熱く燃えるって仏師殿が零してたな。俺は死ぬリスクを冒してまで採取しようとは思わねぇが、攻略目的のお前なら価値があるかもしれねぇな」

 

 言うべき事は言ったとムライは去っていく。残されたエイジはパタパタと重たいお腹を揺らしながら低空飛行してきたノイジスを横目に、止血包帯を撒いた左手を見つめる。

 的が要るな。エイジは竹林を進み、手頃な大岩を見つける。軽く拳を当てて耐久度が十分である事を確認する。

 

「思考操作か。コツを掴んでおくのに越したことはない。それに形代がどれだけの消費に耐えられるかも確認しておかないとな」

 

「エイジちゃんは勤勉だねぇ。そんなもんは戦闘の中で掴めば良いのによ」

 

「僕はそこまで自分の才能にも実力にも期待していない」

 

「だけど、運命なら期待して良いぜ! 俺様を引き当てたんだからよ!」

 

「……そうだな。運命だけは信じるに値するかもな」

 

 幼き日にユナに……悠那に出会い、そして喪った運命。

 ペイラーの記憶で『ユナ』と逃避した果てに己の愚かさと弱さを知った運命。

 ダーインスレイヴと巡り合い、邪剣の使い手として歩む事を許された運命。

 自分で決めた事は数多くあり、その度に力不足と失敗を繰り返してばかりだったが、この瞬間までたどり着けた運命は確かに存在する。

 

「だが、運命通りならば僕はいつか強者に踏み躙られて死ぬ。理不尽に潰されて死ぬ。だから……強者になるぞ」

 

「そりゃ大望だねぇ。だが、面白れぇじゃねぇか! 俺様はダーインスレイヴに登録された能力! エイジちゃんの『力』だ! エイジちゃんの強者の道、一緒に飛んでやるぜ!」

 

「調子が良いな。だったら、まずは仕上げるぞ。このダンジョン、最低でも瑠璃火を使いこなさなければ……いいや、それ以上に辿り着けなければ、僕は一生かけても出られない」

 

 左手に発動するのは【毒手】。禍々しい緑のオーラが霧状に放出される。

 やはりか。エイジは皮膚が爛れ、肉が腐り、骨が壊れるような感覚に陥る。

 発動からモーションが固定されている【つらぬきの刃】とは違い、【毒手】は【破砕の斧撃】と同じく能力の自由度が高いようだった。

 まずは連撃を大岩に打ち込む。手応えは上々だった。腕が硬化しているらしく破壊力が通常の打撃よりも上昇している。だが、格闘攻撃の域を出ないだろう。

 ならば瑠璃火を組み合わせたならば? エイジは深呼吸をする。思考操作には多大な集中力と負荷をかける。連用すれば30倍の時間加速がかかる蟲毒の穴では疲労の蓄積も絶大だろう。

 だが、これを超えねば強者たちの領域にはたどり着けない。今こうしている間にも強者たちは更なる高みに至ろうと手を伸ばしているのだ。

 

「ぐっ……!」

 

 左手から放出される毒のオーラに瑠璃火が燃え上がる。やがて比率は徐々に逆転していき、純粋な瑠璃火だけとなる。

 これが【蟲毒融合】の能力か! もしも≪瑠璃火≫だけならば毒のオーラに瑠璃火をエンチャントさせるだけだっただろう。だが、【蟲毒融合】によって能力を融合させる事ができるようになった。これによって【毒手】を瑠璃火100パーセントに変化させることが出来たのだ。

 大岩に繰り出される連撃。その度に瑠璃火が荒れ狂う。瑠璃火の分だけ攻撃範囲が増加されたが、威力はそこまで変化が無い。

 ならば圧縮だ。瑠璃火は圧縮する事で黒炎のような物理的な性質を有するようになる。

 圧縮して放った一撃は大岩に砕き散らす。大岩を穿ち抜いた瑠璃火は荒れ狂った部分を削っている。

 

「まだまだ粗い……が可能性は見えたな」

 

 瑠璃火の【毒手】で穿つ。瑠璃穿手と言ったところか。単発でこれである。連撃ならば……更に加速を乗せたならば、どれだけの威力になるだろうかとエイジは期待する。

 その一方で反動で手首が折れた左手を見つめながら苦笑する。破壊力を御しきれず、負担がかかった手首が折れてしまったのだ。

 また問題もある。この技は形代の消費が激しい。アイコンの形代は真っ白だったはずが、今は燻りが大きく広がっている。

 エイジは折れた左手で更に数度の瑠璃穿手を発動させ、敢えて形代を枯渇させる。

 

「フルパワーでは3発でガス欠ってところか」

 

 熟練度の上昇で形代が増えるのか否かも注意が要るだろう。仮にいずれかのステータスに依存するならば、レベルアップ毎に確認作業も必須になるが、蟲毒の穴には致命的な欠陥がある。

 エイジは忌み手との交戦前に犬を倒しているが、経験値を入手していないのだ。代わりに得ているのは『瑠璃の残火』というものだ。後でムライに尋ねれば使い道も分かるかもしれないが、まずは自分の足で動き、頭で考えて探るべきだろうとエイジは判断した。全ての知識をムライに依存するのは危険だからだ。

 ムライの言葉を信じるならば、孤独の穴に来る事が目的だった。蟲毒の穴で得られるメリットは2つ、他のプレイヤーが極端に訪れる事が無く、また現実世界とは異なる時間速度によって他プレイヤーよりも遥かに多量の時間を確保できるという点だ。

 ムライの目的が『時間』であるならば、攻略を目指すエイジは『時間』を奪い取る敵だ。最後に殺せと約束させられたが、ムライが時間をかけてエイジの信頼を勝ち取り、ここぞという場面で殺しにかかってくるかもしれないのだ。

 

「まずは10日かけて瑠璃火の基礎を会得して、応用を探る」

 

「熱いねぇ。だが、嫌いじゃねぇぞ! 俺様も知恵を貸してやるぜ!」

 

 ひとまずは【蟲毒融合】の有用性は確かめられた。連動してノイジスは残留確定させたが、このお喋りをどうにか調教できないものだろうかとエイジは考え、即座に放棄する。そんな事に時間をかける暇はない。

 たとえ30倍の時間を得られるとしても、時間をかけた分だけ誰もが高みに至れるならば、この世は努力家だらけのはずだ。

 30倍の時間はその分だけ死闘の機会と強者に至る気付きを得られるかもしれない確率を高めるという事だ。

 ならばこそ、全てに命を注ぎ込め。ライドウに教えを受けた日々は常に死と隣り合わせだった。

 ここにはライドウがいない。ならば己の生死の定めを課すのは己自身だ。エイジは全身全霊をかけて新たな『力』を血肉にすべく意識を研ぎ澄ました。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 酷い顔だ。洗面台にて、鏡に映ったオレに思わず失笑が漏れた。

 スイレン。今はそう名乗る高級娼婦の護衛が新たな仕事だ。だが、護衛依頼の打ち切りと同時に暗殺依頼が入る手筈になっている。

 今回の依頼の肝は2つ。スイレン=リンネの殺害を目論むのは黄龍会の手勢のみならず、それこそ大ギルドの暗部もあり得るという事だ。ヴェニデ曰く、大ギルドも巨大組織化したせいで複数の派閥が跋扈しているらしく、組織全体の意向としてスイレンを狙っているという最悪の事態は『現段階』では回避されている。

 ヴェニデに投降した暗部は清々しいまでに仲間を売ったらしく、黄龍会を裏で操っているのは聖剣騎士団のようだ。ただし、聖剣騎士団のディアベルや主流派閥にはまだ情報がクローズされているらしく、本格的に暗部が投入されるのはまだ先との事だ。

 黄龍会は聖剣騎士団系列の大商業ギルドのイージス・アーク・インダストリーと繋がりがある。ヴェニデはイージス・アーク・インダストリーと関わりの深い聖剣騎士団幹部を調査するとの事だ。

 クラウドアースでもヴェニデの切り離しを目論んでいる現議長のベルベット派閥も、先のヴェノム=ヒュドラ事件の失態を回復する為にも≪ボマー≫の確保という功績を欲している。当然ながら諜報戦ならば太陽の狩猟団も負けていない。嗅ぎつけるのは時間の問題だ。

 3大ギルドの暗部による熾烈な騙し合いと殺し合いが繰り広げられる中で、オレはスイレンの暗殺を防ぎ続けねばならない。犯罪ギルドの刺客、大ギルドの暗部、そして展開次第ではスイレン=リンネであると公表して『大ギルドの施設を爆破し、大量虐殺したテロリスト』の確保ないし殺害を名目で傭兵の派遣もあり得るのだ。いや、そうでなくとも裏仕事に従事する傭兵ならば、オレが護衛していようともぶつけてくるかもしれない。

 正直に言って、オレは護衛依頼が救出依頼の次に苦手だ。そもそも、オレにそんなデリケートな依頼をするのはせいぜいがマダム・リップスワンくらいだ。ちなみに今回の護衛依頼は表向きにはマダム・リップスワンの依頼であるが、その実はヴェニデが誘導したものである。

 最終的には殺すにしても、それまでは守り切らねばならない。だが、狩りの業は守りに適さない。攻撃は最大の防御とはいうが、攻めに転じて護衛対象を蔑ろにしては本末転倒だ。なにせオレが100人の敵を殺し尽くしたとしても、100人を殺すまでにスイレンを殺されたらアウトなのだ。

 ではどうするか? 確実にスイレンを守り切れる護衛を1人でも手配する? いいや、オレが護衛兼暗殺者であるように、護衛のフリをしてスイレンが単独になった瞬間を狙って暗殺を目論む者もいるかもしれない。

 今回の護衛の肝はオレがマダム・リップスワンからの依頼を受けているという点だ。護衛を称させた暗殺者を潜り込ませたいのはいずれの勢力も同じなのだ。下手に門戸を開けば、その分だけ危険は増えるだけだ。

 グリムロックには秘策があるらしいのだが、およそ良い予感はしない。アイツならここぞとばかりにソルディオスを投入しそうだからな。まぁ、さすがにグリセルダさんが止めるだろうからまともな策だと期待したいところだ。

 とはいえ、スイレン本人も≪ボマー≫を有する危険人物だ。クラウドアースの施設を爆破し、≪ボマー≫に関する全てを抹消した凶行が彼女の危険性を物語っている。オレが護衛ではなく暗殺者だと勘付かれたならば、彼女の強力なユニークスキルの餌食になるだろう。なにせ、自由自在にあらゆる空間に見えない爆弾を設置できるようなものだ。しかも爆発する瞬間まで探知する術は『無い』のだ。

 

(ワタシがいれば大丈夫よ。見えない爆弾は殺意の塊。すぐに引っ掛かるわ)

 

 洗面台に腰かけたヤツメ様がオレの頬を撫でて自信満々に微笑む。ヤツメ様の導き以外に≪ボマー≫の空間設置爆弾を探知する方法は無い。割り切りは大事だ。

 スイレンがヤツメ様の導きを欺く程の手練れだった場合は? まぁ、その時はその時だ。爆発にしても殺傷力を十二分に発揮できる範囲は定まっている。爆発した瞬間を逃さずに退避し、然るべき後にスイレンを確実に仕留めればいい。

 気楽にいこう。護衛ではあるが、最終的には殺すのだ。うん、これは非常に重要だ。ただの護衛依頼だったら捩じれて守り切れ無さそうだからな。最初から殺すと定まっているならば、後は爪牙を来たる死に向けて研ぎ澄ますだけだ。

 タオルで顔を拭き、洗面所を出る。途端に香ったのは桃の瑞々しさを滲ませた甘い香水だった。

 

「オレから会いに行くと言ったはずだぞ」

 

「うん。でも我慢できずに来ちゃった」

 

 ユウキだ。彼女は何処か上機嫌に黒と白の剣が交差した十字架のキーホルダーがついた鍵を人差し指で回しながら、オレに笑いかける。

 香水は嫌いじゃないが、好きでもない。そもそもとしてユウキは基本的にニオイが漂う香水を使わない。汗のニオイを隠すにしても消臭がメインだ。

 だから、少しだけ面食らった。困惑した程でもないが、小さな警戒心が生じ、思わずタオルに獣血侵蝕を施していた。

 緋血の血管模様が張り巡らされたタオルを背後に隠して速やかに解除しながら、オレは朝早くから傭兵寮の部屋を訪問した彼女にどう接するべきか悩む。

 

「朝食は済ませたか?」

 

「うん。ワンモアタイムでモーニングセットをね。あそこのオリジナルブレンド珈琲は格別だよね」

 

「らしいな」

 

 噂によれば、ディアベルが変装をしてたまに飲みに来ているとか来ていないとか。その程度にはお手頃価格で最高の1杯を味わえる。サインズ関係者もとりあえずワンモアタイムで珈琲を飲んでから仕事に赴く者は多いのだ。

 グリムロックからの連絡で、ユウキが既にアリシアの死を把握している事は知っている。本来ならば、オレは真っ先にユウキに伝えるべきだったのだろうが、グリセルダさんの意向で時を置いてからという選択をした。

 結果的に見れば、ユウキに対して不誠実だっただろう。オレは椅子にかけられた白夜の狩装束のコートを掴むと羽織り、リビングの壁にもたれかかる。

 カーテンが閉ざされた窓からは朝焼けの光が漏れている。グリセルダさんが次々とインテリアを追加したお陰で殺風景とは言い難いが、まるでモデルルームのように生活感はおよそない。まぁ、寝てシャワーを浴びる以外に何もしていないからな。

 

「新しい仕事?」

 

「……ああ」

 

「ボクには言えないよね」

 

「……どうせすぐに噂は広まる。高級娼婦のスイレンの護衛だ」

 

「黄龍会が暗殺を仕掛けたんだっけ。クーは本当に厄介事を引き寄せるね」

 

 苦笑するユウキの言葉には躊躇いが感じられる。何処から話を切り出すのか悩んでいるのか。

 

「アリシアを殺したのはオレだ」

 

 だから、オレは先んじて彼女に真実を告げる。

 

「オレが殺した。この手で殺した。首を刎ねて殺した」

 

 淡々と事実だけを述べた。嘘偽りはない。オレはユウキからの罵倒を待つが、彼女は目を見開いて、少しだけ寂しそうに微笑むだけだった。

 

「クーは……酷いよね。ボクが傷つくって分かってるのに、それでも躊躇わずに真実を教えてくれるんだ」

 

「オレがアリシアを殺した結果は変わらないからな。取り繕ったところで無駄だ」

 

 言葉を選ぶつもりは無い。ユウキから視線を外すことなく真っ直ぐに見つめれば、彼女は俯いて、目尻から少しだけ涙を滲ませた。

 ユウキはアリシアの事が好きだった。逆もまた然りだろう。2人は大切な友達だった。そして、オレが彼女にとって仇だ。

 復讐を望むならば相手になろう。それで気が晴れるならば、幾らでも刃を交えよう。

 だが、復讐を仕掛けられてもオレは殺さない。キミを殺せない。約束したから。いつだって、どんな時だって、キミの『味方』であり続ける、と。

 ならば、アリシアを殺すべきではなかったのか。分からない。『ユウキの味方』である事はアリシアを殺害しない事とイコールか? 違うはずだ。たとえ、彼女を害し、傷つけ、苦しめる結末になるとしても、それでも『ユウキの味方』であり続ける事こそがオレが『オレ』であり続ける限りに守る約束だ。

 

「アリシアはマクスウェルさんの仇を取りたかった。だから、たくさんの人を傷つけて、たくさんの人を泣かせて、たくさんの人を殺した。無関係な人々まで巻き込んで……それでも復讐を為し遂げようとした」

 

「…………」

 

「ねぇ、アリシアは間違ってたのかな? もっとスマートで、皆が認めて手伝ってくれる復讐を選ぶべきだったのかな?」

 

「復讐は感情が発露させる行動だ。正誤も善悪も存在しない。どんなやり方を選ぶのも本人の自由だ」

 

「だったら、もしも……無関係の人たちを巻き込んで、破滅に追いやって、それでも愛する人たちとその他大勢を守れる大義があったら?」

 

「言ったはずだ。復讐は感情の産物だ。大義なんて後付けに過ぎない」

 

 自分でも分かってる。冷たい物言いなのだろう。だが、オレにはこれくらいしか出来ない。

 

「それでも……アリシアの復讐に大義を見出すとするならば……それは残された者の弔いに他ならない。いかなる形であれ、アリシアの遺志を継ぐのはチェーングレイヴの関係者の権利だ」

 

 だが、義務ではない。アリシアを迷惑だけかけて死んだ愚図だと罵っても構わないし、復讐の手段は間違っていたとしてもヴェノム=ヒュドラに報いを与えんとした志を受け継いで戦いに身を投じるのもありだろう。

 それら全てが『人』であるならばこそ。オレは腕を組み、沈黙を貫くユウキから目線を逸らす。

 

「オレはアリシアを殺した事を後悔しない。それだけはハッキリと告げておく」

 

 殺した事を後悔するならば、それはアリシアの意思と命を侮辱することになる。たとえ、ユウキであろうとも嘘で虚飾することは出来ない。

 

「そっか。うん……クーの口からちゃんと聞けて……良かった。アリシアは懸命に戦って……負けたんだね」

 

「アリシアは死んだが、最後まで復讐を諦めなかった。尊敬に値する『強さ』の持ち主だった」

 

 そうでもなければ、己の死の間際であろうとも牙を剥くものか。復讐の邪魔となるオレに喰らい付こうとするはずがない。

 ユウキは袖で目元を拭い、天井を仰ぎ見て、そして笑う。

 

「アリシアのお墓……作らなきゃ。マクスウェルさんのお墓を、アリーヤのお墓と一緒に囲んであげないと」

 

「それが良い。弔い方は人それぞれだ」

 

 ユウキは復讐を望まないのか。別に残念ではない。彼女ならば十二分にあり得る選択だと予想できた。だって、ユウキはこんなオレにも優しく接してくれる、気高き『人の意思』を持っているのだから。

 

「ねぇ、クリスマスだけど……少しだけで良い。一緒に過ごせないかな?」

 

「クリスマス……か?」

 

 ユウキからの申し出に、オレは戸惑いながらも口元を右手で隠して考える。アリシアの死について尋ね、聞いたからこそ、切り出してきたのだろう。グリムロックにもクリスマスの件は事前に通達されていたから驚きではない。だが、あれだけ冷たく言い放ったのだから、まさかユウキから誘ってくるとは思わなかった。

 

「うん。ボクもヴェニデのパーティとか色々と仕事が詰まってるけどフルタイムじゃないし、クーもどうせ仕事以外の個人的な予約は入ってないんでしょ?」

 

「どうせって……オマエ……まぁ、どうでもいい。そうだな。依頼はあるが、時間は作れる。昼と夜、どっちだ?」

 

 クリスマスは聖歌独唱という教会が狂ったとしか思えない最難関ミッションが待っている。だが、教会の聖夜祭はクリスマスの午後10時からだ。それまではフリーである。

 

「だったら夜がいい! えへへ。実は夕方までヴェニデのメイドで忙しいんだ」

 

 そういえば、いずれの大ギルドの重鎮も聖夜祭に出席するから、主だったパーティはクリスマスの夕方までだったはずだ。メイドを兼業するユウキは大忙しというわけだ。

 

「だったら午後6時でどうだ? 3時間……いや、2時間くらいなら空きがある」

 

「じゃあ、午後6時だね! クーでも入れそうな店、予約しておくね。待ち合わせは……そうだなぁ。あの場所にしようよ!」

 

 あの場所? ユウキからの提案にオレは焦りを覚える。ユウキとオレとの間に『あの場所』で通じる待ち合わせ場所の候補はあっただろうか? それとも、単に記憶が灼けて思い出せないだけか?

 思わず返答に詰まったオレに、ユウキは頬を膨らませて詰め寄ってくる。

 

「クリスマスといえば、あそこ以外に無いよね!? ボクたちにとって大切な約束の場所……でしょ?」

 

 悲しそうにユウキが問いかけ、さすがにオレも気づく。黒鉄宮跡地を見下ろすことが出来る塔……その屋根か。あの場所で、クリスマスの夜にオレはユウキと出会い、そして祈りを預けたんだ。たとえ、それが呪いになり果ててしまったとしても、オレとユウキの今の関係の礎となった約束が結ばれた場所だ。

 

「ああ、分かった。遅れるなよ?」

 

「クーこそ。どうせクリスマスの直前まで仕事がびっしりなんでしょ?」

 

「……行けなくなったら連絡する」

 

「酷い!」

 

 オーバーリアクションを取ったユウキは、だが無表情のオレに耐え切れなかったらしく、恥ずかしそうに笑って誤魔化す。

 

「クーは必ず来るよ。何だかんだで律義だもん」

 

「仕事にイレギュラーは付き物だ。だが、努力はする」

 

 オレの返答に満足したのか、ユウキは上機嫌にスキップをして玄関に向かう。そして、可憐に黒紫の髪を舞わせて振り返った彼女は、妖艶と思える程に大人びた笑顔で赤紫の瞳を飾る。

 

「待ってるから。あの場所で、クーが来るのを待ってるからね!」

 

 相変わらず元気いっぱいだな。あるいは、アリシアについて冷たく言い過ぎたから、誤魔化す為に空元気になってしまったのか。どちらにしても、クリスマスまでに≪ボマー≫の件は確実に始末をつけないといけないな。

 

「……ん?」

 

 ふと、オレは気づく。オレはずっと壁に背中を預けていた。そして、組んだ腕で隠すように、右手にはワイヤー付きアンカーナイフを握っていた。

 無意識の反応? 警戒していた? オレがユウキを? 獣血侵蝕済みのアンカーナイフを右手で躍らせながら、オレは窓辺に腰かけるヤツメ様の禍々しい笑みに気付く。

 

(そうよ。『それ』でいいのよ。狩りを全うするのでしょう? だったら、夜明けを阻む全てを狩り尽くさないといけないわ。そこに正誤も善悪もなく、邪魔する全てを等しく! クヒ、クヒヒ、クヒャヒャヒャ!)

 

 ……どういう事だ? ヤツメ様に問いても教えてはくれない。

 狂笑するヤツメ様は、瞬間に背後から狩人に刺し貫かれる。そのままカーテンの隙間から漏れる光と闇の狭間に引き摺り込まれる。

 

「仕事に遅れる」

 

 黄金林檎の工房でグリムロックの秘策を受け取り、そのままスイレンの館に向かわねばならない。依頼開始は正午だ。遅れるわけにはいかない。

 部屋には微かにユウキの香水の残り香が漂っている。それがまるで違和感のように鼻を擽って眉を顰める。

 贄姫を抜刀し、残り香を裂く。そんな事をしても無駄だというのに。

 

「うーん……うーん……悩むッス」

 

 傭兵寮のエントランスでは、2枚のチケットを握りしめたRDが右往左往していた。どうやらクリスマスのマユのソロライヴのチケットのようだ。2枚あるな。

 

「あ、【渡り鳥】さん! 良いところに!」

 

 朝の挨拶も無しに駆け寄ってくるRDに、オレは嫌な予感を募らせる。

 

「教えて欲しいッス! クリスマスにアイドルのライヴに誘う男って、女の子の目線から見てどう思うッス!?」

 

 男であるオレに訊くな。そう言って立ち去りたい衝動はあるが、RDは切羽詰まった様子だ。どうやら思い悩んでいるらしい。

 こういう時はカイザーの兄貴にお任せしたいのであるが、わざわざオレをチョイスしたという事は……いや、考えても分からん。

 

「誘う相手は誰ですか?」

 

「ヘカテちゃんッス」

 

「ヘカテさんですか」

 

 オレの担当のサインズ受付嬢か。RDがヘカテさんと付き合ってると噂で聞いたことがあるな。まぁ、至極どうでもいい。ヘカテさんのファンに背中でも腹でも腋でもお好きに刺されてしまって構わない。

 

「いや、ヘカテちゃんなら文句1つ言わずにOKしてもらえるって分かってるッス! でも……それって男側の甘えじゃないッスか!?」

 

「……チケットを手に入れたけど、いざ誘う段階になって不安になったわけですね」

 

 だからどうした。マユのチケットはプレミアが付き、即完売が常だ。クリスマス・ライヴともなればRDがどれだけの苦労と出費をして手に入れたのかは考えるまでも無い。たとえマユのファンではなくとも、RDがどれだけ努力を尽くしてくれたかは理解できるというものだろう。

 だが、チケットの価値はともかくとして、大事なクリスマスをアイドルのライヴで消費するというのは女心としてどうなのかという問題は確かにあるだろう。ヘカテさんが熱心なマユのファンであるならばユニークソウルにも匹敵する価値があるだろうが、RDの様子からしてファンではないのだろう。だが、誘うという選択肢を挙げる程度には、彼女の歌を嗜んでいるといったところか。

 

「ひとまずチケットが手に入ったことを伝えてみては?」

 

「分かってないッスね! ヘカテちゃんは察しが良いから、自分から行くって申し出るに決まってるッス!」

 

 ならば解決ではないか。だが、RDはそれを良しとしないようだ。面倒臭い。

 周囲を見回し、助け船を探すが、傭兵寮のエントランスはオレ達以外に人影はない。もちろん、傭兵寮なんて物騒な建造物に管理人さんなんていません。入りたければ入れ。ただし、DBOの劇物である傭兵たちが住まう場所だと覚悟しろという事だ。

 まぁ、傭兵寮はあくまで仕事に備える待機所であって住まいにしているのはオレのように稀な部類だ。RDも運び屋の仕事で大忙しなので、傭兵寮の利用率は高い方であるが、それでもちゃんとマイハウスを持っているはずだ。

 オレもいい加減に新しい住処を見つけねばならないのだが、なかなか良い物件がないのだ。

 閑話休題。ともかく、RDはヘカテさんが遠慮してしまう事を恐れているわけだな。

 ……改めて思うが、オレに分かるわけがない。記憶が灼けているが、確実に言えることがある。恋人いない歴=年齢のオレが現在進行形で恋人持ちのRDの悩みにベストな回答をできるはずがないのだ。

 

「クリスマスの過ごし方なんてそれぞれですよ。夜景の見えるレストランを望むカップルもいれば、アイドルのライヴで盛り上がる恋仲もいてもいいですし、厳かに教会で過ごすのも、家でのんびりするのも自由だと思いますよ」

 

「そんな多様性肯定論を【渡り鳥】さんから聞きたくないッス! もっと尖った意見は無いんッスか!?」

 

 だったら何を言えばいいのだ? そもそもオレが意外性に満ちた回答を提示できるはずがないだろう。

 

「そもそもとして、RDは行きたいんですか?」

 

「行きたい……ッス。ファンって訳じゃないッスけど、苦労して手に入れたから、やっぱり興味はあるッス」

 

「だったらそれでいいじゃないですか。クリスマスだからって、何から何まで女の子の都合を優先する必要はありません。自分は行きたい。だから付き合ってほしい。ヘカテさんがOKしてくれたなら、お礼としてその後のプランは彼女を優先させればいいんですよ」

 

「そ、それで本当に良いんッスか!? 本当に!?」

 

「アナタは常々から自分の要望を押し通すタイプではありませんから、クリスマスに自分のワガママに巻き込むくらい大目に見てもらえますよ」

 

 オレは鼓舞を込めて自分の胸に右手を置きながら微笑みかける。途端にRDが大口を開けて硬直し、顔を真っ赤にして後退る。おい、悩み相談に乗った相手にその反応は無いだろう。オレだって傷つくぞ。

 

「や、止めてくださいッス! 心臓が……近距離だと殺傷力が高過ぎて心臓が耐えられないッス!」

 

「…………」

 

 もういい。馬鹿正直に対応して時間を浪費した。オレはRDを放置して急ぎ足で出発する。

 終わりつつある街はクリスマスに向けて増々の盛況を見せている。飾り付けは煌びやかで、黒鉄宮跡地には巨大クリスマスツリーを建造中だ。

 クリスマスを祝う気持ちは分からないでもないし、常に死が付き纏うからこそ誰もが幸せを望む日があってもいいだろう。だが、過剰なまでの期待は迫る恐怖からの逃避に他ならない。クリスマスが過ぎた後には何が残るというのだ? そもそも、後継者が昨年と同じようにクリスマスとイヴに決して死なない安全を提供するかも定かではないというのに。

 黄金林檎の工房までの道中は何事も無く、だが玄関を潜った瞬間に目に映ったのは無惨に破壊されたクリスマスツリーだった。

 まさか襲撃かと疑ったが、しょんぼりした様子で破壊されたツリーを箒で掃いているグリムロックを確認して安堵する。

 

「やぁ、クゥリ君。時間通りだね」

 

「何があった?」

 

「聞いてくれるのかい!? グリセルダが酷いんだ! 折角のクリスマスだから店頭にツリーを飾っただけなのにパイルで粉砕したんだよ!」

 

 黄金林檎のギルドハウス兼工房は、正面玄関から潜れば一般客層向けの様々な武器やアイテムが展示されている。だが、そもそも辺鄙な立地である上に、オレのせいで黄金林檎は今や腫物扱いどころか悪の軍団の基地のような扱いだ。オマケに一般向けとは言ってもグリムロックのハンドメイドなのでいずれもお高く、また性能もピーキーである。なお、これでもグリムロックに言わせれば面白味に欠けた、あくまで一般プレイヤー向け商品らしいのだがな。

 一般客など皆無に等しいとはいえ、大ギルドやサインズの関係者が足を運ぶ事はあるだろう。黄金林檎の顔とも呼ぶべき場所にクリスマスツリーを飾るのは悪くない発案だ。いや、グリムロックらしからぬ平和的な提案だと評価も出来る。

 だから、グリムロックの証言に限定すれば、確かにグリセルダさんに一方的な非があるのは間違いないだろう。

 ただし、クリスマスツリーの飾りだろう、小さなソルディオスの模造品……本当に模造品なのかも疑わしい残骸がある。うん、壊すよ。壊すしかないよ。こんな物騒なクリスマスツリーがあったらオレだって反射的に壊すよ。

 

「まったく、貴方は本当に落ち着きない子ね」

 

「申し訳ありません」

 

 炉が猛る工房にて、『大仕事』を終えたとばかりに清々しさすらも感じさせるグリセルダさんは紅茶を嗜んでいた。ソルディオス・ツリーの破壊は普段から溜め込んだストレスの発散にもなったのだろう。ちなみにヨルコはビールの空き缶でタワーを建造中だった。どうやら何処まで積めるかチャレンジしているらしく、美味しそうに喉を鳴らして新たに空き缶を作るのに全力を注いでいる。アル中め。

 

「ミッションを再確認するわ。今回の仕事はスイレンことリンネの護衛……及び暗殺よ。護衛依頼はマダム・リップスワンから正式に依頼があったわ。護衛対象は高級娼婦のスイレン。エバーライフ・コールをパトロンに持つわ。護衛依頼が終了次第にヴェニデから正式に『リンネ』として暗殺依頼が入るはずよ」

 

「高級娼婦ねぇ。DBOでも5人しかいない最高位の娼婦。下手したら大ギルドのお偉いさんよりも大物になるけど、暗殺して弊害とかないの?」

 

 まだアルコールが回り切っていないのか、まともな発言をするヨルコに、グリセルダは空になったティーカップをテーブルに置くと溜め息を吐く。

 

「暗殺依頼が入った時点で、スイレンはリンネと公表される予定よ。クラウドアースの施設爆破とそれに伴った大量殺人。クゥリ君が暗殺したところで、底まで落ちてる悪印象を、底抜けするような事態にはならないわ」

 

 さらりとオレの悪評は底を突き破る可能性があるとグリセルダさんは危惧しているわけだが、もう今更なので触れないでおこう。そうしよう。

 

「資料によれば、彼女自身は≪ボマー≫入手前はクラウドアースの技術開発に携わっていたらしいけど、芳しい成果は挙げられず、後に暗部の物資管理部に配属されたようよ。その後、PKした事が無いクリーンな経歴から≪ボマー≫の継承を強要され、以後は爆発物の製造が主な業務だったみたいね」

 

 つまりは強大なデメリットと引き換えに殺傷能力が高いユニークスキルは持たされたが、彼女自身は武闘派ではなかったという事か。

 

「個人的には私が≪ボマー≫は欲しいくらいだね。強力な爆弾を製造できるユニークスキルだ。攻撃アイテムの開発が格段に楽になるよ!」

 

 掃除を終えたグリムロックも参加する。確かにグリムロックのような鍛冶屋が持つと強力なユニークスキルだな。多種多様な爆発物を生み出せる≪ボマー≫は、直接戦闘よりもむしろ開発・生産こそが本領なのだろう。もちろん、いざとなれば人間爆弾として周囲を更地に変える程の凶悪さも併せ持つ。デメリットも納得の最強格ユニークスキルだ。

 いずれの大ギルドも何としても確保したいはずだ。数あるユニークスキルでも確実に戦局を左右できる戦略級であり、同時に他勢力が有した場合は余りにも危険過ぎる。野犬を統率できるアリシアを凌ぐ脅威だ。

 極論でもなく爆弾1個でアームズフォートが撃破され、要塞が陥落する。≪ボマー≫は聖剣にも匹敵する公式バランスブレーカーである。

 

「私達が入手したら大ギルドが総出で潰しにかかるわね。だからと言って、いずれかの大ギルドに渡っても現状の危ういバランスが崩壊しかねない」

 

「3大ギルドの総合力はほぼ横並びだもんね。いっそ教会にでも預けたらいいのに」

 

「教会も持て余すでしょうね。≪ボマー≫なんて有してしまった日には、3大ギルドが内部分裂覚悟で教会の無力化に動き出すのが目に見えてるわ。待っているのは、現行の秩序すらも崩壊した混沌よ」

 

 劇物だな。いずれの勢力が獲得しても騒乱は必至か。いっそのこと、≪ボマー≫の保有者の手足を千切って監禁し、3大ギルドと教会で不可侵の約定でも結べばいいのだろうか。いや、無理か。必ずいずれかが出し抜こうとするに決まっている。

 だが、3大ギルドが最も恐れるのは犯罪ギルドやレジスタンスに≪ボマー≫が渡る事だ。なにせ、3大ギルドの絶対的なアドバンテージである資本と規模を単体で覆せる可能性があるのだ。≪ボマー≫とは言うなれば連用可能な自由意思を持った核爆弾なのである。

 たとえ、スイレンを殺してヴェニデの望んだ通りに≪ボマー≫が別プレイヤーの手に渡ったとしても、その後も≪ボマー≫を巡る騒乱は続くだろう。ある意味で、奪って奪われての無限ルームに閉じ込めることこそが≪ボマー≫を最も安全に隔離する方法なのかもしれないな。

 

「≪ボマー≫はどうでもいいです。スイレンを……リンネを護衛し、来るべき時に暗殺する。それがオレの仕事ですから」

 

「相変わらずシンプルねぇ。アンタが≪ボマー≫を巡る政争と暗躍のど真ん中にいるって自覚はないの?」

 

「受諾した依頼を達成するのが傭兵の責務ですから」

 

 肩を竦めてヨルコの指摘を躱せば、グリセルダさんは額をぐりぐりと右手の人差し指で押し込み、やがて仏のような顔をした。

 

「そうね。どうなろうと知ったことではないわ。ひとまず、≪ボマー≫がスイレンが保持している内に工房の対爆強化を進めましょう」

 

 まぁ、≪ボマー≫で製造した強力爆弾を黄金林檎の上空から投下……なんて未来もあり得るわけだからな。グリセルダさんの諦めの境地も仕方ないだろう。

 

「今回は護衛依頼だからね。それに合わせた装備を整えたよ」

 

 グリムロックが今回の仕事で準備した装備は黒光りするハンドガンだ。うん、イジェン鋼シリーズだね。さすがに読めたよ。

 

「強度を優先したハンドガンだ。射撃武器であると同時にガードの連用や殴打といった格闘戦にも対応できる」

 

 ふむ、護衛向きの装備だな。いざという時はこれでスイレンを凶刃から守れる。

 

「次は【伸縮式携帯槍】。ともかく携帯性を追求した軽量特化の槍でね。3メートルまで伸びるんだけど、耐久面と火力に難がある。パラサイト・イヴとの併用が前提かな?」

 

 見た目は30センチ程の長さであるが、ボタンを押せばギミックが作動して伸びるのだが、なるほどな。軽過ぎる。穂先も短く薄い。だが、護衛として携帯するならば意味もあるだろうな。なにせ、今回は高級娼婦の館に常駐することになる。当然ながら、住み込みの使用人や客とも顔合わせをしなければならない。せいぜい見せ札にできるのは贄姫くらいというわけか。

 

「そして、【イジェン鋼製マキビシ】だよ。消費タイプの暗器で、踏んでいる間はスピードのDEX補正を低下させることができる」

 

「へぇ、グリムロックさんにしては大人しい装備ばかりね。頭がおかしくなったの?」

 

 ヨルコの辛辣な物言いに、グリムロックは心外だとばかりに嘆息する。

 

「クゥリ君の場合、暗殺よりも護衛が難題だからね。マキビシはばら撒けば暗殺者をスイレンに近寄らせない障害になる。ハンドガンにしても携帯槍にしても護衛用の装備だよ」

 

「貴方にしてはまともな装備ね。見直したわ」

 

 グリセルダさんも褒めるなど緊急事態だな。だが、確かに護衛向きの装備は有難いな。

 だが、逆に言えば、火力不足になりかねないか。まぁ、その時はその時だ。ある手札でやり繰りするしかない。

 

「そして、最後に古狼の牙の首飾りの完全修復が完了したよ!」

 

 吹き溜まりで破損し、カースドロッドのソウルで修理して白夜の魔獣時にVOB接続機能を追加した古狼の牙の首飾りだったが、肝心要の狼の召喚能力の修理がまだだった。だが、適性のあるアリシアの素材を手に入れた事によって、ついに完全修復されたようである。

 今回の護衛プランはこうだ。まずオレが常にスイレンを警護し、仮に大多数で襲撃を仕掛けられた場合、狼にスイレンを任せ、その間にオレが襲撃者を殲滅する。

 敵も味方も分からない状況であるならば、絶対に裏切らない同僚が不可欠だ。傭兵を協働で雇うにしても最終的には暗殺にシフトする以上は無理だ。そこで、今回の狼の召喚能力の復活は大きな意味を持つ。

 グリムロックに渡されたのは、光沢のないガラスのような半透明の長方プレートの中に狼の牙が内包された首飾りだ。モダンなデザインであるが、オレ個人としては前のデザインの方が男らしいワイルドさがあって好みだったな。

 

「ふふ……ふふふ……フハハハハ! 単なる能力の復活だと思っているわけないだろうね!?」

 

 禍々しさすらも感じる程に、何処の悪の軍団の科学者だとツッコミ待ちの狂笑を散らすグリムロックに、オレとグリセルダさん、そしてヨルコまでもが諦観の表情となる。だろうな。そうじゃないとグリムロックじゃないよな。

 

「組み込まれたカースドロッドのソウルを利用し、狼をより強化した! コンセプトはロボット狼だ!」

 

 グリムロックが何処からともなくホワイトボードを持ってくると、開発した狼のモデルを貼り付ける。そこにはサイバネティックなデザインをした、まさにロボット狼が描かれていた。

 

「以前の狼では攻撃手段が牙と爪しかなかった。だが、今回は違う! 爪牙はいずれもクリスタルパーツを採用して攻撃力と軽量性の両立に成功。背中には火器接続ユニット! これによって実弾でもレーザーでもミサイルでも何でもござれ! ミッションに応じて変更可能! 更には電磁強化ブレードを2本格納し、すれ違い様に斬り裂く! そして、防御用として電磁バリア! 正面限定だけど対射撃属性に秀でた防御フィールドを展開可能だ!」

 

「燃費悪そう」

 

「その問題も解決済みさ! アリシアの心臓は強力な闇の性質を有していた! これによってある程度の自己完結が可能! 活動エネルギーが切れた場合はクゥリ君からの供給が不可欠になるが、それでも継戦能力は大幅に上昇したはずだ!」

 

 グリムロックに資料を手渡されて捲ってみたが、なるほどな。アピールの割には火力はそこまで特化されているわけではないのか。接続する火器にもよるが、基本的に高速戦闘がメインとなる。

 オレ個人としては不要だと思っていたが、いざという時には移動手段にもなるサポートユニットは確かに有用だ。それに今回のような護衛依頼ならば活用の幅も広がる。しかも燃費も改善されているとなれば文句はない。

 さすがだ、グリムロック。ここまで正当に強化させるとはな。やり過ぎ感は否めないが、そもそも古狼の牙の首飾りが既にユニークソウル品扱いであり、カースドロッドのソウルも準ユニークだ。そこに闇の強化の影響を残したアリシアの素材が加われば妥当といったところか。

 

「外見はまるでゾ〇ドね」

 

「あ、ホントだ。ゾイ〇っぽい」

 

「〇イドはモチーフになったね」

 

 黄金林檎の3人は奇しくも全員が満足気の様子だ。これは嵐の前触れか?

 

「私も前々からクゥリ君にはサポートユニットが必要不可欠だと思っていたのよ。前の狼では燃費の都合上、常用は難しかったけど、貴方を信じて良かったわ」

 

「ワンコでも傍にいれば、これで【渡り鳥】も少しは社交性や連帯感の重要性を学ぶでしょ」

 

「強力な兵装でキミの仕事をサポートできる! これ程に心強いものはないだろうね!」

 

 ……どうでもいい。狼は喋らないし、たとえ人語を操ろうとロボット狼ならば別に問題ない。社交性? なにそれ、美味しいの? ロボット狼なら餌も散歩も要らないだろ。

 3人の期待の目があり、オレは仕方なく使用する。オレの目の前に召喚の円陣が……いいや、空間の歪みと雷光が生じる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 空間の歪みと雷光の果てに現れたのは、灰色の髪と狼の耳を備えた少女だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「灰狼、御用命により参じました。この体、この命、この魂を……血の1滴とて余すことなくマスターに捧げます」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 空気が……凍る。色々な意味で凍結する。

 ロボット狼は? ロボット狼は何処? さすがのオレも思わず目を擦り、1度召喚を解除し、再召喚する。

 

「灰狼、御用命により――」

 

 召喚解除、再召喚。

 

「灰狼――」

 

 召喚解除、再召喚。

 

「は――」

 

 召喚解除、再召喚。

 

「……マスター?」

 

 困惑した様子で、狼耳の少女はオレに戸惑いながら尋ね、召喚解除に待ったをかける。

 ふむ、落ち着こう。オレは眉間を揉み、改めて狼少女を観察する。

 年齢は14、5歳くらいといったところか。やや生意気さを感じさせる目といい、愛らしくもクールな顔立ちだ。腰まで伸びた髪は灰色であるが、毛先に行く程に黒くなっていくグラデーションがかかっている。特にふさふさの尻尾は顕著だ。

 人間の耳は備わっており、だが側頭部には大きな狼の耳もある。いや、狼の耳は小さな突起……灰色の髪に埋もれた角のような感覚器官を補助・保護する役割もあるのか。

 服装は和風でありながらサイバーチックだ。白と黒の2色で構成されたデザインであり、スカートは膝上でやや短めであり、狩衣を模した上着は電子回路を模した意匠が施されている。

 淡い銀色の瞳は霧中で仰ぎ見た月のようであり、曖昧で掴みどころがない印象を与える。何故かは分からないが、その瞳に見つめられると目を背けたくなる衝動があった。

 

「グリムロックさん?」

 

「貴方?」

 

 ヨルコとグリセルダさんの絶対零度の視線がグリムロックに突き刺さる。いやね、うん、分かるよ。あれだけ自信満々に浪漫を追い求めたロボット狼を紹介したのに、実はドッキリで、現れたのはコレなんだからさ。

 グリムロックよ、弁解の余地を与えてやろう。それ次第では援護に回ってやれないことも無い。

 グリムロックはフラフラと工房の隅に向かい、そして仕事道具だろう金槌を引きずって火花を散らしながら、まるで幽鬼のような目をして迫る。

 

「クゥリくん、いますぐ首飾りを渡してくれ。1度壊して作り直す」

 

「ふぇ!?」

 

 いきなりの殺処分宣告に少女は全身の毛を逆立たせる。うん、まぁ、そういう反応になるよな。

 

「マスター! グリムロック様はいよいよ狂われたご様子! 灰狼が時間を稼ぎますのでご準備を!」

 

 少女の手にポリゴンの光が集まり、出現したのは反りのある片刃の剣だ。カタナの形状であるが、刃紋はなく、鍔もただのブロック状だ。近未来のカタナ……サムライ・ブレードといった呼び方が相応しいかもしれない。

 

「そ、それは私が開発した電磁強化ブレード!」

 

「そうです。グリムロック様が灰狼に仕立ててくれた専用装備です。カタナの耐久問題を改善し、代償として低下した切れ味を電磁抜刀で補う。威力はご存じの通り」

 

 鞘はなく、だが居合の構えを取った少女の周囲で雷光が迸る。ふむ、これが電磁抜刀か。興味深いな。オレが居合を多用するから、それを参考にした攻撃かな?

 だが、まだグリムロックを殺させるわけにはいかない。オレは完全無警戒の少女の背後から、その後頭部に贄姫を放つ。もちろん、鞘に入れたままなので打撃属性だ。

 

「ふぎょ!?」

 

 血と肉が飛び散り、少女は膝をつく。意外とタフだな。よし、更にもう1発。

 

「ふぎゃ!?」

 

 今度こそ顔面から倒れ伏してピクピクと痙攣した。少女の髪の毛と血と肉が貼り付いた鞘を振り払う。

 

「あ、アンタ……さすがに容赦なさ過ぎじゃない? これ、脳漿飛び出してるんじゃないの?」

 

「さすがにそこまでは無いみたいね。でも頭蓋が見えてるわ」

 

 ヨルコを退かせてしまったようだが、グリセルダさんは冷静に傷口を確認して安堵の息を漏らす。

 

「こ、小癪な! マスターに混乱のデバフを……! 敵・味方の識別が出来なくなっているご様子。敵の術を見抜けぬは灰狼の不覚!」

 

 涙目になりながらも震えて立ち上がった少女はオレの方を振り返り、拳を握る。

 

「混乱のデバフの解除はダメージを与えるのが最も即効性が期待できます! これもマスターの為! お許しくださ――」

 

 打つ。鞘に入れたまま贄姫で少女の額を打つ。更に1発。もう1発。オマケでもう1発。トドメにSTR出力7割で1発。

 

「ふぁふぅ……?」

 

 額が割れて血が噴き出し、少女は背中から倒れる。HPを1割未満まで削るつもりだったのだが、意外と余裕が残ってるな。まぁ、鞘の打撃には≪戦槌≫のボーナスが乗るとはいえ、贄姫の本領ではない。実用できるだけマシだ。

 

「クゥリくん!?」

 

「正当防衛です」

 

 今度は手で鞘に付着した血と皮と肉を拭い取る。まさか工房を血の色に染めることになるとはな。

 その後、グリセルダさんの申し出により、ひとまず召喚解除も見送られ、グリムロックを交えて話し合うことになった。ヨルコは少女の話し相手になっている。

 自称・灰狼の少女は椅子に座り、ガタガタと震え、光が今にも消えそうな目でヨルコが淹れたココアを飲んでいる。どうやら、オレの鞘強打が彼女にある種のトラウマを刻み込んでしまったようだ。

 

「まず弁明しよう。御覧の通り、これが設計図だ。私は断じて狼耳美少女のサポートユニットなど開発していない!」

 

「え、ええ、そうね。最初は貴方の犯行かと思ったけど、冷静になればなる程に貴方だからこそ絶対にあり得ないと言い切れるわ」

 

 オレも同意見だ。グリムロックだからこそ、ロボット狼でも可愛いくらいで、もっと物騒な代物に仕上げても驚かない。狼とは名ばかりのソルディオスすらも予想図にはあったくらいだからな!

 

「でも現実はアレよね? 貴方が寝ぼけて設計を間違えたんじゃないの?」

 

「私に限ってあり得ないし、仮に手違いがあったとしても不可能だ。ギルドNPCでもない限り、ほとんどプレイヤー同然のサポートユニットの開発なんて、それこそ注力している大ギルドだって実現できていないんだ」

 

 どれだけグリムロックの技術力が優れていて、寝ぼけて偶然が重なったとしても、手持ちの素材では不可能なのだろう。グリムロックは改修に用いた素材リストを確認しているが、あのような結果になる確率はゼロだと断言した。

 

「首飾りを解体して原因を探るのが1番だけど……どうするかい?」

 

「時間が無い。今回はこれで行く。それにグリムロックとしても運用データは欲しい。そうだろう?」

 

「さすがはクゥリ君。分かってるね」

 

 かつて、オレは聖剣をキリトに託した……いや、押し付けた。その最大の理由は、武器が自我を持ってるなどろくでもない事にしかならないからだ。

 かつての狼の召喚はまだ良かった。自立行動しているが、自己主張もなく、サポートユニットとして、武器として完結していた。何よりも燃費の関係でここぞという場面以外の活用方法がなかった。

 だが、彼女は違う。自意識があり、感情があり、『命』がある。武器としては面倒臭いのトリプルコンボだ。

 

「行くぞ」

 

「あ……」

 

「それとも召喚を解除した方がいいか?」

 

 普段のオレならば問答無用で召喚解除するのであるが、自我があるならばコミュニケーションは必須だ。3人に不安の目で見送られながら、オレ達は工房を後にする。

 オレの後ろを3歩と言わず6歩離れた少女は無言だ。まぁ、出会って1分で後頭部と額を叩き割った相手を警戒しない訳が無いか。

 

「……オレの判断ミスだ。もっと穏当な手段があったな」

 

「マスターの判断は的確でした。グリムロック様はマスターの武装を支える生命線。灰狼よりも優先順位が高いのは当然です」

 

 感情を抑制した声と表情。ふむ、どうやら平時は見た目通りといったところか。だが、イレギュラーがあると感情が表面化するようだな。

 

「オレについてどれだけ知っている?」

 

「制作者であるグリムロック様が入力されましたプレイヤー情報に限定されます。残念ながら、灰狼の前任の記憶ストレージは正常に移管されていません。ですが、マスターの戦闘スタイルは理解しています。灰狼はマスターのサポートをするように武装設計されていますが、単独戦闘でも十分な戦果をお約束できます」

 

「DBOについては?」

 

「問題ありません。戦闘システム及び大ギルドを始めとしたプレイヤー社会の基礎的な知識はグリムロック様に入力していただいております」

 

 これならば1から説明する必要は無いか。グリムロックが入力したプレイヤー情報については偏りがあるかもしれないから追加と捕捉は必要になるだろうな。

 

「名前は? 何と呼べばいい?」

 

「灰狼は灰狼です。個体名はまだありません」

 

「……そうか。なら、今は灰狼と呼ぶ」

 

 オレのネーミングセンスは絶望的だからな。黄金林檎の誰かに頼むとしよう。

 話をして緊張が解れたのか、警戒が緩んだのか、灰狼はオレの隣まで駆け足で迫る。

 

「もう傷口は塞がったみたいだな」

 

「灰狼にはオートヒーリングとアバター修復能力がありますから。四肢が千切れた場合はさすがに修復に時間を要しますが」

 

 逆に言えば、プレイヤーと違って欠損状態を自己回復できるというわけか。さすがはサポートユニットだ。

 

「デフォルト武装は電磁強化ブレードとなります。他にも最大で2つの火器を装備可能です。弾薬等の補給は不可欠ですが、灰狼には弾薬専用ストレージがあるので、長期ミッションに同行できるだけのストックは可能です。火器を減らしてバックパックを着装すれば、マスターのサブ・アイテムストレージとしても運用可能です」

 

「弾薬専用ストレージとサブ・アイテムストレージか」

 

「……ただし、灰狼がストックした弾薬をマスターに譲渡することはできません。また、バックパック装備時には召喚解除も不可となっています」

 

 灰狼にジト目で見られ、オレは顔を逸らす。どうやら、灰狼を弾薬庫兼サブ・アイテムストレージとして存分に活用しようとした魂胆は早々に見抜かれたようだ。

 

「他には対射撃属性に秀でた電磁バリアと電磁索敵フィールドの展開を可能とします。マスターのサポートに抜かりはありません。灰狼に読み込まれた設計図によれば、試作開発も含めた総費用は――」

 

「それ以上は言うな」

 

 オレが多額の投資をしているとはいえ、数々の特許を有する黄金林檎の家計は芳しくなく、グリセルダさんがいつも頭を抱えているのだ。想像するに余りある。

 だが、実質的にユニークソウル2つ分と高額投資に見合うだけの性能を灰狼は有しているようだ。大よそグリムロックが想定したスペックを獲得しているだろう。

 ミッションに応じて変更できる火器による支援と電磁強化ブレードの近接戦。サブ・アイテムストレージによる物資増加。戦術・戦略の幅を広げる補助能力。なるほど。サポートユニットとしては優秀だ。

 だが、致命的に噛み合わない事がある。オレは装備も含めた何もかもが単独戦闘特化なのだ。遠距離からのスナイプなら別だが、それを除けば中距離だろうと味方がいるだけで邪魔になる。

 考えてみろ。たとえば贄姫の斬撃結界だが、オレを中心とした無差別全範囲攻撃だぞ。仲間だろうとサポートユニットだろうと攻撃範囲にいたら巻き込む。そもそもオレの戦闘スタイルも装備も連携を徹底的に排除したものだ。

 

「火器は専用限定か?」

 

「はい。グリムロック様が設計した専用に限定されます。灰狼の武装換装機能はヘンリクセン様の技術が採用されていますが、本来はマスターの装備に追加採用予定でしたが、実装できませんでした」

 

 話は聞いている。スミスのラスト・レイヴンはミッションに応じて兵装を換装でき、様々な局面に対応できる。贄姫とは違った方向で多様性を獲得した装備だ。簡単そうに見えて、実は大ギルドもプレイヤーには実装できていない能力なのである。言い換えるならば、ゴーレム等では珍しくないのだ。

 グリムロックはオレの白夜の狩装束にも換装能力を搭載させるつもりだったのだが、技術か素材のどちらか……おそらく後者が原因で不可と判断したのだろう。その名残として灰狼に搭載されたのかもしれないな。

 

「灰狼の基礎能力はマスターのレベルに準拠しますので、レベル100以上相当のスペックがあります。それだけではありません。≪料理≫・≪清掃≫・≪裁縫≫に相当する≪家事≫という能力を有しています。灰狼はあらゆる面でマスターを補佐できる高性能サポートユニットだとお分かりいただけたでしょうか?」

 

 うむ、これがいわゆるドヤ顔という奴だろうか。クールで賢そうな顔をして、中身は馬鹿だと分かり易く説明してくれてありがとう。自慢げ胸を張る灰狼に、オレは眉間に皺を寄せずにはいられない。

 やはりコイツはバグだな。あのグリムロックが戦闘面以外に余計なコストを割くはずがない。そうなると原因は何なのか。グリムロックが寝ぼけて変な素材を混ぜたか? あり得ないことも無いが、あのグリムロックがそんなケアレスミスをするとは考え難い。

 そうなるとDBO側のバグか? これまでに無かったわけではない。だが、その度に後継者が直々にメッセージを送って引換券などの補償をするのが通例だ。オレだから無視した……というのは、自分ルールにはたとえ補償相手がキリトであろうとも従う後継者に限ってあり得ない。

 DBOの≪鍛冶≫スキルのバグではないとするならば、管理者からの干渉か? 無いとは言い切れないな。グリムロックよりもアルシュナに解析してもらった方が有効かもしれないが、オレ側から接触する手段が限られているし、管理者とはなるべく関係を深めたくない。管理者同士のゴタゴタに巻き込まれるかもしれないしな。

 ヤツメ様は……欠伸を掻いている。少なくとも灰狼には害意が無いと判断しているか。警戒するのに越したことはないな。

 

「そうかそうか。オマエが優秀なのはよく分かった」

 

「分かっていただけましたか」

 

 ああ、分かった。表情をどれだけ取り繕ったところで、尻尾を見れば感情が見え見えな点もな。分かり易く尻尾を振っていらっしゃる。これは駄目だ。オレも腹芸は苦手だが、コイツは論外の域だ。

 

「ならば、召喚を解除するぞ」

 

「ふぇ!? お待ちください、マスター! 今回のミッション内容は灰狼も把握しています! マスターが苦手とする護衛ミッションのはず! マスターの攻撃力を最大限に発揮する為に、灰狼が護衛対象を――」

 

「そうだ。だが、その前に敵の横っ面にまずは全力で殴りつけるカウンターが必要だ。敵は必ずターゲットを狙って、犠牲を覚悟にした物量攻撃を仕掛けてくるはずだ。オレが単独では守り切れない程にな。その時こそがオマエの存在を明らかにする」

 

 やはりイレギュラーが加わると感情が大きく表面化するな。戦闘時には感情を剥き出しにするタイプかもしれない。出来れば性能をチェックに模擬戦をしておきたいが、さすがに時間が無いな。

 

「いずれの勢力もオレがサポートユニットを保有しているという情報は無いし、これまでの……これまでの……これまでの……ぼ、ぼぼぼぼ……」

 

「ぼっちですか?」

 

「……そうだ。ぼっちの実績からも想定さえしていないはずだ。オレの装備も戦闘スタイルも単独向けだからな。協働ではないならば猶更に警戒しない」

 

「なるほど。敵が攻撃を仕掛けてきた時こそ灰狼の出番というわけですね。敵にとって灰狼はイレギュラー。しかも、マスターには護衛対象を守る手段があると敵に認識させ、以後の襲撃を抑制させる事もできる。今回のミッションは時間との勝負。如何に襲撃回数を減らすかが鍵ですから」

 

 物分かりが早くて助かる。今回のミッションはヴェニデにとって都合がいいように≪ボマー≫の所有者を確定できるまでの時間稼ぎも含まれている。遅くともクリスマスを迎えるまでに決着がつけられるだろうし、それ以上はたとえ灰狼という札を切ってもスイレンを護衛しきれるとは考え難い。なにせ、1人が2人になったところで、形振り構わず物量を倍加させれば対処しきれなくなるからな。

 これだから護衛依頼は嫌いなのだ。拠点防衛はまだ拠点側の防衛力が耐えている内に敵の主戦力と頭を撃破すればほぼ成功するのだが、護衛はそもそも離れずに守ることになるからな。オレの戦い方とも装備とも合わないのだ。

 

「ちなみに召喚解除の意識と記憶はどうなる?」

 

「ありません。灰狼はスリープモードになっていますので。マスターのプライベートを守る配慮も欠かしません」

 

「上々だ」

 

 つまり、邪魔になったり、見聞きされたら不味かったりする時は、召喚解除してしまえばいいというわけか。重要な情報だな。

 あとは首飾りを別プレイヤーが装備した場合などもチェックしておきたいのだが、それは追々で構わないだろう。

 

「最後に確認しておく。今回のミッションは護衛だが、その後の依頼で暗殺する事になる。何か思う所は?」

 

 スイレンを暗殺する段階になって裏切られたら困るからな。灰狼ごと斬ってまた破損してしまっては修理費も素材も時間も馬鹿にはならない程にかかってしまう。

 

「マスターのサポートを最優先するのが灰狼の存在意義です」

 

「そうか」

 

 ……無表情で感情を抑制した声で応じているが、尻尾は緊張したように毛が逆立っている。

 札を切った後もスイレンとはなるべく接触させない方が良さそうだな。感情移入させたら土壇場で裏切られるリスクが高まる。

 召喚解除。灰狼は丁寧に頭を下げた姿勢で消え、そしてオレは溜め息を漏らす。

 

「……これだから武器に意識と感情があると面倒臭いんだ」

 

 聖剣をキリトに押し付けた理由がこれだ。自意識があると運用を考慮しないといけないし、使い潰すにしてもあれこれ後先まで考えないといけないし、そもそも武器に『騙して悪いが』されるリスクまで常時背負わないといけない。

 記憶をフォーマットできるならば、最悪の場合は大ギルドとトレードも視野に入れておくか。グリムロックとグリセルダさんに要相談だな。

 想起の神殿を経由して終わりつつある街に戻り、その足でクリスマスムードの大通りを抜けて快楽街に辿り着く。

 スイレンは洋風の煉瓦造りの屋敷で暮らしている。館の周囲は高さ4メートルの鉄柵と生垣で守られている。庭園も設けられており、薔薇園はそれだけで入場料を稼げそうな程に立派である。正門から館までの道には噴水もあり、白馬に跨る騎士像が左右にずらりと並んでいた。

 館は左右に塔があり、それを除けば2階建て。スイレン以外ではメイドと執事と警備を合わせて20人が住み込みだ。更に先の襲撃を受けて、ギルド≪ジェネラル・シールズ≫が警備を請け負っている。

 ジェネラルシールズは主に中位プレイヤーで構成された警備専門ギルドだ。大ギルドから中小ギルドまで幅広く仕事を請け負っており、護衛・警備・防衛を主な業務とし、また特化している。この手の業界では大手であり、構成員も多く、富裕層からも評判がいい。特に最精鋭は大ギルドの上位プレイヤーにも見劣りしない……というか元大ギルド所属のプレイヤーもいるようだ。

 性質としてはアラクネ傭兵団に近いだろうな。あちらは全員が準トッププレイヤー級の少数精鋭であり、あらゆるミッションに対応できるが、こちらは数と装備と戦略で補うのが基本で守りに限定している。

 ジェネラル・シールズはいずれの大ギルドにも旗色を表明しておらず、資本から装備に至るまであらゆる大ギルドの良いところを採用している。大ギルドからすれば装備もアイテムも惜しみなく買ってくれるお得意様であり、同時に最終的には取り込みたいとスパイを潜り込ませているはずだ。

 スイレンが保有する≪ボマー≫はジェネラル・シールズに潜り込ませたスパイに蜂起させ、その後の関係悪化を無視してでも十分過ぎる利益が出る。彼らは味方ではなく潜在的敵対者として対応すべきだろうな。というか、あちらもオレとは関わり合いになりたくないだろ。オレの悪名と悪評を舐めないでいただきたい。

 

「おぉ! あの【渡り鳥】と肩を並べられるとは真だったか! この任務……我々の完遂は決まったも同然か! 今夜には一足早い勝利の美酒を堪能できそうだ! ガハハハハ!」

 

「…………」

 

 その予定……だったんだけどなぁ。スイレンの館の正門でオレを迎えたのは、スキンヘッドに豊富な口髭を生やした、オレの倍以上の肩幅もある男だ。全身に装備しているのは機動甲冑のようだが、カスタマイズされ過ぎて原型が分からない。辛うじてヘビィメタルではないだろうかと思うのだが、どうやらエイリークと同じく背中に兜を収納して必要な時だけ被るギミックが搭載されているらしく、暑苦しい素顔を晒している。

 年齢は30代後半から40代前半といったところか。小麦色にこんがり焼けた肌といい実に健康的……もとい暑苦しい。

 

「失礼。少し興奮し過ぎてしまった。いやいや、それも仕方ないというもの。生で見るのは初めてだが、まさに人外の美貌。あのスイレン嬢の館の護衛を請け負えると舞い上がっていたが、それを上回る至福に堪能できるとは。お手にキスをしてよろしいですか? 一生の思い出にさせていただきだい」

 

「…………」

 

 仰々しく片膝をついてオレの右手を取ろうとした男に、オレは無表情で贄姫の柄に触れれば、残念そうに引き下がった。

 ユウキ、灰狼、次いでコレか? もういい加減にしてくれ。オレの頭はこれだけ立て続けに事が起きてはパンクしてしまう程度の容量しかないのだ。

 

「出来れば最精鋭を配備したかったのだが、さすがにクリスマス前ともなると多忙でね。いや、いつでも我が社は多忙なのだがな! 傭兵が出張る程ではないちょっかいや威力偵察は日常茶飯事。ギルド間戦争など堪ったものではないが、小競り合いがあってこそ繁盛するのも事実だ」

 

「…………」

 

「余りにも急過ぎる依頼だったので、私を除けば訓練を終えたばかりの新米だ。まぁ、1割でも生き残れば十分過ぎるだろう。ガハハハハ! 良い良い! 生き残った1割の半分は辞めるだろうが、残る半分は間違いなく強くなる。そうは思わんか?」

 

「否定はしません」

 

 男は【シャークマン】というらしく、ジェネラル・シールドが誇る最強格の3人の1人らしく、【牙盾】の異名を持つ。元聖剣騎士団であるが、命令に反して仲間を全滅させる突撃を敢行して除籍されたらしい。

 彼は徹底した実力主義らしく、実戦こそ強兵を育てるという持論を実行している。ジェネラル・シールズでも育成方針は変わっていないらしく、自分の指揮下に入る事を新人たちは『あの世送り』と絶望しているようだと嬉々と教えてくれた。

 

「うむうむ。サインズも徹底した実力主義だからな! 私もサインズ傭兵に登録しようかと思ったのだが、やはり後進の育成を諦めきれなくてね。私の実力と方針を買われてジェネラル・シールズに是非とも力を貸してくれと請われたのだよ」

 

 ジェネラル・シールズの新人死亡率は高そうだな。あるいは、シャークマンが担当するのは見込みがある有望株か地獄を見せねば使い物にならない粗製か、どちらかというわけだろう。いきなり実戦配備ではなく、最低限の訓練は積ませてもらって装備も与えられているのだ。下位から自力でダンジョン潜ってのし上がってきた叩き上げに比べれば温情がある。

 

「ちなみに【渡り鳥】は映画に興味はあるか?」

 

「無いと言えば嘘になりますね」

 

「うむうむ! 私も映画が大好きでね! クラウドアースはいよいよ映画事業を始めただろう!? 私は是非とも! 是非とも! 是非ともサメ映画を拝みたいのだよ! あれこそが人類の至高だ。サメ映画無しの人生は塩を振っていないスイカと同じ。うーむ、これぞ名言だな!」

 

「……そうですか」

 

 うっとりとした様子のシャークマンが館のエントランスを潜ってからサメ映画に関して熱く語ろうとしたその時、甲高いハイヒールの音色が響いた。

 シャンデリアが照らす豪奢なエントランスでオレ達を迎えたのは、金細工が特徴的なキセルを指で躍らせた妖艶な女だ。

 エバーライフ・コールのリーダーのカリンだ。チェーングレイヴの秩序には参加せず、自力で勢力を拡大し続け、ついには裏でも強大な影響力を保有するようになった犯罪ギルドのボスである。

 表には一切の迷惑をかけない穏健な姿勢を取っているが、債務者には一切の容赦をせず厳しい取り立てを行い、また返済能力が無いと見なされた場合は『ショー』への参加を強請させる。エバーライフ・コールが主催するショーは残虐無比であり、クラウドアースが経営するコロシアムでは味わえない興奮を求めて富裕層にも人気らしい。

 残虐ショーについては特に言うこともない。大ギルドも黙認している。つまりはそういう事だ。人が増えれば派閥も増えて、大ギルドも1枚岩ではなくなる。陣営という単語が示す通りなのだ。

 

「お喋りはそれくらいにしてくれる? ウチのスイレンちゃんの品位が損なわれてしまうわ」

 

「ガハハハハ! これは失礼! 思いの外に【渡り鳥】がお喋りでついつい興が乗ってしまってね。いや、これは私のミスだ。年上として私が咎めねばならなかった。どうか彼の依頼評価に減点を付けないであげてくれ」

 

 え? 何? なんでオレが話しまくったみたいな扱いになってるの? そして、アナタはどうして『ここは私が泥を被ろう。貸し1つだぞ☆』みたいな顏でウインクしてるの? これって敵対行動だろうか? 違うのだろうか? 抜刀しても問題ないのではないだろうか?

 

「シャークマンさん、貴方の評判は聞いてるわ。ジェネラル・シールズは防衛に特化したギルド。でも、貴方は攻撃こそ最大の防御という持論を掲げているとか。しかも突撃戦法が得意中の得意」

 

「当然だ。ただ守るだけでは勝てぬからな。敵を打ち砕いてこその完・全・防・衛! これぞ真理よ」

 

「……【渡り鳥】さんもサインズから提供された資料によれば、護衛依頼の実績はマダムを除けば皆無に等しいようだけど、本当に大丈夫なの?」

 

「この世に絶対はありません。ですが、依頼の達成に全力を尽くすのが傭兵の義務です。抜かりはありません」

 

 まぁ、カリンの疑惑の目は分かる。警備に秀でたギルドに仕事を依頼したら派遣されたのは突撃大好き、ついでにサメ映画も大好き男と頼りにならなそうな経験不足の新人ズ。マダムから派遣されたのは選りにもよってオレだ。

 

「ウチの警備も鍛えてはいるけど、正直に言って実力面では貴方達には大きく劣るわ。警報が鳴ればウチから追加戦力も派遣できるけど、早くても30分はかかる。高い金を払って雇わせていただいているのだから、ジェネラル・シールズの皆様には文字通り命を盾にしてでもスイレンちゃんを守ってもらわないと困るの」

 

「ご安心いただきたい。早速だが、最新鋭の防衛設備の配置を――」

 

「言ったでしょう? スイレンちゃんの品位を傷つけるような真似は止めて頂戴。無粋な防衛設備が丸見えなんて恥晒しも良いところよ。貴方達のような完全武装した警備はお客様の目が触れない場所で待機をしておいてもらえるかしら?」

 

「むむむ!? だが、それではスイレン嬢の身が危ういぞ。我が社は大ギルドより購入した様々な最新鋭防衛設備を保有している。たとえ、中型ゴーレムが来ても十分に撃退できる程の質と量をお約束できるが?」

 

「契約書にも記載しておいたはずよ。守れないならば契約違反で賠償請求をさせていただくけどよろしいかしら? 貴方がウチのショーに100回出演しても足りないくらいの高額賠償よ」

 

 これにはシャークマンも黙り込む。というか、コイツは何を考えているのだ? オレだって護衛任務だからこそ装備を限定しているというのに。

 

「分かった。では、目立たぬ程度に索敵・警報設備だけでも如何だろうか?」

 

「ウチの設備も万全……と言いたいけど、先に痛い目を見ているし、許可するわ。【渡り鳥】さんにはマダムの要望の通り、スイレンちゃんの近辺警護をお願いね。お客様との床を除けば24時間傍から離れないでいただけるかしら?」

 

「かしこまりました。必ずや、スイレンさんをお守りいたします」

 

 丁寧に腰を折りながら右手を振るう。だが、頭は垂らしても目線だけは相手を射抜く狩人の礼だ。カリンは満足したように頷く。

 

「貴方ならスイレンちゃんの評判を落とすことは無さそうね。それに【渡り鳥】といえば、依頼主を決して裏切らず、極めて高い依頼成功率を誇る事で有名」

 

「お褒めの言葉、光栄です」

 

「その一方で依頼は達成しても依頼主には予期せぬ大損害をもたらすとか。敵も味方も灰燼に帰す悪名、今回は発揮しないでいただきたいわね」

 

 さすがは犯罪ギルドのトップか。まるで物怖じせずにオレを煽って去っていく。これにはシャークマンも口笛を吹いた。

 

「恐ろしい女だ。サメ映画では間違いなく終盤まで生き残るタイプだな」

 

「……サメ映画はともかくとして図抜けた才覚の持ち主なのは間違いないでしょう」

 

 富裕層の心を擽るショーで大きな資金源の確保とパイプを構築し、なおかつ大ギルドに牙を剥かれない地位を確保する。そして、秘密裏に≪ボマー≫を保有して戦力増強も謀っていた。もしかせずとも、スイレンを売り渡す取引も進めているかもしれない。

 今回のスイレンの防衛に不適切なシャークマンの派遣。カリンは既に大ギルドと取引を済ませ、スイレンの暗殺を認可しているのかもしれない。敢えて自分から首を渡さないのは、大ギルドに屈していないという名目が欲しく、面目を潰された見返りとして相応のものを約束されているかもしれない。

 そうなるとシャークマンは生贄か? ジェネラル・シールズもシャークマンを持て余しているのかもしれない。いや、早計だな。最初から護衛はオレ1人という前提なのだ。彼らは潜在的敵対者である認識に変更はいらないだろう。

 

「では、スイレン嬢は任せたぞ。我々もスイレン嬢までたどり着かせないように鋭意尽力するが、万が一があるからな」

 

「ええ、そちらもどうかご無事で」

 

「要らぬ心配だ。サメ映画を見るまでは死なんよ。ガハハハハ!」

 

「だと良いのですがね」

 

 まぁ、暗殺依頼の時も警備が解除されていなかった場合、彼も障害として殺さねばならなくなるかもしれないのだがな。その時はその時だ。

 立派な屋敷ではあるが、ここはあくまで娼館だ。故に居住性は二の次である。主に来訪客を迎える応接室がメインに据えされ、それ以外の設備もまた客と高級娼婦のコミュニケーションに重点を置かれている。

 高級娼婦は金を払えば即座に床を共に出来るわけではない。時間と交流をじっくりと重ねる。むしろ床よりもそちらを重視して足を運んでいる者も多いくらいだ。

 さすがに男女が交わっている時まで真隣で警護するわけにはいかない。何らかの手段を考えねばならないが、彼女の客は基本的に金と地位を両立した者ばかりだ。≪ボマー≫の為とはいえ、自身が破滅することも厭わず、また彼女も相当の実力者である事を考慮して、暗殺に踏み切る者がどれだけいるだろうか。

 ……最悪の場合に備えてベッドの下に隠れているか? それもそれでありだが、スイレンに拒絶されたらさすがに無理だ。

 スイレンは私室でオレを待っている。プロフィールはマダムから提供されているが、役には立たないだろう。彼女の正体は≪ボマー≫保有者のリンネだ。ヴェニデから提供された資料の方が正確だろう。

 大量爆殺も厭わない冷酷な性格の持ち主。しかも大ギルドの目を掻い潜る為に高級娼婦を演じる胆力。並の人物ではあるまい。

 メイドに案内された扉の前に立つ。スイレンは私室に立ち入らせることを極度に嫌うらしく、掃除の時を除けば常に1人で過ごす。暗殺を警戒しているのだろう。故にオレが近辺警護を任されたのは、高級娼婦の茶会に強い権限を持つマダムの意見があってこそだ。逆に言えば、女傑のカリンであってもマダムの一声には抗う余地すらもないのだ。

 

「失礼します」

 

 開けた先では暖炉の火が煌々と燃え上がっている。天蓋付きベッドは絢爛豪華を極め、絨毯は赤を基調として踏み心地は最高だ。整理整頓が尽くされている。

 だが、スイレンの姿は無い。隠れているのか? それとも不在か? いや、違うな。浴室のドアから光が漏れている。入浴中なのだろう。オレの到来は通達されていただろうにマイペース……いいや、大物だな。

 浴室のドアが開き、現れたのは緩やかなウェーブがかかった金髪の女だ。年齢は20歳前後だろう。化粧を落としているせいか、目の下にはこびりついた隈があり、そのせいでお世辞でも人相はよろしくない。資料の写真にあったスイレンは360度何処から見ても美人としか評価できないのだが、目の前にいるのは同一人物と疑いたくなる程に別人だ。化粧って凄い。

 

「…………」

 

 スイレンは白いバスローブ姿だった。彼女はオレを一瞥すると挨拶も無く目の前を素通りしていく。スイレンはお淑やかで礼儀正しいと資料にはあったが、やはり擬態だったか。

 

「えーと……あれ? 何処だっけ……えーと……えーと……あった」

 

 三面鏡の引き出しを漁っていたスイレンは光が差し込む窓辺で正座をすると、筆、墨、そして短冊を準備する。

 

「栗プリン~、明日のデザート、だったけど~、食べられないの、無常よ~♪」

 

「…………」

 

「……うん、悪くない」

 

 え? 何が?

 え? 何が? 

 え!? 何が!?

 思わず目を擦って3度見してしまったオレに、スイレンは深々と頭を下げながら短冊を手渡す。

 

「……これ、どうかお願いします」

 

「はい?」

 

「辞世の句です。初めて作りましたけど、会心の出来だと思います」

 

 スイレンはそう言うや否や、短剣を具現化すると逆手に持って腹に向ける。その手は震えており、1秒毎に目尻に涙が浮かぶ。

 

「あ、あの……切腹の……作法とか……分からないので……さ、ささささ、刺したら、すぐに……か、介錯をお願いします!」

 

「ちょっと待ってください。少し待ってください。とにかく待ってください!」

 

「……せい!」

 

 せい……じゃない! スイレンが目を瞑って自分の腹に刺そうとした短剣を寸前で掴んで止める。切れ味がいいな。右手の掌から血が滴る。

 驚いて目を見開いたスイレンだが、それはこっちがしたい反応だ。短剣を取り上げたオレに、スイレンは慌てた様子で立ち上がって背中を向ける。

 

「辞世の句とか切腹とか、何か勘違いされていませんか? オレはアナタの護衛に――」

 

「怪我! 血が出てます!」

 

 スイレンはバスローブが赤くなるのも厭わずに持ってきた救急箱から包帯を取り出すとオレの右手を巻く。

 

「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい! わ、わわわ、私が作法を知らないばかりに! でも、DBOではネットも無いから調べられないし、他人に聞けることでもないし、だ、だから……だから!」

 

 泣きながらオレを治療するスイレンは血が止まった事を見届けると安心した笑みを浮かべる。なるほどな。化粧は確かに彼女の容貌を別人に変えるかもしれないが、客たちを虜にするのはこの笑みなのだろう。見る者の心の隙間を埋めてくれそうな母性に満ちた笑みだ。

 

「これで良し。さぁ……私の、か、かかかかか、覚悟はできて、ます。前は恐いので……後ろからズバッと……お、お願いします!」

 

 スイレンは改めて背中を向けるとその場に正座する。うん、とりあえず落ち着こうか。オレは嘆息しながらスイレンの正面に回り込んで目線を合わせるべく片膝をつく。

 

「スイレンさんは勘違いされています。オレは暗殺ではなく護衛に参りました。アナタの安全と生命を確保するのがオレの仕事です」

 

「……そう聞いています」

 

「なら……」

 

「でも、だったら、【渡り鳥】さんではなく……もっと護衛に適した方を傭兵として派遣されるはずです。マダムがわざわざ【渡り鳥】さんを指名したのには……作意を感じました」

 

 確かにな。マダムが贔屓にしているとはいえ、オレを護衛として派遣するには無理がある。なにせ、オレの護衛実績は公表されている限りではマダム以外ほぼ皆無だからな。しかも先のラストサンクチュアリ壊滅戦での大暴れだ。護衛という選択肢はない。

 

「だから、わ、私を……殺しに来たんですよね? 護衛として近づいて暗殺する為に。わ、わわわ、私が……リンネだから。≪ボマー≫を……も、ももも、持ってるから……!」

 

「…………」

 

 オレは色々な依頼を受けてきた事をまだ思い出せる。多くの暗殺依頼をこなしてきた事を憶えている。

 だけど、護衛後に暗殺する対象が先んじて予見し、辞世の句を詠んで切腹の介錯を要求するなんて経験は間違いなく初めてだと思います。初めてであってくれ。お願いだから。

 というか、リンネってカミングアウトしてるんですけど!? 絶対に隠さないといけない情報をあっさりと明かしているんですけど!?

 

「あ、そうだ。私……焦ってしまって……大事なことを言い忘れていました。カリンさんは何も悪くありません。私の事を思って匿ってくれていたんです。確かに≪ボマー≫で爆薬の提供をしましたけど、それは保護してもらっている対価であって……で、でも、そのせいで、たくさんの人が……し、ししし、死んでしまったかもしれないんですよね。でも、とにかくカリンさんは助けてあげてください! お願いします!」

 

 土下座をするスイレンに、オレはどう声をかけるべきか悩む。

 

「誤解しないでください。オレの依頼はアナタの護衛です。アナタが何者であれ、依頼内容に変更はありません」

 

「ご、ごごご、護衛をして信用をさせてから油断を待って殺す計画だったんですよね。私のような雑魚では【渡り鳥】さんにはとても敵いません。お手間は、と、とととと、取らせるのもご迷惑をおかけします。さぁ、一思いにどうぞ!」

 

 泣いてグシャグシャになった顔でスイレンは殺せと仰向けになって大の字になる。

 いやね、護衛をして油断させてから暗殺もプランにあったよ? 間違いではないよ? だけど看破された上で殺せと要求されるとは思わなかったよ!

 

(面倒くさいし殺しちゃえば?)

 

 ヤツメ様、少し黙っていてください。髪の毛を弄ってどうでもいいと全身で表現するヤツメ様を脇に置き、オレはスイレンに手を差し伸ばす。

 

「オレが引き受けた依頼は護衛です」

 

「で、でも殺すんですよね? じゃないと【渡り鳥】さんを派遣するはずがありません。私がリンネだってバレているんですよね?」

 

「…………」

 

「殺すんですよね?」

 

「……今は護衛です。次の依頼はまだ受理していませんので未定です」

 

「律義……なんですね」

 

 嘘ではない。もしかしたらヴェニデの計画が変更になってスイレンを保護する方針に切り替わるかもしれない。だから、今は護衛だ。それだけが嘘偽りのない事実だ。

 落ち着いたのだろう。スイレンは深呼吸し、オレの血で赤くなったバスローブに慌てると洗面所に消える。

 戻って来たスイレンは私室の絢爛豪華な内装とは相反した貧相なジャージ姿だ。どうやら先程までのバスローブ姿は準備が間に合わなかった死に装束の代用だったらしい。

 スイレンはオレを椅子に座らせ、お茶の準備をする。

 

「ど、どうぞ……」

 

 紅茶? いえいえ、クラウドアースがついに開発に成功した、皆大好き! シュワシュワ炭酸の黒い液体……コーラさんでございます。ただし、注がれているのはティーカップだがな!

 炭酸の刺激だけで味は分からない。聞いた話によれば、味まで再現出来ていないらしいが、それでも近しいという事で順調な売れ行きのようだ。

 

「私は……いつ殺されるんですか?」

 

「オレの護衛依頼の終了はクリスマス前までに発令される予定です」

 

「クリスマス……もう1ヶ月もない」

 

 スイレンはコーラが満たすティーカップを見つめ、立ち上がると衣装箪笥を開けるとノートを抱えて戻ってくる。

 

「あの……護衛なら……殺すまで私を守ってくれる……ってことですよね?」

 

「依頼中はたとえ大ギルドが連合を組もうとも、ラスボスが襲撃してこようとも、アナタの護衛として戦います」

 

「そ、そうなんですか。わ、私の為に……【渡り鳥】さんが……ふ、ふひ、フヒヒ……なんか、照れちゃうなぁ……」

 

 先程の母性に満ちた笑みとは違い、引き攣って粘ついた笑みを浮かべるスイレン。うん、どちらも彼女なのだろうな。こっちはこっちで嫌いではない。実に人間らしい笑みだ。

 スイレンはノートを開くとペンで一心不乱に何かを書き始める。オレは受け取った辞世の句を握り潰しながら、その様子を見守る。

 

「何を書かれていらっしゃるのですか?」

 

「し、死ぬまでにやりたい事リストを……つ、作っていて……フヒ……余りにも急だったから、身辺整理するので手一杯だったけど……クリスマス前まで生きられるなら……やりたい事を消化して……おきたいなって……」

 

「…………」

 

「わ、私……クラウドアースに追われるようになって……貧民街で……娼婦として……生きてたんです。娼館なんて勤められ……ないから。客も……お金を払ってくれない事も多い……末端で……酒場にも縄張りがあるから……立ち入らせてもらえなくて……明日を食べる……事も大変で……そんな時にカリンさんに拾ってもらったんです」

 

 カリンはスイレンをリンネであると調べがついていたのだろう。だが、単純に≪ボマー≫を奪い取って自分の手の者に譲渡させなかったのは、裏切りを警戒するよりも彼女を利用する方が安全と判断してか。

 

「カリンさんは……私に居場所をくれた。お客さんも……変な人はいるけど……乱暴はしない。幸せでした。でも……館の外にはお茶会以外で出られなくて……出してもらえなくて……自由は要らないって思ってたけど……で、でも、どうせ死ぬならって……欲が出ちゃいました。フヒ……!」

 

 まぁ、人の考えはそれぞれか。生が保障されていたからこそ不自由を容認していたが、死が確定したからこそ自由を欲する。それもまた『人』の生と死の在り方なのだろう。

 だが、館の外に出るつもりか? 正直に言って、館に閉じこもってくれているからこそ護衛が出来るラインに立てているのだがな。

 

「あ、ご、ごめんなさい! 調子に乗りました! わ、私みたいな鈍くて迷惑をかけてばかりの出来損ないは……さ、さっさと死んだ方がいいですよね。そうですよね。まだ【渡り鳥】さんに暗殺依頼が入っていないなら、お手を煩わせる前に――」

 

「アナタに自殺でもされたら、依頼失敗以下の最低評価になるので止めてください」

 

「……はい」

 

 常備しているのか、ロープを取り出したスイレンは涙目で大人しく座る。

 オレは彼女が書いたやりたい事リストに目を通す。

 

 

 

 その1、テツヤンの店の来店者限定3段スペシャルケーキを食べる

 

 その2、マユユンの生ライヴでペンライトを振るう(願わくば握手チャレンジしたい)

 

 その3、公演中の『悪魔の騎士と盲目姫』を見る

 

 その4、大聖堂にある慰霊庭園を訪れる

 

 

 

「その5……最果ての海に行きたい?」

 

 その1からその4までは終わりつつある街で、スケジュール次第であるが、1日で何とか消化できるだろう。だが、最後だけは見当がつかない。

 

「うん。現実世界でも地球が丸いと証明されるまで、多くの旅人、吟遊詩人、英雄、王様が探し求めた。あのアレキサンダー大王さえも……」

 

「…………」

 

「DBOはね、実は世界が丸いって終末の時代さえも証明されていないんだって。だから、最果ての海は必ずあるって信じられてた。本当の終わりの海が何処かにあるって……」

 

「…………」

 

「フロンティア・フィールドで、最果ての海についての……捜索隊の記録が見つかったって……お客さんの……太陽の狩猟団の偉い人が教えてくれて……だから見てみたいなって……」

 

「…………」

 

「ご、ごめんなさい! さすがにワガママが過ぎました! どうぞ、この首でご、ごごごご、ご容赦を……!」

 

 スイレンはその5をペンで横引きして消すと首をオレに向けるが、斬るつもりはないと溜め息を吐く。

 

「その1からその4までは……調整も必要ですが、何とかなるかもしれません」

 

「ほ、本当に?」

 

「ただし、依頼は護衛ですので、アナタの外出許可までは権限がありません。カリンさんが認可するとも思えません。更に言えば、護衛としてもアナタの安全確保の為にも外出を推奨する事は出来ません」

 

「……ですよね」

 

 しょんぼりと項垂れたスイレンはペンで大きく斜線を引こうとするが、オレはその手を掴んで止める。

 

「ですが館の安全性が確保できていないと判断した場合、改善されるまでの間、アナタの退去を要求することは可能です。退去中はアナタを変装させて、終わりつつある街の『複数の隠れ家』を巡って襲撃リスクを抑える護衛プランを提出するかもしれませんね」

 

「わ、【渡り鳥】さん……!」

 

「あくまで館の安全性が確保できない状況ならば……ですよ」

 

 ティーカップを傾けて、オレはむせる。そ、そうだ! 忘れてた! 紅茶でも珈琲でもなかった! コーラだった! ティーカップという外観に騙されたオレに、スイレンはきょとんとして、数秒遅れで上品に笑った。色んな笑い方がある女だな。

 

「お恥ずかしいところをお見せしました」

 

「ううん、笑ってごめんね? 噂で聞いていたのと……全然違うから、つい……」

 

「……噂通りですよ」

 

 オレはいつも殺してばかりだ。スイレンにしてもそうだ。ヴェニデは計画を変更することなど無いだろう。護衛依頼の終わりと共に彼女を殺す事になるだろう。

 スイレンは死ぬまでにやりたい事ノートを抱きしめ、頬を赤らめた。

 

「これ……私の夢見た……デートプランなんです」

 

「…………」

 

「ありがとう、【渡り鳥】さん。これをやり遂げたら、いつでも殺していいから。私……か、かかか、覚悟……出来てるから」

 

「まだ感謝されるような事はしていませんし、請け負ってる依頼は護衛であって暗殺ではありません」

 

「うん。そうだね。『今』は私の護衛だよね」

 

「ええ、『今』は……」

 

 オレとスイレンは視線を重ね合う。

 全ての敵を葬り、アナタを守ろう。たとえ、大ギルドが連合軍を組もうとも、全てのプレイヤーが敵に回ろうとも、アナタの護衛がオレの依頼である限り、アナタを殺そうとする全てを殺し尽くそう。

 クラウドアースの施設を爆破して大量殺人を犯したとは思えないスイレンは儚く笑んでいる。全てが彼女の本当の姿か、それとも嘘が混じっているのか。そんな事はどうでもいい。オレは依頼を為し遂げるだけだ。

 鈴が鳴る。スイレンは背筋を伸ばし、ノートを衣装箪笥に隠すとドレスを腕に抱える。仕事の準備を始めなければならないのだろう。

 

 

「【渡り鳥】さん、私なんかの為に……無理しなくていいから。傷つかなくていいから。死んでも守るとか……絶対にしないで」

 

「死ぬ気は毛頭ありませんが、依頼達成に妥協しません。たとえ、四肢が千切れようとも、首だけになろうとも、アナタを必ず守ります」

 

 

 

 そして、護衛を終わる時、スイレンを殺す。≪ボマー≫保有者のリンネとして……この手で殺す。




愛しています。

愛しています。

愛しています。

全身全霊をかけて愛しています。

自分を愛してあげられないならば、この愛で満たします。

祈りも無く、呪いも無く、この愛の真実だけ残ればいい。

それこそが何があろうとも必ず救うと誓った願望を紡ぐ標となるはずだから。




それでは、348話でまた会いましょう。

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